2006年2月21日火曜日
Googleデスクトップという悪夢。
困っています。
ウォークラフト3のインストールキーとの闘争から逃れるにはどうすればいいかを悩みあぐねて出た結論が、「ウォークラフト3のインストールキーを適当な人に送り付ける」というものであり、「連絡したら返してくれ」とかなんとか言って、明らかにゲームとかしなさそうな人にウォークラフト3のインストールキーを送り付けた事により僕のウォークラフト3のインストールキーとの長きに渡る抗争は終わった。
もちろん僕は「返してー」なんてみっともない泣き付きを行ったりできるような人間では無いからして、これで全てが終わったかに思っていたし、事実そんな感じだったのだけれど、ある日ふと気がついて調べてみたら、Googleデスクトップに、そのメールが完全に保存されているのを発見してしまった。完璧なまでのインストールキーが。
悪夢だ。
これは悪夢だ。
消えない悪夢だ。
Googleデスクトップにはインデックス化されたものを削除するという機能が存在しない。存在しないのに僕はgoogleデスクトップのキャッシュにかなりの部分依存していてGoogleデスクトップをアンインストールする事は出来ない。
即ち、僕は一生、ああ、もう、このまま、ウォークラフト3のインストールキーを抱えて悶々とし続けるしかないのだ。悪夢、これは悪夢、消えない悪夢。
言うまでもなく、言うまでもなく、誓って、インストールなどしていない!スピリットブレーカーとブロードシーカーはimbaだと思う。止まらないって。誓って、誓って僕はブログオンリー。
2006年2月15日水曜日
トラックバックスパムを削除するのはブロガーの義務である。
何事にも義務は付きまとう。
悪く言い替えるならば代償である。
人間がブログを書く事によって失うものがあるとすればそれはただ1つ時間だけだろう。こここで「心である」などとやってしまっては底が見える。ここで言う底とはコップを上からのぞき込んだ底ではない。倒れてひび割れた茶碗の裏底の事である。
トラックバックスパムというものがある。
発信源はエログだ。
ネットサーフィンをしていると、そのトラックバックスパムを削除していないブログというものに、時たま行き当たる。それら茫々伸び放題で放置された裏庭のようになったブログを目にする度に憤りを感じる。
ネット時代の自らの具現化した姿である己のブログに、醜悪にして有害なエログへのリンクが挿入されているという事態を放置したままにしてブログを運営し続けるというその神経が理解出来ない。
それらのブログの幾らかは、まるでそれらのブログ自体がウェブへのスパムのように見える。大方はエログにつけられたものと大差の無いアフィリエイトのリンクやバナーがこれでもかと左右上下に貼られており、そこだけ見ればエログとの区別が付かないほどであり、「ああこれらは新しい単語としての"エログ"なのだ」と理解する事にしている。
そのような、エログな運営を行っていないブログにしても、僕には理解出来ない。いかにもエロッグバックなタイトルのトラックバックを放置する事により生じる品位と信頼という損失、あるいは普通のトラックバックとの見分けが付かないステルスエロッグバックを放置する事によるトラックバックへの信頼の低下、あるいはそんなリンクが生き残る事によるワールドワイドウェブへの損害を考えたならば、1人の人間としてインターネッターとして電脳世界の住人として、エログからのトラックバックを放置するなどという選択肢はありえないはずである。
即ち、僕はトラックバックスパムを削除するという作業は、この闘いが終わるまでの、あるいは空くが滅びた試し無しを地で行き何かがスパムに敗れ去るまでの短い間にブロガーに課せられた幾つかの義務のうちの1つであると理解している。
「いや、おまえ削除してねーだろ」
という反論には明確な答えがあるので先に述べておきたい。
僕がブログを書いているブログサービスであるブロックブログには、トラックバックスパム自動削除機能というものが存在し、トラックバックスパムを自動で削除してくれるので、僕がわざわざ削除するまでもないのである。削除スピードはあのはやぶさよりも速く、削除精度も完璧であり素晴らしい、ってもっぱらの評判。
濡れ衣を着せてしまってごめんなさい。
猛烈にお詫び申し上げたい。
ごめんなさい。
キーワードの文章は食材工房ゼニヤという通販サイトからのコピーアンドペーストである。
僕がいけなかったと思う点はたったの1点、これさえなければ僕は謝罪などしなかったのですが、これは非常にいけなかったと思う。
