2006年4月15日土曜日

ピタゴラスイッチみたいなゲーム



PCゲーマーなら一度はその高名を耳にしたことがあるであろう彼の伝説的名作、インクレディブルマシーン(絶版)の事なんだけど。

どんなゲームか?って言うとピタゴラスイッチみたいなゲームであり、興味がある方はこちらの素晴らしいレビューなんかがお勧め。

これにはよくまとまったwikiがあり、試食版(体験版)の入手方法等も見事にまとめられてる。

伝説的名作なのに絶版、という事でヤフオクの落札相場も10000円前後と大変な事になっていて、事実上入手不可能。

たのみこむで復刻依頼が成されているので、その辺り。


昨日「真性引き篭もり」にアクセスしたら、ブロックブログが久々に思いっきり落ちていて



「こいつさては逃げたな・・・」
と思わず勘ぐってしまった。
状況が状況だけに。













よく考えたら本人だった。
















ブログが閲覧不可能になったらサポートBBSまでアクセス不可能、というブロックブログの漢な危機管理サポートっぷりを久々に体験できたので嬉しかった。やはりブロックブログはこうでないと。投稿1つ完全に飛んだけど、別に、そんなの、どうだって、いいもん。


2006年4月12日水曜日

時の流れ

時の流れは時として緩慢なまでに速く、僕の知らない所で全てをすり抜けてどこかへ行ってしまう。残るのは漠然とした確固たる意思にも似たぼんやりとした感情であり、落ち着く場所を無くしたそれは曲がりくねる地下鉄を行く電車の床を右往左往するスーパーボールのように、僅かな興味と僅かな不愉快さ、それに明らかな違和感を列車中に漂わせて次の停車駅。

NEXTステージ、
乗り換えないと。
時代遅れに、
なる前に。

僕は緊張から眠れなくて。
お陰で随分居眠りをして。
僅かな弱さを悔いるんだ。

つまらぬ脅しに、
負けないように。

つまらぬ脅しを、
責めないように。

いつだって僕は流されて、
いつだって僕は脅えてる。

生きた心地がしないくらいに、
生きてる感じを失いながら。

時の流れはどうしようもないくらいに遅くて、僕はよくそれを追い越してしまっては歩幅を合わせるのに苦労する。一歩でも前へと出たならば、怒号飛び交い絞首刑。本当に酷い気分の時は、「酷い気分だ」なんて言葉すら書けないものだと僕は思うね。もちろん、気の利いた締めの一文なんてとてもじゃないけど。

2006年4月8日土曜日

時間がない。



夢が無い。
希望が無い。
ゲームが無い。

人生の持つ最大の弱点はタイムリミットが無いという事で、人はその弱点を埋めるが為に宇宙の回りで暦を付けて、毎年々々、同じ季節に、忘れぬようにとローソクを立てる。タイムリミットがあるかのように思いこみ、挫けぬように、急ぐため。

それでも人生には終わりがない。
正確に書くならば、"区切りがない"だけれど。

自分が何を言っているのかよくわかんないな。僕は馬鹿だから。時間をかければ僕が何を言おうとしているのかが理解出来るのかもしれないけれど、僕にはそんな時間は無い。また怒られちゃうよ。「そんなにも時間を使ったのに、ブログの1つも書けていないだなんて」って。僕はもう自分自身に責められたくないから、自分を責めたくなんてないから、言い逃れる為だけに、魂の無いブログを書くんだ。適当な言葉を繋げ合わせてさ。だって、僕はもう、投稿の無いカレンダーを見た僕に失望されたくないんだよ。見限られたくない。どやされたくない。だからとりあえず書きました、って。書くよ、いっぱい、瞬く間に。

DOTA allstarsに忙しすぎてDOTA allstarsをやる暇が無かったのと同じように、ブログを書くのに忙しすぎてブログを書いてる時間が無い。


2006年4月6日木曜日

世界開放系の唯石がかっこ悪すぎる件



我らがはてなの提供するRSSリーダーである所のはてなRSSに「人気記事のみ表示」というオプションが新設されたとの噂を聞きつけ、これは、なんか凄そうだなー、とか思って、適当な普段読んでいないようなブログの人気記事を読んでみようかなー、と思って、世界開放系の人気記事を読んでみる事にしたよ!








