2017年7月29日土曜日

実在しない架空の存在であるクソリプと、2017年に実在しているクソリプ有料制。

世界はクソリプに溢れている。
何故か。

世界はクソリプに溢れている。
それは、何故か。










世界がクソリプで溢れているのは、世界がクソリプに溢れているからではない。そして、クソリプをクソリプたらしめているのは、クソリプを行う人ではない。クソリプをクソリプたらしめているものは、「クソリプだと思う人」である。クソリプだと思う人が存在しているからこそ、クソリプはクソリプである。即ち、クソリプだと思う人がこの世界から一人残らず居なくなれば、自ずからクソリプは消え失せる。論点はクリアになった。クソリプを作っているのはクソリプを行う人ではなく、「これはクソリプだ」と思う人である。





「おはようございます」
これが典型的なクソリプである。


「おやすみなさい」
そして、これが典型的なクソリプである。




我が国の教育行政は失敗であった。我が国の政府は一丸となり、挨拶というものを推進してきた。朝ならばおはようございます。"おはようございます"、それはクソリプである。夜ならばおやすみなさい。"おやすみなさい"、それは典型的なクソリプである。もはやここに来て、議論は不可能。何がクソリプであり、何がクソリプでないかなど、論じるだけ無駄である。ジャスティンビーバーが「おはようございます」と書けば神対応であり、僕が「おはようございます」と書けばクソリプである。ブルーノマーズが「おやすみなさい」とリプライを送れば神対応であり、僕が「今日もかわいいね。素材がいいから何着てもかわいいんだよねー。花火デートしたいなー」と書けばクソリプである。こんな理不尽があるか。クソリプとは身勝手である。俺が、クソリプと、思ったからクソリプ。それがクソリプの正体である。クソリプはクソリプであるが故にクソリプなのだ。クソリプが何故クソリプであるかの論拠はそれだけ。俺が思うかどうか。それだけが論拠であり、それ以外の一切は存在しない。"わたしが気に入らないリプライ"。それがクソリプなのだ。




「おはようございます」はクソリプである。
「おやすみなさい」もクソリプである。
「おいしそう」もクソリプであり、
「かっこいい」も「凄い」も「かわいい」もクソリプである。


全部クソリプである。クソリプだと思えばその瞬間にクソリプである。"わたしが気に入らないリプライ"は全てクソリプである。気に入らないリプライは、たとえそれがリプライですらなかったとしても、クソリプなのである。リプライですらないのにクソリプ。即ち、クソリプとは、もはや、概念である。気に障ること、それがクソリプである。気に入らないこと。それがクソリプである。






このような事を書くと、クソリプを晒し上げ共通の仮想敵とする事で自らの正当性をアピールし、見知らぬ誰かとの一体感を味わいたい人達は口を揃えて言うであろう。「いや、クソリプというのはおはようございますやおやすみなさいの事では無い。あるいはかわいいねやSUGEEEのことでもなく、もっと具体的に、たとえばこういう例や、あるいはこうこうこうであり、こういった類いのものを私達はクソリプと呼んでいるのです。だってあなたもクソリプだと思うでしょう?」ほざけ。




クソリプとは、クソリプであると思う人が存在するが故にクソリプなのだ。歴史を遡れば、「あなたは素晴らしい王だ」がクソリプとされた。こんなふざけた話があるか。王を称えて素晴らしいと言っただけでクソリプ扱いされてやがて戦争に至る。あるいは「素晴らしい小説だ」もクソリプとされて全力で叩かれた。一体何がいけないのだ。素晴らしい小説を素晴らしい小説だと思い、素晴らしい小説だと言ったら「クソリプやめろ」。これが我が国の文壇である。文壇の分断である。←。また、「素晴らしい選手だ」や「素晴らしいアルバムだ」もクソリプとされた事実がある。歴史は正直である。歴史は嘘をつかない。ありとあらゆるリプライは、クソリプたり得るという事実は既に、歴史が証明してきたのだ。人類の偉大な歩みの中にクソリプは常に存在してきた。何故ならば、人類の歴史の中には常に「クソリプだと思う人」が存在していたからである。いいえ、ウィキペディアで人間の項をひらけば、「人間とは、何らかの存在をクソリプだと思うもの」とまで書いてある。クソリプとは、クソリプである。クソリプと思う人が存在すれば、たとえリプライですら無かったとしても、それはクソリプである。




では、どうすればいいか。
答はもはや明確である。

クソリプだと思う人を滅ぼせばよい。
核爆弾でも巨大隕石でも、なんでもよい。
クソリプだと思う人を一人残らず滅ぼしてしまえばいいのだ。


けれども、核爆弾や巨大隕石は簡単には実装できない。また、どれほどクソリプが有害である事を訴えたところで、「クソリプは迷惑である、故に人類は滅ぼさねばならぬ」などという主張はほとんど誰にも受け入れられないであろう。他の道が必要である。私達には他のアイデアが必要である。







さて。
遂に本題へと辿り着きます。

僕等のインターネットは、クソリプにどう対処してきたのでしょうか。これは、あなた方のインターネットの話ではありません。僕等のインターネットの話です。

答は単純、金です。
金です。




金。
それはこの世の全てである。


昨今、僕等の住んでるインターネットは、急速な勢いでクソリプ有料制へと舵を取ってきた。一番最初にクソリプ有料制を取り入れたインターネットは、アダルトチャット、即ちエロチャットだった。いつの時代も性欲は、最強の課金のトリガーだった。モニタの向こうで誰かが脱いで、それを見るだけなら無料。チャットを打ちたいなら有料。チャットが無いと脱がない。だから課金する。リプを送る。「おっぱい見せろ」。脱ぐ。儲かる。おっぱい見れる。みんな幸せ。

こうしてクソリプは有料化された。そうして始まったクソリプ有料制度は、もの凄い勢いで僕等のインターネットに広まっていった。僕等のインターネットは気がつけば、エロの存在しない、それでいてビデオゲームの存在する動画配信で埋め尽くされた。僕等はもうあの頃のようにネットサーフィンをしない。あの頃読んでいたブログを書いていた人達は、もうみんな死んでしまった。僕等は夜な夜な、誰かのゲーム配信を引きつった笑いを浮かべながら朝まで見ている。時にはクソリプを送りつけながら。

世界は猛烈な勢いで変わってしまった。

own3dやJustinTVといった吹けば飛ぶような夢見るベンチャー企業が将来の取り分を巡って小さなパイを奪い合っていた段階は一瞬にして終わり、グーグル、アマゾン、大連万達、テンセントや阿里巴巴といった、地球上に存在しうるプレイヤーの中でも、最大のプレイヤーらの戦場となった。そして、彼等の動画配信サイトの収益を支えているのは、広告収入や月額課金収入ではない。




そう。
クソリプ有料制度である。




何故グーグルなのか。なぜアマゾンなのか。何故万達であり、なぜテンセントなのか。それは、儲かるからだ。動画配信サイトとは名ばかりの、クソリプ有料制度が儲かる商売だからだ。後発のyoutubeLIVEを別として、他の動画配信サイトでは、収入の6割以上がクソリプである。動画配信サイトのクソリプ有料制は、この地球上に存在している課金システムの中で、SSRガチャにも匹敵する、最強の課金コンテンツなのだ。

