2005年5月31日火曜日

日本人にはエントリーよりコメント。



「コメント欄は誰のもの?」
という問いに対する答えはない。
真実なんてありゃしない。



一人一人が納得できる結論を好き放題に導き出して、
「うちのコメント欄は誰それがどうこうする為の物です」
と決めておき、その方針通りに運営すればよいのである。

コメント欄に対して違う考え方を持っている人達からのややが入るかもしれないけれど、そんなものを気にしてはいけない。十人十色七転八倒人それぞれ、やりたいようにやるべきである。





けれども、それとは違って答えが存在する問いもある。
その問いこそが、「コメントは誰が書くのか?」である。
そんなもの、決まっている。
答えはシンプル。
コメントを書く人が書くのだ。





「誰が?」
の次に来る物。


「誰が?」
「何の為に?」
「誰に向かって?」


「何の為に?」
というのは置いておこう。
めんどうくさくややこしくなり大変だから。
やりたい人が書くべき事であり、とりあえず僕は遠慮する。


「誰に向かって?」
そんなもの、決まっている。
答えはシンプル。
コメントとは「ブログ閲覧者に向けられて」書かれた文章である。











コメントを書くという事は、ブログを書くという事に比べて遙かに魅力的な作業だ。



1000人が見てくれる文章をブロガーが書くにはどうすればよいか。
それを実現するには2つの方法がある。

1,「1000人が訪れるブログを作る。」
書いて書いて書き続け、植えて耕し育て上げる!
お気に入りやらRSSリーダー、はてなアンテナなどへの登録数を一日いちにち、一つずつ増やしてゆき、エントリーを書いただけで1000人が見てくれるようなブログにする。
そうすると、エントリーを書いただけで1000人の人が見てくれる。
たぶん、それなりに大変。


2,「1000人が押し寄せるだけの魅力的なエントリーを書く。」
こちらの方が簡単かもしれない。
レッサーパンダ!とか、そういうのがお勧めだ。多分。
とにかく、人を呼べるような記事を書けばよい。
それでも、1000人が見てくれるとは限らない。
なかなかうまくいかないと思う。






ブロガーが1000人に文章を見せる為に要する労力と比較すれば、
コメンターが1000人に文章を見せる為に要する労力は0に等しい。



1000人が訪れているブログを見つけるだけでよい。
至ってシンプル。
これだけだ。


トラックバックスパムも相互リンクのお願いも必要ないし、世間の興味や時事動向を読み取り人が来るような題材を取り上げる必要もない。
「書き込む」ボタンを押すだけで、1000人が目にする文章の出来上がりである。



ブロガーが積み重ね積み重ねした1000人という2000個の目を、1クリックで我が物と出来るのである。それは魅力的な最高のサクセスだ。


「アクセス数が増えるとコメントが……」
当然だ!
アクセス数が増えればそれだけ魅力的になるという事なのだから。
5アクセスより100アクセス。
1000アクセスより1000アクセスだ。







他にもブロガーとコメンターの間には超えられない壁がある。



ブロガーのエントリーはインターネットに投げつけられた文章だ。
誰が読むかもわからないし、誰が目にするかも解らない。
相手は底なし沼のWWWであり、想定した読者が見てくれるとは限らない。


例えば、「オレンジレンジの新曲最高!」。
同じ思いを持つ人達と感想を共有しようと書いたエントリー。

けれども、それが想定した読者にきちんと届くとは限らない。
想定していない読者の方が多く訪れる場合もあるし、最悪想定した読者が一人もいない、なんてハメに陥るかもしれない。くたびれ損の骨折り儲けだ。



それに対して、コメントを読むのはコメンターが想定した読者だけである。

コメントとは、そのエントリーを目にする人達に向けられて書かれた文章だ。
そして、コメントに目を通すのは、100%全員がそのエントリーを読んだ人だ。
言い換えるならばブログの読者だ。

ブロガーが積み重ね積み重ねして集めたいくらかの芽を、1クリックで我が物と出来るのである。それは魅力的な最高のサクセスだ。





想定した客全員が100%目にする事が保証されているコメント。
想定した人が読んでくれているのかどうかも解らないブログ。

どちらが良いかなど、答えは見えている。
こんなにも魅力的なインターネットを見逃す奴はまったく馬鹿だ。







コメントは誰に向かって書かれたものなのか。
そんなもの、決まっている。
答えはシンプル。
コメントを目にする全ての人へである。




ブロガーはただの1である。
多数の読者の、1人である。


ブロガーなんて、軽いもんだ。
とてものすごく、ちいさなもんだ。
コメントを書くのはブロガーが積み重ね積み重ねしたものを1クリックで掠奪しようと企む奴らだ。まったくもって、奴らは鬼だ。書いたその場で1000サクセスだ。鬼だ悪魔だ焼き畑だ。





まかり間違わないように、「コメントはブロガーに向けて書かれたものではない。」という事をしっかりと頭に入れておいた方が、よいだろう。



















ブロガーなんて、軽いもんだ。
とてものすごく、ちいさなもんだ。
1/1000のさらにそのまた1/1000の重みに支えられ、真性引き篭もりへアクセスをする全ての人の、両の眼の目の向こうへと、僕はブログを書く者だ。


余計な事



教師というものが何であったのかが理解できないのと同じくらいに学校というものが何であったのか理解できなくて気持ちが悪く、とりあえず自分をなんとか納得させられる所まで考えようとしていたのだけれど、ぴんとのずれた思い出ばかりが芋づる式に出るわ出るわの金銀小判で途方に暮れた。

暮れたくらいならまだいいのだけれど、明けた。
まあいいや。余計な事を書くのはよして、余計な事だけ書くとする。


教育実習の教師が来た。いや、教師ではなくて学生か。それは女であり、それなりの身なりをしていた。幾つだったのかは知らないけれど、同じくらいの歳になってあれは教師ではなく老いた子供だったのだなと解るようになった。


2005年5月30日月曜日

ゼルダのwikiと、月野うさぎのカスタム隷奴。



気に入らない。
コメント虎の、威を借りて、癒し系ブロガーを脅しておきながら俺素敵モードに突入し、違うんだ。俺じゃねえ。虎だ。だから、虎が。虎が。とか言ってるのを見かけたらはてはてささーん、くらいのもので何の興味の沸かずにいろんな人がいるもんだね、と思うくらいのものであるが、ゲームのゲも理解していないような畑違いの人間がゲームを叩いているのを見つけて久しぶりに激昂した。
前に省略した部分を中心に書こうと思う。












・「パクリは何故駄目なのか」

それは、単純である。
パクリが許されると、発展が阻害されるからだ。
発展を阻害しないようにと、発見と創造性と独創性が保護されているのである。




「生み出すA社」
「パクリのB社」

という2社があったとする。


A社は想像力と独創性を持ち、新しい物を編み出す事に長けている。
けれども、売るのは下手だ。

B社は宣伝や流通が上手く、物を売る事に長けている。
けれども、生み出すのは下手だ。





この2社が、パクリが許されている世界へと放り込まれると、


A社 := 「編み出す」→「売れない」→「儲からない」
B社 := 「パクる。」→「売れる。」→「儲かる。」

という単純さが延々繰り返される事になる。
やがてA社は倒産し、B社だけが残る。

B社は創造性も独創性も持ち合わせておらず、発展が止まる。
よって、発展には「パクリは駄目」というルールが必要であると言える。







それが企業であるならばパクられ利益が奪われる事により発展が阻害される。
それが個人の場合であるとモチベーションが奪われて、発展が阻害されるのである。





宣伝下手な「生み出すAさん」
宣伝上手な「パクリのBさん」

という2人がいたとする。
Aさんが生み出したものを、Bさんがパクルり上手く宣伝したとする。


すると世間は
「Bさんが生み出したものだ!Bさん凄い!」
となり、Aさんが評価される機会は失われてしまう。


それが続くと、Aさんは創作活動を中止する。
すると、もう何も生まれなくなってしまう。

よって、発展には「パクリは駄目」というルールが必要であると言える。











しかし、ゲーム界隈に「パクリは駄目」というルールは必要ない。
何故ならば、ゲームの発展には「パクリは必須」であると言えるからである。




どうしてゲームにはパクリが必須なのか。
それは、ゲームとは文化であるからである。

文化の発展には、「影響」という要素が不可欠である。
それは、「パクリ」と言い換える事が可能なものである。



開拓→「影響」→発展→「影響」→開拓→「影響」→発展
というように、先人が切り開いた道の上に発展してきたのがゲームである。
そして、パクった側が発展し、パクり元へと逆に影響を還元する事により、さらなる進歩を遂げてきたのがゲームという文化である。





影響と言ってもそんじょそこらの"影響"ではなく、継承と呼んでも差し支えがない程の影響である。

鉄拳はバーチャファイターを継承したものである。
強い影響というかそのまんま、言ってみればパクリである。
しかし誰も鉄拳を完全否定したりはしない。
ほぼ全ての3D格闘ゲームの継承元となったバーチャファイターが尊敬されるだけである。また、バーチャファイター4は鉄拳から逆影響を受け、還元されているとも言える。。


同じように、ウィザードリィが無ければドラゴンクエストやファイナルファンタジーは存在しなかっただろうし、横スクロールアクションや縦シューティングは全てが幾つかの段階を経て継承を重ねる事により、発展を遂げてきた。


結論から言うと、水清くして魚棲まず。
パクリ無くしてゲーム無し。








しかし、ゲームの発展を阻害するパクリも存在する。

それは「金を奪うパクリ」と、「モチベーションを奪うパクリ」である。
他の許されないパクリとまったく同じである。
ゲームの根幹部を丸々ぱくっておきながら、オリジナリティを主張して売り上げを伸ばすというのが最も悪質な形であろう。


具体的に言うと、ワームズアルマゲドンに対してポトリスがやった事や、アローンインザダークに対してバイオハザードがやった事、ボンバーマンに対してボンバーマンがやった事などは許されるべきパクリではない。

なぜならば、影響だとか継承だといったような言葉で言い表せる範囲を超えた根幹部のパクりを行いながら、それを隠して偽りの独創性を主張してその地位を築き上げたものだからである。




それに対して、ゼルダに対するwikiの問題性は非常に低い。

まず、ゼルダの利益をwikiが害するというのは想像出来ない。
ジャンルがまったく別物であるし、市場自体も同じではない。

次に、wikiがゼルダのモチベーションを奪うとは考えられない。
逆に「風のタクト」というものに再度光が向けられるという継承元の浸透が起きるだろう。




また、昨今のゲームにおいて「パーツを組み合わせて何かに似せられる」というのは頻繁に提供される"遊び余地"であり、否定されるべきものではない。特にネットゲームや、自由度の高いRPGなどにおいて、パーツを山ほど用意しておき、組み合わせとカラーリングで既存のキャラクターにそっくりになる、というのはまま見られる光景である。

「パーツを組み合わせて」
というギミックを用意した場合、何かに似るのは当然である。
その"遊び余地"への文句に妥当性があるとは考えられない。



もちろん、それが上品な事であるとは考えていない。
例えば、アーマードコアというパーツを組み合わせて自由に機体を作り上げる事が可能なロボットゲームは相応のパーツを用意しておけばアッガイやガンタンクといった"遊び余地"をプレイヤーに提供する事が出来るのに、それをせずに高い金を払ってぶさいくで少し離れたパーツばかりを用意している。これは多少上品であり、敬意を払うに値すると考える。



しかし、問題にするような事柄であるとは考えられない。
そもそも、我が国を代表する自動車会社や家電会社だって過去に散々外国製品のデザインやらアイデアやらを丸パクリして発展してきたわけで、30年以上遅れている国が"許されるパクリ"であるゲームにおいてのスキンを似せたくらいが何なんだと。こんなくだらない事を取り上げるならゲームの歴史を書ける人間に大金支払ってゲームの進化の継承図を書かせて世に出すとか、そういう価値のある事をやりながら、やれと。こんなものを前に出すと何が問題であるか解らなくなるだろ。この事件の問題点は任天堂の大人げの無さと、wikiの開発元の幼稚すぎる最悪な対応だろう。









・「wikiのような安易なパクリの蔓延は市場に害を為すのではないか?」
わからない。

ただ、任天堂は安易なパクリから出発してそうじゃないところまで行った。
バイオハザードもまた安易なパクリから出発し、我が国を代表するゲームの1つとなった。
バイオハザードがそうじゃないところまで行ったとは僕個人としては絶対に認めたくない所であるが、一応はなった。


「安易なパクリの蔓延はゲーム市場に害を為す」という点でwikiを叩くのならば、剣と草とバクダンとブーメランを手に「遊びにパテントは無い」と言っていた本丸の親分を叩いてからにするべきである。





結局の所、Wikiはカスタム隷奴程度の代物であり、問題視する奴は頭がおかしい。
そのWiki問題の配布元が探偵ファイルであるというのは物の馬鹿を寄せ集めて出会い系サイトと糞広告で回収するという糞客層に合った糞商法の糞どもの糞ネタであり、「韓中叩きはアクセスが数倍になる」という法則通りに馬鹿が飛びついて広めているわけであり、そんなくだらない事にゲームを利用する輩がいてそれを喜ぶ輩が大勢いるという事はゲームが好きな人間にとっては非常に腹立たしい。というか、許し難い。というか、論外。


新聞は弱者の娯楽。インターネットは強者の道具。



ブログをサーフィンしていると
「新聞なんて読まなくなった」
と書いている人をよく見かける。

新聞なんて浅くて邪魔で役に立たない無駄なゴミだ、と。





ごもっともである。
けれども、それが新聞の良さなのである。

新聞とは何か。
それは、娯楽だ。

インターネットが優れた道具であるのと同じくらいに、
新聞は非常に優れた優しい娯楽なのである。


新聞は娯楽である。
役に立たない無駄な知識を提供する媒体である。
それを抜きに新聞を見るのは間違っていると僕は思う。






対して、インターネットとは何か。
それは、道具だ。
強者の道具だ。


道具と娯楽を比較する、というのがそもそもの間違いである。
インターネットは道具であるからして、娯楽に使う事も出来る。
新聞に書いてある事はインターネットを使えば、大概は、手に入る。






だけど娯楽としての新聞には多くの優れた武器がある。
役に立たない無駄な知識を得て楽しむ娯楽としてのインターネットが逆立ちしても太刀打ちできない点が幾つもある。






その1つがユーザーインターフェースだ。


新聞には奥行きがない。
常に1階層である。
とにかく、浅い。

1面..見出し+記事
   2面..見出し+記事
   3面..見出し+記事
   4面..見出し+記事
   5面..見出し+記事


面はカテゴリー。
カテゴリーを選択すると、概要とコンテンツが全て表示される。

ページをめくるだけで、情報の最深層にまで到達出来るのである。
政治、経済、国際情勢、書評、お悔やみ、波留敏夫の打率、渡辺淳一のエロ小説。
見事に整理されており、あっという間に辿り着ける。
カテゴリー毎に全てが一目で見渡せる。
絶対に迷うことなんて無い。







それに対して、インターネットは1階層ではない。
とても深く、それぞれが細分化されている。


新聞社のサイトだと「トップページ..見出し一覧..記事」という構成である。
さらに、記事はそれぞれ独立しており、他の記事を読もうとすると


トップページ..見出し一覧..モビット..記事..吉岡美穂..記事..記事..見出し一覧..記事..[PR]..記事..


と、最悪のユーザーインターフェースだ。
読む数だけの手間がかかり、カテゴリーを選択しただけでカテゴリー内の全ての記事が読める新聞の簡易さには敵わない。インターネットは腐ってる。





この差の根底にあるのは、モニタサイズの違いだろう。
とりあえず現段階では「新聞と互角のモニタ」というものを想像する事が出来ない。まあ、ウェブサイトはどこもかしこも腐ってる、ってのも大きいけれど。新聞のように広告は別枠、なんて手加減はしてくれないから。

その点で、インターネットは新聞を追い越す事は出来ない。
弱者にとってユーザーインターフェースは非常に重要なのである。




そして、インターネットは弱者に厳しい。
PCの電源を入れる、IEを起動する、サイトに飛ぶ、記事を選ぶ、記事を読む。
辿り着くまでの道のりは長く、時間も労力も必要になる。
それは強者にとっては0に近いコストであっても、弱者にとっては気力のいる作業だ。
逆に、新聞は紙である手に取るだけで楽しめる。
弱者にとってもそのコストは0に近い。






新聞の武器は他にもある。
それは、価格だ。

「新聞は高い。」
「金の無駄だ。」
と、書かれたサイトを幾つか見かけた。

月4000円は高い。
確かに、高い気がする。





「4000円あれば一ヶ月のブロードバンド料金が支払える」
「4000円あれば名著が数冊買える」
「4000円あれば1日遊べる」

しかし、それは強者にのみゆるされる娯楽である。





持つ者、強者、興味富豪。
そういう人間にとって、娯楽に要するコストは低い。

興味が尽きないわけだから、目にするもの全てが面白いし、興味が尽きないわけだから、いくらでも新しい物へと目を向けられる。金の使い道は無限にある。



けれども、持たざる者、弱者、興味貧民。
そういう人間にとって、娯楽に要するコストは高い。

新たなものへと手を出す気力は起きないし、何に対しても興味が沸かない。
そのような弱者にとって、1日100円で自宅にまで届けてくれて、「情報を入手する」という娯楽が24時間好きな時間に読み放題というのは、とても魅力的なものである。

なにより、新聞は興味富豪への足がかりとなりうる。
様々な情報が広く浅く小出しにされており、大概のものはカバーする。

新聞というのは弱者の人生を豊かにする可能性が非常に高い優れた娯楽なのである。







新聞を考えている人達。
彼らには、弱者の視点が欠けている。


新聞が「くだらない娯楽」であるという事を認識していない。
していたとしても「くだらない娯楽」である事が価値なのだと認識出来ていない。




新聞を作っている人達は知的興味強者だ。
それだけの人生を歩んでいるし、そういう中に生きている。
「役に立たない無駄な情報」というものに価値を見出せていないだろう。


けれども新聞に求められている第一は、優れたユーザーインターフェースで提供される安価で手軽な役に立たない速報性のある無駄な情報なのである。文章や報道としての品質が下がっても、「全カテゴリーが1階層でパッケージ化されている」という優位性が揺るぐ事は無いだろう。

もちろん、低品質であるよりは高品質であった方がよい。
より優れた文章を、より優れた報道を、密度の高い情報を、というのは非常に意味がある事であり、そうなる事には意味がある。けれども、それは受け手にとっては役に立たない無駄な情報の質が上がった、という微少な変化でしか無いのである。







ブログを書いているような人達も同じく知的興味強者だ。
娯楽としての無駄な情報を手に入れる手段をいくらでも持っているし、興味と時間と無気力の混ぜ合わさった人生を持てあます事も無いだろう。


けれども、そうじゃない人も大勢いる。
一握りの強者と多数の弱者、というのがあらゆる物の構成比率なのだから。




「新聞を読まなくなった」
そう書くことは、そう書くことだ。
「私は強い」
と同義語だ。

それを下品だとか下世話だとか言うつもりは無いけれど、そういう事であると僕は思う。あなた方にとって新聞が「無価値なもの」だとか「いらないもの」である事は十二分に理解出来るけれど、弱者の趣味を見下しているって印象がどうも拭えない。人の趣味を人の娯楽を弱者の楽しみを馬鹿にして殺したいと思うのは勝手だけれど、正直勘弁してくれ、と思うね。ジャーナリズム?心意気。けれども、求められているのは手軽で安価な役に立たない無駄な知的刺激としての情報である。



インターネットは強者の道具だ。
持つ者が好き放題に楽しめる道具だ。




「新聞は馬鹿が読むもの」
だなんて言うつもりはない。

新聞は非常に優れた弱者の娯楽である。


2005年5月29日日曜日

俺ルール徳保隆夫の卑怯系




うまくいっているうちに更新を投げ出してフェードアウトしないと、真性引き篭もりも小林Scrap Bookも、そのうちに叩かれるようになるんでしょ。叩かれたらそれでお終いってことはないけれど、かなり面白くない体験をすることになるわけだよ。




今の真性引き篭もりでは名誉毀損に相当する記事を好き勝手に書いても読者に許されてしまうわけだけれど、本来、それは異常なこと。そんなもの、いつまでも続くもんか(と思いたい)。たかがジョーク、といえばその通り。たしかに今、はてなが怒ってサービス提供社に相談して記事を消させたら、はてなの方が叩かれそうだ。でも、真性引き篭もりが叩かれモードになったら、状況は一変するよ。名誉毀損を批判する意見が「場」を支配するんだ。
     ~趣味のWebデザイン   徳保隆夫




こんな事を書いている人を見つけた。
まあ、見つけただけであれば「おもしろ発見!」くらいで読み流す所なのであるが、僕が古くから敬愛し親愛し師とも弟子とも親とも子とも慕っているブログである小林Scrap Bookが叩かれているのには心底我慢がならんので頸椎捻挫してみた、というのがこのエントリーの趣向である。







徳保隆夫は当ブログが「うまくいっている」と思っているらしい。
なるほど、さようであるか。


でさー。
「うまくいっている」って何だろう?
と思って続きを読むと、


今の真性引き篭もりでは名誉毀損に相当する記事を好き勝手に書いても読者に許されてしまうわけだけれど、本来、それは異常なこと。






「名誉毀損に相当する記事を好き勝手に書いているのが読者に許されている」って徳保隆夫は言ってるわけだ。



え?
そんな事実は無いよ。
読者に許されてないよ。
あれ?
ご存じなかった?
勝手な思いこみで書いた?


