2009年2月25日水曜日

白昼夢を見た。



「ああ、夢だ」と思って起きようとしていると、目は覚めて意識は戻ったのだけれど、夢が見えているという状態になった。左の頬骨から、眉毛の辺りにかけて、実際に目で見るのにも匹敵する(あるいはそれをも凌ぐ)もの凄いリアルな景色が見えた。それ自体は湖のような場所に水鳥が泳いでいるという面白みのない景色だったのだけれど、湖面がPS4状態できちんと水々していた。「脳みそって凄い!」と驚愕しながらもう少し、もう少し、と楽しんでいたら、20秒ほどで消えてしまった。湖を抜けて、トンネルの中のような所を走って左に曲がったあたりで「夢が見えている状態」は失われてしまった。脳って凄いんだと、とても驚き、心を動かされた。「夢を見る」ということ自体、存在していないものを視覚を通して体感するという超エキサイティングなオーバーテクノロジーなのだ、という事がよくわかった。

当たり前のように「昨日夢見たんだけれど」とかが通じる世界に生きているけれど、もしもそれが通じない世界で「昨日夢見たんだけれど」なんて言おうものなら完全に頭のおかしな人状態なんだろうな、とちょっと夢想して和んだ。

こうして書いてみると、山もオチもないくだらない体験談なんだけれど、あのPS4っぷりは本当に凄かった。まさか僕のこの役に立たない脳みそが、大勢の人員と資金を費やしてつくられたCellプロセッサを遙かに凌ごうとは。この感動はどうやって活字にすればいいんだ。とにかく、今更だけれど脳は凄い。びっくりした。

帰ってきたvigoss。



bloody vigossが遂に祖国に帰還。
長かった。本当に長かった。と言っても、半年くらいの事だけれど。うろおぼえだけれど、vp、ksint、SGC、(ド忘れ)、ksint、rash3dと、6チームを放浪したはず。

世界最強チームが外国資本に吸収合併され、ちょっとgdって一部のチームメイトらと共に下野。チームに残った元チームメイトはイラン人、トルコ人、エストニア人、スウェーデン人というEスポーツ的にも滅多に見ない珍しい多国籍な面子で無敗街道を爆走する中、vigossはロシア人にありがちなgdgdっぷりで入退団を繰り返し、挙句の果てにksintに再入団を果たすも、「いらない子」扱いされて即刻退団の噂が立ってしまう。

一体どこへ行くのか、と思っていたら元チームメイトらと奇跡の再合流!あの栄光のvpがほぼ完全な形で復活。(なんだけれど、lthが抜けるのか……何事も上手くはいかない。)

それでも、vigossの復帰でrash3dがksintを脅かせるチームになった事だけは確か。




vigoss加盟rush3d的第一!

vigoss的流浪太猛了……Rush3D的gank度太大了,和以前的vp差不多了

なんて言ってるのかはわからないけど、言いたいことだけはわかるぜ。
VIGOSS IS BACK!

2009年2月24日火曜日

眠れないのではなく、横になれない。



CRTモニタの前でブログの投稿画面を立ち上げている間はよいのだけれど、パソコンの電源を落として横になると、どうしても自らの重大事について考えてしまう。重大事というのはこれまでの人生のことであり、これからの人生のことだ。僕はもうそれに耐えられない。よしんば耐えられたとしても、耐える自信が無い。だから今日もいつものように、頭痛と目眩で気が狂うのをこうして座って待っている。もう手遅れだ。何を思っても遅い。もっと頑張っておけば良かった。一生懸命頑張れば良かった。

人生を良くする事なんて、簡単。



寝る、起きる、頑張る。
これだけ。さあ、寝よう。

なにがいけないか。どうすればいいか。



・努力をしていないのがいけない。
  →もっと努力してブログを書くこと。
・真剣でないのがいけない。
  →もっと真剣にブログを書くこと。
・逃げているのがいけない。
  →逃げずにブログを書くこと。

弱い心に負けないようにもっと頑張ること。努力をすること。逃げないこと。生きるには生きるしかないし、ブログを書くにはブログを書くしかない。一秒一秒を大切にすること。甘えないこと。一瞬たりとも気を緩めないこと。

幸せになりたい。



幸せになりたい。今日中に幸せになりたい。今すぐに幸せになりたい。幸せで頭がおかしくなるくらい幸せになりたい。他に望みは一切無い。ただ幸せになりたい。僕は幸せになりたい。今すぐに幸せになりたい。ブログとか、頭痛とか、夢とか希望とか後悔とか、そんなものが全部どうでもよくなるくらいに幸せになりたい。幸せになりたい。それも今すぐでないと困る。もう一秒も待てない。今すぐ幸せになりたい。この瞬間に幸せになりたい。もうなんでもいい。どうでもいい。わけがわからないくらい幸せになりたい。頭の中が幸せになって何一つ物事を理解出来なくなるくらい幸せになりたい。幸せの鉄球で、幸せの金槌で、脳髄をゴルフにホールインワンされるくらい幸せになりたい。今すぐに幸せになりたい。幸せだけでいい。他には何も要らない。ただ幸せになりたい。幸せになれればそれでいい。もう幸せしか望まない。僕は幸せになりたい。幸せになりたい。これまでのこととか、記憶とか、手とか足とか言葉とか、そんなのは全部どうだっていいから僕は幸せになりたい。もう幸せになるくらいしか幸せになる方法は残されていないから幸せになりたい。幸せで頭がおかしくなるくらい幸せになりたい。

