2011年11月30日水曜日

希望がない。

眉毛が生まれる目元の奥についに待望の気でも狂って木槌で釘でも打ち込んだのかと期待に胸を躍らせて指でなぞってみたけれど、そこにはいつもの見慣れた憎しみの、私の顔が居座るばかりで昨日も今日も変わらぬ苦痛。割れる壊れる世界の痛み苦しみため込まれた天罰が一点に集中した爆発を押さえ込もうとする力、圧力、暴力、正しさが、すんでのところで間違いを犯して正しさを取り戻し、おまえなんぞは死んでしまえ、死んでしまえと殺す気も度胸もないくせに粋がって凄んでいるだけのくだらない人生が熟れすぎたざくろのように割れて、割れて、割れて痛い痛い宇宙を核弾頭を僅か1センチの決して届かぬ果てない距離をどうにかして、どうにかして埋められはしないかと指先に手首に首筋に力を入れて強く強く抱きしめても不可逆届かない戻らないもう遅い救われない。必要なのは睡眠でただ休息で眠らねばならぬ眠らねばならぬと思うほどに辛さを求め苦しさを求めて辛さはマシマシ辛くなり、辛さゆえにますます眠れぬ辛さから痛みに救いを求めて探し求める日々は今終わり、君の望んだ頭痛が望み続けた頭痛が今ここに確かにあるのに気味は文句と泣き言で埋め尽くして頭を抱えてうずくまるばかりただ平穏を、無事を、心の安らぎを望むその傲慢さが憎い、憎い、憎いけれども頭は痛い。もう悪いことはしません、もう悪いことはしません、真面目に生きてゆきます。真面目に生きてゆきます。なまけません、だらけません、ですからですからと神様仏様情けない。ただただ情けないその生き様を蔑む余裕も今はなく。十時間戻れればこの頭痛も10ヶ月10年10世紀戻れれば戻れれば間に合うのではないかとタイムマシンならばまだ神より幾らかは簡単に拵えられると藁をも縋る最中の頭痛、頭痛、私の痛さの痛みの痛さ。弱々しく開けた口からひぃひぃふぅと息を吸い吐き無駄に凍えるラマーズ法で少しはマシになりやせんかと怒りむせび泣きそうしてみるも、冬の寒さと乾燥と部屋舞い踊る埃の渦で、ただ喉奥が荒れるばかりで夢も希望もおぎゃーと言わず、平穏すらも月日の向こう山の上。自らの逃避を打ち切る手段として眠らぬ事を選択し、追い詰め追い詰められてこのよにブログを書くに至る敗北の負け犬のその無様さに高笑いしてざまあみろとまた乖離し人の居ぬのを確認してからごめんなさい、ごめんなさいと詫びる性根の汚さにまた、また。くたびれ目を閉じ仕方なく微笑む我が身を覆い蝕んだあたまいたの僅かな残響、天の裁きよ。

2011年11月29日火曜日

他人を蔑称で呼ぶ人を信用しない。

他人を蔑称で呼ぶ人を絶対に信用しない。僕がこの世界で生きている中で気をつけているのはその一点だけ。たとえばちきりんの事を"いんちきりん"と呼ぶ人は信用しない。誰かを蔑称で呼んでそれを面白がるような下劣な人間は信用しない。絶対に信用しないし、信用してはいけない。そういう事をする人達は、それを面白いと思ってるんだろうし、面白いと思う人も居るんだろう。けれども、僕はそんな人間にはなりたくないし、そんな人間ではないし、そんな人間にはならない。僕という1人の人間の人生は他者への畏怖と敬意とで出来ており、それはインターネットを生きて行く上でも同じ事。これまで一度も人様の事を馬鹿とかアホとかまぬけとかいんちきとか言った事は無いし、これからだってそう。ただの1度も言うつもりはない。他人を蔑称で呼んで馬鹿にしたり見下したりしてた方が面白いというなら、そういうブログを読んでればいいし、そういう人間になればいい。けれども僕は違う。独り善がりの面白さをもとめて他人を蔑称で呼んだりは絶対にしない。僕のブログはそういう方針に賛同してもらえる方だけに読んで貰えればそれでいいし、そういう方針に賛同しない人には僕のブログを読んでもらいたくはない。

ヨハン・リーベルトの敗北と、インパルス板倉俊之の逃走。

答えを探した。
けれども見つからなかった。
きっと僕の探し方が悪いのだろう。










板倉俊之の笑いは、正答と正答の笑いだった。
正答同士をかち合わせる事こそが、インパルスだった。
その笑いを成り立たせる為に、板倉は常に正答を用意し続けた。








キセルで捕まった人間に対して駅員である堤下が年齢を聞く。
板倉は答える。「私に年齢があるとお思いですか?」
この瞬間、彼は間違い無く信じていた。

自らが、年齢などというものを持たない、超越的存在であると信じていた。多くの人間が、自分は特別なんだと思った事がある。他の誰かとは違うのだと高揚感を覚えた事がある。世間一般の人とは違う、特別な存在なんだと信じた事がある。それと同じように板倉は、自らを「年齢などというものを持たない超越的存在である」と主張したのである。その言葉には確かな強さがあった。だからこそ、その言葉に大きく心を動かされたのである。

それは、口から出任せの嘘ではなかった。その場凌ぎの出任せではなかった。まぎれもない正答だった。本人が心から信じた正答だった。正答であったからこそ、その言葉には強さがあった。自らの超越正を信じる頑なな言葉に、見る者は皆、正しさを見いだしたのである。




しかし、その正しさは次の瞬間に打ち崩される。





「私に年齢があると思いですか?」
その問いに板倉は即答する。「思いますよー。」
それもまた、正答であった。

お互いの正答が激しくぶつかり合う。2つの正答は決して相容れない。双方共に正しかったはずの正答は、ぶつかり合い、その中で笑いが生まれ、やがて片方はねじ曲げられて行く。確かであった正答が、正当性の無さ故に姿を消して行く。

自らをヨハン、ヨハン・リーベルトであると信じた彼は、そう主張したにも関わらずしつこく名前を聞かれ、やがては正答を放棄する事態へと追い込まれて行く。「かずたかリーベルト」へと後退し、果ては「清水かずたか」という偽りの名前を名乗らざるを得ない事態に追い込まれる。彼にとっては紛れもない真実であったはずのヨハンリーベルトという名は失われ、清水かずたか、という無惨で新しい正答が彼の身に大きく覆い被さる。




このやり取りの中で板倉俊之は、ヨハン・リーベルトという誰の目にも触れていなかった真実を白日の元にさらけ出す事に成功した。それは前人未踏の成果であり、その成果故にインパルスの偉大さは約束された。このくだらない沈痛な時代に僕等はそれぞれの真実を抱え、それを一度も口に出す事なく忘れて行く。たった1つの真実をも確立させられないままで、そしてやがては死んで行く。口に出して世間と折り合いを付ける事すら試みない。真実を、正答を、自らの心を、自分の中で押し殺し、世間に併合されてゆく。その流れに板倉は異議を唱えたのである。自らの妄想を堤防にして、1人我が身で受け止めたのである。間違った妄想も1つの正答であると世間に知らしめ、その上で、間違った正答は所詮間違ったものでしかないという悲しさを表通りに掲示したのである。

確かに、結果だけ見れば同じである。最初から「ヨハン・リーベルト」という真実の名を口にせず、「清水かずたか」と名乗っていても、結果は変わらなかっただろう。けれども、問題は結果ではない。過程である。1人の人間が確かに信じ、確かに生きた人生である。結果は同じ屍だろう。結果は同じ灰だろう。結果は同じ土だろう。けれども、問題は結果ではない。あの日の青春の屈折した僕等は、確かにヨハンだった。リーベルトだった。それを信じて、それを生きたのである。板倉という優しくて大きな1人の男は、それら百億人民の、頑なで間違った確かさを、真実であると認めた上で、正答であると認めた上で、全てを受け止めた上で、それでもやっぱり違うよねと、物悲しさを笑いに変えつつ、もう一つの正答を提示したのである。






ところが、キングオブコントのインパルスには正答が無かった。
キングオブコントにおける板倉俊之は、正答を放棄したのである。


堤下演じる二階堂という人物は、最年少で宇宙に行き、地球を眺めて「なんか違うな」と思い外科医に転職。冠動脈バイパス手術を行い、患者の家族に感謝されて「なんか違うな」と思い転職。アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーに入隊し「なんか違うな」と思い転職。そして訪れたのがファミレスで伝票を入れておく、透明なプラスチックの筒を作る赤字続きの町工場だった。このストーリーのどこに、正答が存在していたのだろうか。




僕は、答えを探した。板倉は、きっとあの日と同じように正答を用意しているものだと信じて探した。けれども、終ぞ見つからなかった。僕には二階堂という人物が正答を所持しているとは思えなかった。真実であるとは思えなかった。このコントを書いた板倉の、ただの妄想であるように思えた。

確かに、二階堂を連想させる人物は現実に存在する。
日本人初の宇宙飛行士であり、後に農業家に転職した秋山豊寛である。他にも、陶芸家に転じた細川護煕もその類型として思い浮かぶかもしれない。けれども、彼らが行ったのは所謂「世捨て」であり、宇宙飛行士を「なんか違う」と投げ出して外科医になり、それを投げ出してアメリカ陸軍に入り、それを投げ出して町工場という夢を追う人物とは明らかに違った。僕にはそれが、どうしても正答であるとは思えなかった。間違った答えであり、偽の答えであり、ただの妄想であるように思えた。

「コントだからいい」それは確かだ。コントだからの一言で、全てが赦される。コントであれば、創作の人物が存在していい。けれども、これまでのインパルスはそうじゃなかった。これまでの板倉はそうではなかった。板倉は常に正答を用意し続けた。板倉の描く人物は架空の存在でありながら、常に真実であり続けた。正答であり続けた。ところがこの日は違った。正答が存在しなかった。




そして何よりも決定的だったのは、二階堂の職歴である。
彼はアメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーに居た。
そして、「なんかちがうな」と思って辞めた。




一体、彼は何を思ったのだろうか。
何を「なんかちがう」と思ったのだろうか。
二階堂がその理由を喋ろうとした瞬間、板倉がそれを遮った。


そして叫んだ。
「もういいよ!」


答えは失われた。
永遠に失われた。


911以降、アメリカはテロとの戦争に突入した。
膨大な戦費を費やし、アフガニスタンに兵を出し、イラクに兵を出した。フセインを殺し、ラディンを殺した。テロとの戦争は世界を覆った。プーチンはチェチェンに兵を出し、メドベーシェフはカフカスに進駐し、中華人民共和国はチベットを制圧した。やがてはカダフィも暴徒に討たれた。二階堂という人物は、その中で一体何を成し遂げたのだろうか。テロとの戦争で何を果たしたのだろうか。アメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーで何を成し遂げ、そして何を「なんかちがうな」と思ったのだろうか。僕には、その答えが思い浮かばなかった。探しても、探しても、見つからなかった。





それは、テロリストのアジトを襲撃し、テロ組織の親玉を殺害した際の「なんかちがうな」だったのかもしれない。銃弾飛び交う戦火の中から逃げ遅れた少女を救出した際の「なんかちがうな」だったのかもしれない。あるいは、それ以外の何かに際した「なんかちがう」だったのかもしれない。

どちらにせよ、二階堂の回答がどのようなものであったとしても、ブッシュの戦争を同時代で生きた僕には、決して笑えるものではなかった。お笑いであるはずなのに、インパルスであるはずなのに、コントであるはずなのに、笑えるものではなかった。クスリとも出来なかった。笑う気にはなれなかった。それ以上に笑えなかった。当然にしてインパルスは、キングオブコント2011で下位に沈んだ。本来ならば勝てたであろう戦いで無惨にも散った。酷い有様だった。




ヨハン・リーベルトという物語は、「世間」が勝利する物語だった。
「世間」という正答が、「妄想」という正答を打ち破る物語だった。
その可笑しさに、切なさに、はかなさに、僕らはやられた。
笑いを堪えきれなかった。

けれども「二階堂君」という物語は、全く違っていた。
二階堂君という物語で勝利したのは、「妄想」だった。
板倉俊之の妄想だった。二階堂という妄想だった。

宇宙飛行士という妄想、天才外科医という妄想、元グリーンベレー隊員という妄想。本来ならば「世間」という正答によって打ち破られるべきであった妄想が、板倉俊之に勝利してしまった。不況にあえぎ赤字に苦しむ小さな町工場の工場長という正答を、妄想という正答が打ち破ってしまった。それは決して起こってはならない事だった。正答と正答を搗ち合わせて笑いを生んできた板倉にとって、致命的な失策だった。





そして板倉は逃げた。
敗北を受け容れ、逃走した。
勝負の舞台から尻尾を巻いて去って行った。




あの日の板倉はそうではなかった。決して逃げたりしなかった。舞台の上からゆっくりと立ち去ったヨハン・リーベルトは、勇敢にも再びその戦場へと帰ってきた。ヨハンの勇敢さと、キングオブコントでの板倉の臆病さは、まるで対称的なものだった。舞台の袖へと一目散に逃走した板倉は、二度と舞台に戻らなかった。両極端な姿勢だった。

板倉は逃げた。戦う事を諦めたのだ。正答を出し続けるという自らの戦いに敗北し、そして敗れ去ったのである。あの日僕が見たものは、インパルスの笑えないコントではなかった。あれは正答だったのだ。板倉の正答だった。「インパルスがキングオブコントで優勝する」という板倉俊之の誇大妄想だった。それは板倉俊之という人にとっては、正答だったのだろう。けれども、世間には届かなかった。他の人間にとってはそうではなかった。キリンスマッシュがそれ以上の笑いをとり、ロバートが優勝した。板倉の妄想は打ち砕かれた。板倉の正答は無惨に散った。







板倉はわざと負けたのだ。
僕はそれを信じている。


あなた方はそうは思わないかもしれない。けれども僕は信じている。板倉はわざと負けたのだ。インパルスは戦い続けた。2000年代を戦い続けた。エンタの神様で、爆笑オンエアバトルで、常に板倉は戦っていた。勝負の場から逃げなかった。板倉は信じた。インパルスを信じた。自らが誰よりも面白いと信じて戦い続けた。けれども現実は残酷だった。その戦いの中で多くの物を手に入れた板倉は、それらを得ると同時に何かを失った。それはハングリー精神だったのかもしれないし、信じる心だったのかもしれない。

前年に優勝したキングオブコメディの高橋は、滑舌が悪いと言われながらも自らの書いた台本をぎりぎりの所で演じきった。けれども堤下は違った。堤下は噛み続けた。昨日今日の話ではない。10年もの長きにわたり、常に欠かさず噛み続けた。堤下という人は臨機応変のセンスがあり、バラエティにおいては活躍しているらしい。けれども、決戦のバトルフィールドにおいては、明らかに足りていなかった。勝つのは不可能な人材だった。キングオブコントにおいても短い間に10度は噛んだ。噛み続けた。仮に板倉がわざと負けなかったとしても、本気で勝ちに来ていたとしても、インパルスは敗れただろう。堤下という戦力では、勝つ事の出来ない戦場だったのだ。


「堤下では勝てない」
板倉にはそれがわかっていた。だからこそ、彼はゆっくりとマイクを置いたのである。大切な大きな舞台において、自ら敗北を選択し、笑えない残念なコントを演じ、無惨にも敗れ去り、脱兎の如く逃げ出したのである。それは板倉のポツダム宣言であった。勝負芸人としての割腹自殺だった。




無論のこと、インパルスは終わらない。板倉も、堤下も、これから先芸人として生き続けるだろう。けれどもそれは正答を用意し、正答と正答を付き合わせ続けた勝負芸人としての生き方ではなく、バラエティに協合した普通のお笑い芸人としてのインパルスだろう。そして最も重要な事は、あの日板倉が本気を出して戦っていたとしても、インパルスはロバートに敗れたであろうという事実である。板倉は老いた。時代は流れた。仮に板倉俊之という1人の才能が、どのようなコントを用意していたとしても、あの日の勝者はロバートだっただろう。板倉の逃走は決戦のバトルフィールドからの逃走であると同時に、敗北からの逃走でもあった。正答を用意し続ける事に疲れ、負ける事から逃げたのである。負ける事を拒否し、立ち去る事を選んだのである。僕達はそれを見守り、見届けた。板倉の醜態は世間に届き、それを確かに見届けた僕は、去りゆく板倉俊之を、現実のものとして受け容れたのである。









僕はかずたかでも、清水でもない。
hankakueisuuであり、真性引き篭もりである。
そして板倉と堤下の将来が、幸に溢れたものである事を心から願っている。

2011年11月28日月曜日

そうですね大阪人は素晴らしいですね

管理されることが嫌いで、平気で赤信号を渡るので、他の地方の人からの顰蹙を買うのですが、パリに行けば同じ光景です。車が通っていないのに、赤信号で待っていると怪訝な顔をされるのが落ちだという国は多いのです。

赤信号で止まらなかった自転車に2年の実刑
というニュースが飛び交う時世に、赤信号を平気で渡る大阪人を持ち上げるマーケティングセンスに絶句する。

この類の「赤信号で止まるまぬけな国民性を持つ日本人と止まらない利口な大阪人」という発言はweb上で散々目にしてきたんだけれど、ブラックボックスの委託先は毎回決まってドイツやフランス。日本人がなんとなく美しさを感じる欧州先進国。件の文章に至ってはパリ。華の都パリ。したり顔で諸外国の常識を語る論拠が体験談。それでマーケティングの棟梁。

仮に赤信号を渡る国が存在していたとしても、それは「歩行者優先」という交通ルールが常識である国の話であり、車様に乗ってガソリン税やら道路税を納めてくださる運転手様が一番偉い日本とは条件が全く違う。大阪人の信号無視なんて単にモラルが低いだけ。マナーが悪いだけ。

2011年11月27日日曜日

眠っても眠っても眠い。

「眠っても眠っても眠い」などと言いだす人間が大して眠っていないのと同じように、「努力をしても努力をしても報われない」と言う人は言う程努力をしていない。

2011年11月26日土曜日

はてブにBANされて思い出した、Vavleとblizのdota戦争。

はてなブックマークのスパムフィルタにbanされてしまった。
これではてなブックマークのスパムフィルタにbanされるのは、3回目である。

仕方が無しに、株式会社はてなの「お問い合わせページ」なる場所に足を運ぶと、「受付時間は10時~19時」と書いていた。しかも「土日、休日は除く」と赤字の注意書きまである。神サポートである。




「突然に大量のブックマークがついたからスパムフィルタの誤爆も仕方がないか」とも思ったんだけれど、ネットで検索してみると「はてブのスパムフィルタにbanされました」という声、また声。これはもう、スパムフィルタの性能に問題があるとしか思えない。同一IPからのブックマークが付いたらBANとか書かれているけれどそれはイコール、悪意を持った第三者が意図的にbanを誘発させられるという事ではないか。そんな精度の低いスパムフィルタで誤爆banを連発しまくる一方で、自作自演によるホッテントリ入りとかは今も普通に行われている。レベルの低い会社だなあ、という感想が出てくる。





それで思い出したのは、速効でbanされて、速効でbanが解除された経験だ。

僕をbanしたのはブリザードエンタテイメントという会社で、banされた理由はネットで拾ったキージェネレーターで作った違法キーで、ブリザード社のゲーム専用ネットワーク「battle.net」にアクセスしたから。そしたら画面が立ち上がるなり速効でbanされた。PCのIDでbanをしているのか、ネットのIPでbanしているのかは知らないけれど、とにかくブリザードのbanは凄い。アンインストールして再インストールしてもbanは継続する。凄い威力だ。

ブリザードにBANされると、ネットワーク上でゲームは出来ないけれど、他人のリプレイを観戦する事は可能、という状態になる。僕は他人のリプレイを見るだけで楽しかった。その状況に満足していた。けれども、時々やっぱりゲームを遊びたくなる。どうしても、プレイしたくなってしまう。