当ブログはコメメント欄もトラックバック欄もフル解放である。トップページからのリンクが消えてしまったらアンフェアだと思い、表示数も5→10→20と拡大しまくってきた。物凄いノーガードである。


そのうちに叩かれるようになるんでしょ。



って、9割くらいが叩きコメントの超絶叩かれモードは何度もあったよ。
壮絶だったよ。
そりゃあもう、読むだけでいっぱいいっぱいなくらいに。
あれ?
ご存じなかった?
勝手な思いこみで書いた?
かれこれ半年に渡り、通りすがりさん常連さん粘着さん、記名、無記名、偽記名さん、、、ありとあらゆる人達から叩かれまくってきたよ。トラックバックさんやエントリーさんも含めて叩かれまくってきたよ。



名誉毀損を批判する意見が「場」を支配するんだ。



って。
そんなの既に支配されまくってるよ。
随分と前から。
あれ?
ご存じなかった?
勝手な思いこみで書いた?
駄目だよー。思いこみは駄目だよー。
他人を罵倒するときは事実確認なるたけしないと。








徳保隆夫のルールで言うと、真性引き篭もりは凄い正常だって事だね。
ちゃんと叩かれまくってるもん。
お墨付きありがとう。







「名誉毀損に相当する記事を好き勝手」
ってのもくせもんですね(^^;)
名誉毀損って親告罪だよね。


>たかがジョーク、といえばその通り。
なんだ、わかってんだ。
その通りじゃん。
親告歓迎だよ。





で、ちょっと待って。
どれが名誉毀損に相当する記事なの?
名誉毀損に相当って事は、「訴えられて当たり前」って事だよね?


どれ?
どの記事?
どのエントリー?
徳保隆夫的に「訴えられて当たり前」な記事ってどれ?
どれが「訴えられて当たり前」な記事だと思ってるの?
物凄く興味がある。
バラモス?バラモスゾンビ?あ、もしかしてDQN若社長?








で、当ブログに関してはこんなとこ。


それとは別に、この人すっごい卑怯だね。
卑怯をとおりこしておもしろブログだね。
「徳保隆夫のIT法TopFront」ってサイト名変更した方がいいよ。







徳保隆夫の主張!!!


◆真性引き篭もりと小林Scrap Bookは更新を投げ出してフェードアウトしろ!
徳保隆夫さんから約2名へ指令。


◆さもないと、かなり面白くない体験をするぜ!覚悟しな!
その理由。脅すぜ脅すぜビクビクしろよ。


◆そんなもの、いつまでも続くもんか(と思いたい)。
徳保隆夫は真性引き篭もりと小林Scrap Bookが潰れてくれると"思いたい"わけだ。
なるほど。一言で言うと、真性引き篭もりと小林Scrap Bookを潰したいんだね(笑)
潰したいから攻撃する。
すっごく単純明快ですね。


◆真性引き篭もりと小林Scrap Bookは「場」に殺されるぜ!
「場」がウェブサイトを殺すと定義しているわけだ。






ではなぜ、徳保隆夫が小倉秀夫を超越する卑怯者なのか。
それは、物凄く単純にして明快である。


徳保隆夫の「趣味のWebデザイン」には「場」が無い。
自分は「場」を用意せずに、ウェブサイトを殺すのは「場」だとのたまってるわけ。


安全圏から、ノーガードの人間2人を攻撃しているわけだ。
これが卑怯で無いとしたらなんなんだろう。





小林Scrap Bookに関しては知らないけれど、少なくとも僕は松岡美樹のようにブログに張り付いてコメントを削除したりしないし、どこかの社長さんみたいにトラックバックを削除したりもしない。


昔やっていた、「ブログの投稿を書き始める前にゲーム日記をupしておき、書き終えたら削除して差し替える」ってのが「場」に対する変更にあたるけれど、「消すな~」って文句言われたのでタイムサービス日記は封印して、今はもうやっていないし、やるつもりも無い。


前述の通り、トラックバックやコメントでの叩きが埋もれてしまわないように、トップページから20件まで見られるようにして、リンクを貼っている。




対して、「趣味のWebデザイン」は完全無欠のフルガードである。


コメントの「場」はそもそも用意されていない。
トラックバックの「場」は隠蔽されている。
「トラックバックは好き放題削除します!」宣言。


どういう思考を行えば、フルガードの安全圏からノーガードのいたいけなブロガー2人を好き放題に罵倒する事が出来るんですか?スーパーウルトラ卑怯思考ですね。


あのー、そんなに「思いたい」のなら、思ってるだけじゃなくて実際に行動に移してはいかでしょう?当ブログは常にノーガード、匿名様も記名様も偽記名様も、トラックバックも、空撃ちトラックバックでさえもエブリバディウェルカムですよ。
趣味のWebデザインとは違って。
はい。対照的に。
どうぞ、お越し下さい。











あのー。
はっきり申し上げて。
徳保隆夫さんって、気に入らないものを叩きたいだけですよね(笑)


保護された安全圏から文句を言いまくり、
「俺凄い!」を世界中にアピールしてらっしゃいますよね。
そんなに注目されたいんなら、拡声器持ってリアルで叫んだらどうですか?
インターネットの片隅で「俺偉い!」を俺ルールで繰り返すよりも健全だと思いますよ。




しかもその中核にあるのは「場(笑)」エイブラハム「場(笑)」
こんな卑怯者は始めてみました。
感動すら覚えております。
思う、故に叩く。
ストレートですね。





俺ルールを基にモラルを問いながら、自分は特例でルールの適用外。
しかも、問うている事が完全に間違っていて事実を把握していない。


気に入らないものを見つけて叩くのが趣味なんですね。
「俺凄い」って声を大にして叫んでトラックバックで自己アピールするのが趣味なんですね。ほんと凄いっすね。面白いっすね。最強っすね。無敵っすね。
高貴な趣味だ。
ものすごく。







いやー、本当にいい趣味をお持ちですね。
憧れます。はい。


僕はDOTA allsatarsに満足しているのでそんな卑怯な趣味に興味は無いですけれど。

















というわけで僕は「卑怯系の人の思考はおもしろいな~」くらいしか言えないわけです。
ただ、である。
ただ、唯一たった一点マジで激昂しているのは、真性引き篭もりhankakueisuuがどこの馬の骨ともわからんような坊主めくり系バカブロガーの小林なんとかとかいう奴と一緒くたにされたって事だ。これだけは我慢ならん。だいたいからしてビトーでもヒベイロでも無いくせに勝手に小林名乗ってんじゃねえ。誰の許しを得てるんだ。勝手に名乗るなふざけるな。改名しろ。今すぐに改名しろ。「ヴィトー "小林" ヒベイル」に今すぐ改名しろ。


改名したら状況は一変するよ。
世界のはんぶんをおまえが支配するんだ。


「JASRACブロガーBigBangは足を痙って改名しろ。」とは何か。



「JASRACブロガーBigBangは足を痙って改名しろ。」とは何か。
電波文章である。






「JASRACブロガーBigBangは足を痙って改名しろ。」の目的は何だったのか。


・優先度1。「個人→大衆」(僕→ハッカー)
無料のインターネットを構築している人間へ敬意を示す事。


・優先度2。「大衆→大衆」(無料に感謝→無料に当然)
インターネットは無料が当たり前だと考えている人達への嘲笑。


・優先度3。「個人→個人」(僕→BigBang)
対象者(BigBang)へメッセージを伝える事。


上記3つを簡潔に書けば済む話である。
しかし、僕はそれをしなかった。




・優先度0。「大衆→個人」(読者→僕)
著者(真性引き篭もりhankakueisuu)は毒電波だ。


これを非常に強く被せた。
読み流せば、これのみが伝わるように書いた。


それは、何故か。
どうしてそのようにめんどうくさい遠回りをしたのか。
それについての説明を書く。





まず始めに、前提として。
ブログは「伝える為に書く」為の場所であるか否か。


ざっと見たところ、徳保隆夫は常に主題を伝えようとしているのに対し、僕はエントリー毎にそれぞれ、まちまちである。主題を伝える為に書く事もあるが、伝えない為に書く事の方が遙かに多い。


もしも「伝える為に書く」のが唯一の正しいブログ(ウェブサイト)の使い方であるのならば、僕が取った「出来る限り伝わらないように書く」という方法は間違いであり、断罪されるに値するだろう。




しかし、"ブログの使い方が間違っている"という点で僕が断罪される事は無いだろう。
ブログというものは"伝える為に"でも日記としてでも食事記録でもダイエット記録でも、独り言でもアルベド語でも、また"伝わらないように"書いてもよい場所である。



・「伝わらないように書くのなら最初から書かなきゃいいだろ!」
それは、違う。
伝わらないように書いたのは確かではあるが、読み手が読めば伝わるように書いている。
徳保隆夫の想定している読み手が「賛同者」であるのに対して、僕の想定している読み手は「僕」であるというだけの非常に些細な相違点である。






では、1から順にそれぞれ書いてゆく。



>・優先度1。「個人→大衆」(僕→ハッカー)
>無料のインターネットを構築している人間へ敬意を示す事。
あの文章を読んで要点が理解できないようなハッカーを想像できない。


「自動」とはいっても、その自動自体は手動で壮絶な膨大な労力と学習と鍛錬と修練とその他諸々の心労と夢と野望と希望とを抱いて一人の人間が努力の末に作り上げた芸術的な自動である。



まず、この部分。
自動は手動で壮絶な膨大な労力と学習と鍛錬と修練とその他諸々の心労と夢と野望と希望とを抱いて一人の人間が努力の末に作り上げた芸術的な自動であると、僕のハッカー感を語っている。その上で、



敬意が足りない。敬意が足りない。敬意が足りない。何もかも足りない。
ウェブサービスは無料じゃない。ウェブ乞食死ね。敬意が足りない。


ハッカーに金を!
ハッカーに敬意を!
ハッカーにジャクフードを!
我が国に未来的なインターネットの感謝と畏敬のリスペクトを!



その努力は報われるべきである、と書き、敬意を示している。
重ねて言うが、これだけ書いたこの文章を読んでもこれが重点だと気がつかないハッカーというものを僕は想像する事が出来ない。よって、隠しても構わないと考えた。



しかし「隠しても構わないと思ったから隠した」のでは無い。
隠したいと思ったから隠したのである。大本は素直にものを言いたくない、という人間的特性である。これには他にも色々とあるのだけれどとりあえず、これで十分だろうと思う。





>・優先度2。「大衆→大衆」(無料に感謝→無料に当然)
>インターネットは無料が当たり前だと考えている人達への嘲笑。


日本のインターネッターのかなりの多くは、水と空気と安全と、ウェブサービスとプログラムとJPEG画像は全部無料が当然だと考えている。酷いのになると、ゲームもエロ動画もエロゲームまでも全部無料で当然だと考えている。
それを誰が作ったかだとか、どのように作ったかだとか、そういう事は考えもせずに「インターネットは無料なのだ」と思いこんでいる。



これは、無料のインターネットに感謝している側の人だけが読めばよい。
僕は常に伝える為のみに書くといったような啓蒙主義的な目的でブログを書いてはいないので、無料が当然であると考えている人は読み流せばよいと考えて隠した。あのエントリーは、「インターネットは無料が当然」だと考えている人を読者として想定していない投稿である。








>・優先度3。「個人→個人」(僕→BigBang)
>対象者(BigBang)へブログによって生じた不可逆へのやるせなさを伝える事。
徳保隆夫はご存じ無いかもしれないので、前提条件から書いておく。


もしもこれが私に向けられたものであれば、私は一時的にはショックは受けるかもしれないが、中期的にはこの執筆者に感謝すると思う。



と、BigBangは数日前に述べていたという事である。
言わば、"読むよ宣言"である。であるからして、まあ、読まれないようにしても読まれる可能性が存在すると考えて、書いたのである。



・「優先度3の狙いは何か」
まず、「驚いちゃったよ----ちゃっかりRSS」という投稿で何が起こったのかを書く。





驚いちゃったよ----ちゃっかりRSS
RSSリーダーがそもそもなんなのかは、わかっているつもりだし、自分も使っているから文句は言えないんだけれど、それにしても


http://1470.net/bm/siteinfo/54438



ここを見たら驚いちゃったよ。


こんな風にインデックス化されて、アマゾンのブックリストも・・それプラスサイト管理者側の広告も挿入表示されていて・・なんだかすごいねー。ちゃっかりRSSと言ったら言い過ぎかもしれないけれど。


#アフィリエイトなんて、かすめとりっぽくない?ありかあ・・?こういうの。


                    ~BigBang


1、上記の投稿が成された。





あと、確かにサイト情報のところの「紹介したメディア」で、うちのアソシエイトIDを使ってリンクを張るのは、いかにもかすめとりっぽさ度が高い気がしたんで(実際には「サイト情報」ページを見る人はほとんどいないけど)、ひとまずそこからはうちのアソシエイトIDは外してみました(blogmapではISBN/ASINしかデータベースに持っていないので、元サイトのアソシエイトIDはつけられません)。


                    ~1470


2、上記の返答が成された。





この記事に対して、当該サイトblogmapのishinaoさんからTBをいただき、サイト趣旨の説明をいただきました。blogmapのユーザーの方からも擁護論をいただきました。
また、私が問題にしていたアフィリエイトのID書き換えについてはishinaoさんが早くも対処していただいたということです。確認しましたので報告します。ishinaoさん、すばやい対応、感謝です。
元来、クレームをつけるというよりも、趣旨を聞いてみたいという希望でしたから、ishinaoさんとも連絡をとってから記事を書くべきだったのかもしれません。それ以前に「かすめとり」という表現を安直に使ったことをお詫びします。
この件についての考え方はまたどこかで書きたいと思いますが、blogmapのユーザーの方もずいぶんここを見ているようですから、急ぎコメントしておきます。


                    ~BigBang


3、上記の返信が成された。





以上、である。
これで完結している。


つまり、「働きかけ」→「修正」→「了解」という形である。
もしも、その働きかけ自体がおかしいものであったとBigBangが認識していたのならば、働きかけによって修正されたものを、「いちゃもんであったから元に戻しても」という提案を成すのが当然であると僕は考える。




そして、僕はこの「働きかけ」が、完全にいちゃもんであったと考えている。
「誤認識」だとか「理解不足」といった言葉の方が適切かもしれないが、「働きかけ」自体に誤りがあったというのが例の投稿で長々といくつかの材料を持ち出して述べた僕の見解である。


では、何故これを隠蔽したのか。


まず、僕はBigBangに直接的に関わり合いになるつもりは無かった。
そういう事をするのは性分に合わないので、適切な距離を保つ為である。


次に「1470を再修正させる事」が目的ではないという事である。


「再修正させる事」が目的であれば、それを直接主張すれば済む話である。
しかしきっかけは別として、修正は1470の意志で行われてしまった事であるし、そもそも人間というのは意固地なもので一度変更させられたものを変更しなおすというのは倫理的というか道徳的というか観念的制約のせいで、かなり難しい。もう盆には返らぬだろう。


では、何を目的とし、どのような結果を期待したのか。
それは、1470への再修正の提案がBigBangから成される事である。


「働きかけ」→「修正」→「了解」の、働きかけに誤りがあったと認識したのならば、その時点でその働きかけによって修正されたものを取り消すように動くのが人として当然であると考える。




以上が、目的と、動機と、それを隠蔽した動機である。



・「なぜ電波という文脈を用いたのか。」
あの文章を読んで、電波だと識別出来ない人間は徳保隆夫くらいのものだろう。
2000文字という量を費やして明らかに電波な書き出しを書いた上で、全編電波で書いている。説明不可能なくらいに電波ワードを入れており、なにか引用して説明しようと思ったけど無理だ。あれを電波でないと理解出来ない人を対象として書いていない。

僕は徳保隆夫や藤代裕之とは違って、過去のエントリーを読めとも、ブログを読めとも言わない。常に該当エントリーを読めば主題は理解出来るように書いている。きちんと、エントリー内で電波であるという「動機と態度の明記」を行っている。


では、なぜ電波を用いたのかである。
そこで、徳保隆夫に問いたい。


・こっそりと、無料のインターネットを構築している人間へ敬意を示す。
・ひそやかに、インターネットは無料が当たり前だと考えている人達への嘲笑。
・隠蔽しつつ、対象者へブログによって生じた不可逆へのやるせなさを伝える事。


上記3点を書こうと思った場合、どのような方法を用いますか?
対象者を含める読者が気がつかず読み流してしまうようなもので、対象者が気がついたとしても「電波は放置」といったような大義名分の元でスルーしたければ容易にスルーが出来て、仮に想定した読み手が存在していたならば、その人たちには要点を伝えられる文章というものをどのようにして書きますか?