その結果が、これ。




http://s1.blockblog.jp/storage/server/proxy.php/sinseihikikomori/Image2.JPG
お!
「人気記事のみ表示」のオプションを発見!
さっそく、クリックしてみるよ!
ワクワクだね!
ドキドキ!








http://s1.blockblog.jp/storage/server/proxy.php/sinseihikikomori/Image3.JPG

9(^Д^)ぷぎゃーwww人気記事無しwww人気記事無し唯石9(^Д^)ぷぎゃーwww唯石毎日毎日必死になってブログ書いてんのに超人気ねーのwwwmixiとか言ってんのに全然ねーのwwwだっせーーーーwww唯石だっせーーーー!!!wwっwwwwwっwwwwっw。唯石人気0www唯石最強にかっこわりいーーーーwwwwwwwwwwwwwブロックブログ1かっこ悪いブログ大賞は4月のこの段階でもう既に2年連続世界開放系確定wwwだって、かっこわるすぎるwww唯石頑張れ!セルクマ頑張れ!!!www!!!www!!!www!!!wwwプライベートモードのサブアカで必死でセルクマとかしてんだろうなー、「これくらいだったらバレねえ」とか言ってwww唯石www。




「桜は多くの日本人にとって特別な花だ」という根も葉もないうわさ話が本当のものであるとして、尚かつ僕が日本人であるならば、僕は少ない日本人なのだろう。




多くの日本人の場合、桜となんらかの思い出との間で密な関係が成立していて、桜の季節が訪れて桜の花を目にする度に、その今では遠くへ過ぎ去った出来事が蘇り、そこから何かを感じたり考えたりと、するのだろう。

夜桜の下で下品極まるどんちゃん騒ぎその類を乱々する人達を指して「おまえらに桜を愛でる資格は無い」などとかっこよく言い放つ人も中にはいるけれど、そのような人達ですら、桜に何か、あったのだろう。満開の桜に多様な志を誓ったり、頑なさを約束したり、弱気な不安に桜吹雪の春一番で立ち向かったりしたのかもしれない。

それら桜を尊重する事が1つの桜崇拝の形として成り立つならば、もはや桜の庇護下から完全に抜け出し、そのような、いわゆる桜を享受する事が出来なくなった人達が、怒りと鬱憤やるせない思いから桜を冒涜しようと躍起になる事だって、許されるはずだと僕は思う。

花見になんて一生行かぬ身分であるからこんな事を言えるんだろうな。




僕の中の何かが今はまだ真っ白白紙な桜と結びつけられたとして、僕は桜の季節を迎える度にそれを思い出す事が出来るんだろうか。例えば、このエントリーを一字一句。


2006年4月5日水曜日

凡人とそうでない人の違い。



凡人は、「やれる」と思った事を行う事が出来る。
凡人は、「無理だ」と思った事を行う事が出来ない。
よって凡人は自身の勝手な判断、勝手な諦めその日の気分により、膨大な数の機会を逸する。


対して超人は、可能であるか不可能であるかの自己判断を保留したまま行動する。諦めない。そして、結果がそのどちらであったとしても動じることなく対応し、生きてゆく。これが超人である。
言うまでもなく、全ての物事が思い通りに運んでいる局面では凡人は超人に勝る。おまけに、人生は不可逆なので、超人がその勤勉さと几帳面さ、危機管理能力を持って確実に歩みを進めた結果、にっちもさっちも行かない、持てる万力を尽くしても不可能の一択、という局面にまで辿り着いてしまうことがある。
そうした場合、超人はその結末が不可能であると完全に理解しているにも関わらず、可能であるか不可能であるかの自己判断を保留し、全ての結末に対処出来るように自らを鍛錬し、万策を尽くし、自らの全てを注ぎ込み、そして満を持して不可能へと突入していく。超人にとって人生とは常に不退転である。
その超人の不屈の様は往々にして凡人に失笑を提供するだけに終わるが、万に一つを掴んだ場合のみ、偉人として扱われる。


