2006年5月30日火曜日

ねえ、誰か、僕と一緒に地獄へ行こうよ。1人で行くのはちょっと怖いから。



横たわっている。

敗れた布団ともう随分と洗っていない、埃とカビの臭いのする真冬のための古びた防寒具を掻き集め、こんもりとさせた上に脇腹を置き、不自然に体全体を捻り湾曲させたままで、横たわっている。現実から逃れ、インターネットから逃げ、自分自身の無能さと、それへの失望から生じる無力さから逃れるため、べらぼうに眠るために横たわっている。けれども、掴み取れない気持ちの悪い感情だけが渦巻いて、僕を寝かせてはくれない。

なにより、僕と、僕の体は、知りすぎている。
人が、飽きもせず、毎日毎日眠れるのは、明日への活力を養う為であり、どうせ、明日も明後日も、このままの日々が際限なく続くという事を理解している僕の体は、「もう、いいだろ、そんなもの」とばかりに、眠ってはくれない。けだるくふるえて、随分と泣いた。




涙には2種類あると、昔の誰かが書いていた。
美しい涙と、醜い涙だ。

前者は他者の為の涙であり、後者は自らの為の涙だ。
同じ涙であるのにも関わらず、その色合いは全く違うと人は言う。
その両者の間には、僕とジョージ・クルーニーくらいの乖離があるらしい。

誰かの為に泣く、という行為は美しい、と誰かが言う。例え、それが、幾多の事実誤認を抱えた上で成り立つ、滑稽な勘違い、滑稽な悲しみ、何者かの何らかの目的の為に作り出された24時間のようなものであったとしても、それは純朴さ、純粋さといった類の、存在していない物との共通項を意味する涙であり、美しいものであるらしい。

自らの為に泣く、という行為は醜い、と誰かが言う。念のため、説明しておくけれど、ここで言う"誰か"だとか"人は"だとか、そういった類の、第三者の存在を示唆する言葉の向こうに居るのは全部僕だ。ただ、全ての出所が真性引き篭もりhankakueisuuだという事を明示的に書き示して書くよりも、なんらかの、第三者の存在を示唆して、うまい具合に責任や主張といったものを隠蔽した方が、文章に、格式だとか権威だとかいったものが付け加えられて、この軽薄なエントリーに少しでも重みが生まれるのではないかという、よこしまな企みがそう綴らせているのである。しかしながら、その企みによって付け加えられた物は格式でも権威でも、深さでも重さでもなく、ただのうさんくささである。

もくろみは、失敗に終わった。




「泣いてる暇があったら」
僕が、自分のために泣いているのだと知った彼は、強い下品な関西弁のイントネーションでそう言った後で、"行動しなさい"と付け加えた。一見、よくある、単調な説教のように聞こえた。けれども、それは決して、行動を賛美する為に吐かれた言葉ではなくて、人を不愉快にさせる、醜い涙というものへの単調な非難であった。

もしもここに、DOTA allstarsがあったならば、僕は決して涙なんて物を流したりはしないだろう。人間が泣くのは、他にやることが無いからだ。"人間が"なんて大きく出てはいるけれど、僕が知っているサンプル数は人間について語れるほどは多くない。

どうしてここにはゲームが無いんだろう。DOTA allstarsはおろか、ソリティアも、フリーセルも、インターネットスペードすらも、無い。全部アンイストールしたからだ。どうして、僕は、そんなことをしたんだろう。確か、ブログを書くためだ。どうして僕はブログを書こうと思ったのだろう、という問いは必要ない。人間は、そういう風に出来ている。




少しだけ、あまりにも辛くなったので、素晴らしい事を考える事にした。なるべく、素晴らしいことを。そこで、まず、頭に浮かんだのは地獄である。本当はその前に、いくつものゲームを思い浮かべて、頭の中でそれをプレイして楽しんだり、中国代表がSuhOだという事を思い出して酷く失望したりしたのだけれど、そんな事を、今ここで書いたとしてもつまらないだろうと思い、それらに関しては、全て端折った。読者思いである。オレ、イイヒト。

地獄は、いいと思う。
際限なく、素晴らしいと思う。

まず、何よりも、素晴らしいことは、地獄は、悪い奴らで満ちあふれているという点である。地獄に居る奴らは、どいつもこいつも、救いようのない罪人であり、悪者である。

即ち、もしも僕が地獄にいたならば、僕は、僕と僕以外の他者に対して、好きなだけ、好き放題に罵倒し、嘲り、非難し、徹底的にそれら全ての者共を糾弾する事が出来る。

現実ではそうはいかない。心おきなく、なんの躊躇もなく罵れる相手などどこにもいない。どちらかと言うと悪いのは僕の方で、僕が、他の誰かを非難しようと思い立ったならば、自らの、非難に値する箇所を出来る限り巧妙に正当化し、複雑な手順で公正さを装ってから、満を持して、他者の、最も言い逃れすることが困難な点だけをひっつまんで取り出し、そこを重点的に、集中的に、徹底的に、相手を叩きつぶす為だけに、攻撃せねばならない。自らにまつわる全てを棚に上げて。

ところが、地獄においては、そのような手続きは必要ないのだ。
心ゆくまで罵れる。
心ゆくまで責められる。
しかも、それらは、まったく、正当なものだ。
何しろ、相手は、地獄に落とされる程の、純然たる罪人、悪人、糞野郎共。
一切の遠慮は要らない。
素敵じゃないか。




もしも、この世界で、僕が誰かを傷つけ泣かせたならば、それはまったくの悪いことで、僕はそれについて、この先ずっと、「ああ、なんて酷い事をしたんだろうか」と自らを責め続けるだろう。己自信の呵責を、際限なく受け続けるだろう。

けれども、もしもここが地獄であったならば、僕が誰かを傷つけ泣かせたならば、僕はそれを一生の誇りにし、強く生きて行けるだろう。何しろ、相手は、地獄に落とされる程の、純然たる罪人、悪人、糞野郎共。一切の遠慮は要らない。

なんてこった。
ここは地獄じゃあない。
かといって、1人で行くのは心許ない。




ねえ、誰か、僕と一緒に地獄に行こうよ。
そして、毎朝毎晩、憎み合うんだ心ゆくまで。
罵る言葉をずらり並べて、飯も食わずに眠らずに。