2015年5月30日土曜日

ケイブざまああwwwwwwっw

今日は気分がいいぜ!!!!!!!!!!って思ったら、濁点が無かった。冷静に考えてみればゲイブに2900万円の損害とかノーダメだった。ごめんなさいケイブ。僕は心が汚れている。誰かの不幸を喜ぶのはよそう。

2015年5月29日金曜日

ブログは一人では書けない。

一人でブログを書けるというのは幻想である。ブログは決して一人では書けない。ブログとは希望である。インターネットとは希望の地である。その希望が潰えた時、人はブログを書けなくなる。ブログを書くという行為は存在しないであろう誰かとの共同作業である。言うまでもなく、このブログの全ても一人の力で書かれたものではない。存在しない誰かとの共同作業である。そして僕はその存在を信じている。いや、それは確かに存在していたのだ。過ぎ去った遠い過去においては。もう居ない。僕はブログを書き得ない。

絶好調の日

絶好調の日に10時間くらいぶっ通しでブログを書き続けた結果として、デスクトップにあった5つの草案が書き上がり、尚且つ2つの新規エントリーが出来た。けれども僕は貧乏性なので、それらを投稿することはしなかった。「ああ、これを取っておけば体調を崩して寝込んだ日なんかにコピペして投稿ボタンを押せば済むな」などと考えてしまったのだ。一晩寝て過ぎて翌日書き上がっていたはずの投稿にざっと目を通せば、「これはまだ投稿ボタンにまで辿り着いていないクオリティだ」という謎の叱責を受け、書き上がっていたはずのエントリーを1から書き直す羽目に陥り、絶好調の日の10時間は実質0時間0分0秒として僕の人生に重くのし掛かるのであった。あまりにも、わたしは厳しい。投稿ボタンはまた遠い。

ご飯食べて寝て起きて死んでいくだけの人

僕が読んでるブログのブロガーにはまともな人生を進めている人の割合の方が多く、そうでない人も何か趣味を持っていたりしてコンテンツを消費してそれなりには楽しそうに生きているんだけれど、自らの人生を一切進めず、かと言って何をも消費せず、飯食って寝て死んでいくだけの人も居てああいう人は何が楽しくてブログを書いているんだろうか。

2015年5月28日木曜日

ブラウザの履歴を消せば過去を全て消せる気がする

僕はよくウェブブラウザの履歴を全部消去する。どうしてそんな事をするかというと、履歴を消すと過去が全て消えるような感覚があるからなだよね。インターネットを見ていても、本当に見たいものを見たって思うような事は滅多と無いし、この文章が読めて良かったって思う文章にも滅多と行き当たらない。だってインターネットっていうのはそんな所じゃないからね。時間を捨てる為の場所であり、時間を捨てさせてお金を稼ぐ為の場所なんだ。だからウェブブラウザの履歴には自分自身の間違った時間の使い方が記録されている。突き詰めて言えば間違った人生がそこにある。その履歴を全て削除すると、自分の間違った時間の使い方、自分の間違った行動が全て帳消しにされるような感覚があるんだ。"ウェブサイトの履歴を全て消去する"をクリックする度に思うんだけれど、本当に良かったと思えるウェブサイトはどのくらいの割合で存在するんだろう。ないよね。全然ないよね。ポテトチップスとコーラだって生きていく為には必要なんだって強弁する事も人によっては可能だろうけど、僕にはそれが出来るだけの強さがない。自分の人生を振り返っても、楽しかった事や嬉しかったこと、あるいは幸せだったことも含めて、削除したい履歴しかないや。

触れるゼータ関数、食べるゼータ関数に続く、読めるゼータ関数をずっと作っていたのですが、遂に完成したので公開します!

ゼータ関数

2015年5月27日水曜日

フロー状態にならない

頑張っても頑張ってもトランス状態にならないと泣き言を言うと、「それは頑張っていないだけ」だと返される。頑張ることと、トランス状態になることがイコールで結ばれる人達にとってはそうだろう。努力をすれば必ず超集中した状態になる人、頑張れば必ず超集中した状態になれる人。世の中にはそういう人も居る。けれども僕等はそうではない。

僕等は頑張っても、トランス状態にはならない。何故かというと、目的が違うからだ。頑張れば必ず超集中になれる人達の目的は、集中して、努力して、一生懸命頑張って、何かを成し遂げる事だけれど、僕等の目的は何かを成し遂げる事じゃあ無いからだ。

僕等の目的は、自分を少しでも好きになること。頑張ってる自分が好き、努力した自分が好き、夢に向かって一生懸命に時間をすり潰した自分が好き。何かを成し遂げたいだなんて、これっぽっちも思っていない。ただ、自分を好きになりたいだけ。頑張らない自分よりも、頑張ってる自分の方が好きになれそう、努力しない自分よりも努力する自分の方が好きになれそう。そんなぼんやりとした期待だけで、頑張ってる演技をしたり、努力をしている演技をしているだけ。

頑張っても頑張ってもトランス状態(超集中状態)にならないのは、あなた自身がそうしていないだけ。トランス状態は勝手になるものではなく、自らの意志でそうするもの。全てを忘れてトランス状態で作業をしたいならば、そうなるのを待つのではなく、自らの意志でそうすればいい。簡単なこと。自分の意志でそうすればいい。

バラク・オバマとはなんだったのか。

「40代の弁護士が政治家になって国を変える、そんな事は日本では無い」

アメリカをさも素晴らしい国であるかのように言っていたあの人達はどこで何をしているのだろうか。任期を2年残したバラク・オバマは、ジョージ・ブッシュを超えた、歴代最悪の大統領として認識されている。

確かにオバマは大統領選挙で強かったのかもしれない。けれども、オバマが所属する民主党は、大統領選挙での勝利が濃厚だった優勢政党である。オバマじゃなくたって、ロムニーには勝っていただろう。オバマとは一体なんだったのだろうか。




1,オバマは完全に無能で間違った政治家だった。
無能な政治家を、"YES WE CAN"のワンフレーズと肌の色で選んだ。オバマケアやグアンダモ基地閉鎖なども含めて、オバマの主張を冷静に見れば、オバマが出来もしないこと、やればより悪くなる事をしようとしているのは明らかで有り、愚かな政権運営を行う最悪な大統領になるであろう事は十分に予測出来たが、誰もがYES WE CANの熱狂に踊るばかりだった。民主党の他の候補ならば遙かに良い未来が待っていた。それどころかロムニーですらオバマよりは随分とマシだった。

2,オバマの政策はあっていたが、無能な政治家だった。
オバマケアは考え方としては正しかった。けれども、やり方が180度間違っていた。基地閉鎖問題も考え方は正しかった。けれども交渉能力が無かった。軟着陸させる能力も無かった。考え方としては正しかったが、大統領としては完全に無能だった。

3,正しい有能な政治家だったが潰された。
オバマがやりたいことを思い通りにやっていれば素晴らしい大統領になったのに、抵抗勢力によって潰されたのだ。かわいそうなオバマ。




どれなんだろう。日本語で読めるテキストは何れ幾つも出てくるだろうけれど、2と3の間ら辺でふらついて、「政権運営は失敗だったが、存在自体に意義はあった初の黒人大統領」みたいな落としどころの煮えきれないふわふわとしてテキストが時事ネタでアクセスを稼ぐインターネットライターによって大量に生み出されるだけで終わりそう。「オバマが選ばれる事こそが民意であり、正しい事、正しい選挙」といった日本を覆った謎の雰囲気は総括されないままで未来へと、まったりと続いていくんだろう。もちろん、既にオバマを強い調子で否定している人達は居るけれど、それが"間違ったオバマを選んだ"のか、"正しいオバマを選んだがオバマが間違った"のかはよくわからない。日本のインターネットにおけるYES WE CANの受容は不気味だった。

