2007年10月29日月曜日

精神論の素晴らしさ。



科学と理性が支配する時代が到来するにつれ、精神論は過去の遺物として忌み嫌われるようになった。人は気合いと根性と天運が足りないから失敗するのではなく、物資と情報と準備が足りないが故に失敗するのだという事が明らかになっていった。今では、「根性が足りない」と口にするのは脳味噌が足りていない人だけであり、「気合いが足りない」と考えるのはおつむが足りていない人だけである。

成功は努力と根性によってもたらされる必然であるという妄想が大手を振って闊歩していた時代は過ぎ去り、失敗は必然でありその失敗の要因を取り除いてやりさえすれば、失敗を避け成功を手にする事が出来る、というのが現代の考え方である。

それら成功のノウハウ、必勝法というのは、明らかに、確かに存在する。こうすれば勝てる、こうすれば成功を手にする事が出来る、というものは、確かに存在する(ああ、もちろん、あなたの定義する成功がロックスターや空軍のパイロットやミドルズブラのエースストライカー、といったまぬけなもので無い限りは、という条件付きではあるが)。

その必勝の法則とは、物資を確保しろ、情報を手に入れろ、準備をしろ、の3点である。まあ、確かに、気合いを入れろ、努力をしろ、天運を味方に付けろ、の3点と並べてしまえば、その優秀さは今更僕が書き示すまでもない。しかし、である。

物資を確保しろ、と言われて今日明日に、物資を確保できる人がどのくらい居るか。情報を手に入れろ、と言われて今日明日に必要な情報を手に入れる事の出来る人間がいるか。準備をしろ、と言われて適切な準備が出来る人間がどのくらいおろうか。

それらを行えるのはいつの時代も「持つ者」であり、「社会的強者」だけだった。物資と情報を持つ強者が準備をし、事を無し、地位を手に入れ部下達に、「努力」「根性」「気合い」といったものを押しつけてきたのが古代であり、物資と情報を持つ強者が準備をし、事を無し、地位を手に入れ、「物資」「情報」「準備」という持たざる弱者には成し得ない必勝法を押しつけてきたのが現代である。




しかし、驚くべき事に、私達は今、まさに未来を生きている。




時はインターネット時代。全ての過去は崩壊し、スピードが全てを支配する時代である。無限加速を続ける今この瞬間という時代においては、一秒でも早く大声を上げる事が、思い立つ前に走り出す事が、誰よりも先にスタートを切る事が何よりも、肝心要の成功の鍵である。

旧来のやり方に基づいて、あなたが物資を確保している間に、他の誰かは鞄も持たずに暗闇の中を駆け出している。太古の必勝法に基づいてあなたが情報を手に入れている間に、他の誰かは地図も持たずに駈けている。過去の成功則に縛られてあなたがそうやって準備をしている間に、他の誰かは既に何処かへと辿り着き、何かを成し遂げてしまっているのだ。それがインターネット時代という超光速である。

即ち、私達が認識するべきなのは、精神論が馬鹿にされていた「現代」が過ぎ去り「未来」が訪れた今、精神論は再び完全な姿で蘇ったという紛れもない事実なのである。

精神論の素晴らしさは、スピードである。精神論の信奉者となったその瞬間にはもう既に全てを行う事が出来るという、音速を超えた0距離の速度なのである。「今この瞬間から気合いを入れる」「今この瞬間からがむしゃらに頑張る」「今この瞬間から根性じゃけん!」これほどまでに時代に適合した素晴らしいインテリジェンスタクティクスが他にあろうか?いや、無い。断じてない。即ち、なによりも正しい必勝法として、精神論は復興を遂げたのである。時代は努力、世は気合い、時今正に根性である。

物資を持ち、情報を持ち、準備を行う事が出来る社会的な余裕を持った強者の支配が半永久的に再構築され、繰り返され続けてきた現代は過ぎ去り、物資を持たず、情報も持たない、現代社会において搾取対象階層に位置する弱者にも、均等な機会が与えられる精神論の世紀が遂に訪れたのである。

即ち僕はこのスピードが全てを支配するインターネット時代が到来した世界において完全無欠の勝利者となり我が帝国を築くべく今正に、気合いと、根性と、がむしゃらなる努力、吐血血尿大和魂侍ソウル即ち精神論というものに頼り縋って駆け出すのである。みょうごにちから。


