2006年5月30日火曜日

ねえ、誰か、僕と一緒に地獄へ行こうよ。1人で行くのはちょっと怖いから。



横たわっている。

敗れた布団ともう随分と洗っていない、埃とカビの臭いのする真冬のための古びた防寒具を掻き集め、こんもりとさせた上に脇腹を置き、不自然に体全体を捻り湾曲させたままで、横たわっている。現実から逃れ、インターネットから逃げ、自分自身の無能さと、それへの失望から生じる無力さから逃れるため、べらぼうに眠るために横たわっている。けれども、掴み取れない気持ちの悪い感情だけが渦巻いて、僕を寝かせてはくれない。

なにより、僕と、僕の体は、知りすぎている。
人が、飽きもせず、毎日毎日眠れるのは、明日への活力を養う為であり、どうせ、明日も明後日も、このままの日々が際限なく続くという事を理解している僕の体は、「もう、いいだろ、そんなもの」とばかりに、眠ってはくれない。けだるくふるえて、随分と泣いた。




涙には2種類あると、昔の誰かが書いていた。
美しい涙と、醜い涙だ。

前者は他者の為の涙であり、後者は自らの為の涙だ。
同じ涙であるのにも関わらず、その色合いは全く違うと人は言う。
その両者の間には、僕とジョージ・クルーニーくらいの乖離があるらしい。

誰かの為に泣く、という行為は美しい、と誰かが言う。例え、それが、幾多の事実誤認を抱えた上で成り立つ、滑稽な勘違い、滑稽な悲しみ、何者かの何らかの目的の為に作り出された24時間のようなものであったとしても、それは純朴さ、純粋さといった類の、存在していない物との共通項を意味する涙であり、美しいものであるらしい。

自らの為に泣く、という行為は醜い、と誰かが言う。念のため、説明しておくけれど、ここで言う"誰か"だとか"人は"だとか、そういった類の、第三者の存在を示唆する言葉の向こうに居るのは全部僕だ。ただ、全ての出所が真性引き篭もりhankakueisuuだという事を明示的に書き示して書くよりも、なんらかの、第三者の存在を示唆して、うまい具合に責任や主張といったものを隠蔽した方が、文章に、格式だとか権威だとかいったものが付け加えられて、この軽薄なエントリーに少しでも重みが生まれるのではないかという、よこしまな企みがそう綴らせているのである。しかしながら、その企みによって付け加えられた物は格式でも権威でも、深さでも重さでもなく、ただのうさんくささである。

もくろみは、失敗に終わった。




「泣いてる暇があったら」
僕が、自分のために泣いているのだと知った彼は、強い下品な関西弁のイントネーションでそう言った後で、"行動しなさい"と付け加えた。一見、よくある、単調な説教のように聞こえた。けれども、それは決して、行動を賛美する為に吐かれた言葉ではなくて、人を不愉快にさせる、醜い涙というものへの単調な非難であった。

もしもここに、DOTA allstarsがあったならば、僕は決して涙なんて物を流したりはしないだろう。人間が泣くのは、他にやることが無いからだ。"人間が"なんて大きく出てはいるけれど、僕が知っているサンプル数は人間について語れるほどは多くない。

どうしてここにはゲームが無いんだろう。DOTA allstarsはおろか、ソリティアも、フリーセルも、インターネットスペードすらも、無い。全部アンイストールしたからだ。どうして、僕は、そんなことをしたんだろう。確か、ブログを書くためだ。どうして僕はブログを書こうと思ったのだろう、という問いは必要ない。人間は、そういう風に出来ている。




少しだけ、あまりにも辛くなったので、素晴らしい事を考える事にした。なるべく、素晴らしいことを。そこで、まず、頭に浮かんだのは地獄である。本当はその前に、いくつものゲームを思い浮かべて、頭の中でそれをプレイして楽しんだり、中国代表がSuhOだという事を思い出して酷く失望したりしたのだけれど、そんな事を、今ここで書いたとしてもつまらないだろうと思い、それらに関しては、全て端折った。読者思いである。オレ、イイヒト。

