2015年9月28日月曜日

力が無い。

肉体と肉体が切り離された夜に、心は何もしたくないって言うんだ。目を閉じれば夜も手伝って真っ暗で、目を開ければ動かない瞼が手伝って真っ暗。何も見えないのは僕の好奇心が足りていないせいだって自分を責めるけれど、光がまったく無い場所で闇を見つける作業を始めようにも、どこから手を付けていいのかわからない。固いものを2つぶつけ合わせれば火花が散って火がついて、明るい光を灯るのではないかと、心の中の一番固い場所と二番目に固い場所をぶつけ合わせようと企むけれど、僕の心の一番固い場所はもう既に、磯に居る甲羅を持たない謎の生き物の死骸のように、ちょっと指先が触れただけで悪寒を残してぐにゃりと潰れ、きのこの入ったカップスープの上を覆ったパイ生地をスプーンで割って、まるで中身をかき混ぜるように、僕の頭蓋骨が暗闇で割られて、脳みそは激励でぐちゃぐちゃに潰れたの、夏が走り去った深い夜に、肉体と肉体が切り離されて。

2015年9月27日日曜日

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体が消えたが心も消えた意識は無い。

2015年9月18日金曜日

夏過ぎて

寒くなったり、暑くなったり、頭がもやっとしたり、あらゆる努力を放棄して金魚のように口をぱくぱく。冬は寒いし夏は暑く、秋はその何れでもない分だけもの悲しい。活字と空気が通り過ぎていく

2015年9月17日木曜日

小島秀夫のビデオゲームに対する態度が不誠実すぎて目も当てられない。














ゲーム内容の話は一切しない。







小島秀夫が酷いtweetをリツイートをしているのを見て、頭を抱えた。メタルギアソリッド5は、3D酔いに対する配慮を一切していない。プレイヤーを3D酔いに陥らせない為にビデオゲームがしてはいけない事のうち、「振り向き続けて全方角のターゲットを絶え間なく撃ち続けないとゲームを進行出来ない」以外の禁忌を全てやっている。その項目にしても、ほとんど偶然の産物で、MGS5は3D酔いに一切配慮せずに作られていると、断言してよい。

そんな、3D酔いに一切配慮をせずに作ったゲームをリリースしておいて、信者のよいしょ以外の何者でも無いツイートを平然と広める小島秀夫はビデオゲームに対する態度が不誠実すぎるし、まともな神経を持ったビデオゲーム制作者ではない。それ以上に、まともな人間ではない。




3D酔いに配慮していないビデオゲームである事は、悪いことではない。3D酔いに配慮する気がない事を明らかにしているノーティードッグのアンチャーテッドや、last of usはきちんと売れているし、きちんと評価されている。その一方で、きちんと売れてきちんと評価されているskyrimは、ゲームの導入部を3D酔いする展開にしてしまった事に対して遺憾の意を表明し、反省の弁を述べている。全力で3D酔いするゲームを作ろうが、プレイヤーの3D酔いに配慮しようが、そんなものは自由だ。それぞれの勝手だ。3D酔いをビデオゲームの面白さから切り離せるゲームも存在するだろうし、3D酔いに配慮すると面白さが成立しないビデオゲームも存在するだろう。

ビデオゲームに要求されているものは面白さであり、「3D酔いするか、3D酔いしないか」なんて事はどうでもいい。3D酔いに配慮してゲームを作る必要など無い。ただ、MGS5は3D酔いに一切配慮をしていないレベルのビデオゲームであるにも関わらず、自分のゲームを持ち上げるコメントであれば見境無くリツイートして発信し続けるという態度を選択する小島秀夫の態度は詐欺的を通り越して、犯罪的である。





実際に、インターネットはMGS5は3D酔いをするという発言で溢れている。当然である。まず第一に、MGS5は3D酔いに一切配慮をしていない。そして第二に、かつてのメタルギアソリッドは3D酔いしないゲームだった。


もしもMGS5が、MGS5というタイトルでなければ、たとえば「アンチャーテッド」とか「ミラーズエッジ」といったタイトルであれば、3D酔いに弱い人達は大いに警戒し、購入を躊躇しただろう。けれども、MGS5は、メタルギアソリッド5というタイトルを持つビデオゲームであり、あのメタルギアシリーズの謎が解かれるメタルギアシリーズの最終章という触れ込みであった。当然、過去のMGSでメタルギアシリーズに触れた経験を持つ人間も、メタルギア5に興味を持ち、購入するだろう。