僕はてっきり文頭の丸までまったく同じだからこれはコピペだろうと思いこんでいたのだけれど、オフィシャルな文章だということで非常に申し訳ない形で痛くもない腹をいやしくも探ってしまった事に対して非常に深くお詫びします。
僕はどうでも良い文章と、人並みの普通の文章を書き分けるくらいの切り替えは出来るものだと思っていて、このエントリーについては普通のエントリーとして、即ち物凄く穏便で一般的にありふれたエントリーとして書いたつもりだったんだけれど、「コピーアンドペーストである。」などと、どう贔屓目に読んでも盗人みたく書いてしまっていたのは我ながら情けなく、本当に申し訳なかった。もうこの辺り、バカになってるのかもしれない。そういう自覚はあって気をつけてはいたのだけれど、足りなかった。
ただ、残りの箇所については全然違う。
僕は当初は「ははん、これは宣伝だ」と一瞥して思ったのは事実だけれど、それはすぐに覆されたと書いているわけで、id:mutsuju=アルプスの手の者、とは思ってもいなければ、書いてもいません。そうとしか読めなかった文章能力の無さについては開き直ります。
次にネット右翼をまるでネガティブな誹謗中傷のように受け取っておられるけれど、これは僕は別にネガティブな単語だとは思っていないしそのような意図では使っていません。100%ジュースとはかけ離れたダイアリーであるという以上の意味はありません。端折るけれど、ネット右翼という単語をネガティブなものにしているのは右翼ではない何らかの者共であり、そこははっきりと言っておきたい。
と言うことで上記3点のうち1点については誠に申し訳ございませんでした。
真性引き篭もりhankakueisuu
「アルプス ストレート100%ジュース 信州もも」の情報が欲しい!
物欲は無い。
食欲も無い。
性欲も無い。
情報に対する欲求も無い。
まるで聖人、あるいは廃人。
しかしながら、こればかりは気になる。
「アルプス ストレート100%ジュース 信州もも」というはてなキーワードを目にして僕は激しく当惑した。
まず、このはてなキーワードのおかしい点は、誰も一度も言及していないという事である。当たり前である。「アルプス ストレート100%ジュース 信州もも」などという、スペースや全角パーセンテージを含む長い長いキーワードをはてなダイアリーに書き込む人間など存在するはずがない。
それでは、である。
なぜこのようなキーワードが存在するのか。
それが、謎である。
はてなのキーワードは「はてな市民」というはてなダイアリーを30日以上更新した人間のみが作成出来るらしい。詳細については知らない。知らないが、とにかくはてなキーワードは人力で作られる。それも普通は「キーワードを通じての繋がり」といったものを期待して作られるものである。
ところがこの「アルプス ストレート100%ジュース 信州もも」というキーワードから何らかの繋がりが生まれる可能性は皆無だ。即ち、作成者がどのような意図でこのキーワードを作成したのかがまったく理解出来ず、僕は奇妙な不愉快さに包まれて途方に暮れた。
しかしながら僕は天才であるからして、すぐにこのキーワードが存在する意味を悟った。これは、広告即ち宣伝行為なのだ。「アルプス」というどこかの誰も知らないような零細会社が自らの会社の商品のSEOの為に、はてなキーワードというgoogleと極めて相性のよいスパミング作成装置のようなシステムを利用して、自社製品の宣伝を行っているのだと僕は推理した。
あるいは、株式会社はてな自体が、企業側にアプローチして「はてなキーワードに登録したらSEOありまっせ」などと売り込みをかけてがっぽがっぽやっているものかもしれぬと読んだ。
けれども、そのような僕の予想は木っ端微塵に打ち砕かれる事になる。
何故ならば、このキーワードを作成した人間が明らかに「アルプス」というジュース製造会社とはまったく関係の無さそうな生粋のネット右翼だったからである。
この、ネット右翼が明らかに自らのダイアリーとも、ダイアリーから読み取れるダイアラー自身の趣旨趣向ともかけ離れた商品のキーワードを作成しているという事実は尋常ならざる興味を引き立てられるものであり、「アルプス ストレート100%ジュース 信州もも」について少し調べてみた。
