2019年8月12日月曜日

「この世界の片隅に」は悪夢のような神アニメだった。暴力は空から降ってくる

凄まじいものを見た。
この世界の片隅にである。



開始3分で「苦手なタイプのアニメだ」と強く思った。
僕はアニメにおける暴力描写が苦手なのである。

作中で兄は妹を殴り、兄は妹を罵倒し、兄は妹の些細な希望を踏みにじり、兄は妹に苦役を課す。挙げ句、この物語の主人公であるすずはすずで、望遠鏡で人の頭を繰り返し殴る。こういうのが、僕は大嫌いなのだ。




私達の生きる世界が暴力に満ち溢れている以上、フィクションに暴力が存在するのは当然である。冴羽りょうが人を拳銃で撃ったり、リナが魔法で人を焼いたりといった暴力は、フィクションに必要な暴力描写である。

僕が嫌いなのはそういう暴力ではない。
人と人との親密さを現す為に用いられる暴力だ。

アニメというカルチャーにおいて、暴力は親密さを現すための記号として用いられる。兄が妹を殴るのは、兄と妹が親密な関係だからだし、冴羽りょうが100tハンマーで殴られるのは槇村香と冴羽りょうが親密な関係にあるからだ。リナとガウリイがとっくみあいの喧嘩をするのはリナとガウリイが親密な関係にあるからだし、すずが望遠鏡でおっさんの頭を殴るのは、すずとおっさんが敵対関係ではなく親密な関係にあるからである。無論、兄がすずを殴るのは兄とすずが親密な関係である事を示している。当然である。兄妹なのだから。


これらの暴力は、不要な暴力である。

暴力以外の方法で人と人との親密さを描く手間を惜しんだ人達が安易に用いる暴力であり、我が国のアニメには頻繁に登場する暴力表現である。僕はこのタイプの不要な暴力表現が大嫌いなのである。





一方で、開始早々に「これは作り話です」と明示的に示されていた事には、たいへんな好感を抱いた。作中には毛むくじゃらの化け物が唐突に登場し、屋根裏からは少女が宙を浮いて降りてくる。明らかな作り話である。

インターネットが進みに進んだ2019年を生きる僕等は「実話のふりをしたストーリー」や「実話を元にした感動のストーリー」に辟易している。一杯のかけそば、イザヤベンダサン、ニンジャスレイヤーなどに代表される何かを騙る嘘は今や、時代を取り巻く大きなうねりとなって僕等の国だけではなく、世界中を覆っている。


「もしかして、実話を元にしたアニメなのかな」
という思いを視聴者が決して抱かぬように、夜になると寝てしまう毛むくじゃらの化け物というキャラクターを登場させ、あまつさえそのキャラクターはストーリーの根幹に組み込まれている。屋根裏から宙を浮いて降りて来た少女も同じようにストーリーに組み込まれている。それら荒唐無稽なキャラクターとそれを描く際に用いられる表現によって、僕は心の底から安心してこの世界の片隅にを見る事が出来た。

これは、ただの、つくりばなしなのだ。
これは、ただの、アニメだ。





ニコニコ動画やyoutubeで見たどんな料理動画よりも面白いな、という無邪気な感想を抱きながら、丁寧に日常を描写し続けるとなりの山田君のような素敵なアニメを「どうせ被爆するんだろう、爆死だとキャラ数的におさまらないし」などと斜に構えながら気楽な気持ちで見ていた。それが突如として崩れたのは、すずの兄が唐突に死んだところからである。兄の死をきっかけにして、不気味な違和感がこみ上げてきた。




開始早々に展開された、兄がすずに対して暴力を暴力を振るうという描写は、兄とすずとの親密さを現す為の描写であったはずである。「あんなに親密だった兄が死んでしまった」という悲しみを視聴者に抱かせるための布石だと僕は思い込んでいた。ところが、そうはならなかった。

兄は一切の悲しみを残さず淡々と朗らかに死に、あまつさえ妹は「すずをいじめるおにいちゃんはもういない」と兄の死をポジティブな出来事として語る。ならば、あの暴力は何だったのだ。すずが兄からうけた理不尽な暴力が、親密さを現す漫画やアニメ特有の記号表現でなかったとすれば、一体なんなのだ。

すずの優しさを罵倒し、すずを拳で殴り、すずの希望を踏みにじり、すずを萎縮させ、すずが絵を描くことすらも完全に否定した兄の暴力が、「実はこう見えていいやつでした」という描写によって救済されることもなく、唐突に死に、それはすずと妹にとって願ったり叶ったりの素敵なイベントとして処理される。

作中の兄は「生まれてこなかった方がよい人物が存在する」「はよ死んだ方がよい人物が存在する」というあまりにも卑劣なメッセージを視聴者に伝える為だけのただの理不尽な暴力として存在し、そしてその役割を全うする為に死んでいく。おいおい、ちょっと待ってくれ。巨匠黒澤明が世界に送る人間賛歌、みたいな空気はどこに行ったのだ。太平洋戦争を描くならば、ルールというものがあるだろう。ルールを守れ、ルールを。

