2006年4月1日土曜日
ブログ、あるいは匿名掲示板は恐ろしいものだと思う。
ブログ、あるいは匿名掲示板は恐ろしいものだと思う。そう思うに至った一番の原因は、情報のインプットからアウトプットに至るまでの、猶予期間の無さである。
人は、得ただけの情報については、比較的忘れやすいし、親近感も抱きにくい。けれども、得た情報を一度その口や指により吐き出すと、即ちアウトプットしてしまうと、その情報を忘れにくくなるばかりではなく、その情報に対して親近感を抱き、その情報に対して絶対的とまでは言わないまでも、比較的それに近いレベルの親密さを保持するようになる。もう少し進んだ言葉で言うと、盲信するようになる。
どうしてそのような事が生じるのかは知らない。知らないながらも推測で書いてしまうと、アウトプットした情報は身に付く、というのは人に備わった能力なのだと思う。
人間には体で覚えるという能力がある。例えば大外刈りを繰り出す柔道選手や干瓢を剥く職人は、その動作をインプットし続ける事によって習得するというよりは、むしろ、アウトプットし続ける事により習得するのである。多分。
そんなすっとんきょうなたとえ話を持ち出すまでもなく、九九にしろ漢字にしろ、教育というものはアウトプットによって成り立っているわけであり、「如何にして人を育てるか」という問いの正体は古の昔から常に「いかにアウトプットさせるか」であった。それはもちろん、結果的に最終目標としていかにどのようなアウトプットさせるのか、というものではなく、学習過程においてのアウトプットである。そしてそのアウトプットによる学習効果の効率が最大化されるのは、他人へ伝える、という伝達アウトプットである。
その伝達アウトプット、あるいは伝達を前提としたアウトプットを簡単に、しかも効率的に成し遂げられる道具群、即ちblog、mixi、wiki、あるいはとても便利なテキストエディタ、といった一連の道具については、本当に素晴らしいものであると思う。もちろん、紙上に書き記すことや、口頭で伝える事などとは質の違うものであり、部分的には大きく劣るところもあるとは思う。しかしながら、それを補うくらいのアウトプット道具、即ち身になる道具であると思う。
しかしながら、それらの道具、即ちblog、mixi、wiki、あるいはテキストエディタといった一連の道具群は、大きな問題を抱えていると思う。それは、インプットからアウトプットまでの、猶予の無さだ。
インターネットが当たり前となった世界では、(伝達)インプットを受けた瞬間から人間はその場所で一歩も動く事なく、伝達アウトプットを行う側に回ることが出来る。これは本当に恐ろしい事であると思う。
通常、インプットから伝達アウトプットまでの間には、様々な猶予が存在する。例えば道ばたで誰かから受け取った情報を日記帳に書き記そうと思えば、風に吹かれ、道を歩き、夕暮れを見て、飯を食い、ひとことふたこと言葉を交わし、風呂に入り、服を着替えて机に向かってやっとである。これが、日記帳ではなく、他の誰かに口伝という形でアウトプットするとなれば、さらに一晩眠り待たねばならない。
ところがインターネットでは、情報を受け取った瞬間に、人々はアウトプットを行う側に回る事が出来る。しかも、そのアウトプットは往々にして第三者の検証反芻反論の類を受けない。ドッグイヤーの世界では、勢いだけで全てが流れてゆくのである。
インターネットでは無い世界には確かに存在していた「距離」、即ち緩衝地帯とでも言うべき、思考余地、考えるゆとりというものが、インターネットという場所には用意されていないのである。そればかりか、奪われるように出来ている。
人は(強靱な意志を持たない人間は)、IEを開いていると、より正確に書き記すならばインターネットに接続していると(あるいはPCの電源を入れていると)「何かをし続けなければならない」状況に置かれる。
ワールドワイドウェブの世界の中で、人々は、常に何かをいそいそと読まされ、読み終わるや否や何かに追われるように次の何かをクリックし、常に待ち受ける世界への扉と貸した検索窓にくだらない言葉、時としてまったく無意味なキーワードを打ち込んではRtuernキーを取り憑かれたように叩き続けてクリッククリックまたクリック、立ち止まり考える時間というものを持たないままで、擬似的能動の魔の中へ飲み込まれてゆくのである。
さらに、インターネットにおいての伝達アウトプットの実体が伝達ではない、という点も問題なのだと思う。インターネットにおいて伝達している相手は人間ではなく、インターネットでしかない。もちろん、インターネットの向こう側には同じ文字列を見ている人間がいるのだから、人間に向けての伝達を行っているという解釈も成り立つには成り立つとは、思う。
それでも、僕はどうしても、いわゆるblogや匿名掲示板、mixiといった類の場所における伝達アウトプット行為は、旧来の伝達を意味するとは思えないのである。と言っても、所謂リアルを崇拝しているわけでも、崇拝しようとしているわけでもない。
伝達アウトプット、というのは伝達を行う相手をこちらから捜し求めて捕まえて、その情報を伝えて始めて伝達アウトプット、と呼べると僕は思う。相手はその情報になんら興味を持っていないかもしれないし、もっと他の話を聞きたいと思っているかもしれない。
そのような第三者に情報を伝えるという一筋縄では行かない作業の中で、時間的猶予によって削ぎ落とされた情報が丁寧に錬り洗われ、自分が何を考えているかを理解する事が出来る、というのが伝達アウトプットの「アウトプットを行った情報は忘れにくい」という利点の上を行く、第一の利点であると思うのだ。
そして言うまでもなく、インターネットはそのような性質のものではない。ここでは、「こちらから伝えに行く」という金無垢は成り立たないのである。
そのようにして、「勢いだけでアウトプットしやすい情報」が時間的猶予を与えられないままで際限なくアウトプットの連鎖を引き起こした結果が、嫌韓の名を借りた人種差別や、過度の親インターネット、あるいは特定のものへの敵意といった、極めてインターネット的な、伝える相手無き伝達合戦、罵る相手無き罵倒合戦その果てに多分、互いに諦め、互いに嘲笑するといった、インターネットがもたらすはずだったものの真逆、即ち断絶をもたらしていて、それら「距離の無さにより生み出された遠さ」は、インターネットがより便利に、より高度に、より刺激的に、より面白くなるにつれ、際限無く広がり続けてゆくような錯覚に捕らわれ朦朧とする山に子の居ぬカラス鳴く朝。