2005年12月30日金曜日

ここにいます。




2ヶ月前の記事のブクマ数「○○users」の数字を見て、「以前より増えている!」などと気が付く方はいない でしょう。



ここにいます。



コレ超イケテル!と思って投稿したエントリーは大抵が5ブックマーク程度で打ち止めしかも[コメント]とか[文章]とか[hankakueisuu]とかついていたり悲惨な時はそれすらついていなかったりと惨憺たる内容でその度に酷くコンフューズしている状況なのでそれらのエントリーのブックマークユーザー数に関しては頭の中に入っています。入っているのですが、なぜかどれも減る一方でさらに滅入っています。たまに増えたら向こう3日くらいは幸せな気持ちになります。


今風に言うとロングテールを捕まえています。
今風に言わなければただの自意識過剰です。


年内書く。



「年内書く」から「年明けたら書く」に変化しようとしている。
それでも年内書く。

明日は怒濤の21連続投稿。
今日はどこへ消えたんだ。
いったい僕はどれだけ駄目ブロガー。


被ブックマークウェブサイト管理人から見たはてなブックマークのどうしようもない使えなさ。



はてなブックマークは本当に無能で迷惑なツールだと僕は思う。
一般的な話ではなく、被はてなブックマーカーにとっての話である。




僕ははてなブックマークを一切使っていないに等しいのだけれど、例えばakisaya氏が興味を持ったWarCraft3のリプレイをはてなブックマークし、[ORCvsORC][ORCvsNE]...[UDvsHUM][UDvsUD]といった具合にタグづけし、さらに★印でレーティング、その上でコメントをつけている、というような事をしていたならば、僕は間違いなくはてなブックマークを使っていただろう。

つまり、はてなブックマークを興味のある人のブックマークを見る道具として見た場合、はてなブックマークは少なくとも非常に優れた道具である。無論の事、はてなブックマークが優れているのではなくただ単にデコユーエスをレイプしただけだが。









1消費者から見ればそのように優れた道具なのだけれど、被ブックマーカーからはてなブックマークを見た場合、これ程までに駄目なツールはまずない。実情もそうなのだけれど可能性が感じられないという点も含めて本当に駄目である。




被ブックマーカーから見たはてなブックマークの迷惑さの第一は、盗まれたコメント欄としてのはてなブックマークがどうしようもなく駄目であるという点にある。

ブロガーがつけられたコメントを全て読むというのは、コメント欄を解放している限りは責務であると思うし、トラックバック欄を解放している限りはトラックバックを全て読むというのは責務であると僕は考えている。

対して、はてなブックマークのコメント欄も読むべきであるとまでは思わない。思わないのだけれど、全て読むという選択を行う人間も大勢いるだろう。

その、はてなブックマークでつけられたコメントを全て読む、というのが不可能に近い程にはてなブックマークは不便なのである。はてなブックマークでは新着コメントは表示されないし、どこにコメントがついたかもわからない。コメントをきちんと読む手段というのが全くないのだ。

それだけではない。はてなブックマークという盗まれたコメント欄ではいつコメントが削除されるかわからないし、過去にどのような事が書かれていたのかも解らない。書き捨てではなく、消し捨てであり、可読性という観点から見れば最悪に等しい。

「せめてRSSくらい吐け」という罵詈雑言が宇宙全土で最も似合うのは、
コメント欄としてのはてなブックマークだろう。




また、はてなブックマークはウェブサイト管理人から主軸を盗み取った。そしてそれをコメンテーター毎へとそれを委譲したのである。コメンテーター単位で見るはてなブックマークは、タグで目的のジャンルのブックマーク一覧を見渡せるし、コメントも一覧で眺められる。非常に便利なツールであると言える。

けれども、被ブックマーカー単位で見るとそのような利便性は全くない。
例えば当ブログで言うとデフォルトではこのように5ユーザー以上のエントリーが表示されるのだけれど、はっきり言ってそれだけである。


例えばはてなブックマークでは「ウェブ」「ゲーム」「一般」といった具合にカテゴリー分けがなされるが、特定URLの特定カテゴリーブックマークのみを閲覧する事は不可能である。

さらに、特定のタグがつけられたブックマークのみを見る事はブックマーカーという単位では可能なのに、特定URLという単位では不可能である。なんか全然繋がっていない。実に断絶断絶している。一応は人気エントリーというものがあるのだけれど、それは大衆受けした順位での並び替えでしかなく、特定のものを見たいと思った時には機能しない。

被ブックマーカー側から見ると、あるいは特定URLのブックマークを読もうとする人間から見ると、本当に使えない道具であると思う。




結局の所あまり手を広げずにこぢんまりと実直に批判すると、はてなブックマークがどうしようもなく駄目なのは、「はてなユーザーの事しか考慮されていない」という点だろう。インターネットあってのソーシャルブックマークなのに、はてなブックマークの場合ははてなブックマークがインターネットを私物化している、という側面が強すぎるのである。


2005年12月29日木曜日

典型的な馬鹿リアクションに対して「賛同できる」と書くその無神経さが理解できない。






なーんて、大げさに書いてみましたが。要は私はあの記事を見て、中国食品は食べたくないなぁと思った。あなたはこれを見ても中国食品を食べ続ける。それでいいんじゃないっすか?



戦争云々はよく分かりませんが、この意見にも賛同できます。「感じ方は人それぞれ」で片付けられていますが、Web上の争いごとを収束させるには、相対主義的な結論が賢いのかも知れません。

まったくもって間違っている。


第一に、アジアの安全な食べ物という我が国のインターネットにおける空前絶後の糞ブログの存在理由は、中国及び韓国蔑視を広める為その一点であり、アジアも食もまったく関係の無い話題である。


即ち、あのウェブサイトを見て中国蔑視を受け取るか受け取らないかが問題であり、他の一切くだらない戯言は聞くに値しない。


その点において「中国食品は食べたくないなぁと思った」という印象操作即ち情報操作に純度100%でひっかかった典型的な馬鹿リアクションに対して「賛同できる」と書くその無神経さには驚きを通り越して絶句する所である。




第二に、中国食品を食べないという選択肢は我が国では選択したり得ないという事だ。我が国の食卓には隅々までいわゆる中国食品が入り込んでおり、中食/外食ともなれば尚のことである。コンビニで、居酒屋で、スーパーで、デパートで、冷凍食品で、弁当屋で、一切中国食品を口にせず、たらみのゼリーをも避け続ける事をもしも仮に有言実行行うのならば「私は食べない。あなたは食べるwww。それでいいんじゃないですか?」と放言すると良い。


そんな事が可能なのは真性ニートか引き篭もりくらいのもので、普通に生活する一般の人間が中国食品を一切口にせず日常生活を生き行く事などは不可能である。




第三に、中国食品を仮に毒物として扱うならば、その人間は一体何を食べるのかという事である。畑に水銀を巻き、牛乳には異物を混入し、牛には狂牛病を与え、偽装ねつ造お手の物の我が国の食を信仰し、舶来の食品をその生産国が特定の第三国であるというだけの理由で棄却する。


その根拠はどこにあるのだ。それが中国蔑視、韓国蔑視の人種差別以外に趣味を持たないネット右翼どもの操作に引っ掛かった結果でなくて何だ。


一体そういうあなた方は何を食べるつもりなのかと僕は問いたい。安全を歌う食品に大金を支払う一方で、安さと手軽さを歌うジャンクフードを食べ続けるのが健全にして愉快な一般市民の実情である。スローフード?地産地消?事実そんなもの誰も望んじゃあいない。言うだけはタダで「ああ中国怖いね。」と書くのがあなた方のブログリティなのかと僕は酷く疑問に思うし、やるせなさをも抱く。




即ち、僕が最も理解出来ないのは、左翼の操作は「馬鹿なもの」として論外に廃すのに対して右翼の操作は「怖いね」とまんま引っ掛かる事を行う人間がどうしてこれ程までに大勢いるのか、という点である。


