2008年4月29日火曜日

season13雑記。



Season13終了。MVPは、たった一人でbetとmouzを葬ったcheck。異論は許しません。以下いつも通りのwc3l雑記。


全部まとめて一気に見たので、リアルタイムで見た人達とはちょっと感じ方が違うかも。(カードが決定した段階で絶望してアンインストールしてしまったので、オンラインプレイオフは見ていません。)




主観視点で見たシーズン13は、happy木っ端微塵にされるの巻だった。カードの段階で狙い打ちにされ、得意のパターンは行く前に封じられ、といった感じでほとんど良い所無し。

2vs2が最後まで「上手いプレイヤーが徒党を組んだだけ」以上のものにはならなかったのも痛かった。肝心要のorcプレイヤーが過剰なリスクを背負うプレイスタイルの中国人という点から、今後も厳しそう。中国、スウェーデン、ロシア、フランスと、どの組み合わせでもまともに意思疎通出来なさそうなのが苦しい。

Happy&Fly100%のバラバラ感は見ていて痛々しい。4/10以上のリプレイがほとんど無い。勝ちリプレイにも、ろくなのがなかった。序盤はFlyが突っ走ってhappy空気、中盤は2人とも空気、終盤は一騎当千のhappyが一人頑張りFly空気という、どうにもしっくりこない組み合わせ。

もしも来期もhappy&flyで行くのなら、来期も無理だと思う。happyの負担が重すぎる。soloがガタガタのプレイヤーに2on2でも主軸を担わせるというのは苦しい。プレイヤー性能的に言えば唯一のタイトルホルダーであるToDを使いたいのだけれど、ToDに合うパートナーがいない。soloは今の4人のままで、2on2専門プレイヤーとしてソジュさんとレミンドさんが来てくれれば最高なのに。

死んだ子の歳を数えても虚しくなるばかりだけれど、sojuRemind vs (luci&moon vs Grubby&ToD)が見たいんだよ。俺等は。グルムーンなんてどうでもいいから。本当に。




特筆の出来だったのは、spec。2008年にUDでこの数字は凄い。先に数字を知った上でまとめて見たので、見る前はヤオなんじゃないか、みたいな先入観があったのだけれど、僕が見た限り「怪しさ」みたいなのは皆無だった。多少の癖はあるものの、オーソドックスなUD。目新しさや圧倒的な強さは無いけれど、それ故に穴も無い普通のプレイヤー。押し込まれた時の凌ぎ方も丁寧で完成度は高い。susiよりも(良い時の)sweetに近い感じ。今時のUDの中では少し早めな感じ。

XloadとTeDも、ありえないくらい強くなっていた。特にXloadは全部見たけど、これまでなら考えられなかったような相手に事も無げに勝っていて笑える。グールがよくできないUDが2008年にこれだけの結果を残すとは・・・。2人ともオフラインだとかなり落ちそうだけれど。

期待のsojuRemindはギスギス感のあるオーラを最初から最後まで放っていた。凄まじいまでのモヒ力ン感。不気味な金属音をこれでもかと響かせながら、圧倒的な存在感を見せ続けたものの、結局全勝はならず。オフラインファイナル予想はSK、mym、WE、betで。




印象に残ったリプレイを3つ。

・sky+infi vs grubby+moon
grubbyの「the lord of the rings - The Two Towers... T_T」に対してmoonが返した言葉は「tower rush grubby..pl」。暗黒大魔王moonのドス黒さが垣間見える素晴らしいchat。やはり王者はこうでなくては。そしてinfiの「happy time...」。努力した人間だけが幸せになれる弱肉強食的世界は最高。ENZAさんもはやくこの面子に交ざって全く違和感が無いくらいの所まで行ってください。infiに出来てENZAさんに出来ないわけがありません。母国でもアンチが大量に発生してしまっているWEの2人の見事なまでのリアルでナチュラルな完全無欠の最高のスーパーヒールっぷりは本当に素晴らしい。


・sky vs infi
mappack -> http://www.sk-gaming.com/file/6904

そのskyとinfiのガチ内戦。伝統的なヨーロピアンスタイルを選択したinfiに対して、skyは何時も通り、常に真新しいWE.IGE.Sky style。infiの方は、2nd取得後の押し方とか、hemanやinsoが最強進化を遂げたらこうなるんだろうな、といった感じ。それを手玉に取って暴れまくるskyだったけれど、致命的な凡ミスで終了。

