2015年11月24日火曜日

科学の子

シューベルトは一週間ほど前に31歳で死んだが、毎日痛くなる心臓を見ていると、シューベルトより長く生きる自信がない。たとえば僕がシューベルトより長く生きているとすれば、それは僕の力ではなく、上水道と電気と物流の力なのだ。ちょうど僕は、ラララ、科学の子。ららら科学の一秒を、ららら科学の人生を、僕は科学に還元せずに、ただ貪って生きるのだ。

2015年11月16日月曜日

炊飯器を作っているメーカーは馬鹿。

炊飯器っていうのは、炊飯をする機械であって、保温をする機械ではない。保温が必要になるのは、炊飯後である。ところが、市販の炊飯器は、炊飯をせずに保温が出来てしまう。すると、どうなるか。そんなもの、考えなくてもわかることだ。ご名答。そうである。そのとおりなのだ。

冬の冷たい水に耐えて米をとぐ。おかずはもう調理済みだ。ハガツオである。ハガツオのたたきである。ところが、炊飯器メーカーが馬鹿なせいで、冷たい水を堪えて炊き上げたはずの米は、生煮えのどろどろでありながら芯が残る、保温炊きごはんである。こんな無念が他にあろうか。炊飯器メーカーが馬鹿だから、僕の人生は台無しになった。もう、生きる気力などない。生きていてもいいことなどない。

2015年11月12日木曜日

楽しい人生の想像

寝たり起きたりでおなかはすくけれど、楽しい出来事はどこにもない。けれども、冷静に落ち着いて考えてみよう。楽しい出来事に溢れた日常を過ごしても、楽しくない人生というのは存在する。享楽はその瞬間が過ぎ去れば跡形も無く消え去るもので、その快楽をチェインチェインで繋いだところで、一瞬の楽しさを貪り続けているだけという現実からは逃れられない。死の瞬間まで享楽のチェインに成功したとしてもそれは、不意の出来事である命の終わりによって、享楽チェインの終わりが隠蔽されたにすぎない。今この瞬間の楽しさは、ビデオゲームのインストールが終わった瞬間のようなものであり、そこから先の楽しさは保証されないし、よしんばそこから先に楽しさが待っていたとしても、それは人生の楽しさを意味しないのだ。逆もまた然り、逆もまた然りと、自らに言い聞かせるが、僕は自らの言葉に対して、聞く耳を持たない。取り合う気がない。

2015年11月7日土曜日

物事には順序というものがある

明日から頑張ろうというのはあまりにも急ではないか。まずこんなにも眠たい。今日が眠たいのだから、明日も眠たかろう。物事には順序というものがあって、眠たいならば寝るのが先だし、寝たならば起きるのが先だ。起きたら起きたで顔を洗い、顔を洗えば腹も減る。一つ、一つ、すませていってその先に、その先に、、、寝る、まずは寝る、わたしはおやすみなさい、あとは知らない。

2015年11月6日金曜日

つよく、つよく。

うつむいたら落ちてしまいそうな肩を、強い心で握りしめて、僕はまだ走れるんだって自らに強く言い聞かせる。この指が全てほどけると僕の心は死んでしまう。心が死なないように歯を食いしばって耐えたとしても、心の入っている脳が死ぬんだ。心の一存ではどうしようもない。しかめっ面をして、目を結んで、強く強く足を出すんだ。

2015年11月2日月曜日

ご飯を食べるのがめんどくさい。

おなかがすいて、ふらふらで、倒れそうなんだけれど、ご飯を食べるのがめんどくさい。おなかがすいたと思いながら、宙に伸ばした手を、力なく机の上に落とす。そんな日が続いて、悲しくなる。昔は食べたいものが色々あって、はやくおなかがすかないかなと、胸を躍らせたりしていたのに、今では毎日がこんな有様だ。おいしいものを食べたいと思うけれど、おいしいものを食べたいと思っているわけではなく、おいしいものが目の前に今存在していたならば、それを食べるのはめんどくさくないだろうという、少し入り組んだめんどくさいロジック。他の誰かならばご飯を食べる場面で、僕はうなだれる。ご飯を食べたところで、おなかがすいたという問題は解決するだけで、いいことなんてなにもない。ご飯を食べるのがめんどくさい。心が痩せていく。何かがある度に、僕はうなだれる。ただうなだれる。

泳ぐのに情熱はいらない。

泳ぐのに必要なものは、水と筋肉である。水と筋肉があれば人は自ずから泳ぎ出す。そこには意志も情熱もいらない。僕はこんな人生に陥って尚、少しでも前に進みたい。米を炊く体力を失って豆腐をすすり、シャワーを浴びる気力を失って汗を摘まむ。ここにあるのは死体だ。腐っていないだけの死体だ。異臭...