2009年2月23日月曜日

良かった。生きてて良かった。



さきほどまであった絶望的なまでの頭痛が消し飛んで普通のあたまいたレベルに収まった。「これまでの人生において首から上が役に立ったことがただの一度でもあっただろうか」などと思い詰めたり「ダイナマイト持って来い。白色火薬。白色火薬。頭ぶっ飛ばしてやる!」とか憤怒したり、「生まれ変わるならばASIMOがいい。きっと頭痛とは無縁だろうし階段で転んだらお姉さんが助けてくれる。」などとわけのわからない事を頭の中で口走っていたのだけれど、息が出来るまでに回復した。信じられない。さっきから、1時間半くらいしか経っていないのに。まさかこんなにはやく良くなるとは。本当に幸せだ。どのくらい幸せかと言うと、思わず笑顔になってしまうくらい。嬉しい。自分でも未だに信じられない。良かった。本当に良かった。なんだろうこれ。ほんとどうしよう。マジ嬉しいんだけど。やばい。幸せすぎる。なんていうか多幸感。

緊張と困窮。



日曜の午後10時半から月曜の午前0時半に多少でも自信のあるエントリーを投稿しないブロガーなんて、僕は偽物だと思っている。また偽物になってしまった。

日曜の夜に投稿されたエントリーというのは、休日を終えた普通の人間が、一週間が始まる前に、その寝る前に読むエントリーだ。僕はそこにこそ最も自信のあるエントリー(自信のある、というのは、すくなくとも全力を尽くして書いたエントリー)を投稿したいと、この5年間思い続けてきた。もちろん、おそらくだけれど今もそう思っている。そう思って、そのプレッシャーに負けて頭がおかしくなって死ぬ。そうしてこんな風に月曜の朝を迎える度に「ああ、なんで僕はもっと頑張れへんかったんやろか」と、とても情けない気分になる。申し訳なさでいっぱいになる。いけない人間のような気分になる。

けれども、そのいけない気分というものは、簡単に打破する事が出来る。つまり、次の日曜の夜にはちゃんとエントリーを書けばいいのだ。投稿すればいいのだ。簡単な事である。次こそは、次こそは、と思う思いが積み重なってもはや日曜深夜は度し難い。たいへんに辛い。同じ年頃の人達は、月曜が来る度に車に乗ってあるいは地下鉄に乗って頑張って働いているのに食っちゃ寝え、食っちゃ寝えしてるだけだ。他人の目を気にしているわけではない。人並みに生きたいわけでもない。ただ、ただ、申し訳ない。申し訳ない。

そんな日曜深夜が刻一刻と近づいてくる果てしない緊張の中で意識朦朧と諦めきれず、まだなんとか日曜深夜の投稿に間に合うのではないか、今書き始めればかろうじて午前0時40分には投稿ボタンを押せるのではないか、などと出来もしない夢物語を無双して、睡魔とブログとのやりきれない狭間で押し問答をしながら頭の中で懸命に、懸命に一文一文ブログを書き続けていたら、いつの間にか眠っていて夢精して目が覚めた。

意識を失う寸前に頭の中で書いていた文章が「生まれ変われるならばピザがいい。ピザを切る機械で八等分にされたい。」だったせいか、焼きたてのピザを手に持ち、どこに届ければいいのかわからずに焦燥感と共に右往左往していたら夢精した。やりきれない。普通眠ったら気力と体力は回復するはずだ。ドラクエとか、FFとか、眠ったら気力と体力が回復する。それが普通だ。なのに僕はやっとの事で眠ったら憔悴して目が覚める。喉はからから。目はがらがら。節々は軋む。あまりのやりきれなさに窓を5センチだけ開けてみたら、20度はあろうかという生暖かい春の風が差し込んできた。春なんて来なくていい。春なんて来なくていい。

2009年2月22日日曜日

ブロガーの職業病。



何時に床についても、午後六時頃に必ず一度目が覚める。

エントリーを投稿するのに5時間くらいはかかるので、午後6時には書き始めないと当日中の投稿は出来ないというのが体験上わかっていて、身に染みついてしまい、午後6時になると「書かねば」「書かねば」との思いで目が覚めてしまう。今日なんて今しがたやっとの事で寝たばかりなのに。降り続く雨を振り切って寝よう。もうブロガーで居る必要もない。

