2006年6月17日土曜日

空飛ぶクラゲ、みぃと鳴く。



クラゲである。
空飛ぶクラゲである。
それだけならば有り触れてるが、その飛ぶクラゲはみぃと鳴く。








そこは小さな村で、外れにある神社の脇の大きな浅い池に掛かった木造の細くてとても長い橋と、国の金で掘り当てられた温泉の他には何もなかった。村民は温泉よりも橋よりも、山菜と空を誇ったけれど、外の空気は冷めていた。

そこに、一匹のクラゲが居た。空飛ぶクラゲである。それだけでは有り触れているが、その飛ぶクラゲはよく馴れていて「みぃ!」と呼べば、「みぃ」と答える。麩菓子やら、片栗粉やらを口に含んで目の前に吐いてやると、口を広げてパクリと喰う。

その愛くるしい姿が評判となり、地方紙に乗り、ラジオに乗り、地元の局が取材に訪れ、その飛ぶクラゲは温泉よりも橋よりも、広く知られることとなり、テレビカメラが訪れた。遥々、東京からである。




テレビの男は当然のように「橋で、」と言う。そこは、古くに作られた木造の細くてとても長い橋の村で、みぃと鳴くクラゲはその村の、新参者のスターである。小さくて少し肥えた男は「みぃや」「みぃや」と呼び寄せて、テレビの男に「みぃは言葉がわかってね、こうして呼べば来るんです。」と、みぃの知性を誇ってみせた。それは、誇ったと書くよりも、称えたと書いた方が正確なものであった。

普段は家中を好き放題に飛び回らせてる少し特別なそのクラゲを、インスタントコーヒーの空き瓶に入れて小脇に抱え、家族総出で橋へと向かう。中年の男と、年老いた父の2人きり。

テレビカメラが向いたとき、男はもう汗だくで、上唇が口元が、ぴくりぴくりと動いていた。「ちゃんと喋れますか?」若い眼鏡のテレビの男は呆れた空気を押し殺しながら男に尋ねる。「大丈夫、大丈夫です。ちょっとまあ、大丈夫です。」

世界が男を向いたとき、男は麩菓子を頬張って、目の前を飛ぶクラゲに向かい、器用にそれを吹いていた。ドングリよりは少し大きな空飛ぶクラゲはその度に、めいいっぱいに身体を伸ばして、落ちてく粉を一呑みにする。東京の、大学を出た黒い髪のアナウンサーが喋ってマイクを男に向けたが、男は構わず粉を吹く。空飛ぶクラゲはそれを一呑み。身の丈よりも、口を大きくして食べる。

やっとマイクを向いた男は段取り通りの問いかけに、段取り通り答えてゆく。「なんでも、そのクラゲは鳴くんですって?」「ええ、読んでやるとですね、答えるんですよ。ちゃんとわかっているんです。」言い終わらぬ内に懸命に呼ぶ。

「みぃ!」「みぃ!」「みぃや、みぃ!」男が呼ぶ度空飛ぶクラゲは、熱々のがんもどきをつぶしたような音で、みぃと答えて1つ鳴く。アナウンサーは手を伸ばし、マイクで小さなその声を追いかける。

朝のテレビで随分と、長く有名な男から、段取り通りの質問が飛ぶ。
「そのクラゲはどこで見つけられたんですか?」




「え?」
男はうまく聞き取れず、狼狽する。

「そのクラゲはどこで見つけられたんですか?」
より丁寧に、繰り返される。

「え?」
背筋を丸めて耳のイヤフォンを両手で抑え、聞き取ろうとする。

「その、みぃちゃんは、どこで見つけられたんですか?どちらで?」
アナウンサーが見かねてなぞる。

汗で光り輝く男は安堵して、段取り通りの質問に落ち着きを取り戻し、それに答える。
「物干し竿の、端に出来ていた、蜘蛛の巣にひっかっかっていたんです。蜘蛛の巣に空飛ぶクラゲが引っ掛かってるだけなら、私も気には留めんのですが、その蜘蛛の巣は、もう随分と前から主がおらんかったもんで、私がちゃんと掃除して、蜘蛛の巣を剥いでおったらそんな事にはならなかったと思うとですね、申し訳なくなって、蜘蛛の巣から離してやったんですよ。そしたらですね、疲れとったのか、朝露で重かったのか、上手く飛べずに落ちるもんで、拾って家へ入れてやったんです。」

男は喋る。
「今じゃあ家族みたいなもんでね、私は煙草を止めたし、親父も煙草を止めたし、昼も毎日家まで帰って一緒に食べているんですよ。」

男は称える。
「頭が良くてね、賢くてね、クラゲがこんなに頭が良いとは思ってもいませんでした。毎日同じ場所で寝て、朝は毎日同じ時間に鳴いて起こしてくれるんです。みぃ、みぃ、って具合に。」