そんな気持ちに陥る度に、WarCraft3を買って、正規キーを手に入れていた。けれども、である。正規キーで再インストールしてもbanはbanである。battle.netにはアクセス出来ない。正規品を購入したにも関わらず、プレイする事が出来ない。そういう時はブリザードのサポートに「正規版を買ったので解除してください」ってメールを出す。機械翻訳を使ってメールを出す。

そうすると、速効で解除される。一番早かった時なんて、ほんの10分くらいでbanが解除されてしまった。神サポートっていうレベルじゃない。もちろん土曜も日曜も無く速効で解除される。どこかの京都の株式会社はてなとは大違いだ。けれども、この違いは神サポートと糞サポートいう単純な違いではなく、何を商売にしているかの違いだろう。

はてなブックマークにとっての外部個人ブロガーは、広告入りのコメント欄を作成して商売をする為の種でしかない。世間一般の個人ブロガーははてなにとって、大切なユーザーではない。どうでもいいのだ。外部のブログをbanしまくる一方で、はてなに開設されたはてなダイアリーやはてなブログをスパムフィルタから除外すれば、自社サービスへの誘導にすらなる。その一方で、ブリザードエンタテイメントにとって、違法ユーザーは大切な顧客だ。




僕がプレイしてきたdota allstarsというゲームは、WarCraft3というゲームのmodなんだけれど、ユーザーの半数以上、約三分の二が違法ユーザーだと言われるくらいに違法ユーザーの多いゲームだ。WarCraft3の売り上げが500万とかそこらなのに、dota allstarsのプレイ経験者は1000万人を遙かに超える。「そういう人達の為のゲーム」なのだ。

違法ユーザーはbattle.netではプレイ出来ない。けれども、外部ツールを使えば何一つ不便する事がなく、ネット対戦が可能だ。好きなだけ遊ぶ事が出来る。そういった違法ユーザーと、非公式ツールに支えられて育って来たのがdota allstarsというゲームなのだ。

特にアジアにおいてそれは顕著で、僕がプレイしていたシンガポールでは、WarCraft3本体にpatchが当たった際に、200人以上が居る部屋で1時間待っても10人集まらず、途方に暮れたものである。チャットを見ても「パッチください」「新パッチはどこにあるんだ」とかそういった声で埋め尽くされていた。battle.netに接続すれば即アップデートされるんだけれど、彼らは違法ユーザーだからbattle.netに接続できない。そんな光景が間間、見られた。

しかし、ブリザードエンタテイメントという会社にとっては、違法ユーザーこそが自社のサポーターなのだ。ブリザードのゲームに親しんだ違法ユーザーが、いつの日かちょっとしたきっかけで正規版を買う。説明書の入っていない、簡易包装の廉価版を買う。あるいはブリザード社が次に出したゲームを買う。様々な形で正規ユーザーへと脱皮してゆく。ブリザード社は製品のスパンがもの凄く長い。数年に1本しか新作が出ない。だからこそ、違法ユーザーを手厚く守る事には大きな意味が出てくる。次の作品が出るまでの、2年以上もの年月で、違法ユーザーは歳を取る。成長する。大人になる。当然ながら、購買力も増す。50ドルのゲームを違法ダウンロードしてブリザード社の製品に慣れ親しんだ小学生は次の作品では高校生になり、次の作品では社会人になる。ゲームを買えるだけの余裕を手に入れ、そしてブリザード社の製品を買う。battle.netに参入していく。しかし、彼らはbattle.netで遊ぶ事は出来ない。何故ならば、banされているからだ。

違法ユーザーが正規ユーザーに変化しようとする際の、最大の障害。

それが、banだ。ブリザードエンタテイメントにbanされると、battle.netで遊べない。やっとの事で正規品を買ったのに、battle.netにアクセス出来ない。せっかくゲームを買ったのに、プレイする事が出来ない。そういった人達が世界には大勢居る。毎日大勢生まれている。生まれ続けている。だからこそ、ブリザードエンタテイメントにメールを送ると、速効でbanが解除されるのだ。ブリザードエンタテイメントにとって、違法ユーザーのコミュニティとは、大切な自社の牧場なのだ。自社ユーザーを育成する為の巨大なファームなのだ。一方のはてなブックマークがやっている事は、同じように見えて微妙に違う。彼らがやっているのは焼き畑農業である。インターネット上を片っ端から焼いて行く。そこに広告を植えて収穫する。




そんな事を考えていた時に目にしたのがこの記事だ。



ゲイブ:著作権侵害はValveにとって問題ではない、良いサービスの提供が多くのセールスを生む

著作権侵害の問題はValveにとって基本的に問題ではないと断言しました。

この記事を読んで、「dota war」即ちdota戦争、と呼ばれるものの正体が少しだけ見えた。




dota戦争の正体はdotaの奪い合いではない。
違法ユーザーの奪い合いなのだ。

ブリザード社が長年の歳月を費やして、大切に守り育ててきた大量の、巨大な違法ユーザーの奪い合いなんだ。dota allstarsというゲームはプレイ経験者の大半が非正規ユーザーだと言われるくらいに、完全にアレなゲームだ。故に、彼らの流動性は高い。同じようにタダで遊べて、賑わっているゲームがあればそちらへと流れる。だからこそ、Vavleはdota allstarsに目を付けた。

dota2というvavle社の製品の完成と公開は、ブリザード社の製品であるウォークラフト3のmodとして作られたdotaというゲームを盗んだのではなくて、一千万人は居るであろうブリザード製品の違法ユーザーの強奪だったのだ。ゲーム本体ではなく、あくまでもブリザード製品の違法ユーザーを盗む為の作品だったのだ。ブリザードという会社が黙認し、大切に守り育ててきた巨大な違法ユーザーのbliz牧場の所有権を突然主張しはじめたのがValveである。steamという看板を立て、自社の牧場だと主張したのがVavleなのだ。故にブリザードは激怒した。怒り狂った。そして後出しながら「dota戦争」なるものに打って出たのである。自社の違法ユーザーを取り戻すべく、挙兵したのである。

もちろん、ブリザードにも落ち度は有る。dota allstarsの元となったdotaというmodの開発者は、「俺はxboxがやりたいんだ!」と言ってmod制作から手を引いた。ブリザード社のゲームでmodを制作する事は、実利に繋がらない。

確かに、ブリザード社は素晴らしかった。自由に素晴らしいmodを作れるプラットフォームを作り上げて提供した。けれども、mod制作が実利を伴わないものである限り、mod制作者はいつか必ず去って行く。手を引いて行く。実利を伴わない行為を永遠に続けるのは不可能だ。どこかで限界が来る。dotaの制作者が「俺はxboxがやりたいんだ!」と言ってdota制作から手を引いたように、どこかで必ず終わりが来てしまう。

Iphoneでゲームを作れば、制作者には実利がある。Iphoneというプラットフォームには、制作者に利益を還元するシステムが有る。けれども、WarCraft3やStarCraft2、あるいはdiablo2というプラットフォームにはそれが無い。どれだけ素晴らしいゲームを作っても、制作者に利益を還元するシステムは用意されていないんだ。

故にdota allstarsの制作者は皆、四方八方へ散って行った。s2gameや、Riot Games、果てはvavleなんかに行ってしまった。利益を還元する方法を持たないプラットフォームである、ブリザード社製品を後にしたのだ。ブリザードは今になってdotaはブリザードのものだと主張している。今になって、「mod制作者に利益を還元するシステムを導入する」とか言っている。けれども、全てが遅すぎた。あまりにも遅すぎた。

大量のmodが作られたdiablo2から10年以上。WarCraft3からも10年。その間に、どれだけのmod制作者がブリザード社に貢献し、ブリザード社の正規ユーザーを楽しませ、ブリザード社の名声を高める事に貢献したか。けれども、彼らは何も得られなかった。Element TDも、dog of warも、The Great Strategyも、一円の対価をもたらさなかった。mod制作者の努力と情熱は、焼き畑農業の如く、使い捨てにされ続けた。

それが今頃になってやっと、「mod制作者に利益を還元するよ。支払い方法を用意するよ」なんて言った所で時既に遅し。ブリザードはユーザーを大切にした。違法ユーザーも大切にした。けれども、最も重要であったはずのmod制作者を見殺しにしたのだ。

本来ならばブリザード社が収穫するはずだった巨大な違法ユーザーのコミュニティ、無料ゲーを求めるハードコアゲーマーという極めて微妙でそれでいて決して小さくはないニッチは、ブリザード製品のmod制作者であった人達が作ったLeague of LegendsやHeroes of Newerth、あるいはdota2といったゲームによって、完全に埋められてしまったんだ。全てが手遅れだったんだよ。

DreamHack Winter観戦雑記。

いつ見ても、今のdota2の見てて面白くないゲームっぷりは酷い。bat、熊、SD、lycanあたりの時間帯が早い強キャラが実装されていないから、10分くらいまでワーワーやって30分お見合いしながらだらだら休憩してからrax割るだけの糞ゲー。未だに全キャラ実装出来ていないとか、「ヒーロー追加しました」というニュースを小出しにする為にわざと遅らせてるようにすら見える。裏でやってたmufcのdota allstarsがod対invokerというdota2未実装のヒーロー同士で無茶苦茶熱かったから、尚更しらけてしまう。
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SKがAngeLにesを振って1本目落とした。

AngeLはsandやesを一定以上のレベルで使えはするんだけれど、トップシーンで説得力のある強さかとなると、完全にNO。極めて平凡。ddtくらいの層があればAngeLが後衛でも勝てるけど、今のSKはAngeLが後衛に回って勝てるチームじゃない。是が非でも本物のビッグネームが1人必要。前も後ろも真ん中も出来るLodaが一番だけれど、そうでなくてもそれ相応のプレイヤーが1人欲しい。デンマーク人という縛りではもう1人も残っていないから厳しい。
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ミゲルとアンゲルがsolo。linklinkがspecの3-1-1。相手はam。pick負け気味で最初っからgdgdなので完全にspec頼み。このペースだと間に合わない。
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詰んでる。この時間まで頑張って起きてたのに、2本ともAMに負ける凡ゲーとは。
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この時間まで起きてamゲー*2は萎える。Loda欲しい。(zsmj欲しい)。
どうせ負けるならAngeLのpotmが見たかった。
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amがボーンヘッド。あと5回くらい勝てば可能性が芽生えるがまだまだ遠い。
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不毛だった。寝よう。
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全滅。疲れた。SK負けたので明日は見ない。loda欲しい

誰がブログを殺すのか。

幾つかのブログの真性引き篭もりに対する言及を見ていると、頭が痛くなってくる。

かつて、俺たちはインターネットだった

かなり名の知れたブロガーでさえ、この程度の事しか書かない。
だから僕はこんな糞エントリーを書かざるをえない事態に追い込まれた。

























菊千代は死んだ。
なぜだ。


菊千代は死なない。
なぜか。

















「菊千代はなぜ死んだのか。」
その問いに対する回答は、完結にして明瞭である。



映画だからだ。




映画だから菊千代は死んだ。
映画だから菊千代は死んだのだ。
映画であるが故に菊千代は殺されたのである。

誰が菊千代を殺したのか?
愚問である。黒沢明である。
黒沢明に殺されたのである。

即ち、菊千代は死なない。
ここは映画ではない。

即ち、菊千代は死なない。
黒澤明はもういない。

黒澤明は死んでしまったのだ。
それでも僕等は生きている。
生きているから生きねばならない。
ブログを書いて、生きねばならない。














菊千代は何故死んだのか。
その問いへの答えは、七人の侍という映画の中にある。

菊千代は死に値する大罪を犯した。
因果応報その罪を背負い、殺されるべくして殺されたのである。




菊千代が犯した罪とは何か。
僕達は今一度その罪を思い出さねばならない。






七人の侍というのはシンプルな映画だ。

前半は明るく愉快な空気に支配されており、後半は沈痛で重苦しい空気に支配されている。そして、その前半と後半を区切るのが菊千代の言葉である。1つの言葉である。その言葉こそが菊千代が殺された理由である。彼は死ぬに値する言葉を吐いた。故に殺されたのだ。菊千代は言った。「恥を知れ、恥を」、と。いや、正確に言えば違う。彼が言ったのはもっと致命的な一言だった。「それでも馬か、恥を知れ、恥を。」






「それでも馬か。恥を知れ、恥を。」
それはあまりにも致命的な言葉だった。


何故それが致命的であったかを理解するには、菊千代という人物がどのような人物であったかを知らねばならない。七人の侍には、嘘が沢山潜んでいる。嘘と偽りで出来た映画である。嘘と偽りについて描かれた映画である。その中においても、菊千代は異色の存在である。何故ならば、菊千代は嘘だからである。菊千代が菊千代であるというのは嘘である。それも公然の嘘である。

菊千代は侍ではない。
そして、菊千代ですらない。




彼は侍に憧れ、侍として生きようとした。
自らを偽るために、家系図を盗んだ。
侍の家系図を盗んだのである。

そしてそこには1つの名前が書かれていた。
それが「菊千代」である。




即ち、菊千代は菊千代ではない。
家系図に書かれた偽の名前である。
菊千代などという人物は存在しないのである。
それにも関わらず、菊千代は菊千代であり続けた。
火縄銃の一撃を胴体に喰らい息絶えるまで、彼は菊千代だった。

菊千代は何者だったのか。
それを僕等は誰も知らない。
自分が何者なのかという問いに対して
「菊千代である」という生き方をもって応えた。
菊千代は菊千代として生きようとし、菊千代として死んだのである。




もしも僕が黒澤明であったならば、「七人の侍」という映画は「七人の侍」というタイトルにはしなかっただろう。「6人の侍と1人の経歴詐称者」とか、「6人の侍と荒野の荒くれ者」とか、そういったタイトルになっていただろう。僕だけではない。あの千秋実ですら、「あれは7人の侍ではない。6人の侍と1人の半端者だ」と言ったのである。言い切ったのである。ところが、黒澤明は違ったのだ。

偽の家系図により生み出された「菊千代」という嘘の塊を、こともあろうか侍だと認め、「七人の侍」という映画の中に取り込んでしまった。彼を侍だと認めたのである。菊千代は侍であると認められたのである。黒澤明に認められたのである。黒澤によって赦されたのである。それが黒澤の優しさである。黒澤明という人は、優しい人なのである。仏なのである。その黒澤が、あんなにも優しかった黒澤が、菊千代を惨殺したのである。無惨に殺害したのである。それには、それだけの理由があった。





スティーブ・ジョブスがそうしたように、菊千代は世界の仕組みと戦った。
菊千代は農民として生まれながら、農民であることを受け容れなかった。
侍に生まれなかった者は侍ではない。その常識を乗り越えようとした。
社会のルールを乗り越えて、その先へと進もうとした。
侍になるという夢を諦めず、叶えようとした。
そして菊千代は菊千代になった。
夢を叶えたのである。




しかし、彼はミスを犯した。
菊千代は言ったのである。




「それでも馬か。恥を知れ、恥を。」
致命的な失言だった。


黒澤は激怒した。
烈火の如く怒り狂った。
五郎兵衛が、久蔵が、菊千代も討たれた。
黒澤明の逆鱗に触れ、みんな殺されたのである。




「それでも馬か。」
一頭の馬に対して発せられた菊千代の一言。
この失言が全てを変えてしまったのだ。




百姓に生まれながら、百姓として生きようとしなかった菊千代。
百姓に生まれながら、百姓として生きる事を否定した菊千代。

その菊千代が、馬として生まれ、馬として生き、明らかに馬であり、どこからどう見ても馬である、正真正銘の馬であり、正々堂々逃げもせず隠れもせず馬として生き続ける馬に対して、「それでも馬か」という壮絶なブーメランの投打の痛撃を放ったのである。足蹴にしたのである。「恥を知れ」と罵ったのである。恥を知るべきだったのは馬ではない。言うまでもなく菊千代である。恥を知るべきは菊千代だったのだ。偽物の家系図を盗み、盗んだ家系図に書かれていた偽の名前を名乗り、自らを偽り、嘘をつき、刀を手に取り、まるで侍のように振る舞った。その菊千代が決して超えてはならなかった一線。それこそが「それでも馬か」でなのである。




その一言を聞いて、黒澤は激怒したのである。
その一言によって、菊千代は殺されたのである。「私は東ゴート人とカンガルーを差別する」と言い放ったグイドに激怒し自らの手で銃を手に取り撃ち殺したロベルトベニーニと同じように、黒澤は激怒し、菊千代を殺害し、それだけでは収まりがつかず、菊千代の一味を片っ端から皆殺しに殺していったのである。





七人の侍。
それは異物の映画である。
侍の中に偽物の侍が居る映画である。
菊千代という異物が混じっている映画である。





しかし、七人の侍に登場する異物は菊千代だけではない。
そしてそのもう1人の異物こそが、七人の侍という物語の主題である。





菊千代とは別の、もう1人の異物。
それが勝四郎である。






七人の侍という映画は、侍の映画である。
しかし、七人の侍に登場する侍はただの侍ではない。飢えた侍である。一杯の茶の代金にすら、事欠くような侍である。喰うに困り、眠るに困り、着るにも困った侍である。誰もが皆、貧じ、鈍じ、人生に行き詰まった侍である。安定した職もなく、温かい家庭もなく、将来の保証もない、人生が完全に終わっている侍である。未来の見えない侍ばかりである。菊千代を含めて、不確かな人生を歩んでいる侍ばかりである。ところが、その中に1人だけ、異物が居る。確かな人生を歩んでいる侍が居るのである。七人の侍という映画においてただ1人、帰る家を持つ侍が居る。それが勝四郎である。




勝四郎は金持ちである。
金持ちの侍の生まれである。

故に、金を持っている。
ただ1人金を持っている。



そして、その金が重要な役割を占める。勝四郎の財布が無ければ、七人の侍は終わっていた。開始早々に終わっていた。しかし終わらなかった。七人の侍という映画が今にも終わろうとしていた瞬間に、勝四郎が金を出したのである。小銭をほおりなげたのである。その融資により、その資金により、七人の侍という映画は続いてゆく事になる。勝四郎という1人のいいとこの、温室育ちの侍こそが、スポンサーだったのである。エンジェルだったのである。彼が出した金により、七人の侍という映画は最後まで続いたのである。