金を払えばクソリプに、青赤黄色の色がつく。払った金の色でクソリプの色が変わる。更に金を出せば文字数制限が解除される。もっと金を出せばクソリプが金色に輝き、更に金を出せばクソリプが爆発する。上限まで金を出せばクソリプがレインボーである。しかも配信画面にオーバーレイして、画面中央にでかでかと巨大にクソリプる。もう、クソリプはクソリプではない。何故ならば、クソリプをクソリプたらしめているものは、クソリプだと思う人の存在である。巨大なクソリプが配信画面で七色に光り出した時点で、それはもうクソリプではなく、ただの現金収入である。発破エフェクトと共に爆音で飛び出るクソリプは、クソリプをクソリプだと思う人の心を完膚なきまでに吹き飛ばす。挙げ句、fendaに至っては、クソリプは有料だが、そのクソリプに対する回答動画を閲覧するには金がかかり、その金は質問者、回答者、サービス運営の三者で山分けされる。クソリプを受け取った人ではなく、クソリプを行った人までもが利益を得られる夢のような21世紀を僕等は生きているのだ。





今や、インターネットで一番もうかる商売の1つがクソリプ運営業である。グーグルが、テンセントが、アマゾンが、大連万達が、クソリプ有料制度を主要な収益源の1つにしている。人が存在する。発言が存在する。そこに課金する。クソリプとは夢である。人類の夢である。金のたまごを生む雌鳥であり、指先から溢れ出る砂金である。インターネットは進化の果てに、人々の発言に対する課金を実現してしまったのだ。無料のリプライは無視されるが、有料のリプライは読んでもらえる。あるいはそもそも課金を伴わねばリプライを送れない。月額課金を行っていない人はリプライを送ることすら許されず、月々5ドルの月額課金者だけがリプライを許される。様々な方法がある。どれも素晴らしい。素晴らしい世界である。「おっぱい見せろ」が励みになりますと感謝される世界と、少しも違わない幸福な我らのインターネットである。そんなシステムが僕等の世界を埋め尽くした果てに辿り着いた、「尻と胸のどちらが好きか」だとか、「好きなセックスは」といった、所謂典型的なクソリプが、有料であるが故に感謝され、許され、挙げ句の果てには中国共産党政府に目を付けられてサービスを停止させられるという、正に血で血を洗う、あなた方の住んでいる真っ当なインターネットとは別の世界の、僕等の健全なインターネットである。









インターネットとは、自由である。
誰もが自由に発言出来る場所である。
その世界において、発言に対する課金など、不可能であるかに思われていた。




「ハハ キトク スグ カエレ」5000円。
そんな時代は新聞と共に終わった。

僕等は活版印刷の時代には生きていない。
ここはインターネットである。
発言は無料である。

なのに。
にもかかわらず。
クソリプは有料である。





発言に課金を行う為の唯一の道筋は、誰かが発言を読んでくれるという保証に課金を行う事だ。それがクソリプ有料制度。人々の口に課金する唯一の方法である。1000円分のクソリプは、youtubeの場合は300円がyoutubeの収入になり、残る700円が配信者の取り分となる。クソリプは読まれ、クソリプは感謝され、クソリプが励みになり、クソリプが世界を回す。僕等はクソリプを崇める。僕等はクソリプを奉る。人々はクソリプを心から望み、僕等はクソリプで生きていく。クソリプが誰かを幸せにし、クソリプがこの国の経済を回す。もう既に、僕等だけでなくあなた方も、既にクソリプで生きている。クソリプで回った経済の、恩恵を受けて生きている。今日も感謝。クソリプに感謝。今も休まず世界経済を回し続ける、僕等の血であり肉である、有意義なクソリプに感謝をこめて。命の源たるクソリプに、この人生の感謝を込めて。












平和九大。


実は、我が国にも、有名なクソリプ課金制度があります。それが握手券です。初回限定音楽CDとは名ばかりの、握手券付きのプラスチックを大量に売りつけて、僅か3秒の握手という名のクソリプを、人々は有り金はたいて購入します。さて、ここで問題になるのは、金です。金の問題です。




悪名高いAmazonの取り分は4割。
クソリプを受け取る人に、残りの6割が届きます。

悪名高いGoogleの取り分は3割。
クソリプを受け取る人に、残りの7割が届きます。





果たして、我が国の握手券という名のクソリプは、クソリプを受け取る人に、何割のお金を分配しているでしょうか。愚問です。0です。0割です。零割零分零パーセント。秋元康が様々な利益団体と共に作り上げた、握手券という名の、我が国のクソリプ有料制度は、一円の収益をも分配しないのです。いったい何をもって健全とし、いったい何をもって搾取と呼ぶのかの教養を、僕は持ちません。それでも、僕達のインターネットは、あなた方の生きている日本社会よりも、遙かにマシな世界のように思えます。話はここで終わります。











クソリプは、架空の存在です。
クソリプと思う人は存在します。
けれども、クソリプは実在しません。


これは、心の問題です。
クソリプと思う人の心の問題です。






クソリプなんて、札束で殴れば消えるのです。
クソリプとは、クソリプと思う人が、クソリプと思うが故にクソリプなのですから。







クソリプを有料化しましょう。
全てのクソリプを有料化しましょう。

いいえ、僕が今更言わなくても、あなた方のインターネットではなく、僕等のインターネットではもう既に、遠い随分と昔から、クソリプは既に有料でした。クソリプの有料化に失敗した人達が、クソリプを叩く事によって、奇妙な一体感を得て、たのしく盛り上がっているのです。



クソリプは存在しません。
クソリプだと思う人が存在しているだけです。
クソリプを叩きたい人が、大勢存在しているだけです。







クソリプは、架空の存在です。

2017年7月26日水曜日

サカナバッカの神謝罪に見る、謝る狂気と許す狂気。

 先日、サカナバッカという魚屋さんがインターネットで炎上した後に謝罪し、その謝罪が神謝罪であると、インターネットで大絶賛されました。いったい、サカナバッカはなぜ炎上し、そしてなぜ、サカナバッカの謝罪は神謝罪であるとインターネットで大絶賛されたのでしょうか。



 サカナバッカの炎上理由を一言で表すならば、「クロマグロを売ったこと」です。それだけです。ただし、それだけではありません。サカナバッカが炎上したのは、クロマグロを売ったからではないのです。事実、我が国のいろんな町のいろんなお店で、クロマグロが売られています。けれども、それらは炎上しません。我が国においては、うなぎも、まぐろも、くじらも、いるかも、象牙も鼈甲も、自由に売り買い出来るのです。なのに、サカナバッカは炎上しました。つまり、サカナバッカの炎上理由は、クロマグロを売ったことではありません。では、なぜ、サカナバッカは炎上したのでしょうか。








サカナバッカの炎上理由は、大きく分けると3つです。

1,産地偽装。
2,漁法偽装。
3,虚偽説明。




サカナバッカの炎上は、「緊急特売!天然生本鮪 豊漁につき、シーズン最安値で大特化!!100g498円~」という、Facebookにおける鮪販売の告知に対してついた、市原岳洋さんの「メジマグロですか?」という問いから始まりました。メジマグロとは、産卵可能な年齢に達していない、クロマグロの幼魚のことです。概ね、20kgくらいまでの本マグロを、メジマグロと呼ぶそうです。