あのようなブログを見て「真偽の程はよくわからないけれど写真が凄いので、中国食品は怖いと思いました」などという感想を持つのは「郵政民営化が良いのか悪いのかはよくわからないけれど小泉独裁は怖いと思いました」に等しい。前者は庶民の率直な感想で後者は馬鹿の馬鹿言葉といった区分けが行われているのは何故だ。


左翼の荒唐無稽即ち非武装無抵抗などといったものは有りで、右翼の荒唐無稽逸脱した中韓敵視は有りなのは何故だ。それらは気に入らないものは否定し、気に入ったものは許容するという、事実や公平さとはかけ離れた所にある身内に甘い価値判断以外の何者でもない。


アジアの安全な食べ物なるウェブサイトを見て中国食品は怖いなどと言っている輩は、憂いの表情風の満面の笑顔でウォーイズオーバーを歌っている連中と何も変わらない。




そもそもあれは2ちゃんねるで長年かけて中国を馬鹿にするために掻き集めて並べられていた写真をそのまま転載しただけであり、存在だけではなく出自からして中国に対しての偏見を広める為だけのものである。言うまでもなく諸外国のサイトの写真の無断転載、無断転用であり、さらにただ曲がっただけのキュウリの写真を印象操作に利用していた事からしても、いかに馬鹿であり低俗であり無知であり、著作権もモラリティも無い我が国の恥じたる恥の最も醜態たるウェブサイトであるかは言うに及ばぬ所である。実に馬鹿げている。


失われた、失われた記憶の記憶。



まるで眼球が2つあるかのように世界が歪んで見える。
まるで鼻腔が2つあるかのように空気が熱く突き刺さる。

いったい僕はいつ笑い、いつ泣くのだろう。
そしていつ、ブログの投稿ボタンを押すのだろう。

存在しない虚空に時間が吸い込まれてゆく。
アスファルトを踏みならす帰郷の音。
失われた、失われた記憶の記憶。
動かない指先凍り付く空気。
なんだこの苦痛。

またぞろの冬。
ブログを書こう。


2005年12月27日火曜日

何遍やっても二重投稿していないのに二重投稿は禁止ですって言われる。



語尾に"_"をつけてみたら書き込めた。
同一の文章だったから二重投稿と判定されてた模様。
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ありがとうございましたって書けやんやん。


2005年12月25日日曜日

ブログの定義



ブログの為に生きられるかYES、ブログの為に死ねるかYES。
ブログの為に宇宙の歴史を終わらせられるかもちろんYES。








ブログの為に脱いでいるそれただの変態。
ブログの為に脱げるかYES。

ブログの為に食べているそれただの食いしん坊。
ブログの為に食べられるかYES。

ブログの為に歌っているそれただの勘違いポッドキャスター。
ブログの為に歌えるかYES。




はてブされぬとみみしくも愚痴。
拗ねて繰り出す悪質な釣り。
otune現れ見るや一閃。
おまえに旬など一生来ない。

無能な奴ほどよく吠える典型。
拗ねて繰り出す悪質な釣り。
otune現れ見るや一閃。
おまえに春など一生来ない。




俺が描くのはただ誠実さ。
皆が無くした心の再興。
体現するのは正しく誠意。
ここにあるもの即ちブログ。

俺が描くのはただ誠実さ。
果てしなく続く自己正当化。
体現するのは正しく誠意。
ここにあるもの即ちブログ。

真性引き篭もりでもないくせにブログを名乗るな。
hankakueisuuでもないくせにブロガーを騙るな。

おまえのはリアル。
俺のがブログ。
おまえらはフェイク。
僕だけがブログ。




ブログの為に生きられるかYES、ブログの為に死ねるかYES。
ブログの為に宇宙の歴史を終わらせられるかもちろんYES。

おまえが見ているそのエントリー。
俺が書き上げたこのエントリー。

おまえが生きてるその宇宙。
俺が作り上げたこの宇宙。

飽きて潰した7つの宇宙。
気紛れ造った8つ目の宇宙。
取り壊す寸前書き入れた眼球。
動き始めたコズミックスイミー。
宇宙を意味する単語がブログ。



真性引き篭もりでもないくせにブログを名乗るな。
hankakueisuuでもないくせにブロガーを騙るな。

おまえのはリアル。
俺のがブログ。
おまえらはフェイク。
僕だけがブログ。




ブログの為に生きられるかYES、ブログの為に死ねるかYES。
ブログの為に宇宙の歴史を終わらせられるかもちろんYES。

ブログの為に殺すそれただの殺人犯。
ブログの為に殺せるかYES。

ブログの為に刺すそれただの通り魔。
ブログの為に刺せるかYES。

ブログに書く為に殺るのが犯罪者。
ブログを邪魔する奴を殺すのがブロガー。

邪魔するならば神でも殺す。
邪魔する奴は神にしてやる。

今蘇ったキリストの再降。
ここにあるのはエントリーじゃない。
杖で海割る百八の奇跡。
即ちブログ。




おまえのはリアル。
俺のがブログ。
おまえらはフェイク。
僕だけがブログ。




「ハイハイ皆さんいいですか無視ですよ」
って言ってるおまえが無視出来てない。
良エントリーはノットファウンド。
無能な奴ほどよく吠える典型。

「ハイハイ皆さんいいですか無視ですよ」
って叫んでるそれどこの学級委員長?
ピザ咥えて駆け出すのは何時?
辿る末路はどの学長選挙?

おまえはデブ。
俺がブログ。
おまえのはデブログ。
俺のがブログ。




ブログの為に生きられるかYES、ブログの為に死ねるかYES。
ブログの為に宇宙の歴史を終わらせられるかもちろんYES。

ブログの為なら新幹線も止める。
ここにあるのはエントリーじゃない。
脛で首刈る四十八の殺人技。
即ちブログ。




おまえのは日記。
俺のがブログ。

おまえのは誹謗。
俺のがブログ。

おまえのは雑記。
俺のがブログ。

おまえのはポエム。
俺のがブログ。

俺に非ずはブログに非ず。
俺にはあるものおまえに無い。


おまえには聖夜。
俺にはブログ。

おまえには団欒。
俺にはブログ。

おまえには友人。
俺にはブログ。

おまえには家族。
俺にはブログ。

俺に非ずはブログに非ず。
おまえにあるもの俺には無い。




真性引き篭もりでもないくせにブログを名乗るな。
hankakueisuuでもないくせにブロガーを騙るな。

ブログの未来は俺の未来、ブログの海は俺の海。
ブログの歴史は俺の歴史、ブログの塩は俺の塩。
ブログの時代は俺の時代、ブログの物は俺の物。

おまえのはリアル。
俺のがブログ。
おまえらはフェイク。
僕だけがブログ。

ブログの為に生きられるかYES、ブログの為に死ねるかYES。
ブログの為に宇宙の歴史を終わらせられるかもちろんYES。




おまえのは改変。
俺のがブログ。

おまえのは詐欺。
俺のがブログ。

おまえのは嘘。
俺のがブログ。

おまえのは真実。
俺のがブログ。

俺に非ずはブログに非ず。
俺にはあるものおまえに無い。


おまえには愛。
俺にはブログ。

おまえには夢。
俺にはブログ。

おまえにはゲーム。
俺にはブログ。

おまえには人生。
俺にはブログ。

俺に非ずはブログに非ず。
おまえにあるもの俺には無い。








ブログの為に生きられるかYES。
ブログの為に死ねるかYES。

ブログの為に生きているイエス。
ブログの為に死んでいるイエス。


2005年12月23日金曜日

山のようにあるのに



山のようにあるのに僕の中はどうしようもない眠たさで満たされようとしている。そうではなくて、山のようにあるから僕はどうしようもない眠たさに逃げ込もうとしているのかもしれない。

カタン、カタンと風が鳴らす窓枠が次は私の番であるよと僕を追い立てる。イルアウルイルアウラ、そういうわけにもいかない。50年の人生は永すぎるし、365日の一年間も長すぎる。けれども1日がたったの1日というのはいくらなんでもあまりに足りない。1日が700日くらいあれば僕だって、もっと完璧な人生を打ち立てられるのに。イルアウルイルアウラ、そううまくはいかない。