そして、その勝四郎が映画の中で成し遂げた事。
それは唯一、セックスである。
勝四郎はセックスをしたのである。





つまり、七人の侍という映画は、勝四郎が金を出し、勝四郎がセックスをする映画なのである。勝四郎がセックスをするために、金を出す映画なのである。勝四郎がセックスの為に屍を築き上げ、屍を乗り越えセックスをする物語なのである。より正確に言えば、勝四郎がセックスの為に金を払い、素人の処女の少女と生中だしのセックスをする物語なのである。生まれも育ちも恵まれた「おぎゃー」の時点で勝ち組の侍が、食うも眠るもままならない、負け組の侍の中に場違いな乱入を行い、そしてセックスをする物語なのである。セックスの為にストーカーをし、セックスの為に土下座をし、セックスの為に金をだし、セックスするだけの物語である。その物語の本筋からは逸れた所で、野武士が来たり、侍が戦ったり、菊千代が裁かれたりする。けれども、物語の本筋は、勝四郎のセックスである。勝四郎が金を出さなければ終わっていた。しかし終わらなかった。なぜならば、勝四郎のセックスにかける情熱は本物だったからである。勝四郎はセックスがしたかったのだ!故に勝四郎は金を出した。惜しみなく金を出した。土下座までした。必死になって追いかけた。断られても、断られても、セックスに追いすがった。そしてセックスしたのである。勝四郎はセックスをしたのである。しかも相手は美人の処女の少女である。風俗とかではない。プロではない。アマチュアである。素人である。中古女ではない。処女である。ぶさいくではない。美人である。しかも処女の素人である。処女の素人の少女である。許し難い行為である。なぜ許し難いかというと、僕だって処女の素人の少女としたいからである。しかしながら、勝四郎と違い、金が無いのである。勝四郎と違い、職がないのである。金が無いから出来ないのである。処女の美人の少女と後腐れ無いセックスが出来ないのである。金があれば僕だって現金で処女の少女の横っ面を札束で引っ叩いてニコ生とかTwitterとかアメーバピグとかで処女とセックス。セックス。セックス。僕はセックスがしたいのである。女という生き物は金さえ与えれば股を開くのである。セックスは金である。金とはセックスである。勝四郎がそれを教えてくれたのである。僕は勝四郎からセックスの全てを学んだのだ。セックスに必要な事は全て勝四郎が教えてくれた。セックスに必要なもの。それは金である。現金である。女は金である。金さえあれば好き放題セックス出来るのである。勝四郎はセックスによってそれを教えてくれたのである。セックスによって証明したのである。そして、このブログのこのエントリーに書かれている真実はただ一つ、セックスがしたいという叫びである。このエントリーで成されている主張はただ一つ、セックスである。それもただのセックスではない。処女とのセックスである。美人とのセックスである。少女とのセックスである。コンドーム無しのセックスである。生中出しのセックスである。キスを伴うセックスである。僕はセックスがしたいのだ。そして僕はセックスが出来ないのだ。何故か。答えは簡潔にして明瞭である。僕は侍ではない。そして僕には金が無い。故にセックスが出来ないのである。生中出しのセックスが出来ないのである。処女とのセックスが出来ないのである。悔しい。本当に悔しい。勝四郎が処女の少女の美人の素人とセックスをしている間にも、僕等は飢え、苦しみ、寝るにも困り続けているのである。そんな私達を踏み台にして、勝四郎は小銭を散蒔き、そしてセックスするのである。生中出しのセックスをし続けるのである。この広い地球上では、広井王子ですらセックスをしているのである。金があるからセックスし放題なのである。汚くてキモイおっさんでも美人の少女の処女とセックス出来るのに、それが僕には出来ないのである。勝四郎と違い金が無いから出来ないのである。セックスがしたいのだ。セックスがしたい。僕はセックスがしたい。処女とセックスがしたい。少女とセックスがしたい。美人とセックスがしたい。美人の処女の少女とセックスがしたい。心ゆくまでセックスがしたい。しかも勝四郎のように後腐れ無く関係を断ちたい。セックスだけがしたい。他の事は一切いらないからただセックスがしたい。とにかくセックスがしたい。もうセックスが出来るならツイッターでもはてなブログでもなんでもいい。とにかくセックスがしたい。セックスの為ならなんだってする。ブログだって書く、dota allstarsだってする。wardだって買う。gemだって持つ。gangにだって行く、tpなんて2枚持つ。とにかく僕はもうなんでもいいから、セックスがしたいのだ。このエントリーに潜む真実はただ一つ、僕は美人の処女の少女と生中出しのセックスがしたいという紛れもない事実だけなのである。遂に僕はブログにおいて真実を語る事に成功したのだ。今日は記念日である。セックスの記念日である。真実について語る事が出来ました記念日である。

















「本当にセックスですか?」
疑う僕にまつもとさんは言った。
「本当にセックスですよ。」







「信じられませんね。虫でセックスだなんて。」


   「それはね、はんかくさんが島根を知らないからです。」


「島根ではみんなそうなんですか?」


   「みんなではありません。私は違います。」



「まつもとさんは違うんですか?」


   「島根という所は、特別な場所なんです。」


「特殊な場所?」


   「私のような天才は、外貨を稼ぐ。」


「他の人は?」


   「セックスをするんです。」


「よくわかりませんね。」


   「のみこみがわるい。」


「すみません。」


   「謝ることではありません。」


「でも、どうしてセックスなんですか?」


   「はんかくさん?」


「はい。」


   「天才の作り方を知っていますか?」


「いいえ、、、わからないです。」


   「いいですか。天才を作る方法は一つしかありません。」


「どうやって作るんですか?」


   「セックスです。」


「セックス!?セックスで天才が出来るだなんて、初耳ですよ。」


   「アリストテレスも、ピカソも、ゲーテも、
    みんなセックスです。全部セックスなんです。
    天才は努力や環境によって生まれるものではありません。
    セックスによって生まれるものなんです。」 


「驚きましたね、セックスだなんて。」


   「島根というところはね、全てがセックスなんですよ。」


「よくわかりませんね。」


   「島根は大変なんです。
    何も無いんですよ。
    海もない、山もない、砂丘もない、うどんも無い。
    もちろん竹島なんてものはありません。あれは韓国領土です。
    そんな島根に唯一あるもの、それが天才なんです。」


「天才、ってたとえば?」


   「わたしです。

    島根にとって、わたしのような天才が全ての源なんです。
    わたしのような、僅かコンマ数パーセントの天才が外貨を稼ぐ。
    残りの平凡な人達は、明日の天才を作る為にセックスをする。
    わたしたち天才が稼いだ外貨は、セックスによって巡り巡るのです。」



「シェア、ですか。」



   「そうです。
    セックスによってシェアされるのです。」


「でも、セックスだなんて効率が悪くありませんか?
 みんなで真面目に働いた方が……。」


   「はんかくさんは何もわかっていませんね。」


「はい。」


   「能無しは働かなくていいんですよ。
    邪魔なだけです。
    迷惑なだけです。
    足手まといです。
    足を引っ張るだけです。
    一生家から出ないでください。
    社会に出てこないでください。

    天才は富を作る。
    無能な人は天才を作る。
    それが一番なんです。
    それが島根なんです。」


「けれども、どうするんですか?
 どうやってセックスをするんですか?」


    「虫、ですよ。
     虫を利用してセックスをするんです。」


「そんな話、聞いたこともありません。」


    「無知は誇るべきことではありません。」


「すみません。」


    「いいんですよ。そんなに縮まらなくても。」



「では、お伺いします。
 虫で、どうやって、セックスを?」


    「写真です。
     島根では、セックスをしたい時は虫の写真を撮ります。
     そして、虫の写真をインターネットにアップロードするんです。」


「それで、セックスが出来るんですか?」


   「そうですよ。
    虫の写真をインターネットにアップロード。
    それだけで、セックスが出来るんです。
    それが島根です。」


「まるで天国のようだ。。。  にわかには……」


   「島根では全てがルールに基づいて運用されています。
    虫にだって、厳格なルールがある。」


「厳格なルール?」


   「そうです。
    たとえば、はんかくさん。」


「はい。」


   「アナルセックスをしたい時は、どうしていますか?」


「経験が無いからわからないです。」


   「では、想像してみてください。
    アナルセックスをしたくなったら、
    はんかくさんなら、どうしますか?」


「想像も付きません。」


   「アオスジアゲハです。」


「アオスジアゲハ?」


   「そうです。
    アオスジアゲハの写真をアップロードする。
    それがアナルセックスの合図なんです。
    アナルセックスが可能な異性からコンタクトが来る。
    そして、アナルセックスが可能になるのです。」


「けれども、それでは困るでしょう。」


   「何がですか?」


「アオスジアゲハの写真は夏にしか撮れない。」


   「そんな事はありません。
    幼虫でも、卵でも、なんでも良いのです。
    それに、夏に撮っておいた写真をストックしておけばいい。
    アナルセックスを愛する人は、アオスジアゲハを撮り溜める。

    それが、島根なんです。」


「その手がありましたか。」


   「ノコギリクワガタは、競泳水着。
    コガネムシは、ガーターベルト。
    ウンモンスズメは、巨乳。
    ウチワヤンマは、つるぺた。
    トホシオサゾウムシは熟女。
    マスダクロボシタマムシは中学生。
    ドロハマキチョッキリは幼女。

    剃毛プレイがしたいなら、ヒゲナガオトシブミ。
    フェラチオがしたいなら、アカクビボソハムシ。
    スカトロがしたいなら、コウヤハナカミキリ。

    島根では全てが明文化されています。
    島根県民は誰もがそのルールを暗記しています。

    そして、それらを組み合わせる事で、
    あらゆるニーズが満たされているんです。

    こんなに効率的な天才の作り方は他にありません。」


「島根は素晴らしいですね。」


   「本当に島根は素晴らしいところですよ。」


「けれども、そんな人が本当に居るのですか?
 虫の写真を必死でインターネットにアップロードするだなんて。
 わたしは1人として知りません。見た事がありませんよ。」


   「観測範囲の狭さを自慢するのはおやめなさい。
    みっともないだけですよ。」


「ごめんなさい、まつもとさん。
 本当にごめんなさい。」




















>かつて、俺たちはインターネットだった

あの、敵がなんなのかわかんないけどとにかく戦ってる雰囲気っていうのは、ある時代にネットで文章書いてた人に共通のもので、かくいう俺自身がわりとそのタイプです。「おまえの敵はどこにいる?」と聞かれたら、ものすごい勢いでシャドーボクシングしながら「俺だ! 俺が敵を作った!!!」とか眦を決して答えるタイプの人。


はー、そうですか。うんざり以外の感想が浮かんでこないね。僕が書いたエントリーの中身には一切触れられていない記事。これが反吐が出るってやつか。本当にインターネットって糞だって事をよくよく思い出させてくれるわ。僕は自らが憎み忌憚するものをはっきりと認識していない限り決してブログで何かと戦ったりしない。ここでスルーしたり逃げたりすればブロガーに生まれた意味がないと思うからこそ、思い続けてきたからこそ僕はブログを書いてきたし、書き続けてきた。そしてこれから先も書き続けるだろう。件のエントリーで僕が憎み、忌み嫌い、非難したものは「違う物語、違う記憶、違う結論を都合良く捏造する人。」だ。「自分の真実の物語」から逃げようとする人間だ。






そういえば、先日インギーと内田裕也と僕の3人で白木屋に飲みに行った時に裕也さんが核心を突いた話をしていた。




「あのさぁ、あのね。
 最近ね、あれよ。

 ロックでもねーやつが。
 ロックを騙ってね。
 ロックだって言うぅ。

 スターでもなんっでもねーやつが。
 スターだぁ、スターだぁ。
 言ってるんだよ。

 ロックスターだって。
 ふざけんなだよ。」



裕也さんはいつも良い事を言う。
この段落で僕が行った事。それは物語の捏造だ。
「裕也さんとインギーの3人で白木屋で飲んだ」という物語を捏造したのだ。

即ち、僕は岡田有花と同じ事をした。嘘の物語を作り上げたのだ。どうしてそんな捏造を行ったかって?そりゃあ決まってる。自分を大きく見せるため。だってそうだろ。中学もまともに出てないような引きこもりのdota allstarsプレイヤーの書くブログなんで誰も読もうと思わない。読みたくない。説得力を感じない。だからこそ僕は「俺は裕也さんやインギーと飲むくらいの大物なんだぜ」って自らを詐称した。自らの利益の為に裕也さんを利用し、自らの利益の為にインギーを利用した。

それを行う事によって、嘘の物語の捏造を行う事によって、そういった行為を取る人間を非難したのだ。強く非難したのだ。インターネットはそういう人々で満ち溢れている。「誰々と会いました。素敵な人でした。」本当に素敵かどうかなんて関係無い。問題は「誰かの素晴らしさを認める自分」を演出することだ。人脈を誇ることだ。そしてそういった他者への称賛は、巡り巡って自分へ帰ってくる。捏造された称賛は回収可能なのだ。本当に素敵な人だったか、本当に素晴らしい人だったかは関係ない。人間誰しも、他人とあえば「なんとなくいい人っぽい」振る舞いをしようと務めるだろう。素敵な人っぽく笑おうと務めるだろう。そしてそれを褒めるのは簡単だ。本当に素晴らしい人か、本当に素敵な人か、そんな事は関係ない。それどころか、本当に存在していたかどうかすらどうでもいい。「裕也さんとインギーと飲みました」と書いてもその物語が本当であるか、嘘であるかを確かめられる人はいない。永遠のブラックボックスの中で誰1人として真実をのぞき見る事が出来ない。そういった捏造される物語、捏造される素敵さ、捏造される些細な美談によって、本当の素敵さや本当の素晴らしさは埋没し、誰の目にも届かず消えて行く。それに怒っていたのだ。




僕が裕也さんとインギーを用いて書いた物語は、自分を大きく見せる為の捏造だけれど、その次の段落で書いているように、物語の捏造は上方向に限ったものだけではない。下方向にも、あるいは平行方向にも起こる。自分を小さく見せた方が都合がいい時は、人は自らを可能な限り小さく見せようとするし、自分を他の何かであるように見せた方が良い時は、自分を他の何かであるように見せようとする。

たとえば、ロケンローでもなんでもないのにロケンローを騙った樹木希林のヒモとか、大卒なのに高卒を騙って就職した市営バスの運転手とか、ただの移民なのに亡命キューバ人を詐称した共和党の州知事とか、特攻隊員ではないのに元特攻隊員を騙った俳優とか、いじめられっ子を自称していたのにいじめっ子だったと暴露されたUFCのチャンピオンとか、ロックでもスターでも無いのに「俺はジムモリソンの生まれ変わりだ」と真顔で言い出すパールハッカーとか、どこからどう見ても人間なのに金髪豚野郎を自称して世界中の豚さんをブヒブヒ言わせた天才落語家とか、普通じゃないのに普通というストーリーを捏造した(そして捏造し続ける)岡田有花とか、社長で金持ちで暖かい家庭を持つのに僕が一番最初に使い出した「僕」という一人称を無断で使用するじゅんじゅんとか、ハードコアゲーマーでもなんでもないのにハードコアゲーマーを自称する人とか。

そういった捏造者の象徴的存在こそが、「ロケンロー」の簒奪を行いイメージロンダリングをしながらヤクザの誕生日会で口パクで歌い、挙げ句ストーカーで逮捕された内田裕也だったんだ。インターネットはそういう人間で溢れている。内田裕也みたいな奴らで溢れている。自らの都合の良い属性を簒奪する人間で溢れている。物語を造り替える人間で溢れている。たとえば1人だけ例をあげておくと、件のエントリーで裕也さんとインギーの3人で白木屋に飲みに行った物語を捏造した真性引き篭もりhankaku何某とかね。だからこそ僕はそれに憤りを覚えていて、憤りを覚えており、憤りを覚えるとブログに書いた。

そのエントリーに平然と捏造した物語を被せてくる神経って何なんだろう。
僕がブログで非難した行動を、そのまま被せてくる人間って一体何なんだろう。

糞くだらねえ物語を捏造して「俺たち」なんて言葉を被せるとか本当にうんざりするね。僕がdota allstarsしてた間、どこでdota allstarsしてたんだ?してないだろ?違うだろ?なのに何故僕のdota allstarsを簒奪しようとするんだ?都合良く利用しようとするんだ?「あんまり熱心な読者ではなかった」とか言いながらしたり顔で真性引き篭もりhankakueisuuを騙ろうとするんだ?知らないなら黙ってろよ。僕はおまえの裕也さんでもなければおまえのインギーでもない。「真性さん?」ふざけんなよ。それはロックンロールをロケンローと呼ぶ事と同じだろ。俺はおまえのロケンローじゃない。ブロガーでしかない。




念のため重ねて書いておくと、僕が怒ってるのは「熱心な読者じゃないのに語ろうとする人間」に対してじゃない。「ブログを読もうとしない人間」に対してだ。僕がブログを書いた。それは読まない。読むつもりもない。その上で好き勝手語ります、という態度を取る人間どもに対してだ。僕がブログで非難した行動を次の瞬間に平然と被せてくる人達に対してだ。

そういう行為を取るのなら、熱心でない読者、通りすがりの読者、いわゆる信者的な読者、そのどれであっても同じように腹が立つし、読んで好きなように解釈してくれるならどんな読み方であろうと、どんな読者であろうと歓迎する。

僕がブログを書き続けてきて最も煮えくりかえったのはあくまでも、読みもせずに好きな事を言うだけ言って書き捨てる連中の存在だ。真性引き篭もりhankakueisuuはああだ、こうだと好きな事を言うが、僕がいついったいどこでそういう事を書いたか?と聞き返すと「あはは真性引き篭もりさんはいい芸風してるね」などと意味不明な対応をする連中だ。ブログに書いたことを全く読まずに「自分の物語」を、自分の「真性引き篭もりhankakueisuu」を好き勝手に捏造する。そういう連中に心底うんざりさせられ続けてきた。

そしてそれを象徴するような糞ブロガーが僕の目の前に今正に登場したってわけだ。何が書かれているかなんてどうでもいいなら、憂うふりして無自覚に、自らの都合のよい物語の為に利用しないでくれ。ブログを語るなら最低限ブログを読んでからにしてくれ。書かれている内容を読んでくれ。その気が無いなら黙ってろ。




こういうid:nakamurabashiみたいな連中がどうしてそういう簒奪行為を行うのかは、岡田有花を見ればわかる。彼らが行う簒奪行為は、全て利益の為だ。ここで言う利益は金の事じゃない。もちろん金の事も含まれているけれど、「共同体」としての自らの利益の為だ。馴れ合いの為だ。彼らは現実世界(あるいはウェブサイト)から何かを盗み取り、それを取り巻きに配る事によって、自らの地位を日々向上させる。自らを満たしている。ソーシャルの要塞を築き上げ、その奥底に身を隠す。

僕はそれを常に拒否り続けてきた。ソーシャルの畳鰯の鎖帷子を拒否り続けてきた。一切否定はしていないけれど、個人としては拒絶し続けてきた。mixiもやらない、twitterもやらない、はてなもやらない。可能な限り繋がらない。繋がりを持たない。結びつきを持たない。そういう考えで生きていた。社会性というものを持たない僕にとって、自らが誰かと接点を持つという事は、迷惑行為を行うという事とイコールだ。だから可能な限り接点を持たないようにしてきた。

ところが、そういう生き方をしていると、ソーシャルの畳鰯の鎖帷子を着重ねようとする連中に都合良く利用される。都合の良い真性引き篭もりhankakueisuuを捏造して鰯にして干して畳鰯にして鎖帷子を編み上げて着飾るんだよ。ちょうどid:nakamurabashiがそうしたようにね。




だからこそはっきり否定しておくが僕はモテでも無いし非モテでも無い。リア充でもなければ非リア充でもない。オタでも無ければ非オタでも脱オタでもなく、無論のことゲーオタでもない。ヒゲナガゴマフカミキリでも無ければオオセンチコガネでも無い。スグリゾウムシでも無ければハグロトンボでも無い。ツヤアオカメムシでも無ければヒゲナガオトシブミでも無い。ただのブロガーでしかない。dota allstarsを止めようとしているブロガーでしかない。それはブログを書き始めたその日から、まったく変わっていない。もしもこの地球上にdota allstarsを止めようとし続けて居るブロガーが存在するならば、「この人も」とか「俺たちも」と言われたって、何も腹が立たない。ところが連中は真性引き篭もりhankakueisuuを勝手に定義し、真性引き篭もりhankakueisuuを勝手に面白がるんだよ。僕がどうあるか、僕が何と戦っているか、僕が何を書いたかなんて事は完全に無視してね。




僕のブログを馬鹿にするのは結構。ネガティブな批評も結構。DISるのも結構。嗤うのも結構。けれども、それをしたいなら最低限ブログを読んでくれ。読まないならクソくだらない話で絡まないでくれ。僕がざっとインターネットの反応を見た限り、「スカスカ」と書いたのはid:nakamurabashiだけだし、「マジキチ」と書いたのもid:nakamurabashiだけだ。おまえだけだ。「俺にとって都合のよい物語」の為に存在しない物語を作らないでくれ。インターネットの声を勝手に捏造しないでくれ。


あの手の声が届かない人間なんていないだろうと、そんなやつはインターネットにはいるはずねえよな、という思い込みが俺にあったわけです。まあもちろん誤解だったわけですけど。
ああそうだよな。
いや、そうでもないか。




僕はあのエントリーを書いた時、100人くらいに読まれればいいと思った。150人くらいに読まれれば御の字だと思っていた。2012年のインターネットがどういうものか知らなかったし、それ以上に自分のブログが誰かに読まれるなんて想像もしてなかった。あのエントリーの一日前に投稿した、僕のdota allstars人生の全てを注ぎ込んだキャラランクエントリーが壮絶に0バズ0ブクマとかで爆死してたからね。だから、自分のブログが大勢の人に見られて本当に驚いた。インターネットって最高だと思った。僕が知っている以前のインターネットは、id:nakamurabashiみたいにブログを読まずに好き勝手言う人が多数派を占めていたのに、今のインターネットは違う。ただ見るだけではなく、読んでくれた人が多くて本当にびっくりした。「真性引き篭もり」とかいう明らかに地雷なタイトルのブログに自分のパーソナリティがあるTwitterとかで言及するとか、あり得ない事だと思ってたから本当に驚いた。2012年のインターネットって最高だなあ、と思った。