僕の場合は電波文章というスキンしか思い浮かびませんでした。
正直、他の方法があるならばその文章を読んでみたい。
一応、1つ思い浮かんだものは文字数で隠蔽する事なのだけれど、僕の場合は日本語力からして電波抜きで文字数を埋めるという作業は不可能であるからして、「電波文章で焦点を隠す」というのが唯一の選択肢であった。


よって、必然的に電波文章を選択したのである。
これには他の意図もあるのだけれどまあそれは別の話という事で。






結果としては、そういうものであるからしてこういうものである。







・「ネタにマジレスかっこ悪いと言うのか?」
違う。
3点の目的の為の本気エントリーである。
であるからして、マジレスが正当なものであればその批判は甘んじて受ける。


「JASRACブロガーBigBangは足を痙って改名しろ。」
に対して行った徳保隆夫のレスポンスは、2行を引用しての
「嘘つくんじゃないよ。」である。


これは、批判にはなり得ない。
なぜならば2200文字の前置き文章と、それに続く電波ワードという物、さらにその引用した部分も含めて「嘘をついています」と「嘘つきです」と重ねて重ねて繰り返し続けているからである。


「嘘をつきます」
と大声で叫びながら書かれた文章に対して
「嘘つくんじゃないよ。」
と書くことは、示威行為でしかない。


あるいは、電波に電波返ししている真性電波か真性馬鹿かである。



・「ではどのような批判ならば受け入れるのか?」


それは、至極単純である。
「誤解を招くような表現形式は用いるな」というものである。


もし、行われた批判がそれであれば、非を認めその不誠実さを深くお詫びした上で「改めるつもりはない」、正確に言えば「改める事は不可能である」と答えるであろう。


うぐいすみたいなのがないている。



困った。
処理能力の限界を超えている。


WarCraft3のプレイ動画



http://www.newtrino.com/item/12775.html
2ちゃんねるで見つけた。
英語版(通常+拡張)で5500+送料。
日本語版だと13000円くらいするのでだいたい半額。
昔使っていた所は消えてるっぽくて見つからず。


BitTorrentの使い方はよくわからないのでよくわからない。




BitTorrent導入方
で、BitTorrentっていうのをダウンロードすると、


WarCraft3のアンデッドvsヒューマンのmpeg動画
これがダウンロード出来る。


マジ凄い。
一応基本ルールだけ書いておくと、お金貯めて木を切って、家を建てて兵士作って戦争するゲーム。


ヒューマン、ナイトエルフ、オーク、アンデッドの4種類がいて、1vs1から3vs3くらいで戦争するゲーム。


で、このゲームは上の通りアンデッドvsヒューマンなんだけれど、プロが操作している画面を直接録画してるから、細かいクリックとかが凄く美しい超絶美技。




あと、一応基本ルールだけ書いておくと、ヒーローっていう強いユニットを作る事が可能で、そのヒーローはレベルアップで強くなる。必殺技とか覚える。


ヒーローはお店で買ったり、モンスターが落としたりしたアイテムを拾うことが出来て、アイテムのアイコンをクリックすれば使える。ライフポーションとか、スクルトとか、ベホマラーとか、ルーラとか、無敵とか。
そういうのを使いこなして相手を滅ぼした方が勝ち。




一線級のプロ対プロの戦いで、ゲーム的にも超グッドゲーム。
WarCraft3がどんなゲームか知らない人でゲーム好きな人は絶対見るべき。
買うとか買わないとかじゃなくて、単純にスーパープレイとして凄い。


しかも、内容も物凄く良くて、序盤から終盤まで物凄い微妙な小競り合いがこまめに続いて一進一退。マジで泣ける。ワラワラ系のウォーゲームを眺めてにやつくのが好きな人とかも、是非。ほんと興奮する。多分。




それでWarCraft3のリンク貼ろうと思ったんだけれどカプコンしか見つからない。多分英国版(?)なら6000円か7000円くらいで買えるはずなのに、カプコンの日本語版13000円もする。ふざけてやがる。
ちょっと探してくる。




解説&データサイト
興味持ったりしたらここ。
物凄い全部載ってる。


あと、バラモスが大会やってる
今日(28日)の午後8時締め切りだけど、3ランクに別れてるからnoobでも大丈夫。間に合うなら。




っていうかJWL貼るならどっちかって言うと情報元も貼るべきな気がしてきたけれどいろいろとあれしたらいけないからいいか。




っていうかマジで見ないと人生損してる。超感動。泣ける。
まあ僕からすれば随分とレベルが低いけどそれなりに2人とも上手いし。


2005年5月28日土曜日

JASRACブロガーBigBangは足を痙って改名しろ。



「世の中には色々なブロガーがいる」と書くと、まるで世の中には色々なブロガーがいるかのように聞こえてしまうであろう事が不本意でならない。

ブロガーなんてものは、そんなに種類があるわけではない。
どれもこれもが似たり寄ったりで、目新しい物などてんで無い。





例えばよくある、最もよく見るのがあれだ。
日記ブロガーだ。


日記ブロガーってのは日記を書いている。まったくもって日記ブロガーは片っ端からくだらない。ブログってものは大統領選挙に影響を及ぼすが為に開発されたものであり、そんなくだらねえ事に利用されてブログもこちとら迷惑である。



食べ物ブロガーってのもいる。
食欲ばっかだ。食べてばっかだ。食べる事しか頭に無いだ。
「え、だってさ、もしだよ、もしもの話だよ?もしも痩せている人と太っている人が北極大陸で遭難したら、絶対に痩せている人が先に死ぬじゃん?だって、脂肪ってのは鎧みたいなもんなんだから。あった方が有利じゃん。あとさ、例えばだよ。北極熊に襲われた時に、痩せている人と太っている人がどっちが先に死ぬかって言うと、絶対痩せている人が先に死ぬじゃん。だって、脂肪ってのは鎧みたいなもんなんだから。あった方が有利じゃん。あとさ、アメリカでは痩せている人ってのは自己管理が出来ない使えない人間だって事にされて、社会じゃ相手にされないわけ。筋肉質の人の場合はアナボリックステロイドな人だってされて、面接とか絶対一発で落とされるわけ。わかる?だから僕は太ってるの。あんたアメリカじゃ通用しないよ。」って、死ね。北極大陸の地下3000メートルのナチスドイツの隠れ家のヒトラーのUFOに乗せられて人体解剖されて死ね。



しょたこん☆ブロガーってのもいる。
半ズボンの小学生のカラー写真を来る日も来る日もブログにアップし続けてはエントリースパムの如くのぼせ上がって累計すれば月に500枚にも600枚にもなるような他にする事の無い正太郎である。正太郎ってのは「ショタコンプレックス」の語源となった人の名前だ。フルネームで書くと正力松太郎だ。略して正太郎。水野透の実の父だ。



エロブロガーってのもある。
毎日毎日エロ画像だとかエロ話だとかちんこだまんこだやってる奴らだ。あいつらはゴミだ。根本的に間違っている。ぐら乳頭くらいの勢いで大切なものとどうでもいいものを混同している。
ちんこやまんこは人を幸せにする為に存在しているのではない。精子と卵子を人にするが為に存在しているわけである。切り離せ。人間の生活に必要なのは充足であってエロではない。ちんこやまんこが人を幸せにした事があろうか?いや、無いとも言い切れないような気もしてきたけど無い事にしとかなければ寂しさが募るばかりで僕の人生が切なくなるので無いことにしとこうと思うけれど、もしそれをやってしまうと真実から目をそらしてしまうという事であり、僕がもし今ドアノブを回せばその先にあるものは一体何であろうか?あ、廊下。



論壇ブロガーってのもいる。
構ってもらえる人が身近にいない暇人がブログで蘊蓄たれてるやつだ。まったくもって場違いだ。ろんだりたければボルドーでやれ。それ相応の場所でやれ。シャバンデルマスの中心でアンアン叫んで好きにやれ。ブログでやるな。ふざけるな。



ぽちっとブロガーってのもいる。
人気ブログランキングやらウェブ拍手やら何やらを、とにかく読者に押させようとする奴らだ。質が悪いのになると「スポンサーさんも訪れて下さい」だとか言い出す。もっと酷いのになると、縦12ドット横16ドットの青と白とのGIFイメージを貼ってたりする。きもきもい。ださださい。くさくさい。ぽっちとブロガーかっこわるい。



買い物ブロガーってのもいる。
これ買いましたあれ買いましたどれ買いましたそれ買いましたって、毎日毎日買ったものを報告してはご満悦にしている奴らだ。まったくもって奴らも糞だ。全部糞だ。道具ってのは手に入れる為に存在しているわけではない。道具ってのは使う為にあるわけである。まったくもって買い物ブロガーってのは念仏を手に入れて喜んでいる空海くらいの勢いで猿の腰掛けを法外な値段で買わされた末期ガン患者の妻の川流れだ。



ブログブロガーって奴もいる。
ブログブロガーは毎日毎日ブログの事ばかり書いてあるばかりであり、トマトにもピーマンにもならん。近回しに言うと「食えねえ奴だ」って事だ。





とにかく、である。
ブロガーには色んなブロガーがいて、どいつもこいつも似たり寄ったりだって事である。L2ボタンでだモードとであるモードは切り替え可能だ。
スコア狙いならだモードがお勧めである。


とにかく、だ。
ブロガーには色んなブロガーがいて、どいつもこいつも似たり寄ったりだって事である。L2ボタンでであるモードとだモードは切り替え可能である。
初心者にはであるモードがお勧めだ。


とにかく、デース!
小生は言いたいにょ♪








ところが、である。
物珍しいブロガーを発見したのである。
物珍しいの使い方を間違っているとかそういうレベルの物珍しさじゃなくて、本格的に目新しいくらいに物珍しいブロガーを発見したのである。





それが、JASRACブロガーBigBangである。
JASRACブロガーBigBangの言い分はこうだ。




http://1470.net/
というソーシャルブックマークサービスを「ちゃっかりRSS」と呼び指した上で、


>ここを見たら驚いちゃったよ。
>こんな風にインデックス化されて、アマゾンのブックリストも・・
>それプラスサイト管理者側の広告も挿入表示されていて・・
>なんだかすごいねー。ちゃっかりRSSと言ったら言い過ぎかもしれないけれど。

>#アフィリエイトなんて、かすめとりっぽくない?ありかあ・・?こういうの。


だそうだ。
まったくもって驚いちゃったよ。
ブログを収集して公開ブックマークしてアフィったらかすめとりか。ちゃっかりか。
よくもまあのけのけぬうぬうとそういう思考が出来たもんだ。




インターネットとはそもそもその時点でオープンであり、隠れたければ日記の裏にでも書いていればよいのである。それを何者かが収集してどうこうした、って発想が木星帰りだ。


おそらくBigBangは明らかに、あれだろう。
シェアウェアゲームを公開しているホームページのBBSに駆け込んで「どうしてシェアなんですか!フリーにはなりませんか?学生なのでお金が無いです!」とか言うタイプだろう。「RPGツクールなのにシェアはおかしいです!」とか言い出すタイプだろう。無料のテキストエディタを愛用しながらテキストなんて年に10KBも書かないままで「ひでまるだせー」とか言うタイプだろう。ピクセルの掲示板で「2は作らないのですか?」とか質問して「その予定はありません」とあしらわれたのを根に持って、外人のフリして「2 is no plan? r u k?」とか書き込むタイプだろう。純然たる良心から募金サイトを運営している人のブログいちゃもんをつけて閉鎖に追い込むタイプだろう。ルイ・ヴィトンなのにグーグルられて、「グーグルなー」とか裁判しだすタイプだろう。




敬意が足りない。
まったくもって敬意が足りない。
というか、完全に抜け落ちている。


日本のインターネッターのかなりの多くは、水と空気と安全と、ウェブサービスとプログラムとJPEG画像は全部無料が当然だと考えている。酷いのになると、ゲームもエロ動画もエロゲームまでも全部無料で当然だと考えている。
それを誰が作ったかだとか、どのように作ったかだとか、そういう事は考えもせずに「インターネットは無料なのだ」と思いこんでいる。



まったくもって腐っている。
そもそもである。
ブログサービスにしろ検索エンジンにしろポータルサイトにしろ、全てがちゃっかり系である。グーグルなどはプログラムを巡回させて人の情報を寄せ集めてそれを金にしているわけである。

1470を攻撃するなら、それらも全部攻撃するべきである。
主張に統合性を持たせるべきである。


それをせずに、どころかそれらハッカー的生産物の恩恵を思う存分被っておきながら、ちょっと自分が主対象より外れた気に入らないものがあると無責任に攻撃をする。
まったくもって貧相れくあつである。

それはまるでJASRACそれである。それだJASRACだ。
自分は何もせず恩恵を被っているままでありながら、自分が気に入らないものに対して片っ端からいちゃもんをつけ滅ぼしにかかる。
たとえば、インターネット上でユーザーが手動で丹念に時間をかけて打ち込んだMIDIファイルを片っ端から刈って行ったり、マッキントッシュのI Transの日本上陸を全力で阻止したりといった、傲慢で横暴で自己中心な行いを行う。まんまJASRACである。

平成の世に舞い降りたその人それこそ、JASRACブロガーBigBangである。







さらに、である。
それを言うなら、手動ちゃっかりも駄目であると主張するのが当然である。

1470は自動ちゃっかりである。
「自動」とはいっても、その自動自体は手動で壮絶な膨大な労力と学習と鍛錬と修練とその他諸々の心労と夢と野望と希望とを抱いて一人の人間が努力の末に作り上げた芸術的な自動である。
それを大声で恫喝してアマゾンアソシエイトを外させるに至らしめた。



ならば、だ。
ならば、である。

手動ちゃっかりも全部片っ端から攻撃して行くべきである。
我が国の2005年のインターネットには、アフィリエイトとアソシエイトと企業からのバックマージンで年収6000万円にも達したかとゆーを筆頭に、数百数千の手動ちゃっかりウェブサイトが犇めいている。それらも全て片っ端からきちんと攻撃してこそ統合性とういものである。





まったくもって、想像力の欠如である。
手動はよくて自動は駄目、という事なのだろう。
そもそも、その自動自体を作るのにどれだけの労力が注ぎ込まれたかなど、想像すらしていないのだろう。
島国根性を持った人間のこういう島国根性的発想が我が国の島国根性的なものが染みついたインターネットの発展を阻害しいつまで経っても島国根性が抜けないのだ。





BigBangが1470を事実上半壊させた事により、我が国のインターネットの発展は10年遅れたと言っても過言ではないだろう。もはや滅んだに等しい。正しくその罪は非常に重い。

インターネットは全部無料だと思っている糞ブロガーBigBangは今すぐ足を痙って死ね。その上で、改名しろ。
「ダイナマイト "THE JASRAC" ビッグバング」に改名しろ。




敬意が足りない。敬意が足りない。敬意が足りない。何もかも足りない。
ウェブサービスは無料じゃない。ウェブ乞食死ね。敬意が足りない。

ハッカーに金を!
ハッカーに敬意を!
ハッカーにジャクフードを!
我が国に未来的なインターネットの感謝と畏敬のリスペクトを!


































ところが、である。
話はこれで終わらない。
実はこの話には裏があるのだ。

僕が友達の知り合いの関係者から手に入れた確かな情報によると、ダイナマイト "THE JASRAC" ビッグバングがソーシャルブックマーク1470を攻撃したのには、そうするだけの動機があったのである。





株式会社はてなという会社をご存じだろうか。
株式会社はてなは、はてなブックマークというソーシャルブックマークを運営してている。はてなにとって1470は競合するサービスであり、早めに排除しておきたい敵である。
なんとしてでも潰したいわけである。


株式会社はてなが競合する1470を潰そうと躍起になって各方面からの圧力を加えているというのは事情通の間では既に周知の事実であり、その一端として株式会社はてながリスクコンサルタントを通じてダイナマイト "THE JASRAC" ビッグバングに「1470にいちゃもんをつけてくれ」と大金を握らせ頼んだという情報を入手した。

これだけであれば「本当かな?」と疑ってしまう所であるが、
はてなは以前に応用通信電業株式会社が運営していたソーシャルブックマークサービスの「ブロック!」(http://www.block.jp/)に対しても同様の圧力をかけて閉鎖に追い込んだという話も伝わってきており、今回の件についても非常に信憑性が高いとい。また、株式会社はてなは某ブログサービスのポータルページからリンクが貼られていたアイドルのブログに対しても直接的な圧力をかけ、某ブログサービスのポータルから某アイドルのブログへのリンクを圧力をかけて外させたといったような、ありとあらゆる悪行三昧を重ねて日本を支配している。それら実例から見ても、この事件の裏側にはてなが潜んでいる事は紛れもない事実であろう。


まったくもって、恐ろしい話である。
野菜を配って野菜を書かせ、金を配って競合サービスの悪口を書かせる。それが、株式会社はてなのやっている事であり、我が国のインターネットを仮死へと追い込むものである。

いや、もう既に創価学会に乗っ取られた公明党くらいの勢いで黒幕である株式会社はてなに隅から隅まで監視乗っ取りされており、我が国のインターネットはBigBangがダイナマイト "THE JASRAC" ビッグバングに改名した今日をもって終焉したという事であり、これはもう正しく「インターネットの終焉」と呼ぶに等しい絶望の世紀末である。


はてなブックマークの黒幕



馬鹿だ。
はてなブックマークは馬鹿だ。
というか、エントリーの横にあるURLをクリックした時の動作がいくらなんでも繋がりすぎだ。




http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http://ja.wikipedia.org/
例えばwikipediaだとこんな具合にwikipediaのエントリーが出てくるわけ。
おおー、wikipediaすげーーー。
みたいな空気になるわけ。


http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/
木村剛だとこんな具合に木村だらけになるわけ。
おおー、木村暇だなーーー。
みたいな空気になるわけ。








ところが、である。
はてなダイアリーに開設されたブログだと、そうはいかない。

「この人何もんだろう」
とか思ってURLをクリックすると、


http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http://d.hatena.ne.jp/
お前誰だよ。
みたいな空気になる。
いくらなんでも繋がりすぎだろ。
自サービスのユーザーを冷遇。馬鹿だ。
もういっこ先の/まで取りに行くぐらいしとけよ。
「ライブドアとかgooみたいな自社外のブログはもいっこ先まで取りにいかねえぜ!」って自社ユーザーを囲い込むくらいしろよ。ストりにくくて仕方がない。まったく、である。

馬鹿だ。
自社サービスのブログユーザーを冷遇するはてなブックマークは馬鹿だ。









そんなはてなに懲りた方は今すぐブロックブログへ移住しよう!!

トラックバックカフェで繋がるおもしろブログブロックブログ
今なら、エントリー+コメントの容量が一定サイズを超えると表示不可能となるドキドキはらはら刺激的なバグや、キモイ常連達の馴れ合い場所化していて全く機能していないサポートBBS、嫌がらせのトラックバックをさりげなく削除しちゃう社長さんなどの豪華特典付き!
さあ!
今すぐ移転だ!
ドキドキわくわくのブログ生活が始まるぞ!




自サーバー借りてモバイルタイプでcoolにやりたい!
って人には、ナウでヤングなレンタルサーバーロリポップがオススメだ!

ナウでヤングなレンタルサーバーロリポップ
はてなとは対照的な、何事にも誠意で対応してくれる物凄い真面目で誠実な社長さんが最大のセールスポイントだ!ユーザーとの距離が近いぜ!






おまけ。
ブログを書いて奥菜恵ゲットだアメーバブログ


































ところが、である。
実はこの話には裏があるのだ。

僕が友達の知り合いの関係者から手に入れた確かな情報によると、はてながそのような片手間で出来る自社ユーザーを保護する仕様を実装しなかったのには、そうするだけの動機があったのである。
そう。
黒幕がいたのである。
そう。
これには黒幕がいるのである。










http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http://d.hatena.ne.jp/
つまり、である。

はてなダイアリーをブックマークしたブックマークの横に表示されるURLをクリックした時に一番上に表示される奴が、自ブログへのアクセス数を稼いでアマゾンアソシエイトとグーグルアドセンスでがっぽがっぽ稼ぎまくる為に仕組んだ仕様なのである。
一番上に表示されている奴こそがはてなブックマークの黒幕なのである。
我が株式会社はてな社の道具を私利私欲の為に利用するはてな売国奴なのである。


そう。
全部id:naoyaが仕組んだアクセス\(^O^)/アップ☆大作戦だったのである。
奴を殺せ!今すぐ首にしろ!
はてな売国奴に死を!
はてなには栄光を!
はてな万歳!
はてな万歳!
はてな万歳!


