2005年7月12日火曜日

ブログの為なら女房も泣かす。



ギャンブルに人生を漬け込んだ男が金を目当てに他人を殺すと、「たった2万円の為に人を殺すだなんて」と伝えられる。確かにそれは馬鹿げている。




けれども「○○の為に○○を行う」という事自体が馬鹿げているわけではない。
「Aの為にBを行う」というのは当たり前の事であり、普通に行われる事だ。








「2万円の為に人を殺す」にしても、そうだ。Aを別のものに置き換えれば、あるいはBを別のものに置き換えれば至極当然な話になる。




「愛する人を守る為に人を殺す」
なら極めて当たり前の話だ。逆に、誰かを殺さないと愛娘が殺されるシチュエーションにおいてでも「俺は殺らない」と言ってしまうな大人は、人としてどうかと思う。

これが「上司の名誉を守るため」だとか、「ヤンバルクイナを守るため」、あるいは「ペットのミヤマクワガタを守るため」などとなると、ちょっとおかしな話に聞こえる。
少なくとも、僕の耳には。





また、「2万円の為に皇居の周りをスキップで一周する」といった話であれば、世間一般の価値観からすると「いい小遣い稼ぎ」って所だろう。そんな気力も体力も無い僕としては門前払いのお断りだけど。

それが、一周5キロのスキップで無く、「2万円の為に、とびっきりの麻婆豆腐をたいらげろ!おまけに杏仁豆腐もだ!」という話であれば僕だって乗る。"とびっきり"の指すものが量ではなく味ならば、という条件付きで。








つまり、生きるとは是即ち「何かの為に何かをする」という事だ。

「愛される為に愛する!」
「楽しむために嘘をつく!」
「2万円の為に他人を殺す!」
「引き篭もる為に貯金をする!」
「献血する為にレバーを食べる!」
「コールガールを呼ぶために働く!」
「視界から消し去る為に走り続ける!」
「小銭を稼ぐ為にスパムメールを打つ!」
「信じたいものを信じる為に目を逸らす!」
「斜めに揃える為に為とためを使い分ける!」









結局の所、「こういう状況に陥ったら誰かを殺すかもしれない」という事くらいは想像出来る人の方が、至って普通で真っ当な、まともな心の持ち主の、平穏豊かな人生だ。




「どんな事があっても人を殺したりは出来ないだろうな」
などと考えてしまうのは、まったくもって寂しい人だ。
見窄らしい人生の果ての今を行く、まったくもって哀れな人だ。







残念なことに誠に僕は、どちらかというとそちらの側だ。
「こういう状況なら誰かを殺すかもしれない」などと想像出来ない人間だ。


例えばビルローパーがフェルナンドイエロにバナナで殴られ殺された所で、フェルナンドイエロをどうにかしようとは思わない。ただ、バナナを食べる度に、ビルローパーを思い出すだけだ。極めて軽度な関連づけが行われるだけだ。
薄っぺらい感情の、薄っぺらい人生だ。




では何ならば出来るのか。

人を殺すのは無理だけど、蚊を打つくらいなら躊躇無い。けれども、ユスリカハムシはちょっと無理。ハエトリムシやウスバカゲロウとなろうなら、絶対もって、まったく無理だ。

おまけに、蚊やユスリカを殺った所で、得られるものは何も無い。
行う動機が見あたらない。




では、何の為ならユスリカを打てるのか。

手に入れたいものなど無いし、守りたいものも無い。
愛する人などもっての他だ。論外桃の木洗濯機だ。
「パルメイラスコリンチャンスの決勝戦を見せてやる」って言われても、ユスリカハムシはちょっと無理。飛んで火に入る夏の虫にも大きく後れを取る程の、忘れ消え行く薄っぺらい興味だ。薄っぺらい感情の、薄っぺらい人生だ。








ユスリカは打てない。

ならば何なら出来るのか。
答えは簡単、あるいは単純。
何も出来ない。何一つ。
無能の極みのその先である。




だから。あるいは。または、では。
ユスリカハムシは殺せない。
ならば、それなら、ブログを書こう。
蚊を書くように、打ち続けよう。



何の為に?

「ブログの為に人を殺せるか?」
って問われると、答えはNOだ。絶対無理だ。極めてエセな、偽ブロガーだ。それにYESと答える人が、正真正銘本物の、ブログの為のブロガーだ。だからただ、ブログの為にブログを書く。


何の為に?

それはもう、明白。DOTA allsatarsや自己との対話、それは2の次、3の次。昔の話、終わった話。今はひたすらブログの為に、ブログを書こう。







喜びたい奴を喜ばせる。
怒りたい奴を怒らせる。
悲しみたい奴を悲しませる。
楽しみたい奴を楽しませる。

笑いたい奴を笑わせ、泣きたい奴を泣かせる。
罵りたい奴を罵らせ、褒めたい奴に褒めさせる。
憎みたい奴を憎ませて、愛したい奴には愛させる。


喜怒哀楽、冷笑愛憎、華麗なスルーと読み流し。読みたいように読まれるように。
誰かの心の娯楽の端の外れの為に今はただ、落ち着き払ってブログを書こう。
矢よりも遅い光陰に、置き去りにされる時間の中で、落ち着き払ってブログを書こう。

















結局の所、I AM BLOGER !
(結局の所、私はブログを書きます!)

2005年夏、真性引き篭もりhankakueisuu、ブログの為にブログを書く。