けれども、かつてのMGSとMGS5は全く違うゲームである。かつてのメタルギアは、俯瞰視点の2Dゲームだった。メタルギアソリッドも、3Dグラフィックを利用した、俯瞰視点の(あるいは固定視点の)2Dゲームだった。WarCraft3やdiablo3と同じジャンルの、3Dグラフィックを利用した俯瞰視点の2Dゲームだった。けれども、MGS5は違う。MGS5は、俯瞰視点の2Dゲームではない。

3D酔いという面に置いて、かつてのMGSとMGS5は全く別のゲームである。




そして、MGS5は3D酔いに一切の配慮をしていない。

それはまず第一に最初のムービーを見ればわかる。MGS5は、手ぶれするカメラで上下左右に振り回すという、3D酔いに一切配慮しないムービーを導入部で使っており、ゲームをプレイするまでもなく、あのムービーを見るだけで、MGS5は3D酔いに一切配慮していないゲームであると断言出来るレベルで、MGS5は(3D酔いという視点から見れば)酷い。

試しに、MGS1や、MGS2のムービーと見比べてみればいい。MGS1やMGS2のムービーはカメラが揺れないし、振り回さない。幼児が見ても3D酔いしないようなカメラを提供する必要があったアナ雪と同じレベルのカメラである。けれども、MGS5のムービーは違う。手ぶれする、揺れる、振り回す、カメラと対象が移動しながらズームアップで振り向いて構図を変える等、3D酔いに陥らせない為にやってはいけない事を全てをやっている。

中でも、一番酷いと思ったのは、主人公が一人で潜入するシーンのムービーにおいて、微動だにしない主人公の背後から撮っていたカメラが、カメラマンの歩行による揺れと、手ぶれによる揺れで揺れまくるシーンだ。ビデオゲームとは何なのか。何故主人公は歩かずに立っているのに、カメラは歩行揺れするのか。何故カメラマンが居るのか。一人で潜入しているのに、その後ろにカメラを持った人間が居るのか。何故カメラマンの歩行でカメラが揺れるのか。カメラマンとは一体誰なのか。どういう意図の演出なんだ。

まさかMGS5を作った人が映画好きだから映画っぽくしただけという事ではなかろうかと危惧するレベルの意味不明さである。主人公が一人で潜入してるのに、なんでカメラマンがついてきてるのか。おまえ誰やねん。なんでカメラマンが歩くとカメラが歩行揺れするのか。なんでカメラマンが居るのか。いや、だから誰やねん。こんなもん潜入ゲーでもステルスゲーでもなんでもないやんか。最後に全落ちで劇団員による演劇でしたっていうオチでもあるのか?あるのか?あるならわかるよ?そういうエンディングが待ってるならわかる。メタルギアシリーズ最終作で、全員劇団員でしたー、って言うならわかるよ。一人で潜入して、主人公は動かずに立っているシーンで、後ろからカメラが寄る際に、手ぶれ揺れ、歩行揺れするって、のもわかる。そういうオチの為の伏線っていうならわかる。でも、そういう話は漏れてこない。わけがわからない。じゃあ、なんなの。なんで主人公の後ろにカメラマンが居るの?カメラマンの歩行でカメラが揺れるの?どういう意図の演出家も理解出来ない。ただ、「3D酔いさせにかかってる」という事だけはわかった。主人公が一人で潜入し、微動だにしないシーンでカメラが歩行揺れし、手ぶれ揺れする謎演出は、MGS5というビデオゲームが3D酔いに対する配慮を一切していないという事だけは伝わってきた。

弁護の為にもう一度MGS1や2の話をしておくと、MGS1やMGS2のムービーは、MGS5のように揺れないし、手ぶれしないし、歩行揺れもしないし、左右に振り回す事もない。カメラはゆっくりと一方向に動くだけで、3D酔いに配慮したムービーである。MGS5は違う。MGS5のムービーシーンは、3D酔いに対する配慮は一切ない。もちろん、MGS5の3D酔いに対する一貫した無関心で冷徹な態度は、ムービーなどという目を瞑っていれば凌げる些細なものだけではない。





MGS5の3D酔い対策で最も酷いのは、オプション項目における詐欺だ。

MGS5のオプションには、画面の揺れをオフにするという項目がある。なお、画面の揺れをオフにしても、画面の揺れはオフにならない。自分でも何を言っているのかわからないレベルで困惑する。MGS5のオプションには、画面の揺れをオフにするという項目はあるが、画面の揺れをオフにしても、画面の揺れはオフにならないのである。画面の揺れをオフにしても、画面の揺れはオフになりません。