「ブログの持ち主には見えない公開コメント」という夢のテクノロジー



ブロガーに求められるもの。
それは、エントリーだ。


そうではないかもしれない。
確かに、そうではないかもしれない。

しかし、僕がブロガーに求めるのはエントリーだ。
祇園精舎のエントリーだ。
とにかくエントリーだ。
エントリーをよこせ。



ところが、僕が毎日10度は訪れるブログはどこもかしこも、滅多とエントリーが来ない。

仕事が忙しいだとか、恋がしたいだとか、ゲームしてただとか、お勉強をしていただとか、エントリーをしばらく書かなかった理由のエントリーが途切れ途切れにぎこちなく、エントリーされる。

ふざけるな。
仕事なんてやめちまえ。恋なんてしようと思うな。ゲームなんて投げ捨てろ。女は勉強なんかするんじゃねえ。書くんだ。書け。エントリーをよこせ。







いや、まあ、確かに。
ブロガーってのは大変なものだ。
いろいろとものすごく苦労する。




たとえば、僕の場合で言うとである。
「2ちゃんねるでDOTA allsatarsやるので一緒にやりましょう!」
とか脳天気なメールが来るわけである。
いや、それだけならまだしもよい。むつまじくだ。

「勝率高すぎて怪しいです(2ちゃんねる風顔文字)」
とか書いているわけで、温厚なわたしもさすがに切れてというか生まれて初めて激昂し、「このメールに返信する」を押した次の瞬間には「死ね」と一行目に書き入れて返信ボタンを押した次の瞬間には削除したりといったような、予想外の労力精神的疲労困憊を強いられてしまうわけである。
まったく、ブロガーってのは大変なものだ。
まったくもって尊敬するぜ。
まったく、まあ、もって、結局の所、まったく、しかし、だ。



まあ、僕の場合はA8ネットとAmazonアソシエイトとグーグルアドセンスとカリビアンドットコムで稼ぎまくるというその一念があるからこそなんとか更新のモチベーションを保てているわけであるが、世の中にはA8ネットもアマゾンアソシエイトも貼っていない、まるで神のような、いや平成の大御神と呼んでも差し支えがないくらいのブログ時評の団藤保晴に代表されるような世界中の尊敬と畏敬とその他色々とを一身に集めているようなブロガーもいるわけである。
まったくもって尊敬するぜ。
奴はすげえ!すげえぜ!
いろいろと。



結局の所、世間がブロガーに何を求めているのかを僕が知る術は無い。
僕は世間とはかなりかけ離れているし、自らを世間であると定義する傲慢さも持ち合わせていない。ただ、僕がブロガーに求めるものはエントリーだ。それだけである。
他の何もかもは必要ない。

いくつかのブログを執拗にストっているのはエントリーを読みたいからだし、更新される頃合いになると2分に一度はF5しているのもエントリーが読みたいからだ。エントリーさえ書いてくれれば内容なんてどうでもいいんだ。くだらなくてもつまらなくても矛盾だらけでも腐っていてもムカついてもたった2行ぽっちでもだ。惚れた弱みだ。関係無いだ。



なのに、なのにである。
僕が執拗にストっているブロガーは往々にしてブログを止める。
少し間が開き開いて減らしてやがて、ブログを辞めるに至ってしまう。
ある日突然404だ。ブログサービスのポータルへ見るも無惨に転送される。



そうでない場合もある。
更新終了のお知らせがある場合もある。

「忙しくてちゃんと書く暇が無いので」
って違う違う。ちゃんと書かなくてもいいのに。適当でいいのに。そんな。





いや、まあ、辞めた理由が「忙しいから」ならまだ我慢が出来る。
お幸せに、くらいで見送るよ。
突然いなくなったとしても、そんなのこっちは慣れっこだ。

けれども、理由によっちゃあ、我慢がならねえ。
「コメント対応にくたびれて」なんてのはその頂点だ。
まったく、プログラマーには優しさが足りない。
血も涙もない。人間じゃねえ。少しは体を労れよ。



作られるべきなのは、優しいインターネットだ。
繋がりなんてまっぴらごめんだ。孤独は誰も傷つけない。
必要なのは、ブロガーを消耗させないレスポンス欄だ。
ブログの持ち主は読めないレスポンスだ。

どこでどうだか丸見えの、消耗させて404なインターネットは公開すぎる。
消耗してやがてはブログを止めるに至ってしまう。



けれども、気になる点がある。
「ブログの持ち主は読めないレスポンス」
ってのは本当に実現可能なのかどうなのかって事だ。

実現不可能だとすると、そんな事言ったところでそれは電波だ。
ただの頭のおかしいエントリーだ。
それはいけない。
電波は駄目だ。
そう思って、この投稿をずっと封印したままでいた。




ところが、である。
「ブログの持ち主は読めないレスポンス」
ってものが既にこの世の中には存在していた事に気がついた。

それは、mixiだ。
mixiからアクセスがあると、mixiで誰かがレスポンスをつけたんだって事がわかる。

けれども、である。
ブログの持ち主はそれを読むことは出来ない。



完璧だ!
これぞまさしく、全世界全人類全世界平和全ブロガーが待ちわびていたものだ。
ブログの持ち主には見えない公開コメントの完成形だ。


「コメント欄は管理が大変だから付けたくないけどそれはどうも……」
そういう人たちは、今すぐmixiにコメント欄を移転させるべきだ。

適当にヤフオクででもmixiの招待メールを落札して、「○×△ブログ用コメント欄」というコミニティを作ってmixiを脱退するんだ!



そしたらもう、完璧だ。
「コメントはこちらで」とか書いて、mixiにリンクを張っておけばよい。
盛り上がったら盛り上がったでアクセスが増えるだろうし、寂れたら寂れたでアクセスが減って途切れる。伝わるのはコメントからのアクセスの数だけで、内容に気を咎め消耗したりはしない。




凄い。
mixi天才。
っていうか、僕が天才。
物凄く天才。
ナツリャルb-オン。



正直、mixiからのアクセスが一番嬉しい。
だって、見られないから「クリックしたら負けだ」とか悩む必要無いし。見たら負けだとかそんなのなくて、アクセスがあっただけで有る意味勝ちだし。

mixiの内部がどんなものなのか知らないけれど、風の噂に聞くところによると「どうでもいい事をどうでもよく書く」インターネットらしい。そこからアクセスがあったという事は、どうでもいいような所にでも書きたいくらいに、僕のブログが何者かの日常に組み込まれてるってのを証明するというかプラス思考に伝わってくるインターネットなわけじゃん。それって最高。マジ最高。mixi最高。mixi万歳。


2005年5月27日金曜日

一番の犠牲者



核爆弾に綺麗な核爆弾と汚い核爆弾が存在するのと同じように、
戦争にだって綺麗な戦争と汚い戦争が存在する。


綺麗なのがよくて、汚いのが悪いと言う人もいれば、
汚いのがよくて、綺麗なのが悪いと言う人もいる。
どちらにしろ、戦争は戦争である。
一番の犠牲者はいつだって市民だ。

戦争は良くない。
犠牲者を生む。
誰かが悲しむ。
必要なのは圧倒的な平和だ。
誰もが広く成り立つ世界だ。
けれども、そんな時代はもう来ない。



そう!しかし!
戦争を誰よりも望むのもまた市民だ。
日常は退屈で、刺激が足りない。
そこで戦争だ。
血みどろの激戦だ。
戦力均衡行き着く先は泥沼だ。
誰が死のうと知ったこっちゃない。
死ねば死ぬほど面白い。




本物の市民は戦争なんて望んじゃいない。
本物の市民が望んでいるのは、安らぎであり充足であり、平和だ。
戦争を喜ぶのはいつだって無責任なくだらない若者だらだ。


もはや市民ではない。
だから戦争を望む。
誰が死のうと知っちゃこった無い。





始まれ!戦争。
綺麗な戦争。


2005年5月26日木曜日

繋がった。



表示バグだったと思うのだけれど、あまり自信無し。


というか新しい収益モデルというかなんか打ち出すとかして欲しいです・・・。sonetblogが重いとかcocologが重いとか言うのとはいろんな意味で違うんで大変。




いや、そうじゃなくて、なんでこの投稿にコメントが・・・って、いや、それは知ってるけど、なんでこの投稿(187686)を読める人と読めない管理人が存在するんだろう。




昨日繋がらないとか言ってた人を発見して遊んだのがいけなかったのか、いつものやつが来て繋がらなくなった。ところが、10分ほど前にコメントがついてたりする。15KB未満に抑えるようにしてるんだけど微妙だな。
非生産的日常が終了した後の非生産的な時間。


Fatal error: Maximum execution time of 30 seconds exceeded in /home/www/bblog/lib/convert_html.php on line 61
これとか
95Error: DB Error: connect failed
これとか


エラーの見本市状態。
なんでこの状況下で下の投稿には新規のコメントがついているんだろう。


エントリーを読むのか、それともブログを読むのか。



「たかがブログを読んだくらいで何もかもを知ったつもりか」
前にそう書いた事があったのを思い出した。







誰一人としてブログを読んでいないという事に対する、不満のような凄い不安が常日頃からずっとあって、エントリーとエントリーがトラックバックに交錯し続けるだけのインターネットに、身の丈不足を感じていた。


ウェブサイトを読む人はいても、インターネットを読む人はいない。
エントリーを読む人はいても、ブログを読む人は滅多といない。

何故ならば、膨大すぎるからである。
数百のエントリーとそれに貼られたリンクと無数のコメント、さらにエントリーの数倍の量のトラックバック。インターネットに比べるとブログは随分と小規模だけれど、それでも易々と読めるような規模ではない。

読まれるのは常にエントリーだ。
ブログは置いてけぼりだ。




エントリーが読まれるというのも、それはそれで良いことだ。
誰が書いたかとかそういうの抜きで、文章だけが読まれるってのも重要な事だ。




けれども「何が書かれているか」の他にも、重要な情報はあると思う。
「誰が」、「なぜ」、「なんのために」。

僕はガ島通信に興味を持った。
誰が、なぜ、なんのために書いたのか読み取ろうとした。

エントリーだけを読んで、誰がなぜなんのために書いたのかを判断するのは物凄く危険だ。
だから、僕はガ島通信というブログを読む事にした。






始めてガ島通信を目にしたのは昨年の11月頃だったと思う。
とりあえず過去ログをmoreはクリックせずに一通り読んで、
「えらくライブドアーな人だな」と面白く読み、立ち去った。


今年の3月頃に再び訪れて、過去ログをmoreはクリックせずに一通り読んで、
「なんかつまらなくなってるな」と思って、立ち去った。


あとはほぼ書いた通りである。

「不正な正しさ」をガ島通信にトラックバックをしたら、返しトラックバックが来た。
それにちょっと驚いた勢いでガ島通信と日経BPの過去ログをmoreをクリックして一通り読み、「藤代裕之はガ島通信を殺すのか?」を書いた。



あとはほぼ書いた通りである。

藤代裕之はガ島通信を殺すのか?を書いて、その反応が返ってきてから、自分がエントリーしか読んでおらず、エントリーについてしか書いてなかった事を反省、というか後悔、というか、「なんか違うなー」。



エントリーだけじゃなくて、ブログ丸ごと読むことにした。
ホームページダウンロードソフトでハードディスクがぎりぎりなるまでガ島通信とその周辺を丸ごと全部取り込んで、テキストエディタとグーグルデスクトップとタグブラウザを総動員して夜から晩まで読み続けた


ガ島通信に関する事は全部読んだと思う。
重要だと思った周辺系ブログはガ島通信に関係の無い文章まで全部読んだし、ウェブ上にある「ガ島通信」という文字列は洗いざらいに何度も何度も読み返した。



たかがブログを読んだくらいで何もかも分かった気になったわけではない。
けれども、とりあえずはブログを読んだのである。







最初に書き上げた投稿は、全然違うものだった。

「ブログ投稿を書く」
というのがガ島通信を読み始めた一つの理由だったわけで、その目的を達成しただけの投稿だった。「今時の若者が社に忠誠心を抱けなくなったのはどうしてか」みたいな事を強めのテンションで飛ばしまくって書いた。



けれども、ブロックブログのIEに貼り付けた所でその文章が、
「ガ島通信のエントリーを全部読んだ感想」でしか無い事に気がついた。
僕が書こうと思ったのは「ブログを読んだ感想」だ。


それをShift+Deleteして、ちゃんと全部読もうと思い、上で書いたように全部読んだ。
たかがブログを読んだくらいで何もかも分かった気になったわけではない。
けれども、とりあえずはブログを読んだのである。




ガ島通信にある数字を全部書き取った上で、言葉と名前についても片っ端からGrepして出てきた数字を書き取ったりと、ちょうどDOTAやDOTA allsatarsにしたような無駄なデータをとり続けた。

それらを行ってから最初に書いたのが、
「藤代裕之への100の質問と100の模範解答と100の回答予測」
だった。




どうも違うな、と思った。
僕が書こうとしていたは、問題点や矛盾点の指摘では無かったはずだ。
それは、「エントリーを全て読んだ上での全エントリーの突き付け」でしか無かったので、駄目だ駄目だと思い直して書くのを止めて、はっきりするまでまた読み続けた。




次に書いたのは、藤代裕之とそれを取り巻く幾人かの「不誠実さ」を責める文章だ。
けれども、これもどうも違うな、と思った。

人はそれぞれモラルやルールが違うわけで、そのモラルやルールのレベルが僕の考えるものとかけ離れている事を指摘したところで、なんの意味も無い。「人それぞれ」で終わる。
それ以前に、不誠実な人間に不誠実だと言うことは、トマトに「お前はトマトだ!」と言うくらいに意味が無い。のれんに首だ。
それに、少なくともこの投稿に関しては、道徳を書く気は無かった。




それからしっかりと何を書きたいのかを理解して、文章構成から組み立てた。
これは3で書いて、これは5で書いて、段取りを立て終えてから書き始めた。

けれども、どうもうまくいかなかった。
引用、問題点、分析、指摘。
引用、問題点、分析、指摘。
引用、問題点、分析、指摘。
引用、問題点、分析、指摘。
と、バイトサイズだけが増えるばかりでどうにもならず、書くのを止めた。







「これ結局は書けないで終わるんじゃないか」
と、かなり落ち込んで、宛もなくガ島通信を読み続けた。なんか他にいくつかやりたい事があるのに、物凄く時間を無駄にしてるような気になって猛烈に落ち込んだ。

そこで、ガ島通信が突然復活した。
物凄い方向へ転じてきてびっくりした。



「書き遅れたかな」
みたいな雰囲気になって、とりあえずなんとか書こうとした。
それで、段取りや数字といったデータを全部捨てて、勢いだけで書くことにした。





しばらく何も見ずにどんな感じで書くかを考えてから、勢いだけで書いた。
引用を持ってくる箇所には記号を打って放置して、とにかく勢いで書いた。

それが、あれである。今読み比べると物凄く色々と不満があったりするけれど、まあこんなものかなといった感じだ。こんなものだろう。
えらく丸くなったもんだと自分では思う。それか、老いたか。




エントリーを読む人ばかりのインターネットで、ちゃんとブログを読んでわかったのは、ブログを読んで何かを書こうだなんて、絶対に思わない方がいいって事だ。
いくらなんでもしんどすぎる。
とりあえず、もうガ島通信はもう見るのもごめんだ。
ガ島通信の付近も嫌ってほど周回したのでそれらも全部お断りだ。
あー、なんか疲れた。
無駄に疲れた。
物凄く無駄に疲れた。
もー二度とこんなのごめんだ。
頭がガ島通信になってしまって吐き気がする。
まだ色々と残っているんだけれどもう考えたくもねえ。


やっぱり、エントリーを読んでエントリーを書くくらいが自然だと思う。
ブログを読んでエントリーを書くってのは見合わない釣り合わない食べられない。



「文章が読まれる」
ってのもしんどいけれど、
「文章の外まで読まれる」
ってのはもっとしんどい。くだらない。


「読みたいものを読みたいように読む」
それが自然だって事だ。






少し眠って目覚めてすぐに、ずっとほったらかしにして絶っていた、E3を片っ端から全部読んで、その品質と僕自身との適合性に物凄く満足した。メディア論とか全然興味無いし。

ブログ書いたりメール書いたりzipのゲームを解凍してすぐにShiftDeleteし続けるといった至って普通で平凡な日常へと舞い戻ろうと思う。
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なんらかのかかわりがある投稿。

ブログ読者はブログを読んでいないという事実/4月5日
凄いエントリー/4月18日
藤代裕之はガ島通信を殺すのか?/5月3日
荒れるブログの作り方/5月5日
終わったものと終わった人と、終わったと主張する人達と/5月6日


2005年5月25日水曜日

藤代裕之~裸の駄々っ子(1)






藤代 裕之@ガ島通信


元地方紙記者。1973年生まれ。血液型B型。大学卒業後の1996年に新聞社入社。司法・警察担当、支局、地方部、文化部を経験。2005年3月末退社。新聞社では、事件事故、漁業補償交渉や合併・地方自治などを取材する一方、中高生向け紙面のリニューアルを担当し、「紙」媒体の価値と限界を認識。2004年9月にブログ「ガ島通信」をスタートする。既存メディアの問題点と意識改革、新しいメディアと参加型ジャーナリズムについて議論している。現在、1日に2万ページビューを超えるアクセスがある。






ある出来事をきっかけに、藤代裕之が作り上げたガ島通信という世界に対し、強い興味を抱くようになった。まずはそれを書く事から始める。





僕は以前、「藤代裕之はガ島通信を殺すのか?」というエントリーを書いた。そのエントリーで僕が行ったのはいくつかの矛盾点の指摘である。


彼はそのエントリーをブログで取り上げた。
投げかけ問題点に対する回答のようなものも、一応は書かれていた。添えられていた、といった方が適切かもしれない。何に添えられていたのかは後術する。




「参考になりました。TBありがとうございます。」
「私の文章力不足です」
「新聞には、まだまだいいところはあり、ネットも良いところも悪いところもある。物事は複雑で、意見は多様であるというのは、何度も書いてきていますし、変わらないスタンスだと考えています。」


これが、彼の答え。



礼。
原因。
そして最後の、、、新聞のいいところ?複雑?多様?


強烈な違和感を覚えた。
そして僕はガ島通信をもう一度最初から読み直した。
そこには、新聞のいいところは一度として書かれていなかった。


書かれている事は常にシンプル。
「物事は複雑」「意見は多様」とは程遠い攻撃的で断定的な文章。


ネットは新聞を殺す英雄として描かれており、新聞と既存のマスコミは「マスゴミ」と記述され、マスコミ関係者は悪を支える構成員として描かれていた。その中でも全国紙に対する非難は強烈で、新聞社は悪の帝国として、そこで働く記者は悪魔に魂を売った「社畜」として描かれていた。


「新聞には、まだまだいいところはあり」・・・どこ?
「何度も書いてきていますし」・・・何を?




僕は、藤代裕之がブログ上で真性引き篭もりの投稿にレスポンスを出したのは、僕に対する回答以外の目的があったのでは無いかと疑うようになった。




また、クレジット問題にかこつけて、日経BPのコメント欄に、真性引き篭もり氏の「藤代裕之はガ島通信を殺すのか」の記述を引用されていますが、真性引き篭もり氏のブログを見たら「事後報告」となっているようです。ブログは基本的に引用自由な場合が多いですが、やはり事前報告のほうがよろしいのではないでしょうか(引き篭もり氏と鮫島氏の当事者間の問題であり、ここでの記述は私の個人的な「感想」です)。



藤代裕之が彼が書きたかった文章はこれだ。



「事後報告で引用した」というウェブ上のルールからすれば過剰マナーとも言える行為を感想と言い訳しながら問題視して人格批判の材料とし、攻撃する為の道具として用いている。




いくらかの人達から肯定的に捉えられていたガ島通信というブログで、指摘された問題点に対しては一切触れずにそれら指摘の原因は「誤読にある」とし、都合のいい部分、というか部分ですら無い文章外の事象を自らを支える道具として利用する投稿が成されているという光景に、我が目を疑った。
まことに驚いた。



そうして、数度読み通しただけではいくらかの矛盾点と問題点に起因する違和感が残るだけであった藤代裕之という人間が作り上げたガ島通信という世界に強い興味を持ち、もう少し何か書いてみようと思うに至り、僕はガ島通信という巨大な世界を読み始めた。




「間違いの指摘」を認めないのが既存メディアの最低のところです。
よろしければ、これまでの私のエントリーをお読みください






ガ島通信は成功したと言えるのだろうか。
正直、よくわからない。


確かなのは、開設数ヶ月で1日2万PVを集めるブログに成長したという事だ。彼は何度かアクセス数に対する文章を書いており、そこではアクセス数が減ると落ち込むだとか、アクセスがあって嬉しいだといったような事が書かれている。




ガ島通信は成功したのだと僕は考える。
彼が望んだアクセス数というパラメータを開設数ヶ月で1日2万にまで成長させることに成功した、という点で。





瞬く間に2万PVを集めるようになったのにはいくつかの理由がある。まず第一に、ガ島通信がウェブの隙間にぴったりとハマり、読者の欲求を綺麗に満たしたという事が大きい。
ガ島通信は「記者が書く普通のブログ」というニッチを埋めたのである。




ガ島通信の開設以前から、記者ブログは多数存在していた。
けれどもそれらの記者ブログは他者や、読者、あるいは一般ブロガーと一定の距離を置き、積極的にブログをウェブ上に展開する事をしなかったし、朝日新聞や共同通信の記者ブログを巡る騒動に象徴されるような、一般ブロガーとは遠い存在であり続けた。




ガ島通信以前の記者ブログというのは、「社長ブログ」とか「AV女優ブログ」、あるいは「企業ブログ」といったような少し離れた特殊なジャンルだったのである。
そこへ登場したのが地方紙記者が書く普通のブログ、ガ島通信である。


ガ島通信は読者の側へとにじり寄り、というよりは猛スピードで駆け寄った。トラックバックを手当たり次第に撃ちまくり、各地でコメントをつけた。寄せられるトラックバックには全て返しトラックバックを撃ち、コメントで返礼する。それどころか、ほうぼうのブロガーへとメールを書きまくり、それらブロガーと親密な関係になる事に成功した。




彼に触れられたブロガーは彼に対して一定の好意的態度を取った。
各地のブログのエントリーに「ガ島通信」という文字が登場する度にガ島通信読者のブロガーは増えた。「新聞記者」という特殊な職業の人間による「普通のブログ」という希少性で一定数の読者を持つブロガーをねずみ算式に取り込み続けた結果、ガ島通信は2万PVを集めるブログへと短期間で成長したのである。




確かに、私自身も多くの読者や取材先を傷つけ、会社の方針にさからえず、マスコミ内にはびこるステレオタイプのレッテルはりに加担してきました。






また、忘れてはならないのはトラックバックセンター化である。


ガ島通信は世間の関心を集めた時事ネタを追い掛け取り上げ続けた。
球界再編、ライブドアと楽天参入、それに対する読売の対応。
NHKvs朝日では両者を批判し、中越震災ではメディアをマスゴミと呼び非難した。
フジサンケイ買収騒動ではライブドアを強く支持してフジテレビを含む既存のメディアを攻撃し、NHKの裏金問題では海老沢勝二を強く非難した。


藤代裕之はそれらの投稿を行う度に、大量のトラックバックを撃った。
撃ちまくったと言い換えられるほどである。それらトラックバックを撃たれた人間はやがてガ島通信を時事ネタに関する投稿を書くきっかけとし、トラックバックセンターとして利用した。


そして、藤代裕之は寄せられたトラックバック全てへトラックバックを撃ち返すことで他ブログとの繋がりをより強固なものとした。トラックバック数は増加の一途を辿った。




時事ネタに関する速報性のある投稿と、大量のトラックバックによる集客。
それらが生み出したトラックバックセンター化によって生まれた露出。
ブログ以前では考えられなかった積極的なアクセス数への取り組みが功を奏し、ガ島通信は巨大化の一途を辿ったのである。




バンドブームを経験しただけに「渋谷系」の登場は衝撃でした。田舎者の私は「これが都会というものか…」とそのおしゃれ感と音楽的洗練さに圧倒されました。ちなみに、見出しの「アニエスのシャツにはいつもホワイトリーバイス、とか。」にも「そうそう」とうなずきまくり。R-25にやられちゃっているようです。大学生のときに私の住んでいた街にもアニエスができて、開店の日にすごく並んでいましたことや、トレンディドラマ「予備校ブギ(織田裕二が若い!)」、さらには解散してソロ活動をし始めたばかりのコーネリアスのトークに抽選で当ったのに寝坊したこと(涙)、ラブリーすぎるオザケンのコンサートで「なんだ男もいるじゃ~ん」と指を指された(前から3列目でまわり女性ばかりだったから、多分私。いや私に違いない!)ことなどを思い出したのでした。っていうか昔を振り返るようじゃあもうオシマイですかね?