「長崎県壱岐の釣り物(魚体40キロ以上)を扱ってます。」
というのが、市原岳洋さんの問いに対するサカナバッカの回答でした。




ここで最も重要なのは、サカナバッカの炎上理由です。
サカナバッカが炎上したのは、クロマグロを売ったからではありません。
サカナバッカが炎上したのは、市原岳洋さんの問いに対して、「長崎県壱岐の釣り物(魚体40キロ以上)を扱ってます。」と回答したからです。もう一度確認しますが、我が国において、クロマグロを売って炎上することはありません。何故ならば、私達の政府がクロマグロの販売を許可しているからです。うなぎだって、マグロだって、象牙だって、鼈甲だって、全部合法です。クロマグロの漁獲、並びに販売は完全な合法であり、正しい商売です。クロマグロは、我が国のどこの町でも購入可能です。合法的に食べられます。




サカナバッカが炎上したのは、クロマグロを売ったからではありません。
「長崎県壱岐の釣り物(魚体40キロ以上)を扱ってます。」
と回答したからです。



この、サカナバッカの回答には、3つの問題が潜んでいました。
それ故に、サカナバッカはインターネットで炎上したのです。






1,産地偽装。
「壱岐海区では、マグロ漁をしている船は居ません」という、壱岐でマグロの一本釣りをしている漁師のコメントが即座についています。壱岐、対馬を中心に30kg以上のクロマグロが自主規制されており、壱岐でマグロを釣っている船はない、どの組合にも壱岐のマグロは流通していないという事実が、様々な人の口と手によって、淡々と並んでいます。サカナバッカは、壱岐のマグロではないものを、壱岐のマグロと主張したのです。

サカナバッカは、産地を偽装しました。




2,漁法偽装。
サカナバッカは、40キロ以上の釣り物のクロマグロ(本マグロ)を、「豊漁につきシーズン最安値で大特価!!」と称して、100グラム498円で売っています。それに対する最も冷静な指摘は、「40キロ以上の釣り物のクロマグロは、そんな値段では流通しない。」というものでした。一本釣りの国産クロマグロは、いくらクロマグロが安い時期であったとしても、100グラム498円などという値段で販売されるようなものではないのです。ですから、「巻き網によるものであるか、クロマグロの幼魚であるメジマグロの何れかであろう」という指摘が成されたのです。

また、40キロ以上の釣り物の国産クロマグロが、100グラム498円などという価格で市場に出回る代物ではないからこそ、「メジマグロですか?」というコメントがFacebookについたのです。

サカナバッカは、漁法を偽装しました。







3,虚偽説明。

サカナバッカはfacebook上で、漁業関係者や、実際にマグロを釣っている人の問いに対して、詳細な回答を行いました。そこで、サカナバッカが売ったマグロは、「長崎県内(九州本土側)の漁師が壱岐沖まで出漁し、一本釣りによって漁獲」「漁獲されたクロマグロは長崎県内の本土側の港に水揚げ」ということを「確認いたしました。」としています。そして、「壱岐沖で一本釣りによって漁獲されたことを確認しております。」と繰り返しています。

このサカナバッカの回答は、一週間後にサカナバッカの運営企業である株式会社フーディソン代表取締役山本徹名義で出されたお詫びとお知らせの中で、保身の為の虚偽説明であった事が記されています。


サカナバッカは、保身の為に虚偽説明を行いました。







「メジマグロですか?」
のコメントから10日後。

サカナバッカの「ご回答」
から一週間後。


事件に対する謝罪がフーディソン社からの出ます。
そしてその上社罪はネット上で、神謝罪と大絶賛されるのです。










いったい、フーディソン社は何をどのように謝罪したのでしょうか。そして、フーディソン社による謝罪の、どこが神謝罪であると、人々に広く評価されたのでしょうか。何を持って、神謝罪であるとされたのでしょうか。まず、フーディソン社の3つの炎上理由、産地偽装、漁法偽装、虚偽説明、これらそれぞれに対して、フーディソン社がどのように謝罪したのかを、見て行きましょう。











1,産地偽装疑惑に対して。

「調べました。」

サカナバッカ(フーディソン社代表取締役山本徹)は、産地偽装の疑惑に対して、「調べました!」「わかりませんでした!」と回答しています。それが、産地偽装疑惑に対するフーディソン社の回答の全てです。産地偽装疑惑に対する回答はありません。産地偽装に対する謝罪もありません。真相の究明もありません。「調べました」それが、産地偽装疑惑に対する、フーディソン社の神謝罪です。

フーディソンは長い長い謝罪の中で、「私達は偽装していない」「荷受会社に荷主名を照会したところ、荷主名に関する回答は得られず」「だから私達に非はない」と述べています。「現地の漁師が禁漁しているこの時期、福岡市中央卸売市場で釣り物のマグロは無い」という指摘は無視した上で、この謝罪文の後に再び成された「この時期、福岡市中央卸売市場で釣り物のマグロは見ない」という指摘も無視です。

その上で、「重ねてお詫び申し上げます」と彼等は平身低頭謝っています。いったい、何を、誰に、お詫びしているのでしょうか。






2,漁法偽装疑惑に対して。

「調べました。」




漁法偽装に関しても、フーディソン社サカナバッカの態度は全く同じです。釣り物の国産クロマグロは100グラム498円では提供出来ないという論理的な指摘に対して、サカナバッカの回答は、「調べました。」それだけです。なお、調べた結果、わからなかったそうです。

いったい、何を調べたのでしょうか。僅か一週間前に、2日もかけて回答した文章の中では、確認しました、確認しましたと繰り返した事が、僅か一週間後、「調べました!わかりませんでした!」へと後退しています。


なお、サカナバッカは「※荷受会社に荷主名を照会したところ、荷主名に関する回答は得られず」として、全ての調査を打ち切っています。フーディソン社は「調べました」と口では言いながら、調べていないのです。調べる気もないのです。フーディソン社にあるのは、謝罪したいという強い気持ちだけです。フーディソン社山本徹の、人々に広くお詫びしたいという、強い意志だけです。

謝罪すると、どういう良いことがあるのでしょうか?それに対する回答は明白です。サカナバッカのイメージダウンを止め、彼等のイメージが上がる。フーディソン社の利益に繋がる。だからこそ、フーディソン社は全ての疑惑に対して一切回答することなく、「調べました!」「わかりませんでした!」「重ねてお詫び申し上げます」と繰り返しているのです。





3,虚偽説明疑惑に対して。

「ごめんなさい」


「初期の調査で誤った情報をお伝えしたことならびに、特定まで至らなかった点が生じたことにつきまして、重ねてお詫び申し上げます。」虚偽説明に対しては、わりときちんと謝っているような印象を受けます。

けれども、実は、フーディソン社の"お詫びとお知らせ"は、サカナバッカがFacebook上で2日かけて出した回答と全く同じです。フーディソン社は「誤った情報をお伝えしたこと」をお詫びしていますが、サカナバッカのFacebook上での回答と、フーディソン社の"お詫びとお知らせ"に書かれていることは、全ての点で同じです。差違は見当たりません。




サカナバッカは長崎だと言い、
フーディソンも長崎だと言っています。

サカナバッカは一本釣りだと言い、
フーディソンも一本釣りだと言っています。

サカナバッカはクロマグロだと言い、
フーディソンもクロマグロだと言っています。

サカナバッカは本土側の漁港だと言い、
フーディソンも本土側の漁港だと言っています。




おかしな話です。サカナバッカが言ってることと、フーディソン社が言ってることは、全く同じです。長崎と長崎。一本釣りと一本釣り。本土側漁港と本土側漁港。そしてクロマグロと、クロマグロ。にもかかわらず、フーディソン社は「初期の調査で誤った情報をお伝えした」と言っています。一体、何が誤った情報だったのでしょうか。






事の発端。
「メジマグロですか?」
というFacebookについたコメント。

サカナバッカの回答と、
フーディソン社の回答の、
唯一の違いはそこだけです。





サカナバッカは40kg以上のクロマグロだと言い、
一方で、フーディソン社はクロマグロだと言います。
ここだけが、唯一の違いです。

「初期の調査で誤った情報をお伝えしたこと」
フーディソン社山本徹は書きました。




「メジマグロですか?」
それが全てのはじまりでした。

サカナバッカはメジマグロではないと言いました。
フーディソンはクロマグロですと言いました。
メジマグロも、クロマグロです。




「初期の調査で誤った情報をお伝えしたこと」
フーディソン社山本徹は言います。


「初期の調査で誤った情報」
とは、いったいどこに存在しているのでしょうか?