2007年10月28日日曜日

のこぎりで挽かれながらブログについて考えた。



のこぎりでひかれる夢をよく見るのだけれど、のこぎりで引かれる夢を見て、目が覚めると、ひかれた所が痛い。しかも、丁寧なことに、きちんとひかれた角度、ひかれたままの直線で痛い。しかも、表側だけではなくて、きちんと裏側まで痛い。もちろん表面だけではなくて肉も骨もきちんと痛い。日によっていろんなところを引かれるのだけれど、ちゃんとひかれた場所が痛い。旋毛から鎖骨まで斜めに引かれた時は、食道がきちんと痛くてとてものすごく不快だった。

のこぎりで引かれる夢を見てひかれた場所が痛む度になんと律儀な、と感心してしまい、非常に嫌なタイプの痛みが丸一日は残るにも関わらず、ちょっとした感動を覚えてしまう。「DREAMS COME TRUE」とか、「夢なんてないっすよ、俺にあるのは現実だけっすから(明るく爽やかに)」とか、「やったぜ!ナポレオンヒルを凌駕したぜ!」みたいな感動である。とはいえ、半年も時々とはいえそれなりに同じ夢を見ていると、そういう感動も薄れてきて、この所は痛みを伴う不快感だけが残る。

さっき、さきほど、今し方、のこぎりで引かれながら「これ、起きてからも痛みが残るんだろうなあ、テンション下がるなあ、嫌だなあ」と、真面目に考え落ち込んでしまい、冷や汗だらだらの悪夢の、今まさに殺され解体されている最中に、起きてからの心配をしているというあまりの珍妙さ馬鹿馬鹿しさに、悪夢を見ながらちょっと笑ってしまった。

笑ってしまったのだけれど、ここだけの話わたくしは、まあお恥ずかしい話で大きな声では言えないのであるが、引きこもりというかニートというか、そういった類の、起きて目が覚めても楽しいことなんて何一つなく再び床につくような人生を華々しく歩んでいる真っ最中なので、そんな悪夢でも目覚めるよりは幾分かマシか、と思ってそのままのこぎりで引かれていたら夢精した。弱って、弱って、憔悴して、二五五を踏み越えて、オーバーフローして強く、強く無敵になるまでは耐え忍ぼうと、ゆるやかに思った。あとどれくらい弱くなれば、僕は強くなれるんだろう。


韓国語の下一段活用。



け、け、け(以下略


2007年10月27日土曜日

三半規管クラッシャー



ここ数日で、ウェブサーフィンをしていると突然に何度か3D酔いをさせられる羽目になって、かなり気分が悪い。ここで言う「気分が悪い」というのは、3D酔いで気分が悪いのではない。3D酔いを招くようなものを平然とウェブ上で頒布する人間が居る事に対する不快感、気分の悪さである。

明らかに3D酔いすると思われるものをお気に入りに放り込んで溜めておいて、2日潰れてもいいような心境の時に3D酔い上等で見て思いっきり酔って後悔するのは自業自得でいいのだけれど、それとは違って「今日はなんだかやれそうな気がするぞ!」みたいな時に三半規管クラッシャーを踏まされて3D酔いで貴重な人生の大切な1日が丸々全日潰れてしまうというのは、気分が悪いを通り越して、悲しささえ覚える。なんで、ねえなんで。

正しく、世界中を敵に回して戦っている気分である。その気分自体は構わないのだけれど、何の為に戦っているのかがわからないのが甚だ痛い。「宇宙の平和を守るため」とか、そういった大義名分が欲しい。まあ、宇宙の平和には宇宙の平和の都合というものがあり、僕なんかに守られても迷惑だろうから、宇宙の平和を守るのはやめておく。ああ、その通り。僕は気配りの人である。

とはいえ、いずれの三半規管クラッシャーについても、「3D酔いした」という声を目にしていないので、世界は強い人基準で出来ているんだろう。バリアフリーは彼岸の彼方である。

酔って頭痛って悪夢を見て尚、酔いと頭痛が覚めないのだけど、まあいいか。どうせ何れは良くなるのだから。宇宙が平和になるまでは、ゆっくり養生して過ごそう。討って出るのは、それからでいい。