藤代裕之@ガ島通信
・大学卒業後地方紙に入社。
・警察・司法担当→支局→地方部遊軍→文化部を経て、2005年退社。
・労連のイベントに足繁く通っていた。
・社内では浮き、孤立していた。
・公務員の家庭に生まれる。
・現在32歳。
・独身。
・親元に同居。
・バンドブームを経験した。
・ある意味「私が神だ?!」(笑)ぐらい思っている。




頭が悪いので少しずつしか書けません。ゴメンナサイ。






2へ/1~5全部


藤代裕之~裸の駄々っ子(2)






私は昨日から「差別主義者」になりました。






ガ島通信は2万PVを集めていた。
しかし、それだけではない。


ガ島通信は強烈な支持を集めていた。彼が新聞社を辞めると宣言した投稿には53のトラックバックと73のコメントが寄せられた。その多くは熱烈な支持者からのものだった。


その「熱烈な支持」の正体とは何なのだろうかと、ガ島通信を取り上げたブログを巡り、ガ島通信を何故支持するのかという事について書かれた文章を集めてみた。
それらを大きく分けると支持の対象は次の3つだという事がわかった。


「誠実」
「良心」
「知名度」
この3点だった。
ガ島通信が支持された理由は、この3点だった。




先日はトラックバック返していただいて有難うございました。


           ガ島通信コメント欄より





・誠実(真面目)


彼を表する声の中で最も多いのが「ガ島通信さんは誠実だ」というものである。
その「誠実さ」というものが何を指しているのか、なかなか見えてこない。
真面目(誠実)という評価を下しているブログを読み続けた末に読み取れたのは、
「一貫したマスコミ批判」と、
「トラックバック返しに象徴される関連ブログへの対応」
の2点が真面目(誠実)だという根拠になっているという事である。




長く日本を覆ったマスコミ不信の影響により、世俗的なマスコミ批判というものを世間は待ちわびていた。マスコミを否定し、罵倒し、こき下ろす。そういう"有名なブログ"の登場を、多くのインターネッターが待ちわびていた。


既存のマスコミ批判は回りくどい。
論理的すぎる。


そこに来て、ガ島通信はわかりやすかった。


世間を賑わす時事ネタが出る度にそれに応じた徹底した「>マスゴミ」批判がガ島通信で行われるのを見て、「またやってくれた!」「我らのガ島通信は今日も真面目にマスゴミ批判!」と、彼を真面目であると評価した。
ガ島通信の投稿はほぼ毎日行われ、その全てで「マスゴミ」「全国紙の記者は馬鹿」と、インターネットと最も相性のいい、罵詈雑言が繰り返され続けた。


それを世間は、「一貫した批判の継続性」という誠実さだと受け取ったのである。





そしてもう1つ。
彼は来たトラックバックの全てにトラックバック返しを行い続けた。
今時の普通のブロガーの常識的規範からすると、ありえない行動である。


しかし、彼はそれをやり続けた。
2万PVを稼ぐようになってからも、来るトラックバック、来るトラックバックの全てへ返しトラックバックを撃ち続けた。それは、あたかもmixiの足跡機能のような
「著名ブロガー藤代裕之が貴方のブログを読みました!」という宣言である。


それを行い続けた結果、2万PVに及ばない中小ブロガー達はその足跡を「誠実さ」の現れであるとし、彼らはガ島通信に心酔し、真面目だ、誠実だと崇めるようになった。


・インターネットと相性の良い罵詈雑言による一貫した批判の継続性。
・トラックバック返しによるmixi的足跡コミニケーションの徹底。


この2点が、ガ島通信「誠実さ」「真面目さ」の正体である。




私が非常に憂慮しているのは、浜村さんや共同通信のブログメンバーのような現状に疑問を抱き、ブログという新しいメディアに挑戦している人ですら、このマスゴミ病にかかっていること。そして自覚症状がないということです。






・良心


ガ島通信が支持されたのは真面目だからというだけではない。
「ガ島通信さんには良心がある」。彼の支持者達が口を揃えて言う台詞である。





「藤代裕之に本当に良心があったのか?」
という問題についてはここでは触れない。
支持者達が言う、"ガ島通信さんの良心"とは何か?についてだけ、書く。







支持者が指した「良心」の正体。
それは、「既得権益への反抗」であった。


「天下りを受けられる立場にある官僚による天下り批判。」
それは、「良心」であると評価されるだろう。


「介護認定の査証で高禄を食んでいる人による内部告発。」
それは、「良心」であると評価されるだろう。


「捜査費の不正受給を受けられる立場にある人間が県警を告発。」
それは、「良心」であると評価されるだろう。


ガ島通信は我が国を覆う複雑に絡み合った既得権益というものに対して蓄積された市民の不満を背景に「既得権益への反抗」という非常に解りやすい言論により、「良心」、「善良さ」という評価を得た。


藤代裕之が得ていた既得権益とは、言うまでもなく「新聞社からの給料」である。
新聞社から給金を貰い続けながらも、新聞社を「マスゴミ」「職場は腐っています」「全国紙の記者ほど不勉強です」と徹底的に攻撃し続けた彼の言葉は「既得権益への反抗」「内部告発」と受け取られるに十分な罵倒であった。





そして、重要な事。


彼の良心を評価する人のほとんどは「危なっかしい所もあったけどその良心は素晴らしい」という評価をガ島通信に対して下している。


藤代裕之の良心支持者達は、
文章に良心があるとは評していない。
言論に良心があるとは評していない。
態度に良心があるとは評していない。


文章に良心は無い。
言論に良心は無い。
態度にも良心は無い。
評価されたのは、「既得権益への反抗」という振る舞いである。




つまり、ガ島通信の良心が成立するには既得権益というものが必須条件だったのである。「地方紙記者」という立場によって「良心」が成立していたのである。




「馬鹿マスゴミは」
「エビジョンイルのNHKには金を払いません」
「ライブドアを批判するのはモテない男の嫉妬のようなもの」
といった暴力的な放言の全てが、地方新聞社という既得権益によって「良心」へと変換され、人々を魅了し続けて来たのである。


良心であると評価されていたものの正体。
それは、既得権益である。




例えば、「ライブドアなどは本当のジャーナリズムではない!」などと考えているジャーナリズムを特別視する頭でっかちの人たちも多い。本の中には、「これはカジノだ。ロイターがカジノを経営するのか!」とロイターが「市場」を持つことに編集部門の幹部が反対して叫ぶシーンが紹介されています。






・そして。
ガ島通信への熱烈な支持の最も重要な実態。




それは、彼らが支持したガ島通信は藤代裕之では無かったという点である。
彼は、エントリーを書く毎にトラックバックを手当たり次第に撃ちまくった。有名なブログへ、無名なブログへ、有名なブログへ、有名なブログへとトラックバックを撃ちまくった。撃って撃って撃ちまくった。


彼らはトラックバックを撃たれた事によりガ島通信を認識し、ガ島通信周辺系という領域へと組み込まれた。R30やあざらしサラダ、木村剛といった人間がガ島通信を肯定的に取り上げた。それを見て、人々はガ島通信をR30や木村剛と比し得るブログであると評価したのである。


ガ島通信の支持者達が「支持」していたものは、「ガ島通信周辺系コミニティ」だったのである。
R30、高田昌幸、木村剛、大西宏、湯川鶴章、あざらしサラダ。これら、ガ島通信周辺海域へのショートカットとしてのガ島通信が支持されていたのである。


つまりは、お墨付きである。


R30が読んでいる。
R30が記事にした。


木村剛が読んでいる。
木村剛が記事にした。


高田昌幸が読んでいる。
高田昌幸が記事にした。


「ガ島通信・・・?よし、じゃあ俺も読もう」
と、お気に入りへ放り込み、ガ島通信の2万PVを支える支持者となったのである。




ここで、最も重要なこと。
彼らR30と木村剛に代表されるブロガーらが取り上げたのはガ島通信の文章ではない。
彼らが文章にしたのは、藤代裕之という人間とのコミニケーションである。


ガ島通信がどのような言論を続けてきたかという事に対して、まったくの興味を持っていないし、問題点を見つけたとしてもそれを指摘したり触れたりはせず「頑張ってね」と言うだけである。


彼らと藤代裕之の関係を支えていたものは、ブログではない。言論ではない。
藤代裕之が撃ちまくったトラックバック。
藤代裕之が書き込み続けたコメント。
藤代裕之が撃ちまくったメール。
コミニケーションである。




トラックバック、コメント、メールという流れの延長線上でガ島通信の投稿を取り上げたエントリーを行ったのである。「ガ島通信」がトラックバック乱発により人を集め、継続したマスゴミ罵倒というインターネッターが最も求める話題の1つであるネタを提供し、50ものトラックバックを恒例的に集める巨大ブログとなってからは、「ガ島通信」という話題は取り上げるに魅力的な題材となった事も手伝った。


そうして、ブログ好きのブロガーは「トラックバック来てるし、書いておくか」と、エントリーコミニケーションを行い、さらなるガ島通信幻想の拡大を手助けしたのである。




うどん屋がうどんを責めず、ボーリング屋がボーリングを責めないように、ブロガーはブログを責めないし、コミニティの一員はコミニティのメンバーを攻撃しない。
ガ島通信が躓かなかったのは、「都合のいい時だけ取り上げ、都合の悪い時は見て見ぬふりをする」とうコミニケーションの基本的なルールによってであった。


ガ島通信には度々問題点を指摘するコメントやトラックバックが来たが、藤代裕之はそれらを「建設的でないコメント」と切り捨てて相手にせず、友達ブロガーのコメントに対しては丁寧にレスポンスをつけ続けた。


鍋奉行藤代裕之はコミニティを防壁化させ、批判から耳を塞ぎ続けたのである。




ああ、また明日すごくページビューが下がってガッカリするんだろうな…






もう1つ。
ガ島通信が支持を受けた背景。




それは言うまでもなく、インターネットを覆い尽くしているマスコミ不信である。
松本サリン事件を出すまでもなく、現代の日本においてマスコミの信頼というのは地に落ちており、マスコミへの批判はどのような形であれ絶対是として受け取られる下地がある。


その下地に、「新聞側からの内応者」とう形で颯爽と読者の側へと舞い降りたのが藤代裕之である。マスコミを「マスゴミ」と呼び、渡邊恒夫を「ナベツネ」と呼び、NHK会長を「エビジョンイル」と呼び捨て、既存メディアを罵倒し続けるガ島通信は、メディアに批判的な眼差しを向けるネッターにとって、もっと都合のいいパズルの1ピースであった。


「著名ブロガーお墨付きの有名ブログ」と
「マスコミ批判という絶対是」が組み合わさり、
誰もがガ島通信を支持し見守るようになったのである。




このところ難しい話題が続いて、V30を積んだ脳がとろけ始めましたので、コーヒータイム。






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藤代裕之~裸の駄々っ子(3)






新聞社でネット事業に関わる有志が集まる会合に出席しました。
実は、この会合への参加を事前に社内の若手が加入するMLに呼びかけていたのですが、
反応ナシ。これは悲しかった… 危機感ないのかな~? 逆に心配になってしまいます。






「彼は寂しかったのだ。」
そういう結論から入るのはあまりにも安すぎる。


けれども、188投稿とそれに付随する無数のトラックバックへの対応、そして特定の人物のみに向けて丁寧にレスをし続けるその姿、また幾人かの重要なブロガーに対してメールを送り続ける彼を見てしまうと、他の入り方が思い浮かばなくなってしまった。




ガ島通信とは、藤代裕之の孤独が生んだ狂気の記録である。


しかし、彼が寂しかったという認識を持っているのはインターネット広しと言えどもそう多くはないだろう。リアルタイムの時事ネタとそれを彩るトラックバックにより、藤代裕之の実像はかき消されてしまっているからである。そのかき消されてしまった藤代裕之とは何だったのかを、書こうと思う。




彼の寂しさ、それはいくつものエピソードから見取る事が出切る。
確かに、一般的に言えば彼は寂しくは無い人間であると分類されるだろう。


誕生日パーティーを丸投げ可能な同僚がいて、同居する家族がいて、同窓生や後輩といった活字も度々登場する。年末年始に一人でカナダへスキーに行った、という事を取り出して「彼は寂しかった」などとやるつもりはない。
一般的に言うならば、彼は寂しくなかったのである。


しかし、彼は孤独であった。
彼の感情を理解してくれる人間が彼の周囲にはいなかったのである。




彼には十二分な程の人付き合いがあった。
しかし、彼の心を理解し彼を受け入れてくれる人は1人としていなかったのである。




どうして、彼は理解されなかったのか。
なぜ彼は職場の人達に受け入れられなかったのか。
それは、彼が愛社精神の無く、落ちこぼれである無能な労働者であり、新聞に敵愾心を抱いていたからである。彼は自分の人生を狂わせた新聞を怨んでいたのだ。




藤代裕之は自分の人生に希望を抱いていたのだと思う。
しかし、その希望はいくつかの要因によって打ち砕かれた。


まず、彼が希望していた進学先。
それは学力不足によって打ち砕かれた。


そして、彼がなりたかった職業。
それも頭の悪さによって打ち砕かれた。


そうして辿り着いた先。
それが、地方紙の記者という職業である。




そこにあるはずであったばら色の人生は存在しなかった。
いや、そんなものは始めから無かったのだ。


彼はあらゆる努力を怠り「大学」に辿り着き、
あらゆる妥協の末に「地方紙」に入社した。


そして、妥協と失意の末に辿り着いた職場で、自分の人生への直視できない失望を抱えながら9年間の労働で、「>会社で不良債権化」し、「>社内で浮き、孤立」しやがては「>単純にやりたくないのです。」という結論へと辿り着いた。


彼は自分の人生がうまく行かなかった事を自分自身の責任であると認めず、その責任を求める事の出来る存在を探し「>マスゴミ」という敵を見つけ、「>マスゴミ」で働きながらも、それを言葉に出来ないままで怨み続けた。




孤独なのは自分のせいじゃない。
仕事が出来ないのは自分のせいじゃない。
職場で孤立しているのは自分のせいじゃない。
将来の展望が上手く描けないのは自分のせいじゃない。


マスゴミのせいだ。
新聞のせいだ。





そして、彼はその責任転嫁を言葉にする方法を発見した。
青木日照 湯川鶴章 共著、「ネットは新聞を殺すのか」である。




ガ島通信の「1996年から地方紙で記者をやってます。」という文章で始まった初投稿には、湯川鶴章のブログを見てブロガーになったと書かれている。


そして、ガ島通信の1つの終わり。休止宣言の1つ前。
そこには、「ネットは新聞を殺すのか」の書評がある。
その書評は、次のような文章で結ばれている。


>湯川さんの気持ちが、一人でも多くの読者、
>そして新聞関係者に伝わることを願っています。



僕は、湯川鶴章と藤代裕之は対極にある存在であると考える。
湯川さんの気持ちが伝わるべきであった一番の存在は、藤代裕之なのだ。
その、一番伝わらなかった人が「伝わることを願っています」と書き更新をやめる滑稽さ。


いや、滑稽さと呼ぶにはあまりにも悲しすぎるすれ違い。
それが、ガ島通信を最初から最後まで覆っていた。
そして、その"誤解"あるいは"滑稽さ"とも言い換えることが出来る「すれ違い」こそがガ島通信を読み解くキーワードの1つであると僕は思う。




マスコミは常に自分たちを安全圏において、企業や行政を批判し続けます。そして自分たちが批判されると感情的になったり、卑屈になったりする。すでにこのあたりの構造は見切られています。






どうして藤代裕之は無数の誤解をし、ガ島通信という世界はその外側の世界とまったく噛み合わないままで、すれ違いを続けたのだろうか。





藤代裕之の最も致命的な誤解。
世間が「ガ島通信」だと捉えていたものは藤代裕之ではなく、R30や木村剛、あざらしサラダなどの著名ブロガーと、ガ島通信に押し寄せる数十単位のトラックバックを含めた「ガ島通信と愉快な仲間達」であった事である。


彼が「ガ島通信読者」だと捉えていたのは藤代裕之の文章の読者ではなく、ガ島通信と愉快な仲間達を見に来た客でしか無かったのである。




それ以前に、ガ島通信のエントリーは藤代裕之の考えた文章ではない。
時事を彩るニュース、方々の有名ブログのエントリー、そして本。
その3点へのうなずきや同意、レベルの低い読書感想文でしかない。


藤代裕之が思い描いていた「ガ島通信」というスーパーブログはそもそも、彼の頭の中にしか存在していなかったのである。



ありとあらゆる誤解と思いこみの中で孤立を深め孤独を彷徨い逃げまどった結果、ガ島コミニティのブロガーへとメールを送りつけ続ける馴れ合いにその寂しさの解法を求めた。そして、「俺はコミニティから支持されている」という自信の元で暴走を継続したのである。




新聞記事を書いても、よほどの原稿でない限り当事者(例えば取材した相手)以外の人からはあまり反響がなかったりします。反応があっても多くが高齢者ですし…。ブログはダイレクトに反応があり、自分自身の気づかなかった点や視点も教えてくれます。ブログは「知恵袋」みたいなものですね。






藤代裕之はインターネットをまったく理解していなかった。


「トラックバック」には、かつてのホームページ時代に最も有効なアクセスアップの手段の1つとして存在していた相互リンクの申し込みが自動化されたという側面がある。
藤代裕之はそれにまったく気がついていなかった。




トラックバックとは宣伝である。
当たり前。
基本的。
その認識が完全に抜け落ちていた。




自分からはアクセス数を事ある毎に気にし、無関係に近い記事へと宣伝目的のトラックバックやトラックバック返しを撃ちまくるのに、自信へのトラックバックは「読者からのフェードバック」だと捉えていた。誤解どころの騒ぎではない。




アフィリエイトをトラックバックという宣伝行動と直接的に結びつけて論じるつもりはないが、ガ島通信にトラックバックを撃ったブログのアフィリエイトを1サービス毎に1とカウントすると、1を大きく上回る数字が出る。


