2006年1月30日月曜日

僕は一体何を期待しているんだ。



たまたま目にしたはてなダイアリーのアンテナ表示欄に真鍋かをりのここだけの話を見つけて、「ああこの人はあんなものを有り難がって読んでいるのか」と思ったそのコンマ数秒後に若隠居の徒然日記という文字列を見つけては反射的にそれをクリックしてしまい、gooブログのトップページに飛ばされる徒労。

一体僕は何を期待してそんなものをクリックしてしまったのだろうかと考える内に酷く虚しくまたかつ憂鬱な気分になった。

世の中には僕が定義する中のろくでもない人間というものが大勢いて、例えばそのような人にかける情などというものを僕は持ち合わせていないのだけれど、それでも人間は人の子であるからして、一切の責任を放棄して何もかも無責任に逃げ出したくなる事だってあるだろう。

ただ、僕は今のところ奇跡的にその選択を行っていないというだけであり、その差異は極めて小さく実に同質である。そんな不確かで危ういものに、間違ったダンディズムのようなジャスティスジャッジメントファイア的なものを宿らせる事の正当性を常に疑う。

例えばその中で僕がその文字列をクリックした理由としてはそこに人心たる少なくとも幾分かの誠意の宿った謝罪の体を成した自己正当化が繰り広げられているのではないかと思い、即ち一言で言うならば僕は何か、即ち良いように言えば良心、悪いように言えば正しさを体現したいという邪な欲望というものを信じてそれをきっとクリックしたのだ。

その憂鬱さ、即ち僕がまだ人間などというものを信じているというこの有様に酷く虚しい気分になり、体全体の皮膚という皮膚がゴム長靴に覆われたような自らと自らの果てしない距離感を感じた。

世の中はろくでもない奴らばかりで満たされており信じるに値する人間などいない。のう、のう、斬り付け合って2つが4つになればよい。そうすればまた、1つになれる。


2006年1月28日土曜日

ピーターとホリエモンの法則




能力主義の階層社会に於いて、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平構成員も無能な中間管理職になる。



wikipediaより。








僕はホリエモンを知らない。
ライブドアとは遠い人間である。このブログをレンタルした時に、ライブドアブログだけは元から論外、と思っていたくらいにライブドアは僕の色からはかけ離れた色をした会社である。ライブドアのサービスの中で虚業ではないものがあるとすればPJくらいのもんだ。あれはいいもんだよ。reallyなあ。







とにかく僕はホリエモンを知らない。
動いている所を見たこともないし、声を聞いたことが無い。こういうのを世間から隔離されている、って言うんだろう。けれども、ホリエモンという名前くらいは知っている。回転回転、と言いながら回っていた事なんかも。







そんなホリエモンだけれど、僕が思うにホリエモンは有能だったのだと思う。ライブドアの技術に関するブログを読んだりしていて、更にそう思うに至った。







もちろん、ホリエモンに対する批判の多くは的を得たものなんだろうと思う。酷いやり口でお金をとにかく集めて、ごまかし手口で巨大化した、みたいな批判は十分にあり得るだろうと思う。







それでもホリエモンは優秀だった。
虚々実々を用いてそこから金貸し、中古車、インスパイア、とにかく優秀だった。少なくとも、うまく行きそうだったくらいの所までは来ていたんだと思う。







けれどもホリエモンは墜ちた。
ホリエモンの手には負えないステージ、即ちホリエモンはホリエモンが無能化するステージにまで進んでしまったのだろうと僕は思う。







ホリエモンが無能化するステージとは何か。
それは普通に考えれば「虚々実々が潰されてしまう保守的なステージ」という事になるだろう。けれども僕はそうは思わない。







ホリエモンが突入した「ホリエモンが無能化するステージ」とは、堕落ではなかったろうか。金を得たホリエモンは自身の非常に優秀な能力の実の部分と、金と名が生み出す虚の部分を取り違え、ひっかえとっかえセックスして、朝から晩まで腰巾着共と旨いもん食べて、ゴーストライターと談笑しながらブログのエントリーを上げ続け、株価も順調上がったりして、セシール買って褒められて、ホリエモンはホリエモンを見失ってしまったのだと思う。







ホリエモンは慢心を得た。
いや、慢心、というよりも満足あるいは。
そうして彼は堕落へ歩み、失敗した。彼が「間違いを犯した」かどうかは今のところ誰にもはっきりとした事は言えないのだろうけれど、「失敗をした」って事だけは誰の目にも明らかだ。




堕落が成立する条件はおそらく2つ。
栄光と孤独、なんだろう。







許子将が曹操を指して言ったとされる言葉に「治世の能臣、乱世の奸雄」というものがある。ホリエモンはライブドアバブルという乱世を自らの手で生み出し、自らの手で英雄となった。







そこで僕は、もしも彼が乱世を生み出していなかったら、というifを思わずにはいられない。ホリエモンは凡百の人々よりは遙かに優秀だ。少なくとも彼は東大に入っているし、聞くところによるとプログラマーとしても中々の腕前であったらしい。







もしもホリエモンが今、ホリエモンでは無い何者かとして同じ能力を持って世にでたならば、僅か2年か3年でここを読んでいる人のほとんどよりも大きな金額を稼ぎ出す優秀な労働者になるだろう。あるいは、前に彼がそうしたように、乱世と父親不在の幼児を作りだすかもしれない。







けれどもホリエモンは無能になる事を選んだ。
「株価は見られないんですか?」なんて無能の極みじゃないか。







GOOD BYEホリエモン。
こんにちは無能。
















少し、続ける。







同じ事は僕にも言えるだろう。
即ち僕もホリエモンと同じように有能であり続けられるステージを飛び越えて無能になるステージへと突入した。それはホリエモンと同じように「堕落」である。片仮名で書くとブログ、だ。ここには孤独と栄光の両方がある。







DOTA allstarsがあった頃の僕は30-0なんてスコアを出せる位に有能な人間だった。bootsスタートでポカをする、といった多少の無能さは抱えていたが、とりあえずは有能だった。







そんな僕も今では無能の極み。あのままDOTA allstarsと共にあれば僕はずっと有能なままでいられたのに、と悲しく遠くを見つめては、神童と呼ばれた全ての者に訪れるただの人へと思いを及ばせまた明日、また明日僕はブログを書くのでしょう。







無能なブログを。
無能なブロガー。
無能なエントリーを。
無能になった真性引き篭もりhankakueisuu。







さよなら GAME
HELLO LOVE


2006年1月27日金曜日

激昂とエントリーの距離。



少し前、あるいはだいぶ前から断続的に物凄い激昂が来る。

その度に、「ブログを書くなら今しかない」と思ってキーボードの上に手をやるのだけれど、僕の指が1語10タイピングを行う間に頭の中では意味不明の単語の羅列が四十、五十と駆け抜けてゆく。

それがあまりにも早すぎて、タイピングが間に合わない。タイピングが間に合わないどころか、文章を生成するのすらままならない。「このフレーズは一生忘れないだろうから書き留めておく必要はないだろう」と思うようなフレーズが4秒に1つの割合で生み出され、32秒後にはそれら全てを完全に忘れてしまっている。

忘れてしまっていると言うよりは、激昂即ち感情の爆発によって生み出されるまったくもってくだらない単語の羅列に押し流されてどこか遠い所へ行ってしまう。

それら激昂が過ぎ去ったあとに「あの時の感情を含めたエントリーを書こう」とも思ったりはするし、実際に何度も書き始める所までは行っているのだけれど、激昂していた時の感情と気分を思い出しながら整理して書くブログのエントリーってのは、感情がリアルではないという点で嫌悪感を抱いてしまい、すぐに書き続ける気力を失ってしまう。

「大丈夫、またしばらくすれば激昂が来るさ」という楽観的な予測は往々にして的中し、それに近いものが来る度に「今度こそは」と思うのだけれど、来る度、来る度、冒頭のように言葉が押し流されて消えていくばかりでエントリーにならない。


ブログの無力、感情に追いつく事が出来ない僕の脳、百足程度の僕の指。感情とエントリーの間にはなにやら決定的な断絶が見られるように思える事が、たまにあり、その度に悲しくなる。

僕の心はどこへ行ってしまったんだ。


2006年1月26日木曜日

まどろむ前に思う事



寝支度を調え横になり、寝入るまでの僅かな時、あるいは僅かとは呼べない膨大な無駄な時間の中で考える事柄こそがその人間にとって今抱えている最も大きな欲望なのだと考えるに至り、多くの世の人々にとってそれは豊満な裸婦であり、偉丈夫である。




純粋に「早く眠りたい」と思い早く眠れる人にとっては睡眠こそが最たる欲望であり健全であると言えるが、「早く眠りたい」と思いながらも眠れない人は悲惨である。目の前にそれがあるのにも手が届かない、鉄格子の中に置き焼き回され香ばしい匂いを放ち続けるバームクーヘンのようなものだ。