上着に膝を招き入れ、生暖かさを求めても訪れるのは生ぬるさだけ。うとう、うとう、眠ってはいけない。今眠ると僕は欠落してしまう。だからもう寝よう。鮪のように。


2005年12月22日木曜日

せかいのはんぶんを受け取ることがどうしてイコールバットエンディングなのか。



せかいのはんぶんを受け取ることが何故故にイコールバッドエンディングであるのかという問題は常に人々を悩ませ続けてきた。あるものはそれを目的の喪失であるとし、諦めこそが人生における最大の罪であるという堀井雄二のメッセージであると考えた。またあるものはその受け取ったせかいのはんぶんを肉体であるとし、目先の人参甘い誘惑に負け流されて本当に重要なもの即ち精神、心、魂、強いては人生という物を悪に売り渡すことの危険性を解いているのだと考えた。そしてまたあるものはそれを、竜王が世界のはんぶん、即ち世界中のまんこというまんこを独占し、対して勇者には世界中のちんこというちんこが殺到したのだと考え、それを想像しては吐き気を催した。一部の男色家はその真逆を想像し、神はなぜ女などという低脳にして無能なる失敗作をはんぶんも造りたもうたのかと想像主に憎悪を募らせた。


そして、結局多くの人々、いやある意味では全ての人々は考えるのに疲れ果ててそれを、公式の設定集通りに「闇の世界を受け取ったからだ」とした。しかしながらそのような表っ面の公式文章を信じるなどとは、ゴジラを見て「トカゲの映画だね」と曰うアメリカ人や北京原人を見て「くだらない映画だね」と放言する映画通に匹敵する愚かさであり、愚の骨頂である。


シンキング。「せかいのはんぶんを受け取ることが何故ゆえにイコールバッドエンディングなのか」という問題について僕はこれまで考え続けてきたし、これからも考え続けるだろう。何故ならば僕は気がついた時にはもう既に、世界の半分を手にしていたからだ。


即ちシンキング。「せかいのはんぶんを受け取ることが何故ゆえにイコールバッドエンディングなのか」という問題について僕はこれまで考え続けてきたし、これからも考え続けるだろう。何故ならば僕はその答えをもう随分と前から知っているのだけれど、知らないふりをしていたいからである。
















MMOというゲームジャンルをご存じだろうか。
エム・エム・オーの略で、エムエムオーと読む。
はやいはなしがインターネットのRPGである。


古くはウルティマオンライン、今で言えばFFXやワールドオブウォークラフトに代表されるようなMMOというゲームには、「オレ勇者」と呼ばれる人々が存在する。そして彼らは一般のプレイヤーから嫌われている。







オレ勇者とは何か。
それは、自分が勇者であるかのように振る舞う人の事である。


旧来のRPG、即ちドラゴンクエストやファイナルファンタジーにおいて、民家のタンスは勇者が中を暴く為だけに存在していたし、スライムは勇者が経験値を得る為だけに存在していた。即ち全ては勇者の為の世界だったのである。


プレイヤーが1人しかいないゲームにおいて、その振る舞いは何の問題も無かった。世界中のはぐれメタルをどくばりとドラゴラムで形式的に独占する事は可能だったし、世界中のたんすというたんす、引き出しという引き出しは勇者のものだった。


イエローオーブを最後に取るのも、ブルーオーブを最初に取るのも自由だったし、連射機を使ってメダルを増殖するのも、バグを使ってレベルを上げるのも自由だった。それはたった1人のプレイヤーに見返りと満足をもたらす行為に他ならなかった。彼らは正真正銘の勇者だったのである。







ところが、MMOでは事情が違う。
旧来のRPGではプレイヤーが1人だったのに対して、MMOでは世界が1つである。そしてその1つの世界には大勢のプレイヤーがいる。


その1つの世界の全てを「オレの為にあるもの」として振る舞うのがオレ勇者であり、そうではないと考える人達との間に軋轢を生み不和をもたらし、MMOというゲームジャンルに混沌を差し込ませ続けている。







オレ勇者を嫌う多くの人々は、オレ勇者を「間違ったプレイヤーだ」として非難する。MMOは1人の為に存在しているゲームではなく、多くのプレイヤーが共存する為の枠組みであり、他人に配慮して仲むつまじく遊ぶべきであると主張するのだ。


けれども、オレ勇者は"間違ったプレイヤー"などではない。1つの正しいプレイヤーである。オレ勇者とそうでない人々との違いは、認識する理想の世界の違いである。即ち、オレ勇者とそうでない人々との唯一の差異は、認識する理想の世界の違いでしかない。







オレ勇者は「オレの為に皆が存在する」というものをMMOに求め、それが実現されなかった時は他のプレイヤーを罵倒したり、不満を述べては抗議して、ああしろこうしろと命令を繰り返す。


対してそうでない人々は「皆の為に私が存在する」というものをMMOに求め、その自分と皆とのにこやかな関係に割り込んでくる存在、即ち「私を独占しようとするオレ勇者」に対して憎しみを募らせる。







即ち、オレ勇者という1つの問題は「正しさと誤りの対立」でも、「幼さと成熟さの対立」でも、「我が儘さと社会性の対立」でも、「非常識と常識」の対立」でもない。そして驚くべき事に、それは「理想と理想の対立」でも無いのだ。


オレ勇者は全てを思い通りに運ぼうとし、オレ勇者ではない人達も全てを思い通りに運ぼうとする。両者ともに無い物ねだりで違う理想を追い求めているように、一見は見える。


けれども、そのような話ではない。
理想と理想の対立などという問題ではないのだ。
















100円を手にしていたあなたに誰かが近づいてきてこう言った。
「50円は君にあげる。だから残りの50円は僕にちょうだい。」


「ふざけるな!」
きっとあなたはそう思うだろう。





単純な話である。
世界は既にあなたのものなのだ。
















告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
世界はおまえのものだ。





金持ちはおまえが嫉妬する為だけに存在しており、貧乏人はおまえが見下す為だけに存在している。そして貧者はおまえが哀れむ為だけに存在している。


美人はおまえが視姦する為だけに存在しており、美人の恋人はおまえがやっかむためだけに存在している。そしておまえはおまえが快楽と虚しさを得る為だけに存在している。


雨はおまえが傘を差す為だけに降り、風はおまえの目の前の女子高生のスカートをめくり上げる為だけに吹く。目白はおまえが心地よさを感じる為だけにさえずり、鶏はお前が安眠を妨げられた怒りをぶつける為だけにけたたましく歌う。


プロ市民はおまえが嘲る為だけにシュプレヒコールを繰り返し、ネット右翼はおまえが呆れる為だけに荒唐無稽を繰り返す。そしておまえは常に自由だ。何故ならおまえは勇者だからだ。





告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
せかいの全てはおまえのものだ。





曙はおまえの為に太っている。
太陽はおまえの為に輝き続ける。
森善郎はおまえの為に失言を放つ。
プレートはおまえの為に動き続ける。


美しく階段状に並べられた例文はおまえが「たったの4行か」と馬鹿にする為だけにたったの4行で終わる。全てはおまえの為だ。全てはおまえが思う為、全てはおまえが思わぬ為だ。世界の全てはおまえのものだ。





告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
せかいの全てはおまえのものだ。





津波はおまえが目を背けたくなる為だけに腐乱死体の山を築く。
変質者はおまえがやるせなさを抱く為だけに幼女を誘拐して殺す。
不世出の英雄はおまえが感慨を受ける為だけに志半ばで逝ったのだ。





告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
世界はおまえの為にある。





勇者よ、真の勇者よ。
宿命の勇者よ。





告ぐ。
100億万人の勇者達へ。
世界は全ておまえのものだ。
















告ぐ。
100億万人のたった1人の本物の、完全無欠の勇者達へ。
おまえは勇者だ。オレ勇者だ。全てはおまえの為にある。


2005年12月20日火曜日

セックスをしてはいけない理由



一人でセックスをしたり、人と自慰をしたり、布団の中で夢精をしたり、射精をすること自体は悪いことではない。しかし、セックスをするのは可能な限り避けた方が良い。


結婚をしてからの最初の2年は、年末年始を含めて365日1日も休まずセックスをした。セックスなんて当たり前である。そんな僕だったが、結婚生活が3年目に入る頃に休息の重要性を痛感し、以来できるだけセックスはしないようにしている。 それは、セックスがもたらす快楽よりも、悪影響の方がずっと大きいということに気づいたからである。


