2005年7月30日土曜日

ブログを書いている最中に他の事がやりたくなってしまうせいで投稿ボタンを押す所まで辿り着けなくて悲しい。



エントリーを書いていると、どうも他の事がやりたくなる。「あ、このエントリーは今じゃなくて、またいつか」といった事を繰り返していると、当然の如く、投稿ボタンを押す所まで辿り着けない。

あと49分で1個書き終えろったってタイピングスピード的にも頭の中的にも無理。不可能。いくらなんでも時間が過ぎてくのが速すぎる。ブログ書いていない時は遅いのに。



「ああ、真性引き篭もりさんもブログ以外にする事があるんだ」
とかそういう話じゃなくて、他のエントリーを書きたくなってしまい、書いている最中のをほっぽりだす事を延々繰り返しているというだけの話であり、インターネットの目を見ない未完のエントリーに囲まれて溺れそう窒息しそう暑い。


2005年7月28日木曜日

一番星カウンター



一番星カウンターが負荷限界を越えて完全におかしくなってしまってからはや2ヶ月。それなのに、ブロックブログ関連記事の新着一覧には一件たりともその話があがらない。「そろそろ誰か言うかな~」とワクワクしながら毎日眺めていたのに、一つもない。あまりにも無い。音沙汰無し。

なにか、1人だけ別世界にいるような感じ。


体調が良すぎて



物凄く具合が良い。
ありえない。




「え?僕って、ゴジータ?」くらい良い。空飛べ良い。
どっかのネットカフェまで飛んでって、DOTA allstarsとか出来そう。
ありえない。




「昨日までの自分は一体なんだったのだろう?」
と真剣に悩み考えあぐねてしまうくらいに、体が軽い。
体が軽いったって、ただ痩せ細っているだけってわけじゃあない。
無論のこと、心まで軽いわけじゃあない。「あはは!あはは!」みたいにフリルのスカートひらひらさせてNYの小道という小道を一筆書きで制覇できるような気分ではない。ただ、体的には無敵。驚異的に快適。ブブカなんぞは足蹴に出来る。スレイマノグルなら片手で担げる。すこぶる、すこぶ、すこぶってる感じ。
ありえない。




ここ数日の涼しやすさが良かったのか、全力で作った雑炊を全力で食べ尽くしたのが良かったのか、激昂が4周半くらいオーバーフローして思考回路がショートしたのが良かったのか、もしくはそれら全てが複合的に良かったのかはわからないのだけれど、とにかく良い。もう、サイコー。まあ、身も蓋もなく結論から言ってしまえば18時間くらい眠ったという事に尽きるのだろう。夢精したけど。日常茶飯事。ありえない。






とにかく、気分が良い。

いや、気分が良いわけではない。
体調が良いので嬉しいのである。

体調が良いので嬉しい、という心理状態を「気分が良い」と書いただけの話であり、本当に気分が良いわけではない。また、「体調が良いので嬉しい」とは書いたが、別に嬉しくも何ともない。一言で言うと「体調が良い」というだけの話であり、それ以上でもそれ以下でもない。






その、ありえないくらいに体調が良くて驚きたちすさんでいる本日の予定はというと、「ブログ投稿を書く」みたいな所だったのだけれど、あまりにも体調が良すぎて「こんな時にブログ書いている場合か?」みたいな疑心暗鬼が芽生えて爆発。「ブログなんて書いてる場合じゃない」という結論に達しブログなんて書いている場合じゃないのだ。






つまり、である。
こういう時にこそ普段出来ない事をやっておくべきなのである。






そうして、つまり、結局の所、僕は、Googleで「hen oroka」と撃ち込んでからBack spaceを薬指で音が飛び跳ねる程に軽快に叩き、物凄い素早さで変愚蛮怒をダウンロードしながら、同時進行でスポイラーの盗賊、匠をブックマーク、準備万端、もはやこれは即ち、*勝利*したも同然という状態に辿り着いた。




丁度その頃いい塩梅に、変愚蛮怒のダウンロードが完了したので解凍もせずにShift+Delete。お気に入りフォルダを整理して盗賊、匠を完全消去。






凄い。
感動。

丁度、それはまだ、人類とゲームとが共存していた頃にはよく見られた光景ではあるのだけれど、衰退し憔悴し絶滅への道を辿り絶滅してしまった光景。
これぞ正しく、昨日明日には実行不可能な、今日しかできない感動体験。




僅か2分か3分で終わってしまった「今日しかできない体験」に後ろ髪を引かれながら待ち受けるのは大量の時間。幸いにして(何故か(運良く(都合の良いことに(偶然にも(ほんとうに(幸運なことに(不思議なことに)今日の予定はナッシング。

オール、イン、ナッシング。全て無い。無い。
言うならば一日中夜から夜まで完全フリー。何も無い。無い。
「今暇?」「全然暇じゃないけど、君となら。」みたいな意味不明。無い。




そこで、こういう時こそ、即ち体調が優れているときこそ、いらぬ事やらいる事やらを、よくよく考えておくべきだとの結論に達し、朝から真夜中まで考えに考えた。考えに考え続けていると、いい具合に日が暮れた。いい具合に日が暮れると、いい具合に体調が悪化してどうにもならなくなった。ぐてんぐてん。
ぐてんぐてんはこれ幸い。即ちブログだって書ける。

そうして21世紀に入って最も体調が良かったと言えるくらいに充実した一日を充実した過ごし方で充実して過ごし、これで、また、ブログを書いたりのたうち回ったり起きあがってはWarCraft3のムービーを見てまた倒れたりといったような至って平凡で平和な日常を取り戻す事に成功した僕は元気すこぶる健康もう駄目だ。


2005年7月27日水曜日

Life Hackの起源は仏教



人生は苦


2005年7月26日火曜日

脳内うぉーくらふと



「脳内ウォークラフト3」という軽い投稿を行おうと思い立ったのだけれど、「体力的に余裕があり、気温的にもやや過ごしやすい今こそ、もっとまともなものを正面から書きに行くべきでだ」との結論に達して取り消した、取り消したはずだったのだが、その取り消したはずであったはずのエントリーが本文無しのままで投稿されてしまっていて少し落ち込む。おそらくは、Enterキーの暴発。


見つかったら「あいつらもやっています」と吐く犯罪者。具体的に言うとヨシナガ。



著作権侵害はなぜ許されないのか。
言うまでもなく、それが犯罪だからである。

インターネットでは著作権侵害と著作権侵害者で満ちあふれており、言い換えるならばインターネットとは犯罪者の巣窟である。



その巣窟の片隅で、他者の著作物を無断で利用し私益を貪り続けていた犯罪者である、「僕の見た秩序。」のヨシナガの犯罪が著作権者に発見された。

その対応がお笑いである。
とぼけて開き直った上で、無関係の人間を名指しで「こいつらもやってます」と皿仕上げにし、「俺にリンクしろ!」とアクセスアップを謀る。実に腐っている。犯罪者に共通する態度のでかさというものには、いつもながら驚かされる。









日本の漫画業界、ゲーム業界は、インターネット戦略というものを持っていない。
端的に言うならば、これが最も問題である。

律義な人間が画像使用等で出版社やゲーム会社に有償使用を前提に問い合わせを行っても「担当窓口がない」という1点のみで門前払いされ、「どうすれば使えるか」ではなく、「問い合わせると拒否される/見つからなければOK」の2択となっており、誠実さを持ち合わせた真面目なファンのみが損をする実情となっている。




戦略のある規制としては、ブランドイメージを保つためにディズニー社が行っている著作権に対する徹底した姿勢が挙げられるのだが、残念ながら我が国のゲーム、漫画業界には、そのような「企業意志のある行動」は見られない。ただ「法律違反、許さない、じゃあ駄目」、という単純な論理展開を行い、担当者を若干名配置するという極めて適当なインターネット対策を行っているのである。







不許可に意志が見える企業があるとすれば、任天堂くらいである。

任天堂株式会社は性的描写の存在するポケモン同人誌に対し過剰な弾圧を加え見せしめとすることにより、「任天堂は成人向けは許さない」という明確なメッセージが大衆に伝わり、それらは今も共有され続け、任天堂社の同人誌自体が全滅したわけではないが、特に成人向けという点では、一定の効果を上げている。





逆に意志ある許可を示している企業は多数存在する。

・トレジャー

斑鳩で有名なトレジャーは有権利作品は一切の規制を行っていない。
スクリーンショットも、画像も動画も二次製作も全面的に開放している。
これは、「見て貰えれば面白さはわかっていだける」といった類の自信があるからこそ、成せる業であり、斜陽ジャンルの名作を作り続ける弱小会社の戦略であると言えるだろう。



・メディアワークス

微妙なギャルゲーを発売している微妙な企業としてのメディアワークスは、細かなガイドラインを持っている。これは、ファンの活動が売り上げへの影響を持つという吹けば飛ぶような末端市場の末端メーカーであり、メディアワークスのような企業にとって、ウェブ上でのファンコミニティをどう扱うかという事柄が死活問題となっているからである。



・D3パブリッシャー

シンプル1500シリーズで有名なD3パブリッシャーは、他の企業よりは遙かに利幅が小さいという点で紛うこと無き弱小企業である。故に「ファンに宣伝してもらう」という事に対する意識が高く、明確なガイドラインを所持している。





つまり、ファンに頼らなければならない程に困窮している企業は、意志ある基準を持っており、ファンに頼るほどには落ちぶれていない企業は適当な政策を適当に実行しているとういのが現状である。


そして、漫画業界はゲーム業界と違い、「ファンに頼らなければならない程に困窮している企業」というのが非常に少ない。(社数ではなく、割合である)

漫画市場では強大な数社が圧倒的な力を持っており、売り上げを左右するのは1に内容2に内容、3、4が無くて5に中央集権的な仕掛け、といった状態である。

つまりインターネット上で著作権侵害という犯罪行為を飯の種としている人間と、それに群がる人々というのは、多くの企業にとってまったく必要のないものであり、消滅しても構わない存在なのである。

また、現状の多くの出版社が行っているような「全て不許可」という態度であっても、amazonさえあればなんら問題が無いというのは歴史が証明しているところである。











思想無き全面規制。
それが、現状である。






思想無き全面規制により抑圧されている人々は、どのようにして生きているのか。

もちろん、「そんなものどうでもいい」と平気で犯罪行為をやってのけるようなヨシナガみたいなのは大勢いる。しかし、そうではない有償使用を前提に問い合わせを行う類の真剣な人々はどのようにしてインターネットを生活しているのか、である。



それは、朝目新聞に広告が存在しない事からしても明白である。
「非営利である」という、暗黙の仮想協定を作成し、遵守しているのである。





非営利という暗黙の仮想協定は仮想のものであり、実体は無い。なぜ実体のまったく存在しないものが広く共有されているのか、という点についてはいくつかの原因が考えられる。




「権利者側に担当窓口が存在しない」
言うまでもなく、思想、戦略が無い。故に、有償許可の問い合わせや、範囲許可の問い合わせに対応する受付窓口や、ガイドラインが存在せず、話が通らない。また、巨大企業においては権利者が誰であるのかが複雑化しており、開発元-発売元間の調整や、出版社-作家の調整といった要素が絡み合っており、アドリブで誠意のある返答が行われる可能性も皆無である。故に、どうしても画像を使用したいと考えた場合、無断使用という選択肢しか存在せず、無断使用に対する義理立て、良心としての「非営利」が共有されたのである。


「私的利用」
私的利用であれば構わない、というのは当然である。ノートにデスノートを書いたり、チラシの裏にドラエモンを書くことに関しては何の問題も無い。それを、インターネットを通じて世界中に公開するから問題になるのである。そこで、許される私的利用と許されない著作権侵害との境目として、「営利目的/非営利目的」という基準は誰にでも理解が可能な明確なものであり、営利目的ではなく私的利用であるという事の証明として、「非営利という暗黙の仮想協定を守る」という選択肢がとられているのである。


「インターネット的解法」
ウェブ上、あるいはパソコン的な世界には、「非営利であれば無料で使用可能」というライセンスが存在する。それらオンライン的な回答を漫画やゲームというオフラインに当てはめて採用し、非営利だから勘弁してください、というメッセージとしての仮想協定が広まったのである。




自分はCD-Rを売り歩く中国人のような行為を平然と行っておきながら、その犯罪行為が発見されるやいなや、意味不明な言い訳を連ねて非営利という暗黙の仮想協定を遵守している朝目新聞らを名指しで晒し挙げるヨシナガは実に屑である。






何よりも重要な事は、ここは1975のウエストコーストでは無いという事だ。

1975ウエストコーストにおいて、ファンサブを形成していた人々は「非営利である」という、暗黙の仮想協定を作成し、遵守していた。ルールとマナーを守っていたのである。

そして、彼らはONLYな存在として、日本アニメ市場というものを非営利にて熱意のみで作り上げた。それは最初から著作権侵害行為である側面を持っていたし、アニメの版元が北米市場へ参入するにつれ、その色は濃くなって行った。それでも、黙認されてきたのである。

なぜならば彼らが市場を作り、彼らこそが市場そのものであったからである。
彼らを怒らせ彼らに嫌われてしまっては、大きな損害となってしまったからである。



ところが、2005年の日本は、そのような状況には無い。

漫画やゲームというジャンルでは、売れるものは売れるし、売れないものは売れない。
ドラゴンクエスト8やデスノート、のだめやSEEDが示したように、需要があるところに魅力あるコンテンツを流し込めば確実に売れるという、インターネットの著作権侵害コミニティの動向など気にする必要が無い体力を有しているのである。また、失踪日記が示したように、ウェブ上に情報が拡散するにおいて著作権侵害行為は必須ではなく、書き手がいて、アマゾンアソシエイトが存在していれば企業としてはOKなのである。






つまり、漫画やゲームというジャンルにおいて企業側が本気になれば、著作権侵害コミニティは完全に壊滅する。ジャスラックがMIDIに対して行ったのと同じ事が起こるのである。

MIDIが破壊されたのは言うまでもなく、MIDIというものが明確な利益を権利者側にもたらさなかったからである。同じく、権利者側に明確な利益をもたらさない著作権侵害コミニティというのは、「滅んでも構わないもの」である。仮に本気になって滅ぼしにかかればインターネッターから一定の反発を受けるだろう。しかしそれは致命傷とはならない。ジャンプは同じように売れ続けるし、アンパンマンの視聴率に大した変化は現れず、ドラエモンは声変わりしたままだ。「ファンを頼らなければならない位に業界の体力が低下するまで全面禁止ジャスラックMIDI状態」というものは、仮想ではなく現実としてnextページに待ち受けている悪夢なのである。