であるとすれば僕はバームクーヘンが食べたいのかといえばそうではなく、そんなものはいらない。何故ならば僕は「バームクーヘンを食べたい」などと思うわけがないし、「早く眠りたい」とも思っていないからだ。

では僕がまどろむ前に何を考えているかというと、「まどろむ前に思う事こそがその人にとって最たる欲望であるというのは1つの真であるが、僕は一体まどろむ前に何を思うのだろう」という事柄であり、僕にはもう欲望が無い。




しかしながら、その欲望の無さをブログにこうして書いているという事はおそらく、今現在の僕にとってブログを書くことこそが最たる欲望なのだ、と考えるとあまりにも、悲しくなったのでもう寝ない。


2006年1月25日水曜日

雑記



・4K grubby インタビュー邦訳
強くなるために必要な事と少しの誇張で主題として取り上げたプロゲーマー4K grubbyのインタビュー邦訳がall-gamersにUPされています。




・4K grubby近影
4K^grubbyと4K^zeus。
強そうな方がgrubbyで弱そうな方がzeus。
事実強い方がgrubbyで事実弱い方がzeus。




・WarCraft3を買う。
在庫有り(英語版)
在庫無し(英語版)、取り寄せですが最安(楽天内)


購入後はWarCraft3雑記の初心者講座や、ヒーロー技の日本語解説などがゲームを理解するのに便利です。最新のプロゲーム事情やリプレイ情報についてはall-gamersが秀逸であり、便利です。


日本語版は倍ほどしますし、邦訳が酷いのでネット対戦を前提とするならばお勧め出来ません。ネット対戦はボタンを押すだけで似た実力を持つ相手と自動でマッチアップしてくれますので変な気苦労は不要です。




・WarCraft3のプロゲーマー


WarCraft3のプロゲーマーについて、上記のインタビューにも名前が出てくるクラスの有名な人について、少しだけ書いておきます。


・「4K^grubby」
2003年、RTSプロゲーマーオブザイヤー
(プロゲーマーオブザイヤーは伝説のアンデッドmadfrag)
2004年、プロゲーマーオブザイヤー
2005年、RTSプロゲーマーオブザイヤー
(プロゲーマーオブザイヤーはFatal1ty、grubbyを抑えて賞金だけで2000万円ほど稼いだらしい、ペインキラーのVoO)


転んでも転んでも立ち上がってくる物凄い人。




・「sprit_moon」


「WarCraft3には種族が5つ存在する。ヒューマン、オーク、ナイトエルフ、アンデッド、そしてsprit_moonだ。」と言われている位に特別なプレイヤー。(使用種族はナイトエルフ)


あまりにも異常すぎる戦法を次から次へと披露し、強烈な個性を醸し出すと共に「プロにしか出来ない事」を体現し続ける唯一の存在。ゲーム中盤までは凄まじい嫌がらせを続けて相手を消耗させ、必死に足掻く相手にフルアップグレードの生産上限一杯の軍隊をぶつけて蹂躙する様には対戦相手が可愛そうになる。ただし、戦法があまりにも極端すぎるので、嫌う人も多い。


grubbyが究極のオーソドックスであるのとは対象的な存在であり、「世界最強はsprit_moonではなかろうか?」と言われ続けてきた。にもかかわらず彼が世界最強であると認められていないのは、韓国のWarCraft3のレベルがあまりにも高すぎて、国際大会の国内予選を満足に突破できていない、という点にある。


といっても内弁慶というわけではなく、世界中が注目したgrubbyとの対戦では3-2で何度目かの絶頂期にあったgrubbyを下し、あの悪童grubbyに「grats moon」と言わせたのは記憶に新しい所。




・「WE.sky」


「最弱種族を最強種族に変えた男」それがWE.sky。


対戦格闘ゲームをプレイした経験がある方は、ゲーム内のキャラクターに明らかな強弱というものが存在する事をよくご存じだろう。WarCraft3にも明らかな弱種族というものが存在しており、それはつい半年前まで「ヒューマン」であった。


その認識は世界中で完全に共通しており、ヒューマンを扱うプロゲーマーは「弱い種族で頑張っている素晴らしい精神を持っている」という賞賛を受けたし、ヒューマンを扱うプロゲーマーも「ヒューマンが一番弱い、けれども私はヒューマンが好きだから、また世界中のヒューマンプレイヤーに希望を与える為にヒューマンで戦い続けるよ」といった受け答えをあちらこちらでしていた。


決定的なゲームで惜しくも敗れたプロゲーマー達は「ヒューマンを強化して欲しい」「今のバランスは悪い」と言い続けてきたし、我々プロゲームファンだって、「その通りだ」と思っていた。


開発元のブリザードエンタテイメントが最新のパッチでヒューマンを弱体化された時には「ブリザードはWC3を3種族のゲームにしたいのか」と酷い罵りを受けた程である。


ところが、WE.skyは想像を絶する事をやってのけた。


国際的にはまだ凡百無名のプロゲーマーだったWE.skyは、最弱種族ヒューマンを操り、世界中から集結した名だたる強豪達を尽く破り、巨大な大会の巨大なタイトルを立て続けに2つ取って見せた。


そしてWE.skyがそこで見せた平凡でありながら練り込まれたアグレッシブな戦術と、体力の低いヒューマンユニットをゲーム開始から終了まで繊細に扱い続けるその姿は人々に衝撃を与え、世界中でヒューマンに対する再評価が行われた。


結果、誰もが認めるゲーム内最弱種族であったヒューマンは今ではゲーム内最強種族と呼ばれるまでになった。長く最弱と呼ばれていた頃よりも、パッチによって弱体化しているにもかかわらず、である。




先日行われた国別対抗戦(中国vs韓国vsEU)StarWarsIIでは、直前のゲームで敗北を喫したInsomniaを下した上に、4K^Tod、4K^grubby、4K^grubbyと怒濤の4連勝を圧倒的な技量で生み出しスコアは6-5。中国に奇跡の逆転勝利をもたらした中国の英雄である。


(韓国-中国は6-0で韓国の勝利、韓国-EUは6-3で韓国の勝利。)




最弱とされていた種族が1人のプレイヤーによって最強と呼ばれるようになる、という異常な事態を生み出すだけのバランス調整を行ったブリザードエンタテイメント社の凄さにも、僕は敬意を表したい。




・誇張というより記憶違い。


GrubbyがZadに3-0で勝ったのってどの試合だっけ。
このイメージにぴったりだったのは
WCG04の決勝だと思うがアレはビハインドからの2-1だったしなあ。
あの時は誰しも調子の落としていたGrubbyが優勝するわけないと思っていたから、本当に驚かされた。
madfrog戦も、ハラスで当時最強だったUDプレイやを倒すなんて信じられんよな。
commented b

2006年1月24日火曜日

ホリエモンと僕の共通点と相違点



ホリエモンは引き篭もった。
僕も引き篭もった。


ホリエモンは傷つかない為に引き篭もった。
僕は傷つけない為に引き篭もった。










ホリエモンの引き篭もりが保身であるならば僕の引き篭もりは尽身。
即ち愛。


力への恐怖から引き篭もったホリエモンは力に屈した。
愛によって引き篭もった僕は一体何に屈するのか。








全ての愛は、いつか必ず覚める。
それに脅えるか、それに脅えぬか。


2006年1月23日月曜日

アダルトスパム代行業



2006年のブロガーにとっての最大の共通仮想敵、それがアダルトスパム業者。

そんなブロガー間の共通合意、共通認識を利用したサービスがこれ、アダルトスパム代行業。お客様のブログに毎日大量の、それも数百単位のアダルトスパムを送り付けるサービス。







「エントリーをUPする度に的を得たいやぁな指摘を延々送り付けてくるトラックバックストーカーがいる。反論しようにも向こうの方が正しいし弁が立つので反論できず泣き寝入り」そんなあなたに当社のアダルトスパム代行サービス。エントリーをUPした瞬間に100単位のアダルトスパムを送り付けるので、あなたの嫌いなトラックバックは一瞬にして目立たない位置に消え去ります。さらにオプションで、トラックバックがつく度に50のアダルトスパムをつける事も可能です。もちろん24時間対応!これで、もう、反論トラッックバックは怖くない。

「コメントを貰えるのは嬉しいのだけれど、レスをするのが疲れる・・・。けれども対応に疲れたのでコメント欄を閉鎖しますとか書くと、なんかメンヘラーっぽくてやだし、これまでコメントをしてくれていた人が肩身の狭い思いをしてしまうんじゃないか・・・」そんなあなたに当社のアダルトスパム代行サービス。過去に投稿した全てのエントリーのコメント欄に100単位のアダルトスパムコメントを付けて、「アダルトスパムが酷いの一端コメント欄を閉じます。」という決め台詞をあなたに提供します。これでもう、コメント欄があって当たり前のブログというフォーマットとも、おさらばだ!