即ち、全人類のほぼ全ては凡人である。
超人はほんの一握り特別な人達である。
しかしながら、僕は凡人ではない。


「やれる」と思った事を「俺はまだやれるんだ」という逃げ道を残しておくためにやらない。(言うまでもなく、実の所やろうとしても出来ない。)「無理だ」と思った事を「ほら見ろやっぱり無理だった、俺の予測は正しかった」と勝ち誇る為にやろうとする。(言うまでもなく、それは"やった"というポーズを取るだけであり、凡人の猪突的盲信性や、超人の持つ不退転性とは全く異質のものである)
これを、愚者と呼ぶ。

2006年4月2日日曜日

ブログを書くとはどういう事か。



ブログを書くという事は、誰かがそれを読むという事だ。
ブログにはコメント欄というものがあるからして、即ちコメントがつく。
イコール、ブログを書くという事は読みたくもない文章を読まされ続けるという事である。

ブログ、あるいはmixiといった類の物を始めようかどうか迷っている人は、その事を肝に銘じておくべきである。即ち、読みたくもない文章を読みたいと思うなら今すぐにでもブログを始めるべきであるし、読みたくもない文章など読みたくないと思うならば、始めるべきではない。馴れ合い属性のある人間に関しては知らないけれど、そんなにたいした違いは無いと思う。

至極単純な話である。

逆に、コメントを書くという事はどういう事かとうと、それは読みたくもない文章を特定の個人に読まし、対応を強制するという事であり、だから結果的に余程の気の迷い過ちの類が無い限り僕はコメントというものを決して書かない。

ならば、僕が読みたくもない文章を特定の個人に読ましたいと思った時はどうするかというと、ブログを書いてトラックバックをする。即ち、トラックバックハラスメントである。それが多分にそれ自体が嫌がらせ的性質を孕む物である事を理解しているし、そのような意図でやっている所もある。

即ち、僕にとってブログを書いてトラックバックを行うというのはコメントをつけるに等しいことであり、ブログを書くという作業とコメントをつけるという作業の差異は小さく些細なものであり、1に記名文責の明確さ、2にDELETEされない&DELETEしないという不消去性、3に、相手にトラックバックを読ませるイコール読みたくもない文章を読ませる事を強いるのに際し、相手に強いるのと同じ行動を自身も果たし努める事により責任を治める、といった、些細にして小さなものである。

つまり、その局面だけを取って見れば、僕はまるで嫌がらせを行うという極めてコミニケーション不全的な目的の為にブログを書いているようなものであり、「まあよい趣味をお持ちです事」などと憎まれ口を叩きたくなったりもする。




結局の所、ブログを書くという事はどういう事か、という問いに対する明確にして簡潔、最も適切であると思われる回答は「読みたくもない文章を読まされるという事」以外に思い浮かばぬのであり、ブログを書くという事は、読みたくもない文章を読まされるという事なのである。


2006年4月1日土曜日

ブログ、あるいは匿名掲示板は恐ろしいものだと思う。



ブログ、あるいは匿名掲示板は恐ろしいものだと思う。そう思うに至った一番の原因は、情報のインプットからアウトプットに至るまでの、猶予期間の無さである。



人は、得ただけの情報については、比較的忘れやすいし、親近感も抱きにくい。けれども、得た情報を一度その口や指により吐き出すと、即ちアウトプットしてしまうと、その情報を忘れにくくなるばかりではなく、その情報に対して親近感を抱き、その情報に対して絶対的とまでは言わないまでも、比較的それに近いレベルの親密さを保持するようになる。もう少し進んだ言葉で言うと、盲信するようになる。



どうしてそのような事が生じるのかは知らない。知らないながらも推測で書いてしまうと、アウトプットした情報は身に付く、というのは人に備わった能力なのだと思う。

人間には体で覚えるという能力がある。例えば大外刈りを繰り出す柔道選手や干瓢を剥く職人は、その動作をインプットし続ける事によって習得するというよりは、むしろ、アウトプットし続ける事により習得するのである。多分。

そんなすっとんきょうなたとえ話を持ち出すまでもなく、九九にしろ漢字にしろ、教育というものはアウトプットによって成り立っているわけであり、「如何にして人を育てるか」という問いの正体は古の昔から常に「いかにアウトプットさせるか」であった。それはもちろん、結果的に最終目標としていかにどのようなアウトプットさせるのか、というものではなく、学習過程においてのアウトプットである。そしてそのアウトプットによる学習効果の効率が最大化されるのは、他人へ伝える、という伝達アウトプットである。