まず、キーワードの文章は食材工房ゼニヤという通販サイトからのコピーアンドペーストである。これに対してはてなキーワードによる著作権侵害はどうこう、などというのは僕の役目でもないし、役割でもなければ興味も無い。とりあえずはオリジナルの文章ではないという事からして、オリジナルの文章を書くほどに強い思い入れはないが、キーワードを作ってコピペをし、書式を調える程度には思い入れがあるらしい、という事がわかる。物凄い浅い読みである。
次にこのジュースを作っているアルプスという会社についてである。
正式名称は「アルプスワイン株式会社」であるらしい。
これがやっかいな事に、同名の会社が2つある。
しかもその両者ともが国産ワインを主商品としており、サブでジュースを作っている。おまけに「国産」「アルプス」といった安易なキーワードをブランド力に利用し、一方は「山梨」一方は「信州」といった具合にこれまた安易な地場力をブランド力に利用して商品を売りまくっているという、非常に似通った会社である。
7 :一升瓶バカ ◆44O71rUn/o :05/02/04 06:48:02 ID:sEwUKTbq
アルプスワイン ルナール赤
色はキレイなルビー色。褒められるのはコレだけ。
果実のそれとは明らかに異なる強烈な酸味。
口の中に残る化学薬品の匂いはなんとなく灯油を
連想させる。今まで色々ワインを飲んできたけど
そういう意味ではブッチギリの味。
このワインの処理をどうしようか、後悔とともに考え中。
そのワインの評判はどのようなものなのかと調べていたらこんなレビューに行き当たり、その悲惨さに思わず笑ってしまった。この何が滑稽であるかというと、一見したところ、長野塩尻のアルプスワイン社の商品に対するレビューなのか、山梨笛吹のアルプスワイン社の商品に対するレビューなのかが判別不可能な点にある。
丹誠込めて作り上げられた社の主商品であるワインが「褒められるのは色だけ」だとか「灯油を連想させる」などと散々に言われてまるでそれが宇宙で最もまずいワインであるかのように評されているわけで、これを見た人間のほとんどは「ここまで言われてしまうアルプスワインは、きっと駄目な会社なのだろう」と思うだろう。
自社の商品をそう評されたのならば自業自得、仕方がないとも言えるのだけれど、他者の商品で巻き込まれて呼ばれた同姓同名のアルプスワインさんはたまったもんじゃない。こんなgoogleな時代だと、凡庸で埋もれてしまう社名は逆効果だと思ったりした次第。まあそれさえも、安易な「アルプス」というブランドに頼るという南アルプス市級のまぬけさによる自業自得であると言えばそれまでであるが、さすがに少しは同情したくなる。
とりあえず少し調べて解ったのは、「アルプスワイン ルナール赤 」というのは「ストレート100%ジュース 信州もも」を作っている会社とは別の、山梨の方のアルプスワインさんの商品であるという事であり、なんとなく一安心である。
さて、何が気になるかというと、この一介のネット右翼にキーワードを作成させるに至らせるまでの力を持つこの「ストレート100%ジュース 信州もも」は本当においしいものなのかどうか、という点である。どうにもこうにも気になって仕方が無くなり、楽天で検索してみたところ、
こんなに美味しいジュースは他に知りません。ちょっと物足りないくらいの飲み切りサイズが、また飲みたい‥と思わせたりして!?
といういかにも楽天っぽい脳みそパッパラパーなレビューに行き当たったが、その評判のナイヤガラというぶどうのジュースは「売り切れました」との事でほぞを噛む。と言っても別に在庫があったからと言って買うわけではないけれど、何故か途方もなく悔しい。
その商品紹介文章に「1本100円」と書かれているのを目にし、「なんだ安物のジュースなのか」とかなり萎えたのもつかの間、その信州ももとやらは、135mlで147円もするらしい。高い。高すぎる。並のジュースの実に10倍の値段だ。ふざけている。なんかうまそうだ。値段が高いと「おいしいんじゃないか?」と思ってしまういかにも貧乏人な発想で非常に悔しいのだけれど、それだけの値段なのに売り切れまくるということはよっぽどうまいんじゃないか、と非常に悔しい。よくわからないけれど悔しすぎる。
そこでどこかに在庫は無いかと調べていた所、売ってる所があった(よく見たらさっきのサイトにもあった)。1リットルで893円。250mlで210円。それにしても高い。世界の王貞治も愛飲しているセービングのコーラが何本買えると思ってるんだ。こんなもん誰が買うんだ。