戦争映画にはルールがある。
誰でも知っているルールだ。
それが太平洋戦争を描いたものであるならば、悪役は爆弾と官憲と人間の愚かさ。市民を描くならば人間賛歌。それが僕等の知っている戦後教育であり、僕等の知っている戦争映画、即ち反戦映画だ。ところが、この世界の片隅にはそんなルールを完全に無視している。はよ死んだ方がよい人物を物語に登場させ、しかもそれは官憲でも軍人でもないただの兄だ。作中にすずの母が放った「納得出来ない」という意見に僕は深く頷いた。こんなもの、納得出来ない。太平洋戦争を巡る表現のルールというものを守れ。

これが実話だったならば「そういう人物が実在していた」で済む話である。ところが、この世界の片隅には作り話である。主人公の兄という最も身近なところに、「生まれてこなかった方がよい人物」が配置されている。これはただ事ではない。掟破りである。掟破りを平然と行い戦後教育としての戦争映画のルール破りを平気で行うアニメに、僕は果てしない恐ろしさを感じた。「もはや戦後ではない」すら過ぎ去り消えた、遠い過去であり、僕等は未来を生きているのだ。




そういった物語に潜む得体の知れない恐ろしさとは別のところで、平和で呑気な作り話は、のほほんと進んでいく。ストーリーの大筋は、主人公のすずが身に降りかかる暴力によって、心身共に破壊され、平和を愛し戦争を愛する改造人間愛国戦士すずへと変貌を遂げていくという物語である。

呉におけるすずは、全ての暴力の最終到達地点である。防火の為に取り壊しになった時計店から離縁して出戻って来た小姑が直接的な暴力の行使者として描かれるが、他にも憲兵や時限爆弾だけではなく、頑張って作った飯は遠回しにまずいとなじられるなど、様々な形の暴力がすずへと降り懸る。それら暴力を行使する側は暴力だなどとは微塵も思っていない、数々の些細な暴力と、明確な意志を秘めた暴力の双方によって、すずは精神と肉体を破壊されていく。

すずは他人を守れない一方で、夫はすずを守る事に成功し、その劣等感がすずの精神を破壊する。その夫は夫で、ずずを英霊へ性上納した卑劣な男である。姪っ子はすずが禿げたせいで、禿げの原因を作った他ならぬその人物に罵られ、その光景を見てすずは壊れていく。まずい飯には飯がまずい理由があり、生煮えの飯には飯が生煮えである理由があるにもかかわらず、それらに対する苦情は暴力の形をしてすずの元へと寄せられる。すずの兄とは違う、もう1つの形をした「生まれてこなければよかった人物」が作中に描かれ続ける。あるいは、「生まれ来てくれてよかった人物」か。嫁いできてくれてありがとう。あとは子を産むだけですね。もちろんすずは子など産めず、子を産めないという事実はならば安心して性上納出来るというところに繋がるのだ。

それらの卑劣な暴力によってすずは少しずつ改造されてゆき、最終的には自らの身を挺して自らを改造せしめた呉と大日本帝国を鬼畜米英より守りたる勇敢な愛国戦士すずへと変貌を遂げる。

人は変わる生き物だ。多くの場合それは「成長」と呼ばれる。けれども世の中には成長ではない変化も存在する。そんな当たり前のことが、当たり前の事としてすずを通じて描かれる。呉に来てからのすずは成長していない。呉に来た時点ですずは既に1人の立派な人間として完成しており、呉という呪われた地においてすずに起こったのは成長ではなく、暴力による人格破壊と再生、すなわち改造であった。北条すずは改造人間である。



これはもはやすずではない。
すずの形をした他の何かだ。



頭ではそうわかっていても、僕等は単純な生き物で、大日本帝国の為に戦う勇敢なる愛国戦士すずを応援せずにはいられない。そこに作中最大の悪役が現れて改造人間すずの人生を完全に否定して完膚なきまでに破壊する。その悪役こそが昭和天皇である。昭和天皇はすずが自らの髪を、趣味を、家族を、腕を、平穏な広島での生活までをも捨てて戦うすずの戦争を、破壊する為だけに現れる、まこと悪辣なる輩である。

確かに愛国戦士すずは、もはやすずなどではなかった。絵を描かず、微笑まず、ぼんやりともしない。それでもすずはすずである。物語の主人公である。肉体と精神を破壊され改造人間愛国戦士すずへと変貌を遂げてしまっても尚、それでもすずはすずなのだ。だからこそ僕は怒りを抱いた。昭和天皇に怒りを抱いた。すずは戦うと言ってるのに、なぜ戦争を終わらせる。すずが戦いたいと言っているんだから、すずを戦わせてやれよ。勝手に降伏するなよ。朕の戦争なのだから、朕が戦うまでやれよ。おまえもすずと一緒に戦えよ。こんな理不尽があるか。あってたまるか。