「40kg以上のクロマグロ」という情報が、
なぜ「クロマグロ」になったのでしょうか。






サカナバッカの説明と、
フーディソンの説明の、
違いは唯一そこだけです。

サカナバッカはメジマグロではないと言いました。
フーディソンはクロマグロですと言いました。
違いは唯一そこだけです。




「メジマグロですか?」
全てはそこから始まりました。














では、なぜ、疑惑に対しては一切応えず、全く関係の無いところで「調べました!わかりませんでした!ごめんなさい!」を只管繰り返すだけの、フーディソン社の酷い"お詫びとお知らせ"が、インターネット上では神謝罪だと、大絶賛されたのでしょうか?インターネットの声を拾ってみましょう。





「画像やpdfではなく、ウェブサイトでお詫びしている!」
「経緯が詳細に書かれている!」
「はてブのボタンがついている!」
「日本語におかしなところがない!」
「親会社の社長名義になっている!」
「プレスリリースとしてだされている!」
「お詫びにTwitterシェアボタンが付いているのなんて初めて見た!」



インターネットは口を揃えて言います。
神謝罪だ、と。
見直した、と。
好きになった、と。




私達は、そんなインターネットに生きています。
私達は、そんな時代を生きています。










トラブルはチャンス!
誰かがいいます。


謝罪は最大のチャンス!
彼等に言わせるとそうです。




問題が発生したとき。
その問題に対する対応こそが、評価を上げるチャンスです。

謝罪せねばならない事態に陥ったとき。
そのときこそが、評価を上げる最大のチャンスです。



そんなことは、もうみんな知っています。
インターネットは、チャンスの世界です。
毎日なんらかの問題が発生し、
毎日誰かが謝っています。




みんな、謝罪の素人です。
問題対処の素人だし、
チャンスを活かす素人です。



きちんと謝れる人なんて、滅多と居ません。
「ごめんなさい」
と口では言いながら、
自己正当化をしたいだけの人達で、
世界は埋め尽くされています。




今日もまた、広いインターネットのどこか知らない寂れた場所で、何らかのトラブルが発生し、寄って集って誰かを責めます。そしてたまらず口を割ります。「ごめんなさい、でも、私は悪くない。あいつらが」


それでも、まだ、ましなほうです。
絶対に謝らない人。
発言を消して無かった事にする人。
人だけではありません。
公人だって、企業だって。
印象操作だ。差別だ。
誰もが言います。
みんなそうです。

そんな人達で、僕等の世界は満ち溢れています。

そうです。
世界はチャンスです。
チャンスに満ち溢れています。




インターネットが、酷い謝罪で満ち溢れている空間であるということは、インターネット上で毎日のように行われる、酷い謝罪のパターンを解析し、そのパターンから全てを少しだけずらせば、その謝罪は、神謝罪として奉られるのです。

「これは酷い謝罪だ」
「自己正当化したいだけ」
「全然謝ってない」
「そもそも謝る気ないだろ」

インターネットに発生する謝罪に対して、口汚く暴言を浴びせかける人達は、その酷い謝罪のパターンから少し外れた謝罪を見つけると、喜び勇んでその謝罪を大絶賛します。「検索避けの為のjpegされた謝罪画像じゃなくて、ウェブサイトで謝罪してる!」「謝罪している人の名義が出ている!しかも社長だ!」「会社のトップページからリンクが張られているぞ!」「Twitterのシェアボタンまである!」

ちょろいもんです。




そう。
トラブルはチャンスです。
謝罪は最大のチャンスです。
サカナバッカはビジネスチャンスをものにしました。
それだけの話です。


「メジマグロですか?」
それに対してサカナバッカが行ったのは「違います」という虚偽説明。フーディソンが行ったのは、なるべく誰にも気がつかれないように、メジマグロですと暗に認めることだけ。インターネットはもはや、責任者に土下座してもらいたいだけの、クレーマー集団に成り果てたのです。フーディソンの責任者が土下座をしたので、インターネットはそれを神謝罪だと称えたのです。素晴らしい世界です。素晴らしい時代です。










重要なのは、誰も謝罪など求めていなかった、という点です。

「メジマグロですか?」
「一本釣りですか?」
「どこの漁港ですか?」
全ては単純な疑問でした。

 それに対する回答がフーディソン社から行われていれば、様々な事が明らかになったでしょう。議論も進んだでしょう。メジマグロの何がいけないのか。巻き網の何がいけないのか。なぜ我が国の政府ではなく、九州の漁師がそれぞれ漁業協定を設けて禁漁をしているのか。けれども、そんな僕等の進歩は、実現しませんでした。全てはフーディソンの「調べました!わかりませんでした!」という土下座によって、打ち消されたのです。そうです。フーディソンは最後に、重要な一言を付け加えました。「もうしません」。これが巨大なクレーマー集団と化した、インターネットの溜飲を下げたのです。誰も、謝罪なんて望んでいませんでした。ただ、事実を知りたかったのです。フーディソン社は目的を達成します。謝罪というチャンスを活かすという、彼等自身の目的を。それはwin-winの関係でした。インターネットは、誰かの土下座を見たかったのです。それを上から見下して、大仰に許してやりたかったのです。win-winの関係でした。めでたし、めでたし。




 フーディソン社は大量の情報を持っています。少なくとも、彼等が「40kgのクロマグロである」という虚偽説明を行ったクロマグロが、本当は何グラムのマグロであったのか、そして何匹だったのかという情報はフーディソンが所持しています。また、それがどのような価格でフーディソン社の手に渡ったのかも、彼等は知っています。にもかかわらず、かれらは所持している情報を一切出さずに、誰も追求していないような条項に対して「調べました!わかりませんでした!」を只管繰り返し、「メジマグロですか?」という問いにすら、「40kg以上のクロマグロであった」という虚偽説明を遠回しに認める事で、暗に回答しただけです。そして、彼等は壊れた機械人形のように平身低頭土下座し続け、その姿は日本中のインターネッターを、歓喜の渦に巻き込んだのでした。





インターネットは地獄です。

魑魅魍魎が巣くう世界です。人々は日々、自らが正義の権化となれるジャスティスチャンスを探し求め、憤り、やがては激昂し、糾弾し、そして得意気に許すのです。フーディソンの何も謝っていない謝罪を神謝罪だと騒ぎ立てた人達は、みんなそうです。地獄の悪鬼です。彼等が要求していたのは、謝罪する人の態度問題。責任者が土下座をするかどうか、その一点でした。彼等が評価していたのは、責任者による土下座だけでした。だれかの土下座を横から見て、「俺は許した!」と勝手に許すのは、とても気持ちのいいことなんでしょう。真摯に謝っている演技をしていれば許される。素敵な世界ですね。