即ち、何が言いたいかというと僕はこの「アルプス ストレート100%ジュース 信州もも」というジュースについての情報が欲しい。いったいどのような味がしてどのようにうまくてどれくらいぼったくりなのかという事について知りたい。そしてその上で、何故他のりんご味やぶどう味ではなく、もも味なのかという点について物凄く知りたい。このアルプスジュースシリーズの中でも、信州もも味というのは抜群においしいものなのか、といった辺りが知りたい。どうして信州ももなのだ。別に甘くておいしいジュースを飲みたいだなんて思った事など一度も無い。僕は水道水さえあれば満足出来る性質だ。人間の体には電解質的に言って水が一番なのだ。しかも日本の水道の水は非常においしいのだ。世界的に見て凄く安全だし、安いから皆して飲むべきであり、僕はただ桃好きの彼女からバレンタインのチョコレートを貰ったのでそのお返しに何か無いかとウェブサーフィンをしていた所このようなウェブサイトに行き当たったに過ぎない。
そういう設定で行くことにした僕は少し満たされ満足し、冷蔵庫の中で見つけた生姜を細かく刻んでコップに投げ込みレンジでチンして砂糖を山盛り三杯入れて、溢れたターンテーブルをちり紙で拭いて掃除して、部屋に逃げ帰ってふうふうして飲んだ。
2006年2月14日火曜日
強く逞しい君へ。
君へ。
強く逞しい君へ。
君は強い。
そして逞しい。
あの頃の君が一晩かけても半ばまですら歩けなかった峠の登りの霧の掛かった険しい道も今の君なら、古いお寺の入り口の、高い敷居を跨ぐように、ただ少しだけ丁寧に歩幅を調え合わせるだけで、まるで何事もなかったかのように越えて行ける。
僕には到底、出来ないことだ。
君へ。
強く逞しい君へ。
君は強い。
そして逞しい。
けれども君は強いだけで、けれども君は逞しいだけで、ただそれだけの事でしかない。その事に君も、どこかで気がついているのだと思う。君の強さや逞しさは素晴らしいものだけれども、誰も君の強さを褒め称えたりはしないし、誰も君のたくましさに憧れたりはしない。世界は今の僕や君には想像出来ないくらいに広くて、宇宙はあの頃の君や僕にすら想像もつかなかったくらいに膨大だ。そう、君くらいの強さや逞しさはその広さの前では完全に、つむじの上まで埋もれてしまう。だから、世の人々は君なんかよりもっと強くて逞しい人ばかりに目をやるんだ。
それでも、君が強くて逞しいって事には違い無いんだよ。
君へ。
強く逞しい君へ。
君は強い。
そして逞しい。
でもね、多分。君が十中八苦の末に手に入れたその強さと逞しさが、きっと君を苦しめているんだろうと僕は思う。少なくとも僕の目にはそのように映る。君が手に入れた強さや逞しさが、役に立つ日はもう来ない。だって君が、そのように望んでいるんだからね。君が手に入れた逞しさは、これからの君の役には立たない。君の持つ強さと逞しさは、ありふれていて、平凡で、陳腐で、ちんけで、つまらないもので、尚かつ本当に素晴らしいものだけどそんなもの、阿蘇山の土産の赤い土にも劣るくらいの小さな思い出の断片でしかない。転職サイトの備考欄に、「私は強く逞しい」なんて書くわけにはいかないからね。
それでも、君は強く逞しい。
君へ。
強く逞しい君へ。
僕らの住んでるどこかしこには、地位や名誉が転がっていて、その五色の溢れる土地カードの上には、必ず誰かがどっぷりと、鳥もちの上に腰掛けあぐらをかいている。そんな人達のほとんどは、君のように強くもなければ、逞しくもない。
ただ彼らは「む」と読まれたその時に、誰より速く右手を大きく払っただけだ。大きく息を吸い込んで、君がゆっくりとゆっくりと、歩き始めた頃にはもう、君の望む色の土地カードに空きは無かったのかも、しれないね。あるいは、もしも、もしかして、あの頃の君に今の君くらいの強さと逞しさがあったなら、望み通りのその上に、数字の書いたプラカードを手に、座れていたかもしれないね。
あるいはあとからしゃしゃりでて、うまいことやって、くすねたか。
それをうまくやれるだけの技量は少なくとも今の君にはない。
それはいい事なのかもしれないけれど。
君へ。
強く逞しい君へ。
だからって、つり革持ち立つ鬱憤を、世界の造りや伊達政宗にぶつける事は間違いだ。何故ならば、残りの僅か、残りの僅かな幾らかは、君よりずっと、強い。そして逞しい。そりゃあもう、驚くことすら出来ないくらいに。見ただろう、君も、2005年のあの人を。
それに、今こうしている間にも、座布団山田で重ねる奴らを見てみろよ。
奴らの強さと逞しさ、そして僕や君が失いもう二度と無い青いきれ。
君へ。
強く逞しい君へ。