地獄は、いいと思う。
際限なく、素晴らしいと思う。

まず、何よりも、素晴らしいことは、地獄は、悪い奴らで満ちあふれているという点である。地獄に居る奴らは、どいつもこいつも、救いようのない罪人であり、悪者である。

即ち、もしも僕が地獄にいたならば、僕は、僕と僕以外の他者に対して、好きなだけ、好き放題に罵倒し、嘲り、非難し、徹底的にそれら全ての者共を糾弾する事が出来る。

現実ではそうはいかない。心おきなく、なんの躊躇もなく罵れる相手などどこにもいない。どちらかと言うと悪いのは僕の方で、僕が、他の誰かを非難しようと思い立ったならば、自らの、非難に値する箇所を出来る限り巧妙に正当化し、複雑な手順で公正さを装ってから、満を持して、他者の、最も言い逃れすることが困難な点だけをひっつまんで取り出し、そこを重点的に、集中的に、徹底的に、相手を叩きつぶす為だけに、攻撃せねばならない。自らにまつわる全てを棚に上げて。

ところが、地獄においては、そのような手続きは必要ないのだ。
心ゆくまで罵れる。
心ゆくまで責められる。
しかも、それらは、まったく、正当なものだ。
何しろ、相手は、地獄に落とされる程の、純然たる罪人、悪人、糞野郎共。
一切の遠慮は要らない。
素敵じゃないか。




もしも、この世界で、僕が誰かを傷つけ泣かせたならば、それはまったくの悪いことで、僕はそれについて、この先ずっと、「ああ、なんて酷い事をしたんだろうか」と自らを責め続けるだろう。己自信の呵責を、際限なく受け続けるだろう。

けれども、もしもここが地獄であったならば、僕が誰かを傷つけ泣かせたならば、僕はそれを一生の誇りにし、強く生きて行けるだろう。何しろ、相手は、地獄に落とされる程の、純然たる罪人、悪人、糞野郎共。一切の遠慮は要らない。

なんてこった。
ここは地獄じゃあない。
かといって、1人で行くのは心許ない。




ねえ、誰か、僕と一緒に地獄に行こうよ。
そして、毎朝毎晩、憎み合うんだ心ゆくまで。
罵る言葉をずらり並べて、飯も食わずに眠らずに。


2006年5月19日金曜日

ハッカーと米国移民法コンサルタント

※この配信は、日本文化の保存に関心あるだろうと思われる方のメールアドレス  を

基に配信させていただいております。電子メールでのご紹介がご迷惑にあた  りました

ら、謹んでお詫びいたします。
突然のメールにて失礼いたします。
日本の文化を保存する日本火消し保存会でございます。
このメールが日本の文化の保存に役立つキッカケになる事を切に願います。

最高顧問:吉村作治(早稲田大学教授・エジプト考古学者)

   顧問:御法川法男(みのもんた・司会者)

   会長:典礼院照見(米国移民法コンサルタント)

  理事長:粉川時久(火消し粉川14代目)


このたび、日本火消し保存会では下記の懇親会をご案内致します。


隅田川、花火、屋形船、芸者、火消し
                      ■平成の世に江戸情緒


「日本火消し保存会・夏の懇親会」 平成18年7月29日(土)
年に一度の隅田川花火大会では、数々の著名人を含む「日本火消し保存会」の役員をはじ
め、江戸の「粋」を愛する会員とファンが集い、屋形船を一艘貸し切って、花火を楽しみ
交流を深める会を催します。(船内からテレビ中継予定)
■若干名の余裕があり今回は賛助会員でなくてもお申込みいただけます。
詳しくは添付のファイルをご覧下さい。
   興味のある方は、お早めにお申し込み下さい。


★返信は受け取れません。
詳しくは下記からお問い合わせ、お申し込み下さい。



世の、多くの人は、スパムメールが不愉快なのは、そのメールがスパムメールだからだと考えているようだけれど、僕の考えは違う。


あの1つの究極ともいえる不愉快さの全ては、下品且つ劣悪な単語の羅列により構成された見るも無残な日本語による、己と己を称えるの文章を読まされる不愉快さによって成り立っているのである。

まったくもって、忌々しい。







そこで、即ち、日本火消し保存会は臭い、臭い、臭すぎる。
その胡散臭さは壮絶なまでの胡散臭さであり、臭すぎる。





もう、何より、最高顧問が吉村作治であるとか、顧問筆頭がみのもんただ、という時点で胡散臭さ二重丸。ちょっとウェブサイトを覗いてみれば「50万円ください!」だとか、「毎年2万円ください!」だとか、もう、吐き気がする。