「かつて、俺たちは、インターネットだった。」
ああ、そうだよな。
あんたみたいなのがインターネットだったよ。


あの手の声が届かない人間なんていないだろうと、そんなやつはインターネットにはいるはずねえよな、という思い込みが俺にあったわけです。まあもちろん誤解だったわけですけど。
何が書かれていても一切読まずに芸風だとかまたやってるよとか好きな事を言ってニヤニヤしてるだけの連中な。他でもないそういう奴らこそがブログを殺すんだよ。ちょうどあんたみたいな奴な。お願いだからとっととインターネットから消えてくれ。クソ胸くそ悪くて邪魔で迷惑なだけだから。







インターネットは死んだとか、そんな話をする事自体がアホらしいね。

取り合う気にすらならない。たとえば岡田有花のような人達が束になって幾億の物語を捏造し、幾億の現実を抹殺したところで、インターネットは殺せない。何故ならばこの世界は映画ではなく、黒澤明は存在しないからだ。誰もインターネットを殺せやしない。誰もブログを殺せない。誰もブロガーを殺せはしない。死に追いやる事など出来はしない。インターネットは死んだとか、誰がインターネットを殺したとか言いだす奴らは、ただインターネットに死んでもらった方が都合がいいから死んだという物語を捏造しているだけだ。

あの日インターネットを懸命に生きた僕達は、あの頃よりもずっと素晴らしいインターネットで何時までも永遠に何も変わらず生き続けているし、僕はブログを書き続けている。インターネットに勝四郎のような人間は居る。インターネットに菊千代のような人間も居る。それどころか、黒澤明を気取ろうとする奴まで居る。けれども誰も死なないんだ。何も死なないんだ。ブログは死なない。ブロガーは死なない。ここは映画じゃない。ここはインターネットだ。何一つ死なない。勝四郎のように小銭を散蒔いて誰かを死に追いやる人間がこの世のどこかに存在するなんてのは、くだらない思い上がりなんだよ。おまえのくだらない妄想なんだよ。

2011年11月25日金曜日

勝ち負けってなんだろう。

「頭が痛いとブログに書いたら負け」だと思う。
「具合が悪いとブログに書いたら負け」だと思う。

どうして、そんな事を思うのだろうか。


それは多分、「書きたくもないブログを書く」という事を敗北であると考えているからだろう。頭が痛いと書きたくてブロガーになったわけじゃないし、具合が悪いと伝えたくてブロガーになったわけでもない。ところが、こうも寒いと具合を悪くする事がある。具合が悪い以外の事を書けないという所まで追い込まれる事がある。そしてそんな時は「具合が悪い」と書く事にすら自信が無くなる。具合が良くなって思いのままにブログを書けるようになったら「具合が悪い」と書こうなどと悪い考えが頭の中を巡り始める。負けるよりも悪い事は確かに存在する。負けておいた方が良い朝も有るだろう。勝ち続けるばかりが人生じゃない。

2011年11月24日木曜日

さらばzsmj。

マラドーナを封じるために左足でボールを蹴る事を禁じる。
そんな不条理な調整が行われたのがdota allstarsである。




あの日のzsmjが行ったのは、dota allstarsの完全な造り替えだ。
5対5で対戦するゲームであったはずのdota allstarsを、拳を突き上げる1人のzsmjと地面に転がる9体の猛者の屍、というゲームに変えてしまったのだ。そしてそれを阻止するために不条理な調整が成され、zsmjの時代は一つの区切りを迎えた。言うまでもなくあの調整は間違いだったと思うし、あれからの調整も間違いだったように思う。あんな調整をしなくても、zsmjの時代は何れ終わっただろうし、zsmj時代なるものが成り立っていたのは彼のチームメイト全員が明らかにずば抜けたプレイヤーばかりだったからだ。彼の力は無論だけれど、チームとして強く、成熟されており、熱意もあった。総量が違っていたのだ。にも関わらずzsmjはその責任を負わされ、dota allstarsに否定された。それはあまりにも不条理な調整だった。

zsmjの功績はdota allstarsを造り替え、さらに造り替えさせた事だけに止まらない。彼は3-1-1のシンボルであり、zsmj-820時代を担った片翼でもあった。そんなzsmjが遂にLGD.Sgtyを去るという。誰1人として契約を更新しないとまで言われてしまう程に流動性の高い中国シーンで、zsmjは、季節が変わる毎にチームメイトを失い、弱小チームの可哀想なエース、という地位にまで落ちぶれてしまった。あの日彼と共にあったチームメイト達は、小さな市場の魚醤製造企業という、インターネットの世界では明らかに非力なスポンサーに支えられた小規模なチームではなく、もっとITでもっと巨大なた基盤を持つチームへと旅立ち、中国シーンの頂点へと駆け上り、幾つもの栄光を手にしている。遅すぎたという印象はあるけれど、あのzsmjがこのまま終わるはずがない。あの日zsmjを夢見た僕らはどうしても、zsmjの未来を信じたくなる。さらばdota allstarsのマラドーナ。また会う日まで。

dota allstarsに拒絶されて沈む僕を抱きしめてくれるものはもう何も無い。

僕がどのくらいdota2に拒絶されたかというとそれはもう涙無しには思い出せないくらいで、たとえばまず第一にdota2はフェイスブックで「いいね」と引き替えにキーを配っている。コメントと引き替えにもキーを配っている。そしてフェイスブックのアカウントを取得するには携帯電話による認証が必要である。引き篭もりが携帯電話なんて持っているはずがない。門前払いである。完全にシャットアウトである。取り付く島もないのである。完全に詰んでいる。

また、dota2はSteamでもbetaの応募をしている。そこで「Steamのアカウントは無料で取れるし携帯電話認証も不用だから行けるじゃん?」と思った貴方はnoobである。Steamのkey配布所に書き込むにはSteamで有料のゲームを購入したアカウントが必要である。Q&Aページまで存在して「どうしてコメントが出来ないのですか?」「あなとスパムを見分ける方法が無いからです。有料のゲームを1つ買いなさい。」などと言われてしまう。あんなにWarCraft3を買いまくったのに、ペイパル支払いかクレカ支払いでヴァヴォゥゲーミング様のSteam様で売られているゲームを買わない限り抽選会に参加する資格すら無いのである。地球上で僕ほどにdota allstarsを辞めようとした人間はいまいという位にdota allstarsをプレイしまくって生きてきたのにこの仕打ち。酷い。酷い仕打ちである。まったくもってやるせない。当たらないとかではなく、抽選に参加する資格すら無いのである。

おかげで、dota allstarsとdota2の比較記事は数ヶ月以上前に書き終えているのに、「プレイしていないのに投稿ボタンを押すのは何か後ろめたい」という理由により、未だに投稿出来ていない。しかもその間にもdota2はアップデートされ続けているわけで、僕が書いた比較記事は少しずつながら風化しつつあり、このまま行くと完全にお蔵入りというムードすら漂い始めてしまっている。無念である。

それでもkeyを配布している所は僅かにあって、そういう所には応募しているのだけれど、配布数が1日2人とか絶望的な所ばかりだからぜーーーーーんぜん当たらない。当たり前だけど当たらない。そんな中でメールボックスに大量のメールが来ていたから、「お、これは遂に当たったか!!!これでdota allstarsとdota2の比較記事をやっと投稿出来る!」と喜び勇んでメールボックスを開いたら、はてなブログの招待メールが大量に来ていた。FU ZA KE NN NYA!

はてなに脳味噌を汚染されたくそったれのはてなーユーゲントどもは、僕のブログを一目見て、この僕がはてなブログの招待メールを必要としてると考えたらしい。あのなあ、このさいだからなあ、はっきりなあ、いうとくけどなあ、はてなの近藤さんって人が「はてなブログにトラックバックはありません(ドヤァアアアアアア!!!」って言うとったけど、僕が今使っている天下のgoogle様のbloggerというツールには、端からトラックバックなんて無いんだよ。存在しないんだよ。どうだ、参ったか。僕は参っている。かなり参っている。ブログに拒絶され、ゲームにも拒絶され、dota allstarsにまで拒絶されてしまったのだ。僕の居場所はもう何処にもない。この世界では生きて行けない。

2011年11月23日水曜日

俺のエントリがこんなにはてブされるわけがない。



僕が投稿ボタンを押したのは真夜中の3時1分の事で、そこから5時間くらい起きていたんだけど、0バズどころか衝撃の「ページビュー0」とか表示されたりしてしまうくらいで失意の中で眠りについたよ。失意と言っても、そんなだいそれた失意ではなく、「まず60日ブログを書いてから考えようと計画を立てたんだから、まだ僕はブログなんて書いていない。」「そうそうそうそう、スタートをしていないどころか、スタートラインに辿り着こうともしていないんだから、こんなもんだよ。僕がスタートラインに立ってよーいどんで本気を出したら、そりゃあもう世界はひっくり返るよ。」「僕はまだはじまっちゃあいないんだから、ノーダーメージ!はいノーダメージ残念でしたー。完全ノーダメージ今の無効ノーカウントー!」「俺の声はもはやもう誰にも届かないのかと落ち込む必要一切ナッシング!だって俺はまだはじまっちゃあいないんだからね!」などと、ありとあらゆる手を使って保身に務め、自らの身を守る為の思考回路だけを全力で働かせ、無理筋な空元気と必死なテンションで眠りについた。

そして「Abaを連想させる手法が汚い。」という、たいへん重要なフレーズを書き忘れた焦りに叩き起こされて、「あーそうか、このフレーズを使い忘れたからアクセス数0だったんだ」と尤もらしい理由が見つかったことに安堵しながらPCの電源を押し入れたら無茶苦茶人が来てたよ。びっくりしたよ。ちょうど一日前に長年のdota allstarsで得た経験の全てを投入して書いたキャラランクエントリが壮絶に爆死して「2ブクマ8バズくらいは行くはずだろ!インターネットはわかっちゃあいないよ。どうしてわかってくれないんだよ!」と、叫び悲しみ嗚咽しながら精神的に追い詰められて憤懣やるさか涙した次の日の出来事だったから、尚更ショックは大きくて本当に驚いたよ。ネパール人でも無ければ日本が大好きでもないのに、一晩でカレー屋になっちゃったよ。まいったね。カレーには良い思い出があまりないからカレー屋だけは避けたかったけれど、もうこの際だからカレー屋でいい。とりあえずカレー屋になれたから、次は華麗に見事な転職を決めてブロガーになりたい。「僕がカレー屋を辞めて天才カリスマアルファブロガーに転職した理由」とかいうエントリーで、カレー屋でお世話になった人達に気持ちの悪いマーブル模様の感謝文を書き連ねながら、月末までは有給消化中なので、暇な方一緒にカレーでも食べましょう!とか当たり障りのない投稿をしたい。カレーで無くても天丼でも寿司でもなんでもいいから食べたい。そして、「次の職場でのご活躍をお祈りしています」とかそういう無難なリプライを貰いまくりたい。「ネパールの国王っていい人そうだよね」などというたわいもない会話を「あなた、それ、違うよ」とキレ気味で訂正したい。

それでもやはり不可解で首を傾げてしまうような状況だったからいったいどんな人が僕のエントリーをブックマークしてくれたんだろうと思ってidを眺めたけど知らないidばかりだったよ。そして僕は思ったんだ。こんな事になっちゃったのは、きっとどこかの通りすがりの美人系というよりはかわいい系の中学二年生くらいの女の子が僕に一目惚れをして、複数アカウントで多重ブックマークで強引にホッテントリ入りさせてくれたんだ。そうなんだ。絶対そうだ。女の子というのは恥じらいを持つものだから、シャイだから、ホッテントリ入りを確認した後で、自作自演の多重ブックマークは全部削除しちゃったんだ。流石だね。やっぱり時代はブログだよ。日本人にはブログだよ。こんな事ってあるんだね。みんなありがとう。本当に嬉しかったよ。僕は幸せ者だよ。ちょっとだけカレーが好きになったよ。

この夏に僕がした事。

行かねばならない。
誰かの為ではなく、自分自身のために。










歩こうと思った。
叶うならば走ろうと思った。

歩けばどこかに辿り着く。
走ればより早く着く。
それを信じていた。

歩けばどこかに行ける。それを信じると言うことは、歩かなければ何も起きないと思い込む事だった。ずっと止まったままで居られる。何も変化は起きない。そう信じていた。信じるだけだった。何も考えはしなかった。一度として考えた事も、想像した事も無かった。だから僕は歩かなかった。走るだなんてとんでもなかった。一歩も動かなかった。微動だにしなかった。そうすれば、全てが止まって見えた。何も変わらないはずだった。けれどもカーテンの奥の窓の外側で、世界は止まらず動いていた。誰かは走り、誰かは戦っていた。それに気がついて、僕は困った。焦りを覚えた。そして自分に問いかけた「どうすればいいんだ」と。

どうもこうも無かった。僕には何も無かった。これまで一日も欠かさず全力で逃げ続けてきたのだ。椅子に座り、目を伏せ、微動だにしない事は、即ち逃げる事だった。全てから目を背け、考える事から逃げていたのだ。




カーネギーは言った。

自分を変えなければ、他人を変える事は出来ない。
自分が変わらなければ、世界も変わらない。




僕はカーネギーを信じた。
変わらずに有ろうとした。
成し得る限り、変化を拒んだ。

自分が変わらない限り、他の誰かも変わらない。
自分が変わらない限り、世界は少しも動かない。
そう信じていた。それだけを信じていた。

だから逃げ続けた。
考える事から逃げた。
向き合う事から逃げた。
来るべき未来から逃げた。
変わらずに居ようとし続けた。
その積み重ねが今の自分だった。
逃げ続けた結果が今日の僕だった。




全てが間違っていた。僕が逃げている間にも、誰かは戦い、誰かは苦しんでいた。逃げているのは自分だけだった。それに気がつき、途方に暮れた。「どうすればいい」と問われて困り果てた。僕に出来る事は何も無かった。仮にあったとしても、そうする勇気が無かった。金もなく、服もなく、靴もなく、社会経験もなく、言葉を紡ぐ担保もなく、愚かさと間抜けさだけを抱えた臆病者。それが自分だった。出来る事は幾らでもあった。すべき事も幾つでもあった。ただ自信が無かった。傷つきたくなかったのだ。だから何もしなかった。キーボードの上に左手と右手を載せて、口を開けて座っていた。夜が明けて、日が暮れて、思った。行かねばならぬ。




そうして僕は夏を歩いた。走ろうと思ったが足音に怯え、アスファルトの上をそっと歩いた。空を見上げて月の小ささに驚いた。インターネットでは巨大に見えた月が、親指ほどの太さしか無かった。季節を無視した春の虫と、季節を無視した秋の虫が鳴いていた。夜は夏でありながら、他の季節を混ぜ込んでいた。純潔の夏の暴力に怯え、夜である事に救いを感じた。知らない光景ばかりだった。何故なんだろうと疑問に思った。答えを探しはしなかった。

突然、蝉の声が聞こえてきた。小さな一本の立木が、蝉の声で埋め尽くされていた。蝉はその木だけで鳴いていた。壊れた蛍光灯のように鳴く、真夜中の蝉がそこだけに居た。不思議な事もあるもんだと、立ち止まってしばらく見ていた。真っ暗なので何も見えず、一歩近づく勇気も無かった。蝉の姿は見えなかった。この蝉が何者なのか、帰ってググろうとそれだけ思った。何をするでもなく、何を思うでもなく、ただ蝉の音を聞いていた。高い高い電信柱のたわんだ電線がひっきりなしに、頭上で電気を運んでいた。蝉たちはずっと同じ木で、変わることなく鳴いていた。

一歩進むと一歩離れ、一歩進むと一歩遠のいた。それでも蝉は鳴いていた。柑橘系の立木か何かだろうと、曖昧な予想を頭に浮かべた。予想でもなんでもなく、ただ思っただけだった。何一つ検証されず、何一つ確かめられる事は無かった。夏を歩いて尚、僕は何も考えていなかった。考える事から逃げていた。とにかく誰かが怖かった。何者にも触れたくなかった。カーネギズムを信じていた。世界に干渉したくなかった。だから歩きたくなんてなかった。それでも歩いた。誰かの為ではなく、自分自身の為に行かねばならぬと強く思った。保身の為だった。身を守るためだった。

歩くことがどのように自分の身を守り、どのように救いを齎すのか、まったく想像は出来なかったけれど、僕は歩き続けた。歩かないよりマシだと思った。白線の内側を歩き続けていると、右の靴が何かを蹴った。ミリリリリリリィと羽音が鳴った。肘から上に鳥肌が立った。少し転がりそして止まった。蝉だった。蝉を蹴飛ばした。動揺し、途端に機嫌が悪くなった。なぜ蝉が路上に居るのだ。憤慨した。許せなかった。蝉は蝉の木に止まっているべきだったのだ。そうすれば蹴飛ばされる事など無かったのだ。そしてさらなる言い訳を探した。

「蝉は死ぬものだ。」

当たり前の事実に気がつき、気が楽になった。そうだ。大切な事を忘れれていたのだ。蝉は死ぬのだ。僕が蹴らずとも蝉は死ぬ。それどころか、路上に落ちているような蝉は、死にかけの蝉なのだ。死ぬ寸前だったのだ。生きて、生きて、十分生きて、ちょうど死ぬ日に落ちていたのだ。死ぬ日が来たから路上に居たのだ。僕が蹴った事は蝉にとって痛みではないし、苦しみでもない。死ぬはずだった蝉は死ぬ。死ぬはずだった蝉が死んだ。それ以上でもそれ以下でもない。僕は何もしていない。悪い事などしていない。蝉を蹴飛ばしてすらいない。蝉をはじめに見た時から、蝉が死ぬ事くらいはわかっていた。みんなわかっていた。僕だけじゃない。みんな知っていた。蝉は死ぬものだと知っていた。僕だけが知っていて、僕だけが蹴飛ばしたわけじゃない。皆して蹴飛ばしたんだ。僕が歩いたのは夏の夜のただの一日の数時間だ。ほんの僅かな一瞬だ。その一瞬に落ちていた蝉が悪いのだ。僕は悪くない。死にかけの蝉が悪いのだ。僕はただ自分自身の為に、他の誰かの為ではなく、自らの身を守るため、ただ保身の為に夜を歩いただけなのだ。たまたまその時その瞬間に、落ちてた蝉が悪いのだ。僕は一歩も歩いちゃいない。何もしていない。どんな蝉をも蹴飛ばしてはいない。蝉の声すら聞いていない。ずっと何もしなかった。座っていただけだ。あの夜だって何もしなかった。









この夏に僕がしたのは、自分の為に歩き、死にかけの蝉を蹴飛ばしただけ。
そして僕にはもうその夏が、どの夏であったのかすら、思い出せずに居る。

2011年11月22日火曜日

普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。

僕は悲しい。とても悲しい。
インターネットで生じている事実が事実として伝えられない。

岡田有花なる人物の手により、全ての記憶が改変されてゆく。努力とか継続とかいう些細で美しい自己啓発と、インターネットという未来が生んだ魔法のブラックボックスにより、全ての事実は抹殺されてゆく。歴史は書き換えられ、僕達1人1人が真実の心を持って懸命に生きてきたインターネットが汚されてゆく。いや、浄化されて行く。美しいものへと。素晴らしいものへと。小さく儚い、それでいて強い美談へと改変されてゆく。

僕はそういった行為を許すことが出来ない。そういった言葉を許すことが出来ない。インターネットは血で有り、肉であり、尚かつ魂である。インターネットは人間の全てである。痛みを悲しみを欲望を絶望を感動を興奮を全ての感情と汗と涙を飲み込んで降り積もった真っ白で真っ黒な九龍城である。混沌である。魔窟である。昨日もそうだったし、今日もそうだった。きっと明日もそうなのである。岡田なる人物はいつもこうなんだ。僕らの本当のインターネットをくだらない美談で汚そうとする。いや、浄化しようとする。たまるもんか。浄化されてたまるもんか。全てを飲み込むインターネットは僕等1人1人の欲望で成り立っているんだ。なるもんか。浄化されてなるもんか。他愛もない話に書き換えられてなるものか。








