2007年10月21日日曜日

ブログの書き方がわかりません。ブログの書き方教えてください。



ブログの書き方教えてください。
ブログの書き方がわかりません。
書いても、書いても、ブログにならないんです。
正直な話、もう僕の力ではどないしようもないです。

ちゃんと眠って体力が戻ればとか、頭皮が燃える頭痛が飛べばとか、そういう風に言い訳ばかり探している自分が嫌で、嫌で、物凄く嫌で、不退転の決意で懸命に懸命に書いているんですが、書いても、書いても、ブログにならないんです。

わたしはどりょくしているよ、というふりをしているだけなんじゃないかと、自分自身にあらぬ嫌疑をかけられて、どこを探しても味方はおらず、なんとかしてその疑いを晴らそうと、ブログを書いているのですが、書いても、書いても、ブログにならないんです。

ブログなんてものは、思ったことを、気楽に適当に、あるいは素直に為すがままに、書けばいいのではないか、と世の人は言いますが、自分が何を思っているのかさっぱりわからないんです。自分が何を考え、何を望み、何に一縷の希望を抱いているのかすらも、僕にはわからないんです。

200点満点のテストで、「頬を赤らめた、歯がボロボロの、ウォッカの瓶を片手に、バスストップから南西に向かって歩いている薬の売人らしき男がいます。さあ、彼は何を考えているでしょうか?配点5点。」という問題があったら、「この問いは捨てよう。」「後回しにしよう。」と考えるのがノウハウというものでしょう。

後回しにしても、後回しにしても、どれだけ後回しにしてみても、頬を赤らめた、歯がボロボロの、ウォッカの瓶を手に持った、得体の知れない犯罪の臭いのする男が、次から次へとやってくるのです。違いがあるとすれば、ウォッカの小瓶を右手に持っているか、左手に持っているか、あるいは小脇に抱えているか、その程度。みんな同じに見えてしまいます。書いても、書いても、僕には、何を考えているのかがわからないんです。想像も付かないんです。

1日に2つのエントリーを書きたい、書きたいと思っており、そのくらいは書けそうな気がするので、怪しい男に恐れを成して目を合わせないようにしてそれを一人やり過ごす度に、僕の5点は失われ、10日で100点、20日で200点。40人全員が、薬で幸せ手に入れた、得体の知れないチンピラでした。目の焦点は合ってません。

呼吸を一つする度に、僕の回りを取り囲んだ彼らは、じりり、じりりと力士のように、靴底擦らせて歩くんです。ブログを、書け、書け、と歩くんです。さあ、何を考えている、さあ、何を考えている、おまえは俺達の、いったい何をブログに書くんだ、と、キャンプファイヤの童のように、輪になり笑顔で踊るんです。僕の周りを回るんです。

僕はブログが書きたくて、書きたくて、ただの1つでいいから、とにかく、どんなものでもブログが書きたくて、もう何週間も、何ヶ月も、ずっと書いているのですが、1つもブログが書けないんです。もう、他には何も要りません。何も望んだりしません。欲張りは言いません。他には何も要りません。ブログが書きたいです。書いても、書いても、ブログか書けないんです。

僕からブログを取ったら一体何が残るんですか。僕にはブログしか無いんです。最初から僕にはブログしか無かったし、最後まで僕にはブログしかないんです。正直な話、もう僕の力ではどないしようもないです。書いても、書いても、ブログにならないんです。ブログの書き方がわかりません。ブログの書き方教えてください。


