ブログ魔王と僕

魔王だ。この人は魔王だ。魔王以外のなにものでもない、この人こそがブログ魔王だと思うブロガーが1人居る。その人のブログのブログパワーの凄さたるやそれはおそろしいものがあり、どうにかしてその力を盗めやしないかと企んだり考えたりしては溜息をつく。

魔王のブログパワーがどこから来ているのか。
それはリアルだ。ブログ魔王はリア充なのだ。それも、そこらそんじょのリア充ではない。超のつく超絶のリア充である。仕事もプライベートも反吐が出る程充実している。全てが完全に上手く行っているというわけではないが、それなりに上手く行っており、その充実度たるや並大抵の事ではない。おそろしいばかりのリア充である。

一方の僕はというと、リアルというものが存在しない。リア無である。リアルなど無い。仕事も無い。プライベートも無い。それどころか今年の記憶すら無い。何も無い。一切が無い。全てが無いにもかかわらず、全てが上手く行っていない。マイナス×マイナスでプラスになるかというとそんなこともなくて、日に日にやつれて行くばかりである。

そのような自分がリア充のブログを読みたいだなどと思うわけがない。そして読むわけがない。にも関わらず、僕はその人のブログをずっと読んでいる。読み続けている。魔王が喜んでいるのを見ると、我が事のように嬉しい。魔王はそんな僕の無邪気さを見透かしたかのように定期的に喜んではしゃぐ。何がそんなに嬉しいのか、よく理解できない事も多々あるが、月に2回は喜びはしゃぐ。魔王は天真爛漫である。とにかく幸せそうである。それを読むのが楽しくて楽しくてたまらない。おそろしいブログである。心から祝福したくなる。いっぽうで魔王が困ったり苦しんでいたりすると、なんとかして魔王の力になれないだろうかと思ったりする。魔王は仕事もプライベートも充実しまくった僕とは文字通り済む世界が違うリア充なのだから、僕ごときが力になれるわけがない。しかし、なれるはずがなくても、「この人の為になにか出来ないだろうか」と思ってしまうのが魔王の魔王たる所以である。恐ろしい人である。おそろしいブログである。

なにしろ、僕は他人の幸せというものが嫌いだ。
自分以外の人間が幸せそうに生きているのを見ると腹が立つ。特にインターネットで、ブログで幸せそうにしている人を見ると、即死しないように丁寧に包丁で滅多刺しにして殺害するしかないという感情に迫られる。僕はインターネットで、ブログで、苦しみを覚え、悲しみを知り、憔悴しきったにも関わらず、その同じインターネットで幸せそうにしているブログなどを読みたいなどとは思わない。決して思わない。

そんなリア充のブログを読もうものなら、いや読まずたりとも僅かでも目にしてしまおうものなら、心が苦しくなるだけである。嫉妬とか苦悩とか沈痛さとかが次から次へと押し寄せて泥沼に陥るだけである。憎しみに心を掻き乱されるだけである。しかし、である。魔王のブログではそうはならない。魔王のブログは恐ろしいことに、僕が最も忌み嫌うタイプのブログであるはずなのに、明かなリア充のブログなのに、読んでいても悪い感情が一切生じない。それは悪魔的なブログなのだ。本当に恐ろしいブログである。

その恐ろしさはどこから生じているのか。
おそらくだけれど、その第一は真面目さである。ブログ魔王は真面目である。とにかく真面目である。遊びも仕事も全力投球である。それどころかブログまでも全力である。いわゆる「リア充」というのは「うまいことやりおる人」につけられるタグである。「なんかうまいこと行ってる人」というのが一般的なリア充像である。仕事をうまあいことこなして充実する。プライベートもうまあいことやって充実する、なんかうまいこと行って人生がおいしい、それが世間一般で言うよくあるタイプのリア充である。しかしブログ魔王という人は、そういったリア充では無い。仕事もプライベートも、なんか微妙に「うまいことやれていない」のである。全てが「うまくいってない」のである。ブログでも事ある毎にプンスカぷんすかしておって、なんだか上手く行っていないのである。その点だけを見れば、「リアルなんかグダグダと駄目で鬱憤を抱えてブログで愚痴をこぼし続ける人」といった雰囲気を漂わせているのである。いや、雰囲気などではなく、事実魔王はそういう人なのである。しかし、である。