2007年10月26日金曜日

好きとか、嫌いとか。



人が人に対して抱く感情を単純化すると、「好き」と「嫌い」の2つに分けられる。という事は、つまり、人と人との関係には、4つのパターンがある。



好きな人に好かれる。
好きな人に嫌われる。
嫌いな人に好かれる。
嫌いな人に嫌われる。

この4つのパターンを、好ましいものから順番に並び替えると



「好きな人に嫌われる」
「嫌いな人に嫌われる」
「嫌いな人に好かれる」
「好きな人に好かれる」
という順番になる。

僕が好きな人は僕のような人間を嫌うのが当然であり、また精神的な負担もまったくない自然な状態で、最も理想的。

それに続くのが嫌いな人に嫌われる、というものであり、これは書き示すほどのことはなく、至って普通当たり前の状態。

ここからはネガティブで、嫌いな人に好かれる、というのは非常に面倒で楽しくなく、迷惑きわまりない。

最も悪いのが好きな人に好かれる、というもの。そのようなリスク自体僕はほとんど抱えていないのだろうけれど、好きな人に好かれても酬う事が出来ないので精神的に負担になって憔悴し行くだけ、というのが目に見えている。

引いては返すそういった心理が僕を少しずつ変貌させてゆく。未来へ。


2007年10月21日日曜日

ブログの書き方がわかりません。ブログの書き方教えてください。



ブログの書き方教えてください。
ブログの書き方がわかりません。
書いても、書いても、ブログにならないんです。
正直な話、もう僕の力ではどないしようもないです。

ちゃんと眠って体力が戻ればとか、頭皮が燃える頭痛が飛べばとか、そういう風に言い訳ばかり探している自分が嫌で、嫌で、物凄く嫌で、不退転の決意で懸命に懸命に書いているんですが、書いても、書いても、ブログにならないんです。

わたしはどりょくしているよ、というふりをしているだけなんじゃないかと、自分自身にあらぬ嫌疑をかけられて、どこを探しても味方はおらず、なんとかしてその疑いを晴らそうと、ブログを書いているのですが、書いても、書いても、ブログにならないんです。

ブログなんてものは、思ったことを、気楽に適当に、あるいは素直に為すがままに、書けばいいのではないか、と世の人は言いますが、自分が何を思っているのかさっぱりわからないんです。自分が何を考え、何を望み、何に一縷の希望を抱いているのかすらも、僕にはわからないんです。

200点満点のテストで、「頬を赤らめた、歯がボロボロの、ウォッカの瓶を片手に、バスストップから南西に向かって歩いている薬の売人らしき男がいます。さあ、彼は何を考えているでしょうか?配点5点。」という問題があったら、「この問いは捨てよう。」「後回しにしよう。」と考えるのがノウハウというものでしょう。

後回しにしても、後回しにしても、どれだけ後回しにしてみても、頬を赤らめた、歯がボロボロの、ウォッカの瓶を手に持った、得体の知れない犯罪の臭いのする男が、次から次へとやってくるのです。違いがあるとすれば、ウォッカの小瓶を右手に持っているか、左手に持っているか、あるいは小脇に抱えているか、その程度。みんな同じに見えてしまいます。書いても、書いても、僕には、何を考えているのかがわからないんです。想像も付かないんです。

1日に2つのエントリーを書きたい、書きたいと思っており、そのくらいは書けそうな気がするので、怪しい男に恐れを成して目を合わせないようにしてそれを一人やり過ごす度に、僕の5点は失われ、10日で100点、20日で200点。40人全員が、薬で幸せ手に入れた、得体の知れないチンピラでした。目の焦点は合ってません。

呼吸を一つする度に、僕の回りを取り囲んだ彼らは、じりり、じりりと力士のように、靴底擦らせて歩くんです。ブログを、書け、書け、と歩くんです。さあ、何を考えている、さあ、何を考えている、おまえは俺達の、いったい何をブログに書くんだ、と、キャンプファイヤの童のように、輪になり笑顔で踊るんです。僕の周りを回るんです。

僕はブログが書きたくて、書きたくて、ただの1つでいいから、とにかく、どんなものでもブログが書きたくて、もう何週間も、何ヶ月も、ずっと書いているのですが、1つもブログが書けないんです。もう、他には何も要りません。何も望んだりしません。欲張りは言いません。他には何も要りません。ブログが書きたいです。書いても、書いても、ブログか書けないんです。

僕からブログを取ったら一体何が残るんですか。僕にはブログしか無いんです。最初から僕にはブログしか無かったし、最後まで僕にはブログしかないんです。正直な話、もう僕の力ではどないしようもないです。書いても、書いても、ブログにならないんです。ブログの書き方がわかりません。ブログの書き方教えてください。