脳みそすっからかんな広告塔とかそういうのは置いておいて、いったい、どこのどいつが、この胡散臭い日本火消し保存会なるものを企画運営し、不愉快極まるスパムメールを送りつけてきたのか、という点が問題である。別に問題でもなんでもないのだけれど、なんとなく大問題である。



そこで目に付いたのが、「会長」なる地位に鎮座している、典礼院照見(米国移民法コンサルタント)だ。もう、名前からして臭すぎる。その上に、検索エンジンを叩いてみても、日本火消し保存会以外のページが一つも引っかからない。え、この人、どこの誰?なぞの人物?みたいな空気も一瞬はあったのだけれど、なんてことはない。





http://www.rho-japan.com/profile.html
http://www.nihonhikeshihozonkai.org/aisatu/aisatu.html
おい、リチャード何やってんのwww




何がリチャードだよwww
何が典礼院照見だよwww
おまえ、堀越正雄だろ。
何、名前コロコロ変えてんじゃねえよ。




日本企業塾塾長とか、米国移民法学者とか、CEOとか素敵な肩書きをたくさんお持ちの割には、やってる事は名前をコロコロ変えて皇室詐欺の劣化版とは、実にまったくおめでたい。「日本」だとか、「文化」だとかのたまう奴等は決まってみんな、終わってる。







スパムメールで必死になって、金クレ金クレ金クレですか。

いやあ、まったく、堀越正雄。

いいご身分だこと。

2006年5月18日木曜日

ふぉーでん解散はいいんだけど。



賞金がまだ振り込まれてないとか超萎える。
萎えまくり。

そこら辺ちゃんとしている感のある人は貴重なんだろうな。
勢いの落ちなさ加減とかも。


2006年5月13日土曜日

犬を飼う老人



「犬はいい。」と、はしゃぐ老人。
曰く、「いい犬だろ。」
どれも同じに見える。













条件がある。
犬である。




老人は哀れではない。
哀れであるとは思わない。

また、僕は老人ではないし、老人とも程遠い身であるからして、老人という全く異質、似ても似つかぬその生き物が哀れであるか、あるいは哀れではないかという問題について、なんの興味もわかないし、例えばその問いに対する回答文が「哀れである」であったとしても、「ふうん、そうなのか」で終わる話であるし、「哀れではない」であったとしても同様に、「ふうん、そうなのか。」で終わる話である。




いや、嘘を書いた。
正直に、あるいは正確に書き記すならば、その"ふうん"が出ぬのである。

それが、駄目なのだ。それこそが、僕が引き篭もりである原因であり、この、「ふうん」の不在こそが、真性引き篭もりたる所以なのである。

もしも僕が、引きこもりでもなんでもない、誰かのよき部下であり、誰かのよき同僚であり、誰かのよき上司であり、誰かのよき友であり、誰かのよき伴侶であり、誰かのよき子であると同時によき親であるような、まさしく一般的にして模範的な人間であったならば、「ふうん」「そうなんですか」「それは凄い」「へへえ」「それでそれで」「なるほどねえ」と、江戸へ上る大名行列のように長く途切れず中山道をひたひた歩き、峠の山の頂上の茶屋やら何やら(言うまでもなく如何わしい建物)の立ち並ぶ場所で「おっと、いい景色ですよ、ほら、御覧なさい、山です。山。あ、町。あ、人。あ、ほら、蝉が、あ、団子、団子食べましょうか。団子。」などといった具合に、面白くもなんとも無い、ありふれた退屈な光景(山だとか、町だとか、蝉だとか、団子だとか、セックスだとか、眞鍋かをりのここだけの話だとか、そういった類のもの)を、まるでとても素晴らしいものであるかのように有難がり、つい先ほどまではまったく興味のなかった事柄について「ああ、素晴らしい」「やはりこうでなくては」などと、褒め、褒めて、褒めちぎり、また、同様の褒め言葉賛辞の類を並べ立てている人間を見つけては「いやあ、あなたはいい事を言う人だ、前向きで、朗らかで、未来がある」なんて具合に心のそこから、あるいは完全なる上っ面で、すらすらと並べ立てることこそが、この世界を生き抜く(即ち、加速的速やか穏便に死に遂ぐ)上で、最も重要な要素なのである。




