2017年7月25日火曜日

チートはコスパのいい娯楽。

昨日、fps_shakaのPUBG配信を見ていると、最後2対1の局面になったにも関わらず、shakaもSPYGEAも2人とも、43キルを記録しているプレイヤーにヘッドショットで撃ち抜かれ、ドン勝つを逃していました。誰かが言いました。「チートだろうね」。cheatでしょうか?cheatでしょうね。僕もそう思います。案の定、そのアカウントは今見ると、VAC BANをされていました。そのチーターはもう二度と、PUBGを遊べません。PUBGを買う為に支払った、決して安くは無い額を、ドブに捨ててしまったのです。愚かな事です。ただの馬鹿です。

人は、何故cheatをするのでしょうか。
BANされるとわかっているのに。




かつてcheatは自由でした。
そして自由の象徴でした。


ビデオゲームとは、ルールです。誰かが作ったルールです。この世界に住む見知らぬ誰かが、プログラムを書いて作ったルールです。「ゲームをつくろう!」そう思った誰かがルールを作り、そのルールは僕等を縛ります。穴に落ちれば即死だとか、敵に触れるとやられるだとか、ライフが0になれば死ぬとか、あるいはお金がないと物が買えないとか。酷いものです。くだらないです。

僕等はルールに縛られたくて、ゲームを遊ぶのではありません。自由にならない現実から逃れたくて、ビデオゲームをプレイするのです。お金も無い。夢も無い。友も居ない。希望もない。そんな僕等が自由になれる場所、それがビデオゲームなのです。にもかかわらずビデオゲームの世界でも、同じ現実が僕等を待ちます。たとえば、物を買おうとすればお金を要求されます。くだららない。僕等はお金が無いから、夏の素敵な一日にさえ、海にも山にもディズニーにも行かず、一日中ビデオゲームをしているのです。なのに、ビデオゲームの世界においても行きたいところには行けず、買いたい物を買えません。くだらないとは思いませんか。僕は思います。ビデオゲームの世界に友は居らず、ビデオゲームの世界でも金は無く、然りビデゲームの世界においても、夢も希望もないのです。ちょうど僕等が住んでいるこの世界と同じように、夢も希望もないのです。




同じような事を考えた人は、僕以外にも大勢居ました。彼等はゲームをプレイする度に、ゲームは面白いけれど、ゲームのルールはくだらないと思いました。ゲームは自由でなければならない、ビデオゲームに忠実に、そう考えた人達は、ゲームのルールを弄りだしたのです。

思えばアナログゲーム以前、ゲームのルールは自由なものでした。トランプや麻雀、TRPGなどのアナログなゲームには、地方色豊かな様々なルールがあります。どんなゲームにおいてでも、「こうしたほうが楽しめる」と考えた誰かがルールを改造し、新たなルールを作り、多種多様なゲームとルールが世界中に存在しているのです。手でボールを運ぶのはつまらないと考えた人達が足でボールを蹴るゲームを作り、足でボールを蹴るのはつまらないと考えた人達が手でボールを運ぶゲームを作りました。ルールとは、神の裁きではありません。ルールとは、人それぞれが思い思いに、自由に変えてよいものなのです。改変してよいものなのです。豊かさのために。楽しむために。


ビデオゲームとはルールです。そして、かつてのビデオゲームとは、一人の人間が気まぐれに目星をつけ、でたらめに作ったルールでした。今では笑い話になっているように、ファミコン以前のゲーム、あるいはファミコン時代のゲームですら、ビデオゲームのルールはあまりにも理不尽で、時として狂気を孕んだ不条理なものでした。

ならばルールを変えればいい。

どこかの誰かが勝手な思い込みで作ったでたらめなルールのビデオゲームは、見知らぬ人の手に買われ、背中に穴を空けられて、腕をぐりぐりと突っ込まれ、内部に飛び交うデジタルの信号を、少しだけそして巧妙に、ゲームをより面白くする為に、もっとよりよく楽しむために、人々の手により弄られたのです。cheatのはじまりでした。