・・・と思いきや終わらない。粘る粘る。あの時間帯に2金のinfi相手にヒーロー2人落としながら、ここまでゲームとしての体裁を整えてしまうskyはやはり異常。ミスが無ければこのマップに関してはskyが上だったと思う。skyは色々と変えまくっていて大変そう。おまけに2on2までやらされてしまってちょっと可哀想。ted&likeに任せておけばいいのに。どうせSKには勝てやしないんだから。


・luci vs moon
リアフレ同士の真剣勝負は凄まじいまでの名勝負に、「いいリプだなー」と感動しつつ、ふとタイムバーを見たら1/5しか経過していない。これは悪夢。正しく悪夢。7金vs3金でそこから20分間Dryadと戯れ続けたluciを襲うmoon必殺の鬼chippo。勝てるかーーーー!糞ゲーーーー!!luci&moonが解散した原因が垣間見えた、というのは邪推が過ぎるか。見るに堪えない黒moonの杖仕事が最大の見所。

でも、これで結果を出すのはもの凄く難しい。T1のままでT3のUD相手にgg言わせるとか、普通は出来ない。真似しても、同格相手だとほとんど勝てない。実際トップ所のNEで酷い金鉱勝ちで数字を稼げているのはmoonだけだと思う。奇跡的な杖仕事+ノーミス前提。TRでluciがこれじゃあ、現段階ではUDはmoon相手に選べるマップが無い。必殺の鬼chippoを出させただけでもluciは凄いと思う。パッチで良いマップが来ればいいのだけれど。


2008年4月27日日曜日

なあなあ、なんでみんな本文読まんと言いたいことだけ言っていくん。




ブログなんて自分の精神を削ってまでやるものでもないですから、




ネットなんて余興ですので、






それはないだろう。
いくらなんでも、それはないだろう。
なんかこういうのを目にすると本当にがっかりする。


どうして真剣にブログを書いている人間のエントリーのコメント欄でこういう事を言えるんだろう。ブロガー当人が明確にAはBですと書いている所へ、ただの自己紹介でしかないAはCです、というコメントを、平然とぶつけられる神経がわからない。なんていうか、がっかりする。(でも表題の"みんな"というのは間違いで、当該エントリーには時間経過と共に謙虚なコメントが増えて行っているのが、救いではある。けど、アクセス数の無いブログだと、最悪、上の2コメントで終わりだと思う。)




というエントリーを投稿する自分自身にもがっかりする。何故かというと、「当該ブログ」ではなく「当該ブログに付いたコメント」について語っているから。これって、ブログに対するリアクションの中では最低にして最悪のものだと思う。


けれども、ブログに対するリアクションでブログについて書く、リスペクトを表明する、というのは僕にとってハードルが高すぎる。視線というのは暴力でアクセス流しは悪という考えが根底にはあるし、当ブログのコメント欄に居座っている人達を見ればリンクは貼らないに越したことはないと思うし。


それに、なによりも、無能な敵になるのは厭わないけれど、無能な味方にだけはなりたくないから。かと言って、有能な味方にもなれやしないわけで、結果として僕のブログは日を追うごとに引きこもり的様相を呈して行くのであります。


近頃ちょっと思ったこと。



JAVAの方の人のエントリーを目にしてちょっと興味が沸いたので過去ログを一通り読んでみたら、案の定相当なハイブログパワーな人で、非常に面白かった。で。





暇人 2008/04/24 13:53


何か鬱病みたいにみうけられますが精神的に大丈夫でしょうか。
個人的な意見では生きていて不安じゃない人なんていないと思っています。
もう後はリアルタイムでtwitter(t_yano)に愚痴るしかないと思います(私は愚痴を言わない人間は信用できません)。



そのエントリーに「暇人」といういかにもな捨てハンが上のようなコメントを残していた。「個人的な意見では生きていて不安じゃない人なんていないと思っています。」とか「私は愚痴を言わない人間は信用できません。」とか、自己紹介以外の何者でもない自分語りをやってのけている。それは、一介の通りすがり読者である僕から見れば、酷く不可解なコメントだった。



(少なくとも僕にとっては)元エントリーはもの凄く丁寧な「よくできた(優れた)」ブログのエントリーで、1つのブログのエントリーとしては、完璧に近い特筆の出来だと思う。ブロガーとして強い敗北感すら覚えるくらいだ。たとえばピータージャクソンがリメイクしたって、これ以上のものにはならないだろう。適当な気持ちでブログを書いている人間や、きちんと自らと対峙していない人間には、とても書けない内容だと思うし、展開も美しく、日本語も丁寧で読みやすい。


その「完璧な」あるいは「完全無欠な」優れたエントリーに対して、「何か鬱病みたいにみうけられますが精神的に大丈夫でしょうか。」というコメントをつけている暇人という人は、明らかに、まともにブログを読んでいない、酷いコメンテーターだと思った。