しかし、違うのである。
全然グダグダしない。全然駄目にならない。もの凄く充実している。魔王はリア充である。超の付く超絶のリア充である。なぜリア充であるかというと、魔王はその駄目さや"うまくいかなさ"を凌駕するだけの真面目さを持っているからである。努力をしているからである。ようするに、ブログ魔王は努力が凄いのだ。明らかに上手くいかないであろう事を、努力と真面目さで無理から無理から強引にねじ伏せているのである。ねじ伏せ続けているのである。

それは無理からである。
無理からであるからして上手くはいかない。1つねじ伏せる度に2つ、3つと上手くいかない事が増えて行く。魔王は泥沼である。上手くいかない事を、自らの手でさらに混乱させてどんどん上手くいかなくしている。敗北に敗北を重ねている。いつ戦意を喪失してもおかしくない。しかし魔王は諦めない。諦めるという概念が無い。魔王は努力しかしないのである。化け物である。魔王は化け物である。いや、化け物ではない。あれこそがブログ魔王の具現化した姿であり、正しくブログ魔王である。上手くいかない事が2つに増えたらこれ幸いと、2倍の努力をするのである。3つに増えたらこれ幸いと、3倍の努力をするのである。

たとえばブログを取って見ても、開設以来安定して年に370度はブログを更新し続けている。環境に起因する例外的な休暇こそ少しはあったものの、基本的には365日、全日更新である。そればかりかブログ以外の事も同じようなペースで全てをねじ伏せながら猛進し続けているのである。年に370日の勢いで努力し続けているのである。仕事でも、プライベートでも、リアルでも、ブログでも、陸でも海でも空の上でもどこに居ても、何事であっても、同じようにのっぺりと常軌を逸した努力を、真面目さを、発揮し続けているのである。おそろしい人である。究極のリア充である。

対して、僕の方はというと、ブログ魔王よりも先にブログを開設し、一日に20回も更新するというチートな行為を行ってきたにも関わらず、更新回数だけを見てもブログ魔王の遙か後塵を拝している。魔王とは違いリア無であり、仕事もプライベートも全く存在せず、全てのリソースをブログに注ぎ込む事が出来る環境に有るのに、それなのに、ただブログという一局面だけを見ても僕は魔王に負けているのだ。リア無であるばかりではなく、僕はブロ無でもあるのである。全ての面で劣っているのである。

もしも僕が兎であれば、魔王は亀である。
実際には僕は亀であり、魔王は人である。
「今日は昨日具合悪かったせいで睡眠足りてないしなー」とか「このネタはもっと気力体力充実している時に書くわー」とか「このフレーズはいつか大きなエントリーを書く時の為にとっておくわー」とか「今日は秋なのに暑いから気分がのらんわー」などと言って池から首だし岩に登って甲羅を日干しし、まどろみながら「ま、明日から頑張ればいいか」などと悠長にあくびをしてる間にも、ブログ魔王は理解不能な信念の元で狂信的に全力で疾走を続けているのである。僕は亀ですらなく、魔王は人ですらない。魔王は努力の塊である。いや、塊などではない。塊というのは一定の大きさがあるから塊なのであり、ブログ魔王の努力は宇宙と宇宙の外側とを全て埋め尽くした寒天のようなものであり、努力という概念を超えた真面目さであり直向きさなのである。

即ち、魔王は努力の人なのだ。
そして、僕は努力の人ではない。

僕のブログと魔王のブログを決定的に隔てているものが存在するとすれば、それは真面目さである。ただ1つ努力である。ブログ魔王のブログパワーは生に対する直向きさから生じているのである。然り、である。そうなのだ。僕は不真面目に生きており、努力も足りていないのである。致命的なまでに努力が不足しているのだ。情熱はある。夢もある。野心もある。ブログ魔王に負けないだけの思いはある。未来への希望もある。心は既に死んだかもしれない。けれどもその代役を引き受ける恩怨がある。怨念もあり、信念もある。いざこれブログを書かんとする勇気もある。徒労へと猛進する勇敢さもある。しかし、努力が足りていないのである。ただ1つ魔王のように一秒も怠ること無く前向きに物事を積み重ねるという事をしていないのである。

もしも君が「ブログ魔王は仕事もプライベートも充実して衣食住満ち足りているからこそ、それだけの努力が出来るんだよ」などと言い訳をし、いちゃもんを付けようと僅かでも思ったならば、もうその時点で志として姿勢としてブログ魔王には100億年の時を経ても太刀打ち出来ぬは明かである。努力が足りていないのである。必要なのはただひたすらに、努力を続ける事なのである。