セックスが常習化するにつれ、次のような症状が出るのだ。特に影響力のある人がこのような状態になると、組織全体が影響されて深刻な症状に陥りやすい。


・I度
  ・目がしばしばする。
  ・節々に脱力感がある。
  ・精液独特の体臭。
  ・恩着せがましくなる。
   例:「おまえに幾ら注ぎ込んだと思ってるんだ。もう一発やらせろよ。」
  ・ホテル代を出している人に文句を言えない雰囲気。


・II度
  ・まぶたの痙攣が止まらなくなる。
  ・体全体が土気色になる。
  ・先のことを考えている人間に対する怒りが芽生える。
   例:「結婚結婚って言うけれどお前はただのまんこなの。」
  ・ネガティブスパイラルに陥る。
   例:「なんで俺はこんな女に入れ込んでいるんだ。」


・III度
  ・人と話をしていても時々意識が飛ぶ。
  ・顔面が緑色/オレンジ色になる。
  ・全身を激しい虚脱感が襲う。
  ・被害者意識を持つ。
   例:「俺はこんなに苦労してるのにあんたは寝転がっているだけかよ。」


・IIII度
  ・自分のブログに凄まじくくだらないエントリーを投稿してしまう。


今?
今はもちろんIIII度。
いやあ、昨晩ワイフが寝かせてくれなくてさ。


古ブロックブログユーザー若干名に絶望をもたらす仕様。




このまま[表示順を変更する]をクリックするととりあえずシステムが適当に順番を設定します。また、この状態から新しいカテゴリーが追加されたときにも同様です。



ブロックブログでは、ある時からカテゴリの並び替えというものが出来るようになったのだけれど、その仕様というのが上の通り、「新しいカテゴリーが追加された時にシステムが適当に並び替えてしまう」というもので、古くからのブロックブログユーザー、しかもカテゴリを乱発するタイプのユーザーにとっては頭痛の種。



時系列順に上から並んでいたカテゴリーも今は昔、並び方が滅茶苦茶。一応はなんとか復元しようとDOTA allstarsプレイ記録を一番上に持ってきたり、といった無駄なあがきはしてみたのだけれど、元通りにする事は既に諦めました。


時系列順のカテゴリ並び、というのはある意味では積み重ねてきた歴史のデータだったわけで、それが完全に失われてしまった今わけもなく凄く悲しい。


カテゴリの並び、ってのも1つの保持したいコンテンツだったと思うのです。


嫌360厨ってのは嫌韓厨と同じ。



見下し馬鹿にする事で快楽を得られる人種というのが地球上には100億人くらい存在していて、X-BOX360を叩いているのはそういう人達。つまり韓国を叩いている奴らとまったく同じ。

だから彼らはどんな些細な事でも見つけだしては「ひぎゃあ!」などとと下品にゲラゲラ書き立て笑い立て、あるいは自身に都合のよい情報のみを懸命になって掻き集め並べ立てる事でX-BOX見下そうとしている。

「いや、そうではなくて本当に」という言葉に続くのは「私たちはX-BOXを嫌っているのではなく、呆れているのだ」などと嫌韓厨と同じ台詞。挙げ句の果てには「嫌っているのでも憎んでいるのでも呆れているのでもない、笑ってるんだよ」と、見下し笑ってアクセスアップ大作戦。対してトルコはほらまあこんなにアイスクリームって来る土人。売りつけるのはアソシエイト。押させるものはアドセンス。

ゲイツとかすみちゃんという、叩けば叩くほどきゃーすてき光線黄色い声援飛んでくる2005年の世紀末のモテアイテムであるX-BOXを馬鹿にして笑って年末年忘れ。それが思惑、魂胆、目的、馬鹿共。インターネット沖に不法投棄された放射性廃液廃棄物。舞い降りた世を覆う面白さ原理主義。一生コリンファレル問答無用の御下劣極品。

そして彼らが自己を投影するのが任天堂www。なんてことない、ただのファミコン世代ファミコン幻想世代。みやぽんだとかいわたんだとか言って、飯野賢冶に毛が生えた程度の連中を崇め立てている奴ら。よくもまあその面でどうぶつの森。いい歳扱いてキモイとしか言いようがない。おまえらいつまでニンテンボーイ。その股間についた出来損ないのキヌガサタケをmyselfで食って2005年度内に1人残らず食あたって死に絶えろ。

任天堂の天皇が我らがビルゲイツに金も名誉も知名度も社会貢献もカリスマ性もありとあらゆる点で負け劣っている事を僻んでいるわけ。ちょうどサッカーとスタークラフトで韓国に勝てない事を僻んで愚痴愚痴言ってる嫌韓厨とまったく同じ構造。それがおまえの愛国心。


対して嫌嫌X-BOX厨、即ちX-BOXを叩いている奴を叩いている奴はどういう人かというと、なんてことはないただのX-BOXユーザー。ウリの祖国を愚弄するとは許せんニダー!とか言って嫌韓厨に喧嘩売ったりしている糞ブロガーとまったく同じ。言うならばただの在日。雌利権かぶれの売国奴。救いようのない真性馬鹿の嫌X-BOX厨叩いている暇あったらX-BOX絶賛してろよ。

マリオさえ出てれば満足出来るNINTENBAKAも任天馬鹿だが、X-BOXバカってのは一人称視点のシューティングであればとりあえず満足できる奴ら。一人称視点シューティングをプレイする人口が多い国はどこもかしこも銃犯罪率が高いという正しくデータが示す本物の犯罪者御用達ゲーム。北米なんて物凄い。FPSゲーマーは全員隔離した方がいい犯罪者予備軍。

それ以前に、みんな大好きで超かっこよくて理論派で理知的な凄くかっこいいくて物凄い面白いエントリーで埋め尽くされている凄い最高なブロガーが運営している大手サイトにゲーヲタの分際でいちゃもんをつけてアクセスアップ大作戦っていったいいつの時代のテキストサイトですか。


だいたい、二十歳を越えてゲームをしているような奴はどいつもこいつも救いようの無い馬鹿ばかり。頭脳は馬鹿、体は大人、趣味と話題は永遠の小学生ってか、うわあキモイ外に出てくんな。普通中学に進学したらゲームなんて卒業するもんなのにそれが出来ない永遠のドリーマーってか。おいおい、何がレボリューションだよ。お前らの人生に一生革命なんて訪れない。死ぬまでマリオとソニックだけが恋人。向こうはお前の事をただの金蔓としか思っていないけどな。あ、これ言っちゃ駄目だった?NGワード?いやあ、参ったな。「ゲームなんてやめたら?」とか言ってくれる友達すらいねえんだろうなあ、君たちには。類は友を呼ぶってって、キモイ廃人どもはキモイ廃人どもで固まってるんだろう。一生近づきたくない世界。

マッチ売ってた気の触れた少女みたく廃熱でぶんぶん震える次世代ゲーム機を抱いて「あったかいよお、あったかいよお、君の鼓動が僕にも聞こえるよお」とか言って毎晩毎晩脳みそぱっぱらぱーになるまでやってるんだろう。いや、もう既にぱっぱらぱーになってるからそういう事が出来るんだろうな。

おまけにブログでゲームを熱く語っている奴ともなれば絶対に近づきたくない見たくない存在すらも認めたくない同じお月様を見上げたくないキモイキモイ不愉快不快真冬に霹靂到来した不快指数2000%の熱帯夜僕らの青く美しい地球を蝕む唯一にして絶対なる害悪。ゲームだけがアイデンティティ見ちゃ駄目、見ちゃ駄目よたかしくんほらお菓子買ってあげるから。気持ちが悪い。吐き気がする。さぶいぼがたつのでキヌガサにでも引き篭もって一生インターネットに出てこないでください。