普通の女子大生が日本一になれたのは何故か。

顔だ。
顔写真だ。
顔が美しいからだ。
顔写真が美しいからだ。



アイコンが美しい顔をした女の子の写真だからだ。だから人気が出たのだ。
美しい顔をした女の子の写真のアイコンを持つ人間が投稿したものだからだ。

嘘だと思うなら、instagramでもgoogle+でもいい。どちらでもいい。
彼女の写真を評価している人間がどのような人達か確かめてみればいい。

モテない男。
冴えない男。

そういった類の人達ばかりだ。殺到しているのだ。フォトショで巧妙に作られた顔写真のアイコン目掛けて男達が殺到しているのだ。日本だけではない。世界である。世界中である。世界中から美しい女の子の顔写真目掛けて男達の欲望が殺到しているのだ。中国語でコメントしている人、スペイン語でコメントしている人、フィリピン語でコメントしている人、どれも同じである。冴えない男である。皆そうである。アニメと歴史から日本に変な幻想を抱いたモテない男である。現実世界において美しい女の子とは無縁の生活を送る、性に飢えた世界中のインターネッターである。インターネット最大の欲望のニーズに合致したから、彼女は日本一になれたのである。





>ある日、夕日の写真を投稿してみたところ、これまでにないほど多くの
>いいねやコメントが付いた。それから、夕日や朝日ばかり撮るようになった

美談である。
美しい話である。
岡田特有の美談である。
即ちこの美談こそが癌である。




男達が求めたのは少女であり、美女である。美しい若い女である。
本当は、彼らは、直接面と向かって「美しいね」と告げたいのだ。

けれども、告げる相手が居ないのだ。
だからこそ、インターネットに逃げ込んだのだ。




現実世界には美しい女は居ない。フォトショで加工された美女も存在しない。美しいねと告げるべき相手が居ない。少しだけ美しい嘘をついて「美しいね」と言う相手すら居ない。居たとしてもインターネッターの手の外である。冴えない男には手が届かない。はなから対象外なのである。無論の事、告げる勇気もない。告げさえすればどうにかなっていたとしても、その度胸がない。度胸を担保する資産もない。それはインターネットにおいても同じだ。現実世界と同じように、冴えない男はインターネットでも冴えず、勇気の無い男はインターネットでも勇気を持たない。

彼ら悲しい男達は、島田紳助でも、ロンブー敦でも、伊藤直也でもない。セックスしたいと思う美女に対して仕事を斡旋し懇ろになる権力はない。ツイッターでフォロワーに「いちゃいちゃ前提で夕食ご一緒しませんか」とダイレクトでこっそりリプライする度胸もない。セックスの為に西へ東へ引っ越しを繰り返せる性欲もキャリアも無い。だからこそ彼等はインターネットの広い海の人畜無害な理想の美女を追い求め追い続けそして遂に辿り着いたのがgoogle+の「Aya Sakaguchi」というアカウントなのである。だいたいからして名前がずるい。早稲田でAyaという時点でずるい。明らかに可愛い。Abaを連想させる手法が汚い。これがもし「Ginko Skaguti」とかなら絶対に3万人も集まらない。20人くらいしか集まらない。「Ginko Kobayashi」ならもっと辛いだろう。5人くらいしか集まるまい。




インターネットとは希望の地である。
生きる望みを最後に託して辿り着いた最後の聖域である。

彼らは懸命に希望を抱こうとするからこそ、インターネットに逃げこみ、そこで見つけた希望を日々の糧にして必死に生きようとしているのである。私達は生きねばならない。どうにかして生きねばならない。だからこそ必死なのである。生きる事に懸命なのである。それには希望が必要なのだ。Aya Sakagutiのような希望の人がどうしても必要なのである。3万人もの男達の希望であり、3万人の男達から必要とされているのである。

思い出してみてほしい。現実世界に希望を求めた男達がどうなったかを。平野綾に希望を見いだした男達がどうなったかを。豊崎愛生に希望を見いだした男達の末路を。高橋みなみに、寿美菜子に、林原めぐみに、加護亜依に、戸松遥に、秋元才加に、希望を託した彼らの末路を。絶望を。その悲しみの大きさを。全てを打ち砕かれた人生を。

だからこそ無害で安全な希望が必要とされているのだ。そして、その無害で安全な希望こそがAya Sakagutiというインターネットなのである。無害で安全な人間を探し求めインターネットを彷徨い続けた彼らが遂に見つけて辿り着いた希望の人なのである。

現実世界の希望は破壊される。完膚無きまでに打ち砕かれる。どのような希望であっても必ずや誰かに奪われるし、奪われなければ奪われないでそれはそれで悲しい物語である。どちらにしても悲しい現実だけが残ってしまうのである。

けれどもインターネットの希望はそうではない。インターネットの希望は破壊される事なく永遠に残り続ける。何故ならば彼女らは消えるのだ。音もなく静かに消えるのだ。インターネッターは消える。インターネットの美女は消える。いつの間にか居なくなる。美しい人から消えて行くのだ。美しい女性も、美しい男性も、いつの間にか居なくなる。思い出してみて欲しい。3年以上前からブログを書いている女性を、思い出せるだけ思い出してみてほしい。全員ぶさいくである。1人の美女もいない。美しさの欠片も無い。顔も醜い。心も醜い。そういう人達ばかりである。不平不満とくだらない馴れ合いをはき出して、だらだらいきている醜い人ばかりである。1人として美女はいない。もちろんの事、美男もいない。美しさは消えるのである。インターネットから消えるのである。時間と共に消えるのである。美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。そういう風に出来ているのだ。

だからこそ彼らはインターネットに希望を見いだす。Aya Sakagutiのようなアカウントに殺到する。美しい人を追いかければ、美しい人は消えて、美しい人の思い出だけが残る。金と顔との生存競争に敗北し、現実世界から逃げ延びてきた男達が、これ以上ダメージを受けないために、自らの身を守るために、行く行くは音もなく消えて行くであろうリアリティを持った仮装の美女へと殺到しているのである。




>ある日、夕日の写真を投稿してみたところ、これまでにないほど多くの
>いいねやコメントが付いた。それから、夕日や朝日ばかり撮るようになった


「美しいね」と言いたいのだ。
「素敵だね」と告げたいのだ。
Aya Sakagutiに告げたいのである。

けれども、度胸が無い。
勇気が無い。根性が無い。

無いからこそgoogle+なのである。そんな勇気があるならば、そんな度胸があるならば、そしてそういう事を告げられるだけの自信とバックボーンがあるならば、遠い昔にもう既に、どこかでよろしくやってるだろう。それが言えないからこそAya Sakagutiなのだ。それが出来ないからこそのAya Sakagutiなのである。そしてそこに写真である。夕日の写真である。




太陽。
絶対である。
全ての恵みの元である。

誰もがその美しさを知っているし、誰もがそれを素敵だと理解している。そしてそれは訪れたのだ。遂に訪れたのだ。太陽が訪れたのである。日は昇ったのである。美しさが訪れたのである。遂に来たのだ。時は来たのだ。誰の目にも明かであり、公然たる事実である美しさがそこにあるのだ。これ正に好機なのだ。

「美しいね」と言うことが許される。
「素敵だね」と告げる事が許される。

手に入れたのである。
男達はその免罪符を手に入れたのである。

もはや躊躇する必要は全く無い。
何故ならば、太陽は美しいからである。

即ち、太陽は素敵だからである。
太陽は、問答無用の「いいね」なのだ。








美しいものを美しいと言う。
それが出来ないのが人の悲しみである。

素敵なものを素敵と言う。
それを口に出せないのが人の苦しみである。

好きな人を好きと言えない。
それこそが全ての絶望の元なのだ。


その苦しみを、その悲しみを、太陽が破壊したのである。
苦しみの永劫の鉄格子の牢獄から、人々を救い出したのである。






継続とか、努力とか、そんなものは関係ないのだ。
これは美談ではない。太陽による救出劇なのである。

彼らは美しいと言いたかったのだ。そして言えなかったのだ。好きだと言いたかったのだ。素敵だと言いたかったのだ。けれども言えなかったのだ。勇気が無かったのだ。こっそりと無記入で拍手ボタンをクリックするくらいの度胸しか無かったのだ。そして拍手ボタンなんて無かったのだ。誰も助けてくれなかったのだ。一度としてそのチャンスは訪れなかったのだ。そう、太陽が終ぞ再び天へと登るまでは、その時は訪れなかったのだ。

そして日は昇ったのである。登り続けたのである。朝になる度、甲斐甲斐しく、太陽は上を目指したのである。それは正しく具現化した希望である。同じ美しさを見あげ、同じ素敵さを共有する。それを美しいと言い、それを素敵だという。太陽の写真は正しく、Aya Sakagutiに大きく空いた「美しいね」のセキュリティーホールだったのだ。素敵さの脆弱性だったのである。

彼ら悲しいインターネッターらは、インターネットをしているのではない。希望のゲームをプレイしているのだ。誰1人として佐々木希と手を繋いで歩けないのと同じように、誰一人として寧々さんと手を繋いでは歩けない。無論の事、Aya Sakagutiとも手を繋ぐことは出来ない。けれども、である。美しいと言うことは出来る。いいねをクリックする事は出来る。




寧々さんは誰にも奪われない。
当然である。寧々さんは存在しない。現実ではない。非現実である。しかしながら、何人たりとも寧々さんの力にはなれない。寧々さんを喜ばす事は出来ないし、寧々さんを微笑ます事は出来ない。寧々さんを幸せにする方法は地球上どこを探し歩いても存在しないのだ。

佐々木希は奪われる。
当然である。現実だからだ。現実は奪われる。必ず奪われる。それでいて、何人たりとも佐々木希の力にはなれない。佐々木希を喜ばす事は出来ない。佐々木希を微笑ませる事が出来ない。佐々木希が微笑んだとすれば、それは佐々木希自らが微笑んだに過ぎない。世間一般の男達は決して佐々木希に干渉出来ないのである。

だがAya Sakagutiは違う。
インターネットは違うのである。
彼らがプレイするラブプラスは、現実世界に繋がっているのだ。全ての嘘の上位互換なのだ。Chikirinの日記をブックマークする全てのはてなブックマーカーが「俺のブックマークでホッテントリ入りした事をChikirinさんは決して忘れないだろうし、もしかしたらそれをきっかけに『あのね、ちきりんね、ずっとあなたの事が好きだったの』なんて告げられる日が何時か来るかも」と妄想して新規エントリを待ち続けては新規エントリが投稿するや否や必死に懸命にはてブし続けるのと同じように、人々は太陽を待ち望んだのだ。Chikirinは太陽であり、太陽はChikirinだったのだ。美しさであり、素敵さだったのだ。朝が来る度待ち侘びたのである。






だいたいからして、汚いのだ。卑怯なのだ。
岡田有花とそれに併合する人達は、必ず汚いのだ。

特別な能力や特別な欲望を持つ人達を「普通」というフィールドに持ち込んでストーリーを作る。決まってそうだ。毎回そうだ。僅かなポイントを付いて「普通」をでっちあげ、「普通」をアピールする。特別な人間を「普通」だと強引に定義して、普通の人間が「努力、幸運、インターネット」という三種の神器の魔法の小箱で何かを手に入れた事にして、物語を書いてしまうのだ。捏造してしまうのだ。




普通の大学か。早稲田が普通か。
違う。普通ではない。普通の大学ではない。

普通の女子大生か。その顔が普通か。
違う。普通ではない。普通の女子大生ではない。

特別な女子大生なのである。
そして特別な大学生なのである。
僅か数パーセントの上澄みの、そのまた数パーセントの人間なのだ。




そのような人物がどうして普通を騙るのか。
何故、普通であると言い張るのか。




答えは単純である。
それは勝利の為である。

普通を夢見て普通を自称する人間は、誰も皆同じである。特別な才能を持った人間が、特別な境遇に育った人間が、特別な欲望を抱いた人間が、「健気な努力で手にした素敵な勝利」というストーリーを歩む為に、「普通」という勝てるフィールドに降りてくるのだ。彼らは力が有るが故に、普通という戦場で戦えば必勝を約束されているのである。楽勝なのである。それを得る為に、即ち勝利を得る為に、彼ら上澄みの幸運で力強い人達は「自分は普通である」と頑なに言い張り、「普通の人間」である事をことさらアピールする。自らが普通の人間であると世間一般に認められさえすれば勝ちなのだ。普通であると認められる事は、「勝利者である事を認められる」とイコールなのだ。彼らにとって普通というフィールドは容易く生ぬるい世界であり、万が一にもそのフィールドへの参加が許されれば、それは即ち勝利者であることを、そして成功者であることを意味するのである。そういえば、先日インギーと内田裕也と僕の3人で白木屋に飲みに行った時に裕也さんが核心を突いた話をしていた。




「あのさぁ、あのね。
 最近ね、あれよ。

 ロックでもねーやつが。
 ロックを騙ってね。
 ロックだって言うぅ。

 スターでもなんっでもねーやつが。
 スターだぁ、スターだぁ。
 言ってるんだよ。

 ロックスターだって。
 ふざけんなだよ。」



裕也さんはいつも良い事を言う。ほんと、ふざけんなである。普通でない女性が普通を騙る事でどれだけの普通の女性が抑圧されたか。世間一般の愚かな男達があれを普通だと思う事で、どれだけの女性が癒えることのないダメージを被るか。言葉の暴力である。破壊行為である。普通罪である。これはパワーハラスメントなのだ。抑圧なのだ。力による支配なのだ。普通ではない人間が普通を騙る事で、本来普通であったはずの人達は劣等感と敗北を植え付けられて洞窟の中へと逃げ込んでゆく。そういう世界を僕達は真実の言葉によって、即ちブログというものの力によって打ち砕かねばならないのだ。岡田有花を、坂口綾優を、それ以外の「下のフィールドへと降りてくる者共」を完膚無きまでに打ち破り、破壊し、破滅に追い込まねばならないのである。自らを矮小化して見せる力有る者による普通汚染という純然たる暴力を、僕等は全てを賭して阻止せねばならないのである。ロックでもスターでも無いのにロックスターだとか言ってるような汚物共を、ブルーダイヤで消臭せねばならないのである。消し去らねばならないのである。本当にふざけんなである。決して許してはならないのである。








もう一つ重要な事がある。
心である。三万人の冴えない男の心ではない。書いた側の心である。

30000人の心が思いが欲望が、美談とインターネットというブラックボックスによって隠蔽されたのと同じように、Aya Sakagutiというストーリーを描いている側の感情もまた、ブラックボックスによって覆い隠され、偽られてしまっている事である。











>写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。
>それでもGoogle+に写真をアップし続けて要るのは、「就活のため」だ。

何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスにアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。そこが一番大切な所ではないか。そこが一番肝心な所ではないか。それだけではない「アラビア語でほめられるなんて、一生ないと思っていた」というのも全く同じである。インターネットという自由世界で得た結実を、アラビア人などという現実世界の大陸の外国語の完全なブラックボックスに委託して書き表してしまうのか。何よりもこれが許せない。

もちろんそれらは岡田の作文による所も大きいのだろう。けれども、それだけではない。特定の人物に限った事ではない。人は皆、インターネットによって見た夢を否定しようとする。インターネットの野心を、インターネットの欲望を否定しようとする。インターネットは常に現実世界の為の存在であり、独立した個別の聖なる土地ではなく、現実世界の下部構造として位置づけようとする。いや、位置づけようとする事が問題なのではない。事実としてインターネットは現実世界の下部構造なのだから、それは仕方がない。





問題は、心の偽りである。記憶の改竄である。

人々は一瞬であってもインターネットを独立した魂の領域であると思った自らを否定しようとする。誰もがそれを隠蔽し、誰もがそれを忘れようとする。インターネットで得た感動は現実世界によって齎されたものだと、記憶を改竄しようとする。インターネットの素晴らしさは若気の至りであり、過ちであるとして、リアル世界の巨大な現実をもってそれを上書きしようとする。消し去ろうとする。塗り替えようとする。僕にはそれが許せない。あまりにも悲しくて切なくて心が苦しいのだ。インターネットは常に否定され、インターネットは常に支配される。

それが正しいかどうかは問題ではない。間違っていようとかまわない。1人1人の心の中では、インターネットは絶対なる存在として輝き続けているはずなのだ。あの日見たインターネットは確かに輝いていたはずなのだ。昨日も今日も永遠に、人々の弱い心の中では強い強いインターネットが煌々と輝き続けているのだ。インターネットは夢であり、インターネットは魂なのだ。インターネットは心を写す鏡なのだ。そして人間の心というものは、現実世界よりも巨大であり、現実世界よりも広大であり、1人1人の心と心が集まれば、それは無限の大きさと無限の力を持つものであるはずなのだ。たとえ無限の力を持たないにしても、永遠の広大さを持つはずなのだ。たとえ永遠の広大さがなくても、永遠の広大さに等しいはずなのだ。なんの役にも立たずとも、なんの力にならずとも、素晴らしいものであるはずなのだ。

その素晴らしい世界を、どうしてアラビア人などという現実世界のくだらなさを持って語ろうとするのだ。無限の永遠世界の衝動を、就職活動などという確かで小さな現実世界の理由付けで説明しようとしてしまうのだ。そうじゃなかったはずだ。そんなんじゃなかったはずだ。僕らが夢見て懸命に生きたインターネットはそんなものじゃなかったはずだ。







あの興奮を覚えているだろう。
あの動機を覚えているだろう。
あの欲望をまるで昨日の事のように思い出せるだろう。

ザッカーバーグの彼女の写真を見て、インターネットがあれば俺だってワンチャンあるかも、と思った事くらいあるだろう。そうなんだよ。そういう事なんだよ。インターネットってのはそういう場所なんだよ。こんなちっぽけな僕だってザッカーバーグに求婚されるんじゃないか、って夢見る事が出来るのがインターネットなんだよ。そりゃあ、あなた方みたいな立派な大人はそんな事は思わないだろう。「おまえみたいなのがザッカーバーグとよろしくやれるわけがない」って頭ごなしに否定するだろう。インターネットはそんなもんじゃないって言うだろう。でも違うんだよ。僕らは本気で思ったんだよ。そして思っているんだよ。ザッカーバーグとワンチャンあるかもって本当に思ったんだよ。信じたんだよ。駆けたんだよ。駆け抜けたんだよ。いや、違う。今だって、今日だって、必死に走っているんだよ。僕らはインターネットの広大な世界でザッカーバーグを手にするために今日も懸命に頑張っているんだよ。完全に無駄な努力を続けているんだよ。人生の貴重な時間を浪費し続けているんだよ。そんな事くらいわかってるよ。今も頑なに信じているからだ。僕等は決してそれをやめない。インターネットという夢を、インターネットという未来を頑なに諦めない。ザッカーバーグと結婚して、おいしい天丼を食べて、良く効く胃薬を飲んで、あったかい布団でぐっすり眠りたいんだ。そして頑張り続ければ、いつか必ずその日が訪れると信じているんだ。インターネットに尽し続ければ、インターネットはきっとその献身に応えてくれる。インターネットは裏切りはしない。裏切るのはいつも人間であり、インターネットは人間ではない。だから絶対に大丈夫なはずなんだ。いつか訪れるはずなんだ。もうこの際だからザッカーバーグじゃなくてもいい。天丼を食べさせてくれるなら誰でもいい。ザッカーバーグみたいな天丼じゃなくてもいい。安い天丼でいい。天屋の天丼でいい。胃薬も諦める。もう天丼さえ食べさせてくれるなら誰でもいい。小林でも恭子でもいいよ。僕は天丼が食べたいんだ。そして天丼を食べる為にするべき事はインターネットであると確信しているのだ。だからブログを書いているんだ。それが完全なる間違いであると理解してはいるけれど、それを確かに信じているんだ。だってそうだろう。インターネットは無限なんだよ。インターネットは最強なんだよ。インターネットは完全なんだよ。インターネットは絶対なんだよ。僕らに残された最後の唯一の希望の光なんだよ。インターネットが無くなれば何も残らないんだよ。現実しか残らないんだ。そうするわけには行かないんだ。インターネットが失われれば僕等は全てを失う。だからこそ僕らは頑張れるんだよ。毎日毎日太陽を思い出せるんだ。