つまり、眠れる獅子たる出版社やゲーム会社が目覚めれば、インターネットは死ぬ。
多くの良心を持つ漫画好き/ゲーム好きな人々は、彼らを起こさぬようにと祈る思いで非営利であるという暗黙の仮想協定を頑なに守り続けているのである。

言うまでもなくインターネットに著作権に絡むものを載せるという行為は、許されないものであるという側面を持ち、それは拭えぬ事実なのだが、1人の人間としては非営利という暗黙の仮想協定を守り続けている人達に対しては、最大限の敬意を払うものである。








言うまでもなく著作権侵害を金に換えて平然面をのたまわり、仮想協定を頑なに守り続けている人間を晒し挙げにする犯罪者、即ちヨシナガは論外だ。正しく屑でありCD-R売りの中国人にも劣る非国民だ。とっととブログ閉鎖してリアルにでも引き篭もってろ。もはや激昂すら覚えない。
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----非営利という暗黙の仮想協定に関する参考資料----

http://www.geocities.jp/little_gate/11-05.htm
ハンターハンターのファンサイトで、「有償での使用許可」を求めて出版社に問い合わせをしたが、窓口が無く許可は愚か会話すら成り立たなかったに等しかったという実例。


2005年7月24日日曜日

カリビアンBOM【宮下彩子】BOM



怒りを通り越してせつない。

ありとあらゆる場所にカリビアンBOM【宮下彩子】のトラックバックSPAM。特にライブドア。こういう光景を見ていると、話しはいいからまず先になんとかしてくれよ、と思うのだけれどそこはライブドア。


トラックバックとは脆弱性の意だ。


オープンをオープンにするブログと、クローズドをオープンにするmixi。



mixi=クローズド、クローズド=mixi、という根拠の無い先入観がまず最初にあって、「オープンにしろよ。オープンに。」「ミクサーってのは器が小せえな。」といった極々普通な感想を抱き、それを疑うこともなく今日まで生きてきたのだけれど、これはまったく逆の話なのだと考えるに至った。







「オープンにしても構わない事をオープンに出来る場所」
というのが、ブロガーにとってのブログである。


それは即ち、ブロガーは「これをオープンにするのはちょっと」という事柄をオープンに出来る場所を持たない、という事だ。インターネットは「オープンにしても構わないコンテンツ」で満たされており、人々は「オープンにしても構わないコンテンツ」に飽き飽きしている。

時として「オープンにしたくないんだけど!」な人達が「リンクは許可制!」だとか「趣向を理解出来ない人は見ないでください!→EXIT」といったふわふわとしたウェブサイトで、怯えながら暮らしている。


「怯えながらオープンにする」という非インターネット的選択肢を持たない常識的なブロガーは、「ブログには書けない」「ブログに書くほどのものじゃない」といった事柄を胸の内にしまい、誰にも言う事なくクローズドにして生きてきた。ブログはオープンをオープンにしたが、クローズドはクローズドのままであった。


あるいは、メッセやチャットや携帯で「なあなあ、ちょっときいてえな」と、こっそりひっそり愚痴愚痴と、しんなりはんなりやっていたのである。








そこにmixi来たmixi。



mixiは、それら「胸の内にしまっておかれていた言葉」をオープンに出来る場所を提供した。mixiが存在していなければ書かれる事が無かったであろう文章が書かれ、mixiが存在していなければ誰にも知られる事が無かったであろう思いや出来事が語られた。mixiが存在していなければ存在すらしていなかった言葉が綴られて、他の誰かの目にとまる。




それらは「これまで存在していなかったコンテンツ」である。

その、これまで存在していなかったという希少価値が人々をひきつける。
オープン→オープンなブログとは違う、クローズド→オープンのくだらな面白さだ。
言うならばデイビットEケリー的青春白書ERな内側コンテンツだ。


ところが、人はそれら「これまで存在していなかったコンテンツ」にどっぷりと浸かり続けた結果、それに飽きる。いやー、人間とは単純なもので、目新しさを失ったら「あれ?mixiつまらなくない?」みたいなムードになる。

結果、一時どっぷりとハマりにハマっていたmixi中毒状態から抜け出し、適当にログイン、適当に読む、けれども、まあ、それなりに、という平時的状態へと推移し、並ミクサー化する。


その中毒を脱して並ミクサー化した人達は、これまで以上に脱力したありえない程にくだらない、以前であれば絶対にオープンにされる事の無かった内容の無いmixi日記を綴り、その「ありえないくらいに存在しえなかったくだらない」という、これまで存在していなかった意味不明な希少価値が新たなるmixi中毒者を生む。クロープンだ。クロープン連鎖だ。


馴れ合いだとか、顔写真だとか、足跡だとか、コミニティだとかそれ以前に「クローズドだったものをオープンにする機会を提供した」というのがmixi人気の根源だ。おそらく間違いない。





「mixiはオープンだったものをクローズドにした」は半ば間違っており、
「mixiはクローズドだったものをオープンにする機会を提供した」が正だ。


つまり、「オレはなんでもオープンだぜ」みたいに何から何まで書き散らすタイプの節操無きブロガーはmixiのオープンに有り難みを感じる事はまったく無くミクサーを馬鹿にする。

逆に、「ちょっとこれはエントリーにする程では」といった極めて日常的な雑感に恥ずかしさを感じるような乙女心にお淑やかなブロガーはmixiのオープンに有り難さを感じる、非常にmixiと相性のいいタイプの人間なのだ。






ミュージックバトンにも、同じようなクローズドだったものをオープンにする機会の提供、といったものを感じた。


世の中には「好きな音楽をブログに書き殴れるブロガー」と、
「好きな音楽はちょっと照れて書けないブロガー」が存在する。

後者の人々にとって、「この曲が一番のお気に入り!」などというエントリーは恥ずかしくてとてもじゃないけれど書けない事柄なのである。そういう人達にとってミュージックバトンという道具は免罪符であり、「クローズドだったものをオープンにする機会」である。

ミュージックバトンさえあれば、GLAYだろうかXJAPANだろうが安室奈美恵だろうがポルノグラフィティだろうが竹内まりやだろうが堂々と、「これが好きなんです!」と書くことが出来る。ミュージックバトン無しでは永遠にクローズドであったろうコンテンツがオープンとなり、ブログとブログを駆け巡った。






結局の所、世界はただ話がしたいだけな人々で満ちあふれている。
実に寂しい時代なのだ。

書きたいことは書けない。
書けないことは書きたい。

言いたいことは言えない。
言えないことは言いたい。

ポイゾン!






ニード ur ニーズ。


酔った。



「実質2Dだから大丈夫だろう」などと油断して3Dゲームのムービーを見ていたら、途中から演出の雲行きが怪しくなり、見ちゃ駄目だ、見ちゃ駄目だと思いながら見ていたら酔った。

ハイ、5時間lost。5時間で済めばよいのだけれど。


2005年7月23日土曜日

よこしまな気持ちでシステムの復元を実行してみた。



WarCraft3が蘇った。

デスクトップにはショートカット。
スタートアップにも、クイック起動にも。




ところが、起動できない。
繰り返し何度も試みたが、動かない。

悲しくなって、アンインストールしようとしたものの、アンインストールも出来ない。デスクトップで、スタートアップで、クイック起動で、一つずつ丁寧にclick and Shift+Delete。
一つずつ丁寧にclick and Shift+Delete。押し殺す。
ワークラフトスリーだらけの現実と戦う。消して行く。


忘れそう。
時既に。




WarCraft3の幽霊。DOTA allstarsの幽霊。
真性引き篭もりhankakueisuuの幽霊。僕の幽霊。


2005年7月22日金曜日

真性引き篭もり移転のお知らせ。



本日、この投稿を持ちまして、真性引き篭もりはアメーバブログへと移転致します。理由は、繰り返されるトラブルによる運営への不信感と、耐えられない重さです。よって、本日、この投稿を持ちまして、真性引き篭もりはアメーバブログへと移転致します。
















ご迷惑をおかけいたします。何卒よろしくお願いいたします。
真性引き篭もり運営局

おいしいものが食べたい。



僕にとって食事とは2つの点で苦痛であった。

赤の他人との同席を強要されるということと、おいしいと思えないものを無理にして食べねばならぬということの、2点である。

真性引き篭もりとなってからは、前者の苦痛は解消されたものの、後者の点で今も食べ物を食べるという作業は苦痛である。それでも、おいしいものが食べたいと思う。





食べ物をおいしいと思った事は、ほとんど無い。

その責任は食べ物の側にあるのではなくて、こちらの胃にある。
食欲のない時はどのようなものを口にしても、おいしいとは思えなかったりする。そして、僕の人生におけるその時というのは、食事という食事のほぼ全て、ずっとだ。


「ずっとである」
と言っても、おいしいと思った事が無いわけではない。
落涙するくらいにおいしいと思った食事も、いくつかは鮮やかな記憶としてある。





一番覚えているのは、鮎だ。
山椒と煮てあった。

それは体験した事が無いほどに旨くて、「これは何という魚か」と何度も聞いた。鮎という魚を知らなかったので、「鮎だ」と言われてもそれが何であるかがわからなかったのだ。あまりにしつこいので、けったいな子であるとされたのを覚えている。

鮎を食べた記憶は、それ1度っきりである。おそらくこの先もう二度と、川魚などという非現実的な食べ物を口にする事は無いのだろう。悲しくはあるが、食べたいとも思わない。




何度食べてもおいしいと思ったのは、蓮根だ。

根菜を執拗に食べさせられ続けた自分にとって、蓮根の金平は特別な料理であった。
これは今も食べたいと思う。けれども、蓮根がどのような食べ物であったのかという記憶がほとんど失われてしまっており、現実感が無い。




一度だけおいしいと思ったのは、太刀魚だ。

8センチか9センチくらいしか無い切り身で、酸っぱいミカンがふってあった。
それは信じられないくらいにおいしかったのだけれど、一度っきりのおいしさで、何年かしてまた太刀魚を口にした際に、記憶と現実の味の違いに失望させられた。




あとは飯蛸。

同様のフォルムをしたホタルイカというものを、おいしくないものとして記憶していた自分は、その記憶と現実の違いに感動した。それは、とてつもなくおいしかったのである。
けれどもその感動は「あまりおいしくないホタルイカ」という条件によって成り立っていたものであり、純粋に飯蛸であるとは言えないものなのだろうと思う。






おいしいものを食べたいと思う。

東洋製粉辺りが作った不自然なまでにスパイスの香る出来合いの空揚げ粉をまぶして揚げた空揚げを食べたいと思う。油から摘み上げたばかりでまだ油の抜けきっていないギトギトの空揚げを片っ端からほおばりたいと思う。

ぎざぎざに切られたにんじんとインゲン豆をまず最初に食べ尽くし、添えられたタマネギとにんにくを箸で丁寧に食べ尽くしてから、残されたステーキに米無しで、一心不乱に向き合いたいと思う。

ボイルしたてのソーセージを2本、酢漬けのキャベツと小さめのパンで挟み込み、大きくあけた口へ無理矢理に突っ込んでは強引に、水も飲まずに飲み込み続けたいと思う。





一番上の引き出しの中であっという間にヌカ臭くなった白米を懸命に噛んでいると、おいしいものを食べたいと思う。おいしいものを食べたいと思うのだけれど、これはおいしいものへの憧れなどではなく、食欲への憧れなのだろう。

結局の所、「おいしいもの」と「食べたいもの」がかけ離れている事からもわかるように、おいしいものを食べたいなどとはこれっぽっちも思っていないのだ。それでも、おいしいものが食べたいと思う。










おいしいものが食べたい。
なぜ夏だ。
なぜなんだ。


コメントに対するコメントとか。



「オレは!オレの!言いたいことを!書くだけだ!」
というエントリー本文とはまったくと言っていいほどに無関係的な、オレオレコメントにコメントを出してみるという試みを全力で行ってみるエントリー。


というか、先のエントリーは「若隠居の徒然日記」を読んでいなかった人には多分通じないであろうものなので、最低限そこがわからないとコメントどうこう以前の問題なのだけれど、とりあえず説明。





僕が若隠居こそが無責任であるとしたのは、次の3点。


「元記事無しトラックバック」
大量に撃った敵対的トラックバックの元記事(リンク先)を削除した事。


「責任無き末端ブロガー批判」
ブロガーを非難する文章を書いておきながら、それらを丸ごと削除した事。


「説明責任が果たされていない」
なぜなのか、どうしてなのかという説明が成されなかった事。


とは言っても、細かいニュアンスについては、若隠居の徒然日記を読んでいなかった方々にはわからないかもしれません。オレオレなコメントについては、どうもあんまり読んだ事が無い人が書いている文章に見えて仕方がないので、かなり微妙。明らかに読んでいた人からの話であれば普通に答えるのですが。





また、気に入らなくなったら閉鎖逃亡をしたという行動自体が「気に入らないものを閉鎖させたかっただけ」であるという事の追認になっている。
というものであり、会話でもなんでも無く、ただの自己アピール自己満足アンチウヨコミニケーションでしか無かったという批判も同時に行っています。


冒頭で書いているように、何があったのか、何を言っていたのか、という点は問題としておりません。



みんな無責任になりたくないから、その過程を検証し、詳細を明らかにするのに、あんたはあたかも、詳細なんぞ、結果から見れば不要と言っているようにしか思えん。あんただって、他人の批判から充分逃げ回っている卑怯もんじゃないのか?