はい。

MGS5で画面の揺れをオフにするというオプションでオフになるのは、歩行揺れだけである。画面の揺れはオフにならない。画面は揺れまくるし、振動しまくるし、ぶれまくる。絶対に回避出来ない強制戦闘中にも揺れ続ける。画面の揺れをオフにしても、揺れ続ける。どのように立ち回りを工夫しても、揺れるものは揺れる、というか揺れまくるし、5分10分揺れ続ける。絶対に画面の揺れからは逃げられない。




これが、「MGSは3D酔いしません!手触りが違います!ありがとうございます!」というメタルギア以外のビデオゲームの話を一切していない上に、俯瞰視点2DゲームのMGSに対してMGSでは3D酔いした事がないというすっとんきょうな発言を行う人間のツイートをリツイートして広める人物が作ったゲームである。画面の揺れをオフにするというオプションで、画面の揺れがオフにならない3Dゲームを作った人物のリツイートである。

こういう小島秀夫の態度を見ると、任天堂はまともだったと思う。ムービーシーンで迫力の為にカメラを動かすと3D酔いするからと片っ端から却下し、ゲームデザインから3D酔いに配慮した上で、「あくまでも3D酔いしにくいだけで、3D酔いしないとは言い切れない」と広報した岩田聡は、小島秀夫とはまったく違う、誠実な態度とまともな神経を持ったビデオゲーム制作者であり、ビデオゲームの味方だった。




MGS1は、3Dグラフィックを利用した俯瞰視点の2Dゲーム(あるいは固定視点ゲーム)であり、ムービーシーンにおいても、3D酔いしないカメラワークのゲームだった。MGS5が3Dゲームである事は、ゲームの面白さに大いに寄与したのであろうが、ムービーシーンで微動だにしない主人公に後ろから迫るカメラが、存在しないはずのカメラマンの歩行揺れ手ぶれ揺れで揺れに揺れた上で左右に振れるなど、小島秀夫は3D酔いに対する関心を一切持たない。(配慮が無いというレベルではなく、小島秀夫は3D酔いに関心が無いゲーム制作をしている。)


たとえば、MGS1は落ちているアイテムに触れるだけでアイテムを回収出来たのに対して、MGS5は極めて小さな家の中に入って、周囲を見回した上でアイテムを確認し、アイテムの前でボタンを押さなければ、アイテムを回収出来ないゲームである。「小さな空間で辺りを見回すと酔う」という3D酔いの禁忌を平気で破っている。

しかもMGS5の小さな家の中で得られるアイテムは、MGS1のように戦略上重要なアイテムではなく、申し訳程度の端金である。世界で一番売れたTPSの1つであるGTA5は、小さな空間である家は入れない、小さな家は全て外見だけの張りぼてであり、入れるのは大きめの家だけ。プレイヤーを3D酔いさせた上で端金を掴ませるようなゲーム設計はされていない。世界で一番プレイヤー人口の多いTPSであるWorld of Tanksは、閉じられた小さな空間で周囲を見回さなくてよいゲームである。

他にも、MGS5には乗り物の馬が登場するのだが、MGS5では馬に乗る度に、強制的にカメラが上下左右に振り回される。3D酔いに対する配慮は全く無い。配慮ではなくて3D酔いに対する関心自体が存在しない。我が国で一番成功したTPSである無双シリーズは、馬に乗ってもカメラは動かない。また、ゼルダの伝説では、カメラを振り回す事なく即座にスッっと前を向く。馬の乗り降りに関しては、馬がその馬で180度反転出来るゲームに関しては無双の騎乗前と騎乗後でカメラは動かないというアプローチが正解であり、馬がその場で180度反転出来ないゲームにおいては、速やかにスッと前を向くゼルダのアプローチが3D酔い対策としては正解だろう。初期から使える馬に乗るだけで、カメラを仰々しく振り回し続けるMGS5が、3D酔いに一切配慮する気がない、プレイヤーの3D酔いに全く関心のないビデオゲームである事は火を見るよりも明らかである。




MGSというシリーズが、3D酔いしないゲームデザインから、3D酔いするゲームデザインに移行した事に関してはなんの問題もない。現代において固定視点ゲームは売れないだろう、受け入れられないだろう、エキサイティングじゃないだろう、という判断は、とても自然な事である。MGSが3D酔いするタイプのビデオゲームになった事は、全く悪い事ではない。MGS5が3D酔いするビデオゲームである事は、全く悪い事ではない。

MGS5は、3D酔いに対する配慮を一切せずに作られている。配慮をしていないのではなく、3D酔いに対する関心自体が全く存在していない。もちろんそれも、全く悪い事ではない。面白いゲームを作りたいので、3D酔いには配慮しませんと言っているアンチャーテッドのノーティードッグがあれだけ評価される世界に僕等は生きているのである。3D酔いに配慮しない方が面白くなるので、3D酔いには配慮しません、という態度を選択するのであれば、そう言えば済む話である。