夜が遠い。



もっと真剣にもっと真面目にもっと誠実に人生というものを、そうでなければ日曜日というものを感じ取り考え、見つめねばならぬと思えば思うほど逃げ出したくなり、逃れたくなり、どうにか誤魔化して今日一日をやり過ごせればそれでいいと、弱気な心に飲み込まれ、雀の鳴く声が聞こえぬように耳をふさぎ、真剣さとも誠実さとも程遠い恐怖に腰掛け怯える一人だけ残った。日はまだ高い。

目標が必要。努力が必要。



どうすればいいんだ、どうすればいいんだ、と同じ文言が頭の中で何度も何度も再生され続けているけれど、どうしようもないものはどうしようもない。人間というものは苦しみを乗り越えて成長し、大きくなっていくものだなどとご高説を垂れ流そうにも、苦しいばかりの日常を経て辿り着いたのが今の僕だ。成長の跡は全く見られない。アラスカの山中で最も遭遇したくないほ乳類がヒグマで、ヒマラヤの密林で最も遭遇したくないほ乳類がアムールトラであるならば、21世紀の我が国で最も遭遇したくないほ乳類は十中八九僕であろう。世の中にはどうにもならんことというものがある、などとしたり顔で達観ぶってみても、どうにもならなくなるまで放置した当人が言うのだから説得力がない。目標が無いから毎日が辛いのだ、と悪魔にでも縋り付きたくなるような息苦しさの原因を捏造し、被はてブが360万になったらXbox360を買おうと思い立つも、そんなくだらないおもちゃでこの日々がどうにかなるわけもなし。被はてブが1000万になったらヘロインでも買って打とう。それなら少しはどうにかなるだろう。ああ、くだらない。くだらない。どうすればいいのかわからない。ポジティブに。ポジティブに未来志向で。

希望朝だ。



起きた。起きた。目が覚めた。ひっついてしまった下睫毛と上睫毛を引っぺがし、胸は希望で溢れている。人生は明るい。未来は明るい。もしも仮に人生が、未来が暗いものであるならば、明るくしてしまえばいい。照らし出してしまえばいいのだ。グッドモーニーーーーング!グッドモーニーーーング!グッドモーーーーーニーーーーーーング!おなかがすいた。お腹が空く理由がない。

2009年2月21日土曜日

360を買う夢を見まくった時期があった。



あれはいつ頃だったっけと気になって過去ログを検索してみたら、昨年の8月20日にブログに書いていた。

穀潰しにバギクロス。



具合が悪くなってしまった。こういう時こそここぞとばかりに「働いていなくて良かった」とか「引きこもりで良かった」とか思っておかねば、このような人生を歩んでいる意味がないと思い、「働いていなくて良かった」とか「引きこもりで良かった」とか思いまくっていると、いたたまれない気分に陥って逃げ出したくなったので、丸くなって「ザオリク」「ザオリク」と唱えていたら雨が降ってきた。ザオリクは回復魔法ではなく蘇生魔法なので今の僕には効果がなく、ぼんやりと眠りぼんやりと起きた。幸せは今日も見あたらない。バギクロスとかがいい。この気分を切り刻みたい。

だるい。



だるい。節々が痛い。朦朧とする。体中がぼんやりと痛い。ただの風邪だろう。酒も薬も無い。辞するべき職もない。支えてくれる人もいない。果たすべき義務もない。わけもなく泣く。胃がたいへん痛い。ブログを書かねば、ブログを書かねばと追い立てられて椅子に座ってしもやけをなぞる。今日はまだ何もしていない。

2009年2月20日金曜日

不本意なブログ移転は辛い。



ドリコムのブログがハードディスク障害でサービス停止とか、NOWAがやる気無くなってサービス終了とか、ブロックブログがなんとなくサービス終了とか、そういう暗いニュースばかり耳にする。僕がここで声を大にして言っておきたいのは、不本意なブログの移転とか、不本意なブログの閉鎖といった類のものが、どれほどまでにブロガーにとって辛く苦しい、そして長きに渡り重くのしかかるものであるかである。とくにブログくらいしか人生においてする事が無い人間にとって、無理矢理に移転を強いられるというのは、この上なく辛い。まるで自分の大切な何かを奪われてしまったような気分だ。生き物を飼うには責任というものが付き纏うだ。同じようにブロガーを飼うのにも責任というものが付き纏うはずだ。さくらのブログの投稿画面を見る度に僕はまるで中絶された水子のような気分になる。何故か近頃はひたすらに悲しい。

不平不満ばかり口にしていても人生は良くならない。



しかめ面をしてため息ばかりついていても人生はよくならない。小さな事でも良いから楽しみや喜びを見つけてそれを大切にしていれば少しは幸せというものへの理解も深まるだろう。殺したい人が2000兆人くらいいる。