2015年5月25日月曜日

うんざりしてやめる準備

都構想なる投票で負けた橋下が政治家を辞めるそうだ。どんな時でも、どんな事でも、一番楽なのは投げ出す事だ。けれども投げ出すには理由が必要になる。理由無しに投げ出してしまうと、それはまるで負け犬のようだ。理由があれば違う。理由というのは筋の通った言い訳だ。なので、人は誰しも心のどこかで常に投げ出す為の理由を探している。うんざりしてやめる為の理由を待ち望むようになったらおしまいだし、たとえばそれが訪れたとしても無視してスキップ出来るような心構えでいなければならない。とりあえずこのエントリーはうんざりしてやめる

2015年5月23日土曜日

気力すらも失う。

人生が楽しくないから夜通しブログを書いていたら興奮して眠れないからインターネットをしていたら気分の悪くなるウェブサイトしかなくて不愉快で眠る気力すらも失う。

2015年5月19日火曜日

素敵な事が思い浮かばない。

やりたいことがない。成し遂げたいことがない。近づきたい人がいない。なりたい自分がない。楽しいことが無い。知りたい事がない。見たい未来がない。行きたい場所がない。素敵な事が思い浮かばない。苦しみ起動型の不確かなぼんやりとした夢や目標は浮かぶけれど、確かなものは何も無い。確かな希望はなにもないし、やっかいなことに、それを欲しいとも思わない。だからそんな僕は一日中、素敵な事ばかり考えている。

2015年5月15日金曜日

ブロガーの読者に対する暴力

ブログで「向こうに書いたのでここでは書かないけれど」とか「某所で述べたように」とか「詳細はフェイスブックで読んでもらうとして(フェイスブックのアカウントは明らかにしていない)」とか、「前にきちんと書いたんだけれど」みたいな事を言う人が居るけれど、あれって読者に対する暴力だよね。書いたけれどおまえには読ませないぞ、という暴力。

それと比較すると糞みたいな自らの過去ログを毎回毎回得意気に5も10もペタペタと貼りまくってる人の方が、暴力性がなくて平和でいいよねと、ならなくもない。いや、そっちの方がいいよねって風にはならなくて、どっちも辟易するけれど、少なくとも暴力性はない。

平和なはずのインターネットの暴言なんて見当たらない平和なブログの過去ログを読み進めている最中、見知らぬ人の唐突な「てめえに読ませるブログはねえよ」という暴力に晒されて、わけもなく傷つく。

2015年5月13日水曜日

人は一人では生きていけない。

川を見ると黒い。何かと思えばウナギである。沖縄の男の二の腕の腕毛のように、上流から下流までの見渡す限りを右に左に縮れるように僅かによれた小さな黒いウナギが規則正しく綺麗に並んで泳ぐでもなく沈むでもなく、浮くでもなしに漂っている。左の方から歩いてきた痩せて禿げたムンクの叫びのような顔をした初老の男がガードレールの上から訝しげにそれを覗き込み、ウナギがようさんおるやないか、やはりテレビっちゅうのは嘘ばかり言いよると、全てを疑い軽蔑するその眼差しの根拠を得意気に大きな声で一人つぶやくが、「あれはヤツメですよ」と横に居た老婆がすぐにそれを打ち砕く。ヤツメもウナギやろ。

ヤツメウナギはヤツメウナギである。ウナギではない。魚ですらない。水の中を泳ぐヘビのようにも見えるがヘビではなく、巨大な黒いコウガイビルのようにも見えるが無論の事ヒルでもない。ヤツメウナギは驚くべき事に、ヤツメウナギなのである。手もなく、足もなく、それどころか鱗もなく鰓もなく、事もあろうか口までない。よって魚類には分類されない。ヤツメウナギとその亜種によって、1つの類に分類されている。名前からわかるように、目のようなものが8っつ、頭の横に並んでついている。うちの一つは目であるが、残りの7つは目ではなく、目が役に立たない真っ暗闇の泥の中で生きていく為の器官である。

ヤツメウナギがもしもウナギであるならば、口が有って然るべきその場所には、まるでたこの吸盤のようなぽっかりと丸い大きな穴が底なしに開いており、その地獄へと続く蓋を閉め忘れたマンホールのようなおどろおどろしい小さな穴で、生きた獲物にぴったりと貼り付き、凄まじい力で吸引し、血肉を吸い取って食べるのだ。かつて河童と呼ばれた想像上の生き物の正体は、ヤツメウナギのことであろうと言われている。

地球上で現在確認されている生物の中で、口を持たない最も巨大な生物。ウナギではなく、それどころか魚ですらない生き物であり、ウナギという偽の名を持つ、ヤツメウナギ世界に君臨する唯一の絶対なる王なのである。残念ながらヤツメウナギは、ウナギのようにはうまくはない。中国人ですら食べる事はせず、干して粉にし鳥目の薬として水で飲んだ。ヨーロッパでは大量に沸いたヤツメウナギを干して固めて畑に撒き、小麦に変換するという手間をかけてからそれを食べた。あんなものをそのまま好きこのんで食べるのは、世界中広しと探しても秋田県民と韓国人くらいのものだ。そんなヤツメウナギも過去の話。昨今では全ての護岸をコンクリートで塗り固めた我が国の、国土開発の波に押されてその姿を消しつつあり、レッドデータブックにおいてもウナギよりも危険度が一段階上のCR、絶滅危惧種に分類されている。けれども誰一人としてヤツメウナギの事など気にはしなかった。ウナギで騒いだ勝川も、あれは金にならんと一言でおしまいである。当たり前の話である。ヤツメウナギはウナギではない。



規則正しく間を空けて、川にびっしりと整列していたヤツメウナギの途切れることの無い行列は、翌週に入るとその姿を減らした。当初は面白がって撮っていたローカル局のテレビカメラもあっという間に姿を消して、一ヶ月後には、もう誰もヤツメウナギの事などまるで忘れてしまっていた。人々の記憶からヤツメウナギがあっというまに揮発すると共に、川の水の中に不気味なまでに規則正しく体を震わせながら懸命に浮いていたヤツメウナギもまた川底へと消え、目をこらして探さねば見つからなくなった。そして誰もそんなものを探そうとはしなかった。

川からも、テレビからも消えていったヤツメウナギはその代わりに、農業用の水路からお寺の池、お城の堀、果てはどのようにして入ったのか、春の小学校のプールにまで、ぽつりぽつりと弱々しく僅かに水の底から生えていた。街のあらゆるところ、水のある場所に目を向けて、僅か数分目を凝らして懸命に探せば、川からはぐれて迷い込んだ孤独なヤツメウナギが見つかった。ほらあれと指さし声をあげる子供はたまに居たが、大人の目には写らなかった。

そんなヤツメウナギが突然人々を騒がせたのは、それから三ヶ月が過ぎた梅雨明け初夏の頃だった。途切れることなくまばらに続いていただけの川に並んだヤツメウナギが突然増えて、増えただけではなく、勢いよく暴れ出したのだ。体長僅かに60センチ、ぬめっと黒く輝いた細い体のそのどこに、そんな力を秘めていたのか、暴れて踊るヤツメウナギは水面から飛び出し1メートル。ひときわ勢いのあるものなどは、3メートルも飛び上がった。それまで人はヤツメウナギを見下していた。あれは魚である。我々は人間である。いや、あれは魚ですらない。口も鱗もエラも持たない、原始の下等生物である。他方、我々は進化の果てに地球を支配する人類である。ガードレールの上から、あるいは欄干に手をかけて、足の下、道路の下、水の下に目を落とし、一瞥見下してやる存在だった。そのヤツメウナギが天高く舞い上がったのである。たとえその3メートルも飛んで舞ったヤツメウナギが、僅か1000匹の中の1匹であったとしても、その1匹を見上げるために人は顎を上げ、口を開け、豊齢線をこわばらせて、天高く舞うヤツメウナギを仰ぐ事を強いられたのである。ヤツメウナギが勢いよく踊り始めたその日を境に、人とヤツメウナギの関係性は変わってしまった。舞うのである。飛ぶのである。ヤツメウナギは空を飛ぶ。水のあるところ、ヤツメウナギが有り、ヤツメウナギのあるところ、ヤツメウナギは飛んでいた。人々はおののきながらそれを見上げた。