かつてホームページの必死な宣伝というものは、藤代裕之のようなアクセス数マニアだけが行うものであり、普通の人間にとっては精神的な壁が立ちはだかっていた。しかしトラックバックという宣伝相互リンクの自動化、システム化により、かつてアクセスアップというものに付属していた精神的な障壁は完全に消え失せ、アフィリエイトという普遍的な動機をも得た。


時代が"相互リンク申し込み厨"に追いついたのである。





そして、ガ島通信がトラックバックセンター化という方向で時事ネタを速報してマスゴミを場道するプチメディア化の色を強めるにつれ、ガ島へのトラックバックは増え続けた。


その時代が許したトラックバックの全てを「読者からの反響」と受け取り、
「ブログってなんて素晴らしいんだ!」と眼に星を浮かべて酔い続けたのである。


なんとも、これは、誤認識である。




大いなる勘違いのまま、反権力ぶってた可能性すらあります。






まともに仕事が出来ず職場で不良債権化し文化部に飛ばされ、ますます孤立している。それが藤代裕之自身による地方紙記者、藤代裕之評である。


プライベートでは誕生日会は同僚に丸投げして準備をさせる、32歳の独身パラサイトシングル。年末年始の進行で会社が慌ただしい最中で、「関係無い」と言い捨ててカナダへ一人スキーに出かける。




そして、労連の会合へと足繁く通い、ブログではマスゴミを罵倒し続ける。


>新聞社員て、他の業界ではすごく使いにくいと思うんです。
>態度はでかいし、謝れないし、文章カタイし、資格とかほとんど持ってないし… 
新聞社員は他の業界では通用しない無能者で、人間がなっていない。


>そういえば上司とは、ほとんど飲みに行かない。
>理由は一緒に行きたい魅力的な人がいないから。
と、人付き合いを否定する。
そして口を開けば「職場には危機感が感じられない」。




何故彼は職場で孤立したのだろう?
・・・いや、この質問は無意味か。
孤立しない方がおかしい。


そもそも、世間の労連に対する認識すら理解していないというまぬけさ、仕事が出来ず、人付き合いもしない人間が「職場で仕事についての議論がしたいのに出来ない」とブログ訴え続けるというまぬけさ。




誤解、というには余りにも大きすぎる。
藤代裕之には、事実を認識する能力が決定的に欠けていたのである。
彼は目が見えない。




「大学」「地方紙」「孤立」という堕落した人生の果てに辿り着いた職場という事実を見たくなかったから、認識するのを止めたのかもしれない。


コンプレックス発散ブログ。
それが、ガ島通信。




単なる嫌がらせだと思っていますがね。






ガ島通信には開設当初から、問題点を指摘する書き込みが成され続けていた。
同一文面で同一人物が繰り返し、考慮と冷静さを求める文章を書き続けたものや、矛盾点に関する事を指摘したトラックoックを幾度か撃った人もいた。
もちろん、コメント欄で「そこはちょっとおかしい」という人もいた。
藤代裕之の論調自体を「ライブドア妄信的」「結論ありき」などと批判する人も幾人かいた。


しかし、彼らはそれら自分の文章への批判を完全に無視した。
いや、無視したのではない。
彼はそれらへの解釈を提示した。


1,俺に文句をつける奴は悪意を持っているのだ。


2,俺に文句をつける奴は既存メディアに毒されているのだ。


3,俺に文句をつける奴は誤読しているのだ。


この3つが、藤代裕之の提示し続けた批判と反論への見解である。





「議論がしたい」
このような人物との議論が成り立つだろうか。
それ以前の問題として、会話が成り立たない。




「悪意」
「毒されている」
「誤読」


そしてもう1つ、彼が反論を受ける度に口にし続けた言葉がある。
「過去のエントリーも読んだ上でコメントしてください」




つまり上の3つに、もう一つ付け加えるならば、「文句をつける奴は過去のエントリーを読んでいないから俺の言う事を理解できていない」というものである。


読んだ。
問題点が次から次へと浮上した。




なかなか新聞記者の体質(嫌な汁?)は抜けないものです…。






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藤代裕之~裸の駄々っ子(4)






「新聞労連青年女性部集会」で、集会の参加者に簡単な街頭調査をしてもらいましたが、『とっている人はほぼ半分、読んでいる人は2割』というところでした。






ブログは読まれているのだという妄信的な誤解。


藤代裕之はそれを認識せずに、「新聞は読まれていない」という事を繰り返し叫び、「それに気がつかない新聞記者は馬鹿だ」と書き続けた。


寄せられる反響の数を根拠として「読まれている新聞vs読まれるブログ」という対立構造を作り出し、新聞は死ぬとの主張を続けた。






ウェブ上の文章は紙に比べて遙かに読まれないという、ネット上の文章が持つ致命的な弱点を彼は完全に無視し、紙の優位性は「信じたい人が信じている」幻想であると完全に否定した。


ガ島通信を読んでいた人間はどれくらいいたのだろうか。
僕は皆無であったと感じている。




ページビューはビューでしかない。
彼が「新聞は読まれているのだろうか?」という疑問を抱いたのは、「新聞が読まれていない事を知っている俺」vs「新聞が読まれていない事を知らない新聞記者」という対立構造を作り、自分を全国紙の記者の上へと位置づける為のアリバイ作りの為だったのである。




そして、似たようなアリバイ作りはブログ上でも行われた。
ちょっと込み入った正確性のある質問や疑念が来ると「あなたはちゃんと読んでいませんね」「過去のエントリーを読んだ上でコメントしてください」と、3桁に達した過去ログを読めと命令した。


「正しい俺vs悪い奴ら」
という綺麗な対立構造を描き、藤代裕之こそが世界の中心である、絶対に正しい存在であると位置づけ続けたのである。




『いまどき、新聞業界の構造的問題に無頓着な記者がいるとは思えません。それに「記事が読まれているから新聞が売れている」なんて暢気な記者も少数派でしょう』と書いてある人がいました。信じられないと思いますが、大半が無頓着で暢気です。






「議論がしたいのに職場では議論してくれる人がいない」
藤代裕之は繰り返した。





けれども、彼は議論が出来ない人間であった。





コメントに異論や反論が書き込まれると、「敵意」「感情的」「読んでいない」「嫌がらせ」「面白くない」と、原因を敵意へと求める。


いくらか名前のある、つまり記者という地位のある人物から批判があれば「全国紙的」「既存メディアに毒されている」「本当の問題点に気がついていないからそうなる」「私が言いたいのはそういう事じゃなくて」と、レッテルを貼って処理する。


敵意認定もレッテル張りも出来ない、まっとうな意義に対しては「いろいろと面白い意見が寄せられていて面白く読ませていただきました」と、とりあえずおだてた上で、「私の言っているのはそういう事じゃありません」「過去のエントリーも読んでください」と返す。


致命的な矛盾点が指摘されると、「マスゴミ体質に脳みそを浸食されてしまっているようです…」と、自己責任を絶対に認めずに無かった事にして流し、何も変わらない新規投稿を立ち上げてマスゴミを罵る。藤代裕之は議論を行う上で最低のルールである、何が問題であったのかを認める事が出来ない人間である。


どうやって議論しろ、というのだろうか。





彼は繰り返し書き込まれるコメントに対して反論、らしきものを行ったことがある。


『既存大手のどこが倒産に追い込まれた、あるいは追い込まれそうなのか。事例があれば、是非、教えていただきたい』って、毎日新聞一回つぶれてるんですがね…。
議論したいのか、単にいちゃもんつけたいのか良くわからない。



藤代裕之は、「ネットの登場で新聞は商業的にもうすぐ死ぬ」と主張した。持って10年だ、と。



そこで彼が持ち出したのが、1972年の西山事件である。
「議論したいのか、単にいちゃもんつけたいのか良くわからない。」




藤代裕之は、全てこれと同じ形で「自分に都合のいい事柄」を情報の中から断片的に取り出して利用し続けている。全てが主観、経験に基づく言論である。


そのような人物とどうやって議論すればいいのだろうか。







彼は、職場の人間に対してもレッテル張りを行っている。


>理由は一緒に行きたい魅力的な人がいないから。
偉そうな自慢話と説教でつまらない上司。


>危機感ないのかな~? 逆に心配になってしまいます。
職場のMLで労連の会合の誘いを流しても反応の無い脳天気な同僚。


>信じられないと思いますが、大半が無頓着で暢気です。
何も考えていない馬鹿な「>社畜」として描かれる記者。


>「本当に本を読まない」。多くの新聞社員と接するとそう実感します。
>特に、全国紙の記者ほど不勉強だと思います。
全国紙の記者ほど不勉強。


>例えば、このブログ界隈で議論されているベースとなっている湯川さんの名著
>「ネットは新聞を殺すのか-変貌するマスメディア」。
>経験的な直感ですが、新聞社員で読んでいる率は10%にも満たないでしょう。
ベースとなっている名著。経験的な直感。10%にも満たない。




彼が経験以外の数字を出した事は一度としてなかった。
マスゴミ批判よりは幾分かまともであった空港批判においても「データは無い」と後付で言う。


私の情報が正しい。
貴方の情報は間違っています。
私は実際に現場を見て確認しています。
貴方は不勉強です。


都合のいい所だけを読み、都合の悪い所には一切レスポンスを返さない。
そして最後に「このような議論ができて大変嬉しく思っています」と付け加える。



議論が出来ない人間が指す「議論」とは議論ではない。
彼がしたかったのは世間一般で議論と呼ばれているものではなかったのだ。


では、一体藤代裕之がしたかったものとは一体何だったのだろうか。




私は問題意識を持ち始めてから、積極的に新聞関係者の集会やシンポジウムに参加してきた。交換した名刺は3年で500枚を超えた。社員の誰とも会ったことがないという新聞社は数えるほどしかない。






「わるいのは新聞だ!」
藤代裕之は叫んだ。
けれども、誰も耳を貸さない。


職場のみんなが俺の話を聞いてくれないのはマスゴミ脳のせいだ。
問題点を上手く書けないのは、マスゴミの体質が染みついてしまったせいだ。


全部マスゴミのせいだ。
マスゴミのせいだ。
俺は悪くない。
全部マスゴミのせいだ。
マスゴミのせいだ。
俺の人生を狂わせやがって。


憎きマスゴミを罵倒してストレスを解消する場所。





そういや、そういうの、この前TVに出てたね。
読売新聞、髭、藤代裕之。




マスゴミ病にかかった記者にはまるで伝わらない…






藤代裕之がしたかったものの前に、藤代裕之。
文章から見えてくる人物像。





「コンプレックス」
頭の悪さと、全国紙記者への怨念のような鬱屈した感情。


「ミーハー」
引用から入り引用に終わる。「>湯川さんの名著」を馬鹿の一つ覚えで繰り返す。


「寂しさ」
レスポンスを求める語りかけで終わる文章の異様なまでの多さ。


「幼さ」




対テロ戦争
対テロといってもネズミです。我が家(といっても親の所有ですが)の天井裏に数ヶ月前からネズミが住み着いたらしく、就寝中にガサゴソ、ガリガリ。我が家では、このようなネズミのテロ行為に対し徹底抗戦を決意。「戦時大統領」ブッシュを見習い、先制攻撃ドクトリンのもと、ネズミの毒や罠(ゴキブリほいほいのようなもの)を仕掛けました。
しかし、しかし。罠には引っかからない上に、毒を食べ散らかす始末。嫌がらせなのかガリガリ音が以前より大きくなっている気が…。テロリズムは拡大の様相を見せています。
築10年の我が家。今までネズテロの被害はなかたったのに何故?? そういえば、今年は台風に地震、津波、火山の噴火と色んなことが起きました。もっと起きるのかも? 天変地異の予兆でしょうか(全く持って非科学的!)。


ここ数日真面目な話を書きすぎて、脳みそがウニ化してしまいましたので…。どなたか、対ネズミの有効な手段をご存知の方、ご一報ください。






幼さ。
藤代裕之の行動を見ていて、それは即ち投稿だけではなく、彼がつけたコメントと彼が方々に撃ったトラックバック、そして彼に寄せられたトラックバックと彼を取り上げたブログのエントリーを時系列順に追っていて最も強く感じたのは「幼さ」である。





例えば、自身への反論を全て「敵意からだ」と断言するのもそれである。
しかし、その「敵意からだ」という断定を行うには複線があった。


彼は、最初のうちはコメント欄でそれなりの反論を行っている。
しかし、まったく反論になっておらずちっとも噛み合わない。
必死で論点をずらし、なんとかして相手を打ちのめそうとしている。
もちろん、藤代裕之は問題点を指摘した論敵を叩きのめす事に失敗した。




それに失敗してからというもの、藤代裕之のコメントは、R30やあざらしサラダに代表されるような身内と脳天気な応援者へのものが大半を占め、エントリーに引き篭もった。





そして、自身を論破したコメンターを攻撃し始めた。


「どうも、感情的なコメントをつける人が」
「建設的でないコメントが最近増えています」
「議論したいのか、単にいちゃもんつけたいのか良くわからない」
「単なる嫌がらせだと思っていますがね」
彼が肯定したのは、身内のコメントと無味無臭の大絶賛応援コメント。





彼は強いコンプレックスを隠すために自分自身を「へなちょこ」だと名乗ってはいたものの、自分の不勉強さや頭の悪さを反論を受けて認めたことは一度としてなかった。


彼が「頭が悪くて」と自分の悪さを認めるのは、決まってどうでもよいエントリーの最もどうでもいいような箇所であった。一度マスコミを罵倒し始めると、藤代裕之は絶対神として定義された。ポケモンを遊ぶ子供の微笑ましい俺勇者症候群にも似た症状。悪いのはマスゴミで、正しいのは俺だと。







幼稚さ、と言い換えてもよいのだけれど、幼稚さよりもさらに幼い。
物心が付いていないのではないかと疑ってしまうほどである。




マスコミは常に自分たちを安全圏において、企業や行政を批判し続けます。
そして自分たちが批判されると感情的になったり、卑屈になったりする。
すでにこのあたりの構造は見切られています。






彼の孤独とコンプレックスは、強く結びついて存在していた。


藤代裕之は頭の悪さで地方紙へと辿り着き、無能さ故に職場で孤立した。
「>無頓着で暢気」に記者人生を送る同僚を横目に、記者としての本流から離れ、文化部へ飛ばされては「ネットは新聞を殺すのか」を繰り返し読み続け、労連に足繁く通う。


コンプレックスが孤立を生み、コンプレックスが孤独感を生んだ。
周囲の人間は全員が自分より優秀な記者という状況下でそれを受け入れる事が出来ずに「>重要なのは問題意識です。」と、自分が最も上に来る基準を作り上げ、無頓着で暢気な同僚を格下の存在として見下し続けた。







「藤代裕之は寂しかったのだ。」と括るつもりは今もない。
しかし、職場で孤立して藤代裕之が孤独であったのは紛れもない事実である。




新聞関係者の方はお分かりと思いますが、今や新聞社内に「青臭いジャーナリズム」や「本音で語り合える」場がほとんどありません。






藤代裕之はミーハーである。


それは自分で自分をミーハーであると何度も書いている事からも読み取れる。しかし彼の本質はミーハーではない。もっと致命的なものである。




彼のエントリーの多くは他ブログの引用で始まり、4~5行書いて他ブログを引用し、最後は結論として他のブログを引用する。「あなた木村剛?それともあざらしサラダ?」くらいの勢いである。彼の文章は後出しのなぞりに暴言加味しただけのものである。


それどころか、藤代裕之の思考回路、ガ島通信そのもの自体が「ネットは新聞を殺すのか」を独自解釈した劣化コピーなのである。




彼は文章を書くことが出来ない。
自分で物事を考えることも出来ない。


彼に出来るのは、都合のよい文章を探して都合良く解釈し、引用する事で自分の権威を高めるのに利用し、罵詈雑言というスキンを被せることにより「ガ島通信さんの文章」というアイデンティティをを作り上げることだけだったのである。




最も重要なのは記者の問題意識だと思います。






ガ島通信とは、藤代裕之の失われた10年を取り戻す為の戦いだったのである。


他にい表しようもない。
失われた10年を取り戻して自分自身の人生を正当化する為に彼は新聞を罵倒し、木村剛を罵倒し、高田昌幸を罵倒し、マスゴミを罵倒し続けたのである。





彼は文章を書く能力が無い。
記者としては無能である。
彼はそれを受け入れない。
自分が最も優秀であるという、新基準を作り上げた。


それは、「危機意識」である。



危機感を持っている自分が一番偉いとし、それに加えて「地方紙>全国紙」というコンプレックスに基づく新基準と、「社畜ではない文化部>社畜社会部、社畜政治部」という新基準に基づき「藤代裕之が一番偉い」ガ島通信という世界を作り上げた。


その世界観を壊そうとする者にはレッテルを貼り、罵倒して、ルールを守れと命令した。





「自分→職場」
という関係を認めてしまうと、職場では無能なおちこぼれ記者である自分自身に、失われた退屈な10年に対する責任が降りかかってくる。
職場を変えられない自分の責任を認めない為に「自分→職場」という関係を視認せずに問題を「自分→マスゴミ」という規模へと拡大させた。




マスゴミの体質のせいで職場が腐った。
職場が腐っているせいで自分が腐った。


自分がどう努力しても、マスゴミの体質が腐っているので職場は変えられないという上から下の流れを作り出し、責任を完全に放棄した。







藤代裕之は失われた10年を取り戻すことに成功したのだろうか?


僕は「成功した」と答える。
ガ島通信は、ハッピーエンドで幕を閉じたと考えている。





「藤代裕之にとっては」という条件付きで。




ブログは自分の思うことを書く場所です。バッシングになぜそんなに過敏に反応するのでしょう? きちんと議論できず、打たれ弱い、批判されれば皮肉を吐き捨てて逃亡。そして騒動は自分の責任ではなく、あくまでマナーのなっていないネチズンが悪いという「総括」(苦)。






セカイ系/はてなキーワード


過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。



ガ島通信は、リアルセカイ系である。



藤代裕之が持ち出すデータは、全て彼の経験である。
ガ島通信に客観的なデータ、数字が登場した事は一度として無く、全国紙の記者やマスコミ人を罵倒する材料として提出されたものは全てが彼の、経験談であるかどうかも怪しいような独自の認識である。





これは、ガ島通信のアクセスデータからも読み取れる。2月からアクセスを解析しているが、上位は「OCN」「dion」などのプロバイダー各社が占めているが、その後には「NEC」「富士通」「日立」「ソニー」「東芝」「IBM」など、ITなどに関連する企業が並んでいる。あとは東京、京都、北海道、九州あたりの大学からで、新聞社と思われるIPアドレスは非常に少ない。「ガ島」周辺海域には、記者やメディアブロガーが多いが、特殊な海域に過ぎない。



藤代裕之がデータと呼んだもの・・・・論拠。
「ガ島通信のアクセスデータからも読み取れる。」



彼は目にしたものしか信じない。


いや、違う。
彼は盲目である。
信じたいものしか信じない、手のつけようのない子供である。




そういえば上司とは、ほとんど飲みに行かない。理由は一緒に行きたい魅力的な人がいないから。偉そうな自慢話と説教はご勘弁。










結局木村氏は、マスゴミ批判をブログ界に広めるため、「中越地震マスゴミ批判祭」を起こそうとしているようにしか見えません。






ガ島通信を彩ったブログと人。


木村剛は、最も重要な登場人物の1人である。
ガ島通信は木村剛を「マスゴミ批判をブログ界に広めようとしている」と怒りを露わにしたトラックバックを送りつける事で、数多くのブロガーに認識された。


木村剛は藤代裕之の指摘に沿う形で記事を改編し、ガ島通信を認めた。
以後、木村剛は数度に渡ってガ島通信を取り上げた。



木村剛とは何か。
それは自己プロデュースの天才である。


木村剛にとってのブログとは何か。
自己プロデュースの道具である。
己の価値を高めて世間に売り込む為の道具である。木村剛はありとあらゆる媒体を巧妙に使いこなし、自分自身を売り込み巨大化させ「木村剛」というものの商品価値を高め続けて生きてた、その道のプロである。


木村剛が藤代裕之の指摘を受けてすぐにエントリーの改変を行ったのは自身の価値を高める為である。木村剛にとってのガ島通信から撃たれた「怒ってます!」というトラックバックは、己の誠意を表現する最も好都合な機会の到来であり、自己プロデュースのプロである彼はそれを見逃さずに、即座に対応した。


そして、自身に対する批判的なトラックバックを寄越したガ島通信の投稿を数度にわたって取り上げ、藤代裕之という人間を価値あるものであると定義した。


「くだらない人間に揚げ足を取られた」といった認識を持たれては、自身の価値が大きく損なわれる。それを避けるに打って付けの対応が、「ガ島通信は優れたブログであり、藤代裕之は優れた指摘をする優れた人物」という定義付けである。木村剛にとってガ島通信文章の質や思考の正当性といったものは問題ではなく、最も利を得られる形でガ島通信を認め、取り上げたというだけの事である。




藤代裕之が週刊木村剛を売名場所として利用したように、木村剛もまたガ島通信を自分の価値を高める道具として利用し使い捨てたのである。言うまでもないが、木村剛は藤代裕之の人生にたいした興味は抱いていない。




互いに利用しあった、という他にもう一つ重要な事がある。
藤代裕之が目指したブログ運営像は、「週間!木村剛!」であったという事である。


藤代裕之は「週間!木村剛!」でよく行われている、書き出しに他ブログの引用を用いるという投稿形式を度々用いた。


木村剛はその「引用書き出し」により、引用元を圧倒できるほどの知をアピールする事が出来るし、読者との距離の近さと読者還元により自身を特別な存在へと高めている。


それに対して藤代裕之は「引用書き出し」「マスゴミ罵倒」「引用締め」という、引用だらけの継ぎ接ぎとなってしまっており、木村剛のような神格化は起きなかった。自身の価値は高まらないままで、トラックバックセンター化と信者によるコミニティ化という現象だけが起きたのである。


そもそも、木村剛ならば「頭の悪さ」を責任にして自己プロデュースを放棄し、「大学」そして「地方紙」に、二束三文で身売りを行うなどという行動は取らなかっただろう。



木村剛は自分自身の為にガ島通信を認めた。
藤代裕之は木村剛になろうとした。
けれども、なれなかったのである。
役者が違ったのである。




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藤代裕之~裸の駄々っ子(コメント用)



本文+コメントが巨大になると表示されなくなるというバグがなかなか回避出来なかったので、コメント削除して移転しました。コメントフォームはsinseihikikomori.bblog.jpではなくu1.blockblog.jpなので、URLを直打ちで取得したので移転漏れに関しては大丈夫だと想います。






藤代・・裕・・之?・・・むう、ガダルカナル島で記事を書いていんのじゃろかー?