だって覚えているだろう。忘れるわけが無いだろう。始めてフォローされた日のよくわからない嬉しさを、始めてのコメントが付いた日の静かな興奮を、始めていいねって言われた日の現実世界では味わったことのない安堵感を、気になっていた人に言及されて笑顔が止まらなくなった幸せを、ずっと好きだった人にはてブされ、中から木綿のはみ出た掛け布団を抱きしめながら右に左に埃に塗れた床を転がった日の興奮を、僕らは受け取ったはずなんだ。確かに手にしたんだ。現実世界では手にする事の出来なかった興奮を、感動を、勘違いを、思い上がりを、インターネットで手にしたんだよ。1人1人フォロワーが増えていく時の成り上がり感を、一歩一歩インターネットを駆け上っていく疾走感を、このまま走り続ければザッカーバーグに辿り着けるだろうという大いなる勘違いを、決して、決して忘れてはならないんだ。忘れようとしないんだ。忘れたくないんだ。永遠に覚えていたいんだ。

僕等は信じたはずなんだ。インターネットで幸せになれると。インターネットで人生が手に入ると。インターネットで全てが変わるんだと。でもそんな現実は無かった。インターネットでは何も変わらない。愚か者はより愚かに、必死な人はより必死に、悲しみは悲しみを生み、苦しみは苦しみを生む、悪いものを悪く、良いものを良くする力しかインターネットには無かったんだ。そんな事くらい最初からわかっていたし、今だってわかっている。インターネットを突き進めばザッカーバーグに辿り着くなんてのは間違いだった。でも間違いだってわかっていながら、一瞬は信じたはずなんだ。勘違いしたはずなんだ。見誤ったはずなんだ。誰だってそうだ。岡田だってそうだよ。ゆかたんゆかたんとか持ち上げられて末は博士かザッカーバーグって一瞬は思ったはずなんだ。それをどうして現実にアウトソーシングして消し去ってしまうんだよ。毎回毎回そんななんだよ。

インターネットに裏切られたからって、どうしてインターネットを虐げるんだ。インターネットは一度たりとも裏切ってはいない。誰も裏切っちゃいない。にもかかわらず、インターネットを勘違いしたその恥ずかしさを隠蔽する為にインターネットを否定してるだけじゃないか。そういう人達ばかりじゃないか。納得がいかない。どうしてなんだ。どうしてインターネットをそうまでして虐げようとするんだ。自らの恥部を隠すためにインターネットを改竄するんだ。インターネットを殴って、インターネットを蹴り飛ばして、現実世界の大きさと重みと温もりを語る事で一体誰が得をするんだ。僕にはわからない。本当にわからない。だって、みんな知っているんだ。インターネットなんてくだらない。インターネットを頑張ってもインターネットは助けてくれやしないって事くらい、誰だって解っているんだ。頭では解っているんだ。それでも、だからと言って、インターネットで見た一瞬の夢を、星の瞬きを、他の物事で塗りつぶしていいって事にはなりやしないだろう。

正直に言うべきなんだよ。興奮したって。震えたって。インターネットで誰かに認められて、心臓がどくんどくん言ったって。人間の脳味噌なんて1万年前から変わらない。だから10人から認められればびっくりするんだよ。嬉しいんだよ。感動するんだよ。興奮するんだよ。現実ではそんな事はない。滅多とない。カルタゴを滅ぼすべきである、って言っても誰も耳を貸さない。精々野良犬に吠えられるくらいだ。それがインターネットでは違う。5人10人簡単に集まる。だからこそ人はインターネットを見誤る。勘違いする。思い上がる。間違った興奮を覚え、身に余る欲望を抱き、的外れな期待を託し、肥大化した夢をインターネットに託してはその後に、黒歴史として隠蔽しようとする。

「そんなんじゃなかった」
と語ろうとするんだ。皆そうなんだ。あれは暇だっただけ、あれは身内に向けて書いていただけ、あれは就活の為だっただけ、あれはアラビア語が嬉しかっただけ・・・。そうじゃないだろ。そんなんじゃないだろ。インターネットはいつだってそうだった。人の感覚を撹乱し、現実を誤認させ、おかしな興奮に巻き込んだんだ。それがインターネットだったし、それがインターネットなんだ。インターネットで得た興奮と感動を、インターネットで抱いた野心を、インターネットで見た夢を、インターネットで愛した人を、インターネットで残した軌跡を、僕らは決して捨て去るべきではないし、微塵も恥じるべきではない。僕らは全力でインターネットしたし、全てをなげうってインターネットしたじゃないか。

だからこそ、今、はっきりと言うんだ。僕らがインターネットをするのはザッカーバーグの為ではなく、インターネットの為でもなく、ましてや自分自身の為でもない。愛の為だ。真実の為だ。確かに存在したはずの、真実の愛の為なんだ。

2011年11月21日月曜日

dota allstarsのTier List。

dota allstars 6.72fのtier list。


・想定した場。
-ラダーが機能してガチ勢が集まってた頃のgg client Singaporeラダー。
-ホスト側には1~2人ホストの友人が居る。
-randomのプレイヤーが3~4人は居る。
-勝率が低いプレイヤーは蹴られる。
-想定ワード数は各チーム8。


◆Tier 1
1, Shadow Fiend
  cd無し、マナコスト75、AOEのnuke。
  スキルは全て優秀。しかもagi range。反則。
2, Shadow Demon
  実質最強キャラ。視界+nukeのcdが3秒。
  1止め可能壊れスキルのd。遅効ではないダメージup、バランスの良いult。
3, Spirit Breaker
  強化が続いてたのに、チャージが酷い。
  視界を得て加速して攻撃力上がって地形を超えてスタン。
4, Bat Rider
  壊れslowに地形超え、位置操作ult。
5, Phoenix
  スキルがそれぞれ強いばかりか、シナジーまであり射程500。
  100キャラ超え時代の新ヒーローを象徴する不自然な強さ。
6, Troll
  何故かultがmap兵器。意味不明。いつでもどこでもsiege。
  slowにblind。ダメージスキル2つ。射程500、移動速度330。
7, Sand King
  疑似blink付きのスタン。invi。バランスの良いult。
  dagger必須のヒーローでは明らかに抜けている。
8, Storm Spirit
  出来ればsolo midをしたいので、その点で割り引いた。
  solo mid時に、不利が付くキャラが少なからず居る。
  コンセプトが若干狭く、性能的にも平凡。
9, Wind Runner
  射程600。ult以外は非の打ち所が無い。
  15位くらいが妥当な気がするけど、dp/bfより上にしたかったので。
10, Bone Fletcher
  ult強化後は完全な理不尽系強キャラ。調整入ったがまだ強い。
  lv6で最強tankであるはずのcwよりHPが多いinvi dpsって何だろう。

◆Tier 2
11, Death Prophet
  サイレンス。ゴーストセプターの追加で死角が無くなった。
12, rubick
  キャラ対を完璧にやられても、盗めるものは盗めてしまう。
  1人情報非対称ゲーム。ルール違反。ult以外も素晴らしい。
  ノーモーション遠距離拘束スタン位置操作ダメージAOEスタンとか、
  1つのスキルに詰め込みすぎ。これぞ新キャラという理不尽スキル。
  しかもcdもそれなりに優秀とか、幾ら何でもやりすぎ。相手にしたくない。
  最低限どのスキルを持っているのか頭上かどこかに常時表記してほしい。
  こういう糞キャラはLoLかHoNに行って二度と帰ってこないで頂きたい。
13, Ancient Apparition
  DOTA2よりも明らかに強い。ultが見えない。見えても範囲不明。cd優秀。
  攻撃モーションも鬼。ただ、マナとcdの理不尽感は修正され消えた。
14, enigma
  真の強さはdeny戦で圧勝出来るレーン力。泣くしか無い。
  状況次第でncも行けるしsiegeも強くultは一撃必殺。
15, Silencer
  サイレンス。ゴーストセプター。orb。強い強い殴りint。
16, wisp
  cd自在のスタンが複合スキルなのは酷い。最も凶悪な純サポ。
  ステの悪さはいい感じだけれど、nukeのdmgで全てが台無し。
17, Husker
  強化が続いていたにも関わらず、ultが疑似blinkに。
  もう何がなんだかわからなくなった強キャラ。HoNに追放したい。
18, lycan
  コンセプトが強い。火事場泥棒にして疑似tank。dps。他。万能。
  単純な強さに加えてmap兵器の攻撃力upと、
  相手に悟られる事が無い最強の偵察力。
  そして何よりも凄まじいsiege速度siege能力。
19, Slithereen Guard
  ultのdmg上昇率、視界、射程。bash。加速。
  これが強いスタナー。これが強いstrヒーロー。
  スタンの効果時間と性能とマナコストとcdを見て、
  他のスタナーと見比べて首を傾げる為のキャラ。
20, Spectre
  まだ強い。コンセプトが強い。アンチdagger。
  ボタン1つでチームワーク。数的優位。地形抜け。
  神パッシブでtankの完全な上位互換。

◆Tier 3
21, nec
  この辺りから理不尽さは消えて行く。普通の強キャラ。
  序盤(~15min)の乱戦に強いだけではなく、潰しも効く。
  tankというコンセプトはこういったヒーローも比較対象になってしまう。
22, Doom Bringer
  サイレンス。フロストアーマー。cd8の凄いnuke。tank。金。
  「弱点はアーマーです」という調整は完全に限界。
  ultのおかげで、苦しい展開でも潰しが効く。
23, Broodmother
  soul ringの導入で大きく順位を上げた。驚異の序盤力。
  子蜘蛛が強いだけではなく、中盤後半の潰しも効く本体性能。
24, mirana
  nuke2つ、疑似blink+buff、射程600でagi。
  smokeのおかげでultからの一発狙いがさらに強くなった。
25, Chaos Knight
  ultとブリンクストライクの組み合わせが酷い。
  平均3秒のスタン、位置操作、疑似ブリンク、siege力。
  上位のStrは、下位のtankが馬鹿らしくなる強さ。
  序盤力は平凡なmeleeなので、もう少し下げたいのだけれど。
26, Alchemist
  4秒スタン。カネカネキンコ。aoeアーマー低下。
  上位のStrは、下位のtankが阿呆らしくなる強さ。
  4秒。何故に4秒。
27, naix
  ultの大幅な強化で順位が10ほど上がった。
  マナが苦しいので多少辛い組み合わせもあるが、
  基礎ステも最強になり、遂に強キャラ枠へと復帰。
28, tuskarr
  疑似blinkが集団。omniの存在意義が怪しくなる強slow。
  お手軽地形ブロックでesのアイデンティティ崩壊。
  調整により登場時のimbaさは消えて、良キャラだと思う。
  調整後の遭遇数、プレイ数が足りていないので、もう少し下かも。
29, Tormented Soul
  射程600。完璧なsiege能力。コンセプトは少し狭いけれど、
  このコンセプトは強いし、キャラとしても強い。十分に行ける。
30, Drow Ranger
  サイレンス。射程。スキルのシナジーが完璧。
  BKBとlsのあるゲームでこのコンセプトは強い。

◆Tier 4
31, Lone Druid
  序盤力とsiege力のおかげで、まだ十分に強いキャラ。
  オブジェクト破壊が可能なキャラは下げているのだけれど、
  LDのオブジェクトは5400HP。壊せるレベルではない。
32, Netherdrake
  スキルが全て素晴らしく、射程が575。
  orbのおかげで体感では600かそれ以上。
  序盤の有利が取りやすく、midもsideも、soloも2も3も苦にしない万能性。
33, Prophet
  クリープ隔離はしない前提でこの位置。
  ultによるライン押し上げ、瞬間移動と召喚によるsiege。
  今のdota allstarsでこのコンセプトは強い。ncも回れる。
  それに加えて、素晴らしい攻撃モーションと射程。
34, Morphling
  「tankって何?」と言いたくなるHP。cd11秒のblink上位互換。agi200の強さ。
  ultによるポジションコントロールと撹乱能力。十分なダメが出るnuke。
  悪い面も数多く有り、初期ステが酷い。当然基礎ダメが悪い。
  射程と移動速度が共に最低クラス。ultの弱体化と高コスト化など。
  強くもあり、弱くもあり、imbaではない普通の強キャラ。そういう順位が34。
35, Axe
  600dmgのcdが5秒。nukerってなんだろう。tankって何だろう。
  少し上すぎる気はするけれど、普通の強キャラ。
36, Nerubian Weaver
  縮地の弱体化は痛いし、mkb持てないのも痛い。
  なんの変哲もない平凡な普通の強キャラ。強いagi。
37, Tiny
  他人を疑似blink。弱体化したもののまだうざいパッシブ。
  いつの間にかcdも改善され、マナアイテムで地位が上がった。
  この辺の順位は平和で平凡な普通の強キャラが続く。
38, Geomancer
  平和さや平凡さとは無縁の元壊れキャラ。
  まだ強いけれど、コンセプトが強いだけで理不尽さは感じない。
  コンセプト自体が理不尽だという批判には沈黙するしか無いが、
  弱体化に次ぐ弱体化で流石に厳しくなった。もう卑怯ではない。
  daggerがあるゲームでこのコンセプトは強い。これは仕方がない。
39, Gorgon
  「tankって何だろう」と首を傾げたくなるtank性能。
  ultのcdも調整されて、平凡な強キャラに落ち着いた。
  wrやpotmのような射程600と、medusaのtankな射程600とでは、
  前者の攻撃的な性能の方が多くの局面に対応出来るのでこの位置に。
40, Stealth Assassin
  サイレンス。疑似blink。invi。dps。
  41位のESとは迷いに迷ったが、saが上。
  gemを持ってもwardを持っても一流で、情報戦に強いのも高評価。
  レベル6までどうしようもないのは確かだけれど、それでも強い。

◆Tier 5
41, Earthshaker
  良くも悪くもblockに尽きるので、どうしても相性が出る。
  3-1-1とその派生に限ればもっと上だけれど、
  3-1-1を活かすにはそれ相応のpickが必要であり、
  野試合における3-1-1の有効性は決して高くない。
  そしてdaggerはそれなりに遠い。
42, puck
  サイレンス。究極の生存性。それなりに強いult。
  ただしサイレンスは短いし、全てのダメージは抑えめ。
  生存性と引き替えに良い調整が成されてしまったという印象。
43, Tinker
  唯一無比のcd無効化。各種アイテムとの高い相性。
  なるべくsolo midをやりたいのに、序盤力は良くもなく悪くもなく。
  視界面での有利もなく、今のdota allstarsで重要なsiege力もない。
  43位というのは上半分であり、上位キャラの位置。

  このリストで最も苦しいのがTinkerの順位。
  ミサイルもレーザーも強化されての43位認定は不可解だが……
44, coco
  コンセプトが強い。位置操作持ち。AOEが3つ。コンボ有り。
45, Dragon Knight
  Strでtankで射程500で3.25秒スタンでnuke持ち。
  ultが平凡になったのは痛いけれど、まだ行ける。
46, Queen of Pain
  苦しい順位。blink持ちを45位に配置してしまう無神経さ。
  ただ、疑似blinkの性能が全て強化された今のdota allstarsでは、
  「普通のブリンクを持っている」というのは大きなアドバンテージではない。
  射程550と得意気に書ける程短くは無いし、苦しい順位である事は確か。
47, Vengeful Spirit
  揃いに揃った通常スキル。非情なult。なんと言ってもagi range。
48, Slayer
  攻撃モーションが悪いのが苦しい。スキルが1つ死に気味。
  ultのcdは短く、期を逃さないアンチとして機能する。
  多少相手を選ぶけれど、弱いなという印象は無い。中位良キャラ。
49, void
  完璧なスキル構成と、完璧な性能のult。これ以上考えられないくらい強い。
  ultのcdが改善されて、どうしていいのかわからなくなるくらい強くなった。
  それでも、疑似blinkのcdとマナコストから来る序盤の平凡さは、埋めがたい。
50, Dark Seer
  位置操作とult強化に加えて、ncの湧き方が緩和され、
  元から最速だったncがさらに速くなった。出来ればncの面倒を見たい。
  レーン力は平凡で味方に負担をかけるので、トータルではこの順位。
◆Tier 6
51, Ursa Warrior
  「tankって何だろう」を象徴するhero。
  HPを上げたら攻撃力が上がるという理不尽さ。
52, Witch Doctor
  全てのスキルが一見強い。実際にそつなく強い。ただし遅効で詠唱。
  この性能で速効無詠唱なら壊れだけれど、そうでないので普通の順位。
53, Dryad
  ncの面倒を見つつプレイする事が最低条件のキャラなので、
  組み合わせやpopによっては思い通りにならないし、
  味方の序盤をスポイルしてしまう展開になる。
  野良ap前提のリストではnc系の順位は下がる。
54, Bone Elemental
  シングルターゲット。詠唱。射程。
  ult依存度が高い設計なのに、ultのcdが平凡で懲罰マナコスト。
  エースを潰すというコンセプトは強いのに調整が絶妙すぎて並のキャラ。
55, Omni Knight
  もはやオーラは相対的にimbaじゃないし、repelも絶対的にimbaではない。
  アンチitemを強いる強さはあるけれど、repelの弱体化が重すぎる。
56, Bloodseeker
  アイテムスロットがより貴重になった今、invi看破は強いが、
  スキルの弱体化が続いて平凡なヒーローになってしまった。
  solo midをやりたいのに、solo mid適正の高いヒーローには完敗する。
  相手のsolo midが弱ければ強い、なんて要素は評価に値しない。
57, Obsidian Destroyer
  ultの強さとcdのバランスが取れていない。弱くもないし、強くもない。
  slowもstunもサイレンスも無い、短射程殴りintというコンセプトは微妙。
58, Bounty Hunter
  ultのcdが体感で0。敵全員のinvi看破。けれどもwwが凡庸。
  アンチinviとしてこそ機能するものの、特筆すべき強みが無い平凡なagi invi。
59, Nerubian Assassin
  マナバーンの弱体化で、積極的に使おうというヒーローではなくなった。
  サイレンスキャラに成り上がったが、マナバーンとアンチmeleeという
  以前のコンセプトの方が強かった。もう強いキャラではない。
60, Anti Mage
  序盤の組み合わせによっては50位は過大評価だと思われるだろうし、
  逆に過小評価だと思われる事もあるはず。平均するとこの辺という結論。
  序盤に大きく左右される序盤力が低いキャラなのでblink有りともこの位。
 
◆Tier 7
61, Invoker(赤
  レベルが必要なので動きに制限がかかる。
  赤は比較的早いけれど、それでも鈍重になる
  単純な強さでは今も白ではなく赤が上だと思う。
62, Goblin Techies
  ultの弱体化はやはり痛く、事故死の確率が上がったが、まだ十分に強い。
  強引に詰まされる事はあるけれど、敗色を覆す事が出来る魅力的なキャラ。
  弱点が明確で苦手な展開がはっきりしすぎている。
63, Night Stalker
  NSのコンセプトは究極のアーリー。最初の夜が全て。
  サイレンスはシングルターゲットでCDの方が長い。
  アガニムは作れば最高の視界兼gemホルダーになれるが、
  キャラ性能と噛み合っていない。潰しが効かない。
64, Magnataur
  ultのcdと性能のバランスは素晴らしいけれど、
  今のバランスだと、dagger前に山が来てしまう。
  ダガー無しで向かう山はそれなりの難易度、それなりの強さ。
65, Slark
  ワード看破は強いものの、居場所は悟られる上に1人では破壊も出来ない。
  エッセンスシフトの劣化でマイルドなヒーローに。燃費は良いが平凡な強さ。
  上位に置く事が不可能なタイプ。攻撃モーションも悪い。
66, Holy Knight
  コンセプトは強いものの、コンセプトが狭い。スキルが噛み合っていない。
  creepの沸きに左右される上に、一度崩れると立て直すのがしんどい。
  コンセプトが強いせいで強化される事は絶対に無いだろうし、
  コンセプトが狭いせいで上位に置く事は不可能なキャラ。
  展開が狂うと場外に弾き出されて、土俵に戻るのが精一杯。
67, Moon Rider
  中位最下層にMR。Tier5が40人くらいになって、出た結論がこれ。
  射程が短い。移動速度のアドバンテージがアイテムにより低下した。
  驚異の移動速度と良好な燃費を持つlateとして評価したくはなるのだけれど。
68, Shadow Shaman
  詠唱。破壊可能オブジェクト。
  強いか弱いかで言うと普通。70位までは中位。
69, Treant Protector
  基礎性能とそれぞれのスキルが孤立しており、噛み合わない。
  ultのコンセプト変更は単純に弱体化だと思うが、
  きちんとした評価を出来る程場数を踏めていない。
70, Phantom Assassin
  dps。BKBの存在するdota allstarsでは強いコンセプト。
  疑似ブリンクを持ち、何故か攻撃速度まで上がり、一応強い。