けれどもMGS5は、画面の揺れをオフにするというオプションで画面の揺れがオフにならないというレベルのビデオゲームであり、馬に乗る度にカメラを振り回し、ムービーシーンにおいては決して存在しないはずのカメラマンの手ぶれと歩行揺れで3D酔いを全力で誘発しにかかるビデオゲームである。

そのようなゲームを作り、フルプライスで売っておきながら、信者のおべっか以外の何物でもない「MGS5は3D酔いしません」というコメントをリツイート拡散したのが小島秀夫であり、この人物は我が国において最も信用に値しない人物の一人であり、また、自らを賞賛するコメントをリツイートする事で被害者を増やす小島秀夫という人間は明確に、ビデオゲームの敵である。

目が痛い。

今日やり残したことは何かあったかと一日が終わりそうになる度に思い返してみるけれど、何もしていないという事実以上の重さを持つ知見は得られない。

2015年9月14日月曜日

夢を諦められない。

廃墟とか、死体とか、暴徒とか、曲がりくねった地下洞窟とか、悪夢の兆候どころか、明らかに悪夢以外の何物でもない真っ只中にあって尚、目を覚ましてもそこに待っているのはどんな悪夢よりも悪い日常なので、これは夢の中であるが故に素敵な出会いがあるのではないかと、夢を諦められず、悪夢にうなされ続け、消耗しきって目を覚ます。起きて思う事は、どんな悪夢ですらもこの日常よりは随分と良いものだったという郷愁。

2015年9月13日日曜日

ここ3000年くらいで一番状況が悪い。

記憶にある限り、ここ30000年くらいで一番状況が悪いが、僕には僕を救う方法は無いし、どこからも助けは来ない。詰んだとはこの事か

2015年9月12日土曜日

夢の中で素敵な人に出会った

夢の外では素敵な人に出会っていない

繰り返される今日

明日こそは、明日こそはと目を閉じるが、目を開けた際に待っているのは明日ではなく、繰り返される今日。

2015年9月11日金曜日

心臓が痛すぎて目が覚めた。不安になる

心臓が痛すぎて目が覚めた。不安になる。不安になったのでパソコンの電源を入れてインターネットを付けた。心臓が痛いので不安になった。頼れるものはインターネットしかない。インターネットは頼りにならないばかりか、心臓が痛くなる。不安で仕方が無い。

機械の体

機械の体になればいいのに。色んなボタンで色んなものをオフにして、必要なものだけをオンにする。ボタンを押せば立ち上がり、食べなくったって生きられる。現実の僕はどんなボタンを押したって、倒れたままで動かない。

2015年9月3日木曜日

ふぁ

rssリーダーで読むと凄く短くて続きがありそうなブログのエントリーがあると、続きあるものだと思って直接読みに行ってがっかりするのでブログのエントリーはなるべく長くしていただきたい。読みに行って無駄に長いだけとか本当にがっかりする。

あたまが痛いので休憩をする日

季節が変わって頭が痛いので今日は休憩をする。

2015年9月1日火曜日

生きる機械

夢や目標のようなものはあるけれど、夢も目標もなくて、恋い焦がれるようなものはあるけれど、恋い焦がれるものはない。正しい人間という幻想の型に、自らの周りにある手頃な事象を投げ込んで、掌で押し固めれば自らが、まるで幻想の中にのみ存在する正しい人間のような形になる。形にはなれど、熱はない。形にはなれど、心はない。ああ、いやだいやだ、これこそが、まさにそれだ。僕には何も存在しないという自らの状況を書き記す事がブログであると勝手に決めたのではなく、ただ一日のうちの数時間をブログを書く事に費やす事がブロガーであると自分が勝手に決めたからというだけで捏造されるエントリー。ブログを書こう、ブログを書こうと考えながら、本当に頭の中で考えているのは、おなかがすいたという事なのだ。おなかがすいたならばおなかがすいたと書くのが誠実さであり、おなかがすいたを巡る葛藤があるならばそれを書くのが自然なこと、おなかがすいたを巡る葛藤がブログを書こうとする中で生まれたならばそれを書くのが正しいならば、ここで発生しているのは正しさ。そんなものではなく、ただ型にはめられただけ。その型は誰が作っているのか。型を捨てよという言葉も、型を破れという言葉もまた型。おなかがすくだけの、ブログを書こうとするだけの、生きる機械。

やさしい世界。

430が、「これから先も俺を見たいという人が居たらリツイート」と書き込んでも僅かに10しかリツイートが集まらないやさしい世界。