ゲームのルールを変えること。
ゲームのルールを弄ること。
かつてはcheatと呼ばれていたもの。

今日という時代において、
それはcheatとは呼ばれていません。

今では概ね、Modification。
modと呼ばれているものです。


マインクラフトにも、スカイリムにも、ハーフライフ2にも、modは存在しています。リーグオブレジェンズだって、かつてはウォークラフト3のmodでした。modはゲームをもっと楽しくするための工夫です。modはルールを弄ります。ルールを弄って楽しくします。cheatもルールを弄ります。modはゲームをよりよく楽しむための物です。cheatも同じです。どちらも同じように、ゲームを楽しくする為の工夫です。もちろん、少し違います。


私達が住んでいる世界のルールを変えることは、極めて困難なです。「今日は人を殺したいな」と思っても人を殺すと捕まります。「今日はお金が欲しいな」と思っても、すき家に押し入れば捕まります。「おいしいものが食べたいな」と思っても、食い逃げすれば捕まります。それが僕等の世界であり、それが僕等の現実です。何一つ自由にはなりません。けれどもゲームは違います。ビデオゲームとはルールであり、ビデオゲームとは自由です。僕等が自由になる場所です。殺したいと思えば殺せばいいし、お金が欲しいならお金を増やせばいいのです。データを少し弄るだけで、どんなことでも思いのままです。





1つの疑問が浮かびます。
なぜ、cheatは忌み嫌われるのでしょうか。


かつては、ルールに文句を言うと、「ソースあるから自由に弄ってコンパイルしてね」と門前払いを喰らったものです。それがどうして、現在において、ルールを改変することが、いけないこととされているのでしょうか。いけないこととされているだけに留まらず、口汚く罵られ、まるで犯罪者のように扱われ、ゲームから追放されます。ゲームとは自由であり、ゲームとはルールなのです。ルールなんて、自由に変えてしまえばいいのです。一体、その何がいけないのでしょう。殺したい人が居るけれど殺せない、欲しいものがあるけれど手に入らない、そんな世界にはもううんざりです。そんなものはビデオゲームではありません。現実の劣化コピーです。殺したい人を殺し、刺したい人を刺し、撃ちたい奴を撃つ。消したい奴を消して、金を溢れるほど増やし、欲しい物は全て手に入れる。それがビデオゲームです。その何がいけないのでしょうか。なぜ、自由でありたいと願う事が、自由であるはずのビデオゲームにおいて、追い立てられ、摘発され、糾弾されねばならないのでしょうか。




こたえは明白です。
ビデオゲームとは、今では金儲けの手段だからです。
彼等の飯の種だからです。



今日、ビデオゲームは打ち出の小槌です。テレビをつけても、ラジオをかけても、駅のホームを歩いても、ビデオゲームのCMだらけ。倒産間近のIT企業はたった一本のゲームが売れただけで全ての累積赤字を吹き飛ばし、辺境の独裁国家は1本のゲームが売れただけで国の財政を建て直し、政治体制崩壊の危機を脱しました。想像を絶するくらいの、多くの人達が、ビデオゲームを飯の種にしています。ビデオゲームで潤っています。

かつてのように、あの日のように、「面白いものを作りたいな」と思った人がビデオゲームを作っているのではなく、「お金が欲しいな」と思った人達がビデオゲームを企画し、「金儲けをしたい」と思った人達がビデオゲームを作っているのです。そして実際にビデオゲームを作り、うまい飯を喰い、高い酒を呑み、安い女を抱いているのです。その世界において、cheatは敵です。