藤代裕之~裸の駄々っ子(5)






結論をいえば、ブログであれだけおもしろい文章を書く藤代氏を人並みにさせてしまう新聞という名の装置が悪いということになる。
       すちゃらかな日常 松岡美樹






松岡美樹は藤代裕之が毎日新聞に寄稿した文章を「つまらない」と書いた。
同時に、ガ島通信を「面白い」と評した。


いったい、何をつまらないと評し、何を面白いと評したのだろうか。







僕はこの「ガ島通信@藤代氏が毎日新聞に書いた「つまらない原稿」を深読みする 」という投稿は、ガ島通信と藤代裕之について書かれたものではないと考える。


では、何について書かれたものなのか。



それは、松岡美樹自身である。
彼はこのエントリーの半分以上を費やして自分自身の体験談話を書き綴り、同郷と境遇から来る親近感を語っている。


これは、愛であると思う。などと書くと気持ち悪く美しいので弁解しておくと、松岡美樹自身がこれは愛だと書いているのである。







松岡美樹がガ島通信を本当に読み、「面白い」と思っていたのかどうかはかなり疑わしい。松岡美樹は自身の愛を伝えるために、「面白い」「つまらない」という両極に位置する言葉をキャッチアイとして利用しただけの事である。


面白さとつまらなさの具体的な解析は成されておらず、藤代裕之の言論に適合する形で、「悪いのは新聞社だ」「頑張れ」という事だけが書かれている。



「愛だ」と書くと美しく見えるが、「つまらない原稿」や「面白いブログ」に向けて書かれた評論などではなく、藤代裕之を自分自身の姿と重ね合わせた上での自己アピールと馴れ合いでしか無かったのである。




僕も(たぶん)彼も、前の会社が嫌いではない。むしろ精一杯愛して、自分のため以上に、会社のために働いてきた。でも、その経験から「これ以上ここにいても、この会社に必要とされている能力や経験を、僕は身につけられない」と悟ってしまったのだ。だから、会社という殻の外に出て経験を積み、能力を磨くことにしたのだ。


     R30マーケティング社会時評





R30。
彼は人生とは楽しむ為のものだと定義している。
そして、人生を楽しんでいる。
その楽しさの幾らかは、転職によってもたらされたと考えている。


ブログも仕事も同様に楽しむためのものであり、事実楽しんでいる。
転職がなければ、今の楽しさは無かったと認識している。





R30はガ島通信の転職を熱烈に支持した。
しかし、R30の捨職と藤代裕之の捨職は、まったく別のものである。


R30の転職の動機は「人生をより楽しむため」である。
それに対して藤代裕之の転職の動機は「楽しくなかった半生の責任転嫁」である。
楽しさを肯定する為の転職と、つまらなさを否定する為の転職。
逆方向からのアプローチだったのである。




また、R30は前の会社から上方向へこぼれたと言える。
彼が自分自身で語っているように、底なしの異様な活力が前の職場では収まりきらず、それを発散しきれる場所を求めて転職したのである。


それとは逆に、藤代裕之は地方紙から下方向へとこぼれたのである。
「記者としての仕事が十分に出来ない」事から「職場で不良債権化」し、文化部に飛ばされて「本流から外れ」、「職場で孤立し」、孤独を深めて仕事を辞めた。
まったくの無能者であり、落ちこぼれである。




文章も読めず文章も書けず自分自身で思考も出来ない藤代裕之という人間にとって、地方紙の記者という仕事はとてもじゃないが満足にこなせる職ではなく、その責任を求める形で社を攻撃し続け、転職へと辿り着いたのである。


R30と藤代裕之には共通点が存在しない。マスコミ批判という日本国民全てが抱いている認識と、職業を捨てたといった、共通項と呼べぬくらいの些細な一致だけである。



にもかかわらず、松岡美樹がそうしたように、R30もまた、藤代裕之に自分を重ねた。



それはなぜか。
R30は自分の人生を言葉に出来る機会を待望していたのである。


R30は転職という人生の一大決断において大いに悩んだ。
家族を抱え、数年に渡り悩み続けた。辞めるべきか辞めぬべきかと迷い続け、転職先を1年にも渡って探し続けた。そして、その長い葛藤と心労の末に、大いなる楽しさを手に入れたのである。R30は、その幸せの軌跡を語りたかったのである。


人生とは、楽しむためのものであると考えているR30は、転職の果てには楽しさがあるというメッセージを世間へと伝えたかったのである。




しかし、彼が常日頃の言論の元としているデータ、情報というものはガ島通信と転職を語るにおいて一切用いられず、「悩む→転職→楽しい」という経験のみを根拠として行われた。


転職の果てに今の楽しさがある、という結果からの逆引きでしかなかったのである。





R30のガ島通信に対する行動は「楽しいコミニケーション」と「楽しむ為の転職」というR30の世界観の内側で行われた事でしかなかった。藤代裕之という外側のケースについての考察や分析が行われる事はなく、無責任に己の「楽しさ」を語り演じただけであった。リカルドロペスがすれ違う人に言う「プロボクサーになれ」という言葉程度の重さである。







結局のところ、R30によるR30の為の転職のススメでしか無かったのである。




しかし高田さんの言い分は、極端に言えば「出している和菓子には問題があるけど、私たちは懸命にやっているし、努力している。ただ、組織はそう変わらない。それぐらい分かってるでしょ?」ということです。


私が最も問題だと思うのは「読者に申し訳がない」という文字が一言もないことです。高田さんの文章には残念ながらメディア側の論理しか見えません。






高田昌幸とガ島通信の関係。
それは絶望にも近いすれ違いである。


高田昌幸は記者として働く事を良しとしている。
その立場から、ガ島通信に長いエントリーを投げかけた。滑稽である。
彼はガ島通信に目を通していただけであり、読んでまではいなかったのである。


藤代裕之の始まりは、「記者として働きたくない」である。正確に言うと、その能力が無いという事なのだけれど一応は「働きたくない」という意志である。


彼が地方紙を捨てなかったのは、自身で述べているように金のためである。
給料が欲しかったので、飛ばされ孤立しながらもしがみついていたのである。
ブログを始めた時点ではもう既に、働くつもりなど全くなかったのだ。




それ以外においても高田昌幸と藤代裕之は対極の存在である。


現場で働くことをよしとする高田と、
自分の人生を狂わせた現場を否定する藤代。


機能させる為に変化させようとしている高田と、
自己正当化の為に殺そうとする藤代。


職と人生が共に成立している高田と、
職によって人生を狂わされたと認識している藤代。





それに対して「働こう」と暖かく書かれた高田昌幸の文章は、全てが悲しい。
その文章に対して「極端に言えば和菓子・・・和菓子?和菓子?


もはや、言葉もない。








どちらが、というわけではないが、哀れである。




ブログの沈黙の読者を信頼すること…
ってエールですね⇒ガ島通信:へなちょこメディア周辺者宣言
というわけで、これまで私はガ島さんには沈黙してたけど、ちょっこし、こっそり。
    finalventの日記






fenalventは沈黙していた。
何故か。


finalventはエールを送った。
何故か。


これにはそれぞれ、理由があると思う。







ガ島通信とは、藤代裕之のエゴイズムである。
己の思い描く世界像を追い求め続けたブログである。


では、極東ブログとは何なのだろう。
僕は、己の思い描く世界像を追い求め続けるブログであると捉えている。





finalventはいくらかしくじった果てに老い、自分自身の最後の1コマをブログというインターネットの道具に委ね、希望を託した。藤代裕之が「ブログは既存のメディアを」とブログを妄信したのと同じくらいにfinalventはブログを心のどこかで信じているのだと思う。


しかし、finalventはハッカーである。その点で、藤代裕之とはインターネット感が決定的に違う。ブログは所詮道具でしか無い事を知っているし、インターネットに出会った人間がインターネットを過信する危険性というものも知っている。ガ島通信が「はしゃぎすぎているブログ」である事をしっかりと認識していたが故に距離を置いていたのだろう。
また、finalventは他の人間よりもウェブ上の文章を読むというスキルレベルが高く、ガ島通信の一辺倒の論調に潜む思考の浅さというものを完全に見切っていたのかもしれない。


故に沈黙していた。
それは同時に、故にエールを送ったとも言える。


finalventは藤代裕之よりも遙かに優秀であると自分自身を評価しているであろう。にもかかわらず、finalventにはもう力は残っておらず、対する藤代裕之は500枚もの名刺を集めた末にブログをパワーへと変え、向こう見ずに退職をした。


そのfinalventが入手不可能な恐れのなさと若さというものへの憧れが、「エール」に込められていたのだと思う。finalventもまた、藤代裕之に自分自身の人生を重ねたのである。そのエールを送り重ねた藤代裕之が中身の無い文章をウェブに上げ続ける事で、"ブログ"というものへの世間の視線を完全に殺し、色物であると浸透させてしまったというのはなんとも皮肉である。







「ブログの沈黙の読者を信頼すること…」
finalventからfinalvent宛にこっそりと送られたエールであった。




将来に不安をおぼえなかったわけでもなかった。ただ報道と言う仕事が好きで、好きで仕方がなかっただけだった。


               ネットは新聞を殺すのかblog 湯川鶴章





言うまでもない。
ガ島通信は湯川鶴章の劣化コピーである。


藤代裕之は湯川鶴章に自分を重ねた。
湯川鶴章は藤代裕之に自分を重ねた。
しかし、である。
両者は異質であった。





湯川鶴章は仕事を愛していた。
藤代裕之は仕事を憎んでいた。


湯川鶴章は「藤代裕之が地方紙を辞めたのは愛が裏切られたからだ」と解釈した。
違うのだ。
藤代裕之には最初から愛など無かったのである。
就職可能な会社を選ぶ中で消去法で辿り着いた地方紙で、使えない駄目記者の烙印を押され、職場で孤立し、「ネットは新聞を殺すのか」を独自解釈して新聞と新聞記者を見下し罵倒をし続けた。湯川鶴章の文章は読まれないままで利用されたのである。





しかしながら、湯川鶴章はそれを「若さの勢いである」と読み、ガ島通信がメディアを攻撃するに至った経緯とその動機を読み取る事は無かった。


ただ、自分自身の報道への愛を藤代裕之の捨職という行為に重ね、
「ガ島さん、そして業界を去られた多くの若い記者諸君、本当に申し訳ありません。 」と詫びたのである。







踏みにじられたのは湯川鶴章の純粋な気持ちであり、
踏みにじったのは藤代裕之の自己正当化と責任転嫁である。


僕はそれを許すことが、激しく覚える。




こうした純粋で、若い希望を、何が、だれが、踏みにじっているのだろうか。わたしは、こうした若者の気持ちを踏みにじる者を許せない。許すことができない。
      湯川鶴章






誰一人としてガ島通信を読んでいなかった。
それは真実であると思う。




彼を取り巻いた人は適当にガ島通信を消費し、通り過ぎていった。
そこで行われたのは藤代裕之との僅かな共通項から紐解かれた自分語りの文章の提供であり、記者による記者叩きブログを中心とした特殊なコミニティ内での馴れ合いであった。



当たり前の話であるが、ブログは膨大である。
本人が見ている世界を他人が把握するのは不可能に近い。
エントリーは気にとめられず読み流され、面白そうなネタが書ける場合にのみそれは適度に読まれ、反応される。








誰一人として読んでいなかった。
その中心にいるのは藤代裕之である。
彼が自分の文章を読んでいなかったように、彼の取り巻きや支持者達も藤代裕之の文章を読んでいなかったのである。


ブログを真面目に読む人間などいない。
インターネットは膨大で、全てが流れる特殊な世界である。




確かに、私自身も多くの読者や取材先を傷つけ、会社の方針にさからえず、マスコミ内にはびこるステレオタイプのレッテルはりに加担してきました。






これ程までに品行方正を欠いた人間は見た事がない。
それが藤代裕之のウェブ上での行動を追って感じた率直な感想である。


彼は言葉の限りに罵り、議論をする能力どころか、人の話を聞く事すら出来ぬ人間であるのに「議論がしたい」と繰り返し続けた。当初から寄せられた批判に対してはレッテルを貼って処理し、幾人かのブロガーへメールとトラックバックを送り続ける事により彼らを取り込み、お墨付きを得て、防壁として利用した。


ライブドアを英雄として扱いフジテレビを薄汚いマスゴミであると罵ってしばらくして"湯川さん"をミーハーに追い掛けてライブドアを英雄視するのを辞め、数日後にはライブドアは腐っていると言い始めた。


「行政の出すデータを信用せず疑え!」
と主張しながら、彼はデータを一度も出さずに全てが経験、いや、経験であるかどうかも疑わしい体験談で「全国紙の記者ほど馬鹿だ」と断定的に罵った。


意にそぐわないコメントを「建設的ではない」「無駄なコメント」であると笑い飛ばし、「過去のエントリーも読んでください」と不勉強さと呼ぶに値しない不勉強さを責めた。





自身のコンプレックスと人生の浪費をマスコミへと責任転嫁してマスゴミと罵り、日本中の記者を「問題意識」という絶対にして唯一の基準の下で見下し続け、罵倒した。
挫折も不勉強も文章力の無さまでも、「染みついたマスコミ体質のせい」であるとした。


その罵倒の末に日経BPにゴミ文章を量産し続け、高田昌幸の最も優しさのある助言を意味不明な言論で「メディアに毒されている」「あなたはもう駄目」と斬って捨てた。




自分自身の文章の質が低いのはマスゴミのせい。
コメントへの対応が下手なのもマスゴミのせい。
頭が固くて考えが回らないのもマスゴミのせい。
働きたくないと公言する社内ニートが真面目に働く人間を社畜だと罵れるその世界観にはまったく理解が出来ない。ついて行けない。まったくもって電波である。





>それから私は
>「評論家はお断り。文句言うなら対案を出してください」と言うことにしました。
いったい、いつ対案を出したのだ。
いや、文句には対案が必要だが罵倒には必要ないのか。なら、いいか。







レッテル張り、無視、罵倒、逃亡。
藤代裕之という人間に対しては、口にするのも憚られる言葉しか浮かんで来ない。




きちんと議論できず、打たれ弱い、批判されれば皮肉を吐き捨てて逃亡。そして騒動は自分の責任ではなく、あくまでマナーのなっていないネチズンが悪いという「総括」(苦)






「勇気がないんです」
藤代裕之はブログを立ち上げてすぐにそう言った。


ガ島通信は成功したのだ。
勇気を得ることに。


自分を肯定してくれる人間のみを選択して馴れ合い、
自分に都合のいい文章をインターネットで探し続けた。


藤代裕之は正義。
藤代裕之は絶対。
藤代の唯一の汚点はマスゴミに努めているという事だけ。



その唯一の汚点を拭い去る勇気を彼は得たのだ。
ブログによって。
ガ島通信によって。




「お前は何も出来てないのに、偉そうに言うな」というムードはメディア関係者が予想する以上に蔓延しているのです。ただ、まだメディアは力を持っていますので、取材先などではっきりと伝えられることはないでしょうが、ネット界は違うのです。既存メディアのパワーはそれほど「実感」を伴わない。だから、言いたいことが言える。もちろん、煽りやおふざけコメントもあるでしょうが、新聞関係者が「2ちゃんでしょ?無責任に煽ってんだよ」と冷笑しているほど、乖離してはいないと私は考えています。






藤代裕之の未来は明るい。
僕はそう断言する。


何しろ、日経BPというそれなりの雑誌があのような文章を平気で掲載する時代である。馬鹿であれば馬鹿であるほど、単調であれば単調である程使う側としては都合がよい。大谷昭宏、森昭雄、デーブ大久保。ブログというものを踏み台にして、レッテルを貼り中身のない罵倒を繰り返し禄を食む人々の末席へと滑り込んだのだ。




ブログブームが生んだ最初で最後の巨大な燃えない粗大ゴミ。
それがガ島通信と藤代裕之である。




私も「うまく」やって甘い残り汁を吸い尽くしたいと思っていますが、新聞業界の甘汁は残量が非常に少なそうです…。






ガ島通信/藤代裕之
fromガ島通信 メディア崩壊の現場を歩く/日経BP


ネットは新聞を殺すのかblog/湯川鶴章
週間!木村剛/木村剛
札幌から ニュースの現場で考えること/高田昌幸
マーケティング社会時評/R30
あざらしサラダ/あざらしサラダ
すちゃらかな日常/松岡美樹
極東ブログ/finalvent




新聞はハダカの王様
  ハダカの王様は、自分がハダカであることを知らない…。






コメントはこちらでお願いします。/ガ島通信研究1~5


ブロックブログの本文+コメントが一定サイズを超えるとブログ自体が表示されなくなるというバグの為、コメント移転しました。ご迷惑おかけしてすみません。


2005年5月24日火曜日

大統領への切符



小倉秀夫の後釜に座った男のぬっぺりとした顔写真を訳もなく眺めていると、僕に向かって「大統領になれ」と無責任に言い放った教師がいた事を思い出した。






気持ちの悪い顔をしていた。
と書くとその男が気持ちの悪い顔をしていたかのように聞こえてしまうが、そうではなくて、今思えば気持ちの悪い顔をしていたような気がするというだけの話である。
正直なところ、どのような顔であったかまでは覚えていない。
眼鏡をかけていたような気もするし、かけていなかったような気もする。
尖った顎をしていたような気もするし、まあるい顔だったような気もする。
なにぶん、昔の事である。


のべつまくなしにくだらない話をしていた。
くだらないというのは内容が無い話という意味ではない。本人は面白いと思っているものの誰一人として笑わせられないような少し長めのジョークを無節操に喋り続けていたのである。彼は4つか5つしかないレパートリーの中から最も気に入っていたであろう話を何度も何度も繰り返した。学童の失笑を誘うに丁度良い、レベルの低い小話だった。