2005年12月19日月曜日

はちきれんばかり



大きくなって、大きくなって、体がどんどん広がって、今にも部屋中を埋め尽くしてしまうのではないかと思うくらいにはちきれんばかり。

大きくなって、大きくなって、心がどんどん広がって、今にも宇宙を覆い尽くしてしまうのではないかと思うくらいにはちきれんばかり。

これは何か自分が人知を超越したものへと進化しつつあるのかもしれぬと少し心躍らせたのもつかの間、はちきれんばかりに寒い。

なんのことはない、水が凍って製氷シャーシから不格好にはみ出すのと同じように血が氷っては血管を内々から押しい広げて、不格好にはちきれんばかり。

世の中のあちらこちらで今にもはち切れようとしている熱さや若さと対照的にテキストエディタの僅か手前で茫然自失と凍り付いた脳みそが頭蓋をホウセンカの熟れた種子のようにはちきれさせてしまわぬようにと懸命に、懸命に今にも冷たさで身も心もはちきれんばかり。まだ大丈夫、まだ大丈夫。

凍って、割れて、粉々になって、曲がる車を滑らせて、不格好にみんな死ね。


2005年12月18日日曜日

Amazonは馬鹿だ。



インターネットブラウザのお気に入りには厳選した非常に好いているサイトしか入れない主義で、即ち自分自身のブログも無念そこから漏れてしまい、自分のブログに飛ぶときはインターネットの履歴から飛んでいたのだけれど、何かの拍子にブラウザの履歴が跡形もなく消え去ってしまい仕方なく、googleで「真性」と叩いて自分のブログへ飛ぼうとしたところ、検索結果の右側にAmazonの広告、それも「真性」という広告が挿入されているのを見つけてしまい、思わずクリックしたところ、「一致する結果がありませんでした。」と返された。

どういう仕組みでキーワードを選んでいるのかしらないけれど、Amazonさんがあまりにも必死すぎるので、少し悲しくなった。節操無さ過ぎ下品すぎ。


日本の辞書で「夢」という言葉を引くと~対して米国の辞書で「ドリーム」という言葉を引くと



日本の辞書で「夢」という言葉を引くと「叶わぬもの」と書いてある。
米国の辞書で「ドリーム」という言葉を引くと「叶うもの」と書いてある。

そんな日米の辞書に共通する項目が「ジュリーム」。
「セガであること」と書いてある。
シェンムー2.0、来ます!


2005年12月17日土曜日

タダより高いものはない。



もしもgoogleが有料だったら僕は一生ググらずに死んだだろうし、もしも全ての検索エンジンが有料だったならば、検索エンジンを使うことなど無かっただろう。




googleは間々使う。
使うけれど、必須ではない。
googleがあってよかったと心から思った記憶はない。

記憶にないだけで実際はあったのかもしれない。例えばgoogleで初恋の相手の名前を調べて「ああ、」なんて事が実はあったのかもしれないし、もしくはgoogleで自分の名前を調べてインターネットに埋没しきった自分の名前のあまりの凡庸さに歓喜したり、あるいはもつ鍋という料理に使われている内臓肉ははたして鳥のものなのか豚のものなのか、という疑問が自分の中で芽生え、鳥なら俺の勝ちな、とそっち側に全額張ってはgoogleを叩き、それが普通は牛の内臓肉であると知って自分の思い描く世界のもつ鍋と、実際のもつ鍋との乖離に愕然としたり、といった事があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。少なくとも、googleがあってよかったと心から思った事はない。

だから僕はそれを「無料だからたまに使う」だけなのだけれど、世の中には「こんな便利なものが無料だなんて!」と感動しながら使っている人もいくらかはいるのだろうと思う。




無料なのは、googleだけに限らない。
インターネット上ではありとあらゆるものが無料だ。
ホームページ、ブログ、メール、プロバイダー、その他。もう思い浮かばないけれどウェブサービスは無料がデフォだ。どこもかしこもタダだらけだ。けれども、彼らは別にユーザー様の身になって無料という価格設定、即ち出血大サービスを行っているわけではない。無論のこと、善意からタダにしているわけでもない。

彼らが、ウェブサービスの価格を0円に設定しているのは、そういう戦略だからだ。
株式会社光栄が14800円という価格設定で暴利を貪ったのと同じように、あるいはプレイステーションが5800円という価格設定で市場を席巻したのと同じように、タダという価格設定を行い、インターネッターを支配しようとしているのである。

おそらく、金を払うという事は、ある意味では文句を言う権利を買うという事である。少なくとも無料ユーザーは大きな事を言えないし「悪いことをやっている」と思ってもそれに影響力を行使する術はない。「お金を払うのをやめます」というお客様的圧力が通用しないわけだ。そして、それ即ちユーザーから文句を言う権利を奪いさる事こそが彼らの戦略なのだろうと思う。という、序文。




僕はタダというのは高くつくものだと思う。

「タダで提供している」人々は、それ相応の見返りを求めているのだ。googleはもちろんそうだし、ヤフーオークションが無料だった時代もそうだ。各種のブログサービスや、デコユーエスなんかももちろんそうだ。それらインターネット企業が「タダで提供している」理由はわかりやすいものだ。ユーザーを集めて、広告費で稼ぐ。ちょうどテレビ局がやっているのとまったく同じ事を彼らはやっているにすぎない。

しかし、インターネット上にはユーザーを集めて広告費で稼ぐ事を目的としていないのに、いろんなものをタダで提供している人が大勢いる。ブログを書いている人の幾らかが、それだ。




たとえばアフィっているブログを見ると、そのブロガーが何を求めているのかが少なくとも一定はわかる。「コーヒー代を稼ごうって魂胆だな」と、一定の理解が出来る。

あるいはセックスに餓えた若者とイーマーキュリースの脆弱性を見つけてはしゃぎたい中年男性しかいないmixiを見ると、ミクサーが何を求めているのかが少なくとも一定はわかる。「セックスに餓えているのだな」と、一定の理解が出来る。




それら、目に見えた目的を持ってブログを書いている人ではなく、目に見える目的を持たずにブログを書いている人、即ちタダブロガー。彼らこそ、「最も多くを求めている人々」なのだろうと僕は思っている。

だからその幾らかの人々はちょっとしたトラブルがあると癇癪を起こしたり、ぶち切れたり、という事を行うのだろう。アフィリエイトでがっぽがっぽやっているブロガーが、比較的トラブルに対する耐性があるのと比べれば、彼らタダブロガーのトラブルへの対応能力は余りにも拙い。

それは、「インターネット初心者=アフィリエイトをやっていない」という公式以上に、「お金以上のものを求めている」という彼らの心理にあるのではないだろうか。




即ち、タダブロガーはインターネットを自己実現を行う事の出来る何か凄まじい完璧な世界のジュリームワールドとでも思っており、その期待が裏切られるや否や、端から見ていてもちょっと悲しくなるような痛々しい対応をしてしまうのだと思う。




インターネットの世界で最も大きな夢を見ているのは、ジェリーヤンでもなければ、エリックシュミットでもない。どこかの小さな今はまだ名も知れぬ、タダブロガーの誰かなのだ。そして彼らの抱いた端には見えぬ大きな夢は遠からず、1つ残らず砕けて散る。




インターネット、ここは現実1つのリアル。
完璧な世界はジュリームのまたジュリーム。


2005年12月13日火曜日

SBOのプロフェッショナルがソーシャルブックマークされない方法即ち逆SBOを語ると物凄い。



SBO、即ちソーシャルブックマーク最適化などというものは現段階の我が国において存在しないに等しい。何故ならば、SBOというものは今のところはてなブックマークが寡占状態、しかも極めて脆弱なジャンルであるからして、はてなブックマークされるメリットというのは非常に少ない。

はてなブックマークから流れ込むアクセスはブックマーク数*10がせいぜい、並の人気エントリー程度であれば数百といった極めて低いレベルであり、当ブログのPVは2万なのでそれからすると数パーセント程度の些細なものであり、たいした話ではない。

第一、仮にソーシャルブックマーク向けに書く内容あるいは表題などを構成するなどとは、自らの文章を改変する事となり、本末転倒である。そのような事をして何か得られるものがあると思っては大間違いである。それは「最適化」ではなく「生成」であり、SBOの話ではない。