空を舞い川からはみ出すヤツメウナギの数は日を追うごとに増し、川沿いを通る道路では一日中ヤツメウナギが恐ろしい勢いで跳ねていた。水を失ったヤツメウナギは懸命に川の方へと戻ろうと、跳ねながらじりじりと川の方へと躙り寄っていく。自らの住処へ帰ろうと躍動する黒いぬめりの巨大な渦は、マーク1戦車のようにぐるぐると回りながら川へと向かい、途切れる事なしに町中の河川という河川の両岸を占拠し続けた。「安心してください、ヤツメウナギは水の無い所では生きて行けません」。街を超え、市を超え、県を超え、踊り続けて空を飛び、車に轢かれてひしゃげて死んで、尚も増え続けるヤツメウナギの勢いに、政府は困惑しながらも冷静に、落ち着いて広報に努めた。ヤツメウナギはヤツメウナギである。何も恐れる事はない。けれども冷めた目で地方を見る政府の冷静さが保たれていたのは、24区の全ての水路がヤツメウナギで埋め尽くされるまでの、僅か半年の間だけであった。

にわかに騒がしくなった。ヤツメウナギがこんなにも増えたのはいつからなのだろう。川一面を埋め尽くし、町中の至る所に浸透していたヤツメウナギだが、その個体密度は減りつつあったはずである。川のヤツメウナギが川底へと沈み、記憶の中から薄れ行き、その数を減らし、同時に町中の水路へと溶けていったあの時期、ヤツメウナギの個体数が減少傾向にあったのか、あるいは密かに増えていたのかは、今となっては確かめようが無い。全ての始まりであった一本の河川が、まるで一匹の巨大なヤツメウナギとなって黒く蠢きだしたあの大粒の雨の日まで、人々にとってヤツメウナギはあまりにも遠い存在だった。今では道路の両脇に続く溝は黒くこんもりと盛り上がり、サルミアッキのように黒く不気味に光りながら途切れることなくどこまでも続いている。ヤツメウナギが居なかった頃には夏の強い日差しによってすぐに干上がった僅かな水分は、ヤツメウナギが体から出したぬめりによって保たれ、次の雨が降るまで眠るようにして動かなくなった羊羹状のヤツメウナギの山によって維持され続けた。

クリーニング屋、眼鏡屋、土建屋、引っ越し屋、携帯でポルノ小説を売っていたベンチャー、パチンコ屋、暴力団のフロント起業、様々な会社がヤツメウナギ除去業へと参入した。軽トラックの荷台に載せられたコンテナに、哺乳類にとっては無害な薬物で殺されたヤツメウナギの死体が200キログラム分詰め込まれ、走り去ったその後には2時間後、右と左から流れ込んだ200キログラム分のヤツメウナギによって、それまでと変わらぬ黒い景色が静かにどこまでも続いていた。

そして夕立である。沸き立ったヤツメウナギは道路の両端だけでは無く、道の全てを黒く塗った。道を行く車はヤツメウナギで滑らぬように年中タイヤにチェーンを巻いて、黒くぬめる細い命を踏み殺しながら私達の生活を維持し続けた。腐りかけた豚の内臓のようなヤツメウナギの死んだ臭いが、雨に落とされて地表を漂った。夕立によって濡れた地面の幸福を祝い、5メートルも天高く跳ねたヤツメウナギは壁を越え、町中の民家の屋根という屋根が黒く塗られた。排水の為に設けられた雨樋をヤツメウナギに一滴の水も通らぬまでに塞がれたマンションの屋上は、いつからか、黒く震える生きた巨大なプティングを湛えた湖となった。そこから飛び降りたヤツメウナギが地面に叩付けられてから跳ねて帰宅中の児童の目に刺さり転倒し、花壇の煉瓦に頭をぶつけ、ヤツメウナギとの因果関係が確認された初めての死者が出た。ヤツメウナギが踊り出してからもう既に随分の死者が出ていたが、人間は死ぬものであるという事実によって、ヤツメウナギは人畜無害な生き物とされていた。

政府は繰り返した。ヤツメウナギの危険性は確認されていません。お悔やみを申し上げます。あれは不運な事故でした。ご安心ください。ヤツメウナギは安全です。事実ヤツメウナギは安全であった。いくつかの僅かな不運な事故としか言えない例外中の例外を除き、ヤツメウナギが人々に害を成すことはなかった。ヤツメウナギによって引き起こされた自動車事故は、ヤツメウナギによって引き起こされたのではなく、自動車によって引き起こされたものとして処理された。そしてそれは事実であった。目に見える明確な形でヤツメウナギがそこに存在し続けているという以外の点で、私達の生活はヤツメウナギ以前と何も変わらなかった。

気球を飛ばして雨水を直接利用可能な形で採取しようという試みは、気球の上に設けられた巨大な採水場を埋め尽くすヤツメウナギによって地に落ち、7人の死者を出して終わった。

JRと地下鉄を繋ぐ駅の地下の遊歩道の商店街が新しく清潔にリニューアルされてからの17年間、人々がインターネットで出会った異性との待ち合わせに使い続けた地下街の噴水は、天井まで高く溢れ出す黒いヤツメウナギによって置き換えられ、人々のみだらな胸のときめきとそれに伴う経済活動を破壊した。彼らはまるでヤツメウナギにやましいことがあるかのように、ヤツメウナギが目に入らない場所を探して転々とし続けたが、自らの目を両手で覆わない限り、ヤツメウナギを見る事無しに誰かと会うのは不可能な時代になりつつあった。セックスをする時くらいはヤツメウナギの事は忘れたい。そう願う人々の気持ちは、ぬらぬらと蠢くどこか卑猥なヤツメウナギの躍動の前ではあまりにも無力だった。私達の思考のどこかに、ヤツメウナギはぬめった筋肉の塊である肉体をゆらゆらと滑り込ませてきた。ヤツメウナギは進出し続けたのだ。川から池へ、池から溝へ、溝から雨樋へ、雨樋から屋上へ、そして私達の心の中へ。

何人かの数字に明るい人間が、川の中に整列するヤツメウナギのニュース映像を元に、ヤツメウナギが初めて川に現れた日のヤツメウナギの個体数を算出したが、川からヤツメウナギが徐々に薄れ行き、町中へと消えていった時期の個体数については憶測の域を出なかった。映像が無いのである。川からヤツメウナギが次第に減っていった時期の川の映像が存在しないのだ。写メを撮っている人間はいないかと探しても、出てくるのは町中の珍しい場所で見つかったほんの1匹2匹の孤独なヤツメウナギばかりであり、川のヤツメウナギはまるで川底に捨てられ錆びたタイヤの無い自転車のように、人々からは見下されるどころか、完全に忘れ去られた存在だった。確かにあの頃、川にはまだヤツメウナギが幾らか残って生きていた。そして人々にとっては確かにあの頃、ヤツメウナギは川に存在しなかったのだ。少なくともヤツメウナギが初めて現れた川には確かに、ヤツメウナギにとってのヤツメウナギは存在していたが、人類にとってのヤツメウナギは存在していなかったのだ。寺の池、お城の堀、公園の噴水、農業用の水路、それらに潜む僅か数匹のもの珍しいヤツメウナギを別にして、ヤツメウナギは存在しなかったのだ。たとえ存在していても、ヤツメウナギは存在していなかったのだ。突然その数を数千倍にも増やしたヤツメウナギが命を爆発させて踊り、水面から勢いよく飛び出して空を舞い始めるその日を境に、ヤツメウナギは生まれたのである。