「最近コメント欄やトラックバックで嫌がらせみたい絡み方をしてくる人が増えて、精神的に参ってしまった。俺は裸の王様でいたいのに。」そんなあなたに当社のアダルトスパム代行サービス。エロスパム、エロスパム、エロスパムの嵐をあなたにお見舞いし、「アダルトスパムが酷いのコメント欄/トラックバック共に受け付けを停止します」の決め台詞を貴方に。これでもう、君にたてつく人は少なくとも視界からは消え失せるぜ。行け、進め、ゴールデンロード。

「本名/ハンドルネームでGoogleしたら、ネガティブな評論を下したブログのエントリーがhitしまくって悲しい」そんなあなたに当社のアダルトスパム代行サービス。あなたと同姓同名の超人気ロリ巨乳AV女優をデビューさせ、Googleの検索結果を乗っ取ります。これでもう、恥ずかしい思いをしなくてすむ!





悪しきは正義の源なり。
迷える子羊ブロガーに、アダルトスパム代行サービス。
超特価1スパム270円、100スパムからご注文を受け付けています。

もちろん当社のサービスは全て手作り全て手動しかもMADE IN JAPAN。スクリプトだとかスクリプトといったような機械式とは品質も手間も違います。誰よりも暇で誰よりもやる事が無い真性引き篭もりhankakueisuuが丹誠込めて送り上げます。


オフ会代行業



ブロガーにはオフ会というものがあり、オフ会にはオフ会レポート所謂オフレポというものがある。そのオフレポにおいて「会ってみると全然違うくて超凄い!超かっこいい!超素敵!」みたいに書かれると、そのブロガーの格が一気にあがる。

よって、やれ不細工だ、やれ貧乳だ、やれファッションセンスが無くて恥ずかしい、などと悩んでいるブロガーの方々に成り変わり、本人を名乗ってオフ会に代理で出てあげるサービス。

これで憂い無し。
もうオフ会は怖くない。
イメージアップ間違いなし。

代行するのはもちろん私、人の目を見て喋れないどころか部屋から出るにも四苦八苦する塩をかけすぎた米を後悔しながら食べる男真性引き篭もりhankakueisuu。お値段は650円/secから。


ブロックブログの技術力は宇宙イチィィィイイイイイイイイイイ!!!!!




オンラインゲーム事業、オンラインコミュニティ事業を展開するガイアックスは1月20日、「CGMマイニングネットボイス」の販売を開始した。


~中略~


調査対象メディアは、FC2blog、楽天広場、goo blog、チャンネル北国.tv、Doblog、はてなダイアリー、ドリコムブログ、Seesaaブログ、livedoorブログ、jugem、ameba blog、ココログ、エキサイトブログ、BlockBlog、diarynote、ヤプログ、Cururu、msn spaceなどのブログ、2ちゃんねるの全スレッド、gree、mixi、キヌガサ、livedoorフレパ、2ch-SNSのSNS、del.icio.us、MM/Memo、LiVEMARK、はてなブックマーク、MyClip、webshotsなどのソーシャルブックマークとなっている。



涙。
苦節。
長い時。






わずか、15hit/dayでブロックブログ内アクセスランキング20位以内に入れたのも今は昔。わずか、50hit/dayでブロックブログ内アクセスランキング5位だった頃も思えば遙かに遠く。


今では1日2万PVでも、ランキング入りが不可能な程に超々超々人気ブログサービスとなったブロックブログは、あのdiarynoteとエキサイトブログに挟まれて並べられる位の名実共に超々超々有名ブログサービスとなったのである。


即ち、Blogを語りながらBlckBlogを語らぬ輩は今ではもぐりだ。





世の中には潜りが多すぎるので、社長がNITUITE文化圏を代表してブロックブログの技術力の高さについて、皆様方にご高閲してやるから有り難く聞いて頂けるとありがたい。








ブログサービスは、ユーザーの都合を無視して突然閉鎖しちゃったり、ライブドアー社に買収されちゃったり、過去ログが飛んじゃったりといったようなトラブルを方々で起こしている。そんな災難に見舞われた際にユーザーが起こせるアクションは無い。


即ち、事前の備えこそが重要なのである。
つまり、ログのエクスポート機能という奴である。


過去ログを保存する、というユーザーの需要に応える事こそが21世紀のブログ時代のブログサービスに要求される大きな課題なのである。その点において世界を代表するブログサービスであるブロックブログは無敵にして完璧である。







Q,ブロックブログにはバックアップを取る方法が用意されていますか?


A,従来よりアナウンスしておりました方法によりバックアップをお願いいたします。


1.記事ブロックの表示件数を増やす。(30件とか50件とか)
2.画面からテキストをエディタなどにコピーペーストしていただく。
3.表示件数を戻す



記事ブロックの表示件数を増やす!
テキストをエディタなどにコピーペースト!
表示件数を戻す!
YEY!



簡単!




記事ブロックの表示件数を増やす!
テキストをエディタなどにコピーペースト!
表示件数を戻す!
YEY!


便利!




記事ブロックの表示件数を増やす!
テキストをエディタなどにコピーペースト!
表示件数を戻す!
YEY!


たったの3ステップ!







ブロックブログの技術力はBLOCK BLOGイチィィィイイイイイイイイイイ!


2006年1月21日土曜日

生き長らえて。



引き金を引いただけで、包丁を突き立てただけで、軽く背中を押しただけで、コーヒーのリキュールに白い丸薬を1つぶ入れただけで、吹雪の夜に一晩戸締まりしただけで、たったそれだけの事なのになんでみんな死んでっちゃうんだ。

僕にはそんなつもりはなくて、みんなで仲良くやって行きたいのに、視線と視線が交わるだけで、指と指とが触れ合うだけで、ここにいるだけで、右斜め下に目を逸らし少し微笑んだだけで、僕は何もしていないのにどうしてみんな死んじゃうんだ。

ならばと全てを諦めてこちら側と向こう側を入れ替えた所で何一つ生き返りやしない。だから僕は無敵のままで屍の山を築き続ける。あまりにも僕は完璧であまりにもそして強すぎる。もっと弱くなって、か弱くなって、息も絶え絶え雪山の上の白い竜に守られて、何かの錯誤で踏みつぶされて、血の一滴も流れずに雪山はずっと雪山春など来ずに純白で。

だけど僕は強すぎるから一瞥で竜は死んで息も絶え絶え悶え苦しむ彼に慈悲もかけずにAltに指を置いたまま左クリックを連打して僅かばかりの甘くもないハッカのドロップ拾い集めて血だまりの中にすぐ捨ててクリスマスキャンペーン中だからexeは2倍、2倍で成長2倍の速度、バイバイゲームで死んでゆく。

脳が死ぬ、脳が死ぬ、死なないで脳、死なないで脳。
脳が死ぬ、脳が死ぬ、なのに僕は行き長らえて脳は死ぬ。
脳が死ぬ、脳が死ぬ、死ぬなら勝手に死ねばいいのに黙々それを記録して。

死ぬな生きるな生きるな死ぬな。
死んでゆくなんだって死んでゆくんだ、なのに死なない四肢だけ歩く。


2006年1月20日金曜日

日本の借金vsGmailの容量



時代はGOOGLEみたいな気分になりGoogleを色々見て回っていたのだけれど、Gmailのログイン画面をじっと眺めていると恐ろしい気分になってきた。




容量の残高がリアルタイムで動的に増えているのである。

なぜだ、なぜ増えるのだ。
Gmailのアカウント数はおそらく増え続けているものだと思う。とすると、単純に考えれば1人頭の容量は減り続けるはずである。ところがGmailは増える。しかも、毎秒増える。チックタック、チックタック、何故か増える。僕は素人であるからして、その仕組みなんてまったくわからない。わからないからこそ、増え続ける残り容量というものに底知れない恐ろしさを感じる。

じっとそれを眺めているとどうやら、毎秒毎秒、約0.000004MBずつ増えていっている。つまり、約0.004KBずつ?とするとそれは即ち、毎秒数文字、数文字分の勢いでGmailの容量は増え続けている。それは僕がブログを書くスピードよりも遙かに早い。僕が寝ている間も、あるいは新聞に目を落としながらミルクティーにトーストを浸している間も、娘の運動会でビデオカメラを回すために朝早くからビニールシートの上に陣取っている間も、手袋を、傘を、腕時計を、財布を、布団を、毛布を買いそろえている間も、あらゆる時間、休まずにGmailの残り容量は増え続けている。