ビデオゲームとはルールです。
彼等はルールを作りました。
金儲けの為のルールです。



かつてはcheatが担っていた事を、ゲームのシステムに組み込みました。かつてはcheatによって作られていた、ゲームのバランスを一変させるような強力で夢のあるキャラクターは、今ではガチャから出てきます。ガチャを回す為には現金が必要です。彼等にとって、自由なんてどうでもいいのです。彼等にとって、ビデオゲームなんてものは、どうだっていいのです。大切なのは金です。自分達で作ったルールを自作自演で破壊して、その為の課金をプレイヤーに強いる。ルールを全て支配して、cheatを許さず課金させる。金の為に不自由を押しつけ、金の為に自由を叩く。金の為に課金をしいて、金の為にcheatを潰す。それが今日という日のビデオゲームの姿です。


そうです。
死にました。

自由は死にました。
ビデオゲームは死にました。





困るのです。
彼等は困るのです。

ルールを自由に改変されると、彼等は困ってしまうのです。ルールを変える事が出来るのは、現金だけ。課金だけ。それが彼等の願いです。プレイヤーに際限なく金を使わせる為に、絶対にcheatを許さない。金こそが彼等の行動原理です。口では「ゲームの為」だとか「プレイヤーの為」だとか言っておきながら、その実体は金。金の為です。

かつて我が国のとあるゲーム会社が、ゲームのエディタを訴えました。自由にゲーム内の数値を弄る事が出来るゲームエディタを訴えて、賠償金を勝ち取った上で、それを完全に潰しました。そしてその会社は、自由にゲーム内の数値を弄る事が出来るゲームエディタを売り出しました。彼等が訴えたゲームエディタと同じものを、フルプライスよりも高い金額で売りました。そして、みんなそれを買いました。思えばあの日の時点でもう既に、ビデオゲームは自由なんかじゃなかったのです。気がつけば僕等は虜囚です。見知らぬ誰かが勝手に作ったルールに縛られて、それをただ受け入れるだけの虜囚です。あの日のビデオゲームはどこに行ってしまったのでしょうか。自由に殺して、自由に手に入れて、自由に強くなる。そしてなによりも、自由に楽しむ!そんなビデオゲームは死にました。

手に入れる為には現金が必要。
強くなる為には現金が必要。
楽しむ為には現金が必要。
殺す為には現金が必要。

そんなビデオゲームばかりが生きています。
それはもう、ビデオゲームとは呼べない代物です。




昨今、cheatに対する風当たりは、あの頃よりも遙かに強くなっています。金です。金のせいです。全部、金のせいです。残念な事に、ビデオゲームはその誕生より40年で自由から、巨大産業へと成り下がりました。全てを金で解決させるため、cheatは追いかけ回されます。LANケーブルを行き交うデータの隅々まで調べられるばかりか、見ているウェブサイトまで監視されます。cheat情報が行き交うような、彼等にとっては邪悪な、そして私達ゲーマーにとっては自由なウェブサイトにアクセスしているユーザーは、即座にブラックリスト入り。他の人より遙かに強く監視され、少しでも怪しい動きをした瞬間に即検出。即BAN。彼等は言います。「あなたは規約に同意した。」。彼等は言います。「監視は規約に書いていた」。

こんな事が許されていいのでしょうか。インターネットは自由の為ではなく、監視の為に使われています。ビデオゲームを口実に人々は監視され、ビデオゲームとは名ばかりの巨大産業によって、私達は全ての行動を監視されています。ゲームを起動していない間中もずっと、誰も読まないような英文の規約によって正当にインストールされた、監視ツールが動いているのです。

監視社会は強大な独裁国家によってではなく、ビデオゲームによって成し遂げられました。僕等にはネットサーフィンすらも許されていません。たかが金の為に、自由は踏みにじられたのです。今日も、踏みにじられています。世の中金です。金が全てです。結局のところ、全部お金なのです。お金で買えない幸せなどありませんし、お金で買えない夢などないのです。お金で引けないSSRもなければ、お金で確定しないURもありません。だからこそお金を持たない僕等はビデオゲームをプレイし、だからこそお金が欲しい彼等はビデオゲームを作るのです。そうやって社会は回っています。そうやって僕等は生きています。