2007年10月19日金曜日

将棋はアクションゲーム。囲碁もアクションゲーム。



あれは超体育会系競技。
思考ゲームとかありえない。
反射神経と体力が物を言う世界。
宇宙の歴史から見れば一瞬の出来事。


2007年10月17日水曜日

雑記。



未来とか希望とかそういったものとは無縁なのに、時々そういった語が不格好にながれてとても沈む。季節の変わり目をもろに受けて精神的にも肉体的にも痩せ衰えているというのもあるのかもしれない。産卵期のオイスターのように。まあ、この先具合が良くなることなどあり得ないから、こうしてキーボードをたたけているだけでも、まだ良しと思わねばな分相応らない。来年は必ずや、もっと悪くなる。去年の今頃は何をしていただろうかと思っても上手く思い出すことが出来ない。多分、思い出せないのではなくて思い出したくないのだろう。去年ではなくて、今年の今頃何をしているかすら、認識したくない。つまんねえブログを書いて朽ち果てていくのは満更でもない。分相応、いや、我が身に余る果報者である。けれども、つまんねえブログすら書けない人間である僕はどうすりゃあいいんだ。苛立つばかりの活字の列が頭の中を闊歩する。嘆き悲しむもたいがいにせねば。未来とか希望とか空腹に絶えかねて何かを噛まずにはいられなくなり非常食の乾麺を噛んでいたら、羽虫の幼虫が付いているのに気がついてしまい、いやになった。いやになった。


2007年10月13日土曜日

コーヒーとチョコレートはまったく別の植物を原材料としている。



今日知った驚愕の事実。


2007年10月9日火曜日

違うんだ、リセットボタンではなくて、スタートボタンを。



たとえばリセットボタンが手に入って全てをリセットしてみた所で僕という生き物が辿るのは僕という生き物の人生。繰り返されるのはまったくに、何から何まで全て同じ人生。何度やっても変わらない。そんなものいらない。

それどころか、悪いことに、繰り返された人生においてもまた、同じようにリセットボタンを手に入れるのだから、また全てがリセットされてまた全てが繰り返される。僕は永遠に僕の人生の上を無限ループで走り続ける。想像しなくてもいやになる。

そうじゃなくて欲しいのはスタートボタン。pauseをかけてゆっくりと考えればたとえば僕にだって物事の、1つや2つは成し遂げられるはずなんだ。空腹とか、頭痛とか、悲しみとか、苦しみとか、寂しさとか、孤独とか、後悔とか、罪悪感とか、そういった類の段幕が10倍速で襲い来るこの世界を等速で生き抜くのは無理なんだ。どだい、無理なんだ。

いや、それすらも卓上の夢。たとえばスタートボタンが手に入った所で果てしないオープニングムービーは未だ選択肢もなくスキップも出来ず延々と流れ続け、それをうんざりしながらも今か今かと胸躍らせて眺めているとTheRedRingOfDeath。


2007年10月8日月曜日

2007年の初笑い。




7 ノルウェー 1 - - ―(↑)



lol








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案の定炎上中(違(これはインフレーション(ぶーざーまー(明るい未来に(就職希望だぜー(ぇーいえーいえいえいえっ(やっ!(いいからブログ書こうぜ(俺涙目(糞ワロタ(殺す気か(時間泥棒(笑(超ウケル(欧州の未来(プ(ニヤニヤ(www(lol(いいかげんにしなさい



2007年10月6日土曜日

人間とブロガーとゲーマーの相違点。



ゲーマーはゲームをせずに布団の中で夜明けを待つことを「人生の浪費」であると考える。真っ当な人間は、三連休をゲームに費やすことを「人生の浪費」と考える。

ブロガーはブログを投稿せずに夜明けを迎えることを「人生の浪費」であると考える。正常な人間はブログを投稿することを「人生の浪費」であると正確に捉えている。

ブロガーはプレイしたゲームの感想をブログに書かずに過ごす事を「人生の浪費」であると考えてブログに書くためにゲームを買い、ブログに書くためにゲームをプレイする。ゲーマーはプレイしたゲームの感想をブログに書く事を「人生の浪費」と考え、そんなくだらない事に時間を費やす暇があったらゲームをプレイするぜとばかりにゲームをプレイし続けるのである。








かくしてインターネットは、異常者どもの書いた糞つまんねえエントリーと、昼飯を一人で食べ続けた結果コミニケーション欠乏症に陥った童貞孤独人間どもがコミニケーション目当てで書いた感想文とで溢れかえり、俺等のライフスペースはナザレを追い出された頃には既に無くなっちまってんただよ糞野郎共。今日は涙を祝おうぜ。