けれども、1つの疑念が芽生えてしまった。それは、この「暇人」という、いかにもな捨てハンでコメントをしている人間は、実はt_yano本人なのではないか?という疑念だ。


もしもそうだとすると、話はこんがらがってくる。この「医者でもないのに鬱病認定して、本文をまともに読んでいるとは思えない自己紹介をおっぱじめた捨てハンコメンテーター」が、実は「知り合い(というよりコミニティの仲間)の心配をし、常に気配りを忘れない、心優しいt_yano」だったとしたら・・・。「なんだって俺に愚痴ればいいさ」という聖母マリア的なコメントだったとしたら・・・。"暇人"というハンドルネームは、ただの謙遜であり、「矢野さんは忙しいからくだらない愚痴を聞いて貰うのも悪いし……」という抵抗感を取り除くための気配りだったとしたら・・・。


もしもそうだったならば、リアルとか、馴れ合いとか、空気とか、そういった類の世界の事柄は、一生僕には理解出来ない物事なのだろう、と強く思った。





でも、流石にそれは無いと思う。絶対無いと思う。そんな事があったら困る。だって矢野さんは捨てハンで鬱病認定自己紹介コメントを書き込むような人じゃないもん(典型的な○○さんはそんな事言わない論法)。


だって鬱病認定しておいて「愚痴るしかないと思います」ってまともな人間の書くことじゃない・・・いや、そうではなくて。そうではなくて、事実は僕の想像のさらに上をゆく奇跡のような物語なのかもしれない。つまり、t_yanoという人は愚痴るだけで何もかもを治癒してしまうくらいのスーパーグレートキリスト的な超人類的存在なのかもしれない。だとすれば、だとすれば・・・。


てきとうってコメンテーターがうざいのでいい加減死ね。



「頭のおかしなコメンテーターに居座られたブログの管理人はどうするべきか。」というエントリーを過去に何度かアップロードしたのだけれど、名指しされた「てきとう」という信者コメンーテーターさんは、それを一切無視して居座り続けるという凄まじさ。どうするべきか、というよりもこういう類の書いてあることを読む気をの無い(でもってただ暴れたい)厚顔無恥なコメンーテーターに居座られるとフルストレスで最悪。

というエントリーをアップロードすると、その当該糞コメンテーターから糞コメントが付く事が確定的なので書く気にもならない、しかも過去に散々読まされた糞コメントは一つも消えないし、くだらない事に体力を使いたくもないしと放置しとく、直接書かなくてもまともな神経の持ち主なら気がつくだろうと直接的な言及を行わない、という事をしていると、我が物顔で得意げにコメント欄に居座り続けられる。所謂ディレンマ的ジレンマ。購読RSS数僅か4(1つ減った)の人間がエントリーをアップロードする度に糞コメントを読まされ続ける。

いやこれだけに限らず、半年~一年に一度くらいの割合で新たに登場する、嫌がらせのメールや、自己紹介+ブログ読みました話し相手になってください、みたいなメールを執拗に送りつけてくる、明らかにブログ本文を読んでいない読者とか、そういう可視化されたマイナスの、「ブログを書きたくない、とても。」という方向へのインセンティブが常にもたらされるのだけれど、僕自身は常にもの凄くブログを書きたい。

何より、僕自身が「コメントは一切不要です。トラックバックなりはてなブックマークなりでどうぞ。あるいはメールで。」という事を再三再四に渡って書いてきたわけだから、僕の書いてきたブログを真面目に読んでくださった、有り難い読者の方々はコメントなんて書き込むはずもなく、トラックバックに値するようなエントリーも書いていないので、トラックバックもそんなに来るはずもなく、その結果がマイナス方向のインセンティブに満たされた今現在の僕の視界なわけで、これはとても自然な理想の状態であり、至極当然の結果なのだ。という事を頭では理解していても、時々うんざりして投稿ボタンを押す気力を無くしてしまう事がある。

不可視化された読者を信じる心が足りないんだろう。信心が足りないのだ。唯一の明確な可視化された想定読者である自分自身とは、常に啀み合っている有様だし。とりあえず、考える必要の無い部分にしては逐次無視しながら書いていこう。俗物だから無理だけど。


2008年4月26日土曜日

生の斑鳩、死の斑鳩。



斑鳩は生のゲームだ。
斑鳩はプレイヤーに生き延びる事を強いる。
望まぬ色に染まってでも斑鳩という世界を生きねばならない。

つまり、大衆は斑鳩を生き延びる為のゲームだと捉える。それは間違いではない。何故ならば、今更僕が言うまでもなく、斑鳩は生のゲームだからだ。彼らにとっての斑鳩は、楽しい楽しい自らの人生を再確認し、生きるという事を再体験する為のゲームだからだ。