理解は出来ない。
よくわからないがGoogleは怖い。あれはおそろしいものだ。常識的に言えば万物は減り続けるはずだ。神童と呼ばれた学童の才も、必死に口説いた妻への愛も、後に呉になる空白国も、刻一刻と減り続ける。なのに、なのにGmailの残り容量は増え続けている。

この言葉には出来ない奇妙な気持ち悪さをどこかで感じた事がある、と頭の中をまさぐって思い出したのが借金時計である。「あなたの家庭」とか言われても僕には家庭なんて無い。一生無い。死ぬまでない。そんなもの絶対にありえない。気分が優れない。

減り続けるのが当たり前なのに増え続けているGmailは、一体何に等しいのかと考えていると、ああそれは宇宙に等しいのだという結論に達し、よってGOOGLEは宇宙に等しく、日本の財政も宇宙に等しい。

そして即ち真性引き篭もりは宇宙に反して減り続けている。
これは即ち宇宙の摂理への反乱なのだ。


トラックバックを行わないという意味合い。



真鍋かをりについてウェブ上で文章を書いた人間の多くは、真鍋かをりがその文章を読むという事を想定せずに書いている。そして、読者もそれを理解している。

ところが、これが真鍋かをりではなく、普通のインターネッターについてウェブ上で文章を書いた人間の多くは、当人がその文章を読むという事を織り込んでそれを書いている。




当人が読むことを前提とした文章と、当人が読むことを前提としない文章は、どちらが良い悪いではなく、まったく別の文章になると思う。

そして、ブログ時代のインターネットでは後者、即ち当人が読むことを前提としない文章というものが死に絶えてしまっているように見える。

今では他者への言及は全て馴れ合いでり、距離感のある平凡な文章というものが成り立たなくなっている。馴れ合い以外に敵害行為、というものもあるではないかという反論は聞くに値しない。なぜならば現代のインターネットにおける敵害行為のそのほとんどは馴れ合いだからだ。

例えばはてななどでは、idを書くだけであるいはURLを書くだけで「当人が読む」という状況になるように設計されており、その思想、即ち「言及は当然にして当人が読む事を前提として書かれる」という思想にどっぷりと浸かった人々で満ちあふれている。




即ち「トラックバックをする理由」というものが語られそれに関する理解が知識として蓄えられているのならば同時に「トラックバックをしない理由」というものについても語られるべきなのではないか。

無論の事その第一には「トラックバックは手間が掛かって面倒だ」というものが来るのだろうし、来るのだと思う。あるいは「トラックバックしてまで読ませる程の文章ではない」といったものもあるのかもしれない。

しかしながら僕は手間が掛かって面倒な事をするに十分な時間を有しているし、トラックバックしてまで読ませる程の文章ではないなどという自己基準における判別も行っていない。そもそも全宇宙を探して回っても読むに値するブログなど存在しないのである。




即ち、僕は自らがエントリーを書くに辺り、リンクを貼るか言及するか固有名詞を用いるか、あるいはそうでないかという事を一定の指針と直感に基づき判断しており、それと同じように「トラックバックをするか/トラックバックをしないか」という点についても、一定の指針を持っている。

それは前述の通り、当人が読むことを前提としていない文章についてはトラックバックを打たない。対して当人が読む事を前提としている文章についてはトラックバックを打つようにしている。


2006年1月19日木曜日

コンタクトレンズ



飛行船からウェブサイトまでありとあらゆるものが広告を載せる為のスペースと化す中で、次の次の次の次の次くらいに広告を載せるに適した場所はどこだろうと考えているとそれは正しく眼球だろう、という話になった。眼球の上に乗せるもの、即ちコンタクトレンズに広告を、それも動的に書き入れられたならば、瞳に映る世界は随分と華やいで素晴らしいものとなることだろう。色褪せたボンカレーの立て看板を艶やかな輝く七色の消費者金融の電子広告に塗り替えて。

もう現実なんて必要ない。
片目を瞑り続ける技量と1枚のコンタクトレンズさえあれば。


二歩



フロムソフトウェアとローグライクというキーワードに挑戦状を叩き付けられたのでこれは逃げるわけにはいかぬだろうと義務的に立ち会ったら、たったの2歩で僕の一日が全て失われてしまうかのような感覚を抱くに至り、これは何かが間違っているとオプション設定を見直していざ、と歩き出してみたものの、4歩で全てが失われた。こうして僕の一日は消えてゆく。


頭のおかしなコメンテーターに居座られたブログの管理人はどうするべきか。



こういうのって次から次へと湧いてくるな。


2006年1月18日水曜日

嫌韓国と嫌コーラ



コカコーラ社は悪い事をやっている、だからコカコーラ製品は買わないという嫌コーラと、嫌コーラには意味が無い、と主張する両者のやり取りは内容ではなくその事自体が非常に面白く、また同時に滑稽なものであった。

それが本当に滑稽なものであったかどうかは別として、少なくとも僕はそれから底しれぬ滑稽さというものを感じた。より正確に言うならば荒唐無稽さと書いた方がいいかもしれない。

その第一の理由は、彼ら、即ち嫌コーラ派の30代の女性会社員と嫌コーラ否定派のfinalventは共に「ブログに書くという事は世界を変えるという事である」と、どこかしらで信じており、それを議論の前提条件として織り込んでいるという点にある。

始まりの嫌コーラ主張をブログに書くという行為を30代女性会社員は、放言書き捨て言いっぱなしといったカテゴリーのものではなく、アクション即ち行動というカテゴリーとして扱っており、「実際にコカコーラ社製品を買わない」という行動ではなく、「実際にコカコーラ社製品を買わないという私律をブログにて発信する」という行動を取っている自分は、何もしない人達よりは少なくとも幾分かはマシである、としているのである。彼の定義では言説、それもブログのエントリーに書く、という事こそが「アクション」であるとされているのである。

対してfinalventの主張は嫌コーラ自体が間違った行動であり、と王道の批判を行いながらも30代女性会社員に対する決定的な優位性を示すために彼が提示したのがダルフール虐殺である。

そして言うまでもなくfinalventはダルフール問題についての事柄をブログのエントリーに書く、という事を「アクション」として分類し、それを「アクション」であるとして行っている。

それは本当にアクションなのだろうか、それは本当に行動なのだろうか、というネットとリアルという極めてオールドタイプな対立軸から両者を見た時に、彼らは同じ側、それも少数派の側に立っており、その極めて少数の側の人間同士が言い争っている、という点において僕はこれを奇妙だと思い、同時に滑稽であるとも感じたのである。




finalventが単純な純粋嫌コーラ批判を諦めて、その末尾に「世の中にはもっと悪い奴がいて、もっと悪い事が起こっているんですよ」という極めて単調な説教を付け加えた事により、絶対評価絶対批判としての純粋嫌コーラ批判は死んだ。

なぜならば「世の中にはもっと悪い奴がいる」だとか「世界のどこかではもっと悪い事が起こっている」なんて事は、もうみんな、誰だって知っている事だからだ。そして彼がその主張を行うに300万の人命と人権、というものを持ち出したとき、この2人の論争は事実と興味、真の行動を巡る極めて一次元的な単純論争というフィールドから、それは相対評価相対批判という、単純な不幸自慢というフィールドへ落とし込まれたのである。

そのフィールドにおいては、より不幸な事件を知っている方が勝つし、より凄惨な事件に興味を持っている方が勝つ。少なくとも傍観者はそう判断する。即ちfinalventは話の通じない30代の女性会社員という人間の相手をする事に疲れて勝ちを急いだのである。僕はいわゆるblogとしてそれを書くことが無価値であるとは思えないけれど、たかだか1人の人間との諍いに勝利する為だけにそれを持ち出すという愚かさに全てが塗りつぶされてしまったのである。

そして即ちそれは「環境と人権」という嫌コーラ派と「人権と人命」という嫌コーラ否定派との争いであり、ほとんどまったく同じ命題を信仰する者同士の言い争いであり、しかもそれとの闘争手段の第一がブログにエントリーをあげるという、世の中からは乖離した少数派同士の非常にメルヘンチックな絶対是ウォーという様相を呈してしまったのである。




どうして、人権、人命という正しいはずの絶対是を叫ぶ両者の争いがリアリティを欠いたネットバトルの範疇を出られず、一般の多くの人々にはまったく伝わらない滑稽などうでもいい闘いにしか映らないのか、という点について僕は1つの結論を得ている。

それは、一般の日本人は「人間であるだけで尊重された経験」も持たなければ、「生きているだけで尊重された経験」も持たないからである。そのような人権、人命の尊さというものは教育として上から押し付けられるものであり、現代人にとって人権、人命というその絶対是は学習こそしてはいるものの、体験としては存在しないのだ。そしてさらに言えば、それを教える側とてそのほとんどは学習であり、体験としては存在しない世代であると言えると僕は思う。故にそれらにはまったくのリアリティが無い。