ヤツメウナギが川に綺麗に整列してから、何事も無く7年の歳月が過ぎた。ヤツメウナギは街の至る所で人々の前に現れたが、町中に姿を見せるヤツメウナギの黒い影が人々に伝えるものは、そんな所にも僅かな水があったのだという僅かな情報だけだった。7年が過ぎて、それは終わった。

ある朝水道の蛇口を捻ると、そこからは透明な水ではなく、薄く淀んだオレンジ色に染まった粉のような液体が、シャバシャバと流れ出したのである。昨日までのヤツメウナギは、私達の生活からは完全に切り離されていた。彼らが現れるのは水が溜まる場所であり、あるいは雨水が落ちる場所だけであった。その日までのヤツメウナギは、私達の生活の中には決して踏み込んでこなかった。それが突然水道管という穴を伝って私達の生活の中に踏み込んできた。幸いにして水道管から流れ落ちるヤツメウナギは成体では無く、アンモシーテスと呼ばれる幼生であった。彼らは全くぬめっていなかったし、彼らはまだどす黒くもなかった。肉眼で確認するのは不可能な程に小さく、豚の内臓のような臭いもなかった。僅かにくすんだ薄いオレンジ色をしていたが、まるで無色透明の水であった。それでも、水道の蛇口を捻った際に流れ出すのは水では無く、昨日までとはまったく違うアンモシーテス幼生であり、アンモシーテスは水ではなくヤツメウナギだった。

今日までの7年間、それまでと変わらぬ水道水を人々に供給し続けていた水道局は大混乱に陥った。広報業務に慣れていない、中間管理職のとってつけられたような責任者が、目を泳がせながらやつれた顔で「どこから混入したのかは現段階では判明しておらず」と繰り返した。町中の店という店からペットボトルの水が消え、お茶が消え、ジュースや酒までもが買い占められたが、350ミリリットルの黒いビールと、きめ細やかな泡を生むためのプラスチックの浮き球が入ったギネスビールの封を開けコップに注いだその瞬間に、コップの中から沸き立つものは、上面発酵ビールの細かい泡ではなく、ヤツメウナギの幼生アンモシーテスだった。水も、醤油も、酢も、そればかりか消毒用エタノールから除草剤や防腐剤に至るまで、蓋を開けてコップに注げば沸き立つように、無数のアンモシーテスが溢れ出した。水を注いだコップのアンモシーテスは跳ね回り、酢のアンモシーテスはすぐに元気を失い、劇物のアンモシーテスは数秒と持たずに死んだ。

そこに残るのは劇物ではなく、人畜無害なアンモシーテスの瑞々しい死体だけであった。7年の時を経て水は水としての姿を失い、清涼飲料水とは名ばかりの砂糖水は甘さを失い、酢は酸っぱさを失い、そして劇物すらも劇物としての姿を失った。全てが、幼生アンモシーテスに成り果てたのだ。コップに注いだ部分だけでは無く、封を開けてしばらくすれば、先ほどまでは確かに密封された30年前に詰められたウイスキーが入っていた瓶の中はみっしりと、重い重い今はもう動かなくなったアンモシーテスで埋め尽くされた。人並み外れた怪力で知られたモンゴル人の本業ではぱっとしない幕下の力士がリンゴを利き手でひねり潰すと、ねじ切られたリンゴの果肉に混ざって、肉眼でははっきりと確認できない大きさの数百匹のアンモシーテスがさらさらと砂のように、それでいて滝のように太い指の間からこぼれ落ちた。

世界から、水が消えた。







それまでの7年間において、雨水と海水のあるところを埋め尽くしていたヤツメウナギは、7年の歳月の間に人類の科学が作り上げたヤツメウナギから水を抽出する技術とシステムの全てを打ち砕いた。我が国だけではなく、世界中のありとあらゆる国で水のある場所を埋め尽くしていた黒く輝くヤツメウナギは、同じ日、同じ時、同じ瞬間にそれまであった壁を打ち破り、私達の生活の中に目に見えない微細なアンモシーテスへと姿を変えて踏み込んできた。幾人かの限られた人間がアンモシーテスを嫌がって首を吊って死んだが、人々の暮らしは変わらず続いた。

今ではラーメンの丼を満たしているものはスープではなく豚骨味のアンモシーテスであり、その中を漂う麺もまた、小麦粉をアンモシーテスで練り上げられて作られていた。魚臭いと言うものもいたし、泥臭いと言うものもいた。旨味があってラーメンが水で作られていた時代よりもおいしいと言うものもいたし、水で作られた食べ物とは違いアンモシーテスで作られた食べ物は高度栄養食であると、その効能を騒ぎ立てるものもいた。ほとんどの人はアンモシーテスを水と変わらないものとして受け入れた。事実アンモシーテスはあまりにも小さく、それでいて瑞々しく、臭いもなく、味もなく、まるで水と変わらなかった。

世界中の川と海と湖が全てヤツメウナギだった頃、夏に海で泳いでいたのは人の体に押しつけられるヤツメウナギの感触を特別なものとして有り難がりそれを恥と思わない変人だけであり、海水浴などまるで夢物語であったが、アンモシーテスが人とヤツメウナギの間にあった壁を乗り越えたその日から、海を覆っていた黒い黒いヤツメウナギの絡まる躍動は次第に沖へと引いて行き、僅かに薄くオレンジ色の透明な、太陽の光を受けて輝く、まるであの頃の海よりも美しいアンモシーテスへと変わっていった。

そして人類にとっては幸いな事に、アンモシーテスは時と共に小さくなり続けた。水道管を通って私達の目の前にはじめて現れたあの頃のアンモシーテスは、明らかに液体では無く、さらさらとした手触りの、微細なタピオカミルクティーのようなものだった。けれども今日のアンモシーテスは、目を瞑り指先に全神経を集中させて風呂釜に満たされたアンモシーテスを丁寧にかき分けても、それが果たして本当にアンモシーテスであるのかどうかの確信が得られないほどの小さな存在になっていた。そこにあるのは確かに大量のアンモシーテスであり、決して水ではない。それを完全に理解していてなお、肉眼では捕らえられないまでに小さくなってしまったアンモシーテスは、まるで水のように人々を温め、まるで水のように人々を癒やした。



アンモシーテスを研究する幾人もの科学者が、幼生アンモシーテスを成体ヤツメウナギに育てようと様々に手を尽くしたが、誰一人として幼生アンモシーテスを黒い姿に成長させる事は出来なかった。あの日を境にあっという間に世界中を埋め尽くした日の光を受けて黒く輝くヤツメウナギは、決して人の手によっては再現出来なかったのである。それどころか、台風が大量の雨雲を日本列島に連れてきても、道路の両脇を流れるアンモシーテスは、あの日のように黒く踊りはしなかった。川も、沼も、池も、海も、全てがその黒さを失い、全てがぬめった質感を失った。そこにあるのはまるで水、当初の僅かなオレンジ色や、水とは違うざらついた手触りすらも失った、無色透明の微細なアンモシーテスだった。