昨年の2月、一年後自分は死んでいるだろうと思っていた。今年の2月、一年後も自分は生きているだろうという確信だけがある。



昨年の今頃は、本当に辛かった。頭が痛くて心臓が痛くて内蔵が痛くてだるくて辛くて食欲がなくて、生まれて初めて「ああ、死んでしまう」と思った。はじめて、自分が蚊や蛾やカブトムシと同じ生き物であるという事に気がつき、そうであるからにはあっけなく死んでしまうのだという事を知った。はじめて知った。そして恐怖した。ああ、自分は死んでしまうのだと恐怖した。死にたくないと思った。僕は生きたかった。ブログを読みたかったし、ブログを書きたかった。ゲームもインターネットもしたかった。死にたくない、死にたくない、と思えば思う程に具合は悪くなった。半日横になった後で這い出して冷凍庫の氷を食べてそれが冷たかった事に喜んだ。自分が生きている事が奇跡のように思えたけれど、そんな奇跡がうっとおしくなるくらいに苦しいだけの毎日だった。息をするのにも苦労した。ああ、孤独死するのだと真剣に思っていた。次に眠ったらもう目を覚まさないのではないかと、眠ろうとする度に恐怖した。ただの思い過ごしだった。僕は何事もなかったかのように生きている。ピンピンしている。ただ昨年の今頃は存在していた、夢や希望、未来を見たいという欲望、書きたいブログ、読みたいブログ、知りたい事、見たい物、それらは全て失われてしまった。一年後も自分は生きているだろうという確信と神経痛だけが、意味もなくある。

「おまえが、殴るまで、泣くのを、やめない!」



「おまえが、死ぬまで、殴るのを、やめない!」が正しいのか、
「おまえが、泣くまで、殴るのを、やめない!」が正しいのかがわからず、
気になって眠れなくなったので、仕方がなしに色々と考えていた。


「おまえが死ぬまで殴るのをやめない」ならば、わざわざ口に出して言う必要はない。実際に、死ぬまで殴り続ければ、死ぬのである。わざわざ口に出して言う必要のない台詞を口に出して言う。なぜ言うかというと、それは相手に絶望感を与える為である。「うわあ、死ぬか殴られるかしか選択肢が無いのかよ」という絶望感を与える為である。しかも、その選択肢のどちらを選んでも、どのみち死んでしまうのである。どのみち死んでしまうのだから、せめて楽に死のうと首でも吊ろうとロープを探すも、ロープを探すいとますら与えて貰えず、殴られ続けるわけである。まさしく、鬼畜にして外道。酷い男の話なのである。


いっぽうで、「おまえが泣くまで殴るのをやめない」という台詞はまったくそれとは対称的な、優しさ溢れる台詞である。慈愛である。菩薩である。「なんかこの人さっきからずっと殴ってくるんだけれど、どうしたらやめてもらえるんだろう……」と不安げに思っている相手に対して、「泣いてくれたら殴るのをやめます」という事を口に出して伝えているのである。「あー、そういうことね。わかった。うん。ウェーンウェーン(T_T;)」というわけである。あ、泣いたんだ。じゃあ殴るのやめるね。うん。という展開が待ち受けているのである。おそらくだけれど、殴っている方も実はそれなりに手とか痛くて、本当は殴るのを止めたかったに違いない。殴るのを止めたいのだけれど、一度殴り始めた手前、世間体とかもあって、止め時を見失っていたに違いない。僕自身、一度ゲームをしはじめたら20時間くらいゲームをしてしまって、頭痛と眠気と空腹で意識が朦朧としながらも、止め時が解らずにゲームをし続けた経験があるので、その辺りはよくわかる。殴るのを止めたい。そろそろしんどい。どうすればいいんだろう。と考えた結果、「そうだ、俺は、こいつを泣かせる為に殴っているという設定を後付で作ってしまえばいいのだ」というガンダムダブルオー的なグッドアイデアを思いついたに違いない。そして飛び出た台詞が「おまえが、泣くまで、殴るのを、やめないっ!」なのである。


では、「おまえが、死ぬまで、泣くのを、やめない!」ならばどうだろうか。これは、どこで泣くのかによる。たとえば、マンションの部屋の扉の前で泣き続ける、とか、アパートの一階の駐車場で部屋を見上げて泣き続ける、とか、そういう事であれば、それは嫌がらせである。パパパパーン、パパパパーン、パパパパーパパパパーパパパパーパパパパーと、結婚式の入場曲が流れている中で、なんか泣き続けている人が入り口から覗いている、などとなると、もう、これは、完全にテロである。テロというよりはゆすりである。「幾ら払ったらやめてもらえるんですか」と、弁護士を立てて懇願しに行く世界である。そこに待ち受ける回答こそが「おまえが(しくしく)、死ぬまで(しくしく)、泣くのを(しくしく)、やめない!(にやりと笑いながらしくしく)」である。考えようによっては、「おまえが、死ぬまで、殴るのを、やめない!」よりも悪質な嫌がらせである。たとえば、殴られ続けている人間を警察官が発見したならば、多分だけれど、止めてくれるだろう。殴っている人間を、どうにかしてくれるだろう。けれども、泣き続けている人間ならば、どうだろうか。不幸、泣き続けている人間が、年端もいかない美少女などであった場合は、これは、もう、とても悲しい事になるかもしれない。