「責任者をだせ、責任者を。」
「それが謝る態度か。謝罪する態度か。」




インターネットという総体が、強大な暴徒の集団と化したそんな時代だからこそ、フーディソンのお詫びとお知らせはこの世界において、神謝罪とされたのです。これがインターネットです。ここがインターネットです。







本当に必要なのは、謝罪ではありませんでした。
本当に必要だったものは、土下座ではありませんでした。
事実です。いくつかの事実です。フーディソン社山本徹が、謝罪機会という最大のチャンス到来に際し、「これは握りつぶそう」と決断した、幾つかの、小さな、簡単な、事実だけでした。誰が謝罪を求めたんでしょうか。それは、インターネットです。誰が土下座を求めたのでしょうか。それは、インターネットです。誰が、神謝罪と奉ったのでしょうか。それも、また、インターネットです。




「メジマグロですか?」
そうですね。
----


----
明日やります! / Sakana bacca 梅ヶ丘 -サカナバッカ-
弊社で販売したホンマグロについてのお詫びとお知らせ
弊社で販売したホンマグロについてのお詫びとお知らせ - Twitter
弊社で販売したホンマグロについてのお詫びとお知らせ - はてなブックマーク

やなやつ。

生きたいと強く願って生きていないのと同じように、ブログを書きたいとも思っていないし、ゲームをしたいとも思っていない。何かを強く願った記憶なんてないし、誰かを強く思った記憶もない。僕だけじゃなくて、みんなこんなふうなのかなと思って見たりもするけれど、クリスティアーノ・ロナウドは、きっとこんなふうじゃない。キーボードを眺めても、いやなことばかり。キーボードを眺めなくても、いやなことばかり。人生はいやなことばかり。わたしによるわたしの人生は、いやなことばかり。わたし、やなやつ。とても、やなやつ。

2017年7月25日火曜日

チートはコスパのいい娯楽。

昨日、fps_shakaのPUBG配信を見ていると、最後2対1の局面になったにも関わらず、shakaもSPYGEAも2人とも、43キルを記録しているプレイヤーにヘッドショットで撃ち抜かれ、ドン勝つを逃していました。誰かが言いました。「チートだろうね」。cheatでしょうか?cheatでしょうね。僕もそう思います。案の定、そのアカウントは今見ると、VAC BANをされていました。そのチーターはもう二度と、PUBGを遊べません。PUBGを買う為に支払った、決して安くは無い額を、ドブに捨ててしまったのです。愚かな事です。ただの馬鹿です。

人は、何故cheatをするのでしょうか。
BANされるとわかっているのに。




かつてcheatは自由でした。
そして自由の象徴でした。


ビデオゲームとは、ルールです。誰かが作ったルールです。この世界に住む見知らぬ誰かが、プログラムを書いて作ったルールです。「ゲームをつくろう!」そう思った誰かがルールを作り、そのルールは僕等を縛ります。穴に落ちれば即死だとか、敵に触れるとやられるだとか、ライフが0になれば死ぬとか、あるいはお金がないと物が買えないとか。酷いものです。くだらないです。

僕等はルールに縛られたくて、ゲームを遊ぶのではありません。自由にならない現実から逃れたくて、ビデオゲームをプレイするのです。お金も無い。夢も無い。友も居ない。希望もない。そんな僕等が自由になれる場所、それがビデオゲームなのです。にもかかわらずビデオゲームの世界でも、同じ現実が僕等を待ちます。たとえば、物を買おうとすればお金を要求されます。くだららない。僕等はお金が無いから、夏の素敵な一日にさえ、海にも山にもディズニーにも行かず、一日中ビデオゲームをしているのです。なのに、ビデオゲームの世界においても行きたいところには行けず、買いたい物を買えません。くだらないとは思いませんか。僕は思います。ビデオゲームの世界に友は居らず、ビデオゲームの世界でも金は無く、然りビデゲームの世界においても、夢も希望もないのです。ちょうど僕等が住んでいるこの世界と同じように、夢も希望もないのです。




同じような事を考えた人は、僕以外にも大勢居ました。彼等はゲームをプレイする度に、ゲームは面白いけれど、ゲームのルールはくだらないと思いました。ゲームは自由でなければならない、ビデオゲームに忠実に、そう考えた人達は、ゲームのルールを弄りだしたのです。

思えばアナログゲーム以前、ゲームのルールは自由なものでした。トランプや麻雀、TRPGなどのアナログなゲームには、地方色豊かな様々なルールがあります。どんなゲームにおいてでも、「こうしたほうが楽しめる」と考えた誰かがルールを改造し、新たなルールを作り、多種多様なゲームとルールが世界中に存在しているのです。手でボールを運ぶのはつまらないと考えた人達が足でボールを蹴るゲームを作り、足でボールを蹴るのはつまらないと考えた人達が手でボールを運ぶゲームを作りました。ルールとは、神の裁きではありません。ルールとは、人それぞれが思い思いに、自由に変えてよいものなのです。改変してよいものなのです。豊かさのために。楽しむために。


ビデオゲームとはルールです。そして、かつてのビデオゲームとは、一人の人間が気まぐれに目星をつけ、でたらめに作ったルールでした。今では笑い話になっているように、ファミコン以前のゲーム、あるいはファミコン時代のゲームですら、ビデオゲームのルールはあまりにも理不尽で、時として狂気を孕んだ不条理なものでした。

ならばルールを変えればいい。

どこかの誰かが勝手な思い込みで作ったでたらめなルールのビデオゲームは、見知らぬ人の手に買われ、背中に穴を空けられて、腕をぐりぐりと突っ込まれ、内部に飛び交うデジタルの信号を、少しだけそして巧妙に、ゲームをより面白くする為に、もっとよりよく楽しむために、人々の手により弄られたのです。cheatのはじまりでした。




ゲームのルールを変えること。
ゲームのルールを弄ること。
かつてはcheatと呼ばれていたもの。

今日という時代において、
それはcheatとは呼ばれていません。

今では概ね、Modification。
modと呼ばれているものです。


マインクラフトにも、スカイリムにも、ハーフライフ2にも、modは存在しています。リーグオブレジェンズだって、かつてはウォークラフト3のmodでした。modはゲームをもっと楽しくするための工夫です。modはルールを弄ります。ルールを弄って楽しくします。cheatもルールを弄ります。modはゲームをよりよく楽しむための物です。cheatも同じです。どちらも同じように、ゲームを楽しくする為の工夫です。もちろん、少し違います。


私達が住んでいる世界のルールを変えることは、極めて困難なです。「今日は人を殺したいな」と思っても人を殺すと捕まります。「今日はお金が欲しいな」と思っても、すき家に押し入れば捕まります。「おいしいものが食べたいな」と思っても、食い逃げすれば捕まります。それが僕等の世界であり、それが僕等の現実です。何一つ自由にはなりません。けれどもゲームは違います。ビデオゲームとはルールであり、ビデオゲームとは自由です。僕等が自由になる場所です。殺したいと思えば殺せばいいし、お金が欲しいならお金を増やせばいいのです。データを少し弄るだけで、どんなことでも思いのままです。