ヤツメウナギは滅多と見られるものではなく、年がら年中ヤツメウナギを探し回っている政府に雇われた研究者を別として、一般の人間がヤツメウナギの黒い姿を目にするのは10年に一度、あるいは一生に一度くらいのものになってしまった。ヤツメウナギを見た者は不幸になるという風説が流布される一方で、女子高生の世界では雨の日にヤツメウナギを見れば失恋し、晴れた日にヤツメウナギを見れば恋が実ると、まことしやかに囁かれていた。ヤツメウナギというのは過ぎ去った遠い日、平成という1つの共有された過去の時代を指し示すキーワードへと成り下がった。今ではヤツメウナギが川を埋め尽くすよりも前と同じように、人々にとってヤツメウナギなど、存在していないも同然だった。

アンモシーテスがどこから来るのかを調べるために入り口が細くうねったフラスコが作られ、そこに僅かなアンモシーテスが入れられ、蒸散させられた。フラスコの中のアンモシーテスは死に絶え、僅かな白い粉末だけを残してアンモシーテスは居なくなった。実験はそこで終わった。その実験を行った科学者自体が首を傾げた。この実験はいったい、何を目的とした実験だったのだろう。何もわからなかった。アンモシーテスは人類の営みの全てにまるで水のように浸透していたけれど、アンモシーテスが一体何であるかを、誰一人として全く理解していなかった。EUから離脱し経済でも文化でも科学でも世界から隔離されてしまい、先進国としての体を失ったギリシャという国の哲学者としても知られるアリストテレスという科学者がアンモシーテスは泥から生まれるという研究の結果を発表したが、太陽を遮るかつては雲と呼ばれていたものの正体は、今では空を行くアンモシーテスであり、空には泥は存在しなかった。




地球上の至る所で水に置き換えられたアンモシーテスが一線を越えたのがいつの日の出来事だったのかは、今でもはっきりとはわかっていない。いつからかはわからないけれど、アンモシーテスは人類の外側から人類の内側へと入り込んでいた。人の眼球を乾燥から守る為に存在するかつては涙と呼ばれていた(そして今でも涙と呼ばれている)ものは、涙ではなくアンモシーテスである。血液の中を進み肺から取り入れられた酸素を体中に運ぶものは、ヘモグロビンではなくアンモシーテスの仕事である。恋人同士が唇を合わせて交換するものがアンモシーテスであるのと同じように、射精によって飛び出すのは精子ではなくアンモシーテスである。アンモシーテスは人の体の様々な部位において、かつて人体という進化の果てに辿り着いた神秘の存在が成し遂げていた全ての出来事を、人に代わって執り行っていた。もはや人は一人では生きていけず、体の中に存在する何億とも何兆とも知れない無数のアンモシーテスなしには成り立たなかった。人は本当に人なのか、人は本当に人と呼べる存在なのか。もはや人は人ではなく、ただのアンモシーテスではないのか。それでも人々は自らの事を決してアンモシーテスだとは思わなかったし、自らはアンモシーテスではなく人であると信じて疑わなかった。いつの日かまたあの日のように川を覆う日が来るかも知れないヤツメウナギの幼生は、親から子へ、子から孫へ、不気味に輝く黒さを失い、豚の内臓のような臭いも失い、地面から屋根にまで跳ね上がる力をも失い、無色透明にどこまでも続いていった。

2015年5月12日火曜日

簡単にぐっすり快眠できる方法見つけた!

10時間くらい喋ったあとで24時間くらい起きっぱなしにしてそれから眠ればぐっすり快眠できることが判明したのでみんな是非試してみて

2015年5月11日月曜日

wikipediaがwikiになった世界では、まとめブログはブログになった

ゲーム配信を見ていたら、配信者がブログを読んでどうこうという話をし始めた。それを聞いていた、ブログを書き続けているブロガーである僕は、「こんな時代にブログを読んでるだなんて!」と少しだけ幸せな気分になって微笑んでいたら、その人が言うブログとは、まとめブログのことだった。そしてその配信を見ている人達の中で共有されていた「ブログ」という言葉もまた、まとめブログの事だった。

どんなキーワードでググっても、NAVERまとめが一番上に表示される世界においては、「まとめ」とはNAVERまとめの事であり、かつて「2ちゃんねるまとめブログ」と呼ばれていたものは、2ちゃんねるの転載禁止騒動の余波などもあって、今ではもう「2ちゃんねるまとめブログ」とも、「まとめブログ」とも呼ばれていなくて、ただブログと呼ばれているようだ。そんな、、、じゃあ、じゃあ、それならば、ここはどこ、わたしはだれ。

2015年5月8日金曜日

夢と希望に満ちあふれていく。

悔しいが夢は尽きず、希望は常に再び目を覚ます。それが僕を助けるものではなく、ただ叩きのめすだけのものだと知っているのに。羽ばたかない鉛の鳥が宙に浮いているようなおかしさ。狂っていなければ狂っていないほど、それは狂っている。体は重く、心も重いが、それとは別の何かが踊る。夢と希望に満ちあふれていく。

2015年5月7日木曜日

せめて素敵なブログを書こう。

人生が素敵でないならば、せめて素敵な話を書こう。人生が素敵でないならば、せめて素敵な人と出会い、素敵な事を考え、素敵なものを食べ、素敵な暮らしを送ろう。素敵な事を考えよう。まず素敵な人になるために、素敵な話を書こう。横長の液晶モニタ一杯にテキストエディタを開いて、目が覚めて新鮮な気持ちで2時間何かをタイピングして、全部が嫌になって僕はまた、自分の人生を投げ捨てるように今日一日を投げ捨てるんだ。素敵な未来なんて、まっぴらごめんだって自分の何かに嘘ついて。