我々は現代の社会において、他人を敵味方という単純な構図に置き換えて識別し、自分に都合の良い奴は味方、自分に都合の悪い奴は敵という区分を行って生きている。味方からは尊重されるが、それは「人間であるから」でも「生きているから」でもなく、ただ「味方だから」という理由である。同時に敵からは「人間であるから」でも「生きているから」でもなく、ただ「敵だから」という理由だけにおいて有形無形の敵対行為を受ける。栄花の果てに人権や人命が完全に死に絶えてしまった今現在の日本では、時として敵味方の境界線はとろけてしまい、「気分が優れない時は敵」「気分がいい時は敵」といった具合にあらゆる命題客観視とはかけ離れた場所で他者との関係を消費している。




世界は広すぎて100億人は多すぎる。過剰な情報を右から左へ処理する中で、人は人、私は私と傍観者化する大衆に埋もれて絶対是という絶対是は、質感温度は伝わらないのに情報だけは行き渡ってしまったこの高度電脳化社会において完全に、死に絶えたのである。いや、死に絶えてしまったのである。

現代の多くの日本人の一般大衆は体験、経験としての「人権」も「人命」も所持していない。彼らは「人間であるだけで尊重された経験」も、「生きているだけで尊重された体験」もまったく持って所持していないのだ。それどころかそれらは往々にして踏みにじられる。

そんな彼らにもリアリティを体験、経験というものが存在している。それは、肉親からの愛である。多くの日本人の両親はその多少こそ違いはあれ、愛情というものを子に向けて注ぐ。それを受け取って育った日本人の人民は「親からの愛」あるいは「肉親への愛」というものにはリアリティを感じる。

だから彼らは肉親が殺されれば怒りを抱くし、肉親の人間的生活が踏みにじられれば怒りを抱く。けれども、どこの誰とも知らないような、何を喰ってるかもわからねえようなアフリカ人や、パソコンも叩いた事が無いような後進国の人間が殺されたり、その人権が踏みにじられたとてそれは対岸の火事であり、それを真に問題として受け止められるだけのリアリティは届かないのである。

そもそも「人権」「人命」という概念自体が元を辿れば肉親が殺される事への怒り、肉親あるいはそれに準ずる人々の人間的生活が踏みにじられた事への怒りから生み出されたものなのではなかろうか。そしてそれは形式化されて口伝筆伝による伝達が繰り返される中で湿度温感といったリアリティを失ってしまったのだと思う。

つまり、finalventと30代の女性会社員はなんらかの理由で、心理的親族の拡大、という行為を行っており、アフリカ人が殺された事をまるで肉親が殺された事であるかのように焦燥し、後進国の人間が非人間的労働を強いられている事をまるで肉親がそのような扱いを受けているかのように受け止めているのである。つまりこの両者は共にに異端であり、「問題意識があるかないか」という次元ではなく、まったく別の次元において普通ではないのである。

多くの日本人がそれら「遠い世界の出来事」を身近な問題として受け止り消費する事が出来るケースは、それを「遠い世界の出来事」そのものとして受け止める事ではなく、「これはどこでも起こりうる事である」と、身近な出来事の暗喩として消費するケースのみだろう。実際に、そのような遠い世界の出来事を持ち出して身近な問題を語ったり、逆に身近な問題を遠い世界の出来事とリンクさせて語る、という事は往々にして行われている。

即ちそれらのリンクさせて語る、暗喩として受け止めさせる、という手法は通用する部分はあるのだろうと思うが、そのまま伝える、という形では対岸の火事情報として右から左へ通って終わり、という事になってしまうのだろうと思う。それは無関心が原因ではなく情報過多と反比例する世界の広さ、そして「下を見ればきりがない」という極めて単純かつ健全なメンタリティから来るものだと思う。




嫌コーラと嫌コーラ批判の掲げていたものは共に死に絶えた絶対是だった。だから両者には浸透力が無かった。なにしろ人々はより不幸な人がどこかにいる、という事は情報として知っているし、より悪く、悪い事で旨い汁を吸っている奴らが世界のどこかに存在している、という事も情報としては知っているし、世の中のあらゆる絶対是とそれを主張する人々だって、悪い側面を持っている、という事を知ってしまっているからだ。

情報が足りない時代に存在していた世界の果ての未開の地図のユートピープルは消え去り残ったもの、世の中には悪くない奴なんていない、という真実による絶対是の死である。

その現代において多くの人々に共通して機能するものがある。
それは、愛しい人を踏みにじられる事への怒りである。




日本人の多くが体験として持つ肉親からの愛、肉親への愛というものを踏みにじるものが登場すれば、それに対する怒りは誰もがリアリティを持つものとして抱くことが出来、それ故にそれは広まる。だから、嫌韓国は受け入れられたのだ。

ダルフールやコカコーラにおいて危ぶまれているのは日本人ではない。対して嫌韓、嫌中というものの被害者は日本人である。そして彼らが主張するに辺り語尾を強めるのは「あなたが危害を加えられるのではない、あなたの家族が危険に晒されるのだ」という恐怖による支配という構造である。

日本人が唯一ぎりぎりの共通絶対是として抱けている「親からの愛」「肉親」というものに対して危害を加えるものがそこにいる、それに対する怒りは抱くが当然であろう、という普遍性が嫌韓、嫌中というものに底の無い説得力を与え、それがインターネットに根付いているのである。




僕は嫌韓のバックボーンとして存在しているものは国への愛ではなく、それら体験や経験に基づいた肉親への愛であると考えている。嫌韓、嫌中には肉親への愛を利用する仕組みというのが組み込まれているのである。「確かにあなたに被害は今のところ及んではいないけれど」もしもあなたの肉親が中国人留学生に殺されたら「実際にそういう事は起こっているのです」もしもあなたの肉親が在日韓国人にレイプされたら「実際にそういう事は起こっているのです」もしも中国の毒菜があなたの子供の口に入ったら「実際にそういう事は起こっているのです」

それらは、そう主張される。
けれども多くの人民にとって肉親が殺されるなんてイベントは存在しないし、肉親がレイプされるというイベントも存在しない。それらは確率的な距離から言えばダルフール虐殺と同じくらい、あるいはそれ以上に遠い対岸の話なのである。

けれども、嫌コーラやダルフールと決定的に違うのは、感情移入が可能であるかどうかという点である。つまり嫌韓の軸には極めて単純な怒りと悲しみのドラマを求める人々がいて、昔の人々が赤穂浪士や白虎隊、太閤さんにそれを見出したのと同じように、怒りと悲しみのドラマに感情移入した、韓国ドラマやワイドショーにも劣るような探偵ファイルや2ちゃんねる系ブログといった俗悪なメディアを楽しみ消費するインターネット人民がそれら嫌韓/嫌中という非日常イベントの怒り捌け口へと殺到しているのである。

これは極論であり、極論であるとも自覚しているのだけれど、たとえば単純嫌中の人間が肉親を中国人に殺されたならば、その人は単純嫌中的な感情を放棄せざるを得ない状況に追い込まれるのではないか、と僕は考えている。嫌韓、嫌中はあくまでもリアリティを感じられるリアルではない都合のいい娯楽ドラマであり、それがリアルになったときにその 勧善懲悪さは死んでしまうだろう。




同じような事、即ち距離と感情移入という現象JRの列車事故でも現れていたように思う。マンションってのはアルファブロガーでも簡単に買える代物では無いらしく、「マンションを購入して家族で暮らしている」というのは多くのインターネッターにとってリアリティが無い話だ。故に彼らマンションの住人は心情的にまったく持って保護されなかったし、憂慮されなかった。

対して自分ではなく「肉親が列車に乗る」というシュチュエーションは多くの日本人にとって避けがたく、自分ではなく「もしも肉親があの列車に乗っていたら」という想定の下で、列車事故の被害者に対する感情は、絶対是とまでは言わないまでも1つの趨勢を見た。

子細はさておき、少なくともその背後には我が身かわいさのさらに上を行く、我が肉親の可愛さ、というものが日本人の感情というものに強く覆い被さっているように思える。それが情報過多の末に辿り着いてしまった叩いて埃のでない人はいない全人類悪悪人時代における最後のリアリティだからだ。絶対是は死に絶えた。幻想は死んだのだ。




結局の所、人々は刺激を求めている。
多くの人々の人生は平凡でイベントも無く、退屈である。

即ち肉親が殺されて竹槍を手に復讐へと立ち上がる、などというシュチエーションはもはや無い。もちろんの事、平凡な一般市民の一生には、その手で正義という絶対是を行使する機会など訪れない。そして、それら平凡な人生に特別なイベントを求める感情が単純嫌韓、単純嫌中という憎しみの行使機会を完成させ、それら低レベルのイベントでは満ち足りないだけの人生を送った人生強者、情報強者、知的強者はさらに荒唐無稽なステップ、即ちコカコーラという仮想敵、先進国という仮想敵をそれぞれで完成させ、それらに対する正義を行動ではなく、ブログにおける言論、というアクションをもって1つのイベントとして完結させているのである。








