生きる機械

夢や目標のようなものはあるけれど、夢も目標もなくて、恋い焦がれるようなものはあるけれど、恋い焦がれるものはない。正しい人間という幻想の型に、自らの周りにある手頃な事象を投げ込んで、掌で押し固めれば自らが、まるで幻想の中にのみ存在する正しい人間のような形になる。形にはなれど、熱はない。形にはなれど、心はない。ああ、いやだいやだ、これこそが、まさにそれだ。僕には何も存在しないという自らの状況を書き記す事がブログであると勝手に決めたのではなく、ただ一日のうちの数時間をブログを書く事に費やす事がブロガーであると自分が勝手に決めたからというだけで捏造されるエントリー。ブログを書こう、ブログを書こうと考えながら、本当に頭の中で考えているのは、おなかがすいたという事なのだ。おなかがすいたならばおなかがすいたと書くのが誠実さであり、おなかがすいたを巡る葛藤があるならばそれを書くのが自然なこと、おなかがすいたを巡る葛藤がブログを書こうとする中で生まれたならばそれを書くのが正しいならば、ここで発生しているのは正しさ。そんなものではなく、ただ型にはめられただけ。その型は誰が作っているのか。型を捨てよという言葉も、型を破れという言葉もまた型。おなかがすくだけの、ブログを書こうとするだけの、生きる機械。