2015年5月6日水曜日

楽園追放

アニメを見た。くだらないアニメだ。それだけならばよくある話なのだが、問題はそのアニメが4000円もしたということであり、この4000円は僕の人生において最も無駄で腹立たしい金だった。端的に言えば僕はたかだか4000円の事で完全にぶち切れて僕の人生は台無しになったのである。4000円と言えば大金である。天ざるが3回食べられる。天ざるの話をするときりがないので、二度としない。つまりあの忌々しいくだらないアニメは天ざるを盗んだのだ。それも3回も。もしかしたら、3回のうちの1回は天ざるじゃなかったかもしれない。上天ざるだったかもしれない。具体的に天ざるというものが幾らくらいの食べ物なんのか僕は知らないけれど、仮に天ざるが1180円で、上天ざるが1580円ならば、天ざるのうちの1回は天ざるではなく、上天ざるだったのだ。上天ざるというからには、ただの天ざるではない。具体的に上天ざるというのがどういうものかを僕は知らないのでその内容は全くわからないが、普通の天ざるには存在しなかった蓮根とか獅子唐とか、春菊のような苦みのあるけどもうちょっとおいしい謎の苦い野菜とか、薄くスライスされた本しめじとか、ちょっと大きめのシータイガーとか、普通の天ざるよりも少し仰々しい天ぷらが付与された天ざるこそが上天ざるなのだ。その上天ざるが僕の目の前に運ばれて来た瞬間に、あのくだらないアニメはその上天ざるの上な天ぷらを片っ端から盗んで食べて行ったのだ。これはもう人の所行ではない。ここ数年の間、僕の人生における唯一の幻の希望となっている天ざるが僕の目の前に運ばれてきた瞬間に、揚げたてのほくほくでしゃきしゃきの蓮根を横から手を伸ばし盗んでいったのだ。しかも蓮根だけに止まらず、海老もししとうも無論の事茄子もきのこも、そればかりか七味唐辛子、わさび、大根おろしに至るまで、上天ざるの全てを盗んでいったのだ。その悲しみをぐっとこらえて、この日は特別に特上天ざるを頼んだとしよう。上天ざるの全てを盗み食いされた僕は愕然としながら残りの予算と相談し、特上天ざるを頼んだとしよう。天ざるが1180円、上天ざるが1580円、特上天ざるは2380円である。いったい、特上天ざるというものにどのような天ぷらが入っているのかは知らない。蕎麦屋であるからして、おそらく蕎麦は同じであろう。となると金額の差はやはり天ぷらの差ということになる。蕎麦屋のメニューであるにもかかわらず、その差異は天ぷらだけ。これはもう蕎麦屋というよりも、天ぷら屋ではないのか。しかも天ぷら屋の天ぷらと比較すると餅は餅屋であるからして、特上天ざるというのは、実はたいしたものではないのかもしれない。それでも僕は特上天ぷらを食べたかったのだ。そして遂に運ばれてきた特上天ぷらを、あのくだらないアニメは再び横から手を伸ばし全てを食べ去って行ったのだ。これで腹が立たない人間が居るか。そんなものが存在したならばそれはもう人間ではない。誰だって腹が立つ。人間だからだ。そして腹が減る。僕は腹が減った。天ざるが食べたい。食べたいと思うとまた沸々と怒りが蘇ってくる。この4000円は僕の人生における最大の過ちであり、自らにとっても、直視できない程に忌々しいものであり振り返る事すら不可能だったのだが、空腹が故に天ざるを食べたい。天ざるを食べたいけれど、残念ながら食べられない。なぜかというと、僕の天ざるは盗まれて失われたからだ。確かに存在していた僕の特上天ざる(ないしは天ざる2つ)は、あのくだらないアニメによって盗まれたのだ。悲しい。お腹がすいて悲しい。お腹がすいて目が覚めて、食べたいけれど食べるものが何も無いかなしい一日に憎悪の墓標としてここにあのアニメが如何にくだらなかったかを記憶をたどりながら記録しておく。なお、アニメのタイトルを表記してしまうと宣伝になってしまうので決して書かない。それ以上に忌々しいので僕のブログが汚れるので書かない。まず半裸の女が出てくる。もちろんおっぱいは不自然だ。おっぱいというのは皮膚という薄い外殻で形成された脂肪なのに、アニメで描かれるおっぱいというのは男にとって都合のいい形を維持しようとする形状記憶ゴムでしかない。無論のこと、ここで言う男というのも本来ならば実在しない。おっぱいが好きな男は大勢居るが、得体の知れない形状記憶ゴムを有り難がる男は本来ならば存在しないはずだ。ところがアニメオタクというものは、形状記憶ゴムを有り難がるらしい。断じて言うがこのアニメで描かれているおっぱいは、現実のおっぱいとはかけはなれた、全くの別物である。アニメのおっぱいを有り難がっている人間というのは、赤エイの総排泄口に欲情しているのと同じである。であるからして、僕はこのアニメがはじまってから終わるまで、胸は一切見ずに尻だけを見ていた。話を戻す。仮想世界の話である。なんと、仮想世界の話であった。いやはや失敬。僕が間違っていた。あのおっぱいは、仮想世界のおっぱいだったのだ。仮想世界はコンピューターの演算によって作られており、あのおっぱいが形状記憶ゴムであり、決しておっぱいなどではなかったのは、仮想世界を司るコンピューターの演算能力が足りなかっただけなのだ。自らの不覚を恥じた。はじまるやいなや画面中央に大きくどんとおかれた女性の胸についてた2つのおっぱいは、制作者側の巧妙な演出だったのだ。あのおっぱいがおっぱいではなく、形状記憶ゴムでしかなかったのは、ストーリー上で重要な要素を物語るキーパーツだったのだ。仮想世界にはローレゾ人間とハイレゾ人間がいて、ハイレゾ人間のおっぱいは生卵を落としても割れなさそうな柔らかさと、強い復元力を持つ形状記憶ゴムのゴムドームである。一方でローレゾ人間のゴムは、形状記憶ゴムというよりはフスベタケに近い。ゴムというよりもキノコである。どこにもおっぱいはない。全てが偽のおっぱいである。ローレゾ人間のそれも、ハイレゾ人間のそれも、おっぱいとは似ても似つかぬ代物である。そういう演出なのだ。そしてハイレゾ人間は仮想世界を抜け出し、遂に現実世界へと降り立つ。遂におっぱいが現れるのだ。フスベタケでも、プリンでも、形状記憶ゴムでもない本物のおっぱいを僕は目にする事になるのだと思いきやそこに現れたのは形状記憶ゴムで形成されたゴムドームだった。なんで?。ナンデ?。なんでなん?。まったくもって理解が出来なかった。仮想世界のローレゾおっぱいが、おっぱいとは違うまったく別の何かである事は理解した。仮想世界のハイレゾおっぱいももあた、おっぱいとは違うまったく別の何かである事も理解した。けれども現実世界のおっぱいもまた、何故か不可解なことにおっぱいとはまったく別の得体のしれない造形物だったのだ。現実世界は荒廃しており、荒涼とした大地をムカデのような化け物が駆けてくる。それを見て僕は話の展開がわかってしまった。このアニメで描かれている「現実世界」は、仮想世界の話という展開である。youtubeで人力車のお笑いコンビがやっていたネタで知ったパターンだ。こういう話はよくある話ではあろうが、よくある話ということが作品の価値を貶めるということは一切ない。結局の所僕達が住んでいる世界と僕達が生きる人生は、よくある話の外側には決して出ない。どんなpreciousな人生もよくある人生の類型でしかなく、どんな物語もよくある物語の類型でしかない。「ああ、これはまだ仮想世界の話であり、このおっぱいもまた仮想世界のおっぱいなのだという事を僕は理解して、おっぱいは諦めて懸命におしりを見る事にした。おしりは平和だった。僕の予測が確信に変わったのは直後である。主人公の女は4メートルほどの高さから着地して、重力を感じさせずにスタっと立って着地した。間違い無い。たとえばこの主人公の女の靴にハイテクな素材が使われていたとしても、4メートルの高さからスタっと降り立つということは決してありえない。"仮想世界から現実世界へ"と思わせておいて、実はここも仮想世界なのだ。多重構造の入れ子構造で、マトリョーシュカのように延々と続く仮想現実世界というのが、このアニメの大筋なのだろうということを、確信したのである。なんといっても、世界には生活感が全く無い。ナウシカの腐った森に住んでいる生き物をただ一種類だけ切り取って劣化コピーしたような新幹線ほどのサイズがあるムカデのような化け物は、重力を無視して空を飛ぶし、どうやら肉食であるらしいが、地表は見渡す限り荒廃しており、ムカデの化け物が食べられそうな生き物はどこにもいない。あまつさえ、主人公の女がレーザービームを撃ってムカデを殺すと、人がわらわらと寄ってきてそのムカデの肉を切り取っている。人がムカデを食べるという事はわかったが、ムカデはいったい何を食べるのか!土か?土喰うのか?肉食のムカデが土を喰うか?そんなわけがない。つまり、ムカデが闊歩する世界は、決して現実世界たりえない、仮想世界の外側にある現実世界という設定の仮想世界なのである。そして何よりも世界には水がない。荒涼とした大地に水が無い。水が無いと生きていけない。そして水を巡る描写もない。これは単純明快である。このアニメの制作者は暗に陽に、「これは仮想世界の話です」と言っているのだ。主人公の安っぽい言動や、安っぽい声色、安っぽい造形、安っぽい衣装などには、まあ、これがアニメというものの文法なのだろうと懸命に慣れる事にしたので、それなりには気にならなくはなった。これがアニメなのだ。そして、アニメに造詣の深い人が特別に面白いアニメだと言うのだから、これは面白いアニメなのだ。しかも、ただのアニメではない。このアニメは天ざるが3回食べられるくらいの価値があるアニメなのである。amazonのレビューでも大好評でどのレビューも満点である。間違い無くここから面白くなるのだ。アニメには人間は出てこない。人の形をした、ロボットのようなものしか出てこない。いや、当然である。僕にはわかっている。これはまだ仮想世界の話なのだから、人が出てこなくて当然なのだ。主人公の女はこれ見よがしに悪党に襲われ、男三人に襲われながらそれを撃退するが、それも至極当然の話だ。現実世界では女が武器を持った男3人に襲われて無事ということは決して有り得ないが、これは仮想世界なのだ。仮想世界の出来事なのだ。食べ物も出てこない。たとえば食べ物が出てきたとしても、明らかにそれは仮想世界の出来事ですということを語る形での食べ物しか出てこない。しかもご丁寧に人工知能が現れて、感情とは電気信号ですみたいな話をもったいぶって始める。おまけに50機以上の敵ロボットが出てくるが、パイロットが乗っていることが確認できたのは僅かに3機でしかも全員女。とにかく何から何まで不可解で、全ては「これはまだ仮想世界の出来事だ」という事をありとあらゆる方角から指し示していたし、ちょっとだけ敵のロボットをやっつけたけれど、敵のロボットはまだ50も残っている。もちろん味方は主人公の一機のみで、機体性能はだいたい同じ。となると、仮想世界でしたというオチでしか回避し得ないと思っていたらそのまま終わった。はあああああああああああああああ?????????????なんなん?なんなん?頭おかしいん?おっぱいやなかったやろ?明らかにおっぱいやなくて形状記憶ゴムやったやん。しかもおっぱいだけやなく全部おかしかったのにこれ全部現実世界の話でしたってどこをどうすればそうなるの?あのムカデは何を食べてたん?あの荒涼とした大地で、あの1体5トンはあった巨大な化けムカデは何を食べて生きてたん?しかもあの個体密度。どんだけおんねん。あれが仮想世界の電子信号のモンスターじゃなきゃなんなん?車で走って追いかけさせたってそういう問題やないやろ。木も草も無い所で尚且つ明らかに肉食描写どこから肉は来てるん?あのムカデの肉はどこから来てるん?おまえら食物連鎖知ってるか?食物連鎖。肉食の動物が生きていくにはその何倍もの肉が必要なんやで?あれはここは仮想世界ですよって描写なの。いいですか?あのムカデは「ここは仮想世界ですよ」っていう描写である以外に成り立つ余地は一切ないの。肉食動物は一年で体重の5倍から10倍の肉食べるってあのどこに肉があるの?共食い?共食いであるとして、その共食いされるムカデは何を食べてるの?それも共食い?その共食いのループはどこに行き着くの?しかもあのムカデあきらかに集団行動してたよね?集団で狩りをしてたよね?何狩るの?あのね、肉食動物と草食動物だと肉食の方が小さいの。水牛はライオンの4倍、カバはライオンの8倍、ゾウはライオンの15倍あるの。あれだけの巨大な肉食動物が生きていくには莫大な量の肉が必要で、その肉を担保できるのはあのムカデ以上に巨大な草食生物だけなの。どこに草あるの?あの世界のどこに草があるの?全部荒野やん。地球全部まるまる荒野なのにどこに草があるの?あのムカデに食べられているであろう草食動物は何を喰ってんの?いったい何喰ってんの?土か?土喰ってんのか?土喰う生き物がいて、それをムカデが喰ってんのか?それとも、あの体重5トンの巨大ムカデ自体が土喰ってのんか?一年に25トンの肉を喰うであろうあの巨大ムカデはいったいなんの肉食ってんの?肉やなくて土か?土喰い生物か?いや、だから、そんな話微塵も出てこなかったよね?土か?土喰ってんのか?土以外に説明つかんけど土か?じゃあなんで土喰うムカデが音に釣られて人間食べに来るの?おとなしく土喰っとけや!あんなもん、現実でも仮想でもなんでもないやろ。おとぎ話ですらないし、ヘンゼルとグレーテルやがなでもないやろが。おっぱいは形状記憶ゴムじゃねーんだよ。とにかくこのアニメから僕が学んだのは、須崎西をおもしろがれる男の言うことは信じるなってことだけだった。まあ、運が無かった。このアニメは現代日本に存在する最悪の糞アニメ、いや現代だけではなく過去から未来に渡る全てに至るまでの中で、最も才能の無い最も無能な人間が話の筋を書いて、最も無能な連中がつくった地球上最悪の糞アニメなんだろうってことだけ。危うく日本中全てのアニメ愛好者を一人残らず撃ち殺したい衝動に狩られるとこだった。amazonのレビューだと100以上のレビューがほとんど★5つだった気がするが、日本の人口は100や200ではないということで今は全てを忘れたい。クールジャパンは税金を盗むための詐欺事業。とにかく天ざるが口惜しい。