他人のオナニーを笑っていながら、自分もオナニーしていることに気づかない単なるアホなら、あんたも若隠居もやっていることは同じだ。真性引きこもり竜も若隠居と同じ無責任ブロガーの仲間入りをするとは思ってもみなかったよ。

2005年7月21日木曜日

責任の終焉



若隠居が逃げた。

何があったのかについては関心がない。
問題は好き放題やって逃げたくなったら逃げるという無責任さである。






これまで何度か触れてきたように、若隠居は糞であると僕は思っていた。
他者に対しては「いい加減な事を適当に書くな」としておきながら、自分はいい加減な事を適当に書き捨て、それを取消線で片っ端から消していい人ぶるという「俺は話の出来る奴」な自己アピールを繰り返し、取り巻きや信者とよろしくやっては筆力に物を言わせて他者を一方的に罵倒するというその汚いやり口。また、片っ端から末端の弱小ブロガーを晒し上げては「馬鹿を罵倒する場所」としてのコメント欄で平然とにこにこと笑えるその無神経さ。何を言っていたのか以前の問題として、人にも劣るブロガーであると捕らえていた。しかし、まあ、ひとかどの小人物であるからして大した感情は持たず、以前言及した際に過去ログを根こそぎ読んで、相手にする価値も無いと判断し何か書くことなど無かろうと思っていた。

それが、まさかここまでの卑怯者であったとは。実に激昂しい。







若隠居が身をもって示したものは、「ブロガーは何人たりとも無責任である」という事である。

幾らかの人達の間で叫ばれていたブログに対する幻想として「ブロガーは書き捨てではない。」というものがある。ブロガーは自分の居城としてのブログに対する責任を持つので、匿名掲示板によく見られるような無責任な人間による書き捨て行為が生じる可能性が低いとする考え方である。


しかし、それは違う。

ブロガーは気まぐれで過去ログの全てを削除し、逃亡する。多少の筆力がある人間であれば、まったくの別人格を装い、また平然と新たなブログを「責任あるブロガーのふりをして」書き続けることが出来る。それがブログである。つまり、ブロガーが責任ある態度をとるのは責任ある態度をとりたい、とれば得をすると判断した時のみなのだ。






ブログの実体は、粘度の高いより悪質な匿名掲示板だ。

自分に都合のいいブロガーのみと馴れ合い、自身の発言力を巨大化させる。
自分に都合のいいコメントのみを相手にし、気に入らないものは削除する。
自分に都合のいいトラックバックをエントリーで取り上げ、逆は即削除だ。

匿名者に見られた「匿名だから全面的には信用できない」というものが失われ、ブログでは「あなたの言う事ならばなんでも信じる!」というコミニケーション相手、馴れ合い相手としての信者どもが、いかにも「原論を支持している」ふりをして付きまとう。






1億総ブロガー時代において、責任は終わったのだ。
「責任」というものが、言動に際し必ず差し出さねばならぬ掛け金であった時代は終わり、都合の良い時だけ、都合のよい形で行使する、快楽の為の道具と化したのだ。

誰もが責任というものに跨りインターネットを駆け抜けていたのは今は昔、責任というものから三間離れた位置に立ち、「都合がよい」「面白そう」といったチャンスが訪れれば喜び勇んで駆け寄って、責任を行使する。「都合が悪い」「つまらない」といった場面に置いては、見て見ぬふり存在せぬふりをする。あるいは、全てを削除して逃亡する。


ブログというものは、無責任という暴力性を巨大化させるだけの道具である。生活の存在しない馬鹿どもが無責任に外人を差別しては罵倒する一方で、実生活でストレスを蓄積させたゴミ共が差別を罵倒してはにやけ顔でいきがって自己満足を得る。
そして全員に共通しているのが完全無欠の無責任であるという点だ。


ブログが実名という責任により終焉を迎えるなどと言った人間がいたが、まったくもってそれは馬鹿だ。実名の行使により得をする時は実名を利用し、責任によって得をする時は責任が行使される。そして、無責任により得をするときは無責任だ。今や、責任とは概念ではなく快楽を得る為のオナホールだ。







若隠居は「馬鹿ではない」「責任ある」を装い、馬鹿な言論を行ったブロガーや無責任な言論を行ったブロガーを罵倒し笑う事により、日頃のストレスを解消し自己満足を得ていただけであるという事が今正しく証明されたのである。攻撃するだけ攻撃し、笑うだけ笑っては去って行く。暴徒の根拠地としての2ちゃんねるそのものより悪質なのがブログでありブロガーである。即ち一方的な暴力と一方的な暴力が無責任に交わされ続ける枠組みだ。


顔の見えないインターネットで馬鹿と軽はずみを晒して罵倒し嘲り笑う。
それをブログで垂れ流し、同様の屑どもと罵倒.netを形成する。
その一段上の達観ぶった責任いい人賢こ主義者の輪の中で、大物面で音頭を取って談笑。挙げ句の果てには撤回しますを5分で撤回して全ログ削除して逃亡。

正しく屑であり無責任の極みの人にも劣る卑怯者だ。今すぐブログ閉鎖してリアルにでも引き篭もってろ。若隠居こそが人類の歴史上最も卑怯なブロガーである。実に激昂しか覚えない。


ブログやめません。



出直しません。逃げません。
さては、撤回しますの前振りだな。

というか、それで逃げるのも、その逃げ方も卑怯だろう。
その程度の強度だったのか。











ブログをやめる日の事を想像してみる。
何か書いてやめるのだろうか。
何も書かずにやめるのだろうか。
よくわからない。

ログは残したままでやめるのだろうか。
それとも、削除していなくなるのだろうか。
どうするのだろう。




削除した、あるいはブロックブログが無くなって真性引き篭もり自体が跡形も無く消え去った所で、波乗野郎で根こそぎ保存している人とかがいて、ぐだぐだと読まれ続けたりするのだろうか。真性引き篭もりhankakueisuuはどれくらいの時間が経れば真にいなくなる事が出来るのだろう。
インターネットとは実に恐ろしい場所だ。不滅の存在が許されない。
消えない痕跡の中で不滅が失われて行く。
存在していないものが消えない場所。
極めて不自然だ。


真性引き篭もりhankakueisuuではない僕は遠い昔にいなくなってしまった。
消えてしまったものが消えないものを書き続けている。浮かばれない。




先日、酷い雷があって、「これでPCが壊れれば真性引き篭もりhankakueisuuは終わりなのだ」という事を確認させられ、少し動揺した。たかが雷で。雷ごときで。









雷にも惰性にも負けない強さを。
ブログやめません。こんにちは。


2005年7月20日水曜日

「人生がこれほどまでに辛く苦しいものであろうとは少し前までは予想だにしていなかった」の「だ」って何だ?



「人生がこれほどまでに辛く苦しいものであろうとは少し前までは予想だにしていなかった」というフレーズにおいて、「だ」が何を意味しているのかがわからずに、大いに悩み苦しんだ。けれども、その直後、「"だ"とは何であるかを解き明かす」という人生の命題を手に入れたという喜びが全身を駆けめぐり、充実感に満ちあふれた。

実に正しく、「よおしやるぞ」である。







ところが、である。
僕の脳は実に究極に天才的なまでに賢こ良さすぎるので、「だ」が何を意味するものかを一瞬にして解き明かしてしまった。刺激が足りない。人生、これだからつまらない。
悪いのは、究極に天才的なまでに賢こ良さすぎる脳だ。



「だ」とは即ち、エウゼビオダシルバフェレイラのダである。
サッカーにあまり詳しくない人の為にエウゼビオダシルバフェレイラとは何であるかを簡単に解説しておくと、エウゼビオダシルバフェレイラとは一言で言うならば「黒いペレ」だ。









つまり、「だ」とはエウゼビオダシルバフェレイラである。




「大丈夫(だいじょうぶ)」とは、
「エウゼビオのような偉丈夫」という意味だ。




「ダーリン(ダーリン)」とは、
「エウゼビオの隣」という意味である。一言で言うとセカンドストライカーだ。




「DASH(ダッシュ)」とは、
「エウゼビオのシュート!」という意味であり、物凄い勢いなのだ。




「だだちゃまめ(ダダチャマメ)」とは、


角澤:「ポルトガル!」

松木:「チャンスですよお」

角澤:「ポルトガル!」

松木:「いいですねえ」

角澤:「ドリブル!」

松木:「チャンスだあ」

角澤:「エウゼビオ!」

角澤:「エウゼビオッ!」

松木:「チャマメですね。」

角澤:「チャマメ・・・7番のチャマメ・・・この選手はベンフィ、チャマメェェッ!!」


2005年7月19日火曜日

「ひぐらしのなく頃に」コンシューマ移植に際し、望むこと。



ひぐらしのなく頃にが許せない。
断じて許せない。極めて不快である。


何が許せないかというと、食べ物を粗末にする描写がある。
それが、許せない。極めて不愉快である。










「日本人にとって」などと言っていいのかどうかわからないけれど、日本で生まれ育った自分にとって、「食べ物を粗末にしない」というのは人として絶対に守らねばならぬ、重要な事である。




「食べ物を粗末にしてはならない」という命題に反する内容を含む「ひぐらしのなく頃に」というゲームは僕にとって、ポスタル2(子供を殺して小便を浴びせ、隣人の首を切り落として足蹴にするゲーム)や、GTA3(売春婦に金を払ってよろしくやった後で、その売春婦を撃ち殺して払った金を奪い返すゲーム)よりも、その存在を許すことが出来ない。




食べ物を粗末にするシーンは、「悪戯っ子の幼女(以下、沙都子)がカレーを地面にぶちまけて、台無しにする」という形で登場する。これにゲームの進行上重要な意味があるのならば、ゲーム自由主義を信奉する1ゲーマーとして、「食べ物を粗末にする描写」というものを容認する。


けれども、僕は「カレーを地面にぶちまける」このシーンはゲームに必要であるとは考えられない。故に、僕は「ひぐらしのなく頃に」をどうしても許すことが出来ない。賛美しているブログのエントリーを見るだけ(あるいは"ひぐらし"という文字列を目にするだけ)で、不愉快な気分になる。







・「カレーを地面にぶちまけるシーンが作られた理由」

竜騎士07がこのシーンを作ったのは、月姫という同人ゲームに登場した、シエル先生というカレー好きのキャラクターをゲームに登場させる為である。つまり一言で言うと、動機が不純である。

その月姫フォロワーである事の表明としてのカレーを、「地面にぶちまけて台無しにする」という扱いで処理している事は、月姫へのリスペクトでも何でもなく、愚弄である。月姫のシエル先生のリスペクトとしてのカレーを登場させるのならば、大切に扱って初めてリスペクトになると思う。




・「食べ物を粗末にする事への反発が存在しない」

「食べ物を粗末にした」→「食べ物を粗末にするなんて許せない」という描写が無い。(あるいは極めて薄い)カレーが地面にぶちまけられるのは、「シエル先生の為においしいカレーを作ったら勝ち」というシーンだ。その競技の中で、沙都子がライバルのカレーを次から次へと台無しにしてゆくのである。

ここで自分のカレーを台無しにされた側の反応は「ゲームにおいて手段を選ばない沙都子恐るべし」という反応で、「ゲームに負ける事への怒り」は存在するが「食べ物を粗末にする人間への怒り」はまったく存在しない。

人間を描くノベルゲームというジャンルにおいて、「食べ物を粗末にする人間の怒り」が描かれていない食べ物を粗末にするシーンとは、実にモラルハザードな書き手の倫理を真に疑ってしまう文章である。




・「これに対する想定される反論」

「食べ物を粗末にされた事への怒りを抱かない登場人物達」というキャラクター描写が行われている点については、「ゲームの登場人物全員が頭湧いてるんだって暗に言ってるんだよ!」という反論を自分の中で用意し、立ててみた。




けれども、「ゲームの登場人物達は食べ物を粗末にして平然としていられる。"=頭湧いている"」という事が描かれているようには思えず、無邪気さを象徴するギャグシーンであるように見える。BGMや効果音、画面描写や台詞等も完全にギャグ、ノリ、勢い、という感じである。よって、「そのような意図は無い」という結論に達した。(これに関しては、竜騎士07さんに聞かない限り本当の所はわからないのだけれど。)


また、仮にそのような意図があったとしても、「食べ物を粗末にして平然としていられる頭のおかしい人達を描いている」としてユーザーに受け取られていないという事は、失敗であると考えるし、「食べ物を粗末にして平然としていられる日本人」という描写でしかないと考える。


残虐ゲームとしての「ひぐらしのなく頃に」において、「食べ物を粗末にした→それを気にとめない登場人物達」くらいでは、意味を持たせられないという弱点もある。(食べ物を粗末にするシーンが、計算されて意図的に間延びさせられた、のほほんギャルゲーとしての冗長な前半部に登場するというのも問題をややこしくしている。)






結局の所、「必然性が無い食べ物を粗末にする描写」が許せないのである。

「月姫のシエル先生を登場させる為」に作られたという原点からして不純であるし、カレーとしてのシエル先生に失礼である。また、「沙都子の性質(無邪気さ)」を描き、「登場人物への親和感」をプレイヤ-に抱かせる為の場面において、「食べ物を粗末にする」という描写に必然性はまったく感じられない。しかも、のほほんギャルゲーチックなギャグシーンとして処理されている。

「食べ物を粗末にしなければならなかった理由」がまったく感じられないのだ。
だから、僕はひぐらしのなく頃にを容認する事が出来ない。






そのひぐらしのなく頃にが、家庭用ゲーム機に移植されるという。僕はこれに辺り、食べ物を粗末にする描写が削除される事まではあんまり、望まない。ゲーマーとして、そういう行きすぎた自主規制のような規制が、基本的には大嫌いだからだ。

けれども、食べ物を粗末に描いて平然としていられるゲーム制作者や、その必然性の無い食べ物を粗末にするというシーンをなんの違和感も持たずに平然と消費する事が出来るような神経を持った人達を容認する事は、人として絶対に出来ない。






ひぐらしのなく頃にが家庭用ゲーム機に移植されるのであれば、「食べ物を粗末にしてはならない」と描かれる事には期待したいし、されて当然であると思う。








1行で済む話ではないか。
「もったいない」、で。


2005年7月17日日曜日

未知の突風、既知の風。



揺れる窓枠を耳に聞くと、風が吹いているのだとわかります。
それは昔、風が窓を揺らしているのを目にしたからです。

もしもあの時見たものが、風ではなくて、まぬけな蝙蝠であったのならば、「まぬけな蝙蝠が勢いよく、ガラスめがけて飛んでいるのか。」と思うでしょう。けれども、そうは思えません。あれは風です。明らかに。




揺れる大地を体で聞くと、地震が来たのだとわかります。
それは昔、プレートが日本を揺らしているのを目にしたからです。

もしもあの時見たものが、プレートではなく大きななまずであったのならば、「おおきななまずが今日もまた、暴れているのか。」と思うでしょう。けれども、そうは思えません。それは地震です。明らかに。