その、どうでもいい事柄について、どうでもいい言葉をつなぐという事、即ち一言に集約するならば「ふうん」の不在故に僕は引き篭もりなのである。

「ふうん」と、「ふうん」に続く言葉は、退屈さを退屈ではないものとして消化するための技術である。例えば、蓼で服を編むのは困難を極める難業であり、1つのブログのエントリーを書き上げるのと同じくらいに困難な作業だけれど、蚕を経由させさえすればシルクのドレスの出来上がりである。

僕にはその、退屈なものを退屈ではないものとして理解し、退屈なく消費する能力というものが欠けているのである。例えば風呂に入っても、「清潔さわやか気持ちいいだけで退屈だ」という結論から、風呂に入るのを嫌がる。嫌がるというよりも、入らない。同じように映画を見ても映画なだけで退屈であるし、ゲームが所詮ゲーム、どうせ退屈であるからして、退屈でやる気がしない。田んぼの真ん中で原油を掘り当てて(あるいは電話会社で首相になって)ロンドンのチームを買っても退屈だろうから、原油を掘り当てるのはやめにしたし、大統領になるのも、金メダリストになるのも、武空術を身につけるのも、退屈だからという理由でやめた。

つまるところ、僕は退屈さというものが嫌いなのだ。と言っても、退屈さをすっ飛ばして何かを得たいだなんて強欲なことはちっとも思っちゃあいない。

ただ、「ふうん」が不在なのである。
僕にとって、退屈であるか退屈では無いかなんてものは、些細な事だ。















「人生は退屈である」を体現する人と、「人生は退屈ではない」と信じる人との悲しいまでに噛み合わない言い争い、罵倒合戦その類は、太古の昔からリニア飛び交う未来の果てまでワンパターンに繰り返され続けてきた。それは、僕が知る限りでは、不毛の最たる二番目である。




ある時、即ち今しがた、「人生は退屈である」と主する人々が、得るものの無い泥沼のディベート合戦に蹴りをつけ、敢然たる勝利を手に入れるべく集まって、車座になり手立てを練った。

はじめから解っていたのは、彼ら「人生は退屈である派」が勝利を手にするためには、人生が退屈ではない言う奴らにその結論を覆させる必要がある、という事だった。

それは、難題であった。




「人生は退屈ではない」と信じる人間はどれも皆、頭がおかしい者ばかりだった。ある者は散った桜の花びらがカーベットのようになってどぶ川をたゆとう様を見て「人生は退屈ではない」と呟いたし、ある者はトレジャーの旧作を買い求めて「人生は退屈ではない」とその両眼を輝かせた。ある者はインターナショナルが退屈な引きこもりの末にペナルティーキックを蹴り込んでロッソネーロを下すのを見て「人生は退屈ではない」と発泡酒のプルタブを引っこ抜いたし、ある者は茶殻のようなブログの新着エントリーがRSSに乗ってやって来たことに嬉々として「退屈だ」と、退屈ではなさを謳歌した。まったくもって、彼らは狂っていた。少なくとも、彼らの目には、そう映った。

車座になって悩みぬいた人々が、どうにかしてそれ、即ち「人生は退屈であること」を、「人生は退屈ではない」と妄信する人々に、黄門様の御印籠の如くに見せ付け圧倒し、頭ごなしに言い包めて認めさせようと、悩みに悩みぬいた末にたどり着いた結論が「退屈では無い人生を送っていた人間を捕まえて、"人生は退屈だ"と言わせる事」であった。




そこで、また、彼らは、悩んだ。
「退屈ではない。」と最も多く唱えたのは誰か。
人類の歴史上で、最も退屈では無い人生を送ったのは誰か。

老いて、即ち隠居して、即ち老人となって、「よい人生でした」と言う人間が居る。そういう人間を捕まえて「どうしてそう感じるのですか?」と彼らに問うと、彼らは口をそろえてこう言う。

「よい人にたくさん巡り合えました」と。




ある者は妻を誇り、ある者は友を誇る。
ある者は子を誇り、ある者は師を誇る。
ある者は同僚を、同志を、その他諸々を、出会った人の全てを褒め誇る。

それはまるで、幸せな人生であるかのように見え映る。
「いいですねえ」とでも、呟きたくなる。
ならない?いやあ、なるだろう。
ならぬなら、なれ!
てめえらも、なれ!
なったか?よおし、それでいい。
そうでなくては話は進まぬのだ。
僕はぜんぜん、ならないけれど。