けれども、皮肉なことがおこりました。
彼等は一線を越えてしまったのです。

踏み抜いてはいけない床を、
巨大なブルドーザーに乗り、
知らぬ間に踏み抜いていたのです。




現代、ビデオゲームの値段は上がり続けています。
かつて1万6800円もしたビデオゲームのカートリッジは、私達のプレイステーションによって解放され、5800円にまで下がりました。学生が自らの小遣いで買えるような、手頃な価格に落ち着いたのです。けれども、流れは変わりました。今では16800円どころか、1つのゲームに5万も、10万も、あるいはもっとそれ以上に、法外な値がついています。ゲームの価格はどこまでも、上がり続けています。

教徒いう日においてビデオゲームは、ビデオゲームの中の世界において自由を失ってしまったというだけに留まらず、ビデオゲームの外の世界においても、人を不自由にしています。ビデオゲームは私達を捕縛し、ビデオゲームは私達を強制的に働かせます。私達はビデオゲームの為に労働し、ビデオゲームの為に老いていきます。かつてはじゃがいも畑がそうしたように、綿花畑がそうさいたように、ビデオゲームは僕等を毎日追い立てます。私達はビデオゲームの奴隷です。ビデオゲームの為に働き、ビデオゲームの為にコンビニに行き、ビデオゲームの為に爪でコードを削ります。そしてビデオゲームの為に死にます。






彼等は、やりすぎました。
少し、やりすぎました。

ちょっと、やりすぎたのです。
少しだけ、度が過ぎました。

















cheatは無料ではありません。
では、cheatは幾らでしょうか?

cheatは際限なくお金を支払わせようとするでしょうか?いいえ、しません。cheatは任天堂のように、不完全なストーリーのゲームを売りつけた上で、完全なストーリーを遊びたければ金を払えと、まるで出来損ないの孫のように金をせびったりはしません。cehatは任天堂のように、新しいキャラクターを実装したから手に入れたければ金を出せと人々を労働に追い立てるようなことはしません。




cheatの為に必要んあるのは、cheat用のアカウントだけ。
PUBGに話を戻しましょう。
その価格は3300円です。
僅かに3000円です。



たとえば3時間でBANされたとして、1時間1000円です。
映画を見に行くのと変わりません。
カラオケに行くのと変わりません。
スロを打つより遙かに安く、
ディズニーに行くより安くつきます。

手頃な額です。
そして自由です。






あの頃のビデオゲームと同じように、手に入れたいものを手に入れ、殺したい奴を殺し、強くなりたいから強くなる。それが僅か3000円です。考えてみてください。私達が生きている2017年のビデオゲームにおいて、3000円で何が出来るか。10連ガチャを回せますか?レア以上が確定で手に入りますか?2ヶ月間獲得経験値と獲得ゴールドが1.5倍になりますか?倉庫の所持上限が増えますか?フルプライスのゲームを買ったにも関わらず、新たなキャラクターが1キャラクター増えますか?水着に着せ替える権利が手に入りますか?ボス戦へのショートカットが開けますか?ただそれだけですか?そうですか。そこに自由は無いですね。


面白いビデオゲームを作りたいと願う人達がビデオゲームを作るのではなく、金が欲しいと思う人達がビデオゲームを作るこの時代において、たった3000円ぽっちでは、どんな自由も手に入らないのです。そう、cheatを除いては。







かつてcehatは高いものでした。
リスクを伴うものでした。

cehatを使うとBANされます。
二度とゲームを遊べなくなります。
高い金を出して、ビデオゲームを買ったのに、BANされる。
もう二度と遊べない。
それは、おそろしいことでした。
明確なリスクでした。
僕等は臆病に震えてました。



だから僕等は恐れていたのです。
BANされる事を恐れていたのです。

ビデオゲームを買う為に、支払った金が無駄になる。
ビデオゲームを買う為に、費やした汗が無駄になる。

けれども、今は違います。
恐れるものはありません。




僕等を変えたのは、彼等です。
彼等が僕等を変えたのです。


面白いゲームを作る為ではなく、ただ金の為にゲームを作り続けた、彼等が僕等を変えたのです。プレイヤーを楽しませる為ではなく、ただ金の為にゲームを作り続けた、彼等が僕等を破壊したのです。破壊されずに残ったものは、無造作に床に散らばった、プラスチックで作られた、iTunesカードの残骸です。僕等の金銭感覚は、彼等によって完全に、破壊し尽くされてしまいました。




3000円?
たったの3000円?
安い!