◆Tier 8
71, Pugna
  bボタンが遠い。
72, Thrall
  遅効だが地形ブロック、見た目より大きなサイレンス。
  位置操作。視界nuke。持つものは持っている平凡なint。良キャラ。
73, Pudge
  dendi愛用の強キャラが72位なんて見る目が無いという意見は謹んで聞くが、
  彼がsfを乱用しまくるsf厨だという事実だけは決して忘れないで下さい。
74, Venomancer
  ワードの強さをどう評価するかが全てになる。射程が短い。視界が強い。
  ワードの強さよりも他の性能を重視して評価した。遅効は大きな減点ポイント。
75, Goblin Clockwerk
  ミサイルの視界時間が僅か10秒にまで削減され、強さが消えた。
  視界を取るならばもっと良いヒーローが居る。それ以外も普通。
76, Beast Master
  狭い。ポテンシャルを引き出すにはsolo midかつボトル。
  視界のメリットは専売特許ではないし、絶対的でもない。
  beamに限らず、視界の評価はかなり抑えている。
77, Lich
  「マナ無限です。強いでしょう。」という時代ではない。
  そういうゲームだった頃は強かったけれど、今は違う。
78, Tauren Chiftain
  このタイプの詠唱キャラを上位評価するのは不可能。
  ultがここまで弱体化してしまうと、下位に沈んで当然。
  もう少し下げたかったけれど、序盤力の有る集団戦キャラなので。
79, Dwarven Sniper
  中盤後半までは射程500代のagi range。
  スキルのシナジーが極めて低い。
  ultが平凡でキャラ性能と噛み合わない。
  それでも、射程810は何物にも代え難い。
80, Lord of Avernus
  omniが56位なので、これは自然な順位。全てにおいて平凡。
  今のバージョンはtankとヒーラーが弱い。

◆Tier 9
81, Zeus
  射程が短くモーションも悪い。魔法dmgが上がらないゲームで
  シングルターゲットnukerというコンセプトは限界が有る。
82, Phantom Lancer
  装備整えば強いから強キャラというリストではなく、
  そこに行くまでの過程でどれだけ安定するか、戦えるか。
  それまでに使えるスキルは平凡なダメージのnuke1つ。
  コンセプトは強いけど、キャラが弱い無力な下位agi。
83, Juggernaut
  個々のスキルが絶望的に噛み合っていない。
  味方を選び、相手も選ぶ特殊なagi。相性ゲー。
  どこまで行っても相手次第、味方次第。
84, Ogre Magi
  最序盤が微妙、siegeも微妙というヒーローの中では強い方。
  射程があれば上に行けるけれど、これでmeleeはおいしくない。
85, Centaur Warchief
  まだ弱い。sgのcdは8。cwは13。5秒差。強キャラと弱キャラの明確な格差。
  スタナー最上位に置いたカオスナイトは遠距離でcd10。
  cwにはcwの強さがあると言っても残念なものは残念である。
  tankというコンセプトは弱い。基本daggerも要るのでさらに下げた。
86, Tidehunter
  ultのcdが致命的で、bkb貫通も無い。
  ultは確かに強いけれど、下位キャラ上位という評価。
87, Gyrocopter
  破壊可能オブジェクト、射程短い、ステ最悪、ult遅効。
  相手に恵まれれば強いし、恵まれなければ死ぬ。
  新キャラにも関わらず、かなり良いキャラだと思う。
88, Invoker(白
  今の主流である白2色。最強のマナ焼きを持つ一発屋。
  序盤力を持ち一発は素晴らしく潰しも効くけれど、
  intで重いは低評価。軽さを絶対的な物として評価したい。
  幾分無理のある順位だが、dota allstarsはBKBとdaggerのゲーム。
89, Soul Keeper
  きちんと立ち上がれば以前より遙かに強くなったものの、
  出来る事が減り順位を下げた。理不尽な強さは大きく上がったが、
  総合点は大きく下がった。現代dotaを象徴する理不尽設計のキャラ。
  許容可能なレベルの強さだと思う。もう二度と光は当たらないだろう。
90, Warlock
  悩みに悩んだ。一定の枠内では素晴らしい序盤性能、
  絶大な理論値を持つlink。けれども今、ヒーラーは弱い。
  ultが無い時間にやれる事があまりにも少なすぎる。
  ultの性能がcdに見合っていない。スキルがそれぞれ孤立している。

◆Tier 10
91, Naga Siren
  ゴーストセプターで順位が20下がり、ultの変更でさらに30下がった。
  上位agiから下位agiに。この程度の性能では疑似blink持ちに後れを取る。
92, Lion
  cd2分半が重く伸し掛かる。流石に93位は低すぎる気がするけれど、
  どのように並び替えれば納得が出来るのかわからないのでこの辺で。
  性能と合致するアイテムが少ないと感じるので、ここまで落とした。
93, Crystal Maiden
  マナオーラと引き替えに性能を下げられた可哀想なhero。
  マナという概念が希薄になり続けるゲームでマナオーラ。残念。
  専用のスタッツとビルドをがっちり組めば強い。そうしなければ弱い。
94, Pandaren Brewmaster
  この順位は違和感があるものの、下げる要素はたっぷり有る。
  アガニムとダガーが必須でvangも欲しくマナはカツカツ。
  アイテムは全て消失し、tankなのにgemを持てないult。
  見た目の数字とは裏腹にあまりにも平凡なultのdps。
95, Rogue Knight
  長すぎるcd、足りないマナ、短いスタン、結局必要になるdagger。
  見直す度に順位が下がっていき、ここまで下げたけがまだ下げたい。
  悲劇的存在。今のdota allstarsでは完全に化石。全て時代が悪い。
96, Bristleback
  弱体化に次ぐ弱体化により、罰ゲーム的な基礎ステだけが残ったtank。
  マナという概念が希薄化して浮上するかと思いきや、
  弱体化されすぎており上を目指すのは不可能だった。
97, Undying
  tank。主装が破壊可能移動不可オブジェクト。
  ripは条件に見合わない低性能。強みはtank性能。評価できません。
98, Twinhead Dragon
  スタンは有るがダメ0、死にパッシブ、回避可能な遅効ult。
  低い移動速度、短い射程、微妙な攻撃モーション、微妙に長いcd。
  使うとInvokerのimbaさがよくわかる貴重なint。それでも軽さは正義。
  ステが良いのは救いだけれど、全ての面でバランス良く弱い。
99, Templar Assassin
  コンセプトが狭い。射程が短い。inviなのに移動不可。
  結局daggerとbkbが必要になるし、そのコンセプトは強く無い。
  最弱はtaとか書いたけれど、状況が変わった。殺伐としたバランスの
  壊れたゲームへと変化したことで、一発のあるtaの評価は大きく上がった。  
100, Lightning Revenant
  スキルを含めた射程。遅効。移動速度も微妙。
  tankにしてアタッカーという枠を担える力は無い。

◆Tier 11
101, Keeper of the Light
  もう「マナ」という時代ではない。
  最序盤がハマった時の強さは圧倒的だけれど、
  出来る事が少なすぎて、対応出来る局面が狭い。
  強引に展開を手繰り寄せる強さがあるわけではない。
102, Shadow Priest
  遅効。回復量低い。ステ悪い。
  ultが遅効、しかもアーマー。
103, Skeleton King
  4秒スタンや2.5秒スタン+αのAOEがある中で2秒スタン2秒スロウが主砲。
  死ななければ効果が無いにも関わらずマナが必要でcd長すぎのult。
  キャラ性能と噛み合っていないスキル構成。
104, visage
  最強のシングルターゲットnukerでtank。コンセプトが狭い。破壊可能ult。
  付近に6~7人heroが居てやっと本来の性能になるという狭さ。狭すぎる。
  レベル6前後で即押しするなら強い。その為に作られた最強のヒーロー。
  そういう展開に持って行けるゲームは多くない。最も悲惨なコンセプト。
105, Pit Lord
  詠唱。遅効。ultが移動技。罰ゲーム。上位キャラが強くなり続ける中で、
  なぜこんな理不尽な懲罰的調整を受けなければならないのか理解出来ない。



冷静に考えてみたら、これはTierリストではない。キャラ順位。TierリストなんてユンをA、フェイロンをB、ヤンをCにして残り全員をDにぶち込み、ハカンとコーディーをEすればそれで終わり。そういう簡単なTierリストやキャラランクとは別次元の過酷さを持つ酷いキャラ順位。googleドキュメントにひな形を上げておいたので、異論反論のある方はご自由に刷新してください。






dota2 完成時における(予想)順位修正は下記の通り。
Dark Seer、wc3エンジンあっての強さなので、10down。
pugna、ショートカットキーがbではないので、20up。
aa、ultの可視性が違うので、5down。
pl、roshanが今の仕様なら、10up。
naga、roshanが今の仕様なら、5up。
lr、眩しい。邪魔。糞キャラ筆頭。論外。最下位。
現状のdota2はキャラが少なすぎて別ゲーなので注意。

2011年11月18日金曜日

carryの意味が納得出来ない。

dota allstarsに「carry」というタイプが存在していて、それを僕は航空母艦的な意味、即ち「Aircraft carrier」的な意味だと思ってた。航空機を搭載しなければ弱い航空母艦と同じで、アイテムを搭載しなければ弱く、航空機を搭載した航空母艦と同じで、アイテムをたっぷり積むと最強。そういう意味での"carry"だと思っていた。けれども、wikipediaなどによると、そうではないらしい。勝利を"運ぶ"からcarryらしいのだ。おかしな話である。

だって、勝利を運ぶからcarryとか言いだしたら、ほぼ全てのヒーローがcarryになってしまうではないか。たとえば3-1-1を乗り越えたEHomeに勝利を運んだのは明らかに820というプレイヤーであり、彼の使うヒーローはlion、cm、vsといった所だったけれど、それらのヒーローを"carry"と呼ぶ人は世界中どこにも存在しないだろう。他にも、「最初のソビエト時代」の立役者だったpuppyもdryadやenigmaを使って「勝利を運んで」いたけれど、これもcarryではない。ミゲルアンゲルを見ても勝利を運んでいたのは前衛で"いわゆるcarry"を使ったアンゲルではなく、後衛に回ったミゲルだったけれどこれも同じようにcarryではない。血みどろvigossにしたって明らかに勝利を運んでは居たけれど、彼のシンボルヒーローはqopであり、これも「qopはcarryです。」と書くとかなり語弊のある類のキャラクターだ。「勝利を運ぶからcarry」なんて事をキャラクターに対して言いだしたら、おかしな事になってしまうのだ。

現代のdotaにおいて勝利を運ぶのは、キャラではなくプレイヤーなのだ。一般のレベルでも、プロのレベルでも、それは変わらない。相対的に上手い人は勝利を運べるし、相対的に上手くない人が使う「所謂carry」は勝利を運ぶキャラクターではなく、ただのDPSでしかない。

もちろん、旧来のdota allstarsで「勝利を運ぶ」というタイプのキャラクターが存在した事は否定しない。けれどもそれが成り立っていたのは、1クリックで4000dmgといった、今ではあり得ないスキルが複数存在していた糞バランスの糞ゲームだったからであり、普通のゲームに成り上がって以降のdota allstarsでは、「勝利を運ぶからcarry」なんて類型は存在しないに等しい。精々強キャラ、弱キャラ、といった程度の違いでしかない。

dota allstarsには10000gold分のアイテムを買ってもそれ相応にしか強くならないヒーローが存在する一方で、同じくらい稼げれば劇的に強くなるヒーローが存在する。その違いを指して「carryか、carryで無いか」という意味だとばかり思っていたし、航空母艦的な意味での"carry"という言葉には納得していた。

それが突然「勝利を運ぶからcarryです。」なんて事を言われても、腑に落ちない。居心地が悪い。第一、「heavy carry」とか「light carry」いう用語もおかしくなるではないか。重い試合を運ぶから「heavy carry」で軽い試合なら運べるから「light carry」なのだろうか。英語のことはよくわからない。

それに、だとすれば「アイテムを搭載すれば劇的に強くなる」というヒーローをなんと呼べばいいんだろう。いや、その心配は不用か。何故ならば世の人々は、"アイテムを搭載しなければ弱いけれど、アイテムを搭載すれば劇的に強くなるキャラ"を指して「carry」と呼んでいるわけだから。。。。納得出来ない。本当に合点がいかない

新しい朝が来た。希望の朝だ。

眠れない夜を超えて辿り着いたのは新しい朝だった。眠れない朝だ。

眠れない夜は辛くない。眠れない夜は苦しくない。そんな夢物語は終わってしまった。眠れない夜は辛い。眠れない夜は苦しい。なぜならば、僕にはもはやゲームが無い。ゲームにときめく心が無い。ゲームは全ての夜から僕を救ってくれた。けれども、もうそんな夜は来ない。二度と来ない。ゲームはもう助けてはくれないし、僕を救ってもくれない。今の自分がゲームから受け取れるものは、ただ罪悪感だけである。罪の意識と、悲しみと、憎しみになりきれない呆れの感情だけである。一秒でもゲームをプレイしようものなら、「それは間違いである」と正される。一秒でもゲームの事を考えようものなら、「それは間違いである。」と律される。幾つもの眠れない夜を乗り越え、幾つもの眠れない朝を追い返したこの僕が、その経験の中で得た結論が、それであるらしい。即ちゲームは間違いである、という事だ。

僕は知った。遂に知った。1つの物事を知った。間違いを知ったのだ。ゲームは間違いである。そしてそれに頼り縋って夜と朝とを乗り越え続ける事もまた、間違いである。僕は間違いたくはない。もう1つも間違いたくはない。何故ならば、間違いは悲しいからだ。間違いは、辛いからだ。間違いは憎しみしか生まない。だからこそ僕はもう1秒たりとも間違いたくない。正しい時間に眠り、正しい言葉でググり、正しいブログを読み、正しい夢を見て、正しい指使いでキーボードを叩きたい。なぜゲームが間違いであるのかは知らない。知らないけど、それは自明の理なのだ。僕にとっては自明の理なのだ。もしもゲームが間違いであるという事を理解出来ない人間が居るとすれば、その人間はただ疎かである。自明の理である事実を理解出来ないような、軽くて薄っぺらい人生しか歩んでいない不知の人なのである。ようするに、馬鹿であり、まぬけであり、あんぽんたんなのだ。脳味噌がおてんとさまなのだ。

僕はゲームを知っている。ずっとゲームをしてきたし、ゲームの事ばかり考えてきた。それ以外の事は何もしてないし、それ以外の事は何も考えず生きてきた。つまり、僕が知っているのはゲームのことと、そしてそのゲームが間違いであるという事だけである。何がどう間違っているかはしらない。どこがどのように間違いであるのかはしらない。しらないけれど、百戦錬磨の僕によると、ゲームは明らかに間違いであるそうだ。ゲームをしてはならないし、ゲームの事を考えてもいけないそうだ。僕は必ずしもそうであるとは思わないけれど、僕自身が「ゲームが間違いである事は自明の理である」と言っているのだから、きっとそうなのだろう。あれだけゲームをしてきた人間がそういうのだから、きっとそれはそういう事なのだろう。

本当にゲームは間違いなのだろうか。悪を探し求める正義の心が犯人捜しに奔走した結果、手近にあった唯一の存在であるゲームというものを悪玉に仕立て上げて、それを間違いであると決めつけて糾弾しているだけなのではなかろうか。本当はもっと悪いものが何か存在しているのに、そのもっと悪いものから目を逸らし、もっと悪いものを大切にして守り抜く為にゲームという偽の真犯人をやり玉に挙げているだけなのではなかろうか。だとすれば何が悪いのだろう。何が間違いなのだろう。もしもゲームが正しくて、ゲーム以外の何かが間違いであるならば、僕は何を恐れ、何を憎めばいいのだろう。ゲームが憎い。ゲームが嫌いだ。ゲームは間違いである。そして僕はゲームに毒されている。間違いによって間違いに染められてしまったのだ。全てはゲームのせいだ。たとえばこのエントリーだって、ゲームについて書こうだなんて気持ちは微塵もなかったのに。

新しい朝が来た。正しい朝だ。間違いの無い朝だ。もう二度と間違いは起こさない。間違いだけを積み重ねて生きてきたが明日からは違う。正しい事だけを積み重ねて生きる。けれども、僕は正しい事について何一つ知らない。正しい事をただの1つもした事がない。明日から正しい事だけを積み重ねて生きる為に、何が正しいかを知らねばならない。正しい事を探さねばならない。最低でも1つ、たったの1つでも正しい事を見つけるまで、眠るわけにはいかない。決して眠るわけにはいかない。微睡む事すら許されない。正しい事が見つからない。眠るわけにはいかない。新しい朝が来た。間違いの無い朝だ。新しい夜が来る。眠れない夜が。

2011年11月17日木曜日

勝った勝ったまた勝った。

眠たいのになんとなく眠れなくて久しぶりにdota allstarsをやったらやたら勝ちまくった。負けたら寝ようとか言いながら14連勝していた。2~3ゲームくらいした段階ではなんでdota allstarsなんかやってるんだろうという罪悪感が凄かったのだけれど、10ゲームすぎたあたりから意識が朦朧としてよくわからなくなった。この朦朧が欲しかったんだろうと思うと悲しい。意識は不明瞭であれば不明瞭である程良い。全ての残念な気分を上回るくらい疲れていればなにもわからない。ここまで来るとちっとも悲しくないし、ちっとも悔しくないし、全ての事が痛くも痒くもなくなる。とりあえず全てアンインストールしたのでもう不明瞭さは手に入らない。明日はどんな日になるんだろうか。見通しは立たない。わからない。

2011年11月15日火曜日

気分が乗らない。

真夜中に目が覚めてしまい、理由がわからず、心がおぼつかなくなり、内側へと震えながら軋む目蓋に戸惑いながらPCの電源ボタンを押し入れウインドウズのローディング画面を眺めていると、その目覚めは寒さによるものだと遂にわかった。僕は冬が好きだからこそ明日から、失われた夏を探しに行こう。冬は要らない。今はいらない。気分が乗らない。

2011年11月12日土曜日

ミゲルアンゲルがSK Gamingに!