揺れる視界の匂いを嗅ぐと、酔いが来たのだとわかります。
それは昔、3Dが自分を酔わしているのを目にしたからです。

もしもあの時見たものが、3Dではなくて酷い頭痛であったのならば、「ああ、またか。」と思うでしょう。けれども、そうは思えません。「ああ、またか。」と思うだけです。それは3D酔いです。明らかに。




揺れる信念の揺らぎに気づくと、その不確かさがわかります。
それは昔、確かになろうと信念を、貫くべきだと思ったからです。

もしもあの時願ったものが、確かさではなく幸せであったのならば今頃は、Holy Shitな時間でしょう。けれども、それはありません。これが幸せです。何もありません、明らかに。




揺れる心に揺れ動かされて、それが何だかわかりません。
これは一体、何なのでしょう。わかりません。知りません。

いつの日かまた訪れて、「わかりません。知りません。」とでも思うのでしょうか。わかりません。知りません。わからないことはわからないまま、知らないことは知らないまま。ずっとこのまま揺れてくのでしょう。地に足つかず、立てないままで。


2005年7月16日土曜日

otsuneに対するotsuneとか。

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおつねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!









googleで「儀礼的無関心」を検索してみてください。
ネタが被っているので、さらに一段階面白い真性引き籠もりならではのエントリーを期待しちゃったり。
(誤解されないように断っておくと「既出ネタ」だからダメだとは思いません。誰かが通った道ならそれをリンク引用すれば住む話に時間をかけないのも効率的だとおせっかいにも思っただけです)
commented by otsune posted at 2005/07/01 17:59
「激昂しました、以上。」って投稿のどこを読んだらそんな間抜けなコメントが出てくるんだ。いくらなんでもずれすぎだろ。そんな絡みかたされても返 せねえよ。moonのバリスタタワーrushより返せねーよ。インソムニアのナーガタワーに不可能だよ。違うだろおおつねえええええええええええええええ ええええええええ!!!「ゴミはゴミらしく一生ゴミ箱アフィってろ。」って締めを目にして「ああこの人激昂してるのか」と理解できないって、どれだけ荒ん でるんだよ。いくらなんでも疲れた人生送りすぎだろ。
平和及第。


















世の中には、既出が容認される世界と、既出が容認されない世界が存在する。
人で言うならば、「既出の話題だろうが平気で書く」という人間と、「既出の話題は書かないようにする」という人間がいのである。その境目はどこにあるのか。
既出が許されないもの、それはデータである。既出データは「既出である」というその1点によってデータとしての価値が認められない。逆に、既出が許 されるものとは何か。それは、人である。人とはそもそも既出である。誰もが似通った器官と似通った感情を持つ、在り来たりの陳腐な存在である。真にオリジ ナリティのあるデータというのは存在するが、真のオリジナリティを持つ人間などいない。
データでは「既出ではないこと」が価値である。オリジナリティこそが価値である。しかし人間では逆に「既出であること」即ち凡庸さこそが価値であ る。人間が評価されるのは「他の人間にも理解が可能である」という既出さという普遍性によってであり、仮に真に既出ではない人間が存在したならば、何を やっても全く評価されないであろう。





「既出でも構わないじゃないか!」という話がなされる際の論拠として、「既出の話でも続けていればなんか新しい発見があるかもしれない」というものが上げられる。
けれども、その論には僕は乗らない。(乗るという人を否定する事まではしないが。)
何故ならば、新しい発見、新しいデータなどというものは存在しないに等しいほどに存在しないものである。馬鹿であっても天才であっても、全知全能なる神であったとしても、有り触れた事有り触れた話有り触れた物事の有り触れたものしか作り上げられぬのである。







つまりは、データをどう処理するかという事で全ては決まる。
2005年の夏の終わりに黄熱病の病原体を顕微鏡で眺めたならば、その行為は人としては価値がある。けれども、データとしてはまったくの無価値であ る。つまり、同じ内容でも「データ」という枠組みで処理するか、「人間」という枠組みで処理するのかにより、その価値の有無は綺麗に別れる。







即ち、「既出である」という言葉を吐く人間というのは、それを「データである」と認識し、データであると判定しているのである。言わない人間はそれを「人間である」と認識し、人間であると判定しているのである。
なるほど、otsuneは「インターネットとはデータの集合体である」としているのである。
逆に僕はそれを人間の集合体であるとしている。









普通ならば、それで終わる話だ。
つまり、otsuneと僕は立場価値観生き方が違う、というだけで終わる話である。
けれども、これはそういう話ではない。
残念な事にこれでは終わらないのだ。









otsuneはvoidのレバーの腐ったような糞ブログを2つも3つも書き続けている。つまり、otsuneは無価値なデータを無価値であるとする 一方で無価値なデータを延々と汚水の如く垂れ流し続け、バナナにもおやつにもならないような糞コメントを方々に残し続けているのだ。
何故そのような芸当が可能なのか。
答えは簡単である。





otsuneにとって、インターネットとはデータである。
対し、otsuneにとってotsuneとは人間なのである。
完璧なまでのアウレリアスタンダードである。
びっくりするほどローマニアだ。









結局の所、インターネットとはそういう場所である。
otsuneのような、「自分は人間、他はデータ」という、一方的な消費被消費の関係であると認識した物達によって成り立っているのである。その otsune的壁、即ち「人間とデータの壁」の場所は1人1人にそれぞれ異なる。「会ったことがある人-会ったことが無い人」という場所に壁を作る人間も いれば、「身内-外野」あるいは「味方-敵」といったようにより解りやすい人、あるいは極限的に「俺-その他大勢」というostuneな場所にそれを置く 人もいるのである。
即ち、otsuneな目で見たインターネットとは、インターネットnoob初心者が陥りがちな「インターネットは俺だけ人間俺のもの!」という、極 限の間抜け的なインターネットである。言うならばotsuneとは「教えてください!初心者です!」人間である。つまりotsuneのPCのスペックはパ ナソニックである。

事は単純な話で、人が人として扱われるには人を人として扱わねばならない。
データは人をデータとして扱う。人をデータとして扱うと、人はデータとして扱われる。人を人として扱わない限り人は人でいられないのである。
その当たり前の事を理解出来ない人間が増殖中のインターネットという場所は、実にウエスタンSF的な「人影の消えた町」である。人が人として扱われず、データとしてただ西から左へ消費されて行く、極めてバイオハザードな、俺とゾンビの物語である。





その人間不在のインターネットの現況の元凶こそがotsuneである。
ジャギの分際でケンシロウを名乗るジャギであり、霊長類ヒト科最低のヌートリアである。即ちotsuneとは太陽系の恥部であり、人類史の汚点である。つ まりotsuneとは鬼であり悪魔でありペドロリ幼児性愛者である。言うならばクレオパトラの豚っ鼻だ。人と人とが啀み合い、今日も争いが絶えないのは、 otsuneが存在しているからであり、otsuneとはこれから始まる物言う歩く黒歴史だ。つまりの所インターネットとは、otsuneが死ぬか人間が 死に絶えるかの強制自動二択である。
正しくotsuneとは、癌細胞 OF THE 癌細胞である。













結局の所、真性引き篭もりhankakueisuuが人間で無い人間であるのと同じように、人間ではないotsuneもまた人間である。おい。otsune。おい。おい。otsune。どうせだから同じ人間ではない人間同士で愛し合おうぜ。

師走にアイスクリームで出来たデコレートケーキを無理して買って、「なんでこんな寒い時に寒いもん買うのよ!」みたいな険悪ムードに陥って、冷凍庫の奥底へと愛しさ丸ごと放り込もうぜ。
それを夏の終わりに取り出して「あー、忘れてた!暑い時に丁度いいわ〜」みたいな和気藹々でがっついたものの、すっかり酸化して味の鈍ったケーキの前に深い沈黙を押し黙ろうぜ。
「アイスケーキはまずかったか・・・」などと二人して反省し、普通のケーキをケーキ屋に買いに行き、モンブランを買おうとしたものの店員にいちごのモンブランを薦められて「あ、じゃあ」みたいに笑顔に負けて、いちごのモンブランを2つ買ってとぼとぼと帰ろうぜ。
帰宅中に高校時代の恩師に出会い「あー、あの時は」みたいな空気で無理矢理に、「つまらないものですが」とか言いながらいちごのモンブランを一個あげてしまい、帰宅しては「なんでいちごのモンブランあげてしまうのよ!」みたいな空気に喧喧しようぜ。
「とりあえず仲直り」とかいいながらいちごのモンブランを半分に切ろうとして、真っ二つにならなかったイチゴがその圧力でパイ生地を粉々に押しつぶしモンブラン的なものを台無しにしてしまった光景を見てひとしきり無力感に笑おうぜ。
人殺しが人殺しに人殺される新作映画を自転車に乗って見に行って、悪い気分で映画館から抜け出したなら、自転車のカゴには飲み捨てられたペットボトル。それを交互に手にとって、キャッキャ言いながら押しつけ合って笑おうぜ。
そのキャッキャに飽きたどちらかが、隣にあった赤の他人の自転車のカゴにペットボトルを投げ込むに至り「それは駄目よ」と即ゲレし、猛烈に倫理を罵しり合おうぜ。
やがては愛し合う事に飽き疲れ、「もうこんな関係は終わりにしよう」という点で意見の一致を見、「私達って気が合うわね」みたいな変な共有感を味わおうぜ。
別れ際に「俺とブログとどっちが大事なんだ!」みたいな物凄く無意味な口角飛ばし合い、「バーカ、ブログに決まってんだろ・・・」と2人して醒めた 態度を思いながらも、最後にもう一度だけ肉とミートで繋がりたいという滑り輝く欲望に負け、「君の方が大事に決まってるじゃないか!」と、笑えない東京の お笑いコンビみたいに声を揃えてハモろうぜ。

そうして、全部有耶無耶のままで愛し合おうぜ。
なあ、otsune。お前とならうまくやれそうな気がするんだ。
愛し合おうぜ。愛し合おうぜ。愛し合おうぜ。な。愛してるぜ。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおつねえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!

2005年7月15日金曜日

GoogleMAPに光を奪われたwikipediaのMAP。



wikipediaが好きだ。
何がいいって、「誰の役にも立たないかもしれないものを名もない誰かが作ってる」という、儚い徒労の虚しさが好きだ。彼らを突き動かしているのは「言葉では言い表せない希望」のような情熱であり、その人間の努力の粒が、インターネットを通じてひしひしと伝わってくる様が好きだ。結局の所、人の熱が好きだ。




対して、GoogleMAPは大嫌いだ。
まったく好かない見る気もしない。

GoogleMAPは人間の仕業ではない。
GoogleMAPとは、技術の結晶である。
そこに感じられる無機質さが嫌いだ。




wikipedia(english)には、アメリカのいろんな町や村の、いろんな地図がupされている。
古地図のようなものもあれば、地下鉄の路線図みたいなのもある。
空中写真みたいなものあれば、丘の上から撮ったようなのもある。
バスの路系図みたいなのとか、大きな町の発展前の、荒野ばかりの白地図もある。
いろんな地図やいろんな場所の、いろんな写真がUPされている。

それらをUPした人はそれぞれ「この地図はスキャンしてUPして大丈夫なのか」などと悩みながら手元の地図をスキャナーに入れ、JPEGに加工して1枚1枚手弁当でUPしたわけである。

その長い長い、ひたすら地道な作業の積み重ねが、GoogleMAPというテクノロジー的宇宙瞰図に一瞬にして圧殺された。もう誰もWikipediaにスキャナでUPされた手弁当のMAPを、MAP目当てに見たりはしない。町の解説の付録として、お新香として添え物として、そういう価値になってしまった小さなおまけ。彼らの「全米の村々のMAPをUPる」という日進月歩の情熱は、徒労に終わった。潰された。




「誰かの役に立つ無報酬のスキャン」が「誰かの役に立つ巨大企業」に零封された。
それが、悲しい。





結局の所、体力や情熱は歩くために使わずに、新幹線を作る為に使え、って事なんだろう。無駄な努力をしない事、それが大事って事なのだろう。
最短距離を導いて、道筋通りに走れって事だ。







けれども、それでも、僕はまだ、WikipediaにUPされたMAPが好きだ。

好きで好きで、たまらない。そこには週末をスキャンに過ごすお気楽外人がいて、それぞれが胸にくだらない情熱を持って「WIKIPEDIA MAP HAHAHAHA!!」とやっている。あるいは、やっていたのである。それを思って眺めるのが好きだ。


GoogleMAPのように動かしたり、拡大したりなんてオシャレな事は出来ないけれど、それでも僕はWikipediaMAPを見て、遊ぶ。楽しむ。幸せになる。




「GoogleMAPで週末の夜を楽しむ」という、未来的な技術享受の刺激時間な週末も、それはそれで素晴らしいのだろうと思う。



けれども、どこかの名も無き外人が、1枚1枚スキャンした、くだらないくらいに色褪せた、安物の古びた静的地図を眺めて過ごす週末の夜、ってのもそれなりに楽しいと思う。異国の町の片隅の、あんまり役に立たなかった情熱に思いをはせながら、JAVA scriptすら無い原始的なJPEG地図を眺めて過ごす、そんな週末の夜の過ごし方も、有りだと思う。








http://en.wikipedia.org/wiki/Philadelphia
例えばあの、アリゾナの、フィラデルフィアの、地図みたいに。


2005年7月14日木曜日

ブラックリスト



DOTA allsatarsには、BAN LISTってのがある。
それは「ブラック(グレー?)リスト」である。

DOTA allstarsゲームの主催者がBANツールを使うとBAN LISTに乗っている人は自動で蹴り落とされて、ゲームには参加出来ない。


どうしてこういうツールが普及したかというと、5vs5の固定されたメンバーでゲーム終了までの40分~90分もの長きに渡って戦い続けるDOTAというゲームでは、ゲーム途中で抜けたり、突然怒ってチームメイトを攻撃しだしたりする人がいると、それまでのプレイが水泡と帰してしまう。