即ち、素晴らしい人生を過ごしたように多くの人が感じる、いかにも見るからに幸せそうな老人は、人との出会いを褒めるのである。

逆に言うと、人との出会いを褒め誇る人間は幸せそうなのである。
例えば、老いたビルゲイツが、貯金の残高をゆび指し示し「ぐへへへへ、よい人生でした。:)」などと言おうものなら、世界中の矢鴨という矢鴨が葱と鉄砲背負って襲い、ゲイツを蹂躙するだろう。

あるいは、老いたルイスアームストロングが並ぶ色あせたシャツの前でそれを指差し「見たまえ、これを!」と褒め誇り、よい人生だったと主張したならば、老いたドルゴルスレンダグワドルジが並ぶ色あせた旗の前でそれを指差し「見ろ、これを!」と褒め誇り、良い人生だったと主張したならば、老いたデイビットベッカムが並び輝く磨かれつくしたトロフィーの前でそれを指差し、それが綺麗に左右対称偶数、偶数、で並んでいることをゆっくりと確認した後で「見てください、これを!」と褒め誇り、良い人生だったと主張したならば、我々は、なにか、どこか、少し悲しい思いを抱かずには居られないだろう。

けれども、もしも、彼らが、即ちアームストロングやら朝青龍やらベッカムやらが、それら手に入れた物品、即ち世界全人民の極一部に消費された娯楽の一ページを記録したレアリティ★*5のがらくたではなく、出会った人を誇ったならば。

「良い人生でした、なぜならば、素晴らしい出会い(素晴らしい妻、素晴らしいファン、素晴らしい友、素晴らしい家族)に恵まれたからです。」と満面の笑みで褒め誇るを、彼らが口にしたならば、まったく違う感情を抱くだろう。たとえそれが、あの、ゲイツであったとしてもだ。




この、人生を美化する技術の肝は言うまでもなく人である。
人とは何か、というと、それは、多分人である。
そして言うまでもなく、自己の複製である。

それは、巨大なブラックボックスである。
例えば、あるフットボーラーが、その完璧なシュートを、ドリブルを、積み重ねたゴールの数を、勝ち取ったトロフィーを、褒め、誇り、何よりも、誰よりも、素晴らしい人生であったと誇ろうとした場合、1つの不具合が生じる。それは、言うまでもなく、マラドーナであり、ペレである。あるいはベッケンバウアーであり、ジョルディの父である。

そのような不都合を避けるには、人との出会いを褒めればいい。
例えば、「よき妻に恵まれて」と妻を褒めれば、それがどのように良いものであったかはまったくのブラックボックスであり、外側からは一切除き見ることが出来ない。

この決して覗き見ることの出来ない出会いというブラックボックスが、かつてアントニオ猪木が世界最強であると信じた人々と同じ程度の脳しか持たない連中に幻想を抱かせ、「きっとそれは素晴らしいものだったのだろう」という、満足を与えるのである。








何を述べたいのか。
僕はまだ知らない。

何を述べるのか。
それはじきに、明らかになる。








即ち、僕はそれら、人を、人脈を、出会いを、素晴らしさの根拠とする人々に対し、思いつく限りの罵倒を浴びせかけたい。彼らを否定し、攻撃し、負け犬であり卑怯者であると断罪したい。何故ならば、僕は、僕を除く全ての人々と僕自身に対し、思いつく限りの罵倒を浴びせかけ、否定し、攻撃し、負け犬であり卑怯者であると断罪したいからだ。

僕はそのような、決して明かされることの無い、除き見られぬブラックボックスの中身として存在していたものを誇るような人間ではなく、その人生において勝ち取った、小さな、まったくもってくだらないけれど明確なもの(例えばmouz.philbotに対する勝利とか)を褒め誇る人間を賛美する。心の底から、一切の邪心なしに。




けれども、条件がある。
それは、その、これまで生きてきた人生において勝ち取った、小さな、まったくもってくだらないけれど明確なものを褒め誇る老人が、真に、自らが勝ち取ったものを褒め誇っている場合のみ、僕はそれを賛美する。心の底から、一切の邪心なしに。









