2005年3月6日日曜日

ヌルゲーマーのエンディング



ヌルゲーマーにエンディングは無い。

おい、その表題でその書き出しは無いだろう。
仰せの通り、その通り。たしかにこれは、ないと思う。
けれども少しだけ待って欲しい。
そりゃないだろうと罵る前に、少しでいいから聞いてお願い。






ありとあらゆる始まりと対にして、終わりは必ずそこにある。
宇宙太陽世界にも、七つの海にも五里霧中にも第三帝国にも、マイクロソフトにも1000年の眠りにも100年の恋にも愛知県の北西部にも、終わりは存在するのである。
それはやがての時を経て、必ず訪れるものなのである。

けれども、終わりを指してエンディングと呼ぶのは間違いである。
エンディングとは終わりの周囲の一掴みであり、終わりそのものではない。
終わりの近さ告げる太鼓とドラが鳴り響き、ものっ凄い顔の黒人のおばさんが物凄い顔をして歌う、聞き取れないフレーズと聞き取れすぎるフレーズの交差する歌とか賛美歌とかバッハとかそういう類の妖しい音楽が妖しいテンポで流れる中で終わりが訪れるまでの間を指して、エンディングと呼ぶのが正しい。




では、エンディングの無い終わりはあるかどうかという事である。
エンディングの無い終わりがあるならば、ヌルゲーマーにはエンディングが無い。
あるのは終わりだけである。

そうではなくて、終わりが必ずエンディングを伴うものであるならば、ヌルゲーマーにだってエンディングが存在するという事になる。




結論から書く。
終わりは必ずエンディングを伴う。

おい、その書き出しでその結論は無いだろう。
仰せの通り、その通り。たしかにこれは、ないと思う。
けれども少しだけ待って欲しい。
そりゃないだろうと罵る前に、少しでいいから聞いてお願い。
なんでもいいからある事無い事てんやわんやにでっちあげ、すりきりいっぱいの両眼を輝かせながら朝まで話したい気分。いつも決まってそうだけど、今日は特別そうなんだ。だからもう少しだけ待って欲しい。


エンディングはあるのだけれど、エンディングは無い。
事は至って単純で、エンディングに気がつかない類のものが世の中には存在するのだ。

例えばやわらぎ。
ももやのやわらぎ。











エンディングはあるのだけれど、エンディングは無い。
事は至って単純で、エンディングに気がつかない類のものが世の中には存在するのだ。

例えば輝き。
永遠の輝き。

輝きはエンディングに気がつかない。当然である。
輝きにはそもそもエンディングであると理解出来るだけの頭が無い。


世の中は輝きほどでは無いにしろ、足りない人で溢れてる。
劇中とは明らかに違う曲調がわんわんわんと鳴り響いているのに、エンディングの最中であるとは気がつかず、次はどうなるんだろう!?と心を躍らせる人が大勢いる。ビルの窓辺で列車で部屋で、ワクワクしている人がいる。

けれどもそれはそうじゃない。
ワクワクするのは勝手だけれど、それは終わりの最中で、金色の猿より強い奴もバスケットボールの決勝戦もハンターの絵もなにもかも、そこから先はもう無いのだ。
にもかかわらずジャッキーチェンは、ビルの窓辺で列車で部屋で、NGシーンを繋いでる。エンドロールが流れる中で。





結局の所、エンディングであるとわかりにくいエンディングの真っ只中にあるこの世界は、エンディングであるとわかりにくいエンディングでありふれているという事なのだ。
絶望である。エンディングである。エロゲー風に言うと、絶望エンドである。
響きからして、多分一番エロイと思う。
まず見るならば絶望エンドだな。俺は。



しかしながら、世の中にはわかりやすいエンディングだってある。
崖の間際で女が泣けば、エンディングだなと誰もが気がつく。
あと一球に大久保が立てば、エンディングだなと誰もが気づく。
英語の苗字が奥へと消えれば、エンディングだなと誰もが気がつく。

そういうわかりやすいエンディングの頂点のてっぺんのまんまんなかに、ゲームのエンディングというものが存在する。
それは、ものすごくわかりやすい。
しかも総じてハッピーエンド。

ゲームのエンディグというものはそう正に、エンディング界の救世主である。
亀とか蜂とか魔王とか、ぬるぬるの銀のお化けとかそういう類が最後にはいて、そいつを倒せば晴れて見事に清らかに、誰にだってハッピーなエンディングが必ず訪れる。
それがゲームというものである。


しかし、そのエンディングを迎えられない人がいる。
俗に呼ばれるヌルゲーマー、ヌルゲーマーという人達である。
彼らはぬるい。非常にぬるい。物凄くぬるい。

一部、一般、善良で、良識のあるゲーマーからは、
「ヌルゲーマーのせいで最近のゲームは駄目になった」と、
事ある毎に罵られるくらい、ヌルゲーマーは、生ぬるい。



けれども、ちょっと待ってくれ。
少しでいいから聞いてくれ。
だって、そうである。

別府と野呂の区別がつかないくらいに生ぬるい人がいるように、'歩'という漢字を書けない人がいるように、懸垂を1度足りとも出来ない生ぬるい人がいるように、その全てを兼ね備えた生ぬるい人がいるように、どうしようもないくらいに生ぬるいゲームの腕前しか持っていない人間だっているのである。
それはもう、生まれつきであり仕方が無い。
悪いといわれりゃ、悪いのだろう。
それはもう、僕の書く日本語の質くらいに。






無敵のイントロが聞こえる。
無敵の歌を歌うぞ。無敵の気分に乗っかって。
おそらく僕は、多分死なないそうきっと、特別に驚異的な人だから。
永遠にブログを書き続けるし無限地獄に電源の入らないPCと戦い続ける。
つまり僕がなにもしないでいると、エンディングとは無縁の日々が続くのである。

だからこそ!
だからこそ僕はゲームをするのだ。
ゲームには必ずエンディングがあるから。
だからゲームが好きなのだ。
ハッピーエンディングがあるから。


ところがである。
僕はヌルゲーマーである。
なんか赤鬼を見事に倒しても、続くボスが倒せない。
やっているうちに物凄い嫌悪感に襲われてゴミ箱を空にした後に、「今ならやれる」と無敵の気分に襲われて再び進むと、今度は赤鬼が倒せない。

ちょっと待て、おい、待て。
この前倒したではないかと、物凄い嫌悪感に襲われてゴミ箱を空にした後に、「1度倒せたものが倒せないはずがない」と物凄い自信に襲われて赤鬼を倒してみたところで、やっぱりボスが倒せない。腹立たしい事この上ない。
エンディングはどこだ。
エンディングをよこせ。
太鼓とドラの響きを聞かせろ。
英語の苗字をゆっくり流せ。
ふざけるな糞ゲー。
糞ゲーめこのやろう。
世紀の糞ゲーめ。稀代の糞ゲーめ。雷鳴轟く糞ゲーめ駄目ソフト。
エンディングはどこだ。
エンディングをよこせ死ね。









他人を恐れて忌み嫌いながらも誰かを求め続けるように、ゲームは続く、どこまでも。
ヌルゲーマーの、エンディング。