1つの疑問が浮かびます。
なぜ、cheatは忌み嫌われるのでしょうか。


かつては、ルールに文句を言うと、「ソースあるから自由に弄ってコンパイルしてね」と門前払いを喰らったものです。それがどうして、現在において、ルールを改変することが、いけないこととされているのでしょうか。いけないこととされているだけに留まらず、口汚く罵られ、まるで犯罪者のように扱われ、ゲームから追放されます。ゲームとは自由であり、ゲームとはルールなのです。ルールなんて、自由に変えてしまえばいいのです。一体、その何がいけないのでしょう。殺したい人が居るけれど殺せない、欲しいものがあるけれど手に入らない、そんな世界にはもううんざりです。そんなものはビデオゲームではありません。現実の劣化コピーです。殺したい人を殺し、刺したい人を刺し、撃ちたい奴を撃つ。消したい奴を消して、金を溢れるほど増やし、欲しい物は全て手に入れる。それがビデオゲームです。その何がいけないのでしょうか。なぜ、自由でありたいと願う事が、自由であるはずのビデオゲームにおいて、追い立てられ、摘発され、糾弾されねばならないのでしょうか。




こたえは明白です。
ビデオゲームとは、今では金儲けの手段だからです。
彼等の飯の種だからです。



今日、ビデオゲームは打ち出の小槌です。テレビをつけても、ラジオをかけても、駅のホームを歩いても、ビデオゲームのCMだらけ。倒産間近のIT企業はたった一本のゲームが売れただけで全ての累積赤字を吹き飛ばし、辺境の独裁国家は1本のゲームが売れただけで国の財政を建て直し、政治体制崩壊の危機を脱しました。想像を絶するくらいの、多くの人達が、ビデオゲームを飯の種にしています。ビデオゲームで潤っています。

かつてのように、あの日のように、「面白いものを作りたいな」と思った人がビデオゲームを作っているのではなく、「お金が欲しいな」と思った人達がビデオゲームを企画し、「金儲けをしたい」と思った人達がビデオゲームを作っているのです。そして実際にビデオゲームを作り、うまい飯を喰い、高い酒を呑み、安い女を抱いているのです。その世界において、cheatは敵です。




ビデオゲームとはルールです。
彼等はルールを作りました。
金儲けの為のルールです。



かつてはcheatが担っていた事を、ゲームのシステムに組み込みました。かつてはcheatによって作られていた、ゲームのバランスを一変させるような強力で夢のあるキャラクターは、今ではガチャから出てきます。ガチャを回す為には現金が必要です。彼等にとって、自由なんてどうでもいいのです。彼等にとって、ビデオゲームなんてものは、どうだっていいのです。大切なのは金です。自分達で作ったルールを自作自演で破壊して、その為の課金をプレイヤーに強いる。ルールを全て支配して、cheatを許さず課金させる。金の為に不自由を押しつけ、金の為に自由を叩く。金の為に課金をしいて、金の為にcheatを潰す。それが今日という日のビデオゲームの姿です。


そうです。
死にました。

自由は死にました。
ビデオゲームは死にました。





困るのです。
彼等は困るのです。

ルールを自由に改変されると、彼等は困ってしまうのです。ルールを変える事が出来るのは、現金だけ。課金だけ。それが彼等の願いです。プレイヤーに際限なく金を使わせる為に、絶対にcheatを許さない。金こそが彼等の行動原理です。口では「ゲームの為」だとか「プレイヤーの為」だとか言っておきながら、その実体は金。金の為です。

かつて我が国のとあるゲーム会社が、ゲームのエディタを訴えました。自由にゲーム内の数値を弄る事が出来るゲームエディタを訴えて、賠償金を勝ち取った上で、それを完全に潰しました。そしてその会社は、自由にゲーム内の数値を弄る事が出来るゲームエディタを売り出しました。彼等が訴えたゲームエディタと同じものを、フルプライスよりも高い金額で売りました。そして、みんなそれを買いました。思えばあの日の時点でもう既に、ビデオゲームは自由なんかじゃなかったのです。気がつけば僕等は虜囚です。見知らぬ誰かが勝手に作ったルールに縛られて、それをただ受け入れるだけの虜囚です。あの日のビデオゲームはどこに行ってしまったのでしょうか。自由に殺して、自由に手に入れて、自由に強くなる。そしてなによりも、自由に楽しむ!そんなビデオゲームは死にました。

手に入れる為には現金が必要。
強くなる為には現金が必要。
楽しむ為には現金が必要。
殺す為には現金が必要。

そんなビデオゲームばかりが生きています。
それはもう、ビデオゲームとは呼べない代物です。




昨今、cheatに対する風当たりは、あの頃よりも遙かに強くなっています。金です。金のせいです。全部、金のせいです。残念な事に、ビデオゲームはその誕生より40年で自由から、巨大産業へと成り下がりました。全てを金で解決させるため、cheatは追いかけ回されます。LANケーブルを行き交うデータの隅々まで調べられるばかりか、見ているウェブサイトまで監視されます。cheat情報が行き交うような、彼等にとっては邪悪な、そして私達ゲーマーにとっては自由なウェブサイトにアクセスしているユーザーは、即座にブラックリスト入り。他の人より遙かに強く監視され、少しでも怪しい動きをした瞬間に即検出。即BAN。彼等は言います。「あなたは規約に同意した。」。彼等は言います。「監視は規約に書いていた」。

こんな事が許されていいのでしょうか。インターネットは自由の為ではなく、監視の為に使われています。ビデオゲームを口実に人々は監視され、ビデオゲームとは名ばかりの巨大産業によって、私達は全ての行動を監視されています。ゲームを起動していない間中もずっと、誰も読まないような英文の規約によって正当にインストールされた、監視ツールが動いているのです。

監視社会は強大な独裁国家によってではなく、ビデオゲームによって成し遂げられました。僕等にはネットサーフィンすらも許されていません。たかが金の為に、自由は踏みにじられたのです。今日も、踏みにじられています。世の中金です。金が全てです。結局のところ、全部お金なのです。お金で買えない幸せなどありませんし、お金で買えない夢などないのです。お金で引けないSSRもなければ、お金で確定しないURもありません。だからこそお金を持たない僕等はビデオゲームをプレイし、だからこそお金が欲しい彼等はビデオゲームを作るのです。そうやって社会は回っています。そうやって僕等は生きています。




けれども、皮肉なことがおこりました。
彼等は一線を越えてしまったのです。

踏み抜いてはいけない床を、
巨大なブルドーザーに乗り、
知らぬ間に踏み抜いていたのです。




現代、ビデオゲームの値段は上がり続けています。
かつて1万6800円もしたビデオゲームのカートリッジは、私達のプレイステーションによって解放され、5800円にまで下がりました。学生が自らの小遣いで買えるような、手頃な価格に落ち着いたのです。けれども、流れは変わりました。今では16800円どころか、1つのゲームに5万も、10万も、あるいはもっとそれ以上に、法外な値がついています。ゲームの価格はどこまでも、上がり続けています。

教徒いう日においてビデオゲームは、ビデオゲームの中の世界において自由を失ってしまったというだけに留まらず、ビデオゲームの外の世界においても、人を不自由にしています。ビデオゲームは私達を捕縛し、ビデオゲームは私達を強制的に働かせます。私達はビデオゲームの為に労働し、ビデオゲームの為に老いていきます。かつてはじゃがいも畑がそうしたように、綿花畑がそうさいたように、ビデオゲームは僕等を毎日追い立てます。私達はビデオゲームの奴隷です。ビデオゲームの為に働き、ビデオゲームの為にコンビニに行き、ビデオゲームの為に爪でコードを削ります。そしてビデオゲームの為に死にます。