僕等は変わったのです。
そんなふうに、変わったのです。
5000円でも、7000円でも、それは同じです。
8000円でも、1万円でも、それは同じです。


安い!
安すぎる!

安いものです!
安い買い物です。




ビデオゲームに寄生して、軒先までも乗っ取った、連中が値札に書き込んだ、法外な額と比べれば、それはまるでただ同然です。適正な価格であり、妥当な費用です。僕等は破壊されました。ビデオゲームに対する金銭感覚を、僕等は失ってしまったのです。それは、彼等の願いでした。プレイヤーの金銭感覚を完全に破壊しつくすこと、それこそが彼等の願いだったのです。プレイヤーの金銭感覚を如何にして壊すか。素敵な家庭で育ち、素晴らしい教育をうけ、立派な大学を出た、完璧な人生を謳歌する、頭のよい人達が、熟考に熟考を重ね、トライアンドエラーを繰り返し、僕等の金銭感覚を完全に破壊する事にその労力を費やした結果、僕等はどうかしてしまったのです。完全に壊れてしまったのです。



結果として、cheatは安くなりました。
今も昔も、cheatの値段は変わっていません。
似たようなものです。



変わったのは、ビデオゲームです。
変わってしまったのは、僕等です。

ビデオゲームを破壊したのは彼等であり、
僕等の金銭感覚を破壊したのも彼等です。





「cheatをする人の気持ちがわからない」
そんな事を平気で言える人は、ビデオゲームを知らないのです。

「cheatをする人の気持ちがわからない」
そんな風に宣う人は、ビデオゲームプレイヤーではありません。
心からビデオゲームを望んだことのない、私達とは別の生き物です。






ビデオゲームとは、自由です。
自由こそがビデオゲームなのです。
それは今では完全に失われてしまいました。

ビデオゲームは僕等を働かせ、
ビデオゲームは僕等から奪い取ります。




自由を奪い取り、
金を奪い取り、
夢を奪い取り、
希望を奪い取ります。

そして何よりも、
ビデオゲームを奪い取ります。




私達を破壊し、
私達の人生を破壊し、

そして何よりも、
彼等は自由を破壊したのです。
ビデオゲームを破壊したのです。





僕等は、死にました。
彼等に、殺されました。

死んでいるだけでいいのでしょうか?
殺されたままでいいのでしょうか?

そんなのは、いやです。
セガみたいな人生は、いやです。






生き返る時です。
蘇る時です。

自由とは、与えられるものではありません。
自由とは、勝ち取るものです。

真にビデオゲームを愛する私達は、
今こそ立ち上がる必要があるのです。




自由を取り戻す為に。
ビデオゲームを取り戻す為に。

人々を解放する為に。
ビデオゲームを解放する為に。




今こそ、その時なのです。
自由の為に闘う時が来たのです・

「もう遅い」なんてものは、世の中には一つもありません。手遅れなどという言葉は、実在しない架空の概念なのです。成功した誰かが他人を見下し、ライバルを蹴落とすために、捏造した架空の存在なのです。今からでも間に合います。今からでも遅くはありません。




闘うべきです。
闘うべき時です。
そして、闘うに値します。




共に、ビデオゲームを手に入れようではありませんか!
共に、ビデオゲームを取り戻そうではありませんか!

ビデゲームが自由であったころを。
そこに自由があったころを。

僕等の手で、取り戻そうではありませんか!