結局の所僕が言いたいのは何が言いたいかというと、彼らには行動が無い。その点において嫌韓もダルフールも嫌コーラも全部同じである。どいつもこいつも口だけである。まったくもってくだらない。だから僕は彼らとは違いこの身この身体この魂、この行動を持ってそれら世界中の悪という悪憂いという憂いをこてんぱんに叩きのめして世界を改革するのである。

即ち、手始めに世界中の不幸という不幸、人権侵害という人権侵害、人命という人命が踏みにじられるを無くさせる為に全人類を滅亡へと導き、さらにはコカコーラ社のスーパー社長になってコカコーラ社を世界中に愛を満たすだけのスーパー善良企業へと変革さしめ、さらには韓国の人民という人民を完膚無きまでに再教育し、もちろん使う言語は世界中の言語の中で最も繊細にして美しい言語である日本語を用い、なんか道路とかもいっぱい敷いて近代化を推し進めて世界中を世界で一番素晴らしい日本にしてしまうのである、もうすぐ、今にも。


2006年1月14日土曜日

生きている心地がしない。



不思議な音を立てながら、内蔵がまとまった数消えてゆく。
膵臓と小腸、左の肺と腎臓、膀胱と左心房。




そこにどのような規則性があるのかは僕には理解が出来ない。仮にこれが落ちゲーの流れを汲むものであったならば、きっと売れないだろうと思う。けれどもこれはゲームではない。

白血球と赤血球。
血小板と結晶体。
何もかもが消えてゆく。

心と体。
嘘と誠。
僕と僕ではない誰か。
ピヨヨワン、ピヨヨワンと鳴る度に失われてゆく。

もはや僕には、何もない。
何もないすら、もはや無い。
締めの言葉も、出てきやしない。

どうやったら僕はブログを書ける。
どうやったら僕は文章を書ける。
もっと、もっと昔のように。

憤怒の結晶。
憎悪の結晶。
孤独の結晶。
DOTA allstarsの結晶。
からっぽの僕を埋め尽くしていたもの。




HOW TO、ハウトゥー、何なのだ。


2006年1月13日金曜日

たかがトラックバックが通らなかったくらいで何も調べもせずに人様を言論弾圧者のように罵る奴が世の中にはいる。



昨日今日ですっぽり忘れられるってそれ何脳?


だから僕は嘘をつく。




昨日のニュースで「人づきあいがうまくいかなくて」とか言ってた登校拒否の高校生を見たときは「じゃあ、行かなきゃいいじゃん。っていうか、あんたの父親は嫌なこと我慢して働いてるんだから、甘えるな」と思ってしまった。私の感覚はもう若者よりおじさんの方に近くなっているのだろう。



例えば僕はコカコーラについて書こうとしているのだけれど、数ヶ月前に書こうとしたものの、途中で思考が失敗してしまって酷く混乱コンフューズし、そのまま放置しっぱなしのこれが先だろう、という自分の中でのけじめのような物が暴れ出しはや数日。どうせこの辺りは少なくとも現段階では決してまとまらないのだから、まとめる気など起こさずに、今書ける範囲の内側だけを書こうと思うに至る。






この文章の最も大きな愚かさは、子持ちの父親と高校生を比較して、高校生の方を甘えるな、という表現で罵倒しているという点にある。父親と高校生、という二者は比較できるような関係には無い。前者はセックスをして中出しをして子供を作った。対して後者はそのような事柄を行っていない。


つまり、その父親が「嫌なことを我慢して働いている」のは、彼が得た既得物に対するコストを支払っているにすぎない。セックスの対価、中出しの対価、家族を持つ対価、自身の不完全クローンを持つ対価、自身が権力者として振る舞える児童を得る対価。


父親は少なくとも中出しセックスという甘い汁を吸い、幾多の既得物を得たのであるから、そのコストを支払うのは当然の事である。それらを手に入れるだけ手に入れて、コストを支払わない、という選択を行ったならばその父親、所謂義務を放棄した駄目親父、という人間は世間から強く非難される事だろう。即ち高校生には「行きたくないならば行かなければいい、ただし自己責任で」という論が通じるのに対して、父親には「行きたくないならば中出しするな結婚するな」という時間を遡った説教が可能である。即ち片方は行かなくても構わないのに対して、片方は行って当然なのである。この両者を並べているという時点で、片方を弁護し片方を晒すというねじ曲がった意図によって生成された文章であると言える。


即ち、男性にとって、あるいは女性にとってもセックスというのは最も安価な娯楽であると同時に、庶民に手が届く範囲では最も高価な娯楽でもある。





父親と高校生、という二者を論じるに辺り最も僕が不安を感じ、投稿ボタンまでの道すがらを遮っていた考えは、「子は親を選べない、けれども親も子を選べないではないか」という仮の反論である。


確かに、子は親を選べない。
けれども同時に親も子を選べぬのである。


こんなものはいらない、というレベルの子供が出来上がる事もあるし、おまえがいなければ、といったレベルの子供が生まれてくる事もある。同時に子の側にとってもトラウマの第一要因は親であるという話が象徴するように、この親さえいなければ、この親でなければ、というのは多いにある所だろうと思う。


その場合にどちらを悪者として扱うかについてだけれど、やはり僕は親の側を悪者とするべきなのではないかと思う。少なくとも親は子供を教育し育てる事が出来るのに対して、子は親を教育する事も出来なければ、育てる事も出来ない。また、子供は少なくともセックスも中出しもしていないのである。





ただし、ここから先が僕を混乱させた事柄である。


親は子の為に働く。
対して子は親の為に何もしない。


この断絶とも言える格差をどう受け止めればいいのかが理解出来なかったし、今も理解出来ていない。子は親の為に本当に何もしないか、という点については多少の違和感がある。例えば「君の笑顔を見るだけで」といった甘ったるい言葉に象徴されるように、まっとうな親にとっては子の存在だけでその他尽くの物事よりも大きな存在となるのだと思う。
それでも、それでも子は親の為に何もしていないのではないか、という疑念が消えない。





もしも仮に子は親の為に何もしないというのを真であるとすれば、親はその親から借り受けた「一方的な奉公」という功徳を、20年あるいは30年の後に放出しているだけである、という考え方が出来る。出来る、というかその考えに捕らわれてしまって僕は酷く困惑した。


仮にそうであるとしたら、親から子への愛というものを、世代間の一時預かりであるとすれば、中出しセックス即ち子作りを行わない事こそが一方的な享受、甘い汁の総取り、義務の未遂行であり、悪なのではないのか。


そして、その悪に最も近い「ひきこもり~NEET~フリーター」というラインこそが世の中における最も悪しき階層であり、上の一文における「人づきあいがうまくいかなくて」と言って登校拒否をする高校生こそが、実は本物の無責任なのではないか。


そのような事柄を少子化などともリンクさせてああでもない、こうでもないと考えていると、本当にわけがわからなくなった。





当初抱いていた投稿ボタンまで辿り着こうと考えるに至った「中出しをして既得物を得たのだからそれに伴うものを納めるのは当然であり、対してそのような既得物を一切得ていない高校生は自由であって当然である」という、得ている人vs得ていない人、という構図が完全に崩れ、「得たものを放出した人vs得たものを放出する意思が無い人」という構図になってしまった。それは正しく、自分の中にあった善悪の構図が逆転と言ってもよい事柄であり、即ち僕は混乱したのである。





あらゆる物事は単純ではなく、どちらが悪いかなど言えるものではないという事を理解していながらも、僕は単純であるからしてどちらが悪いと言い放たずには居られない性質である。だから少なくとも現段階の結論としては以前に書いた結論を踏襲し、その父親には所属するグループ即ち守るべきもの納めるべき義務があるのに対して、高校生にはそれらが無い。即ち悪いのは全部














「世の中には悪い奴なんていないよ」ってのは嘘だ。
「世の中には悪くない奴なんていないよ」ってのが真実だ。





だから僕は嘘をつく。
世の中には悪い奴なんていない。
僕らはもう少しだけ言葉を交わせばなんだって、全て分かり合えるんだ。


2006年1月11日水曜日

そして伝説ではない。



伝説になるのは簡単だ。
適当に選んだ20人の敵のそれぞれ顎を、完璧な左フックのラッキーパンチで打ち抜いて、こう言い放ってやればよい。「戦う相手がいなくなった」って。