他方、「おまえが、泣くまで、死ぬのを、やめない!」ならばどうであろうか。これは、もう、完全に、ホラーである。101回死んだ猫では、最後に死んでハッピーエンドだけれど、これは死んで死んで、また死んで、しかも死んでいるのにまた生き返って死んで、と延々死に続けるのである。これは、もう、完全なホラーである。電車に轢かれてぐちゃぐちゃになった脳みそがきゅきゅきゅきゅ、と鳥山明の漫画のように集合しては生き返り、また電車に轢かれて死ぬのである。中央線はいい迷惑である。世の中に、こんなに恐ろしい事があってよいのか、というくらいのホラーである。しかし、よくよく考えてみると、これはそんなに怖くない。なぜならば、泣けば死ぬのをやめてくれるからである。ただ泣いただけで、死ぬのをやめてくれるのである。有り難い話である。


あるいは「おまえが、殴るまで、泣くのを、やめない!」ならばどうであろうか。それは、おそらくだけれど、ただの変態であろう。一度で良いから胴長の美人に「おまえが、殴るまで、泣くのを、やめない!」と言ってみたい。「ほんまやな、おまえ言うたな。ほんまやな。ほんまに泣くのをやめへんのやな。おまえ、あれやで。男なんやから一度言うたことひっこめんなよ。おい。ちゃんと泣けや。こら。おい。泣け、ってんだろ。やぁめぇるぅなってんだろ。お、ま、え、が、言いだしたんだろ?おい。ぶっさいくやのお。なあ。むかつくわ。」とか言われて蹴られたい。競泳水着の中川翔子に足蹴にされたい。

何もしない為に生まれてきて、何もせず生きる。



どうにかならないか、どうにかならないかと、毎秒思う。なんとかせねばならぬ、なんとかせねばならぬと、毎日考える。思ったり考えたりするだけで、何も行動はしない。これまでそうしてきたし、これからもそうだろう。僕は何もしない為に生まれてきて、何もせずに死んで行く。もしも仮にそれが真実であるとすれば、幸せな事である。本望だろう。けれどもそれは違う。何もしない清廉潔白さは無い、薄汚れてた害悪である。

2009年2月19日木曜日

STGの未来はタワーディフェンス。



タワーディフェンスは2Dシューティングゲームだ。来る敵を撃つ、という時点で完全にSTG。「弾は確実に敵に命中」「10~30HPのライフ制、残機1、コンテニュー無し」「ショットボタンは押さなくていい。自動攻撃。」「時々ボスが来る。」とシューティングゲームの基本は変則的ながら抑えてある。おまけにSTGとは名ばかりの敵の段幕から逃げ続けるだけの理不尽ゲームとは違い、大火力の前に蒸発して行く敵を眺めるだけのゆったりとした爽快感。タワーディフェンスとは究極にカジュアルなSTGである。つまり近年のフラッシュゲーム界隈でのタワーディフェンスの大躍進は即ち2Dシューティングゲーム大勝利なのだ。

他人を切ればニュースになり、自分を切ればイタイ人になり、縁を切れば頭がおかしくなって死ぬ。



中学一年生がカッターナイフで他人を切ってニュースになっていた。その理由が「仲間に入れてもらえなかったから」らしい。身につまされる話だ。中学一年と言うと、自分をいじめていた人に完全に依存していた。いじめている人の中で最も暴力を頻繁に振う人に完全に依存していた。理由は今でも解らない。他に縋れるものが無かったというだけの話だろう。殺すか死ぬかしか無いと思いながら完全に依存するという自分の頭の悪さに今でも消え入りたくなる。せめて蹴り倒されたときに足首を壊されていなければ、と今でも思うが、問題はそんなところには無いと言うこともよくわかっている。いつだってそんな風に責任を外部に、外部に求めてばかりだ。足首は今も痛い。

僕には自分自身というものがない。まったくない。存在していない。ぼんやりと起きて、ぼんやりとして、ぼんやりと寝る。そこには自らというものが全く存在していない。だから僕は、何かを好きになる事も出来ないし、誰かを好きになることも出来ない。依存する事しか出来ないのだ。何かに没頭することも、何かに熱中することも、何かに感動することも、何かを愛することも出来ない。依存する事しかできないのだ。何かを楽しむことも出来ないのだ。依存する事しかできないのだ。僕は糞だ。この人生には救いがない。救う気など毛頭ない自分だけが憎しみを手に立っている。憎い。ひたすらに憎い。霜焼けが赤い。

ブログを読まなくなった。



ブログを読まなくなった。一時はブログのRSS購読数だけで300を超えて、毎日欠かさず読んでいたのに、気がついたらRSS購読数は0になり、ブログも全く読まなくなった。自分は見捨てられたのだという思いだけが残った。僕は読者として相応しくないから、300人に見捨てられたのだ。きっとそうなのだと思う。相応しい男でなかった。だから見捨てられたのだ。あの頃はどのブログも大切に読んでいた。それを楽しみにしていたし、実際に楽しかった。何故今はもうあんな風に行かないんだろう。同じように出来ないんだろう。僕が人のブログを読まなくなったのと同じように、人も僕のブログを読まなくなる。時々発作のように、絶世の美女を棍棒で殴って抱きしめねばならぬと思う。