即ち、はてなブックマーク"最適化"というものがあうるとすると、それは投稿時間と投稿曜日である。はてなブックマークの人気エントリーは、午前0時締めで統計が取られており、午後9時頃に投稿された記事が9~12時の間に10ブックマーク、12~午前0時の間に5ブックマークされたとすると、そのエントリーは朝一番の人気エントリー更新時に5ブックマークとしてランキング化される為、本当の人気とはかけ離れた低位置に表示されてしまう。

即ち、初めてブックマークされる時間が午前0時頃になるようにエントリーを書くのが「人気エントリー狙い」であるならば最もよく、それは即ち午前11時30分頃に投稿するのがよいという話になる。

しかし「注目のエントリー」を狙うのならば少し話が違う。
はてなブックマークから流れ込むアクセスは、会社で閲覧している人が多いせいか、午前9時~午後1時にかけてが最も多い。即ち、その初動午前9時の人の流れを捕らえるのであれば、午前9時の時点で「注目のエントリー」に表示されていると最もよい。

しかしながら午後11時半に投稿をしてしまうと、注目のエントリーからは流れ去ってしまっており、はてなブックマークのトップページの注目のエントリー欄には表示されない、といった事態が起こる。

それを避けるのに最もよい方法は、朝まで起きているネットホーリック廃人ブックマーカー5人の囲い込み&午前4時半の投稿である。これならば、はてなブックマーカーの活動が活発化する最初の時間、即ち午前9時に「注目のエントリー欄の上の方」を確保することが出来る。

ただし、午前4時半というのはかなり微妙な時間帯なので、あまり自信が無いエントリーの場合は3時半、あるいは2時半といった微調整が必要になる。かなり自信が無い、ブックマークされるかどうか微妙なエントリーの場合は午前1時20分、就寝前のRSSチェッカー狙いというのが最も適切であると思う。

ただし、各種オンラインRSSリーダーの巡回時間はどうも投稿時間からは少しずれがあるようなので、そのディレイをも考慮に入れれば今日から君もSBOerだ。


それと、もう1つ何よりも大事なのが曜日である。
はてなブックマーカーは人間であるからして、休みの日には活動は静かになり、平日になるとまた息を吹き返す。それも昼間。お前ら仕事しろ。働け。であるからして、大型連休ともなればはてなブックマーカーの活動はほとんど行われなくなる。

ねらい目は、それら眠っていたはてなブックマーカーが目覚める時、即ち連休明けである。連休明け寸前に人気ブックマーク入りしたエントリーははてなブックマークの人気エントリーランキングが更新されるまでの時差、即ち約18時間くらいの間、たったの5ブックマークでも上位ランキングに入る事が出来る。今現在でこそ5だけれど、以前は3ブックマークで人気エントリー入り、などといった事もあったくらいである。

即ち、連休明け前日の午前2時半~午前4時半が最もよいという事になる。




実は、普段はSBOも逆SBOも考えずに適当に書き上がった時間に投稿している僕が一度だけ、思いっきりSBO即ちはてなブックマーク最適化というものを意識した事がある。

それは、とある連休明けに向けて当時最も書きたかった事、即ち超絶自信のあったエントリーがあり、そのエントリーではてなブックマークの人気ランキング1位を取れるだろうと本気で考えていた。

そこで万事を尽くすべく、そのエントリーを大型連休の午前4時半に投稿しようと邪にも思い立ち、それに向けて完璧なタイミングで書き上げて誤字も脱字も直したのだけれど、投稿ボタンを押す直前になって「このエントリーはSBOしなくても人気エントリーランキングで1位を取れる!」という凄まじい自信に押されて、SBOなどという小汚い事をするのはやめたのである。

たとえばSBOを施した結果ランキング1位を取れるよりも、それが何になるってんだ!そんなものより、逆に逆SBOを施してランキング3位、とかの方が凄いではないか!と自分の中で謎めいた正義感、潔さのようなものがぎらぎらと燃えたぎり、考え得る限りに逆SBO的タイミングでの投稿を行ったのである。

そのエントリーは見事に一度も人気エントリー入りする事なく消えた。この時ばかりは本気で自らの行いというものを後悔して泣いた。正直、今でも物凄く無念でならない。仮にタイムマシンを2度だけ使える権利というものがあれば、うちの1度はあのエントリーの投稿時間を連休明けの午前2時半に変更する為だけに使おうと思っている。




はてなブックマークというものの恐ろしさは、「コメントする事」の敷居を下げた事である。はてなブックマークのコメント欄はブロガーからのレスポンスが返されてしまうコメント欄とは違い、コミニケーション的負担が0で書き込むことが出来るが為に、コメンテーターは「コメントをする」という付加ではんなく、「自らのコンテンツを作成する」というオールポジティブメンタリティにて、簡単にコメントをつけまくる事が出来る。

また、足跡的な使い方、即ち「目を通しました」のサインとして使っている人が多いが為に、コメントをつけずに別段の意図無くブックマークする人も非常に多い。

それらはてなブックマーカーの興味が普通の、所謂普通の一般ブログに向くとどうなるかと言うと、月に2~3コメントつくかどうかといった程度の普通のブログに、挨拶も何もない輩どもが10も20もコメントをつけまくる、といった異常事態に陥り、時と場合、あるいはブロガーの属性によっては非常にネガティブな影響を受けてしまう。




そのようなはてなブックマーカー、即ち2005年のインターネットの日本を彷徨う暴徒ピープルの魔の手から逃れる為に真性引き篭もりhankakueisuuが究極の逆SBO、即ちはてなブックマークされない秘訣をお教えします。僕はこの方法でなんと3日連続して被ブックマーク数0を達成しました。即ちSBOされない唯一にして無敵の方法とはエントリーを書かないブログの更新をしない、これ。確実。


月の兎の瞳は何故赤いのか。



兎の瞳は何故赤いのかという1つの疑問は人類の英知によってすぐに解明されたが、月の兎の瞳が何故赤いのかを解き明かそうとした人はいない。

その疑問、即ち月の兎の瞳が何故赤いのかではなく、月の兎の瞳が何故赤いのかを解き明かした人間がいないのはどうしてなのかという1つの疑問に向き合っていると1つの疑問が生まれた。月に兎はいるのだろうか。

いつからかは忘れたけれど、月には兎が2匹いて、餅をついているという話を僕は知っていたし、月とはそういう場所だとばかり思っていた。けれども僕は月など見た事が無い。

確かに、確かに満月を見上げて指さして「ほら、満月」などと言った事はあるが、それは月を見ただけの話であり、月の兎などというものを見た話ではない。

おまけに月とは遙かに遠い。ゲーム、ゲームで何もかもくすんで見えなくなった今、きっと兎は見えぬだろう。その赤さたるや尚更のこと、今や確かめる術は無い。

ならば憶測で物を言うしか無いのだろう。
もはや僕にはそれしか出来ない。

皆がそう言うのだから月には兎が2匹いて、兎は皆そうなのだから、その瞳は赤いのだろう。さきがた僕が確かめた、月の兎の瞳は赤い。


2005年12月10日土曜日

戻るで文章飛んだら一人前。



そりゃあブログを一年も書いているわけだから当然にしてテキストエディタは使っている。タブで書けるテキストエディタで、「真性.ssn」というセッションファイルを作って、全部そこで書いている。

ところが、このタブで書けるテキストエディタというのがくせ者。
F2を押せば全てのファイルに2~3タイピング+Enterキーで飛べるからして、ちょっと他の投稿が書けそうな雰囲気になってはそっちへ浮気し、書いている最中の投稿の喉元まで出かかっている単語が思い出せずに他へ浮気し、といった具合で一向に投稿ボタンまで辿り着けない。

まあ、今現在投稿ボタンまで辿り着けないのには投稿拒否という深刻な状況に陥ってしまっているというのもあるのだけれど、とりあえずテキストエディタではどうも書いて行けない。