次を急いだ東京のテレビは、段取りにはない問いかけで、男を黙らせようとする。
「最後にもう一度、餌を食べるところを見せて貰えませんか?」

背中を丸めて耳のイヤフォンを両手で押さえて聞き取ろうとする男。
アナウンサーが同じくなぞる。

「もう一度、餌を食べるところを見せていただけますか?」
「ああいいですよ。」と快諾し、男は麩菓子に手を伸ばす。

空飛ぶクラゲが見あたらない。





「みぃ?」
「みぃ、みぃ!」
と、男がクラゲを読んでいる間に「ありがとうございました、空飛ぶクラゲのみぃちゃんでした。」と声が聞こえてテレビは何処か、余所を映した。みぃ、と左手から熱々のがんもどきを摘んだような声がする。池の水面のすれすれをぷくりぷくりと飛ぶクラゲをカメラと皆とが捕らえたときに、クラゲは池の上に落ち、赤と白との鯉が来て、それを一呑みして消えた。

「いやあ、立派な鯉でしたね。」
汗だくの男はそのままの、満面の笑みでそう言って、橋を向こうへ渡っていった。
















テレビカメラに背を向けて。


2006年6月16日金曜日

戦争とか差別とか貧困とかそういった類のものはみんななくなればいいのにね。



それは、髄分の間、僕の頭を悩ませている。

「こわくはないですか?」
と問われるに相応しい人は、どれくらいの数、いるのだろうか。














こわい。
おそろしい。
恐怖を感じる。

学童が剣道の練習に際し発する甲高い叫び声、昨晩の携帯の電話の着信の内容を喋る女学生、新作の清涼飲料水のまずさを人生の一大事のように語る学徒。それらの音、というよりは"空気の震え"と表現した方が適切な類のものが万年カーテンをかすかに揺らす度、恐怖を感じる。萎縮し、恐れ、脅える。おののく。体中の筋肉が強ばり、闇雲に疲労する。頬が、首が、肩が、リラックスの対極へと走り去り、その先へと突っ切ってゆく。一言で書き表すならば、こわいのである。

そして闘う。
闘争である。
苦闘である。

人は、そのような不毛極まる消耗戦に自らを突入させたりはしない。臆病にして無能、凡庸極まる普通の人は闘わずに、ファイナルファンタジー12をプレイしたり、本屋へ週刊誌を立ち読みに行ったり、友達の携帯にメールを打ったり、punyu2のサンプル動画を漁ったり、彼女を夕飯とは名ばかりの夕飯に誘い出したり、コネホを使わないレシャックに苛立ったりするのである。

けれども、僕は違う。
そのように、逃げたりはしない。

闘うのである。
微動だにするカーテンと闘うのだ。

英語で言うならファイターであり、イタリア語で言うならウォリアーであり、スペイン語で言うならクルセイダーであり、日本語でいうならラモス瑠偉である。「そうか、僕は、ラモス瑠偉か」などと早合点し、納得してみたところで、決して僕はラモス瑠偉ではない。サッカーも、フットボールも日本語も、ラモスのようには上手くはできない。ブログというものを書いていると、このように、自らの無能さという現実を改めて突き付けられて、悲しくなるばかりである。だから、僕は、ブログというものを書くことから懸命に、逃げようとしているのだ。けれども、そのもくろみは決まって失敗に終わる。キリストが行くところに必ず奇跡があるように、僕が行く所には必ずブログがあるからだ。

そのように、即ち「闘士である。」と書いてしまうと、まるで、僕が非常に勇敢で闘争心に溢れる人間のように聞こえるけれど、事実はそうではない。僕にはただ、逃げ場がなく、行く宛てもなく、やむおえず、しかたがなしに、生協のトラックの鳴らすオルゴールや、ワラビ餅を止める童の声、天を行くジャンボジェットの雄叫び。それらの音、というよりは"空気の震え"と表現した方が適切な類のものが揺らすカーテンと闘うのである。

僕だって、もしもここにDOTA allstarsがあったのならば、みんな、市井、普通の人のように、尻尾を巻いて逃げ出すだろう。本当に勇敢な、闘士と呼ぶに相応しい奴なんて、おそらくどこにもいないんだ。不毛な消耗戦に自らを投じることを"勇敢さ"と呼んでいいかどうかはさておいて。