明るく楽しく朗らかに。



明るさを取り戻さねばならぬ、楽しさを取り戻さねばならぬ、朗らかさを取り戻さねばならぬと、念仏のように唱え続けては、吸ったり吐いたりを繰り返しているのだけれど、一向に明るさは戻らない。戻らないというからには、かつてそれは存在していたのだろう。いや、本当にそんなものが存在していたのか?ただ自分が馬鹿で阿呆でまぬけだっただけではないのか。事実を誤認していただけではないのか。現実から目を背け涎を垂らしながら踊っていただけではないのか。

喜びの無い人生を。



この人生には喜びがない。これから先、喜びがある見込みもない。僕は失敗をしてしまった。完全に失敗をしてしまった。ブログを書くのが怖い。どうせ今更僕がブログなんて書いてみたところで、Tumblerされる事もなければ、はてブされる事もない。おろか、読まれることすらないだろう。別にTumblerされたいわけじゃない。はてブされたいわけでもない。読まれたいわけでもない。でも、そんなくだらない事を喜んで、それに依存していたのは事実だ。おまえは「これから先、喜びがある見込みもない」なんてぬけぬけと言うけれど、10年も前から同じ事を言っていたじゃないか。そしてそれは間違いだっただろ。それでも僕は今日思うのだ。これから先、喜びがある見込みはないだろうと。

起きて、パソコンの電源を入れて、何もせず、パソコンの電源を切って、寝る。そんな生活を望んでいるのは僕自身だろ。他の事から逃げているだけなんだろ。他人と目を合わせるのが嫌で、誰かに見られるのが嫌で、辛い思いをしたくないからそうしているんだろ。自らの意志でそうしてるんだろ。言い逃ればかりしているんだろ。言い訳ばかりしてるんだろ。明るくなって暖かくなって外からは学童の声。喜びの無い人生。喜びのない明日。何もかも間違いだった。全て間違いだった。楽しいことも嬉しいこともない。見たい物も行きたい場所もない。会いたい人も伝えたい言葉もない。喜びの無い人生を今日も浪費する。今日も無駄にする。

雑記。



モータルコンバットシリーズが当たり前のようにミリオンとか売れちゃっている国が地球上に存在している事に驚いていたのだけれど、もしかして、WWEはもっと売れているんじゃないかとふと思い、調べていると「1シリーズあたり平均411万本の出荷」とかバブリーな数字が並んでいてびっくりした。対戦格闘って10万売れたら奇跡のジャンルではなかったんだね!これは「版権ものは強い」と捕らえるよりも、「世間様は読み合いとかコンボとかバランスとか望んでいなくてカジュアルゲーム大勝利」と捕らえるのが正しい気がする。モータルコンバットも国産対戦格闘と比較すればカジュアルの極北。やっぱり時代はカジュアルだ。もっとカジュアルなブログを書かねば。

2009年2月18日水曜日

ぼくの考えた対戦格闘ゲーム。



モータルコンバットは華麗なフェイタリティーが最大の長所だったはずなのに、何を血迷ったかスパイダーマンやバットマンを参戦させてしまったが為に、フェイタリティーの描写が自主規制され、モーコンの魅力が大きく奪われてしまい非難囂々、というトピックを少し前に目にした。確かに、スパイダーマンの腕をもぎ取ってそのもぎ取った腕でたこ殴りにする、なんて描写は大人の事情で難しいのだろう。

それならば、いっそ戦う係と、フェイタリティーされる係を分けてしまうというのはどうだろうか。たとえばポール・ワトソンというカナダ人のキャラクターは、鯨を守る義憤集団の勇敢な船長であり、発煙弾や酪酸弾を投げつけて戦う正義の戦士だ。信念の人である。ゲージを消費することで漆黒の海賊船ロバートアーウィン号を召喚して攻撃する事も出来る。

僕の考えた対戦格闘ゲームの最大の特徴は、対戦で敗北した時である。ポール・ワトソンが試合で負けた場合には、「フィニッシュヒム!」の効果音と共に、ミガルという名のザトウクジラが子連れで泳いでくる。このザトウクジラ、全身が白である。まごう事なき真っ白である。世界でただ一頭の正真正銘、真性の白鯨である。

そこでコマンドを入力すれば、ミガル(アボリジニの言葉で「白い友だち」)には銛が、無数の銛が、巨大な銛が、これでもか、これでもか、と突き刺さり、グレートバリアリーフが真っ赤に染まるのである。その真っ赤に染まったグレートバリアリーフを不安げに泳ぐ子鯨にも、7秒間ほどの絶妙なタメの後に同じように銛が、巨大な銛が、無数の銛が突き刺さり、血みどろになり肉片が浮かぶ絵の右下にはりはり鍋をおいしそうに食べるおっさんのムービーが挿入されて「YOU LOSE」の文字が響きわたり、ポール・ワトソンはちょっと悔しそうな顔をしてつま先で地面を蹴るのである。