彼等は、やりすぎました。
少し、やりすぎました。

ちょっと、やりすぎたのです。
少しだけ、度が過ぎました。

















cheatは無料ではありません。
では、cheatは幾らでしょうか?

cheatは際限なくお金を支払わせようとするでしょうか?いいえ、しません。cheatは任天堂のように、不完全なストーリーのゲームを売りつけた上で、完全なストーリーを遊びたければ金を払えと、まるで出来損ないの孫のように金をせびったりはしません。cehatは任天堂のように、新しいキャラクターを実装したから手に入れたければ金を出せと人々を労働に追い立てるようなことはしません。




cheatの為に必要んあるのは、cheat用のアカウントだけ。
PUBGに話を戻しましょう。
その価格は3300円です。
僅かに3000円です。



たとえば3時間でBANされたとして、1時間1000円です。
映画を見に行くのと変わりません。
カラオケに行くのと変わりません。
スロを打つより遙かに安く、
ディズニーに行くより安くつきます。

手頃な額です。
そして自由です。






あの頃のビデオゲームと同じように、手に入れたいものを手に入れ、殺したい奴を殺し、強くなりたいから強くなる。それが僅か3000円です。考えてみてください。私達が生きている2017年のビデオゲームにおいて、3000円で何が出来るか。10連ガチャを回せますか?レア以上が確定で手に入りますか?2ヶ月間獲得経験値と獲得ゴールドが1.5倍になりますか?倉庫の所持上限が増えますか?フルプライスのゲームを買ったにも関わらず、新たなキャラクターが1キャラクター増えますか?水着に着せ替える権利が手に入りますか?ボス戦へのショートカットが開けますか?ただそれだけですか?そうですか。そこに自由は無いですね。


面白いビデオゲームを作りたいと願う人達がビデオゲームを作るのではなく、金が欲しいと思う人達がビデオゲームを作るこの時代において、たった3000円ぽっちでは、どんな自由も手に入らないのです。そう、cheatを除いては。







かつてcehatは高いものでした。
リスクを伴うものでした。

cehatを使うとBANされます。
二度とゲームを遊べなくなります。
高い金を出して、ビデオゲームを買ったのに、BANされる。
もう二度と遊べない。
それは、おそろしいことでした。
明確なリスクでした。
僕等は臆病に震えてました。



だから僕等は恐れていたのです。
BANされる事を恐れていたのです。

ビデオゲームを買う為に、支払った金が無駄になる。
ビデオゲームを買う為に、費やした汗が無駄になる。

けれども、今は違います。
恐れるものはありません。




僕等を変えたのは、彼等です。
彼等が僕等を変えたのです。


面白いゲームを作る為ではなく、ただ金の為にゲームを作り続けた、彼等が僕等を変えたのです。プレイヤーを楽しませる為ではなく、ただ金の為にゲームを作り続けた、彼等が僕等を破壊したのです。破壊されずに残ったものは、無造作に床に散らばった、プラスチックで作られた、iTunesカードの残骸です。僕等の金銭感覚は、彼等によって完全に、破壊し尽くされてしまいました。




3000円?
たったの3000円?
安い!




僕等は変わったのです。
そんなふうに、変わったのです。
5000円でも、7000円でも、それは同じです。
8000円でも、1万円でも、それは同じです。


安い!
安すぎる!

安いものです!
安い買い物です。




ビデオゲームに寄生して、軒先までも乗っ取った、連中が値札に書き込んだ、法外な額と比べれば、それはまるでただ同然です。適正な価格であり、妥当な費用です。僕等は破壊されました。ビデオゲームに対する金銭感覚を、僕等は失ってしまったのです。それは、彼等の願いでした。プレイヤーの金銭感覚を完全に破壊しつくすこと、それこそが彼等の願いだったのです。プレイヤーの金銭感覚を如何にして壊すか。素敵な家庭で育ち、素晴らしい教育をうけ、立派な大学を出た、完璧な人生を謳歌する、頭のよい人達が、熟考に熟考を重ね、トライアンドエラーを繰り返し、僕等の金銭感覚を完全に破壊する事にその労力を費やした結果、僕等はどうかしてしまったのです。完全に壊れてしまったのです。



結果として、cheatは安くなりました。
今も昔も、cheatの値段は変わっていません。
似たようなものです。



変わったのは、ビデオゲームです。
変わってしまったのは、僕等です。

ビデオゲームを破壊したのは彼等であり、
僕等の金銭感覚を破壊したのも彼等です。





「cheatをする人の気持ちがわからない」
そんな事を平気で言える人は、ビデオゲームを知らないのです。

「cheatをする人の気持ちがわからない」
そんな風に宣う人は、ビデオゲームプレイヤーではありません。
心からビデオゲームを望んだことのない、私達とは別の生き物です。






ビデオゲームとは、自由です。
自由こそがビデオゲームなのです。
それは今では完全に失われてしまいました。

ビデオゲームは僕等を働かせ、
ビデオゲームは僕等から奪い取ります。




自由を奪い取り、
金を奪い取り、
夢を奪い取り、
希望を奪い取ります。

そして何よりも、
ビデオゲームを奪い取ります。




私達を破壊し、
私達の人生を破壊し、

そして何よりも、
彼等は自由を破壊したのです。
ビデオゲームを破壊したのです。





僕等は、死にました。
彼等に、殺されました。

死んでいるだけでいいのでしょうか?
殺されたままでいいのでしょうか?

そんなのは、いやです。
セガみたいな人生は、いやです。






生き返る時です。
蘇る時です。

自由とは、与えられるものではありません。
自由とは、勝ち取るものです。

真にビデオゲームを愛する私達は、
今こそ立ち上がる必要があるのです。




自由を取り戻す為に。
ビデオゲームを取り戻す為に。

人々を解放する為に。
ビデオゲームを解放する為に。




今こそ、その時なのです。
自由の為に闘う時が来たのです・

「もう遅い」なんてものは、世の中には一つもありません。手遅れなどという言葉は、実在しない架空の概念なのです。成功した誰かが他人を見下し、ライバルを蹴落とすために、捏造した架空の存在なのです。今からでも間に合います。今からでも遅くはありません。




闘うべきです。
闘うべき時です。
そして、闘うに値します。




共に、ビデオゲームを手に入れようではありませんか!
共に、ビデオゲームを取り戻そうではありませんか!

ビデゲームが自由であったころを。
そこに自由があったころを。

僕等の手で、取り戻そうではありませんか!