けれども、一体である。
僕は、何に脅え、何に緊張し、何に萎縮し、何に圧迫されているのだろうか。

わからない。
よくわからない。
全くもってわからない。
わかっていたとしても、わかっていないふりをする。








それは未練であり、後悔である。
事実、未練であり、後悔である。

しらを切るのはやめにした。
何故なら僕は闘士だからだ。
否、即ちブロガーだからだ。

逃げない。
負けない。
闘わない。




世界が複雑なのに対し、僕の世界に対する認識は単純である。

1つ、宇宙は全てが敵だ。
僕を潰しにかかってる。
全宇宙が僕のブログに、エントリーに、才覚に、知性に、肉体美に、食生活に、美貌に、その他全ての諸々に、恐れ、おののき、脅え、緊張し、萎縮し、圧迫され、やっかみにやっかんで、僕を潰しに掛かっているのである。全宇宙が僕に嫉妬し、拒否し、否定し、潰しにきているのだ。十中八九、100%そうである。

僕はそれら、全宇宙と僕以外の全宇宙を創造した神による、極めて秋田県的なやっかみに基づく迫害と闘い、耐え、忍び、闘争し、それらに脅えながらも、逃げることなく闘い続けているのである。何しろ、逃げ場がない。当然である。敵は、全人類であり、全宇宙である。学童が、学徒が、ブロガーが、匿名コメンテーターが、大統領が、首相が陰のフィクサーが、ビルゲイツが、立花里子が、きめんどうしが、アメリカシロヒトリが、それら全宇宙の構成要素の全てが結託し、僕を、この僕を、立った1人唯一無比なる完全無欠のこの僕を、消しにきているのだ。迫害、心労、多忙、誤読の何れかを訴えるブロガーは決まって全員糞野郎だ。4つ全てが揃った奴はその究極である。




それとこれとは別の話。
即ち、こわさ、という題目から、かなり逸れてしまった。

こわさ、とは何だろう。




僕がこわくて震えていると、カーテンが震えて囁いた。
「そんなにこわがらなくてもいいんだよ。」

確かに、彼の言うにも一理ある。
そんなに、こわがらなくてもいいのかもしれない。

けれども、こわい。
こわいものはこわい。
壊れてしまうのがこわい。

これまでに、僕の回りでは色々な物が壊れていった。Diablo2のインストールキーとか、WarCraft3のインストールキーとか、WarCraft3 TFTのインストールキーとか、それとか、他にも、とにかく、全部壊れていった。だから僕は、今僕が有している、有形無形様々なものがこの先、延々と、壊れてゆくのではないかとおびえ、おそれ、恐怖しているのである。このままでは、全てが壊れてしまうかのように思える。




「おまえが有している有形無形の万物の中で壊れて困るものなど無いだろ」
という指摘は、正しくはある。
しかしそれは誤読に基づいている。




僕が怖がっているのは、その、これまで、僕が愛していた、愛してやまなかった、Diablo2とか、WarCraft3とか、WarCraft3 TFTとか、DOTA allstarsといった、何よりも愛おしく、掛け替えのない物を破壊し尽くしてきた、この僕自身が、これから先、全てを犠牲にしてでも守り抜くだけの価値、全てを犠牲にしてでも愛すべき価値ある、掛け替えのない、何よりも肝心な物全てを、これまでのように破壊し、テトラポットから投げ捨ててしまうのではないかという、自分自身の存在に対する恐怖である。こわいのだ。さらに、買い物依存症の女が買い物でしか快楽を得られないのと同じように、もはや僕は、最も大切な物を破壊し、踏みにじり、投げ捨て、裏切り、反逆の狼煙を上げ、自らを、新たなる苦境へと投じ赴かせる事でしか、生きることが出来ないのではないかという恐怖だ。




だとすれば、何だ。

僕は、こんなにも素晴らしい読者様とか、こんなにも素晴らしいコメンテーター様とか、こんなにも素晴らしいブックマーカー様とかそういった、正しく、問答無用の文字通り、掛け替えのない人々に囲まれて物凄く幸せなのに、それら全てを今宵この晩投げ捨てて、新たなる苦境、言うならばブログを捨ててリアルへという定番コースの黄金軸を指でなぞって辿るつもりですか?なんて心配は僕には無用。

幸いにして僕はとにかく臆病者で、そんな勇気はどこにもない。

もちろん、WarCraft3のインストールキーもここにはなく、僕の逃げ場はどこにもない。だから、やむおえず、仕方がなしに勇敢に、僕はブログを書いている。誰も僕の事なんて知っちゃあいないし、誰も僕の事なんて好いちゃあいない。もう誰も、僕の事なんて覚えていないのと同じように。