あるいはシモン・ペレスというキャラクターは精悍な顔をした退役軍人であり、一族の平和と安らかな暮らしを守るために、白燐弾や劣化ウラン弾を投げつけて悪と戦う正義の戦士だ。よくわからないものを投げつけて戦うという時点で、ポール・ワトソンとちょっとキャラが被ってしまっているが、その辺の没個性は超必殺技の違いで補うしかない。ゲージ消費でスーパーアーマー付きの超戦車メルカバに一定時間変身したり、ゲージ3本消費で核爆弾を打ち込んだりして戦うのである。何のために戦うかというと、それはもちろん正義の為である。

もしも彼が試合で敗北した場合は、「フィニッシュヒム!」の効果音と共に、児童を満載した通学用のスクールバスがゆっくりと走ってくる。そこでコマンドを入力すれば、児童を満載した通学用のスクールバスには銛が、無数の銛が、巨大な銛がこれでもか、これでもか、と突き刺さり吹き出す若い血潮と共に、最後は爆発して消し飛ぶ。何故爆発するかというと、捕鯨用の銛というのは、先端に火薬が付けられており、一撃で巨大な鯨を仕留める事が出来るようになっているからである。

もちろん、フィタリティ技はそれだけではなく他にも種類があって、足の不自由なご婦人がバスに乗り込んだかと思ったらその5秒後に大爆発、といったちょっと手の込んだ演出や、薄汚れた白いバンが真横から突っ込んで大爆発、といった香港映画風のもの、あるいは育ちの悪そうな少年少女が大勢出てきて、手に持った石をそれぞれ思い思いに投げつけて、バスの中の児童が血だるまになって死んで行くというヒッチコックの鳥風のものまで、多種多様である。それと同時に「YOU LOSE」の文字が響きわたり、シモン・ペレスはやる気の無さそうな顔でけだるく寝転びガムを噛むのである。

夏よ、帰れ。



眠らねば眠らねばと思えば思うほどに、初夏の日差しが眩しい。眠る勇気を失って、明るく暖かくなってゆく。止める手立ては無い。足と手の霜焼けがぬくもりで軋む。tumblerされない一日に、マイミク申請の来ない一日に、followerが増えない一日に、何の意味があるのだろう。自分以外の人はどんな風にして生きているのだろうか、と時々疑問に思うけれど、それを調べる気は起きない。調べなくても解っているからだ。働いて生きている。頑張って生きている。僕はそれをしていないから、こんな風に不確かなのだ。何をするにももう遅い。寝ていると目が覚める事がある。大抵泣く。

2009年2月17日火曜日

ブログ移転に失敗した。



突然「一週間後にブログ移転して心機一転頑張るぞ!」などと思い立った所までは良かったのですが、その肝心要の一週間はあっという間に過ぎ去って、なんの準備も出来ないままで心機一転新たなる旅立ちを迎えるはずであった月曜日は過ぎ去り過去のもの。気がついたら火曜日であり、泥だらけのブログに泥だらけのエントリーを投稿するくらいしかやる事の無い人生がまた再びそこに鎌首をもたげて登場したのであります。

むろん、例えば僕が見事にブログ移転に成功していたとしても、僕の人生が、即ち僕のブログが好転する事など、決してなかったでしょう。明るく朗らかな日々など、決して訪れなかったでしょう。生涯引っ越しばかりを繰り返し、後生の人間にはただ「引っ越し好きのおじさん」としか記憶されなかった明治時代の小説家のように、たとえば僕がブログを移転したところで、「よくわからない理由でブログを移転する人」としか認識されず、ピーターパン的な、それでいて有り触れた、もういいや。前置きはもういいです。

ブログを移転するならばブログタイトルも変更するべきだ、という意味不明な思い込みに基づき、新ブログタイトルだけは大量に考えたので、それら日の目を見る事が無かったブログタイトルを書き出して、精神的なもやもやを解消したい。




「努力をせずに不平不満ばかり口にする人。」

新ブログ名の第一候補はこれです。今でも、もし移転するならば、ほぼこれで決定かな、というくらいに自信のあるタイトルです。そのマイナーバージョンとして、「努力をせずに不平不満ばかり口にしてはめそめそと女々しく泣いてばかりいる人」というものもありますが、冗長で、よくありません。やはり、「努力をせずに不平不満ばかり口にする人。」というブログ名は、正しく僕を体現している素晴らしいブログ名であり、「真性引き篭もり」という現ブログ名よりも正確に自らを表しているといえる、ほぼ完璧に近いブログ名。ブログ移転したいのではなく、ブログ名を「努力をせずに不平不満ばかり口にする人。」に変更したいだけだったのかもしれません。同ジャンルの候補は、「実質無職」や「天才カリスマアルファブロガー」など。




「回る東郷」

これが真性引き篭りhankakukeisuuの本気です。本気でブログ名を考えた結果がこれです。皆様ご存じのように、太平洋戦争当時は英語が敵国語として利用出来ず、野球をするにも「ストライク」を「良し」に言い換えていた、といった話は耳にした事があると思います。