だからと言って、今から君が彼らみたいに強くなったとして、君があの人達みたいに逞しくなったとして、君が君の強さに相応しいだけのものを手に入れられるってわけじゃない。
例えば僕がどれだけ努力を重ねたって、あの人のブログのエントリーみたいなブログのエントリーは決して書けやしない。僕には魂が無いからね。
いや、違うんだ。そうじゃない。君に足りないのは魂だ、って言っているわけじゃあない。少なくとも僕には見える。かげろうゆらめく魂が。君に足りないのはもっと他の何か、だと僕は思うんだ。それが何かだなんて僕にはわからないし、例えば感づいていたとしてもきっと言わないだろうけれど。
努力も根気も無しにのうのうと生きている奴らはよく「努力が足りない」「根気が足りない」なんて事をしたり顔で言うけれど、世の中には努力や根気だけではどうにもならないものだってあるんだよね。僕はそれを知っているし、君はそれを知っていながらそれを認めずに、遠くばかりを見ている。
君へ。
強く逞しい君へ。
だけど、やっかいな事に、努力や根気だけではどうにもならない事よりも、どうにかなる事の方が遙かに多いんだ。そりゃあもう、比べものにならないくらいに。だからと言って、僕ら(いや、僕と君とは違うから、「僕ら」って言い方は相応しくないか。)にとって足りないものが、努力や根気だ、ってわけじゃあないけどね。それはもう、絶対に。
君へ。
強く逞しい君へ。
「君はどこへ向かおうとしているのか?」なんて問いに意味は無いね。だって君は、光溢れる輝く未来へと、踏み出したところだからね。まず一歩、そして一歩と。
けれども僕は思うんだ。あの頃の君は、一体どこへ向かおうとしていたんだろうか、って。何を求めて歩いていたんだろう。多分、光を求めていたのだろうなと、僕は思うんだ。
君へ。
強く逞しい君へ。
今の君が歩き始めたのは眩い光に照らされた道。
あの頃の君が歩いていたのは光へ続くと信じてた道。
君へ。
強く逞しい君へ。
「あの頃の君が」という書き出しならば僕にでも書ける。「あの頃の僕が」という書き出しは残酷すぎて、弱くてただただ卑怯なだけの、僕には書けや、しないけど。
君へ。
強く逞しい君へ。
あの頃の君が今の君を見たら、どんな風に思うだろう。
きっと、君の強さと逞しさに感動するだろうね。
「凄い、僕がもしこんな風ならば!」って。
けれども決して、「僕もこんな風になりたい」とは思ってくれやしないだろうね。
君は、それほどのものじゃない。
僕がそうであるように。
多分、これはおそらくで、憶測に過ぎないのだけれど君はそれを、心のどこかで不満に思っているんだろう。もっと敬意を、もっと俺を、って。君は認めたくないかもしれないけれど。でも、それは違うんじゃないかな。あの頃の君が真っ暗闇のその道へ、レミーラも覚える前から踏み出したのは、そんなものの為じゃないだろう。
君へ。
強く逞しい君へ。
でも、でもね。僕は君を責めようなんて魂胆は毛頭無いんだ。なぜならば、もしも僕が今の君と同じ場所に茫然自失と突っ立ってたなら、同じように思っただろうから。そして付け加えるならば、もしも僕があの頃の君と同じ場所に居たならば、君のように駆け出したりはせず僕はどこへも踏み出さず、その場に座り込んでいただろう。「世の中なんてくだらない」とかなんとか言って。
その間中歩き続けた君は、少なくとも僕には手の届かない存在だ。もちろん僕だって他の誰かと同じように、君に憧れたり、君の強さを羨んだりはしないけれどね。それでも君が強くて逞しい、って事には変わりは無いんだから、それでいいんじゃないかな。
君へ。
強く逞しい君へ。
君は光り輝いている。君の未来が光り輝いていて、君の人生が光り輝いているのと同じように。君には愛する人がいて、君の愛する人は君を愛している。もちろん、今はまだそうじゃないかもしれないけれど、光り輝く君には君に相応しい将来が保証されている。なんてったって、君の行く道はまるで真昼のように煌々と、溢れる光で照らされているんだから。
君は何の不安も無しに、そこを歩いてゆけばよい。
だってそうだろう見てご覧、みんなそうしているじゃないか。ほら。
君へ。
強く逞しい君へ。
僕が知っている事といえば、人生は君が思っているよりもずっと長い、って事くらいだ。あの頃の君と今の君がそんなには離れていないのと同じくらいに、今の君とあの頃の君との間だって、そんなには離れていないと思うよ。
あの頃の君と今の君との差異がこれから先も、ずっと広がっていくかのように君は脅えているけれど、もしかしてそんなふうにはならないかもしれないじゃないか。そんなに臆病にならなくたっていいんじゃないかな。