「ゲーム終了まで5vs5で」ってのは、DOTA allstarsを愛する人間なら誰もが望む所なのであり、だからBAN LISTは普及したのである。



「BAN LISTを使えばゲーム終了まで5vs5で遊べる可能性が上がる」
結論から言うとそういう事。つまりは、BAN LISTはいいものである。



けれども、僕はBAN LISTが大嫌いであったし、今も大嫌いである。
それは、何故か。




ウォークラフト3は安定したプログラムである。
エラーが出て落ちる事など滅多と無い。

しかし、DOTA allstarsはユーザー製作のMAPであり、通常ゲームよりも遙かに複雑で長く巨大なゲームのせいもあってか、フィータルエラーで良く落ちる。



LEAVER(気に入らない事があったら落ちる奴)
ってのは、大抵が殺された直後や、相手を仕留め損ねた直後にゲームから抜ける。
そして、彼らはBAN LIST送りにされる。



もしも、そのタイミングでフィータルエラーが出たらどうなるのか。
答えは明白。BAN LIST送りにされる。これが気に入らない。


悪者の為に市井の人が肩身の狭い思いをする。
BAN LISTに入れられたからアカウント変えた、みたいな話を聞いたりもしたし、フィータルエラーで落ちた人から直接「俺はLEAVERじゃねえってみんなにちゃんと伝えといてくれ!」と頼まれてイッパイイッパイになった事もある。(なにせ英語がまともに喋れないので、そういう重い事を頼まれるとすっごい不安。)




人間が他人を「悪である」と認定するには、いくつかの最低条件が必要であると思う。


・認定者が明確である事。

・認定の基準がある事。

・反論の機会が与えられる事。


だいたい、この3点。
BAN LISTは、その全てを満たしていない。
誰がBAN LIST.txtに登録したのかはわからないし、認定の基準は証拠不要の主観だ。反論の機会はもちろん無い。まあ、ウォークラフト3では多重アカウントが許可されているのでそんなに大きな問題では無いと言えば、無いのだけれど。





結論から言うと、ブラックリストには最低限、

・ブラックリスト登録者が明確である事。

・明確な登録基準が存在している事。

・反論の機会が与えられる事。

・申請による取り消しが可能である事。

等の条件が必須であると思う。
現実的に見れば、人力ブラックリストとは実現不可能なものだ。


人が人をルール無しに裁くと、快不快という基準のみでブラックリストを利用する人が出て、不平不満の捌け口として機能してしまうだろう。また、noobの1度の過ちも許されず、ブラックリストに入れられた人間は大変なストレスを被る。
そんなものがまともであるとは僕は思わないし、思いたくない。
BAN LISTという文字列を見る度に、noobを縮こまらせたいのか、という悲しさが湧く。


結局の所、僕は機械選別は消極的に容認するが、人力選別は全否定する。
個としての人間は信じるけれど、不特定多数としての人間は信用しない。




ドラゴンボール的に言うと、ゴジータは信じるけれどゴクウとベジータは信じない。
いや・・・これは違うか。

ドラゴンボール的に言うと、大魔王と神様は信じるけれどピッコロ(真)は信じない。
いや・・・これも違うか。

ドラゴンボール的に言うと、セルと18号は信じないけれどセル(完全体)は信じる。
いや・・・これもまた違うな。

ドラゴンボール的に言うと、カメハメ波は信じるけれど元気玉は信じない。
いや・・・これはこれで違うな。

ドラゴンボール的に言うと、天津飯は信じるけれど天津飯(1/4*4)は信じない。
いや・・・これはもっと違うな。

ドラゴンボール的に言うと、ドラゴンボールは信じるけれどヤムチャは信じない。
いや・・・だめだ。


ドラゴンボール的には言わない。






結論から言うと、BAN LISTってのはろくなもんじゃない。
人が人を選別しようだなんて、そりゃあ傲慢ってもんだ。


2005年7月13日水曜日

睡眠幻想



なにかがうまくいかない時に人は色んなものに原因を求める。

「DHAとビタミンBの効いた良い食べ物を毎日食べていれば俺だって今頃は!」「環境さえ整っていれば俺だって出来たのに!」「幽遊白書にハマってなければまともな人生歩んでたんだよ!」「インターネットなんてなければ真面目に勉強していて今頃は!」「高校時代の小遣いがあと2000円多ければお洒落に金使ってモテモテ人生だったのに!」などとまあ、色んなものに原因を求め、馬鹿げた責任転嫁を行う。




僕の場合は睡眠である。
これには、救いがある。

一般的な「たら」「れば」というのは過去に原因を求めているわけで、時計の針が逆に回ることの無い現実を生きる上では絶望にしか繋がらない。それに対して、「睡眠」というのはこれから先、いくらでも好きなだけ得る事が可能だ。


「少し眠れば、ちゃんとやれる!」
幸せを夢に見る満ちあふれた希望。
足りないのは睡眠だ。快速快眠新快速。

逆の視点から見ると、眠っても眠っても「もう少し眠れば!」と思えてしまう、脳みそお気楽永久連鎖。止めどなく溢れる仮想幻想という希望。光溢れて今そこにある、指先かすかに触れる夢。僕にとって「眠っていない状態」というのは、「眠れば!」という実現可能なifに満ちあふれた充足状態。素晴らしい希望、素晴らしい人生。実に幸せ者。幸せ状態、夢状態。幸せ脳、正確に言えば睡眠脳。



というわけで1眠り。
今日から明日へひとっ飛び。


演出過剰ブロガーへの不快感



サイバーリアルを問わず、自分自身を演出し、醸し出している人を見ると不快感を覚える。なぜならばそれは偽りの行為であり、詐称詐欺の類だからだ。



特にそういう不愉快さを覚えるのは、「FF8は実は名作!」だとか、「DQ5は実は糞ゲー!」だとかいうような、明らかに裏がありそうな話。そういう文章を目にする度に「他とは違う俺」という個の演出が行われていないかどうか必死になって嗅ぎまわり、チェッキングする。それ自体が「鵜呑みにせずに背景調べる違う俺」的な行動であり、そういう猜疑心を抱くタイプの人間であること自体が不愉快に感じられたりもする。
足りないのは素直さか。



「自分自身を演出する」というのはゲームに限らず不愉快。
「くだらねー日記にインテリジェンスな賢っぷりを混入する俺」「エロい話をあっけらかんと喋る私」「身も蓋もない事を言うけれど実は優しく人情的な俺」「頭が悪いんだけれど頑張って考えていますをアピールする俺」「実は隠れヲタク、それも筋金入りな俺」といったような、明らかに仮想に作り上げられた雰囲気のする文章、ブロガー人格を目にする度に「あんた、演出してんだろ!」的な不快感を覚える。

けれども、彼らは本当にそういう人間なのかもしれない。
賢い人が自然体でありのままに文章を書けばどうしても賢い文章になってしまうし、キザな人が自然体で嘘偽りなく文章を書けばどうしてもキザな文章になってしまう。エロ可愛いOLが自然体で文章を書けばどうしてもエロ可愛い文章になってしまうし、隠れシューヲタカルチャーな人が自然体で文章を書けば隠れシューヲタカルチャーな文章になる。棘のある人間が有りの儘に演出無く文章を書けば棘のある文章になるし、独善的で高圧的な人間がありのままに文章を書けば独善的で高圧的な文章になる。

それらを目にすればおそらく直感的には「不愉快だ」と感じるのだろうけれど、実はその不愉快さは「賢い俺」「キザな俺」「棘のある俺」「優しい俺」「エロイ私」という仮想人格、演出された自分という偽りに対する不愉快さではなく、「自分と相容れないものを認めない」という極めて差別的な価値判断による直感的不快感なのだ。

そういう「直感的な不快感」を「欺瞞への不快感」へすり替えるて正当化している自分自身が許せない。「ありのままに書かれた文章」というのは僕が最も愛し絶するタイプの文章なのに、それに対して不快感を抱きながらその不快感を容認している自分自身が許せない、ザ・糾弾。



結局の所、「演出された個性」なのか「ありのままの個性」なのかを見抜けない僕の瞳の節穴が罪、って事であり、わるいのはぜんぶぼくだ。悪いのは全部僕だ。



くそう、憎むべきは演出過剰なインターネットだ。

ありのままをさらけ出すという演出ではなく、ありのままをさらけ出せ!
事実は小説よりも喜なりであって、偽り過剰なブログ演出フィクションなんて読みたくは無い。ほんとうに面白いのは人間の書いた文章であって、ブロガーの書いた文章ってのはどれも決まってそうではない。演出はいらないんだよ。ほんとうのおまえはどこにいるんだ。出てこいこの野郎。出てこいほんとうのおまえら。出てこいブロガー。出てこい真。

出てこい。コラ。オイ。インターネット。


2005年7月12日火曜日

ブログの為なら女房も泣かす。



ギャンブルに人生を漬け込んだ男が金を目当てに他人を殺すと、「たった2万円の為に人を殺すだなんて」と伝えられる。確かにそれは馬鹿げている。




けれども「○○の為に○○を行う」という事自体が馬鹿げているわけではない。
「Aの為にBを行う」というのは当たり前の事であり、普通に行われる事だ。








「2万円の為に人を殺す」にしても、そうだ。Aを別のものに置き換えれば、あるいはBを別のものに置き換えれば至極当然な話になる。




「愛する人を守る為に人を殺す」
なら極めて当たり前の話だ。逆に、誰かを殺さないと愛娘が殺されるシチュエーションにおいてでも「俺は殺らない」と言ってしまうな大人は、人としてどうかと思う。

これが「上司の名誉を守るため」だとか、「ヤンバルクイナを守るため」、あるいは「ペットのミヤマクワガタを守るため」などとなると、ちょっとおかしな話に聞こえる。
少なくとも、僕の耳には。





また、「2万円の為に皇居の周りをスキップで一周する」といった話であれば、世間一般の価値観からすると「いい小遣い稼ぎ」って所だろう。そんな気力も体力も無い僕としては門前払いのお断りだけど。

それが、一周5キロのスキップで無く、「2万円の為に、とびっきりの麻婆豆腐をたいらげろ!おまけに杏仁豆腐もだ!」という話であれば僕だって乗る。"とびっきり"の指すものが量ではなく味ならば、という条件付きで。








つまり、生きるとは是即ち「何かの為に何かをする」という事だ。

「愛される為に愛する!」
「楽しむために嘘をつく!」
「2万円の為に他人を殺す!」
「引き篭もる為に貯金をする!」
「献血する為にレバーを食べる!」
「コールガールを呼ぶために働く!」
「視界から消し去る為に走り続ける!」
「小銭を稼ぐ為にスパムメールを打つ!」
「信じたいものを信じる為に目を逸らす!」
「斜めに揃える為に為とためを使い分ける!」









結局の所、「こういう状況に陥ったら誰かを殺すかもしれない」という事くらいは想像出来る人の方が、至って普通で真っ当な、まともな心の持ち主の、平穏豊かな人生だ。




「どんな事があっても人を殺したりは出来ないだろうな」
などと考えてしまうのは、まったくもって寂しい人だ。
見窄らしい人生の果ての今を行く、まったくもって哀れな人だ。







残念なことに誠に僕は、どちらかというとそちらの側だ。
「こういう状況なら誰かを殺すかもしれない」などと想像出来ない人間だ。


例えばビルローパーがフェルナンドイエロにバナナで殴られ殺された所で、フェルナンドイエロをどうにかしようとは思わない。ただ、バナナを食べる度に、ビルローパーを思い出すだけだ。極めて軽度な関連づけが行われるだけだ。
薄っぺらい感情の、薄っぺらい人生だ。




では何ならば出来るのか。

人を殺すのは無理だけど、蚊を打つくらいなら躊躇無い。けれども、ユスリカハムシはちょっと無理。ハエトリムシやウスバカゲロウとなろうなら、絶対もって、まったく無理だ。

おまけに、蚊やユスリカを殺った所で、得られるものは何も無い。
行う動機が見あたらない。




では、何の為ならユスリカを打てるのか。

手に入れたいものなど無いし、守りたいものも無い。
愛する人などもっての他だ。論外桃の木洗濯機だ。
「パルメイラスコリンチャンスの決勝戦を見せてやる」って言われても、ユスリカハムシはちょっと無理。飛んで火に入る夏の虫にも大きく後れを取る程の、忘れ消え行く薄っぺらい興味だ。薄っぺらい感情の、薄っぺらい人生だ。








ユスリカは打てない。

ならば何なら出来るのか。
答えは簡単、あるいは単純。
何も出来ない。何一つ。
無能の極みのその先である。




だから。あるいは。または、では。
ユスリカハムシは殺せない。
ならば、それなら、ブログを書こう。
蚊を書くように、打ち続けよう。



何の為に?

「ブログの為に人を殺せるか?」
って問われると、答えはNOだ。絶対無理だ。極めてエセな、偽ブロガーだ。それにYESと答える人が、正真正銘本物の、ブログの為のブロガーだ。だからただ、ブログの為にブログを書く。


何の為に?

それはもう、明白。DOTA allsatarsや自己との対話、それは2の次、3の次。昔の話、終わった話。今はひたすらブログの為に、ブログを書こう。







喜びたい奴を喜ばせる。
怒りたい奴を怒らせる。
悲しみたい奴を悲しませる。
楽しみたい奴を楽しませる。

笑いたい奴を笑わせ、泣きたい奴を泣かせる。
罵りたい奴を罵らせ、褒めたい奴に褒めさせる。
憎みたい奴を憎ませて、愛したい奴には愛させる。


喜怒哀楽、冷笑愛憎、華麗なスルーと読み流し。読みたいように読まれるように。
誰かの心の娯楽の端の外れの為に今はただ、落ち着き払ってブログを書こう。
矢よりも遅い光陰に、置き去りにされる時間の中で、落ち着き払ってブログを書こう。

















結局の所、I AM BLOGER !
(結局の所、私はブログを書きます!)