けれども、斑鳩は死のゲームだ。
ただ、死ぬ為だけに斑鳩をプレイする人達。
彼らの国の斑鳩は、タイトルからもうエンディングなのだ。
生は楽しくなければならないが、死は寸分違わず美しくなければならない。

わかり合える日は決してこない。
違うゲームをしているのだから。


2008年4月24日木曜日

幸せいっぱいのブログを読むと幸せいっぱいな気分になるからみんなもっと幸せいっぱいなブログを書いてください。



幸せいっぱいのブログっていいよね。読んでいるとなんとなくこちらまで幸せなきぶんになってくる。でも。幸せいっぱいのブログって案外少ないよね。だから、ブログを書いている人は、できるだけ、幸せいっぱいのブログを書くようにしてください。そうしたら、みんなが幸せになります。それはとてもよいことです。けれども、幸せいっぱいなブログって、どうやったら書けるんだろう。何書けばいいんだろう。わかんないね!バカだね!


2008年4月16日水曜日

暑い。



暑い。気合いで乗り切れるならば気合いで乗り切らなくもないけれど、気合いで乗り切れる事なんて何もないからへたりこむ。だるい。なんか未来ないかな。バラ色の未来。暑い・・・


2008年4月12日土曜日



完全無欠のフィルタリングは
神の御名によって打ち砕かれた


2008年4月10日木曜日

雑記。



辛い。しんどい。苦しい。頭痛。吐き気。インターネットなんてうんざりだ。どうすればいいんだ。もちろん被害者とシンクロしてしまって辛いというのもある。プロットを知らないのは自分だけという世界。コミュニティという監獄。トゥルーマンショー。引きこもりたい。誰とも接点を持ちたくない。一切のコミュニティから断絶した所に位置していたい。

けれども、このどうしようもない心苦しさの原因はそれではない。加害者らの方だ。もしも彼らがエレキでカノンを弾けたなら、こんな事にはならなかっただろう。teenのガチの殴り合いをビデオに撮れば面白いだろう、という彼らの予測はそんなに誤ったものだっただろうか。僕はそうは思わない。切り売りする不幸せすら持たない人間による努力の無駄遣い。ここがワールドワイドウェブな未来。呼吸をする気力が無い。


2008年4月8日火曜日

働くって、辛いね。



「ご趣味は?」

  「そうですね、夢を見る事、ですかね。」

「きゃー!はんかくさんすてきー!かっこいー!」












娯楽が無くて草臥れる。一ヶ月以上ゲームはまったくだし、それに伴うネットサーフィンも無い。そうなると、残る娯楽らしきものは夢を見る事だけである。今の僕には、悪夢だけが唯一の心の拠り所だ。他には何も、心安らぐものがない。

見る夢のパターンは、己のまぬけさに比例して単調だ。殺す夢と、殺される夢が基本形。そこに、殺してから殺される夢と、殺されてから殺す夢が加わる。それで全てだ。4パターン。

よって、夢は楽しいものではない。嫌な汗をかくだけのものでしかない。見たくないと願う類のものだ。けれども、僕の日常はあまりに単調で、楽しいことが無さすぎた。その単調な繰り返しの果てに、僕は悪夢に期待するようになった。

悪夢を見る事以外に娯楽の無い人生。こうして活字にするとうんざりするが、そんなに悪いものでもない。実際の世界で殺したり殺されたりすれば、たいへんな事になる。誰かが苦しみ、そして悲しむ。けれども、夢の中ではそうはならない。誰も悲しまない。誰も苦しまない。牢屋に繋がれる事もない。殺しフリー、殺されフリーのFREEDOMだ。

それに気がついてしまうと、悪夢も俄然楽しくなる。楽しくて、楽しくて、たまらなくなる。もちろん、悪夢を見ている最中は楽しくない。悪夢の中にいる間は、常に必死だ。命がけだ。恐怖と絶望の中を懸命に、これでもか、これでもかと殺して回ったり、恐怖と絶望の中を、殺人者から逃げ惑ったりする。捕まって、必死になって命乞いをするが暴徒の怒りが収まる事は決してない。磨かれた斧が満月を跳ね返し防弾ガラスは粉々に砕ける。それが夢だと気がついてはいるのだけれど、その気づきがゆとりをもたらす事はない。僕は常に必死だ。