その間中闇の中を走り続ける野犬の群れの垂らす涎の汚さと蠢き、時折漏れる遠吠えに君は脅えて焦ってとにかくどこかへ逃げようと、無意味に右往左往をしているけれど、そんなに焦らなくたっていいんじゃないかな。
その気になればいつだって、君の輝くその道逸れて、道路灯の光の見えるまでには、闇の方へ踏み出せるのだから。今では無駄に思える事も、何も無駄にはならないよ。
君へ。
強く逞しい君へ。
君は強い。
そして逞しい。
君の行く道は光り輝いていて、
君の人生は眩い光に溢れている。
何も恐れる事なんてないよ。
脅えずにただ、楽しめばいい。
君にはその権利があるし、
君にはそれだけの物がある。
君へ。
強く逞しい君へ。
僕は君の強さを褒めたり、
君の逞しさを称えたりはしないよ。
君の強さや逞しさは、
それほどのものじゃないからね。
けれども君は強い。
そして逞しい。
君が小さく誇るには、
もう十分すぎるほどに。
君へ。
強く逞しい君へ。
光溢れる未来を歩く、強く逞しい君へ。
僕は君のように強くも逞しくもないし、街灯も無ければはじょうびんもありやしないから、そしてあの頃の君のように見えない光を駆け続けたりは出来ないから、真っ暗闇を這い続けるよ。
立ち止まらずに、立ち上がらずに。
宵闇の中を、宵闇の方へ。
強くも逞しくもない僕から君へ。
強く逞しい君へ。
2006年2月12日日曜日
一日一回の更新を怠らないブロガーを僕は信じない事にしている。そして僕は更新という作業を行う事を止めようと考えるに至った。
即ち、仮にブログを書いている人間というものが存在していたならば、一日にたった1つのエントリーを投稿したくらいで、ブログを書くという人間の根源的欲求が収まるはずがないのである。であるからして、1日に1つのエントリーが毎日毎日行われるようなもところには実質魂が無いのである。
それとは別に、僕にはブログを書く能力というものが致命的なまでに欠けている。これまでの僕は勝利する為に、即ち毎日更新を行うといういわばカレンダーとのあくなき闘争からLEAVEしないが為に一日一度以上の更新というものを目指してきたのは事実であるが、その闘いに僕は敗れ去ると同時に、新たなる闘いの荒野へと踏み出す事にした。
即ち、僕にはブログを書く能力、即ち自らの考えている事、感じている事、あるいは自らの感情というものを活字にするという能力が決定的に欠けており、その作業をこれまでは数日数週間数ヶ月という時間的暴力を利用して行ってきたが為に、往々にして僕の文章は常に過去の過去のそのまた過去の記憶という物を活字にしたに過ぎず、すべての記録文章が記憶に基づいているという点を割り引いて考えてもそれは酷い単位のディレイラグであり、その長き歳月を経るという過程において、ここで仮に僕が魂即ちソウルと呼ぶものが失われていたに違いない。きっと、おそらくはの話である。
よって僕はこれまでのように最も書きたい文章を温存し、好きな食べ物即ちコーンクリームコロッケを冷めてとろみが無くなり白米を全て食べ尽くすまで取り置いておくお下げの似合う女子小学生のような事はせずに、傲慢かつ暴力的で人間と呼ぶに値しないくらいの柔道部員のようにカニクリームコロッケというカニクリームコロッケを食べ尽くしたあとにシュークリームが食べたい、出来ればココア。
即ち、たとえ100億万年に一度の更新しか行えなかったとしても僕は、そちらの方を選び、更新という二文字に別れを告げ、ブログによるドイモイ的レボリューションの追求に勤しむべく、最も書きたいと魂が叫ぶエントリーをまず先に書き始め、決して横道にそれて感情の赴くままに好き勝手なエントリーを書き散らしたりはせずに一心不乱に突き進む所存。
2006年2月6日月曜日
水
息を吸うのもやっと、息を吐くのもやっと、むくりあがるのもやっとの事で、椅子に座って電源の入っていないPCのキーボードの上に十指を並べて浅く深呼吸をやっとの事で二度繰り返す。人はそれをため息2つと言う。
どうしようもなくほつれあがったテグスの玉が、風と猫とに煽られて道を転がる様を見つめては、これがブログになったならば僕は今にもブログスターだとロブスター。人はそれを無気力と言う。
水を飲んで、嫌になって、水を汲んで電子レンジに突き入れて4分。泡だって溢れたターンテーブルを手拭いで一周して湯を飲んで、口の上側でろりとめくれて血の味痛みは無い。引き篭もって、引き篭もって、歳をとって、引き篭もって、引き篭もって、大人になって、引き篭もって、引き篭もって、ブログを書いて、ブログを書いて、ブログを書いて、そうして僕は何になる。