2007年10月19日金曜日

将棋はアクションゲーム。囲碁もアクションゲーム。



あれは超体育会系競技。
思考ゲームとかありえない。
反射神経と体力が物を言う世界。
宇宙の歴史から見れば一瞬の出来事。


2007年10月17日水曜日

雑記。



未来とか希望とかそういったものとは無縁なのに、時々そういった語が不格好にながれてとても沈む。季節の変わり目をもろに受けて精神的にも肉体的にも痩せ衰えているというのもあるのかもしれない。産卵期のオイスターのように。まあ、この先具合が良くなることなどあり得ないから、こうしてキーボードをたたけているだけでも、まだ良しと思わねばな分相応らない。来年は必ずや、もっと悪くなる。去年の今頃は何をしていただろうかと思っても上手く思い出すことが出来ない。多分、思い出せないのではなくて思い出したくないのだろう。去年ではなくて、今年の今頃何をしているかすら、認識したくない。つまんねえブログを書いて朽ち果てていくのは満更でもない。分相応、いや、我が身に余る果報者である。けれども、つまんねえブログすら書けない人間である僕はどうすりゃあいいんだ。苛立つばかりの活字の列が頭の中を闊歩する。嘆き悲しむもたいがいにせねば。未来とか希望とか空腹に絶えかねて何かを噛まずにはいられなくなり非常食の乾麺を噛んでいたら、羽虫の幼虫が付いているのに気がついてしまい、いやになった。いやになった。


2007年10月13日土曜日

コーヒーとチョコレートはまったく別の植物を原材料としている。



今日知った驚愕の事実。


2007年10月9日火曜日

違うんだ、リセットボタンではなくて、スタートボタンを。



たとえばリセットボタンが手に入って全てをリセットしてみた所で僕という生き物が辿るのは僕という生き物の人生。繰り返されるのはまったくに、何から何まで全て同じ人生。何度やっても変わらない。そんなものいらない。

それどころか、悪いことに、繰り返された人生においてもまた、同じようにリセットボタンを手に入れるのだから、また全てがリセットされてまた全てが繰り返される。僕は永遠に僕の人生の上を無限ループで走り続ける。想像しなくてもいやになる。

そうじゃなくて欲しいのはスタートボタン。pauseをかけてゆっくりと考えればたとえば僕にだって物事の、1つや2つは成し遂げられるはずなんだ。空腹とか、頭痛とか、悲しみとか、苦しみとか、寂しさとか、孤独とか、後悔とか、罪悪感とか、そういった類の段幕が10倍速で襲い来るこの世界を等速で生き抜くのは無理なんだ。どだい、無理なんだ。

いや、それすらも卓上の夢。たとえばスタートボタンが手に入った所で果てしないオープニングムービーは未だ選択肢もなくスキップも出来ず延々と流れ続け、それをうんざりしながらも今か今かと胸躍らせて眺めているとTheRedRingOfDeath。


2007年10月8日月曜日

2007年の初笑い。




7 ノルウェー 1 - - ―(↑)



lol








read more (465)



案の定炎上中(違(これはインフレーション(ぶーざーまー(明るい未来に(就職希望だぜー(ぇーいえーいえいえいえっ(やっ!(いいからブログ書こうぜ(俺涙目(糞ワロタ(殺す気か(時間泥棒(笑(超ウケル(欧州の未来(プ(ニヤニヤ(www(lol(いいかげんにしなさい



2007年10月6日土曜日

人間とブロガーとゲーマーの相違点。



ゲーマーはゲームをせずに布団の中で夜明けを待つことを「人生の浪費」であると考える。真っ当な人間は、三連休をゲームに費やすことを「人生の浪費」と考える。

ブロガーはブログを投稿せずに夜明けを迎えることを「人生の浪費」であると考える。正常な人間はブログを投稿することを「人生の浪費」であると正確に捉えている。

ブロガーはプレイしたゲームの感想をブログに書かずに過ごす事を「人生の浪費」であると考えてブログに書くためにゲームを買い、ブログに書くためにゲームをプレイする。ゲーマーはプレイしたゲームの感想をブログに書く事を「人生の浪費」と考え、そんなくだらない事に時間を費やす暇があったらゲームをプレイするぜとばかりにゲームをプレイし続けるのである。