しかし、一度覚めてしまえば話は別。こっちのもんだ。悪夢は、僕の人生に存在している唯一にしてラストリゾート。何よりも楽しい尊い娯楽なのだ。「あー、もっと殺しまくっておけばよかった」などと後悔する事すらある。悪夢を見る事を期待して再び無理矢理に眠ったりもする。

刺激、刺激的、命がけ。おそらくそういう事なのだろう。僕の人生には刺激というものが欠けていて、心のどこかでそれを求めていたりするのだろう。僕は温厚で引っ込み思案な人間だから、こうしてブログを書いていても誰かに喧嘩を売られる事もなければ、いちゃもんをつけられる事もない。僕の底なしの生真面目さと正直さは、僕を退屈へと追い込むばかりだ。人は僕を指さして「はんかくさんみたいに素敵な人は他にはいないわ。私もうびちょびちょよ」などと言うけれど、僕に言わせればね、この世界はね、まあね、だいたいからして、君、くだらないんだよ。くだらないんだよ。












この春から僕は働き始めた。先輩と2人でプレゼンテーションの為の資料を作っている。この仕事が取れなければ、盆の休みと夏のボーナスは無いらしい。先輩は笑って言うけれど、どこか悲壮感が漂っている。噂によると、先輩は、昨年も、一昨年も、夏の休みが無かったらしい。社会に出るというのは大変な事だ。

先輩は象亀だ。象亀先輩はパソコンに詳しい。腐りかけのキャベツをバリバリと食べながらマイクロソフトの表計算ソフトを叩いている。シェルがどうだとか説明してくれるけれど、僕にはまったくわからない。なるほど、などと適当に返している。「あ、でもそれは自分がやったより先輩がやった方が速いっすね」と出来る限りの真剣さを装いながらモニタを見たままで言う。決して目は見ない。僕だって必死だ。僕は常に必死だ。「君もはやく仕事を覚えて独り立ちしないと。」なんて事を言われるが、嫌だ。僕は先輩と一緒がいい。

徹夜で仕事をしていると、腐りかけのキャベツを買ってきてくれと言われて、雨の中をコンビニへ向かう。使い走りである。「腐りかけのキャベツありませんかね?」「キャベツではいけませんか?」「駄目です、腐りかけでないと」「それは無理ですねえ。」「そうですか、ごめんなさい。」わけもなく謝る。がっかりだ。森永のミルクチョコレートを買ってオフィスに戻る。

先輩は変わらずノートパソコンに向かっていた。森永ミルクチョコレートが手から滑って先輩の背中の上に落ちた。先輩の甲羅が割れた。胃から小腸、大腸へと流れてゆく噛み砕かれた腐ったキャベツが見える。赤い心臓がカバの寝息のような音を奏でながらゆっくりと脈を打っている。そのすぐ横には、割れた甲羅の尖った破片が輝きながら牙をむいている。やってしまった。大変なことになってしまった。

先輩は気がついていない。「おお、あった?」「いや、なかったです。」「ああ、そう。」言葉は交わされたが、僕は上の空だ。焦りでこめかみが震える。頭痛。目眩がする。呼吸が出来ない。「もうすぐ終わるから。」「終わったら出よっか」先輩はのんきなもんだ。象亀というのは、案外、甲羅が割れても平気なのかもしれないと、少し落ち着く。ばれなければ大丈夫だ。

朝一の新幹線にのり僕らは取引先の元へ向かった。取引先の担当者は、先輩の甲羅が割れているのを見て、真っ青になっていた。象亀先輩は、それを見て、「なにか、」と懸命にその真意を窺っていたが、取引先の担当者は「いえ、どうぞ、どうぞ続けてください」と、口ごもるばかりだった。僕は安堵した。

「ご質問がございましたら」「いえ、大丈夫です。」契約に至った。先輩は笑顔だった。「良かったね」などと言う。「そうですね、でも、これからですから」なんて事を適当に返す。目は見ない。先輩はとても嬉しそうだ。「はんかくのおかげだよ」。僕は何もしていない。僕は*何もしていない*んだ。

「帰ろうか」と先輩は言う。終電はない。「どうやって帰りますかね?」と僕は問うた。先輩は、泳いで帰ると言う。先輩の家は、海溝の向こうにあるそうだ。「大丈夫ですか?」いやな予感がする。「なんてことはないよ、僕は陸亀だけれどね、甲羅に空気が入っていて、海に浮かぶ事が出来るんだ。海流まで泳いで、そこからは居眠りでもしていれば着くから」笑顔のままで先輩は、海の向こうへと消えていった。
