ある時、突然廊下で僕に細長い小さな紙切れをよこした。
「切符だ」と言った。
と書くとその男が「切符だ」と言ったかのように聞こえてしまうがそうではなくて、今思えば「切符だ」と言っていたような気がするというだけの話である。
それは、確かに切符であった。細長いビニールのような光沢に包まれた堅い紙には茶色い帯があり、外国語で何かが書かれていた。「どうだ、外国はいいだろ」といったような事を言っていたような気がする。定かではない。


その男は僕の担任では無かったので、何かがあった、という訳では無かった。けれども今にして思えば何かがあったような気もするし、何もなかったような気もする。


成り行きは忘れたが、僕はその教師と教室で2人きりになった。
「大統領になれ」と唐突に言った。
それ以外にもしばらく何かを喋り続けていたような気がするが、覚えていない。覚えているのは「大統領になれ」という言葉と、しばらくの長きに渡って大統領になろうと思っていたという上擦った記憶の感覚だけである。






ふと我に返り、その教師の名前を検索エンジンで叩くと、amazonで100万位ほどにしか売れていない微妙な値段の冴えない本がhitした。こんなもの、誰も買わないだろう。

見てはいけないものを見てしまった気がして、僕の人生に係わった他の教師の名前を思い出そうとしたけれど、1人として名字すら思い出せずにGoogleの前で立ちすくんだ。
一体僕は学校へと何をしに通っていたのだろう。
何を学んで何を得て、何を失ったのだろう。
いくらかの動揺を抱えながら「まさか、あれが恩師か?」といった事を考えていると余計に動揺してしまい、うまい具合に朝が来た。随分と早い訪れだ。気の利く奴だ。






冴えない男、冴えない話、幾らか昔の風の冷たい強い夜更けに一人で僕は、テトラポットの脇へと登り、一緒にしまってあった親から貰ったチョコレートと共に外国の方へとそれを投げ捨てた。

大統領には、ならない。


2005年5月22日日曜日

ひきこもりとニートと無職の分類方法



働きたいのが無職。
働きたくないのがニート。
選択していないのがひきこもり。







ニートという言葉は、指し示すことが難しかった層を綺麗に表せる事で広まったわけであり、他の層を混同して変に「いろんなニートがいるんだ」などとやってしまうと収集がつかなくなる。また、メディアとインターネットが作り上げた適当なニートイメージをニートという言葉に当てはめている方もいるようで、ニートという言葉を読み直す必要があると感じた。



ニートと混同される事が多いものとして、若年失業者とひきこもりというものがある。

「働く」を選択した無職が若年失業者で、「働かない」を選択したのがニートである。
「働く」も「働かない」も選択していない、未選択な無職がひきこもりである。
失業(無職)とは結果であり、ニートとは意志であり、ひきこもりとは未選択である。




また、「ニート」と「ひきこもり」という言葉を説明無しに使う場合は被扶養者に対象を限定するのが適切だろう。

仕事をして計画的に築いた貯金でひきこもっている人を「ひきこもり」と呼ぶ事は可能ですが、ひきこもりとニートという言葉は「家族に養ってもらっている」という条件に該当する人達を指し示すのが最も自然です。自立している人達を含める場合は、その旨を前思って説明しておく必要があると思う。
「そんなん全部無職じゃん」と言われればそれまでであるのだけれど、若年失業者、ニート、ひきこもりと3つに大きく分けておく事は、それらの人々を書く場合には非常に有効であるので、とりあえずタギングという形で。



単純に解決策から言うと、

ひきこもりには「働く」か「働かない」かを選択させればよい。
ニートには、「働く」を選択させればよい。
若年失業者(無職)には、職業訓練と職を与えればよい。

というだけの話であり、至極簡単である。
ただし、「ひきこもり→ニート→失業者→労働者→ひきこもり」という無限ループに陥るの可能性だとか、この分け方で自身を分類するとややこしくてやっかいだとか、まあ色々とあるわけだけれどそれはまた別の話という感じで、言葉の使い方としては、「働く」を選択、「働かない」を選択、「未選択」という分け方が一般的な使われ方に最も適合した説明であると感じます。



この分類はニートから派生した言葉にも当てはまる。

会社に属しながらも「働かない」事を選択したのが「社内ニート」である。
それに対して、労働意欲はあるものの能力不足で居場所が無くなった人たちを社内ニートと言うのは少し無理がある。社内失業者、社内ひきこもり、あるいは窓際族といった別の言葉で現す必要があるだろう。





けれども、である。


 あなたは無職ですか?
 それとも、ニートですか?
 それとも、ひきこもりですか?


という質問を対象者に投げかける事は無意味である。
何故ならば、本人が一番かっこいいと思っているものを回答するからである。



「求人不足が原因」
と言う事がもっとも立派であると考える人は「無職です」と言う。

「働くisダサイ、働いたら負け」
とニートをcoolだと考える人は「ニートです」と言う。

「働くとか働かないとかじゃなくて」
という選択拒否がヒロイックであると考える人は「ひきこもりです」と言う。

これを判断するのは冷静で公平な第三者、というのが最も適切だろう。






それらを踏まえて先日の内田樹の投稿を読むと、あれは正しくニートを対象として書かれた文章であり、僕の文章も同じくニートを対象として書いたものです。ニートの捉え方自体はまったく同じです。


「働く」を選択したのが失業者、いわゆる無職。
「働かない」を選択したのがニート。
「働く」も「働かない」も選択していないのがひきこもり。


2005年5月21日土曜日

リアルタイムストラテジー脳の恐怖



皆さん、こんにちは。
真性引き篭もりhankakueisuuです。
本日の「BLOG of the ゲーム脳」では先週に引き続き、
ゲーム脳の恐怖を皆様にご紹介してみようと思います。




それでは、日本を代表するリアルタイムストラテジープレイヤーのJin115さんによる
1からの再スタート」をお楽しみください。





アルバイトの半分をクビにしました
クビにした理由は


私が「女は馬鹿だ」発言
 ↓
バイトのおばちゃん達キレる
 ↓
おばちゃんとその仲間全員クビ


という訴えられたらすごいまんどくさいだろうくだらん理由だ


しかし、オレは経営者だ
バイトの反抗的態度を許すわけにはいかない
客先で優しく社内は厳しく
ビジネス界の内弁慶!



いかがでしたか?
これが、リアルタイムストラテジー脳の典型的な症状です。
リアルタイムストラテジーをプレイしている人間はだいたいみんなこんな感じです。
本当に怖いです。
実に恐ろしいです。
早急な規制が必要です。



2005年5月20日金曜日

働きアリが働く理由と、ニートが働かない理由。



働きアリは、なぜ働きアリなのだろう。
それは、働くアリだからだ。


では、である。
働きアリは、なぜ働くのだろうか。


それは、働きアリだから・・・ってのは山が無いから山無し県。





女王アリは、雌のアリだ。
たまごを産んで、子孫を残す。
女王アリの行動は、我々人間にとっても理解しやすい行動である。


働きアリは、雌のアリだ。
たまごを産まない。子孫を残さない。
どうして身を粉にして働くのだろう。



どうして?
休もうよ。
疲れるだろうに。


なんでだろ。
わかんない。
僕の脳みそじゃわかんない。
他の話をしよう。まったく別の話を。








蜂蜜。
ミツバチ。
はるちるがるとるぶるんる。




女王蜂は、雌の蜂だ。
たまごを産んで、子孫を残す。
女王蜂の行動は、我々人間にとっても理解しやすい行動である。


働き蜂は、雌の蜂だ。
たまごを産まない。子孫を残さない。
どうして身を粉にして働くのだろう。


それどころか、働き蜂は巣に危害をもたらす者を針で刺して攻撃する。
ミツバチの針には釣り針のようなカエシがついており、刺した働き蜂はそこで死ぬ。





死ぬなよ!
どうして!
どうしてなんだ!
どうして死ぬんだ!


なんでだろ・・・。
・・・わかんない。
僕の脳みそじゃわかんない。
他の話をしよう。まったく別の話を。










内田樹がとんまな文章をウェブに上げていた。


賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。



まったくもってとんとんとんまだ。
内田樹の最大の間違いは、人間という生き物を特別視している点にある。
おそらく、特別視したいのだろう。彼は人間である事を誇りにしているのだと思う。





とりあえず、
>賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
賃金と労働が均衡することが無いのは当然であり、その通りである。
以後僕が使用する「過剰な労働」という言葉は、経営者が労働者の労働成果、つまりは利益の一部を抜き取る事を指さない。御留意願いたい。





では、である。




「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛は確かにいない。
「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーも確かにいない。内田樹を含めた"私たち"はそれを想像することができない。


しかし、である。
「女王アリの為に過剰な労働をする働きアリ」や、
「巣の為に身を挺して外敵を攻撃する働き蜂」。
「自身の子では無い子象を囲って守る大人の象」や、
「雄ライオンの為に狩りを行う雌ライオン」を想像するのは容易い。
というか、実際にいる。


前者と後者の違いは何か。
それは、所属するグループの存在である。


ジョロウグモは所属するグループが無いから、他者の為に巣をはらない。
しかし、所属するグループがあるアリや蜂、象やライオンは違う。


働きアリと呼ばれる生殖機能を持たない雌のアリは所属するグループの為に働く。
働き蜂と呼ばれる雌の蜂は所属するグループの為に働き、刺し死ぬ。
大人の象は所属するグループの子象を守るし、雌ライオンは所属するグループの雄の為に狩りをする。


そして、ビーバーは将来所属するグループの為に勤勉に働き、巣を作る。
「過剰な労働」は動物の本能にビルトインされているのである。





人間と他の生物種の違いは、生き残る為に選択した武器の違いである。
人間の武器は「異常に巨大化した脳」である。蝙蝠だと「夜目と翼」かと思うし、鯨は「海と巨体」でキリギリスだと「強いアゴ」だろうか。異常に巨大化した脳以外の要素を人間の優位性の一要素とするのは「自分の所属する種の優位性を何としてでも主張したい」という動機からの思考停止でしかない。その物差しは異種間ではなく人同士にのみ使用されるべきである。





話を、戻す。




過剰に働く理由。
それは、所属するグループの為である。働きアリが運ぶのも、働き蜂が刺し死ぬのも、プレイリードッグが泣き喚くのも所属するグループの為である。


では、人間が働く理由はどうであろうか。
同じく、所属するグループに貢献する為である。


人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。
どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。



などという事実は存在しない。
人間が「とりあえず必要」である以上の労働を行うのは、それが所属するグループの利益になるからである。働きアリが働くのと同じ理由であり、他の霊長類どころか他の生物種との区別に使える基準とはなり得ない。



人類の始祖たちは「誰か」を所属するグループであると認識し、その「誰か」に必要な物をあげる事が所属するグループの利益になると判断したから「グループの為の過剰な労働」を行ったのである。


「所属するグループ」とは何か。
それは、基本的には血縁者である。


ビーバーが巣を作るのは、配偶者と子供の為であるし、日本の多くの労働者が身を粉にして働き続ける理由も配偶者と子供の為であろう。




しかし、過剰な労働の受け入れ先となる所属するグループとは配偶者であるとは限らない。


下請け会社のプログラマーがデスマーチを奏でるのは「職場」という自分が所属すると認識したグループの為であるし、マクドナルドのアルバイトが過剰な労働をするのは「○○店」という自分が所属するグループの為である。また、オープンソースコミニティの開発者が過剰な労働をするのは「オープンソース」という自分が所属すると認識したグループの為である。欲しがりません勝つまでも、巨大なグループの認識である。


会社を「グループである」と認識させる事は企業にとっても力となる。
古の日本においては「社愛精神」や「一億総中流」という言葉で現されたグループの定義は高度経済成長の原動力となったし、現代においてはGoogle社やAmazon社が自社を「所属するグループ」であると認識させて労働者の潜在力と労働意欲を十二分に引き出すことに成功している。株式会社任天堂の「社長の喜ぶ顔が見たい」という宮本茂な快進撃も、任天堂という企業自体を「所属するグループ」と認識させる事に成功させる事によって成し遂げられたものである。





NEETではない多くの労働者にとって、労働動機は1つではない。
「人類」「宗教」「国」「民族」「両親」「兄弟」「配偶者」「養育者」。
「会社」「社長」「職場」「上司」「同期」「部下」。
「友達」「幼なじみ」「同好の士」。
といったように、一般の労働者は多種多様なグループに所属している。
それら1つ1つが、労働動機として機能しているのが健全な労働者である。





NEETと労働者との違い。
それは、「所属するグループ」を認識できているか認識出来ていないかの違いである。


NEETとは認識不全という疾患である。




認識疾患を抱えていない普通の人間であれば、
「会社というグループに貢献する為に働こう!」あるいは、
「会社は腐ってるけど直属の上司や同僚の為に働こう!」となる。
「会社も職場も駄目だけど、育ててくれた両親というグループに貢献する為に」
「会社も職場も親兄弟も駄目だけれど、配偶者と子供というグループに貢献する為」
と、自身の所属するグループを見つけ、それに貢献しようと労働を行う。


「モー娘。のコンサートに通い続ける為に」だとか、「デポルティーボラコルーニャを応援し続ける為に」といったものもある。これらも少し偏ってはいるが、適切な貢献対象グループの認識である。




貢献目標グループの拡大と認識が適切な形で生じた結果が労働者である。
その貢献目標グループを少しけったいな方向で設定した人間が、地球市民になったり、共産革命を目指したり、マルチ商法を良い事だと触れ回ったりするのである。
そして、貢献目標グループの拡大と認識に失敗したのがNEETである。


では、NEETがNEETに至るまでを見てみよう。


NEETは、両親を「価値のあるグループ」と認識出来なかった事から始まる。
一般人が疑問を抱かずに「価値のあるグループ」であると認識する両親というグループを何かの要因によって「無価値なグループ」あるいは、「低価値なグループ」と認識してしまうというのが、NEETの始めの一歩である。


次に、配偶者である。
日本の労働者の多くは、配偶者と子供という「価値あるグループ」の為に労働を行う。
NEETには配偶者はいないので、配偶者はNEETの労働動機になり得ない。


しかし、配偶者のいない労働者が「将来の配偶者の存在」を価値のあるグループとして認識しているのに対して、NEETは将来の配偶者をリアルに想像出来ない境遇にある。


「将来いいお嫁さんもらって幸せな家庭を築きたいな~」
という「未知のグループ」を想像し、希望を抱ける人間は両親というグループを評価していなくても働く事が可能である。ビーバーの労働はこれである。


それに対し、多くのNEETが抱く「将来・・・巨乳で美人で・・・由紀恵たん・・・」というのは、性欲表現でしかない。NEETは将来の配偶者の存在を、「グループ」であると認識できていないのである。


一言で言うと、NEETとは孤独である。
愛し得るものが身近にはいないのである。


NEETの多くは歩んできた人生の中で、校友、級友、先輩、後輩、サークル仲間、友達、といった形式的な「グループ」に所属する事を繰り返す中で、自身の所属するグループは愛すべき価値の見出せない軽薄で薄っぺらいものであると認識し、それによって将来無数に待つであろうグループも全てが貢献に値しないものだと誤認識してしまったのである。


しかし、NEETが所属するグループを持たないというわけではない。


NEETが価値あるグループであると認識するのは、イチロー鈴木、うすた京介、PRIDE GP、ギターウルフ、ナショナリズム、NINTENDO、堀江由衣といったような、身近ではない貢献方法の乏しいグループである。


NEETは貢献不可能なグループを価値あるグループであると認識し、自身が貢献可能な手の届く範囲にあるグループを全て「無価値なグループ」であると認識してしまう事により生じる。




内田樹の「NEETとは、より合理的に思考する人たち」という定義は間違いである。


NEETと労働者の思考方法に大きな差異は無い。


労働者は「貢献価値の見いだせるグループに所属している」人たちであり、
NEETは「貢献価値の見いだせるグループに所属していない」人たちである。


付け加えるならば、
「将来貢献価値の見いだせるグループに所属している自分を想像出来る」
「将来貢献価値の見いだせるグループに所属している自分を想像出来ない」
という、自己評価の違いである。それ以前の問題としてニートは自身の人生を貢献価値の無いグループであると定義している場合もある。





話を少し変える。
内田樹の投稿の序文である。


NEETについてのゼミ発表のあとにレポートを書いてもらった。
15名のゼミ生のほとんど全員が実にきっぱりと「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という見解を述べていたので、びっくり。
一昔前なら、「できるだけ楽をして高い給料をもらいたい」とか「サービス残業とかバカみたい」とか「過労死するサラリーマンなんか信じられない」というクールな回答がマジョリティを占めたであろうが、いまどきの女学院生たちはバイト先の「店長」や「正社員の同僚」たちがどれほどよく働いているのか、身近によくご存じであり、その姿に素直な「敬意」を抱いておられるのである。
よいことである。



まったく、お笑いである。



内田樹は労働を普段から論じている。
自身の主張をゼミ生に伝え、書に記し、インターネットに書き綴っている。
15名のゼミ生は当然それを読み、内田樹がどんな事を「よいことである」と思っているのかを知っている。


結論から言うと、内田樹は敬愛されているのだと思う。
15人のゼミ生から「貢献価値のあるグループだ」と認識されており、内田を失望させないように、あるいは内田の主張を受け入れ、内田が「よいことである。」と思うようなレポートを提出したのである。


もちろん、院生と教授という関係上反感を買えば人生においてマイナスになると恐れられている可能性もある。しかし、僕としては教育者論説者としての内田樹という知性を慕って集まった女学院性は、彼に対して妄信近い尊敬を受けているものだと推測している。この、15人が同じレポートを出した、というのは「内田心の予測」という過剰な労働の成果であると僕は考える。それが、意識的に行われたものか無意識下で最適化されたものかは判断不能であるが。







話を、戻す。


NEETを働かせるにはどうすればよいのか。
それは、人々を悩ましている問題である。




彼らの愛しているグループは、自身の手の届かない場所にあるグループである。
イチロー鈴木を愛する英語の達者なニートに「イチロー鈴木の通訳」という貢献の場を与えたら、彼は賢明に働くであろう。しかし、普通のニートはイチロー鈴木との距離が遠すぎ、それを貢献可能なグループであると認識できないのである。堀江由衣のマネージャー、内閣総理大臣の政務秘書、ギターウルフのベーシスト、全てが遠すぎるのである。


これらをNEETに近づけるのは不可能である。
いくら彼らに夢を説いても、「遠すぎるじゃん」で終わりである。


「働けば美人の彼女が出来るかもよ!」
という近づけ方すら、NEETは「非現実的だ」、「遠すぎる」、「価値が見いだせない」、「想像できない」といった理由で却下し、彼らがその「未知のグループ」を認識する事は無い。





では、どうすればいいのか。
簡単である。




ニートが既に所属し、「低価値」あるいは「無価値」だと判断しているグループを「愛すべき価値のあるものだ」と認識し直させてやればよいのである。


それは家族でもよいし、兄弟でもよい。
友人でもよいし、かつての級友でもよい。
もちろん、未来の配偶者と築く幸せな家庭というグループでもよい。


しかし、それらは往々にして困難である。


ニートは20年の人生において両親を「低価値なグループ」であると認識し、10年以上の学生生活において仲間というものを「低価値なグループ」であると認識し、さらに自分自身が未来に所属し得るであろう家族をも「低価値なグループ」であると認識してしまっているからである。




ニートは低~中学歴者に多く、生じやすいのは低所得労働者の家庭という統計から見ても、両親、自分、自分を取り巻く人間関係、という手近なグループを「愛すべき価値のあるグループだ」と認識させ直す事は不可能に近いと言い換える事が可能な程に困難であろう。
「未来の価値あるグループに所属している自分自身」というものをニート自身に想像させる事が最も簡単な手法であると思うが、グループに所属していない人間に再認識、再評価を促すという作業は非常に困難であるからして、それすら不可能に近いと思う。





繰り返す。


ニートとは、認識不全である。


親兄弟を貢献価値のあるグループだと認識し損ね、
職場や同僚を貢献価値のあるグループだと認識し損ね、
将来の配偶者を貢献価値のあるグループだと認識し損ね、
貢献価値のあるグループに所属している将来像を思い描けない人間がNEETになるのである。


ニートを働かせるのは簡単である。
所属しているグループのどれかを、労働に伴う肉体的疲労や心労を上回る程の貢献価値があるものだと認識させさえすれば、ニートはすぐに働き始めるのである。


働きアリには所属するグループがある。
働き蜂には所属するグループがある。
ニートにも所属するグループはある。
ただし、それらには貢献価値が無いと認識しているのである。