たった20の並ぶK、たった20の振り抜かれた左足、たった20の果てた末のスパート、それすら誰も覚えていちゃあくれない。たった20の涙ぐむ笑顔、たった20の愛を伴う嘘。伝説になるということ。記憶の彼方へ駆け抜ける。




伝説になるのは簡単だ。
適当に選んだ20の題材のそれぞれ顎を、完璧な左フックのエントリーにこしらえて、こう言い放ってやればよい。「書くべき事がなくなった」って。




インターネットの世界では、何もかもが生きていて、否応無しに蠢いている。次から次へと訪れて、にもかかわらず、誰も戦おうとはしない。横たわるのは馴れ合いで、みんな友達くだらない世界。白黒付かずに時間だけが進む。そこから何かを抜き取って、みんな満足してしまうのだ。




伝説になるのは簡単だ。
適当に選んだ20の巨大な隕石を、完璧な左フックでオメテして、こう言い放ってやればよい。「憎むべき相手がいなくなった」って。




インターネットは止まらないから、区切ろうとする人はいても区切りはないから、そして何一つなくならないから、だからここでは何もかもが伝説にはなれない。待つ物は忘却、止め処なく訪れるあらたな萌芽。何も消えずにずっとある。伝説に、なりたい奴はただ消える。




僕は伝説にはなれない殴り倒せる相手がいない。宇宙全土は見渡す限り、役に立たない能無しの味方で埋め尽くされている。今じゃあ、神も仏も田中も閻魔も僕の背中を押している。我が敵は我のみ。滅びる日まで。




完璧さとはかけ離れた言葉を連ねて、そうして僕は歩き続ける。だって誠に残念なことに僕は未だに生きていて、僕はブロガー。臨終までの孤城落日その全てを書ききるのがブログってもんだろう。




完璧さなんてまっぴらごめんだ。
伝説なんて安いもんだ。


2006年1月9日月曜日

言葉が軽い。



この憎悪を超えた純然たる無気力さに僕はどう立ち向かえばいいのだろう。それよりも、果たして立ち向かう必要があるのだろうか。もしも本当に言葉が軽いとすれば何が重いのだろう。足の親指に一本だけ生えた毛を爪で絡め取って引き抜いてみても痛みはまるで他人事。僕の輝ける人形は全て、間違った選択の代償として穴蔵の底へ落ち消えた。今では僕は野々村真の愚かさを笑う事すら出来ない。そしてもはや、誰も凡庸化してしまった僕の愚かさを笑ってはくれない。僕は輝きすぎている。再起動は2~3日後。ナチュラルに。ナチュラルに金メッキ。金無垢の失墜。


2006年1月8日日曜日

あらがえなさ。



少しばかりに華やいだ、飲まず食わずが明けたとき、人の気配のない台所を冷蔵庫の扉に手を掛ける勇敢すら持たずに少し歩いて立ち止まり、水をこれでもかとたらふく飲んで、飲み込んだばかりのそれが四散し皮膚の裏側に染み渡り、少しずつ、少しずつ冷たさを失ってゆくのを直立したまま静かに感じていると、衰えた足腰がだらしなさを口にするよりも前に僕は手洗いへと歩き出す。

冷たさを無くした水は僕の身体で薄汚れ、今では不要なものとして異臭を放つ機会すら与えられずに消えてゆく。現在位置を指し示すカーソルが点滅する度に、僕の愚かさが真性引き篭もりhankakueisuuに変換されてゆく。

それらが全て流れ出た後の、僕の死に土色の手の中には、美しさと可憐さと、凛々しさと律義さと、正しさと純潔、そして変換できなかった本物の愚かさだけが残る。

駆け出せばいいのだろうか、駆け出せば僕はまた再び走れるのだろうか。もう何も見たくない。僕を罵る声と、僕を毛嫌いする声と、僕を馬鹿にする声と、少しの暴力、幾らかの暴力。全てに蹂躙されたい。そうすれば、そうすれば僕は僕の人生に対する責任をそれら僕に危害を加えた人間というものの存在、敵意、害意、またそれらが向けられるに値する己の醜さ、不完全さ、意地汚くも屈強な信念の拒絶、あるいは憎悪正確には殺意。そういうものに転嫁出来るのに。上手に生きて行けるのに。

おまえは不要だ用済みだ。そう囁く声に抵抗する手段は山のようにあった。僕に向かい不要だと罵る奴らへの復讐として懸命に生きること。あるいはそれに賛同し、懸命に生きることを放棄すること。ゲームのことだけを考えていればよかった。他の一切を人生というテーブルから床下へと放り投げて。

対して、対しておまえが必要だと言う声にはどのようにあらがえばいい。蓼食う虫も好き好き、僕が全宇宙で最も不要であると思う物を欲しがる人間がこの世の中には存在していて、僕が何よりも欲しているものを否定する。くだらないもの、そんなもの、ここにはゲームがありません。

武人は武によって死に、謀略家は謀略によって死ぬ。モラリストはモラルによって死に、常識人は常識によって死ぬ。言うまでもなく、真性引き篭もりは真性引き篭もりである事によって死に、僕は真性引き篭もりであったが故に死に、真性引き篭もりは僕であったが故に死んだのだ。

そして僕は残念ながら人間。人間は人によって死ぬのか。僕の敵は僕自身であり、僕が向き合うべきは僕そのものであったはずなのに、そうであったはずなのに、真性引き篭もりhankakueisuuがサンクチュアリを破壊し、僕の甘さがその奔放さを殺した。

どうしてインターネットには人間がいっぱいいて、どうして僕は部屋で1人震え続けているのだ。薄汚れたキーボード、こびり付いた手垢、壊れたマウス。温もりの伝わらない世界。果てしなく遠い距離。真性引き篭もりhankakueisuuへの嫉妬。真性引き篭もりhankakueisuuへの殺意。僕にはもはや彼を殺す力はない。それどころか事もあろうかそんなものに生かされている。HOW FUCKING LUCK CAN U GET。全人類を滅亡へと導く。それが僕の役割。


2006年1月7日土曜日

MSN Messenger メンバーリストSPAM



MSN Messenger メンバーリストSPAMらしきものに捕まった。

突然何者かからMSN Messengerのメンバーリストに追加され、下の「プロフィールの表示」をクリックするとこんなプロフィールに飛ばされる。住所はガンビア。座右の銘はhitler omistaa。プロフィール欄のホームページへ飛ぶと、なにやらリンク集らしきものがある。今日はそのリンク先の確認と調査と分析を丸一日かけてやっていたので、ブログの更新ができませんでした新鮮なSPAM。


2006年1月6日金曜日

徐福



待っている。
僕は待っている。
ただじっと待っている。








待つことの辛さというものについては待てど暮らせどそれが訪れなかった人々が散々に語り尽くしている。その最たるは待てど暮らせど死が訪れず、この平成の世になっても未だ、死を恐れ続けては不老不死の秘薬を求めて彷徨い歩き続けている徐福だ。彼の気持ちを想像する度に僕は気分が重くなる。彼が求めているのは不老不死なのに、彼はそれを求め続ける限りは不老不死から逃れられぬのだ。求めるものはそこにあって、既に手にしていて、にも関わらず、それは決して手に入らないのだ。

不老不死の秘薬は事もあろうに徐福の心臓、その肉、その血、徐福オブハート、不老不死。だから徐福は不老不死で、未だにその在処を探し続けている。ああ、徐福、君は何故彷徨う。なぜ求める。なぜ恐れる。君はもう既に徐福なのに。徐福なのに。

僕は待ち続けていて、徐福を待ち続けていて、徐福が何かの妄想に取り憑かれては僕の心臓こそが不老不死の秘薬であると思いこみ、この身、この体、この魂を、この心臓諸共一呑みにしてしまわん事を願い続けていて、そうすれば僕は徐福の血として肉として不老不死を手にする事が出来るのに、出来るのに徐福は来ない、徐福来ず。








待っていて、僕は待っていて、待ち続けていて、徐福は既に死んでいる。


2006年1月4日水曜日

ブロガーへの救いの手。



おそらく世の中には投稿内容を考えあぐねて、「今日のエントリーは何を書こう」などと夕飯の献立に頭を悩ませる主婦のように、曖昧な苦悩を抱えて悶々としているブロガーが大勢いる。

そんな彷徨う子羊の如きブロガー達に差し伸べられる救いの手が、トラックバックスパムだ。即ち、世の中にスパムが来るや否や喜々としてそれを書くブロガーが大勢いるのは、ちょうど夕飯のカレーライスのようなもの。絶対悪について語る機会を与えられた事が嬉しくて嬉しくてたまらないのだろう。