2005年夏、真性引き篭もりhankakueisuu、ブログの為にブログを書く。


2005年7月10日日曜日

悪者の為のルール



まったく、インターネットはフリーダムゥゥウゥ!!
みたいな空気はどこへ行っちまったんだろう。


いや、最初からそんなもの無かったのかもしれない。
あるいは、これが秩序というものなのかもしれない。
インターネットは自由の象徴、そんなのnoobの錯覚か。










にしても、悲しい。
言及リンク無しのトラックバックはどうやら駄目らしい。
これから先は、機械の側で平等に、受け付けなくなりつつあるらしい。


それは、敗北だ。
悪党共に、負けたのだ。







言及リンク無しのトラックバックには2種類ある。
悪人がやる言及リンク無しのトラックバックと、善人がやる言及リンク無しのトラックバックだ。そして、前者の為のルールが出来て、やがて広まり世を染める。

これは、敗北だ。
悪党共に、負けたのだ。







善無垢無邪気なトラックバックは、悪党共に負けたのだ。
悪党どものスパムが如きトラックバックに屈し、彼らの為に手間かけルールが作られた。奴らを叩き出す為なら自由も誤爆も気にしない。悪党憎けりゃトラックバックまで憎し。きんからこんで消えちまえ、ってか。








まったく、信じられない。



世の中のルール、ってのは大体そうだ。
悪人の為に出来上がルールだ。

悪党どもの為にルールが作られ、悪党は悪党で頭が切れるからしてさらにその上を行き抜け道見つけ、騙し、欺き、利用する。鼬ごっこの向こう側。


その抜け道をば潰そうと、新たなルールが作られる。
けれども悪党共は甘い汁を吸い尽くした後であるし、さらに抜け道を見つけて先へと進む。悪は未来の先を行く。とってもどって、現金だ。







結局の所、積極的に言及リンク無しのトラックバックを受け付けないとしているブログは、悪を利用しnoobに力を強いるproか、悪に敗れて屈したブログ、ってことだ。












勝利の混沌か、敗北の秩序か。
ノットオアナッシング。

苛立つ自由か、充足の不自由か。
ノットオアナッシング。


どこでもいつでも強がる人は、悪を持ち出し迫るのだ。
「悪党共に、負けるのか?。それとも規律を選ぶのか?」と。


2005年7月9日土曜日

貴様らにモツ鍋を笑う資格はない!





2005年7月8日金曜日

なぜ議論をしたいと思うのか、何を目指して議論をするのか。




でもなぁ。
議論ってのは有り有り有りでケンカ売るようなトラックバックでもしない限りは
なかなか起こらない物で、この辺のさじ加減はかなり難しい。



はっきり言えよ。














「俺は議論がしたいんだ!」って。
別に恥ずかしいことではない。


「俺は恋がしたいんだ!」とか「俺は馴れ合いたいんだ!」くらいの立派な発言だ。
胸を張れ!堂々と言え!




「俺は議論がしたいんだ!」って。
自らの趣味を誇りに思え。
胸を張れ!堂々と言え!













人はなぜ議論をするのか。
それは、議論がしたいからである。


一部の人達にとって、議論とはそれそのものが快楽である。
他の理由は後付である。







人はなぜ議論をしたがらないのか。
それは、議論がしたくないからである。


一部の人達にとって、議論とはそれそのものが苦痛である。
他の理由は後付である。





「議論をしたい人間が議論をしたくない人間に対し議論を仕掛ける事」
それは、自らの快楽の追求のために他者に苦痛を強いる行為である。


相手が議論快楽人間なのか、議論苦痛人間なのかわからない場合。
その場合は、必ず、肝心要の逃げ道を用意しておくべきである。





議論は、やりたい人達だけでやればよい。
僕はどちらかと言えば快楽と感じる人間だと思うけれど、議論をしたいとは思わない。
まず第一に、感情と思想の優先順位が非常に高いので、単純に言うと議論が出来ない人間である。また、しばらく寝かせないと文章が出来上がらないなので、インターネットのスピードについて行けない。この投稿にしても丸一週間経ってしまっている。だいたい書き始めるまでにそれくらいの時間が必要である。さらに、全人格を否定しながらそういう人間の存在を過剰に認めすぎるきらいもある。つまり、相手が変わる事に期待しない、望まない、という傾向があるので、その点で議論への欲求が湧かない。噛み合わない。ついでに、日本語が不自由であるのでその点においても物凄く大変。
正直、デフォルト設定では議論は不可能である。
デフォルト設定を変更すれば出来なくもなくもないことも無いのだけれど。





結局の所、議論とはやりたい人達だけでやるべきである。
僕はレッツゲレロンされても一向に構わないが、そんな物好きは滅多といない。





議論ってのは有り有り有りでケンカ売るようなトラックバックでもしない限りは
なかなか起こらない



ここがかなり疑問。
有り有り有りでケンカ売るようなトラックバックで議論が始まるとは思えない。
そこで始まるのはケンカでは無いのか。とりあえず、これは後回しにする。











人は何の為に議論をするのだろうか。


「快楽を得る為」という生き物としての欲求、銃無き国の戦争、言霊知的コミニケーションへの尽きぬ欲望といった、根源的な部分を抜きにして、である。







何の為に議論をするのか。
それは、相手を変える為であろう。
あるいは、自分が変わる為である。




ここで「相手を叩きのめし勝利する為だ!」などと即答出来る人間は生粋の議論人間。まず議論ありきの歩く議論、議論の野望、ニュータイプ。





普通の人間が議論を行うのは、「相手を変える為、あるいは自分が変わる為に議論をする」であると考えている。そこで、「人は本当に議論で考え方や生き方を変えるのだろうか?」という疑問が、僕にはある。





人間は如何にして考え方や生き方を変えるのか。
僕が思うその答えは、一応、有る。










「飽きたら」である。
人は飽きたら変わるのである。





それ以外の要素で人間という生き物が変化する事などあり得ないと僕は考えている。「相手に知らない事を教えてあげたら相手は変わった」というのはあるだろう。
けれども、それは、議論ではない。


持っていなかった情報を手に入れ、メタモルフォーゼして大きくなった。
それだけである。




双方が互いに所持している情報のみで言葉を戦わせる、つまりは議論をする事により、本当に人は変わる事が出来るのだろうか。変わったとしたら、それはきっかけが欲しかった、あるいは既に内部的に飽きていた、といったものなのじゃなかろうか、と感じる。





議論人間に問いたい。
あなた方は自分自身を変える為に議論をしているのか?また、議論の展開により自分自身の立場を根本的に変化させる事への覚悟は出来ているのか?


この2点に迷わずYESと答えられない人間は、自分自身が本当に"議論"をしたいのか、趣味としての議論で快楽を得たいのか、という点について考え直した方が良いと思う。


議論好きな人々の多くは、「勝利至上主義」という誰かを見下し叩きのめす事に快楽を得タイプ、あるいは議論くらいでしかコミニケーションが取れないコミニケーション不全の孤独人間であると感じる。










「人間は如何にして変わるのか」
この質問は回答者の人となりが出る。





「面白ければ変わる!」
と言うのが面白さ至上主義者。


「気持ちよければ変わる!」
ってのは、非常に現実的。


「儲かるならば変わる!」
と言うのは貧乏人。


「議論によって変わる!」
と答えるのは変態。


「恋によって変わる!」
と言うのはまったくモテない人。


「人との出会いによって変わる!」
と言うのは中身がからっぽな人。


「愛によって変わる!」
と言うのは嘘と真実の違いを理解できていない人。


「孤独によって変わる!」
と答えるのは、寂しい人。


「意志によって変わる!」
と答えるのは意志の弱い人。


「変わらない。」
と答えるのが意志の強い人。あるいは、悲観論者。
もしくは、真理。











話を、戻す。


話を、逸らす。





オレが送信する反論トラックバックというのは
「ゲーセンの格ゲー対戦台に投げ込む100円硬貨」
という感覚。



ってそれ、格ゲーだと思ってるのあんただけ!ハイスコア目指してぐわんげのeasyモードプレイしているプレイヤーの椅子の横に座って100円硬貨投じてるんだよ!気がつけよ!これだから2ちゃんねらーは駄目だ。決定しました。









お互いの拳と拳をぶつけ合うというコミニケーションも確かにある。
その意義は大いに感じる所であるし、それを否定するつもりも無い。




けれども、拳をぶつけ合わなくても両者大振りの右フックをぶんぶん振り回し、お互いの頬でその風圧を感じあう、くらいの吹けば飛ぶよな無傷の関係だってある。わざわざ躍起になってテンプル当てに行かなくてもいいじゃん。間違って当たってしまったら慌てて引き起こす、あるいは最初から当てるつもりだったと正気を装い適当に誤魔化す、くらいのもので。


だいたい、ブログなんでどこもかしこもいい加減だろう。
正確に言うと、ブログが適当なのじゃなくてブロガーがいい加減なのだ。


人間なんてそんなものだ。
事後解釈のいい湯加減だ。
やりたい放題好き放題だ。














話を、戻す。


何の為に有り有り有りをするのか。
何を目的として言及有り、リンク有り、トラックバック有りを行うのか。


そこで「議論がしたい」と答えては終わってしまう。
はっきり言うと、議論好きな人間はこれが最も多い。
それでは、駄目だと思う。何故ならばそれは最初に述べたとおり、自身の快楽の為に他者に苦痛を強いる行為だからである。スマートではない。あるいは、自己顕示欲な優越感を得る為ではないのか。それはそれでいいとは思うのだけれど、それはそういう事だと思う。


反論を書きたい、自らの主張をアピールしたい、という事以上の意味が本当にあるのかどうか。そうでないならば、議論を行う必要は無い。自分自身で完結させればよいのである。
もしも、相手に論述を求める、つまりは議論をするのであれば、それ以上の目的が必要であると思う。





「誰に、何を、何のために、伝えたいのか」
議論をしたいというならば、それをまず先に確認することである。
それを行うにあたり、議論を仕掛けるという形式が最善手であるかどうか。
それらを確認した上で「議論が必要だ!」と思うのならば迷わず仕掛けるべきである。





またmicroな話で言えば、言及リンク有りのトラックバックは何の為に行うのか。そして、それを実現するためのもっとも適切な手段なのかどうか、そして、それを選択するのかどうか、という点を考えてから行うという選択肢も、有ると、思う。








とりあえず、よろしくやりたい。
今すぐにでもよろしくやりたい。


2005年7月7日木曜日

7月は終わらない。



それでも、7月は来ないと思う。
七月は来ないと思う。






12月は終わらないと思っていた。
6月は終わらないと思っていた。




2月は来ないと思っていたし、4月も来ないと思っていた。
7月だって同じように、来ないだろうと思っていた。

けれども、今は、七夕七日。
それでも、7月は終わらないと思う。

8月は来ないと思う。









時は日を経る事に冗長さを増してゆく。
今がねっとりと絡みついて離れない。
うんざりするくらい、1秒が長い。
どこかに行ってくれ、他の誰かに。






時を止めるなら時を止めるのもよかろうと思う。
時間が経つのを遅くするのもよかろうと思う。
それは、それで。


けれども、僕には、それはいらない。
他の誰かを幸せにしてやれ。


時を止めるなら、時が止まって欲しいと願う人の所へ行くべきだ。
時間が経つのを遅く感じさせるなら、そう感じたいと願っている人の所へ行くべきだ。


そう思う人のところへ行くといい。
ここは違う。そんなものいらない。





歳をとるにつれ時間が過ぎるのを早く感じるようになる、なんてのは嘘だ。
早く歳をとりたいと願う人は、時間の流れを遅く感じ、
遅く歳をとりたいと願う人は、時間の流れを早く感じる。
それだけの事だ。






欲しい物があるのならば、欲しいと願わないことだ。
欲しい物が無いのならば、欲しいと願うことだ。



願おう人の幸せを。
願う自分の幸せを。
地獄の底まで落ちて行け。


2005年7月5日火曜日

悪いトラックバックなど無い。



悪いトラックバックなど無い。
悪い人間がいるだけである。








トラックバックとは道具である。それで魚を捌こうと、鉛筆を削ろうと、エッジに投げさせようとそれはそれ、人それぞれの使い方である。この使い方は悪い使い方、などと言えるものではない。









「悪い言及リンク無しのトラックバック」とは何か。
それは、言及リンクの有無如何に関わらず悪いトラックバックである。
言及リンクの有無如何に関わらず、多くのブロガーが不愉快だと感じるトラックバックである。つまりは、言及リンクの有無はまったく関係が無い。






答えは簡単だ。
いや、単純だ。

アフィリバック、アドリバックである。
あるいはアクセスカウンターバックである。

大多数のブロガーはアフィリバックやアドリバックを被った際に、自分のブログのエントリーが他人の私利私欲に利用されたと感じ、極めて嫉妬的な不快感、不愉快さを感じる。アフィリバックやアドリバックとは、不愉快なものなのである。。

そして、いくらかのブロガーはアフィリバックやアドリバックを被った経験がある。彼らが目にし見て、被り体験した現金ブログからのアドリバックへの不快感が「言及リンク無しのトラックバックは駄目」とする俺ルールの共有の礎となっている。




それを「悪い」と思うのならば、「悪い」と言うべきである。
それを「いけない」と思うのならば、「いけない」と言うべきである。


ただし、対象を間違えてはいけない。
それが「言及リンク無しのトラックバック」に対する悪いいけないなのか、「アフィリバック」に対する悪いいけないなのかは、区別し分けておくべきである。何故ならば、言及リンク無しのトラックバックとアフィリバックとは、似ざる非なるもの、まったくの別ものだからである。











結論から言うと、「良い言及リンク無しのトラックバック」を体験した事が無いブロガーはnoobである。noobはnoobらしく黙っておればよいのである、偉そうに善し悪しを決めようなどとは愚の滑稽である。





良い言及リンク無しのトラックバックとは、何であるか。
「そんなもの存在しない!」と言いたくなる人も大勢いるであろう。

しかし、それは違う。
良い言及リンク無しのトラックバックは確かに存在している。
あなた方の知らない所で、良い言及リンク無しのトラックバックは有るのである。





「言及リンク無しのトラックバック=悪い」との認識を持つブロガーは、エントリーブロガーである。トラックバックというものを、エントリーとエントリーを繋ぎ合わせる道具として捕らえているのである。

「言及リンク無しのトラックバック≠悪い」との認識を持つブロガーは、ブロガーブロガーである。トラックバックというものを、ブログとブログを繋ぎ合わせる道具として捕らえているのである。






はじめに戻るが、トラックバックとは相手方のウェブサイトに、自分のウェブサイトへのリンクを作り上げる仕組みであり、そうする為の道具である。

「相手のエントリーに自エントリーへのリンクを作り上げる為の道具」と考えている人は、言及リンク有り推奨派であろう。エントリー同士の密度、関連性を重視し、その色が濃くない「良い言及リンク無しのトラックバック」を想像出来ないであろう。







しかし、所変わればまったく違う。

「相手のブログに自エントリーへのリンクを作り上げる為の道具」と捕えている人にとって、言及リンクの有無は重要ではない。もちろん、両者ともアフィリバックやアドリバックに対しては悪いいけないとしているだろう。しかし、言及リンクの有無問題とアフィリバック問題はまったくの別物なのである。





良い言及リンク無しのトラックバックを貰ったことが無いブロガーは、エントリーに対するトラックバックしかもらえない部類のブロガーであるか、人密度が薄いブログを運営している、あるいは人密度が薄いブログを思想として選択しているのだろう。

「このブロガーに自分のエントリーをなんとしてでも読ませたい!」と思ってくれる人がいないのだ。まったく哀れだ。「このブロガーに自分のエントリーを読んで貰いたい!」という純然たる感情から行われたトラックバックは、まったくもって愛すべき、言及リンク無しのトラックバックである。












「馬鹿を言うな」
と仰りたい人もあろう。あろうであろう。そういう人達に問う。


仮に最も敬愛するブロガー、あるいは真鍋かをりから言及リンク無しのトラックバックを受けても「言及リンク無しのトラックバックは全て悪い」といった方針を貫き、問答無用のトラックバック削除や、スパマーというレッテル張りを行えるのだろうか?