ここでも暴力の最終到達地点はすずだった。軍が勝手に始めた朕の戦争という暴力は巡り巡ってすずの元へと辿り着き、その暴力はこれまでと同じようにすずを破壊した。全ての暴力の最終到達地点であるすずは今回もまたその暴力を、たった1人で受け止めて、これまでと同じように壊れていった。破壊され改造されたすずはまたしても、破壊され改造されてしまったのだ。

暴力は降ってくる。空から降ってくる。低い所へと、弱い所へと降ってくる。たんぽぽが、とんぼが、蝶々が、カモメが、サギが、蟻が、重力に逆らって空へと向かうのとは裏腹に、弱きすずは地べたを匍って懸命に生きた結果として己すらも投げ捨てて尚、空から降ってくる暴力に晒される。

だからこそ「強うなりたい」とすずは言うのである。すずが暴力から逃れる為に強くなろうとして失敗したお話、だと思ってこのアニメを見ていたのである。ところが「弱いものは暴力に晒される。強くなろうとしたって難しい」というまるで昭和の教訓めいた作り話はすずが最後に放った一言で完全に吹き飛んでしまう。「一番最後にしたほうがいい」この瞬間、すずは暴力を振われる側から振う側に回ったのである。





「一番最後にしたほうがいい」という言葉に悪意がないのは明白である。

けれども、これまですずがその一身で受け止めてきた暴力の中には、悪意がないことが明確でないものが幾つもあった。「楠木公はまことの豪傑だったのだろう」という言葉はすずを叩きのめしたが、そこに悪意はあっただろうか?笑って暮らせる世の中を願う人達がたのしく笑っていたことで、すずは自らの無力さに叩きのめされ壊れていったが、彼らは悪意を持って笑っていたのだろうか。夫はすずを英霊への性上納として差し出したが、果たしてそこに悪意はあっただろうか。そんなもの、あるわけがない。よかれと思って、あるいはなんの気なしにやったことである。

同じように「一番最後にしたほうがいい」というすずの発言にも悪意はなかった。だからこそすずは「この少女は汚いから最後にしたほうがいい」という明らかな暴力を、他ならぬ少女のすぐそばで平然と言ってしまったのである。しかもその発言は改造人間愛国戦士すずから、元のすずへと懸命に戻ろうとしている流れの中で放たれたものである。この一言によって戦争の一番の被害者であり、暴力の最終到達地点である弱いすずというアニメの構図がが完全に壊れてしまった。

なんてことだ。僕等が愛して見守り続けた愛すべきすずという人物は、小姑、憲兵、昭和天皇という作中の悪役と同じように暴力というバトンを受け取っては他へとリレーするだけの存在だったのだ。小姑は建物疎開と世継ぎという暴力をすずへとリレーし、憲兵は大日本帝国という暴力を、昭和天皇は天皇制という今もなお我が国に息づく理不尽な暴力をすずへとリレーした。それと同じように、すずはこれまで自らが受けた様々な暴力を「汚いから風呂に入れるのは最後にしたほうがいい」という形に変えて名も無き少女へとリレーしてしまったのだ。




これには、完全にやられてしまった。アニメというものを滅多と見ない僕がアニメに期待していたのは「スラマッパギ」と勢いよく右手を挙げたくなるようなたのしさである。実際にすずが料理をするシーンなどは、こういうアニメが見たかったと思う程にたのしい瞬間であった。すずの料理シーンが2時間ずっとあのテンションで続いたならば、この世界の片隅には紛う事なき名作であり、素晴らしいアニメになっていただろう。けれどもそうはならなかった。すずは作中で人格を破壊され改造人間と化し、さらには一見すると純真無垢に見えていた純白のすずですら、暴力をリレーするただの繋ぎ手にすぎなかったという悪魔のような大オチが待っていた。

思えば、「すずですら暴力をリレーする1人である」という作品のテーマは最初から描かれていた。兄がすずを殴るのと同じようにすずは望遠鏡で人を殴った。すずを殴る兄に悪意がなかったのと同じように、おっさんの頭を望遠鏡ですずにも悪意など無かったのである。すずの事を思って罵った兄の言葉が「おっさんおっさん」というすずの暴言を生み、すずの事を思ってすずを殴った兄の拳がおっさんの頭に打ち下ろされる望遠鏡を生んだのである。

最初から、すずは暴力をリレーしていたのだ。




人間というものは弱肉強食の100万年を殺して奪って生き続けてきたという成り立ちが故に、所詮は暴力をリレーする機関でしかなく、それは本人の意志でも、あるいはすずという生まれ持っての神聖さを持ってしても阻止することは出来ない。暴力をリレーすることをやめるには石ころのように死ぬしかないと、このアニメは言ったのだ。この世界の片隅は言ったのだ。僕等に向けて言ったのだ。


だからこそ、僕等は今日も暴力を、他の誰かへとリレーする。昭和天皇のようにではなく、憲兵のようにではなく、黒村けいこのようにでもなく、せめて浦野すずのように。
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