退屈で頓挫した人生から逃げて、ビデオゲームに逃げ込んだあの日の自由を。不条理で理不尽なルールから逃げて、ビデオゲームを頼ったあの日の自由を。日常に叩きのめされて、どこにも居場所がない僕等を、救ってくれたビデオゲームを。今こそ救い出す時なのです。今でなくて、いつでありましょう。今日でなくて、いつでありましょう。ここで闘わないと、僕等は一生を闘わずして死んでいくのです。ここで闘わないと、僕等は一生このままです。ここで僕等が闘わないと、ビデオゲームを自称する、ビデオゲームではない彼等の飯の種に、一生を踏みにじられて過ごすのです。そんな人生はうんざりです。今こそ撃ち殺すべきなのです。shakaを、撃ち殺すべきです。ARで、SRで、拳銃で、彼等が大空へとへ飛び出すよりも先に、あるいは拳で撃ち殺すべきです。たったの300ドルです。たったの300ドルでshakaを殺せるのです。みんなで殺しましょう。みんな殺すべきなのです。ビデオゲームを救う為に、自由を取り戻す為に、僕等は闘うのです。立ち上がるのです。steamのアカウントを新しく作り、PUBGを購入し、中華サイトでcheat toolを買い、連中の配信をゴースティングし、同じタイミングでマッチングボタンを押し、配信を見て居場所を突き止め、そして撃ち殺すのです。オートaimという正義によって、一人残らず皆殺しにするのです。ビデオゲームを撃ち殺すのです。ビデオゲームの形をした、ビデオゲームではない何かによって、完全に支配されてしまった世界に、僅かな傷を付けるのです。一人一人の力は小さくても、私達真のビデオゲームプレイヤーが、それぞれの力を持ち寄って、心を一つにして闘えば、何れは大きな亀裂となって、ビデオゲームを破壊して、ビデオゲームを取り戻せるでしょう。僕は買いました。あとは撃つだけです。時は来ました。月は満ちました。共に立ち上がりましょう。闘いましょう。ビデオゲームの為に。ビデオゲームを取り戻す為に。ビデオゲームを救う為に。ビデオゲームこそが唯一の自由であった、あの日のビデオゲームの為に。ビデオゲームの未来の為に。そして自由の為に。そしてなによりも、自由の為に。

2017年7月22日土曜日

泳ぐのに情熱はいらない。

泳ぐのに必要なものは、水と筋肉である。水と筋肉があれば人は自ずから泳ぎ出す。そこには意志も情熱もいらない。僕はこんな人生に陥って尚、少しでも前に進みたい。米を炊く体力を失って豆腐をすすり、シャワーを浴びる気力を失って汗を摘まむ。ここにあるのは死体だ。腐っていないだけの死体だ。異臭はする。するだろう。確かめる人はいない。僕の人生には僕以外、もう誰もいない。誰との接点もない。僕は朝から晩まで毎日ビデオゲームをし続けることで、現実世界における全ての接点を失い、晩から朝まで毎日ビデオゲームをし続けることで、インターネット上での全ての接点をも失った。僕のブログは死んで久しい。それは、僕がブログを書く情熱を失ったからではない。僕はもう死んだんだ。生き返る術は無い。

人間の体は余りにもファンタスティックだ。指を動かそうとすると指が動くし、目を閉じようとすると目が閉じる。何をする気力も起きないと口では述べながら、割り箸のビニール袋に結び目を付け剛性を生み出し、元の状態ではか弱かったビニールが、真っ直ぐ天へとそそり立つのを、なんとなく眺める事は出来る。漬けることは出来る。頭痛薬の空包を、セパレートで全部切り離し、それらを全て丁寧に重ねて、レンズを重ねて顕微鏡を発明したドイツ人が、はじめて得体の知れない目に見えない動く何かを、目にした時の気持ちを思う事も出来る。1つの残念な明瞭な事実がある。僕は死体ではない。

毎日々々、いろんなものを諦めてきた。いろんなものに憧れては、それを1つづつ諦めてきた。おいしいものを食べたい。水道水以外のものを飲みたい。シャワーを浴びたい。でもめんどくさい。けれども、この人生にそんなものは必要ない。僕は何も渇望していない。本当に欲しいなんて思っていないものを少しだけ欲しがり、本当に欲しいなんて思っていないものを諦め続けた。僕には欲しいものがない。私には夢が無い。そして情熱がない。意志がない。

自分自身がこの人生で、ちっとも前にすすめないのは、意志が足りていないから。情熱が欠けているから。そんなふうに自分を見下し続けた。学校で孤立して元気さを完全に失い、3DSでゲームばかりしている田舎の小学生みたいなものだ。軽蔑していた。馬鹿にしていた。突然背中に見知らぬ痛みを覚えて気がついた。僕は田舎の小学生じゃない。何故ならば若さがない。どこまで行ってもポジティブな言葉は出てこない。だから、どこへ行くのもの止めにした。どれだけ記憶を辿っても、出てくるのは失敗体験だけだ。おなかだけはすく。

自分自身がこの人生で、少しも前にすすめないのは、意志が足りていないからだとか、情熱が欠けているからだとか、様々な理由を探して自分自身を非難してみる。またしても僕は叱責される。何も悪いことなんてしていないのに。何もしていないのに。足りていないのは水。辺り一面のWATER。そうすれば僕だって泳ぎだし、人生は前に進むだろう。筋肉はある。僕はやれる。必要なのは水だけ。そう思っていた。沈んでいく。水も無いのに沈んでいく。2017年。7月21日。

2017年7月17日月曜日

2017年7月6日木曜日

ではどうすればよかったのか。

今年もこの話題の季節です。口にするのもおこがましいのだけれど、こんな話も今年で最後になりそうなので、記念に書いておきたいと思います。

結論から言ってしまうと、世界を3つのブロックにわけ、それぞれの地域でオンライン予選をし、上位18チームを選抜します。それぞれの地域の上位18チーム、合計54チームを一カ所に集めて大会を行い、上位18チームがシアトルへの切符を得ます。これで全て解決します。

毎年言い続けてきたことですが、招待というシステムは、どのチームが招待されようと、決して正当なものにはなりません。正当な招待というのは存在しないのです。前年度優勝枠というものが存在しているならば、それは正当なものですが、枠ではなく、招待というシステムはそのシステム自体が不正義であり、どこが招待されようと、不正な出場であり、不正なものです。もちろん、今年の招待に関しても明らかに不正です。どこがという話はしません。7チーム全てが不正です。

招待が不正ならば、予選組は良いのかというと、それも違います。予選の結果出場するチームも、全て明らかな不正です。特定の地域で予選を行うことは、明らかな不正義です。何故南米で予選が行われ、中東では予選が行われないのでしょう。なぜCISで予選が行われ、アフリカでは予選が行われないのでしょう。なぜ中国で予選が行われているのに、普段は中国サーバーで遊んでいるプレイヤーが平然とアジア予選に出てくるのでしょうか。

どの地域で予選を行うか、どの地域の予選に何枠を用意するか、という点には必ず人の手が絡みます。それはもう、ビデオゲームではありません。政治です。マーケティングです。ビデオゲームは政治であってはいけませんし、eSportsはマーケティングであってはいけないのです。公明正大な、誤審の存在しない公正なものでなければいけないのです。当たり前の話です。

即ち、「どの地域に何枠を用意するか」という点を避ける為には、全ての出場チームが特定の地域から発生してしまう可能性を担保しておく必要があります。その為には、世界を3つのブロックにわけ、それぞれの地域で18チームを選び、3地域合計54チームを特定の場所に集めて最終予選を開催する以外に方法はなかったのです。なお、世界のどこかに54チーム300人を集めての大会は、今では日常的に行われている事であり、卓上の空論ではありません。なぜやらなかったのか、それはvalveという組織が、公正さや正義というものに、一切の関心を持たない集団であるから、というのはまた別の話なのか、あるいはそういう話なのかは、いずれ、また。


結果として、今年もまた、リヴァプールとアーセナルが出場権を取り逃した大会に、ヴァンツァーレ甲府とロアッソ熊本が出場するような夏を、僕等はこの先ずっと、迎える事になるのでした。