会社に行きたくない。仕事をしたくない。働きたくない。俺は誰も、殺したくない……。


泣いても泣いても涙が止まらなかった夜、僕は何を考えていたのだろう。



泣いても泣いても涙が止まらなかった夜、僕は何を考えていたのだろう。どうしてあんなに悲しかったのか、どうしてあんなに悔しかったのか、どうしてあんなに辛かったのか。それらを思い出して、理解する事はそんなに難しい事ではない。僕は誰よりも凡庸な人間だから、僕の感じる悲しみや、苦しみや、辛さは、どれも皆凡庸なものだった。わかりやすい愚かさで、わかりやすい道筋を辿り、わかりやすい袋小路に陥って、わかりやすい幼稚さと無能さで、抑揚のない平凡な涙を流して唇を噛んだ。でも、あの夜、何を考えていたのかが思い出せない。何を思っていたのかが思い出せない。何を夢見て、何を望んでいたのかが思い出せない。

あの夜の悲しさを、今の自分にインストールするのは簡単だ。あの夜と同じように泣き濡れるのは簡単だ。筋道に沿ってあの悲しさや悔しさを指でなぞりながら辿れば、僕の心はあの日と同じように正しくはたらき、あの頃と同じように、逃げ出したくもなるだろうし、自分という生き物が全部嫌にだってなるだろう。けれども、あの頃のように思うことも出来なければ、あの夜のように感じることは出来ない。願いはもう、戻らないのだ。

全てが焼け落ちてしまった。悲しさと、苦しさと、愚かさで積み上げた楼閣の上から、それでも滅びる事のない、ちっぽけな夢とか、取るに足らない望みとか、小市民な憧れとか、思い、心、そういったものを最後に見渡したのは、何時の事だっただろう。広大さ。果てのなさ。360度の広がり。見渡す限りの情悪。木々に覆われた地平線。泣き疲れてへたりこんだ僕はその日から、自分の心を見つめる事を止めたのだ。その夜が特別だったわけではなく、いつだって僕は臆病で、いつだって僕は勇敢。誰よりも特別に女々しい。私というものから逃げだしたのだ。

自らで放った炎で焼け落ちた楼閣の残骸から、もう随分と歩いてきた。焦げた臭いは聞こえなくなったし、自分がどこにいるのかも、もはや見当が付かない。心地よい錯乱の中に居る。野蛮に光を求めて伸びる無節操に絡み合った青臭い植物の大群が行く手を遮り、絡み合う蔦が光を遮る。その一葉、一葉が、悲しみであり、苦しみであるという事はわかるけれど、その一葉々々の表面に何が書かれているのかを確かめる術は、もはや無い。

どの新芽も、どの若葉も、どの木の葉も、皆同じように天を目指す。あの夜と同じように、上へ、上へと育ってゆく。楼閣の上に一人立つ、僕の瞳に向かって伸び続ける。もうそこにはいない。僕はここに居る。行く宛はなく、行くことも出来ない。這い蹲って、息をする。


2008年4月7日月曜日



∴ に一致する情報は見つかりませんでした。

Yahooも同じ。
----



----
wikipediaで発見。


2008年4月6日日曜日

Followingが全員男な奴はリア充。



ネットファックの見本市であるTwitterで、Followしているのが男ばかりという人間は、ネットで女の尻を追いかけ回す必要が無いくらい、リアルで愛に満ちあふれた充実した人生を送っている超勝ち組超リア充。あいつもこいつもこんちくしょう。


アウトライン無惨



ネットで出会った若くて綺麗な女の子とネット恋愛をして朝までスカイプしてぞっこんになって一緒に暮らすつもりで部屋まで買ったのに会ってみたらキスはおろか手を繋いでさえもらえなくてそれから数ヶ月音信不通でも諦めきれなくてなんで連絡来ないのかと悩んだりして思い切って三行半突きつけてさっぱりして新しい人を好きになったりしてでもうまくいかなくて諦めてそれでも夢を見たりして苦しくなって自殺。


というブログが仮に存在していたとして、「そういうふうに読まれること」と、「そういうふうに読まれないこと」はどちらが良いのだろう。


定かではないが、「そういうふうに読まれないこと」の方が良い事なのだと信じている人が圧倒的に多いように見受けられる。いや、断じて読むべきではないのだ、という強いメッセージすら感じられる。如何なる場合もブログなどというものは無視するべきなのだというような。僕はブログは全てを凌駕すると思っているような真性のブログ人間なので、そういう空気に酷く戸惑う。


ブログという、血肉を削って書き続け、記録し続けた自らというものが、完全に無視される。それはブロガーにとって幸せな事なのだろうか。*その方がよいことだから*と、まるで無視されることが、よいことなのだろうか。何を。誰が。