悲しくて悲しくてたまらない。


2006年1月3日火曜日

どうでもいいエントリー



くだらないエントリー、即ち無価値なエントリーはいくらでも書ける。いくらでも書けると言ってもあらかた難産自分の抱える無能さとの闘争。

対して、どうでもいいエントリー、即ちたあいないエントリーというのがなかなか書けない。書こうとすれば書こうとするほど投稿ボタンが遠のいてゆく。



インターネットには前者のエントリーを得意としているブロガーと、後者のエントリーを得意としているブロガーがいる。無論、前者しか書けない人や後者しか書けない人もいる。どちらが良くてどちらが悪いという意味ではなく、二通り存在しているのである。それを求める人からすれば、どちらとも優れたコンテンツだ。求めない人からすればどちらともくだらない。

前者はブログというものが好きなのに対して、後者はただ自分が好きなのだ。前者はブロガーである自分が好きなのに対して、後者は自分自身が好きなのだ。



ならばくだらないエントリーは辛うじて書けるのにどうでもいいエントリーが書けない僕はブログの事が辛うじて好きで自分の事は好きではないのかというとそうではなくて、ただ単純になにもかもうまくやれぬくらいに無能なだけ。無能さに責任を求めるという無能さ。


2006年1月2日月曜日

正月



隙間から漏れる晴れやかな声に電気を付けるのも憚られる中でモニタの明かりを頼りに手相を見ている霜焼けの気配。無造作に胃の中に放り込まれた解凍しただけの食パンが「ここは暖かくていい」と居座り続ける。テレビも無い。ラジオも無い。ブログは書けども書き上がらない。いったい僕は銀座でべこでも飼えば少しは救われるのか。暖かさは欲しくなくて、それでも孤独に飽きていて、まだゲームがあった頃の事をやんわりと食んでいる隔世の感。まるで自分が違う人間の人生を生きているかのように思えるのだが、一度で二度おいしいとまでは思えない浅さ。プロコトルがない。僕はもうなにも感じられないし、何も受け取れない。もはや憎悪さえ消えて純然たる殺意。朗らかに、朗らかに、明るく、明るく。せめてインターネットの中でくらいは明朗闊達に。明朗闊達?誰がそんなものを求めているっていうのだ。ひしゃげた頭蓋から脳が溢れ出る。これは涙でも悲しみでもない。脳髄だ。全て流れ出た後で僕は無の境地に達し、全てを悟って何もかもから解放されるのだろう。いやだ、そんなのはいやだ。未来永劫のたうち回れ。


2006年1月1日日曜日

未来を変える事は不可能だが、過去を変える事は可能である。



変えたいものがある。
変わらないものがある。

変えたくないものがある。
変わってゆくものがある。

主語は、「人それぞれ」だ。








守りたいものがある。
捨てたいものがある。

主語は、「僕には」だ。








DOTA allstarsの魂。
DOTA allstarsの誇り。

平均ゲーム時間が1ゲーム1時間を超える強烈なゲーム。
両チーム合わせて10人の参加者5vs5。

誰かが敵に殺される度にけたたましく鳴り響くトリプルキルの効果音。
デスペナルティは復活までのゲームからの隔離。
その時間、実に2分近く。

だから、殺されるとゲームから離脱する人が大勢いる。
通称、LEAVER。

そういう人達が出現するとどうなるか。
それは、ゲームが成り立たなくなる。

崩壊しているとも称される微妙ぎりぎりのゲームバランス。
4vs5でもおかしくなる。
3vs5ならワンサイド。
3vs4でも成り立たない。

5vs5、それがぎりぎりの場所。
技術的に未熟な新人でも、一緒に行動すればスキルを適当に撃つだけで多少の活躍は出来るし、数秒の的くらいにはなれる。その間に上手い人が僅かな隙間をねじ込んでゆく。チームを勝利に導くために。

だから、DOTA allstarasにおいてLEAVERは最も嫌われる。
もちろん、死にまくってその度に相手に100gold+の賞金と経験値をプレゼントするfeederと呼ばれる人を最も嫌い、そういう人に対して露骨に「墜ちてくれた方がマシだ。」と罵倒する人もいる。けれども、僕はそのような類の人ではない。誰だって最初は初心者だったのだ。僕だって、0-22といったような1時間死に続けただけのスコアを出した事がある。ハイスコアは35-0くらいか。

そして、DOTA allstarsはあまりにも奇妙なゲームだ。どんな上級者でも、-randomで引き当てるキャラクターと、序盤~中盤に対峙する敵キャラクターとの相性によってはどう頑張っても金を稼げず、経験値も稼げず、それどころか一方的に殺され続ける事だってある。70人ものキャラクターが存在するゲームだから、いくらバランス調整が行われても、時と場合によっては相性による影響が露骨に出てしまうのだ。

そんな時に、どうするのか。
重要な局面で何度か殺され、後半に生きる必殺技も無く。経験値も稼げて貰えないのでLv差が倍ほどもつき、金をまともに稼げておらず、さらに死ぬ度に所持金の約半分が失われる為にまともな装備を調えられず。おまけに、復活までのデスペナルティ中も味方や敵はどんどんLvを上げて強くなってゆく。自分だけがゲームから隔離されているような孤独感。蘇って前線へ赴く度に殺され、デスペナルティ送り。何も出来ない。ただ存在しているだけ。

それでも、僕はLEAVEしない。
何故ならば誰よりもDOTA allstarだからだ。
自分は敵に殺害機会を与える為だけに存在しているというPRIDE。

もちろん、面白くもなんともない。
ただ必死に堪え、懸命にゲーム内に留まり続ける。

何故ならば、明日は殺す側に自分が回るかもしれないからだ。
そんな時に僕が活きる機会を与えてくれるのは、そうやって殺され続け何も出来なくてもゲームに留まってくれる、ハイモラルハイマナーな本物のDOTA allstar達なのだから。だから僕はそこに居続ける。ゲームが終わる時まで。




DOTA allstarasには終わりがある。
せいぜい2時間、必ず終わるのだ。
けれども、終わらないものがある。

例えば、人生。
人間は死なないように出来ている。
少なくとも、他の幾らかよりは随分と頑丈だ。

あるいはブログ。
思い通りに行かなくなるとブログの終焉などと言い出してLEAVEする人もいる。
そういう人はそういう人だ。
それでいいのだ。

けれども、そんなんじゃあDOTA allstarsでは通用しない。
抜けない。
落ちない。
抜けてはならない。
落ちてはならない。
どんな時も、どんな時でも最後まで居続ける事。

今僕を支えている唯一のもの。
それがDOTA allstars。

だから僕は不幸にも生き続けているし、きっと今年も書き続けるのだろう。
だって僕はまだ残念な事にDOTA allstars。

守りたいもの。
DOTA allstars。

捨てたいもの。
DOTA allstars。

これが失われるまでは、僕は真性引き篭もりhankakueisuuで有り続けられるし、有り続けねばならない。失われたらどうなるかなんて、そんな先の事はわからないね。どうせ未来はもう、決まっているのだから。






DOTA allstarsの他に僕にあるもの。
それはただ2つだけ過去と未来。
それしかもう、僕にはない。

けれども、いや、それでも。
僕には過去と未来がある。






戻るで文章飛ばぬように、Ctrl+A、Ctrl+Cを繰り返しながら。
僕は進む。
未来へと。
DOTA allstarsの魂だけをこの手に持って。
家康を背負うて三方原を駆け上るが如く。





世の幾らかの人々は、過去は変えられぬものだと考えている。
対して、未来は変えられるものだと考えている。

だからこそ頑張って未来を変えるのだと、人々は言う。
それは、違う。




未来はもう決まっている。
どうせ誰もが死ぬのだ。
そこにあるのは破滅。

行き着く果ては土の下。
天国なんてなくて、それどころか事もあろうに地獄すら無い。

夕飯の刺身の養殖の鰤を天然の鯛にする事くらいは可能だ。
けれども、そんなもの未来とは呼ばない。
世間ではそれを未来と呼ばずに献立と呼ぶ。

スズキの軽自動車をトヨタのハイブリットカーにする事くらいは可能だ。
けれども、そんなもの未来とは呼ばない。
世間ではそれを未来と呼ばずにマイカーと呼ぶ。

誰も、未来を変える事は出来ない。
行き着く果ては土の下。




対して、誰にだって過去がある。
この世に産まれてきたという過去がある。
それを心の底から良かったと捕らえられるかどうか。

即ち、過去を変える事は可能だ。
それならば、変える事が可能だ。

生まれてきて良かったと思えるかどうか。
生まれてきて良かったと心の底から言えるかどうか。

それが、大事なんじゃないかな。
少なくとも僕はそう思う。

だから頑張りたい人は、未来の為に頑張るのではなくて、過去の為に頑張るべきなんだ。世界で1つしかない自分自身の過去を素晴らしいものだと言い切る為に。










そして僕は過去を諦め、破滅へと舵を取る。
未来へ。
真性引き篭もりhankakueisuu