自らの打ち込む文字列を見ていられなくなり首がガクンと前方に落ちる。まだ座らない赤子のように。両腕の間に置かれたコップに額を付けて、生暖かさを受け取って、生温いブログを書いて、また無気力。
もうどうでもいいじゃあないか。魂なんて、そんなもの。機械的に書いて、機械的に書き続ければ、流れ作業のライン工のように右から左へ溜まったものを1つ1つ書いていけば、そうすれば少なくとも無気力さを隠蔽出来る。そうした所でなんになるんだろう。
これが絶望でないとすれば一体何だ。
これが絶望でないとすればブログだ。
花も団子も
みたらし団子の夢を見た。
まただ。
草餅を買ったついでの団子やで一本、店の売り子の言うままにみたらし団子を買い与えられ、それを車の中で大事に、大事に舐め続け、その甘さにひれ伏した僕は食べてしまうのがもったいないという気分になりペロペロとひたすらに舐めていたら、下品な事をするなと罵声が飛んできて、その声に竦み上がった僕はそれを落としてしまった。
団子とはそれっきり二度と出会っていない。別に出会いたいとも思わない。どうせ出会うなら舐るなら、みたらし団子などよりはみたらしかでなれおん辺りの方が今の僕にはよく思えるが、白く冷えた芳醇な米のマシュマロに胸湧き踊る僕の心はもう死んだ。人にしても同じ。
2006年2月2日木曜日
玉葱
憎しみが消えて、悲しみが消えて、苦しみが消えて、僕は綺麗になったから、ただ誰か、汚い誰かを全部殺してやりたい気持ちだけがしゃがれた声で膨らんで包丁を手に街に出て、「悪い子はいねえか」「悪い子はいねえか」と練り歩いてみたものの、みんな足先急ぐ大人ばかり。ならばとばかりに「悪い大人はいねえか」と呼びかけて右手をピンと伸ばして「ハイ」と名乗り出たその悪い大人を刺して殺してやろうと「悪い、」まで喉絞ってみても、その先を言う勇気が僕には無い。僕が殺せるのは童までだ。
認めない、認めたくないそんなもの、とまるで人の心の動きのように悔しさ少し。「悪い大人なんていない」というきれい事で僕はまた「悪い子はいねえか」と呟く。
けれども互いにもたれあう年端もいかぬ子の高い声を耳にして「ああ僕には人を刺す勇気など無い」と己の弱さをそこに見いだし怒り昂ぶり玉葱を買い細かく刻んで少し泣いた。
2006年2月1日水曜日
ブログにおいて、訴訟の二文字と自殺の二文字は同質である。
ブログで「訴える」と言い始める人がいる。
ブログで「自殺する」と言い始める人がいる。
前者と後者は、違うように見えてまったくの同質である。
どうして人は訴訟の二文字をちらつかせるのか。
それは、ブログにおいて敗れ去ったからである。
彼らはブログというものを行う為にブログを書き始めたのに、そのブログにおいて自分のブログ力、即ちエントリーを書く、コメントを書く、トラックバックを飛ばす、といった行動によって制御しきれない事態に陥ったが故に、闘争としてではなく逃走として、訴訟の二文字を持ち出してこう言うのだ。「訴えてやる!」と。
即ちそれらの人々は完璧なまでの負け犬である。ブロガーはブログによって闘うべきであるのに、それで勝ち目がないからと、他の手段に逃げた完璧なまでの負け犬である。
どうして人は自殺の二文字をちらつかせるのか。
それは、ブログにおいて敗れ去ったからである。
彼らはブログというものを行う為にブログを書き始めたのに、そのブログにおいて自分のブログ力、即ちエントリーを書く、コメントを書く、トラックバックを飛ばす、といった行動によって制御しきれない事態に陥ったが故に、闘争としてではなく逃走として、自殺の二文字を持ち出してこう言うのだ。「死んでやる!」と。
即ちそれらの人々は負け犬である。ブロガーはブログによって闘うべきであるのに、それで勝ち目がないからと、他の手段に逃げた完璧なまでの負け犬である。
この両者は、「訴える」「自殺する」と起を述べた後の行動においても同じである。
「訴える」とブログに書いた人は往々にして訴訟を起こさない。
そして彼らはこう言うのだ。「訴えようと思っていたけれど、訴えない事にしました」と。
そして彼らは自分自身をこう評価する。
「訴えようと思っていたのに訴えなかった心の広い人格者である私は偉い!」と。
事実は人格者でも心の広きでもなんでもなく、ただ口だけの人である。
挙げ句の果てには「物凄い親しいリアルの友人からもっと他の事に時間を使った方が良いよと親身になってアドバイスされたのでそんなくだらない事をするのはやめました」などと、またもやブログにブログ以外の事柄を持ち込んで自分の素晴らしさと友達自慢を喧伝しだす。