退屈で頓挫した人生から逃げて、ビデオゲームに逃げ込んだあの日の自由を。不条理で理不尽なルールから逃げて、ビデオゲームを頼ったあの日の自由を。日常に叩きのめされて、どこにも居場所がない僕等を、救ってくれたビデオゲームを。今こそ救い出す時なのです。今でなくて、いつでありましょう。今日でなくて、いつでありましょう。ここで闘わないと、僕等は一生を闘わずして死んでいくのです。ここで闘わないと、僕等は一生このままです。ここで僕等が闘わないと、ビデオゲームを自称する、ビデオゲームではない彼等の飯の種に、一生を踏みにじられて過ごすのです。そんな人生はうんざりです。今こそ撃ち殺すべきなのです。shakaを、撃ち殺すべきです。ARで、SRで、拳銃で、彼等が大空へとへ飛び出すよりも先に、あるいは拳で撃ち殺すべきです。みんな殺すべきなのです。ビデオゲームを救う為に、自由を取り戻す為に、僕等は闘うのです。立ち上がるのです。steamのアカウントを新しく作り、PUBGを購入し、中華サイトでcheat toolを買い、連中の配信をゴースティングし、同じタイミングでマッチングボタンを押し、配信を見て居場所を突き止め、そして撃ち殺すのです。オートaimという正義によって、一人残らず皆殺しにするのです。ビデオゲームを撃ち殺すのです。ビデオゲームの形をした、ビデオゲームではない何かによって、完全に支配されてしまった世界に、僅かな傷を付けるのです。一人一人の力は小さくても、私達真のビデオゲームプレイヤーが、それぞれの力を持ち寄って、心を一つにして闘えば、何れは大きな亀裂となって、ビデオゲームを破壊して、ビデオゲームを取り戻せるでしょう。時は来ました。月は満ちました。共に立ち上がりましょう。闘いましょう。ビデオゲームの為に。ビデオゲームを取り戻す為に。ビデオゲームを救う為に。ビデオゲームこそが唯一の自由であった、あの日のビデオゲームの為に。ビデオゲームの未来の為に。そして自由の為に。そしてなによりも、自由の為に。

2017年7月22日土曜日

泳ぐのに情熱はいらない。

泳ぐのに必要なものは、水と筋肉である。水と筋肉があれば人は自ずから泳ぎ出す。そこには意志も情熱もいらない。僕はこんな人生に陥って尚、少しでも前に進みたい。米を炊く体力を失って豆腐をすすり、シャワーを浴びる気力を失って汗を摘まむ。ここにあるのは死体だ。腐っていないだけの死体だ。異臭はする。するだろう。確かめる人はいない。僕の人生には僕以外、もう誰もいない。誰との接点もない。僕は朝から晩まで毎日ビデオゲームをし続けることで、現実世界における全ての接点を失い、晩から朝まで毎日ビデオゲームをし続けることで、インターネット上での全ての接点をも失った。僕のブログは死んで久しい。それは、僕がブログを書く情熱を失ったからではない。僕はもう死んだんだ。生き返る術は無い。

人間の体は余りにもファンタスティックだ。指を動かそうとすると指が動くし、目を閉じようとすると目が閉じる。何をする気力も起きないと口では述べながら、割り箸のビニール袋に結び目を付け剛性を生み出し、元の状態ではか弱かったビニールが、真っ直ぐ天へとそそり立つのを、なんとなく眺める事は出来る。漬けることは出来る。頭痛薬の空包を、セパレートで全部切り離し、それらを全て丁寧に重ねて、レンズを重ねて顕微鏡を発明したドイツ人が、はじめて得体の知れない目に見えない動く何かを、目にした時の気持ちを思う事も出来る。1つの残念な明瞭な事実がある。僕は死体ではない。

毎日々々、いろんなものを諦めてきた。いろんなものに憧れては、それを1つづつ諦めてきた。おいしいものを食べたい。水道水以外のものを飲みたい。シャワーを浴びたい。でもめんどくさい。けれども、この人生にそんなものは必要ない。僕は何も渇望していない。本当に欲しいなんて思っていないものを少しだけ欲しがり、本当に欲しいなんて思っていないものを諦め続けた。僕には欲しいものがない。私には夢が無い。そして情熱がない。意志がない。