2007年10月5日金曜日

おもいっきり遊びたい。



たまにだけれど、おもいっきり遊びたくなる。

けれども、どうすればいいのかわからない。遊びたいならば遊べばいいじゃない、という論法は、ここでは多分に正しいのだろうけれど、遊ぶ、とはどういうことなのかがわからない。いったい、何をすれば遊べるのか、想像もつかない。ただ、漠然と遊びたくなる。

遊びを定義する1つの手法として、楽しいことイコール遊び、というのがある。しかし、その定義を受け入れてしまうと、何をやっても楽しいと感じる事の出来ない人間は、一生遊ぶことなど出来ない、という事になってしまう。理不尽である。理不尽の極みであるである。何をしても楽しいと感じられない人間にだって、遊ぶ権利くらいはあるはずだ。

よくわからない。遊ぶという事がどういうことなのかもわからないし、「おもいっきり遊びたい」という衝動が何を意味しているのかすらも、よくわからない。けれども、そんなことはどうだっていい。それを理解したいのでは無くて、そうしたいだけなのだから。思いっきり遊びたいな。何もかも忘れて。それが叶わないならせめて、思いっきり眠りたいな。何もかも忘れて。


2007年10月4日木曜日



ぴっぴりり。外壁を突き破って、聞き慣れない歌が聞こえてきて、僕は心を奪われた。しーんと、清んでいる。もう、そんな時期なのかと気がついてしまうと、とたんに肌寒くなり、虫の音で満ちてくる。きっと名月なのだろうと、身勝手に思う。月は何時だって、ちっとも変わりやしないのに。そんなものなのだ。気分一つで。ぴっぴりり、ぴっぴりり。ぴっぴりり、ぴっぴりり。そんな風に鳴く虫は、初めての事だったので、今年の秋は特別なのだろうと、少し心が躍ったけれど、次の夜には跡形もなく消えていた。全神経を研ぎ澄ましても、雑虫騒ぐ雑音ばかり。きっと、彼は、昨日特別にセックスがしたかっただけなのだ。だからあんな風に甘く鳴いていたのだ。この僕とはなんら関わりのないところで。さしたる意味など何もなく。もしもそうでないとしたら、あの歌は、一体何だったのだろう。虫は鳴いても撃たれまい。呆然として秋。今年も夏を見過ごした。


2007年10月2日火曜日

犯罪自慢



彼らだって必死なのだと思う。

人類は知り得た物事を言語によって伝え合うことによって、21世紀まで絶えることなく生き長らえてきた。家族、集落、国家、といった形の母集団から知識や知恵を受け取り、生きてゆく為に必要な情報を身につけた個人は、その恩義に報いるべく自ら見て、聞いて、考えて、得た情報や、辿り着いた結論を母集団へと還元する。そんな途方もない繰り返しによって僕らは生きてきたのだろう。食べたい、寝たい、といった類の欲求と同じように、伝えたいという欲求もまた、人の体の隅々の、深いところまで染み込んでいる。

いつからか、どこかで、そのバランスが壊れたのだと思う。人類の進歩と歩調を合わせて、僕らが知りうる情報の量はねずみ算式にふくらんで、際限なく増大し続ける。4~5人そこらの伝えてから、ほんの少しをうけとるだけで日が暮れていた時代は過ぎて、日が暮れて尚40、50の情報の波が、ありとあらゆる人間を襲う。

それだけの情報量に対して、報いるべく還元すべく、何かを伝えたいと願っても、幾億幾多の凡人には、それを成し遂げるのは困難だ。何故ならば、伝える事なんてそんなに無いから。行き過ぎた共有システムのせいで、全てをみんなが知っているから。伝えたい、でも伝えられる事がないと、苛まれ続けて生きているのだろう。そうして、日々して少しずつ、罪悪感を募らせていくのだろう。「俺は得るばかりで、何もしていないじゃないか」って。

だから、彼らは、未だに誰もが知りえてない情報を所持した瞬間に、それを伝えずには居られない。働かずにいられない。健気に。真面目に。誠実に。