その伝達アウトプット、あるいは伝達を前提としたアウトプットを簡単に、しかも効率的に成し遂げられる道具群、即ちblog、mixi、wiki、あるいはとても便利なテキストエディタ、といった一連の道具については、本当に素晴らしいものであると思う。もちろん、紙上に書き記すことや、口頭で伝える事などとは質の違うものであり、部分的には大きく劣るところもあるとは思う。しかしながら、それを補うくらいのアウトプット道具、即ち身になる道具であると思う。



しかしながら、それらの道具、即ちblog、mixi、wiki、あるいはテキストエディタといった一連の道具群は、大きな問題を抱えていると思う。それは、インプットからアウトプットまでの、猶予の無さだ。

インターネットが当たり前となった世界では、(伝達)インプットを受けた瞬間から人間はその場所で一歩も動く事なく、伝達アウトプットを行う側に回ることが出来る。これは本当に恐ろしい事であると思う。

通常、インプットから伝達アウトプットまでの間には、様々な猶予が存在する。例えば道ばたで誰かから受け取った情報を日記帳に書き記そうと思えば、風に吹かれ、道を歩き、夕暮れを見て、飯を食い、ひとことふたこと言葉を交わし、風呂に入り、服を着替えて机に向かってやっとである。これが、日記帳ではなく、他の誰かに口伝という形でアウトプットするとなれば、さらに一晩眠り待たねばならない。

ところがインターネットでは、情報を受け取った瞬間に、人々はアウトプットを行う側に回る事が出来る。しかも、そのアウトプットは往々にして第三者の検証反芻反論の類を受けない。ドッグイヤーの世界では、勢いだけで全てが流れてゆくのである。

インターネットでは無い世界には確かに存在していた「距離」、即ち緩衝地帯とでも言うべき、思考余地、考えるゆとりというものが、インターネットという場所には用意されていないのである。そればかりか、奪われるように出来ている。

人は(強靱な意志を持たない人間は)、IEを開いていると、より正確に書き記すならばインターネットに接続していると(あるいはPCの電源を入れていると)「何かをし続けなければならない」状況に置かれる。

ワールドワイドウェブの世界の中で、人々は、常に何かをいそいそと読まされ、読み終わるや否や何かに追われるように次の何かをクリックし、常に待ち受ける世界への扉と貸した検索窓にくだらない言葉、時としてまったく無意味なキーワードを打ち込んではRtuernキーを取り憑かれたように叩き続けてクリッククリックまたクリック、立ち止まり考える時間というものを持たないままで、擬似的能動の魔の中へ飲み込まれてゆくのである。



さらに、インターネットにおいての伝達アウトプットの実体が伝達ではない、という点も問題なのだと思う。インターネットにおいて伝達している相手は人間ではなく、インターネットでしかない。もちろん、インターネットの向こう側には同じ文字列を見ている人間がいるのだから、人間に向けての伝達を行っているという解釈も成り立つには成り立つとは、思う。

それでも、僕はどうしても、いわゆるblogや匿名掲示板、mixiといった類の場所における伝達アウトプット行為は、旧来の伝達を意味するとは思えないのである。と言っても、所謂リアルを崇拝しているわけでも、崇拝しようとしているわけでもない。



伝達アウトプット、というのは伝達を行う相手をこちらから捜し求めて捕まえて、その情報を伝えて始めて伝達アウトプット、と呼べると僕は思う。相手はその情報になんら興味を持っていないかもしれないし、もっと他の話を聞きたいと思っているかもしれない。

そのような第三者に情報を伝えるという一筋縄では行かない作業の中で、時間的猶予によって削ぎ落とされた情報が丁寧に錬り洗われ、自分が何を考えているかを理解する事が出来る、というのが伝達アウトプットの「アウトプットを行った情報は忘れにくい」という利点の上を行く、第一の利点であると思うのだ。