彼ら、即ち「人生は退屈である」と主張する人々は悩みぬき、3人のサンプルを選び出した。ナポレオンと、コロンブスと、奈佐日本之助である。まず最初にコロンブスが「途中で死んだらしい」という理由で脱落し、次にナポレオンが「なんだかんだ言って負けちゃった」という理由で脱落し、奈佐日本之助が残ったが、誰も奈佐日本之助がどこの誰であるか知らなかったので、とりあえず人類史上最も退屈ではない人生を送った人間はナポレオンでいいや、という事でまとまった。奈佐日本之助は惜しかった。いい線までは行ったのだが。

そこで彼らは大変な苦労と、大変な努力と、大変な年月をかけて、多大な犠牲を支払いながらタイムマシンを完成させ、老いたナポレオンを捕まえて椅子に縛りつけテープレコーダーを突きつけながら、「人生は退屈だ」と叫ぶように迫った。

けれども、テープレコーダーを突きつけられたナポレオンは言った。
「人生は退屈ではない」と。

だって、突然変な人たちがタイムマシンに乗ってやってきて、DOTA allstarsとか、WoWとか、dia2とか、そういう凄い面白いゲームをいっぱいプレイしたし、あと、真性引き篭もりさんの物凄い面白い過去のエントリーとかいっぱい読めたし、全然退屈じゃないよ、マジで。などと、のたまう。俺が思うに、ナポレオンはもう駄目だな。




困った。
これだけ書きに書いて、終段にたどり着けない僕も困ったが、彼らはさらに困っていた。彼らとは即ち、「人生は退屈だ派」の人々である。

大変な苦労と、大変な努力と、大変な年月をかけて、多大な犠牲を支払いながらタイムマシンを完成させ、老いたナポレオンを捕まえて椅子に縛りつけテープレコーダーを突きつける所まで行ったのに、ナポレオンは「人生は退屈だ」と言おうとしない。それどころか、頑なに「人生は退屈ではない」といい続ける。より強固なものとして。

そこで、彼らは、座った人間の誰もが「人生は退屈だ」と言うように出来たハイテクノロジーな機械椅子を作り、そこにナポレオンを座らせた。すると、なんと、あの頑ななナポレオンが、遂に「人生は退屈だ。」と言い放ったのである。




彼らは歓喜した。
その執念のテクノロジーによって手にした勝利に酔いしれた。
食べては飲み、飲んでは食べて、喋り、叫び、歌い、死んでいった友に涙し、それから踊り、踊りつかれて食べて、飲んで、笑って歌い、少し眠って朝が来た。それから、誰もが鎮痛な面持ちで、ハイテクノロジーな機械椅子の前に列を成して並び、順番に腰掛けて呟き叫んだ。それでも、気分は晴れなかった。志し半ばで倒れて行った戦友を思い、肩を落として皆泣いた。




ここに、1つの結論がある。
人生は退屈ではない。

けれども、条件がある。
それが何であるかを、僕は知らない。


















老人は、誇る。
その犬を誇る。

土地を買い、屋敷を建て、広い庭を作り、鉄針付きの石壁で囲み、木を植えて、池を作り、高い模様の錦鯉を、数匹泳がした。けれども、鯉は泳ぐばかりで持ち歩けないので、老人は犬を飼い外に出て、腰掛け、待った。

「いい犬ですね。」
誰かが褒める。

「いい犬だろう。」
満面の笑み。

けれども、老人が手に入れたのは壁のあるだだっ広く、広大な、見渡す限りの大庭であり、犬ではない。それを理由に、犬を飼う老人は哀れであると主張するつもりは無い。




犬の速度は結構速い。
年老いた老人の思惑を超えた早さで育ち、瞬く間に、老人に並ぶ。



そこで老人は何を望む。
残されたのは2つの筋。

老人が死に、屋敷と犬が生き残るか、
犬が死に、屋敷と老人が生き残るか。
























犬には成れず、犬も無く。
生き長らえた。
ただ老いた。


2006年5月12日金曜日

あなたが真性引き篭もりhankakueisuuを愛すべき10の理由



理由などありません。
10はおろか、1つもありません。
けれども、汝、真性引き篭もりhankakueisuuを愛しなさい。

無条件で、無根拠に。












愛するのに、理由なんてものはいらないのです。
ただひたすらに愛しなさい。
この愛おしく、愛くるしい、真性引き篭もりhankakueisuuを。