2015年5月5日火曜日

2015年5月4日月曜日

ラッスンゴレライとセッションのロマン

ラッスンゴレライはエノラゲイリターンのアナグラムであり、「ちょっとまって」は実在したエノラゲイの弟機であり、8.6秒バズーカーは8月6日の広島原爆であり、コントの際の決めポーズは広島原爆公園の平和祈念像のポーズと同じであり、単独コントライブのポスターにおいて2人の指が6本になる画像加工がされているのは福島原発事故への揶揄であり、ラッスンゴレライが話題になるより前に韓国人の歌手がそれをコピーしたのは彼等が在日韓国人だからであり、インターネットで騒ぎになってから過去の反日tweetや反社会的tweetを慌てて削除したのは、まさしくそれら全てが事実である事の証左である。ラッスンゴレライとは、日本人への憎しみで凝り固まった在日韓国人の2人組が、日本に対する憎悪を全て詰め込んだ、コントの体を成した復讐であり、それを面白がる馬鹿な一般大衆を彼らは高笑いしながら眺めている。そんな話を目にしたあとで、全く同じパターンの話を目にした。セッションである。




セッションを巡る菊池の論考は、憎悪で煮えたぎっている。そこに込められているものは、彼が愛し人生にしているものを陵辱するセッションという映画に対する憎悪ではない。セッションという映画を有り難がる馬鹿な一般大衆に対する憤怒であり、憎悪である。

菊池のセッションに対する言動を複雑なものとしているのは、一般大衆の存在である。ジャズという娯楽に金を落とさない、自らの人生を含む全ての物事に無頓着な一般大衆は、映画という消費しやすい形の娯楽には金を払ってそれを楽しむ。しかも劇中に登場するジャズは本当のジャズではなく偽のジャズであり、劇中で演じられるジャズも極めてレベルの低い聴くに堪えないジャズであると菊池は断罪する。配給会社に要求されて憤怒を限界まで抑えて堪えに堪えて大人な態度で菊池が書いた宣伝用の文章は配給会社にdenyされ、セッションが公開された際にそれを絶賛する有名人の羅列の中に菊池はいない。そればかりか、ジャズ関係者は僅かに一人、しかもそのジャズ関係者は堪えに堪えながら言葉を濁しているではないかと菊池は憤り、憤った。言葉を濁した一人のジャズ関係者を除けば、セッションという映画を売っている人も、金を貰って荷担している人も、金を払って見ている人も、その全てが憎い。けれども菊池が真に憎んだのはそれを見抜けない一般大衆である。セッションという映画では無く、また映画の宣伝でもなく、その宣伝の本質を、そして映画の低質さを見抜けない一般大衆である。