そして言うまでもなく、インターネットはそのような性質のものではない。ここでは、「こちらから伝えに行く」という金無垢は成り立たないのである。



そのようにして、「勢いだけでアウトプットしやすい情報」が時間的猶予を与えられないままで際限なくアウトプットの連鎖を引き起こした結果が、嫌韓の名を借りた人種差別や、過度の親インターネット、あるいは特定のものへの敵意といった、極めてインターネット的な、伝える相手無き伝達合戦、罵る相手無き罵倒合戦その果てに多分、互いに諦め、互いに嘲笑するといった、インターネットがもたらすはずだったものの真逆、即ち断絶をもたらしていて、それら「距離の無さにより生み出された遠さ」は、インターネットがより便利に、より高度に、より刺激的に、より面白くなるにつれ、際限無く広がり続けてゆくような錯覚に捕らわれ朦朧とする山に子の居ぬカラス鳴く朝。


僕の遅さとインターネットの早さ。



僕は遅い。
何をさせても遅い。


ついていけない。
まったくもってついていけない。


インターネットは早すぎる。






少なくとも僕にとってブログを書くというのは大変に時間のかかる事柄であり、僕にとってブログを書くという作業は人生に用意された全ての時間を注ぎ込んでも尚成し遂げられないことである。そして、僕にとってブログを書くという物事は、人生の全てを注ぎ込むに値する事柄である。そんな事はどうだっていい。


僕は、自分の考えている事、あるいは思っていること即ち感情というものを、日本語に翻訳するのが物凄く苦手である。また、日本語への変換が成功したとして「やった、これで文章が出来た」と思っても、それをタイピングし終えるまで忘れないでいる、という事が出来ない。

確かに僕の脳みそは非常に出来が悪く、劣悪な品質のものではあるけれど、その出来損ないの、非常に質の悪い脳みそですら、僕の十指と比べれば遙かに大きな存在であり、どれだけ懸命に必死さを持ってタイピングを続けたところで、竹筒を流れてくるのは素麺でも桃でも無くて土石流、とてもではないがブログには出来ない。

となると僕に出来る唯一の手段は、とにかく時間をかけて考えて、溢れ出た物を拾い集めては反芻し、少しずつ、少しずつ成形し、文章にし、活字化し、ブログに変えていくという単純にして非常に非生産的、尚かつ退屈とも言える作業であり、投稿ボタンに辿り着くまでには膨大な時間が掛かる。

それに関しては、僕の十指と脳との無能さに責任があるし、言うならば好きこのんで(と書くと正確ではないけれど)やっているわけで、不平不満を言うつもりはない。

けれども、けれどもである。
ついていけないのである。





もう、御周知の所であるとは思うけれど、それはどういう事かというと、僅か数日前まではキッズgooのフィルタを通すとMumakたんの非常におだやかなブログは閲覧不可能であったのに対し、jin115の明らかに有害なブログはそっくりそのまま閲覧可能であった。

けれども、今し方、先ほどのエントリーの下稿、即ちあらすじ(即ちあれは下稿であり下書きである)を書いている最中にふとキッズgooのフィルタを通して前述の2つのブログを見てみたところ、なんと、この結果がまったく逆になっていたのである。

これはもう驚きであり、絶望である。
僕はここ数日にかけて頭の中で書き続けてきたブログの前口上の前提が970度覆されてしまったわけであり、インターネット的なスピードと、前時代的な自分のブログ書き速度の間の開きによって生じてしまった、自らのエントリーの死にも等しい死を目にして心底萎えた。


無論の事、悪いのは僕であり、たかがキッズgooのフィルタシステムのゆらぎによって覆されてしまうような文章は書くべきではない、という教訓のようなものは得られたのだけれど、やはりキッズgooのようなインターネットの物に関して書く場合は本当にもっと急がないと駄目だなあ。








もう1つ、googleの検索結果もこの数日で変化している。

先の投稿では、インターナショナル版のgoogleでは「welcom to gmail」が検索結果の一番上に表示される、と書いたのだけれど、それは数日前までの事であり、今現在ではインターナショナル版(ウェブ全体から検索)でも、一番上に表示されるのはwelcom to gmailではない。

これも、まあ、数日経てば変化するかもしれないので、とりあえずまで。








というわけでここにトラックバックするつもりで書いていたのだけれどなんかそれすらも遅いのかなぁ、と自らを非難するムードになってしまい、とても悲しい。まあ、書かねばならぬ事や書きたいことは山のようにあるのだから、たった1つのブログが駄目になってしまったくらいで、そんなに落ち込む事もないと自らを勇気づけて、やっぱりNTTレゾナントはやれば出来る子だと思ってたんだよ、僕は。最初から。