あるいは「我が国の今の法律、判例では訴えても時間の無駄だと判明したので訴えるのはやめました」などと、ブログで勝ち目が無いからと外に持ち出したそれが、ブログの外でも勝ち目が無いとわかるや、責任を法になすりつけて脱兎の如く逃げ出す。
「自殺する」とブログに書いた人は往々にして訴訟を起こさない。
そして彼らはこう言うのだ。「自殺しようと思っていたけれど、自殺しない事にしました」と。
そして彼らは自分自身をこう評価する。
「死のう思っていたのに死なずに頑張っている私は偉い!」と。
事実は偉くもなんともなく当たり前の事であり、ただ口だけの人である。
挙げ句の果てには「物凄い親しいリアルの友人がくだらない事を気にせずに頑張って生きた方がいいよと親身になってアドバイスしてくれたので、自殺するのを止めました」などと、またもやブログにブログ以外の事柄を持ち込んで自分の素晴らしさと友達自慢を喧伝しだす。
あるいは「我が国の今の法律ではインターネットの上で自殺するとか言ったら駄目らしいので、そういう事は書くのは今後やめます。」などと、ブログで勝ち目が無いからと外に持ち出したそれが、ブログの外でも勝ち目が無いとわかるや、責任を法になすりつけて脱兎の如く逃げ出す。
「やります!」と言っておいてやらないという、普通は人間の評価というものに対してマイナスに働く振る舞いが(少なくとも本人の脳の中では)プラスに働く極めて珍しいフレーズこそが「自殺」と「訴訟」の2つなのである。
あるいは裁判まで持ち込んだならば、負けたら法のせい/勝ったら俺の正しさが全てにおいて証明されたと、完全無欠のオールルート勇者ENDが確定している。
あるいは自殺にまで踏み入ったならば、生き残ったら幸運/死んだら俺はかっこいいと、完全無欠のオールルート勇者ENDが確定している。
つまり、あらゆる言葉がインターネットの審判を受けるブログという場所においての最後のサンクチュアリワードであり、言い換えるならばブログファイターの墓場であり究極のイタイ系。
無論の事、最初から「自殺/訴訟」を叫ぶブロガーがイタイのは今にして言うような事ではなく、東芝に猫が入っていたくらいで訴えるとか死ぬとか言うなんて。
もちろん真性引き篭もりhankakueisuuはそんな事言わない。
思いません。
皆さん、やっぱり松永はカネにもならんのにアホなことばっかりするなあとか思ってませんか?(笑)
思いません。
何故ならばそれはカネになっている。
松永英明とは何かというと、それはブランドである。
インターネッターが、もう少し幅を狭めて言うとブロガー及びブログ読者が興味を持つ事柄についてのハイ深度なエントリーを逐次投入するを積み重ねて作り上げられたブランドであり、我が国のブログにおける数少ないマネーオブザネーム、金を生む名前だ。
大半の社長ブログの社長が社長でなければというレベルに留まり、多くのギーグのブログがギーグでなければ、アイドルのブログなどに至っては無論の事若いおなごが書いているという付加価値によって人を集めているのとは違い、あるいは同じように、松永英明は松永英明である事によって人を集めているのである。
その松永英明の典型例ともいえる、インターネッターの興味の半歩先を入念な調査と巧妙な距離感と極めてインターネッター的な筆力を利用して作り上げられたエントリーであるそれは、正しく松永英明を松永英明たらしめているものであり、それこそが金を生む源なのである。
そして何よりも何がおかしいかと言うと、アダルトブログを作って機械的にアダルトスパムをばらまいている人や、ヤフーオークションで任天堂DSを売り歩いているような人、あるいはトラッックに東京で荷物を積み込み仙台でそれを下ろしている人などがそれをさして「金にならないアホな事」と言わないのと同じように、松永英明が松永英明を行うという事はそれ即ち金になっているという事である。
一体誰がアドセンスをクリックし、誰がアソシエイトを買っているのだ。
その言い草は卑怯に過ぎるやるならやるで胸を張れ。
それが金で無いとしたら一体、それは何なのだ。
即ち、全ての人々はアフィリエイトの前では全ての振る舞いがそれに飲み込まれその振る舞いとなるのと同じように、真性引き篭もりhankakueisuuの前では僕なんて無力。
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