自分自身がこの人生で、ちっとも前にすすめないのは、意志が足りていないから。情熱が欠けているから。そんなふうに自分を見下し続けた。学校で孤立して元気さを完全に失い、3DSでゲームばかりしている田舎の小学生みたいなものだ。軽蔑していた。馬鹿にしていた。突然背中に見知らぬ痛みを覚えて気がついた。僕は田舎の小学生じゃない。何故ならば若さがない。どこまで行ってもポジティブな言葉は出てこない。だから、どこへ行くのもの止めにした。どれだけ記憶を辿っても、出てくるのは失敗体験だけだ。おなかだけはすく。

自分自身がこの人生で、少しも前にすすめないのは、意志が足りていないからだとか、情熱が欠けているからだとか、様々な理由を探して自分自身を非難してみる。またしても僕は叱責される。何も悪いことなんてしていないのに。何もしていないのに。足りていないのは水。辺り一面のWATER。そうすれば僕だって泳ぎだし、人生は前に進むだろう。筋肉はある。僕はやれる。必要なのは水だけ。そう思っていた。沈んでいく。水も無いのに沈んでいく。2017年。7月21日。

2017年7月17日月曜日

2017年7月6日木曜日

ではどうすればよかったのか。

今年もこの話題の季節です。口にするのもおこがましいのだけれど、こんな話も今年で最後になりそうなので、記念に書いておきたいと思います。

結論から言ってしまうと、世界を3つのブロックにわけ、それぞれの地域でオンライン予選をし、上位18チームを選抜します。それぞれの地域の上位18チーム、合計54チームを一カ所に集めて大会を行い、上位18チームがシアトルへの切符を得ます。これで全て解決します。

毎年言い続けてきたことですが、招待というシステムは、どのチームが招待されようと、決して正当なものにはなりません。正当な招待というのは存在しないのです。前年度優勝枠というものが存在しているならば、それは正当なものですが、枠ではなく、招待というシステムはそのシステム自体が不正義であり、どこが招待されようと、不正な出場であり、不正なものです。もちろん、今年の招待に関しても明らかに不正です。どこがという話はしません。7チーム全てが不正です。

招待が不正ならば、予選組は良いのかというと、それも違います。予選の結果出場するチームも、全て明らかな不正です。特定の地域で予選を行うことは、明らかな不正義です。何故南米で予選が行われ、中東では予選が行われないのでしょう。なぜCISで予選が行われ、アフリカでは予選が行われないのでしょう。なぜ中国で予選が行われているのに、普段は中国サーバーで遊んでいるプレイヤーが平然とアジア予選に出てくるのでしょうか。

どの地域で予選を行うか、どの地域の予選に何枠を用意するか、という点には必ず人の手が絡みます。それはもう、ビデオゲームではありません。政治です。マーケティングです。ビデオゲームは政治であってはいけませんし、eSportsはマーケティングであってはいけないのです。公明正大な、誤審の存在しない公正なものでなければいけないのです。当たり前の話です。

即ち、「どの地域に何枠を用意するか」という点を避ける為には、全ての出場チームが特定の地域から発生してしまう可能性を担保しておく必要があります。その為には、世界を3つのブロックにわけ、それぞれの地域で18チームを選び、3地域合計54チームを特定の場所に集めて最終予選を開催する以外に方法はなかったのです。なお、世界のどこかに54チーム300人を集めての大会は、今では日常的に行われている事であり、卓上の空論ではありません。なぜやらなかったのか、それはvalveという組織が、公正さや正義というものに、一切の関心を持たない集団であるから、というのはまた別の話なのか、あるいはそういう話なのかは、いずれ、また。


結果として、今年もまた、リヴァプールとアーセナルが出場権を取り逃した大会に、ヴァンツァーレ甲府とロアッソ熊本が出場するような夏を、僕等はこの先ずっと、迎える事になるのでした。