かくしてインターネットは、異常者どもの書いた糞つまんねえエントリーと、昼飯を一人で食べ続けた結果コミニケーション欠乏症に陥った童貞孤独人間どもがコミニケーション目当てで書いた感想文とで溢れかえり、俺等のライフスペースはナザレを追い出された頃には既に無くなっちまってんただよ糞野郎共。今日は涙を祝おうぜ。


2007年10月5日金曜日

おもいっきり遊びたい。



たまにだけれど、おもいっきり遊びたくなる。

けれども、どうすればいいのかわからない。遊びたいならば遊べばいいじゃない、という論法は、ここでは多分に正しいのだろうけれど、遊ぶ、とはどういうことなのかがわからない。いったい、何をすれば遊べるのか、想像もつかない。ただ、漠然と遊びたくなる。

遊びを定義する1つの手法として、楽しいことイコール遊び、というのがある。しかし、その定義を受け入れてしまうと、何をやっても楽しいと感じる事の出来ない人間は、一生遊ぶことなど出来ない、という事になってしまう。理不尽である。理不尽の極みであるである。何をしても楽しいと感じられない人間にだって、遊ぶ権利くらいはあるはずだ。

よくわからない。遊ぶという事がどういうことなのかもわからないし、「おもいっきり遊びたい」という衝動が何を意味しているのかすらも、よくわからない。けれども、そんなことはどうだっていい。それを理解したいのでは無くて、そうしたいだけなのだから。思いっきり遊びたいな。何もかも忘れて。それが叶わないならせめて、思いっきり眠りたいな。何もかも忘れて。


2007年10月4日木曜日



ぴっぴりり。外壁を突き破って、聞き慣れない歌が聞こえてきて、僕は心を奪われた。しーんと、清んでいる。もう、そんな時期なのかと気がついてしまうと、とたんに肌寒くなり、虫の音で満ちてくる。きっと名月なのだろうと、身勝手に思う。月は何時だって、ちっとも変わりやしないのに。そんなものなのだ。気分一つで。ぴっぴりり、ぴっぴりり。ぴっぴりり、ぴっぴりり。そんな風に鳴く虫は、初めての事だったので、今年の秋は特別なのだろうと、少し心が躍ったけれど、次の夜には跡形もなく消えていた。全神経を研ぎ澄ましても、雑虫騒ぐ雑音ばかり。きっと、彼は、昨日特別にセックスがしたかっただけなのだ。だからあんな風に甘く鳴いていたのだ。この僕とはなんら関わりのないところで。さしたる意味など何もなく。もしもそうでないとしたら、あの歌は、一体何だったのだろう。虫は鳴いても撃たれまい。呆然として秋。今年も夏を見過ごした。


2007年10月2日火曜日

犯罪自慢



彼らだって必死なのだと思う。

人類は知り得た物事を言語によって伝え合うことによって、21世紀まで絶えることなく生き長らえてきた。家族、集落、国家、といった形の母集団から知識や知恵を受け取り、生きてゆく為に必要な情報を身につけた個人は、その恩義に報いるべく自ら見て、聞いて、考えて、得た情報や、辿り着いた結論を母集団へと還元する。そんな途方もない繰り返しによって僕らは生きてきたのだろう。食べたい、寝たい、といった類の欲求と同じように、伝えたいという欲求もまた、人の体の隅々の、深いところまで染み込んでいる。

いつからか、どこかで、そのバランスが壊れたのだと思う。人類の進歩と歩調を合わせて、僕らが知りうる情報の量はねずみ算式にふくらんで、際限なく増大し続ける。4~5人そこらの伝えてから、ほんの少しをうけとるだけで日が暮れていた時代は過ぎて、日が暮れて尚40、50の情報の波が、ありとあらゆる人間を襲う。

それだけの情報量に対して、報いるべく還元すべく、何かを伝えたいと願っても、幾億幾多の凡人には、それを成し遂げるのは困難だ。何故ならば、伝える事なんてそんなに無いから。行き過ぎた共有システムのせいで、全てをみんなが知っているから。伝えたい、でも伝えられる事がないと、苛まれ続けて生きているのだろう。そうして、日々して少しずつ、罪悪感を募らせていくのだろう。「俺は得るばかりで、何もしていないじゃないか」って。

だから、彼らは、未だに誰もが知りえてない情報を所持した瞬間に、それを伝えずには居られない。働かずにいられない。健気に。真面目に。誠実に。