テキストエディタは使い勝手がいいから余計に書いた文章が可視化されてつぶらな瞳から脳へ直通跳ね返ってきてしまい、どうも歩みが遅くなってしまい、体力を消耗してしまう。というか、テキストエディタで書ける投稿と書けない投稿がある。例えば、テキストエディタ上では良心の呵責というものが過剰に働いてしまったりもする。

その分、投稿画面の投稿欄というのは気が楽でよい。おそらくテキストエディタを使っているブロガーの中でもかなりの割合の人が、投稿画面直打ち投稿をやっていると思う。



単純に言うならば、テキストエディタを使用すると、
「テキストエディタからコピー」
「投稿画面に張り付け」
「投稿ボタン」
の3段階なのが、
「投稿ボタン」
の1段階で済む。
だいぶ端折ってはいるけれど。



ブロックブログは新規投稿の画面に辿り着くまで、
「ブロックブログのトップページへ飛ぶ」
「パスワード入力してログイン」
「新規投稿をクリック」
「カテゴリをクリック」
「編集画面をクリック」
「~投稿を書く~」
「投稿ボタンをクリック」
「~重くて長い待ち時間~」
「管理ツールトップへ戻るをクリック」
「誤字脱字修正の為に記事編集をクリック」
「記事を選択」
「~誤字修正~」
と、このくらいかかる。
正直、途中でテンションが落ちてかなりの部分が抜けてしまう。

その点はてなダイアリーというのは多分、1/3くらいで済むのではないかと思う。どこが一番ユーザーインターフェース、というか投稿障壁が低いのかは知らないけれど、更新のしやすさ、事後編集の手軽さという点ではあれに勝るものはなかなか無いのではないかとも思う。


2005年12月9日金曜日

ブログにつけられたコメントを全て読むというのはブロガーに課せられた責務である。



とやってしまっては幾らかの不都合が出る。

とはいえ、僕は「コメントは読みません」だとか「読むかどうかわかりません」などと言っているブロガーは全て人と呼ぶに値しないインターネット強いては世界の粗大ゴミであると認識している、のだけれどそれは個人的嗜好に過ぎず、過ぎない。








ブログというのはコミニケーションを貪欲に求める層との相性が非常に良く、インターネットのあちらこちらでは今日も、我が物顔で居座りコメンテーター化した人々とブロガーとの間で三木の干殺しにも等しい一方的な消耗戦が繰り広げられている。それら「読むに値しないコメント」を全て読むのがブロガーに課せられた責務であるとすれば、ブログというフィードバックの敷居を下げたウェブツールの生み出す利益を最も享受しているのは、我が物顔で触れ回るだけの不躾さを有する人々であると言えるだろう。

普通の至って真面目なブロガーは自分のブログにつけられたコメントを全て読むのが当たり前の事であり、ほとんどの人はそうしているだろう。となると、それらの人々即ちブロガーは「読みたくもないのに読まされる」という点において究極にも近い無価値な文章を読まされ続けているという事になる。

無論のこと、それらコメントの多くはコミニケーションやフィードバックを求める人達にとっては福音なのだろうが、世の中にはそうではない人も大勢いて、この当たり前のようにコメント欄で馴れ合いじみた自己紹介を始める人々、大手小町的に言うと、いや、よくわからんが。大手小町的に言うと、、、わからんな。えっと、大手小町的に言うと、、、ええええ。わからんわ。

無論のこと、それらコメントの多くはコミニケーションやフィードバックを求める人達にとっては福音なのだろうが、世の中にはそうではない人も大勢いて、それらのブロガーは当たり前のようにコメント欄で馴れ合いじみた自己紹介を始める人々相手に心も脳も篭もっていない上べっつらだけの儀礼的な大人対応コメントを返し、その「コメントにレスが帰ってきた」という事象を、「馴れ合いOK!」「俺たちはもうお友達!」「マイミク申請通った!」的なサインであると勝手に受け取って、だらだらあ、だらだらあ、とまったくもって読むに値しない応答、やり取り、コメントというものが付けられ続けるという現場を幾らか目撃してはその度に萎える。

とにかく「コメントにはレスをするのがブロガーの責務」とまでは言うつもりはないが、やはりコメントには目を通すのがブロガーの責務ではなかろうか。

とやってしまっては幾らかの不都合が出る。




例えば真鍋かをりのようなブログのブロガーが付けられたコメントに目を通すとなると、それはもう絶望的な時間の無駄である。過去にあのブログにつけられているコメントがどれ程までに無価値無内容ゴミとしか呼べないものであるかは筆舌にほんまもん。

さすがに僕は真鍋かをりや、あるいは真鍋かをりのようなブロガーが「コメントはほとんど読んでいません」と言ったとしても、糾弾する勇気は無い。

とりあえず真鍋かをりの事はもう忘れよう。
彼女と僕の関係はあの日を最後に終わってしまったのだから。
今思えばあの頃の僕らは幼すぎたのだ。あまりにも。








コメントに目を通すのはブロガーの義務である。
とりあえず、僕の一応の結論はそれである。

しかしながら、そうすると幾らかの問題が出てくる。
例えばそれは、トラックバックである。

ブログにはトラックバックという機能がデフォルトでついており、インターネットの大海原を検索エンジン叩いた人や、あるいは読んだ読まないレスポンスからトラックバックが飛んでくる。




コメントに全て目を通すのがブロガーの責務であるならば、当然にしてトラックバックに全て目を通すのもブロガーの責務だろう。

即ちコメントやトラックバックというフィールドは「特定の人間に100%読ませる事が出来る」という正しく極上の著述場に他ならない。

その「100%読んで貰える」という読み保証こそが、コメントやトラックバックというもが人々に受け入れられた1つのポイントではなかろうか。おそらくmixiも似たような物で、特定の人に「必ず読んで貰える」「必ず見て貰える」という保証が欲しい人々が世の中には大勢いるのだろうと思う。




即ち、コメントを読むのがブロガーの義務であるならば、トラックバックを読むのもブロガーの義務であると思う。少なくとも僕はそう考えている。

であるからして、「トラックバックは読みません」などとぬかしているブロガーは全て人と呼ぶに値しないインターネット強いては世界の粗大ゴミであると認識している、のだけれどそれは個人的嗜好に過ぎず、過ぎない。




例えばコメントとトラックバックは読むのが義務であるとする。
そうすれば幾らかの不都合が出る。

なぜならば、インターネットの上にはトラックバックに準ずるフィードバックというものが大量にあるからである。



「送られてきたメールを読むのはブロガーの義務か?」
「送られてきたメールに返信するのはブロガーの義務か?」

「リファラから言及を確認するのはブロガーの義務か?」
「はてなブックマークのコメントを読むのはブロガーの義務か?」

読むのは、読むのは、読むのはブロガーの義務なのだろうか。
当然、そうさ。
そうだろう。





どうも、腑に落ちない。
納得の行く落としどころが見つからない。


戻るで文章飛んだ



おい。


2005年12月6日火曜日

なんなんだ



血が無糖ババロアのようになって思考がくすむ。眠たさのような痛みを伴う朦朧がべちゃりべちゃりと落ちてきて体を覆う。なんなんだ。


2005年12月5日月曜日

蛇頭



筋骨隆々の屈強なる男に「俺はいつだって真実を述べているよな?」と凄まれながら唇喉胃その向こうまで腕を付き入れられては微動だにできず、やがてむんずと掴まれ引きずり出され、ブルンブルンと振り回されては爽快に五色の悪に撃ち当てられては諸共、もろとも砕け散ればこれ本望と凍り付く夜に望んでみてもアルゴスに戦士はいない。

喉の奥、寸での所で鏡に映らないぎりぎりの位置から心臓の中奥深くまで五臓六腑にでろりと横たわった巨大な毒蛇が内腑を食い破らんと上下の顎をじりりじりり、開こうとしている。

そうされてはたまらん、と思うわけではないがきりりきりりと突き刺す痛みに堪えかねて思わず、そうされてはたまらんと思い立ち顔面蒼白、全身の肉という肉神経という神経に力を入れて強ばらせ蛇の口をば懸命に押さえつけ続けていると、毒蛇は死んだ。なんとも、あっけない。