もしも、恋人がブログを開設した報告記念に「言及リンク無しのトラックバック」をにこやかに寄越してきたら「お前はSUPERMARだ。トラックバックを弁えろ。」と言えるのだろうか?




それにウイと言えるのならば、胸を張って「言及リンク無しのトラックバックは悪いもの」だと主張してよいだろう。ただし、それはあくまでも俺ルールであるということを認識した上で、という条件付きである。俺ルールを自らの運営方針として軸に据え貫く事は素晴らしい事であるが、それをインターネットに押しつけるのはお門違いである。


それ、即ち敬愛するブロガーや愛する人、あるいは憧れの人やブリトニースピアーズから言及リンク無しのトラックバックを受けた際に、「即削除」や、「悪トラ認定」という普段通りの対応が出来ないのならば、その言及リンク無しのトラックバックに対する俺ルールは間違いである。

それは、アフィリバック、あるいはアドリバックに対して制定された俺ルールである。
「言及リンク無しのトラックバック」に文句を言う資格は無い。












気に入らないものを気に入らないという行為は悪いことではない。感情の明文化であり、意志の表記である。人が人たる心の思いであり、それ自体は素晴らしいことである。


ただし、「悪い」とするのか「気に入らない」とするのかに注意を払う必要がある。また、自分が見たことの無いものを存在しないものとして扱うべきではない。

特に悪と定め表記するのであれば、リアルセカイ系な「目にしたものが全て」という論拠に基づく表記を行ってはならない。世界は広く、様々な人間が様々な生き方をしている。見たことの無いものの方が遙かに多いわけであり、それらを想像することが必要である。


見たことが無いものを存在しないとする行為は、ノストラダムスや細木数子を崇めている馬鹿と二分も違わぬものであり、非思考的無思考人間の仕業である。責任も善悪も無き者である。


気に入らないものを攻撃するのは良い。
しかし、無関係の人間を巻き込んで攻撃してはならない。












「優しさ」とは何か。
それは優しさである。
つまり、優しさとは優しさである。



優しさとは、他者を認める行為である。
優しさという概念は多様性を認める時のみに用いられるべき言葉である。多様性を否定し、他者を否定する事は優しさの真逆、「冷たさ」と書き表す事が可能なものである。多様性、つまり他者を否定する為に優しさを持ち出すというのは詐欺師による極めて詐欺師的な行いである。


どこの世界でも馬鹿がやるのは決まってレッテル張りと印象操作だ。スパマーだ優しくないだアフィリバックだとか言っている人間がいるのを見ると、そういう事であると痛感させられる。実に一変調子単調である。















悪いものを世の中から無くすにはどすればよいのか。
答えはシンプル。イズベスト。方法は無い。
悪いものを世の中から無くす方法は無い。
古来より、悪が途絶えた試し無しだ。







例えば、アフィリバックを悪だとしよう。
アドリバックを悪だとしよう。

そうした時に、アフィリバックやアドリバックを根絶するにはどうすればよいのか。
答えはシンプル。イズベスト。方法は無い。
悪いものを世の中から無くす方法は無い。
古来より、悪が途絶えた試し無しだ。






いや、一応はある。

法の制定、罰則の規定、そしてその完全な運用。
悪の拡散を根本的に抑制する方法はそれしか無い。


けれども、それすらも根絶には繋がらない。
つまり、悪い事をやる奴は、悪い事をやる。







「やってはいけないと思うことをやらないという生き方」
それを選んでいる人間にとって、「やってはいけない事」を説くことは確実な効果がある労働であるように思えるだろう。しかし、実体は違う。時として効果無き徒労である。


なぜならば世界には「やってはいけないと思うことをやるという生き方」を選択する人間が大勢いるからである。彼らにとって「やってはいけない」、つまりは善悪を説くことは何の意味も成さない。彼らが動くのは「損得」という単純にして何よりも明快な価値判断である。浮気も不倫も窃盗も、捕まらなければOKだ。




そして、そういう人達、つまりアフィリバックやアドリバックを平然とする輩は常に、他人の迷惑顧みぬ、後者の側の人々である。つまり、アフィリバックやアドリバックを平然とする輩は常に、他人の迷惑顧みぬ、後者の側の人々だという事である。














インターネットは何に基づいているのか。
それは、行きすぎた自由である。

どのような使い方をするのも自由であれば、何をするのも自由である。利用した者が勝ち、という無法秩序が繁栄をもたらし、インターネットを成し遂げているのである。


肖像権や著作権を完全に無視したゴミ共が「俺はファンだから良い」とか「捕まらないから構わない」だとか「問題があったら削除しますのでご連絡下さい」などとやり、俺ルールで私利私欲を貪っている一方で、まともな人間が権利元に有償での利用許可を求めて問い合わせたりと縮こまっている場所である。

無法地帯であるという秩序に基づき成り立っているのである。








1個人としては検索エンジンやはてなブックマークのようなものが人のブログで金儲けをしている事はもちろん、ちゃっかりRSSや2ちゃんねるも当然不愉快である。また、グーグルマップスが我が国の写真を利用している事ですら極めて不快不愉快不倶戴天だ。当たり前の話でアフィリバックやアドリバックへが不快なのはもちろんの事、アマゾンアソシエイトやアフィリエイトの存在自体が不愉快である。

けれども、不愉快さ不快さと善悪とはまったくの別問題である。どこがどう違うのか、などと書くに値する程の問題で無いくらいに別問題である。何も悪くない。寧ろ、善い。














では、法の制定が不可能な不愉快トラックバック問題は解決しないのか?
答えはシンプル。イズベスト。方法は有る。



簡単な話である。
それは技術者の仕事である。



既に「リンク無しのトラックバックは不可能」というレベルは実現している。
そこまでは行けたのだから、その先に進めばよい。


「不愉快なトラックバックは不可能」が実装されればよいのである。
仮に、言及リンク無しのトラックバックが不愉快であるとし、それに対するサービスを提供しようとするならば、「5行以上の言及が無いとトラックバックが通らない」だとか、「800字以上の言及が無いとトラックバックが通らない」といったシステムを作り上げ、ON/OFFの設定と共にそのサービスを提供すれば、アフィリバック問題は部分的に解消されるであろう。
そうやってインターネットを進化させる事こそが技術者の役割である。









道具としてのトラックバックは優れている。
素晴らしい道具である。
インターネット的自由である。



トラックバックとは、削除が可能である。
相手に選択の余地を残している。相手方に俺ルールの使用を許可しているわけであり、インターネットから削除する事が不可能な言及やリンクとは違う、決定的な最大の配慮である。それは素晴らしいことである。


また、トラックバックは時系列を無視出来る。
後から書かれたエントリーに対して、先に書いてあったエントリーからトラックバックを飛ばす事が出来る。これもまた素晴らしいことである。孤独感から共感者や賛同者を探して書かれたエントリーに、20年前に書かれた似た内容のエントリーからトラックバックが来たりすると、多分ある意味では咽び泣くだろう。インターネットは今も尚、到達不可能な程にまで膨張し続けており、時間軸の違う文章同士を結びつける道具としてのトラックバックはその価値を高め、広がりを見せるであろう。当然、それには言及リンクなど無い。


結局の所、不快なトラックバックは無くならず、多様性を増しながら壮絶に増殖し続ける。同様に、愉快なトラックバックも多様性を増し増殖し、発展し続けるだろう。なにせ、インターネットなのだから。









道具は自由に使って良い。
神をぶった切ろうとジャグリングしようと勝手である。


やってはいけないと思う事をやらないという生き方もある。
同時に、やってはいけないと思う事をやるという生き方もある。


優しさとは多様性を認める事を指す。
多様性を認めない事は冷たさである。


見た物だけを全てだと思ってはならない。
リアルセカイ系は愚かにデンジャラスである。


激昂不快、考え思いの表明は素晴らしいことである。
ただし、何に対して激昂不快を感じているのかを間違えてはならない。


悪いトラックバックなど無い。
悪いと思う人間がいるだけである。


善かれと思ってやった事が悪いと思われる事もある。基準は1人1人違う。
悪いと思われたくなければ時と場合と人を見て、行いを選ぶべきである。


2005年7月3日日曜日

美しい裸



風呂に入った。

数日体を洗わなかっただけで、汗で蒸れて皮膚がどろどろになり、なんとかして治そうと懸命に掻きむしっても、爪痕が赤く腫れ上がるだけで、何一つ解決しない。暑さも、臭さも、汚さも、醜さも、弱さも、何一つ解決しない。結果として体中のあちこちが、アブドラザブッチャーの額のようになり、「飾り包丁を入れて焼き上げたいちごパンだと思って見れば、そんなに気持ち悪くない」などと必死で言い訳を考えてみたところで、気持ちの悪さは少しも減らない。これだから夏は嫌いだ。

その何もかもを脱ぎ捨てて風呂に入り、体中に点在するいちごパンといういちごパンの全てに対し、かなり熱めのシャワーを浴びせ、身も心も綺麗になって気分が良く、半裸で鏡の前に立ってみた。すると、美しい。



首から腹まで列を成し、全て丸見えの横骨が絶妙の間隔で整然と並んでいる。自分の裸を見て喜ぶようなナルシストでは無いし、事実喜んでなどはいないのだけれど、鏡に映った自分の裸はそこはかとなく美しい。少しの脂肪もなく極限までそぎ落とされた究極肉体美、などと書くと誤解されそうなので一言でそれを表すと、ボクシング選手の体から筋肉を全て取り除いたような裸である。

あまりにも美しいので酔いしれてじっくりと観察していると、右胸は収穫し終え放置されたサツマイモ畑の畝のようなでこぼこであるのに対して、左胸はAAAカップくらいの膨らみがある事に気がつき、「揉めるのではなかろうか」などとよくわからない感情に捕らわれ、執拗に撫で回してみたのだけれど、手の平に伝わるのはゴツゴツとした骨の感触だけであり、少しがっかりして脇の下を揉んだり、尻を揉んだりしてみたけれど、虚しくなる一方であった。


とはいえ、やはり美しいものは美しいわけで、その醸し出す曲線美やら間隔やらに酔いしれていると「ああ、人間に生まれて良かった」などと在り来たりな感嘆符を打ってその凡庸さに辟易したりするくらいに、それは美しいわけである。

けれども僕は、他の生き物の裸をじっくりと見た事が無いので、おそらくこれはただ単に「人生経験が足りないだけ」という悲しい美しさへの驚きなのだろう。そんな事は気にせずに、美しいと言い切れるくらいに、僕の裸は美しい。途方もなく美しい。




結局の所唯一の美しさとは、裸ではなく骨なんだろうと思う。


2005年7月2日土曜日

姓名



ブログを書き続ける気がある、という現状の真性引き篭もりhankakueisuuが強制終了させられるものは、実名以外に思い当たらない。つまり、実名匿名ってのは僕にとってそれなりに重みのある近い問題である。






なぜそのような、となるとそれも答えは簡単で、僕がこれまで過ごしてきた歳月というものはは羞恥呵責の限りでしか思い返せぬものであり、想像しただけで耐え難い。




本名というこれまで背負い刻んできた人生とは隔離された場所であるブログと、「IDは半角英数で」というブロックブログの説明書の文字列から引っ張ってきた、完全に無個性な、ハンドルネームですら無いハンドルネームを用いる事により冷静に、これから先も解決する事の無いであろう多くの怨み辛みの私情から距離を置き、自分自身が何をしていたかを記録し、何を考えていたかを確認する為にブログを始めたわけである。一言で言うと自己との対話であり、姓名や容姿といった"私"から自分自身を切り離し、出来る限り客観的に確認するためである。


自分にとっては姓はもちろんの事、名も同じように、目にするのもおぞましい文字列であり、その憎悪入り交じったおぞましい1人の人間が書いた文章を読み返す、ってのはおそらく精神的に持たないだろうと思う。


また、姓名と繋がった含む自分自身の書いた文章を読む事が耐え難いのと同じくらいに、親バレ弟バレも無理だろうなと思う。間違いなく即DELするだろう。







すなわち、僕の認識では「実名問題で取り乱す奴はよっぽどろくでもない人生を歩んでいる」という事であり、本名出されて取り乱している人は全員物凄くかっこわるい人。
多分、真性引き篭もりかなんかだな。絶対。







強引には無しを繋げると、インターネットが実名化したところで何も変わらないだろうと思う。当たり前の話だけど。


1つ言える事としては、実名化して平気なのは、実名が問題を抱えておらず表裏のほとんど無い悟り気味な穏やかな人達と、実名を売る事で利益を得られる人達、あとは包丁持って学校に切り込むような恥も外聞も無い人達か。

残りの多くの中間層の人達は、実名に否定的だろう。
なにせ、何のメリットも無いだろうから。


実名は攻撃される材料にこそなれ、攻撃者を抑制する材料にはならない。
「ウェブ上で匿名者に理不尽な攻撃されてプンスカプン」とか言ってる人達は、オフライン上で実名を知っている相手に理不尽な攻撃をされた事が無いかどうか、一度思い返してみるといい。