それに対してああ注目を浴びる好機だとばかりに猫も跨いで通る人間が猫も跨いで通る文章で絡んで菊池の魂の憤怒を消耗させ、菊池の憤怒を消費しようとしたのは、インターネットの最もくだらない部分を象徴する光景であったけれど、セッションを巡る騒動はそこで一つの進展を見た。それが件のラッスンゴレライである。




セッションにおけるラッスンゴレライは菊池からではなく、インターネットのあちらこちらから染みだして、菊池の言葉を要所要所で拾いながら、気がつけばその形を成していた。ラッスンゴレライが8.6秒バズーカーによる復讐だったのと同じように、セッションもまた、デミアンチャゼルによる復讐だったのだろうと彼らは菊池の憤怒を読み解いた。




デミアンチャゼルは、ジャズスクールをドロップアウトした人間である。人の精神に最も深刻なダメージを与えるものは、他人から拒絶された経験で有り、また、努力が報われなかった経験である。ジャズスクールにおいてその2つを同時に味わったデミアンチャゼルは、歳月を重ねるだけでは決して回復不可能な痛手を負い、自らを全否定したジャズスクール、強いてはジャズ世界を逆恨みし、心の中で憎悪の炎を燃やし続けた。そしてその憎悪が遂に具現化したものがセッションだと、(菊池では無く)彼等は解いたのである。

セッションにおいてジャズは矮小化されている。低質な音楽を大判焼きのように量産する機関としてのジャズスクールが、まるでジャズ世界の本流を成す出来事であるかのように描かれているのは、デミアンチャゼルの狙いが、自らの痛み苦しみトラウマを癒やすために、自らの過去であったジャズを否定する為で有り、その目論見は一般大衆には決して露見しない形で成功している。ジャズとは縁遠い生活を送る一般大衆はセッションという大ヒット映画において描かれるジャズこそがジャズ世界であると思い込む。それに対して菊池のような人間は憤怒するが、それすらもデミアンチャゼルには心地よい。自らの半生を否定され、決して癒やされることの無い深い深い心の傷を負ってしまったデミアンチャゼルにとっては、ジャズに関わる人間を怒らせ、ジャズに関わる人間を消耗させ、ジャズに関わる人間の時間を浪費させる事は、復讐の成功を意味する。

セッションという映画においてデミアンチャゼルは一般大衆に矮小化された偽のジャズを植え付ける事に成功しただけではなく、同時に海の向こうの真のジャズの1つであろう一人の人間をも憤怒させ、消耗させる事に成功したのだ。そればかりではなく、セッションという映画は世界的な大ヒットを記録してしまい、とんでもない富と名声までをも手に入れてしまった。しかもその現象に対して菊池のような人間が怒れば怒るほど、デミアンチャゼルの復讐劇は完全なものへと近づいていく。セッションとはデミアンチャゼルの復讐劇であり、セッションが成功したのは、そこにデミアンチャゼルの人生の全て憎しみの全てが込められていたからだ。そんなストーリーが彼等の側から流れてきたのである。ジャズの側から流れてきたのである。それはまるでラッスンゴレライであった。












「ああ、インターネットだ」
と、僕は思った。



今ではインターネットはインターネットではない。
あの頃のインターネットとは全く違う世界だ。

いい話やシェア出来る話、くだらないベスト50や猫の画像がもてはやされる一方で、かつてのインターネットを覆っていたような怨念という概念は消えて久しい。憎悪はもうインターネットにはないのだ。そんな世界において、ラッスンゴレライとセッションを巡る陰謀論が僕等に思い出させてくれたものは、心の傷やトラウマ、他人に拒絶された体験や、夢や努力を否定された経験といった類いの負の感情というものが、人にとって果てしない推進力になるという当たり前の事実だ。現実世界に拒絶された僕等は不幸にも望まぬ形で、苦しみを動力にして動いている。そしてその場合、人間の憤怒の対象は、何故か当の相手ではなく、それに踊る一般大衆なのだ。












たとえば8.6秒バズーカーのラッスンゴレライがそうでなくても、たとえばデミアンチャゼルのセッションがそうでなかったとしても、菊池のセッションを巡る論考は正しくそれで有り、菊池はまるではしゃぐ子供のように嬉々として、自らの憎悪を語り、自らの憤りを語り、自らを害するものへの復讐を果たそうとする。

インターネットでラッスンゴレライを騒ぎ立てた人達が語る8.6秒バズーカーのラッスンゴレライがそうであったように、彼等が言う世界におけるデミアンチャゼルのセッションがそうであったのと同じように、一切の仮定も想像も入り込む余地の無いインターネットの世界の菊池はまさに、水を得た魚のように憤りを得た人間であった。




そこにおける共通項は、一般大衆の存在なのだ。

何故か人は一般大衆を憎む。
自分の思い通りにならない一般大衆を憎む。

特定の人ではなく、特定の相手に踊らされる一般大衆に憤りを感じる。
特定の物事ではなく、特定の物事を右から左に受け入れる一般大衆に憤りを感じる。

菊池の対象は映画そのものではなくそれに踊る一般大衆であり、デミアンチャゼルの映画もジャズではなく一般大衆に向けられ、想像上のラッスンゴレライの対象も一般大衆に向けられており、インターネットの彼等も8.6秒バズーカーではなく、8.6秒バズーカーに踊る一般大衆を対象としている。みんな同じなのだ。人は同じなのだ。自らの愛が努力が苦悩が、即ち人生が報われず理解されない苦しみは、一般大衆への憤りへと姿を変える。なぜかそこに突然、一般大衆という顔のない有象無象の存在が人の心に染み込んでくるのである。









嫌いは好きを上回り、憎しみは愛を凌駕する。

その人生において自分が本当に好きなものを見つける事が出来なかったインターネット上の無数の僕等は、インターネットで嫌いなものを探して叩こうとするし、愛に値しない無価値な人生が故にインターネットを漂う僕等は、だからこそ憎しみを探して今日もインターネットをやり続ける。

夢が有り、希望があり、目標があり、好きなものも愛するものも欲望も持ち合わせた架空の8.6秒バズーカーや架空のセッション、あるいは実際の菊池とは違い、何も持ち合わせていないインターネットの僕らは、自らを愛して受け入れてくれるものではなく、自らを否定し叩きのめしてくれるものを探しているんだ。そして自らを素敵に滾らせようとする。もはや私達彼等にとって、自らの人生を豊かにし彩ってくれるものは唯一、憎悪だけなんだろう。嫌いは好きを上回り、憎しみは愛を凌駕する。それどころかほとんど全ての僕達は、好きも、愛も、努力も人生も、そんなものない。あるのは顔の無い一般大衆と、それに対する憎しみだけなのだ。

2015年5月3日日曜日

くすんだ人生

今日が来る度にもういいやと思う。
明日を思う度に明日こそと思う。

2015年5月2日土曜日

心が折れる前に目を瞑って走れ

俺の人生には自分を否定する為の材料が十分な高さで積み重なっている。その高さを乗り越えるだけの夢や闘争心は俺には無い。分別をわきまえれば何も出来なくなる。脳みそが動き出す前に心が動き出す前に目を瞑って走れ。その先には何も無いがどうせここには何も無い。

泳ぐのに情熱はいらない。

泳ぐのに必要なものは、水と筋肉である。水と筋肉があれば人は自ずから泳ぎ出す。そこには意志も情熱もいらない。僕はこんな人生に陥って尚、少しでも前に進みたい。米を炊く体力を失って豆腐をすすり、シャワーを浴びる気力を失って汗を摘まむ。ここにあるのは死体だ。腐っていないだけの死体だ。異臭...