だって、そうだろ。

僕はもう、随分と、自分自身についてすら、たくさんの事を忘れてしまった。見たいものや、やりたいこと、好いていたもの、嫌っていたもの、やりたいことや、行きたいところだって、たくさんたくさんあったのに、もう全部忘れちまった。ブログを書かなきゃ、ってただ思うだけだ。全部覚えちゃいない。全部忘れちまった。歳をとる度に小さくなって、しまいにはなにもかも失っちまうんだ。あんなに心から泣いたことも、あんなに心から笑ったことも。そんなこと、最初から無かったかのように思えるけれど、それすらも、もう忘れてしまっただけかもしれない。

やだよ。
こわいんだ。
僕は何一つ失いたくなくて、恐ろしくて、ただ恐ろしくて、消えてしまう前に、なんとしてでもブログを書かなきゃ、って思って、これまでに色んな物を失ってしまったから、そのような悲しみはもう二度と味わいたくはなくて、これ以上もう何一つ失いたくないから、失うのがこわいから、懸命に、懸命に、僕はブログを書いているのに、事もあろうかそれによって僕は色んな物を、次から次へと失っていっているという事実。僕のDOTA allstarsは何処へ消えたんだ。返してくれ。僕のDOTA allastarsを返してくれ。もう二度と裏切ったりはしないから。あれは過ちだったんだ。ほんの出来心だったんだ。STFU。黙れ糞野郎。シャットザファックアップ、くそう。黙るべきなのは僕自身だ。












戦闘機に乗って飛び立つ軍人に、「こわくはないですか?」と尋ねることは、非礼に当たるのだろうか。戦闘機に乗って飛び立つ軍人が戦闘機にのって飛びだつのは「こわいか/こわくないか」という判断を超えたところで、戦闘機に乗って飛び立たねばならない理由があるからである。

この「こわくはないですか?」に込められた質問者の意図は、「命を失うのはこわくはないですか?」というものであり、その軍人が、飛び切りに馬鹿で、尚かつ飛び切りの撃墜王であったならば、「そんな質問」と鼻で笑うかもしれない。けれども、そんな馬鹿で無謀な撃墜王はどこにもいないだろう。王者は常に、陥落に脅えている。どこの世界でも。

あるいは、その軍人が、模範的愛国者であったならば、「お国のためですから」と答えるかもしれない。例えばそのような回答を耳にしたならば、「ああそうですか、お国のためですか」と納得し、さらりと流すべきなのか、「偉い、あんたは偉い!」と称えるべきなのか、判断しかねる。なぜならば、有史以来、軍人とブロガーが真を語った事など一度として無いという真を、僕は知っているからである。




軍人に対する「こわくはないですか?」という問いの犯している最たる間違いは、死を「失うこと」と定義し、生を「失わないこと」であると定義しているという点にある。それは、なによりも大きな過ちである。

多くの人は生きるということを、得ることであると考えている。未知との遭遇であると考えている。新たなる経験、新たなる記憶、新たなる感動、そういったものであると取られている。しかしながら、それは、間違いである。

人間は、失うように出来ている。
可能性を、心を、感情を、脳細胞を、次から、次へと、失うように出来ている。

例えば昨日、僕が書こうとしていた、あんなにも書きたかったエントリーはもう無い。
僕のブログはちょっとしたカーテンの揺れに脅えている間に全て失われてしまったのだ。

また同じように、これから先も、色んな物が失われていくんだ。
もう何も失いたくない。
何一つ。












だから、そうならないためにも、僕はブログを書くんだ。
カーテンの震えに脅えて逃げて。

戦争とか差別とか貧困とか、飛行機とか車とか自転車とか、テレビとかラジオとかインターネットとか、googleとかwikipediaとかyoutubeとか、春とか夏とか秋とか、カレーライスとか寿司とかりんごジュースとか、日本とか北朝鮮とかイランとか、丑の日とか海の日とか子供の日とか、ブリザードエンタテイメントとか任天堂とか東亜プランとか、オリンピックとかWC3Lとかワールドカップとか、セックスとかキスとか泣き笑いとか、はてなダイアリーとかはてなダイアリーに移転する奴とかはてなダイアリーには移転しないとか言いつつはてなダイアリーに移転する奴とかはてなダイアリーには移転しないよとか言いつつはてなダイアリーに移転しておきながらひとつき足らずで更新を止める奴とか、そういった類のもの全て、即ちブログ以外の全てはみんな、この世の中からなくなってしまえばいいのにね。僕のブログを脅かす物は全部。だってそんなのいらないでしょう。ブログ以外のもの全て。




そうすればこんな僕だって、もっときちんとうまいこと。
ブログをちゃんと、書けるのに。