これはそういう事なのではなくて、「この場合その方がよいことだから」と無視されたのかもしれない。つまり、社会に貢献した素晴らしい良い人物の歴史からは、ネガティブな事柄は全て取り除いて記録され、悪い人物の歴史にはそれとは対照的に、ポジティブな事柄は全て取り除かれ、ネガティブな事柄のみが記録される。そんな単純な話ならば、それはそれで、わかりやすくて良い。良くはないが。


いや、彼らは別に無視しているわけではないのかもしれない。つまり、ただ、ブログなどというものを真面目に読んでいないだけで、真面目に読む気も毛頭無いだけなのかもしれない。そうだとしたら、どうなのだろう。リップとでも言っておけばいいのか。





そこでちょっと思い立ちました。


保存しなくては。


弾幕を。


シューティングゲームが消えてなくなってしまう前に、この芸術的な弾幕の数々を保存しなくては、と。



ふと、この一文が頭に浮かんだ。



保存すべきだけの「芸術的なもの」を残せる人間がどれだけ居るだろうか。書き残すべき「偉大な物事」を成し遂げられる人間がどれだけ居るだろうか。居まい、居まい。僕等はJSバッハでもなければ、ウィルライトでもフェリーニでもない。


それだけではない。「保存したい」と思うだけの愛するものを僕等は持たない。氏のように愛を語れるだけのものを僕等は持たない。何かを愛せた事すらない。愛するものなど1つもない。後世に残したいものがない。保存したいと思う事などない。ただ、壊したいとか、潰したいとか、皆殺しにしたいとか、、、。破壊衝動ばかりだ。愛などない。思いなどない。


自分自身は誰かを愛するに値すると思う事の出来る人間がこの世界には無限に存在している。同じように、自分自身は誰かに愛されるに値する考える人が、今現在も幾十億と存在している。キスをして、抱きしめて、結婚して、子供を作って、、、、。それが正しいとされる世の中なのだ。


「私が消えてなくなってしまう前に、この醜く愚かな思考の数々を保存しなくては」という思いは彼らにとっては、間違ったものなのだろう。記録すべき事柄ではないのだろう。否定されるべきものなのだろう。無視されるものなのだろう。幾らかの人々にとって、ブログというものは生の道のりを記録するツールではなく死への道のりを記録するツール、レコーディングdieなのだ。しかし世の人はそれを認めない。保存するに値するのは美しい生であり、あるいは生への衝動であり、祈りであり、願いであり、愛であり、おまえ達のはそれに値しないと無視するのだ。無かった事にされるのだ。そして彼らはベッドに入り、キスをして、抱きしめて、結婚して、子供を作って、、、、。それが正しいとされるのだ。いったいどこをたゆとえばいい。


2008年4月4日金曜日

840万が美しすぎて思い浮かべる度にうっとりする。



840万は美しい。2でも3でも4でも5でも6でも7でも8でも割り切れるのに、9で割り切れない辺りが堪えられない。8までは君にも許すけど、そこから先はDO NOT ACCEPTだからね!!みたいな感じがたまらない。棍棒で殴って無理矢理こじ開けたい。未来が見たい。先へ進みたい。明日が欲しい。心安らかに過ごしたい。抱きしめたい。キスしたい。地下室に閉じ込められたい。一生監禁されたい。840万以外に頼れるものはない。840万だけが、僕を欲望で導いてくれる。うっとりする。生きようって気分になる。全宇宙に存在する数字の中で世界一美しいのは間違いなく840万だ。840万、840万、840万。はっぴゃくよんじゅうまんが、頭の中でリフレインする。840万人くらい殺せばどうにかなるんじゃないか、840万人くらい殺せばどうにかなるんじゃないか。いや、だとしてもどうやって殺せばいい。核爆弾か、核爆弾か。やっぱり核爆弾か。しかし核爆弾は無い。スーツケース型核爆弾か。だが、スーツケースすら無い。840万、840万、840万人が消し飛んだ所でまた次の840万、それがどっかいってもまた次の840万、840万。この空の下のどこかでは誰かが夜桜を眺めながら豚汁をすすってるんだ。840万、840万、840万。。。840万が重くのしかかる。840万のせいで今晩は最悪な気分だ。前頭葉がひしゃげて落ちてくる。口で息して、口で息して、はっぴゃく、、、