死んだはいいが、死んだは死んだで毒蛇の毒が溶け出して血を巡って行き渡り、指の先つま先脳の髄、魂までをも壊死させる。抜け落ちた鱗が絡まり合って松ぼっくりのようになり舞いのたうち回る。それでも蠢く不義理な心は唇が乾けばチロチロと舐め、脇腹が痛めばくねくねと地を這い、太股に指絡ませる。いったい僕は蛇か蛇か。


2005年12月4日日曜日

モテ、非モテと言うけれど



モテない、愛されない、といったくだらないものを盛んに気にしている人達がいるようだけれど、私から見ればそんなものは些細な問題です。気にすべき事ではない。

モテだ、脱非モテだと言って寝た女の数を自慢している人達の話を丁寧に聞いてみるとそれがよくわかる。彼らが拠り所にしている女の数は100人にも満たない。

世界には100億の人間がいて、その半分の50億人が女。そのうち13歳から19歳の人口は約10億人です。100人斬りと言ったって、たかが100人。10億分の100でしかない。10億分の0との違いは誤差の範囲と言ってよいでしょう。盛んに数字を口にするのは詐欺師のやり口です。

さらに、頼るに値する愛など存在しないというのは数字が示している。世界的に見れば離婚率の低い方に位置する日本でさえ、3組に1組が離婚しているのです。離縁出来ずにいる人も含めれば、もっと酷い数字が出てくる。そんなものは幻想でしかない。

他の誰かから愛されるか否かという不安や悩みは誰もが皆陥りやすいものではありますが、そんな実体のない不確かな事に捕らわれている人を見ると私はなんだかなあと思わずにはいられない。大切なのは世界でたった1人しかいない人から愛されるかどうかです。

自分自身にとって世界でたった1人しかいない人、つまり自分自身から心から愛される事が出来るかどうか、そして自分自身を心から愛せるかどうかだけが生きていく上で大切なことなのです。即ち自分自身を愛せないような奴は今すぐにでも死んだ方がいい。


ブログであるという普通、ブログでないという異常。



メリッサが猛威を振るったのはメリッサが優れていたからではない。
無論のこと、Outlookが優れていたからでもない。

ただOutlookが世界標準であった、というだけの話である。








「あのブログはコメント欄を閉じている」
「あのブログはトラックバックを受け付けていない」
そんな声をよく目にする。
人々は、それがまるで異常なことであるかのように思っている。

「コメントを書いたら削除された」
「トラックバックをしたのに拒否された」
至極当たり前普通の事である「コメント書き込み」や「トラックバック」に対して「削除」「拒否」といった特異な対応を行う人間は、頭がおかしい奴なのだと人々は考える。

本当にそう、なんだろうか。









「ブログとは何か?」なんて問いは今では意味を成さない。何故ならばブログとは何かを知っている人達は、ブログとは何であるかを知っているからだ。

1つ、コメント欄があって。
2つ、トラックバックがある。
1つ、RSSを垂れ流していて。
2つ、パーマリンクURLがある。

事実今では、ブログとはそれを指すのである。
それが標準当たり前の事なのだカー。




なぜそのようなものが普及するに至ったのかは知らない。
確かな事は、そのブログというツールは人々に一定の歓喜を持って迎えられたという事だ。

投稿したエントリ-の全てに個別のコメント欄が備わっているというのは多くの人達にとって福音であったのだろうと思うし、トラックバックという接点の可視化、相互リンク依頼のローハードル化も同じように多くの人達に歓迎されたのだと思う。

だからこそ、こうしてブログは広まったのだろう。




それは標準になった。
即ち、デフォルトである。

そして、そうではない事をしている人達は奇異の目で見られる。
「あいつはおかしい」「あいつは変な事をやっている」、「普通じゃないよ」と。




けれども、それらは本当にそんなにおかしな事なのだろうか?

コメント欄を閉じる。
トラックバックを削除する。
コメント及びトラックバックを許可制にする。
どうしてその位の事で嘲笑われなければならないのだろう。




それらを笑う人達は、その行為自体を問題としているのではなくて「普通ではない」という事を指差し囃し立てているにすぎない。「世間を見てみろ、みんなコメント欄は解放しているし、トラックバックは受け付けているじゃないか。」例外的な行動を取るお前は異常だ、と。

まったく、おかしな事だと思う。




正しい物が標準になるとは限らないし、標準となったものが万人にとって適切であるとは限らない。だから世の中にはIEを使わず異常なブラウザを使い続ける人がいるし、Windowsを使わずに異常なOSを使う人間がいる。ヒュンダイを知らない人もいるし、神を信じない人もいる。セガなんてだっせえよな。

同じようにコメント欄を閉じる人もいれば、トラックバックを受け付けない人もいる。




当たり前ではないからといって、非難される道理は無いはずだ。
いつ、何とき、どのような選択をしたっていいはずだ。

世の中にはコメント欄やトラックバック欄を必要としない人は一定の割合で存在する。けれどもブログというものがこれ程までに普及してしまうに従い、そういう人達もそれに気がつかないままでブログサービスをレンタルし、デフォルトの設定に従ってコメント欄やトラックバックを解放したブログを始める。そしてそのデフォルトの設定を弄っただけで性根が腐っていると100万のブロガーという巨大な総体から蔑まれる。

100万のブログがあって、100万人のブロガーがいて、それは巨大は圧力で、今ではその標準から外れたウェブサイトだってだけで後ろゆび指される時代。

RSSがなんだってんだ。
コメントがなんだってんだ。
トラックバックがなんだってんだ。
そんなもの、やりたい人だけやればいい。

それらがデフォルトだからといって、それに囚われる必要はない。多くのブログにコメント欄があるのはコメント欄が優れているからではなくて、ただそれが標準であると言うだけの話だし、多くのブログがトラックバックというものを受け付けているのは、ただそれが標準であるというだけの話である。そうでなくても構わないはずだ

少なくとも非難される道理は無い。
インターネットには自由という命題があり、それは個人を幸福にするという目的の為に存在している、って事になっているはずなんだから、建前上は。


真性引き篭もり閉鎖について



■ 真性引き篭もり閉鎖について。
先週金曜日から告知を行っておりました真性引き篭もり閉鎖についてですが、候補者の作品が業務多忙などの理由により出揃わなかったため、今回は中止とさせていただきたいと思います。

ご期待頂いた皆様、大変申し訳ございません。

これまでの経緯について簡単ながらご報告させて頂きます。



10月23日(月)
真性引き篭もり閉鎖予定日
そんな昔の出来事はもはや何も覚えていないぜ。

12月1日(木)
メールマガジンにてコンペに関して告知を行う予定でしたが、公開されたメールマガジンプが無いためブログ上で告知しました

12月2日(金)
一年間の予定だったブログ運営期間も気がついたら一年を大きく上回っていたため、改めてブログの方針について1人協議
実際に投稿可能な状態に達したエントリーがいくつかあったものの、なんか気に入らないのであらゆる物事についての中止を決定
という経緯でした。

今後の閉鎖の決定については、別の方法も含めて検討しております。



はてなアイデアミーティング、CNET Japan等では常にでたらめな大本営発表しか行いませんので、脳みそいかれた腰巾着どもはこれまで通りははてなアイデアミーティングを神の一語として崇め続けてください。が、しかしこのままの自分では、同じ事を繰り返す危険性もあるので、自分が己と向き合い納得が行くまで、ブログの更新や露出は控えます。今回、自分の発言によって、ご迷惑をかけた皆様、本当にすいませんでした。

計画が実現できず申し訳ございません。
今後ともよろしくお願いします。
真性引き篭もりhankakueisuu


2005年12月1日木曜日

真性引き篭もり閉鎖のお知らせ。



真性引き篭もりhankakuesiuuの暴言に耐えられなくなりました。いえ、真性引き篭もりhankakueisuuが僕の暴言に耐えられなくなったと書くのが正確なのかもしれません。

即ち、読者の皆様方の愛に耐えられなくなりました。
ありがとうございました、なんて微塵も思っていません。

さよならは言いません、さようなら。
真性引き篭もりhankakueisuu