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ミゲルアンゲルがまさかのSK
全員デンマーク人のチームをskが獲るというのは全く予想していなかった。一番好きなプレイヤーが一番好きなチームに入るという奇跡。好きでも何でもないsweetみたいなプレイヤーでもSKに入れば全力で乗ってきた僕には願ったり叶ったりの奇跡的な展開。

これでLodaとミゲルアンゲルの再合流というありえない未来予想図も現実味を帯びてきた。Lodaとミゲルアンゲルは酷い喧嘩別れをした、ってわけじゃないしdotaシーンにおいてはLodaと言えばSK、SKと言えばLoda。このメンバーで世界と戦うのは相当厳しいので、どうしてもLodaが欲しい。ミゲルアンゲルと合流の可能性が現実的に残っている在野のビッグネームって、Lodaを除けばインアクティブかlolの人しか居ない。しばらくはこのままとなると、プレイヤー性能的にソビエトの背中が遠い。あまりにも遠い。

2011年11月9日水曜日

本日の成果はただ一つ、合理性を手に入れた事。

ネットサーフィンをして、シーンを観ていなかった頃のDOTA allstarsのリプレイを一通り見て、あくびをして目を掻いて水を飲んで、インターネットをしていなかった頃のウェブサイトを一気読みして、ブログを幾つか書くも投稿ボタンに辿り着けず、気紛れで達人レミンドのリプレイを見たらWarCraft3をやりたくなって、battle.netでマッチングの遅さに時代の流れを感じて、youtubeでブレイブルーやスト4の動画を見て、時間を超えて一通り失敗を重ねていたら眠たさで脳味噌がもわんもわんしてきたので、僕の大切な「明日から頑張ろう」が合理性を手に入れたのである。今日もまた、偉大な一日であった。

2011年11月6日日曜日

ブログ魔王と僕

魔王だ。この人は魔王だ。魔王以外のなにものでもない、この人こそがブログ魔王だと思うブロガーが1人居る。その人のブログのブログパワーの凄さたるやそれはおそろしいものがあり、どうにかしてその力を盗めやしないかと企んだり考えたりしては溜息をつく。

魔王のブログパワーがどこから来ているのか。
それはリアルだ。ブログ魔王はリア充なのだ。それも、そこらそんじょのリア充ではない。超のつく超絶のリア充である。仕事もプライベートも反吐が出る程充実している。全てが完全に上手く行っているというわけではないが、それなりに上手く行っており、その充実度たるや並大抵の事ではない。おそろしいばかりのリア充である。

一方の僕はというと、リアルというものが存在しない。リア無である。リアルなど無い。仕事も無い。プライベートも無い。それどころか今年の記憶すら無い。何も無い。一切が無い。全てが無いにもかかわらず、全てが上手く行っていない。マイナス×マイナスでプラスになるかというとそんなこともなくて、日に日にやつれて行くばかりである。

そのような自分がリア充のブログを読みたいだなどと思うわけがない。そして読むわけがない。にも関わらず、僕はその人のブログをずっと読んでいる。読み続けている。魔王が喜んでいるのを見ると、我が事のように嬉しい。魔王はそんな僕の無邪気さを見透かしたかのように定期的に喜んではしゃぐ。何がそんなに嬉しいのか、よく理解できない事も多々あるが、月に2回は喜びはしゃぐ。魔王は天真爛漫である。とにかく幸せそうである。それを読むのが楽しくて楽しくてたまらない。おそろしいブログである。心から祝福したくなる。いっぽうで魔王が困ったり苦しんでいたりすると、なんとかして魔王の力になれないだろうかと思ったりする。魔王は仕事もプライベートも充実しまくった僕とは文字通り済む世界が違うリア充なのだから、僕ごときが力になれるわけがない。しかし、なれるはずがなくても、「この人の為になにか出来ないだろうか」と思ってしまうのが魔王の魔王たる所以である。恐ろしい人である。おそろしいブログである。

なにしろ、僕は他人の幸せというものが嫌いだ。
自分以外の人間が幸せそうに生きているのを見ると腹が立つ。特にインターネットで、ブログで幸せそうにしている人を見ると、即死しないように丁寧に包丁で滅多刺しにして殺害するしかないという感情に迫られる。僕はインターネットで、ブログで、苦しみを覚え、悲しみを知り、憔悴しきったにも関わらず、その同じインターネットで幸せそうにしているブログなどを読みたいなどとは思わない。決して思わない。

そんなリア充のブログを読もうものなら、いや読まずたりとも僅かでも目にしてしまおうものなら、心が苦しくなるだけである。嫉妬とか苦悩とか沈痛さとかが次から次へと押し寄せて泥沼に陥るだけである。憎しみに心を掻き乱されるだけである。しかし、である。魔王のブログではそうはならない。魔王のブログは恐ろしいことに、僕が最も忌み嫌うタイプのブログであるはずなのに、明かなリア充のブログなのに、読んでいても悪い感情が一切生じない。それは悪魔的なブログなのだ。本当に恐ろしいブログである。

その恐ろしさはどこから生じているのか。
おそらくだけれど、その第一は真面目さである。ブログ魔王は真面目である。とにかく真面目である。遊びも仕事も全力投球である。それどころかブログまでも全力である。いわゆる「リア充」というのは「うまいことやりおる人」につけられるタグである。「なんかうまいこと行ってる人」というのが一般的なリア充像である。仕事をうまあいことこなして充実する。プライベートもうまあいことやって充実する、なんかうまいこと行って人生がおいしい、それが世間一般で言うよくあるタイプのリア充である。しかしブログ魔王という人は、そういったリア充では無い。仕事もプライベートも、なんか微妙に「うまいことやれていない」のである。全てが「うまくいってない」のである。ブログでも事ある毎にプンスカぷんすかしておって、なんだか上手く行っていないのである。その点だけを見れば、「リアルなんかグダグダと駄目で鬱憤を抱えてブログで愚痴をこぼし続ける人」といった雰囲気を漂わせているのである。いや、雰囲気などではなく、事実魔王はそういう人なのである。しかし、である。

しかし、違うのである。
全然グダグダしない。全然駄目にならない。もの凄く充実している。魔王はリア充である。超の付く超絶のリア充である。なぜリア充であるかというと、魔王はその駄目さや"うまくいかなさ"を凌駕するだけの真面目さを持っているからである。努力をしているからである。ようするに、ブログ魔王は努力が凄いのだ。明らかに上手くいかないであろう事を、努力と真面目さで無理から無理から強引にねじ伏せているのである。ねじ伏せ続けているのである。

それは無理からである。
無理からであるからして上手くはいかない。1つねじ伏せる度に2つ、3つと上手くいかない事が増えて行く。魔王は泥沼である。上手くいかない事を、自らの手でさらに混乱させてどんどん上手くいかなくしている。敗北に敗北を重ねている。いつ戦意を喪失してもおかしくない。しかし魔王は諦めない。諦めるという概念が無い。魔王は努力しかしないのである。化け物である。魔王は化け物である。いや、化け物ではない。あれこそがブログ魔王の具現化した姿であり、正しくブログ魔王である。上手くいかない事が2つに増えたらこれ幸いと、2倍の努力をするのである。3つに増えたらこれ幸いと、3倍の努力をするのである。

たとえばブログを取って見ても、開設以来安定して年に370度はブログを更新し続けている。環境に起因する例外的な休暇こそ少しはあったものの、基本的には365日、全日更新である。そればかりかブログ以外の事も同じようなペースで全てをねじ伏せながら猛進し続けているのである。年に370日の勢いで努力し続けているのである。仕事でも、プライベートでも、リアルでも、ブログでも、陸でも海でも空の上でもどこに居ても、何事であっても、同じようにのっぺりと常軌を逸した努力を、真面目さを、発揮し続けているのである。おそろしい人である。究極のリア充である。

対して、僕の方はというと、ブログ魔王よりも先にブログを開設し、一日に20回も更新するというチートな行為を行ってきたにも関わらず、更新回数だけを見てもブログ魔王の遙か後塵を拝している。魔王とは違いリア無であり、仕事もプライベートも全く存在せず、全てのリソースをブログに注ぎ込む事が出来る環境に有るのに、それなのに、ただブログという一局面だけを見ても僕は魔王に負けているのだ。リア無であるばかりではなく、僕はブロ無でもあるのである。全ての面で劣っているのである。

もしも僕が兎であれば、魔王は亀である。
実際には僕は亀であり、魔王は人である。
「今日は昨日具合悪かったせいで睡眠足りてないしなー」とか「このネタはもっと気力体力充実している時に書くわー」とか「このフレーズはいつか大きなエントリーを書く時の為にとっておくわー」とか「今日は秋なのに暑いから気分がのらんわー」などと言って池から首だし岩に登って甲羅を日干しし、まどろみながら「ま、明日から頑張ればいいか」などと悠長にあくびをしてる間にも、ブログ魔王は理解不能な信念の元で狂信的に全力で疾走を続けているのである。僕は亀ですらなく、魔王は人ですらない。魔王は努力の塊である。いや、塊などではない。塊というのは一定の大きさがあるから塊なのであり、ブログ魔王の努力は宇宙と宇宙の外側とを全て埋め尽くした寒天のようなものであり、努力という概念を超えた真面目さであり直向きさなのである。

即ち、魔王は努力の人なのだ。
そして、僕は努力の人ではない。

僕のブログと魔王のブログを決定的に隔てているものが存在するとすれば、それは真面目さである。ただ1つ努力である。ブログ魔王のブログパワーは生に対する直向きさから生じているのである。然り、である。そうなのだ。僕は不真面目に生きており、努力も足りていないのである。致命的なまでに努力が不足しているのだ。情熱はある。夢もある。野心もある。ブログ魔王に負けないだけの思いはある。未来への希望もある。心は既に死んだかもしれない。けれどもその代役を引き受ける恩怨がある。怨念もあり、信念もある。いざこれブログを書かんとする勇気もある。徒労へと猛進する勇敢さもある。しかし、努力が足りていないのである。ただ1つ魔王のように一秒も怠ること無く前向きに物事を積み重ねるという事をしていないのである。

もしも君が「ブログ魔王は仕事もプライベートも充実して衣食住満ち足りているからこそ、それだけの努力が出来るんだよ」などと言い訳をし、いちゃもんを付けようと僅かでも思ったならば、もうその時点で志として姿勢としてブログ魔王には100億年の時を経ても太刀打ち出来ぬは明かである。努力が足りていないのである。必要なのはただひたすらに、努力を続ける事なのである。

2011年11月5日土曜日

こんな晴れやかな朝は無い。

目が覚めるなり肥溜めの中に突き落とされて百年杉の丸太のマドラーで乱暴に撹乱される糞と肉を呆れて眺めるあたま痛。剣竜の背のように尽きだした背骨の節々の1つ1つを里谷多英のようになぞりながら駆け下りていく気怠さの糸で何重にも巻かれ正体不明に膨れあがった痛みと言うには柔らかすぎる居心地の悪さ、辛さ、苦しさ。剣山に盛られ乗せられ突き刺さる左の脇腹に耐えかねてへの字に曲がる上半身。右心房と心室を置き去りにして1人身勝手に筋肉痛になる左心房。頭皮の裏側に流し込まれて煮えたぎる四川風麻婆豆腐風の隔壁の高さに微笑みながら流れない涙を流そうとする自らへの侮蔑と孤独感。もう終わりだ、おしまいだ、この人生に救いはない。諦めよう、全部諦めよう。小さな夢も、些細な野心も、尽きぬ憎しみも、果てることのない罪の意識も全部全部、もうどうでもいい。諦めよう。なんでなん、なんでなん。なんで寝て起きたばかりなのにこんなに悪いの。寝れば体力は回復するものという常識を打ち破る人生。もう諦めよう。こんなふうでは仕方がないから全てのことを諦めよう。そう思ったのが昨日の朝。

具合が悪いと寝るに寝れない。もちろんの事座ってもいられない。PCの電源を入れて、ファンの音を聞いて、ウインドウズが立ち上がって、ログインパスワードを撃ち込んで、思い直して電源ボタンをもう一度押してシャットダウンして、椅子から滑り落ちて、椅子に登れば少しはよくなるとの妄想に取り憑かれ、希望を胸に、椅子の上へと這い上がる。そういう時間をずっと過して、痛みと苦しみに耐え続けて、耐えることにも耐えかねて、痛みで精神がひん曲がっていくのを冷静に眺めながらゲームのウェブサイトを見て現実逃避したりして、全てを投げ出して諦めて8時間、9時間と過した果てにやっとこさ、本当の本当にやっとの事で少しずつ快方に向かう理不尽。横になってゆっくり休んで悪化するのに、痛みと苦しみに息も絶え絶え悶えながら滑り落ちたり這い上がったりを繰り返しているだけで具合が良くなる我が身の理不尽。そんな理不尽にも心折られず、これだけ元気になれば明日一日はきっと素晴らしい日になる、と意味不明な安堵感の中で眠ろうとする健気な私。

しかし、である。
痛みがなくなれば嬉しい。

嬉しいと、幸せな気分になる。幸せな気分になってしまう。思わず笑みがこぼれる。あくびとくしゃみが同時に出そうで、それを同時に堪えているような表情のまま固定してにやけ続ける多幸感。幸せなどという事態とは無縁の日常を過し続ける我が心には劇薬、毒薬、刺激物。突如として目の前に現れた巨大な幸福の反り返りながらそそり立つ壁の迫り来る迫力たるや3D。幸せ耐性を持たない笹の小舟の僕の心を上下の区別がつかなくなるまで弄ぶ喜びの大波、幸せの小波、季節外れの台風の海。先ほどまでは四川風だった頭皮と頭骨の間にまで流れ込んでくる幸福感。そして全ての痛みが取り除かれた事による浮遊感。極上の人生。あまりの喜びに思わず深呼吸するバラ色の溜息。

そうなると困るのが、現実と感情の乖離である。
一日中痛みと向き合う続けて全ての物事を次から次へと思い浮かべては諦め続けた精神と肉体の疲労と、そこから解放された事により生まれた感情の凄まじい隆起は決して混ざらぬ水と油。幸せによる興奮は一秒また一秒と増し続け幸福に次ぐ幸福の絶頂を登頂して離陸し上空を越えて成層圏にまで達するのに、精神の憔悴と肉体の疲労はもはや限界を超えて完全にノックダウン。ならば倒れるようにして眠ればいいと思うのは浅い考え素人の思い上がりで、PCの電源を落とし吾妻鏡よりも勇敢に椅子の上から駆け下り横臥すれば、次の瞬間にはマロリーよりも勇ましくPCの電源を突き押しながら駆け上がる自分のおかしさに思わず声を出して笑ってしまう心の底から愉快で天真爛漫な我が身への尽しがたい情けなさと、その上を行く村雨の霧立ちのぼる歓喜の渦。

尽きぬ喜びに押し流されて、痛みと苦しみの中で一日かけて諦めた有象無象の出来事を片っ端から順番に一つずつ撤回していく砂の城。僕はまだ諦めてはいない。なに一つ諦めてはいない。望むもの全てを手に入れるつもりだし、望む願いの全てを叶えるつもりだ。いや手に入れずとも、叶えずとも、全ては自ずからこの身の方へと集まるだろうと確信を抱く根拠は不明。多幸感と憔悴との間で善悪の区別もつかぬまま、思考の1つも働かぬまま、ただの幸せに流されて自堕落に心を立て直し、盲目的に健全さを取り戻していくが、諦めた全ての事を撤回し、投げ捨てた全ての物事を拾い集めてもなお、愛と勇気は収らず、希望また希望、光り輝く未来と明日と今日と昨日。

そんな底なしの明るさを尻目に、爪先や指先の血管は芥子蓮根のように煮凍り根詰まり、節々はジュラシックパークの恐竜の鳴き声のような音で軋み、目の下の隈と前頭葉が歩調を合わせ進軍する赤軍のように西へ西へとせり出して視界を覆ってゆく。再び具合が悪くなる兆候だ。しかし、である。すこぶる健康である。疲労困憊し精神が衰弱している事と、多幸感と高揚感の中で最高の気分にある事、そして体中のあちこち朽ち果てつつある事を除けば、すこぶる健康である。そうした完全無欠の健康さの中で20時間を浮かれて過し、自分の中の複数の要素が啀み合う中で意識を失わないままで眠りについた。

そうして軽機関銃を持った何者らかに暴かれて、板張りの廊下と雑木林と階段を逃げ続けやがて追い詰められて、その状況を打破するために「魔法の言葉はラスケルン、魔法の言葉はラスケルン」と繰り返し唱えながら壁を背に見えない何かとただ言葉を唱える事だけで戦っていると目が覚めた。ほんの僅かしか眠れなかったが、そんな僅かな時間の中に諦めも幸せも魔法の言葉も無くなって全ての熱は冷め消えて、健やかな人生だけが手元に残った。こんな晴れやかな朝はない。

2011年11月4日金曜日

熊雑記。

Zhouの熊がもの凄い仕上がっていて、EHomeもzsmjも10分代で蹴散らしてるのを見て「これ誰が止めるんだろう」と思ってたら、yyf(morpやqop等の一部ヒーローではzsmjを上回る実績を持つ中国を代表するcarryプレイヤー)が先制pickで熊を奪い取って勝ってた。Zhouのspecが20分でvang、radその他諸々揃えたのに直後に為す術無くrax割られて敗着する熊の恐るべきsiege力。完璧なプレイヤーが28分にCS200で完全装備のspecを作って、3-1-1で相手のNWを完全に潰しきって、スコアでも上回っていたのにさくっとrax割られて負けていく凄さ。バーニングも同じくZhouを止めていたけれど、これも熊を奪って勝つパターン。AAやSDのおかげでBAN枠が明らかに足らなくなった今、再び熊(と蜘蛛)の時代が到来してしまっている。熊の流行は一度や二度の騒ぎではないけれど、またしても熊の「一見強そうに見えるけど移動速度が断トツの最下位なので大丈夫です」という適当な調整の限界が露呈。本体裸の熊が熊にハイパーストーンを買っているのを見ると自分が「熊にハイパーストーンは強すぎる」と考えるプレイヤーだったので強い共感を覚える。今は熊が意味不明なまでに弱体化されてしまったせいで僕くらいのレベルではハイパーストーンという選択肢は消えてしまったんだけれど、あのクラスのプレイヤーならまだ強い。と言っても買っているのはZhouだけ。ちょっとZhouが好きになった。

ゲームを複数巻構成で販売したらどうなるか。

・セガが死にます。



・難産の末に2章は出ます。



・3章は探しても探しても見つかりません。



・「3章売ってたから買っときました」と親切な後輩が3章をくれます。



・封を開けてみるとシャイニングフォースIIIのシナリオ3でした。



・鈴木祐が行方不明になります。



・名越稔洋がヤクザで台頭します。



・私達は悲しみます。



・悲しみに暮れます。



・セガは死にました。

2011年11月2日水曜日

昨日から頑張る。

昨日から頑張るとか、今日から頑張るとか、明日から頑張る、といった事をたびたび思い立つ。それらは一度として、成し遂げられるでもなく、挫折するでもなく、全て有耶無耶に消え去って行く。自分にとって頑張るという事がどういう事なのか、そして頑張りそこねるという事がどういう事なのかも理解出来ないままで、適当に薄れて行く。あるいは先延ばしされていく。


今の僕にとって頑張るとは何か。
それは別に「今の僕」に限った事ではなく、DOTA allstarsを止めねばならぬとブログを書き始めたその日から変わっていない。僕にとって頑張るとは止める事なのだ。たとえば、一昨日思った「明日から頑張る」そして昨日思った「今日から頑張る」という事は、具合が悪くなってもそれをブログに書かない、というだけの決意だったように思える。そんなくだらない決心に、「頑張る」などという大それた言葉を使う自分に情けなさを覚える。ブログは健全で健康的であるべきだと、心のどこかで信じ続けており、そこから乖離する自らのブログに我慢がならなかったのだろう。そして頑張ろうと思ったのだろう。


そして頑張ろうと決めたその日に体調を崩す我が身に辟易する。
それ自体は気節の変わり目の冷え込みから来るただの風邪だから、「お大事に」とすら思わない位に無関心なのだけれど、首から上も首から下も痛くなってしんどくなって、寝たり座ったりしてただただ時間を無駄に過していると、頭の左側で右側で、細胞やら感情やら心やらあるいは文章といった多種多様なものがプチプチと音を立ててはじけ飛んでいくのが聞こえる。痛みや苦しみに耐えかねて、毎秒毎秒はじけ飛び、死んでいくのが聞こえる。はじめは左胸で鳴っていた心臓の音が、右の痛みと左の痛みに共鳴して、一拍で3度聞こえるようになる。血も、涙も、骨も、肉も、3倍の速度で死んでいく。心が死ぬ。夢が死ぬ。目標が死ぬ。未来が死ぬ。大好きな人も死んでしまう。なのに僕だけは生きており、頑張ろう頑張ろうと健気に思う。頑張らねば、頑張らねば