ブログを書ける人が羨ましい。



絵を描ける人や、楽器が出来る人を羨ましく思う気持ちは無いけれど、ブログを書ける人に関しては、羨ましくてならない。


2008年4月3日木曜日

最近のゲームは3D。



FF7の戦闘中にコマンド入力後は画面から目をそらしたり、静止して行き先を確認後、読み込み音と音を頼りに移動したりしていた重度の3D酔い持ちゲーマーから見れば、昨今のゲーム市場の閉塞感は凄いものがある。


実際問題最近のゲームの中で、食指が動くのは3Dゲームばかりだ。ドラクエ8はトレイラーで即酔い。メタルギアソリッドも、ワンダと巨像も駄目。もちろんマリオギャラクシーも酔う。ゴッドオブウォーもモンハンもゼルダも駄目。ヘルゲートロンドンは別の意味で駄目。civ4は糞ゲ。FPSとレースゲームは全部駄目。ヘイローもバトルフィールドもアウト。PGR3とか無理。後何だ。無双駄目、鉄騎駄目、デビルメイクライ駄目。ここ数年で興味があって遊べそうなのって、メテオスくらいのものだった。つまらん。これはつまらん。一人蚊帳の外。何この疎外感。


こうして見ると、僕がWarCraft3を買い続けたのって、「他に面白いゲームが存在しない」という側面も強い。WC3 + Esports scene + MODを上回れる酔わないゲームって存在しない。


光明



あなたは居ない。
でも、生きている。


2008年4月2日水曜日

あんたは「努力しろ」「努力しろ」って口を酸っぱくして言うけどさ、あんたの言う努力ってのは「真似をしろ」ってことじゃねえか。



努力しろ、努力しろってあんたは口を酸っぱくして言うけどさ、あんたの言う努力ってのは、「誰かの真似をしろ」ってことじゃねえか。馬鹿にすんじゃねえよ。俺を誰だと思ってんだ。真性引き篭もりhankakueisuuだぜ。

しかも、それですらねえ。つまりだ、あんたの言う「努力しろ」ってのは、「誰かの真似をしろ」じゃなくて、「俺の真似をしろ」じゃねえか。いや、もっと酷くて「俺が真似をしたいと思う野郎の真似をしろ」か。

反吐が出るぜ。反吐がよお。そんなに一人が寂しいか。誰かと群れて仲良しこよしじゃなきゃあ、頑張る事すら出来ねえんだろ。一人じゃトイレにも行けねえからって、お手々繋いで御小便。はっ。誰かの真似をしろ、俺の真似をしろ、俺が真似したいと思うやつの真似をしろか。臭えぜ臭え、ああ臭え。

あー、くだらねえくだらねえ。連中と来たら誰かの真似さえしてりゃあ何でも出来ると思ってやがる。おめでてえなあ。おてんとさまだ。あのなあ、よお、教えてやるよ。どんなに上手に虎書いたって、屏風の中から出られやしねえ。虎はなあ、虎だから荒野を駆けてるわけだ。わかるかい?

いいかい。よく聞くんだ。俺はおまえに「努力をするな」なんてこたあ一言も言ってないんだぜ。「努力しろ」って言ってんだよ。その点は俺も連中も同じ穴の狢ってわけだ。だけどな、けれどもな、俺の言う努力ってのは、連中の言う努力とはわけが違うんだ。

誰の真似でもねえ。二番煎じじゃねえ。本物の努力ってやつを、本気で貫いてみろって言ってるわけだ。そうすりゃあなあ、世の中にはなあ、出来ねえ事なんて一つも無いんだ。何だって出来んだよ、何だって。

努力したのに、頑張ったのに、って泣き言吐いてる連中の話をよく聞いてみな。あいつら、努力なんてこれっぽっちもしてねえんだ。こんなに上手に描いたのに、どうして荒野を駆けねえんだって、屏風の前で泣いてるだけだ。

だからよお、おまえさんはあいつらみたいになるんじゃねえぜ。いいかい。間違っても、誰かの真似をしようだなんて思っちゃあいけねえ。己の道を諦めて、妥協して、誰かの切り開いた道をてくてく単車で走ってこうだなんて考えちゃあならねえ。

本当の努力ってやつをやってみなよ、本物のオリジナリティってやつをさ。イノベーション革命、レボリューション大爆発ってやつをよお。連中の言う努力、つまり「誰かの真似」なんかじゃなく、本物の努力ってやつをさ。本物の努力ってやつをよ。

俺を見なよ。あいつらではなくて、俺を見てみろよ。いいかい、これが本物の努力ってやつだ。一眠りして起きるなり、キーボードを尻の穴にぶち込んで、括約筋を波打たせて書き上げたこの革命的エントリーをよ。これが本物の努力ってやつだ。


無題