そして、インターネットってのはオフラインの数倍~数百倍もの他人と繋がる道具であり、理不尽な思いをする可能性もそれだけ増える、って事だ。罰則のない罪は無くならない。また、リターンがリスクより大きいものも、同じように無くならない。単純な話だ。
















「じゃあ、コメント欄を閉鎖する以外に道は無いのか?」
って問われると、実はそうでも無いと思う。
幾らかの人は納得できる、いい解決方法がある。





「コメント課金」、これ。

「100字100円!」とかいった具合に課金する。
「1000円じゃ割に合わない」とか思う人は、
「100字100万円!」とかいった具合に課金する。
払ってくれたら何を書いても構わないよという合意を双方で行う。

「ネチケットを守ってくださいね(^^)」だとか、「コメントしたい奴はまず妹とfuckさせろ!」とかそういうのよりはよっぽど現実的だと思う。

もちろん、アブラヒモビッチみたいなのが「死ね!」「バーカ!」とか粘着してくるって可能性もあるけれど、それはそれで管理人にとって金払いのいいコメンテーター、ってわけで旨みのある客って事で。「もっとぉ!もっと言ってぇ!ひゃー!ひゃくまんポンドー!」みたいなMの快楽。




もしも「コメントに課金出来る」ってのがあると、それなりにではあるけれど、機能するだろう。「そんなの払ってまでコメントする奴いないよ!」っていう意見もあろうかと思うけれど、人力検索はてなに500円も1000円も出している人がいるのを見ると、案外普通のサイトのコメントに課金しても支払う人はそれなりにいるんじゃないかと思う。

また、課金コメント欄と無料で送れるメールアドレスが併記してあれば、普通の人はメールを送信するだろう。すると、「金を払ってでも言いたいコメントのみがコメントとして残る」という自動選別的なメリットが生まれたりもする。


そりゃあ、まあ、寄付的なキモさは消えないけれど、興味の無いGoogleアドセンスを信者がクリックしてゆく光景とかよりは、よっぽどマシだろう。コミニケーションに課金する=宗教的、あるいはキャバクラ的な壮絶な気色の悪さはあるのだけれど。








「金払ってくれてるんだから好きにさせてあげとこう・・・」
くらいが、適度な妥協の位置なんじゃないかな、と思ったり。




話が逸れた。


2005年7月1日金曜日

言及リンク有りのトラックバックの何がいけないか。



ブログのエントリーとエントリーの間には、3つの関わり合い方がある。
「言及」「リンク」「トラックバック」である。

相手ブログへのリンクを張ると、当然であるが相手側にアクセスが流れる。
トラックバックを撃つと、相手側から自エントリーへアクセスが流れる。

そして、重要なのは、アクセスとは暴力であるという事である。







世に蔓延るアフィり乞食らにとって、アクセスとは諸手のメリットである。
けれども、全てのブロガーがそのような思想を持っているわけではない。


自らが呼び込んだ常連読者にエントリーを読んで貰いたいと考え、自分の思うこと考えることを書き綴っているブロガーや、ブログ読者ではなくて馴れ合い読者と馴れ合いたいと考えているような人間も大勢いるのである。そのような人達にとって、見ず知らずの読者が「リンク」を通じて一時的に大量に流れ込むことは、ストレスそのものであり、デメリットに他ならない。

10/dayアクセスのブログに100/hourアクセスが流れ込んだ時、その心理的な負担により、ブロガーはブログを止め、mixiに引き篭もったり、更新頻度を減らしたりといった悪い結果をもたらす可能性がある。


様々なタイプや生き方の人間同士が残酷に機械的に結びつけられてしまう、誰もが加害者と成りうるインターネット上において、出来る限り加害者になりたくないと思うのならば、「言及リンク無しのトラックバック」という交流形式が最も相応しい。何故ならばそれが最も人に優しく、距離を置いたままで相手側にエントリーを飛ばす方法だからである。








事はアクセスカウンタだけの問題ではない。

ブログには、エントリー毎にコメント欄というBBSがデフォルトで設置されている。
リンクを張ることにより、そのBBSに言及リンクを行った当該エントリーしか読まない(あるいは、それすらもまともに読んでいない)ような頭の湧いた書き捨てコメンテーターが流れ込み、暴れ荒らす可能性がある。






コメント欄で暴虐非道を尽くす荒らしというものは、どのウェブサイトにも、一定の割合で潜んでいるのである。それがインターネットである。


また、いわゆる一般的には荒らしではない人間でさえ、軽はずみなコメントや、空気を読み切れなかったコメント、文脈や真意を理解しないコメントや相手側の趣向とは違う行動により、管理人や住人を傷つけてしまう可能性がある。誰もが、所変われば荒らし暴徒と成り得るのである。


「うちの読者は全員いい人ばかりだから!」というブログでさえも、もし言及先のブログ管理人の心を考えるならば、あえてリンクを張らない、あえてアクセスを流さないという、相手方への気遣い気配り、無用な心労に対する予防措置も、選択肢としては十二分に存在しうるであろう。










さらに、読者はリンク先を読まない。

手元のデータとかによると、言及リンクで流れるのは1/5程度のアクセス数であり、リンクのみで流れるのは、1/10かそれ以下という数字である。また、そのうちのどれくらいの人が文章を丁寧に読むのか、という事になると絶望的な数字になるだろう。大多数の読者はリンク先を読まないのである。

ありとあらゆる各ブログの各エントリーが、読者というものにとっては最終ソースとなり、信頼されてしまうのである。そんな時代において「言及」という形で相手側のエントリーを紹介するという事は、もしもその言及が誤読、あるいは誤解に基づくものであった場合、あるいは文脈や流れというもの、背後関係を捉えきれていなかったものであった場合、誤読誤解が最終ソースとしてインターネッターの心の中に残り続ける、取り返しのつかぬ事態を生むのである。


もちろん、インターネットとはそういうものである。やられて当然されて当然、ルールもマナーもモラルも全てが形骸化した世界である。けれども、その一行に加わりやるのか、あるいは自制しやらぬのか、という点は1人1人が決めることである。








また、インターネットには色々な立場の人間が存在する。
ある立場の人間にとって「そのエントリーは間違っている」と声を荒げたくなる文章は、ある立場の人間にとっては「一理有るもの、正しいもの」となるのである。

その立場の違い、多様性というものを容認するのか、容認しないかの違いである。

言及リンク有りのトラックバックとは、逃げ場を残さぬ責めであり、
言及リンク無しのトラックバックとは、多様性を容認する緩い交流である。

言うならば、逃げ場の無い追いつめて論述バトル化するのか、「こういう考え方もありますよ」と、インターネットの緩い交流、即ちトラックバックというものを利用して相手方に対論の存在を知らせるのかの2択である。



例えば、「駅のプラットホームでの喫煙くらい構わないじゃないか!」とブログに書いている人間を見つけて、言及リンク有りのトラックバックで「こんな事言っている奴を見つけた!この人は全面的に間違っている!最低!最悪!」とやるのか、

「私はこういう経験から、駅での喫煙は禁止した方がいいと考えています。」という、言及もリンクも無い、緩い関連性のあるエントリーをトラックバックで飛ばし、緩やかな思考の交流を行うのか、という違いである。



僕は迷わず後者の、言及無しリンク無しのトラックバックという、緩い干渉、緩い歩みのコミニケーションを支持する。何故ならば、言及無しリンク無しというトラックバックは、「削除すれば痕跡は残らない」という、最も人に優しいオブジェクションであり、言及有りリンク有りが検索エンジンに永久に痕跡を刻み込むのに対して、遙かに人間的であると考えるからである。

「嫌なら消せる」
それは、言及無しリンク無しのトラックバックが誇る最も優れたポイントである。

















「かつて、ウェブサイト間には紳士協定のようなものが存在していた。」

「リンクは許可制」だとか、「趣向をご理解いただけないサイトからのリンクは禁止」だとか、「俺が気に入らないサイトからのリンクは禁止」、「MIDI聴いたら必ず感想書いて!」といった紳士協定的なマイナールールが存在しており、それらはある程度まで、緩やかながら守られていた。

そのような、正当性を持たない日記サイト的、あるいはテキストサイト的なローカルルール、紳士協定はブログというコメント付きのグローバルに飲み込まれ、ヴァーリトゥードな時代を迎えた。



今やブログのインターネットは、繋がり過剰という事態を迎えているのである。


かつて「被リンクが存在するサイトのみ取り上げる」といったような方針を持つ、個人ニュースサイトがあったりもした。けれどもそういう流れは完全に断たれ、壁無きアクセスが暴徒と化して流れ込む時代である。

エロゲーメーカーの新着OPムービーを毎日毎日書き連ねてアフィってるようなサイトから容赦なく暴徒が襲い来る時代である。

もちろん、それ自体は素晴らしい事だ。1個人としては、馬鹿が暴れようと暴徒が流れ込もうとお笑い誤読が繰り返されようと、そういう光景はある部分では大好きだ。血みどろ最高馬鹿最高である。




けれども、僕のように無神経さを容認する書き手はそうは多くはない。
1人のブロガーを叩きのめすには心ない1コメントで十分であるし、1人のブロガーから更新意欲を奪い去るには、普段の5倍の一見アクセスで十分なのである。ブログを書くのは、タフで非人道的で横柄なハイネッターばかりではないのである。



加害者となる可能性を持つ「言及リンク」というものを行うのか、行わないのかという2択である。その選択肢は残されるべきであるし、容認されて当然の紳士的行為である。

そういう意味では、はてなダイアリーの「リンクが無ければトラックバックが通らない」という仕様は、市民がスパマーの犠牲となった1つの例であり、繊細で弱い関わり合いをシステムの側から全否定しているものである。







リンクが相手側へのアクセス依頼、荒らし依頼であるのに対して、トラックバックとは自ブログへのアクセス依頼、荒らし依頼である。言及リンクという、暴力可能性を行使せずに、トラックバックのみを行うという行為は、最も気配りの効いた、最もフェアな他ブログの他エントリーへの干渉である。

「言及無し、リンク無し、トラックバック有り」
とは、最も正々堂々紳士的、緩い係わり行為である。





「言及無し、リンク無し、トラックバック有り」の抱える卑怯さとしては、「間違った事が書かれていてもそのブログの読者は気がつかない」というものがある。
けれども、その間違いが致命的であればトラックバックを通じて反論者が流れ込み、そのブログの読者にも判る形で表面化したり、あるいはカウンター的なトラックバックで反論を受けたりするであろう。言うならば、アクセス依頼、荒らし依頼としてのトラックバックが機能して、そのデメリットを抱擁するだろう。





アクセスとは暴力である。
言及とはレッテル張りある。
リンクとは荒らし依頼である。

結局の所、そういう事である。













「言及有り、リンク有り、トラックバック有り」という暴力の実例がある。

http://blog.goo.ne.jp/wakainkyo/e/f867e83a2bf20cf35f2b6d216c321595
上記のエントリーでは言及有り、リンク有り、トラックバック有りによる問題点の指摘が行われているが、まったくもってただの暴れ馬鹿である。

これは正しく、有り有り有りの最も悪いパターンである。
何故ならば、相手に逃げ場を与えていないからである。


ここで若隠居が行っている言及有りリンク有りのトラックバックは、相手側にとって逃げ場の無い、冷血非道な干渉である。

世の中には色々な人がいるわけである。
若気の至りで失言や放言をして反省したりする人もいれば、デマを流して差別を広める事くらいしか生き甲斐の無いような人もいるわけである。それらインターネットにちりばめられた軽はずみなエントリーに対して、まともに論考の出来る弁説の立つ人間が「言及有り、リンク有り、トラックバック有り」という形で全否定し、大量のアクセスを流し込む行為が、末端のブロガーにとってどれだけの負担になるのかという事をまったく理解できていない。仮に、ウェブ上に存在する全てに対してそれを行っているならばその振る舞いも幾らかは理解出来る。しかしこれがやっている事は、自分の目についた雑魚を殺してカタルシスを得ているというだけの話であり、極めて悪趣味な話である。

もしも「人は論破されれば考え方を変える」などという認識を持っているとしたら、それこそ救いようがない。人が考え方を変えるのは思考の重ねの果てであり、有り有り有りで逃げ場無く叩きのめせば良いというものではない。やるならやるでショッピングニュース速報とか潰すくらいの事はやれよ。だいたいからして横線入れてご満悦ぶってるような変態は変態らしく大人しく女子中学生で公開オナニーでもしてろ。それくらいがお似合いだろ。


敵の城を囲むのならば、東西南と囲んだ上で北口を開けておくのが礼節である。それが言及無しリンク無しのトラックバックで成し遂げる事が出来るのならば、そうするべきである。










そもそも、言及とは誤読であり、言及リンクとは誤読リンクである。
読んだ人間が勝手に好き放題にコメント添えて、1から全部書き直し、インターネットに再放流する行為である。インターネットとはそういうものであるからして、「やられて当然」の事ではあるが「やるのが当たり前」の話ではない。

固有名詞を出した言及を行うのか、リンクを張るのかといった事柄は、各自が考え内容と相手を見、熟考を経て決めるべきである。








エントリーとエントリーの間の3つの関係。
「リンク」「言及」「トラックバック」は、1人1人が1つ1つのエントリー毎に、それぞれON/OFFの自由を所持するものである。そのどれをONにし、どれをOFFにしようと、何も悪いことでは無いし、否定されるような事ではないのである。


当ブログでも「リンク無し、言及無し、トラックバック無し、相手無し」という究極に緩い係わり方から、「リンク有り、言及有り、トラックバック無し」、あるいは全て有りといったものまで、色々なやり方をやってきたわけであり、今後も時と場合と相手により、使い分けて行くつもりである。















というか「言及リンクのないTrackBackの何がいけないのか」ってそれはただ、他人が儲けている事に嫉妬したアドりアフィってるアクセス乞食が、屁理屈こね回して間抜け面晒してるだけじゃねえか。

現金乞食の分際で多様性を全否定して傲慢な俺ルールをインターネットに押しつけてんじゃねえよ。脳の随まで腐りきった人間が偉そうな物言とはいい時代だな。

挙げ句の果てには言及無しリンク無しのトラックバックをする人間はスパマーだってレッテル張りか。アフィり乞食はアフィり乞食で固まってアフィり乞食の教祖と化してアフィり乞食ワールドで王様ぶってろ。インターネットに出てくんな。迷惑だから。

ゴミはゴミらしく一生ゴミ箱アフィってろ。