それならば、かの東郷平八郎海軍大将の超必殺技である「東郷ターン」にしても、日本語に言い換えられていたに違いないだろう、と僕は考えたのであります。そして、その僕が推測した「東郷ターン」の日本語訳こそが、「回る東郷」であり、是非ともその、超必殺技感を自分のブログ名に取り入れたいと考えたのであります。コマンドはパンチボタン3つ同地押し。キックボタン3つ同地押しならば足下が無敵。レバー2回転で「祖国のために!」と叫ぶのも原作仕様。




「炎上予定」

どうせ炎上して精神的に果てしない苦痛を味わうであろう事が明らかならば、前もってブログタイトルを炎上予定、としておくことでダメージを低く抑える作戦。同様のものに「炎上計画」とか「糞ブログ」といったものもあるけれど、「炎上予定」というのが見た目も語感も綺麗でしっくり来る。




「生きているようで生きていない!生きているようで生きていない!生きているようで生きていないんです!」

「死んでいるようで死んでいない!死んでいるようで死んでいない!死んでいるようで死んでいないんです!」

生きているのか死んでいるのかすら自分でもよくわからない、まったく存在していないにも等しい半透明な人生を送っている僕を見事に言い表したフレーズ。元ネタはもちろんDAICHIの「ミスっているようでミスっていない!ミスっているようでミスっていない!ミスっているようでミスっていないんです!勝ったのは元住TOハート様」より。



「クソルブログ」
「ナギ無しブログ」
「どうだ、悔しいか。」
「超ガソでフィニッシュ」

同ジャンルの新ブログ名候補達。この中では唯一「どうだ、悔しいか。」だけが実践投入出来るレベル。そういう無念さみたいなものは常に僕の日常に付き纏っている。「ナギ無しブログ」も、「仏作って魂入れず」「でもブログってのは魂を入れずに口先だけの方が強い」みたいなナギ無しイメージが誰かに伝わるならば有りだけれど、伝わらないので駄目か。



「飯島秘書官、日本を語る。」
「織田有楽斎、喪中に服す。」
「関東甲信越、明日は曇り。」

ブログの表題の字面として、「漢字五文字」→「読点」→「漢字二文字、ひらがな一文字、漢字一文字、ひらがな一文字、句点」という流れがもっともかっこいいと思ったので、その流れに見合うものを幾つか考えてみたけれど、これくらいしか思い浮かばなかった。どれも、かなりお気に入り。

この漢字とひらがなのコンビネーションこそが、日本語のブログ名としては最も美しいと思う。同ジャンルの他の候補は、「織田有楽斎、半裸で踊る。」、「織田有楽斎、日本を語る。」、「織田有楽斎、相手は死ぬ。」など。




「梅田望夫のシリコンバレー通信」
「バラクオバマ暗殺計画」
「セックス」

逆に思いつく限りに痛いブログ名を付けるのも有りかな、と思って考えたのがこの3つ。いかにもリンクされなさそう、というメリットがある。でも、「それがcoolだ」と思ってそんなブログ名をつけたのではないか、と思われそうなのが精神的に辛い。

久しぶりにブログを投稿しようとすると日本語がふわふわしてしまい、不安定すぎて困る。「あの時ブログを移転していれば」と後悔し続けるような余生を送りたい。ブログ書くにはブログを書くしか無いんだよな……。裏技とか無いんだよ。しんどい。

明日から頑張る。



今日は寝る。

2009年2月15日日曜日

スパムメールだけが僕を人間扱いしてくれる。



俺のメールアドレスには粘着からの嫌がらせメールしか来ない。これだけブログを書いていないにも関わらず自己満足オナニーの糞メールだけは送られてくる。糸鋸の弓の部分を右目の下から左目の下へ通して取っ手をつかみ世界中をローマまで引きずり回しても気が治まらない胸くそ悪さが一生涯続く。そういった胸くその悪さ精神衛生の悪化をブログに書けば、僕の全てであり僕そのものであるブログまでもが胸くその悪いものになってしまう。それだけは避けたい、避けたい、と思って我慢するのも一つの手ではあろう。けれども、そうして避け続ければ、いや逃げ続ければ、僕のものであったはずの僕のブログは僕から乖離して行く。それがまた胸くそ悪い。それにしてもこの胸くその悪さはどうにもならん。プラスチック製のバットで150時間くらい殴られ続けて死ねと思うが、連中は殺しても死なずのうのうと生き続ける。俺の精神だけが破壊されことあるごとに思い出されては最悪な気分にさせてくれる。無駄に執念深い僕の事だから一生涯である。ああ、ブログは糞だと思うがブログが糞なわけではない。そういう人達が糞なだけだ。だが、そういう人達とそうではない人達の境界線はどこにある?14000のブログのコメントは大方そういう人達のコメントだろう。なんとかして連中を出来る限り凄惨な形で皆殺しには出来んだろうかと考えるが、僕は常に無力だ。せめてメールを送ってくるような連中だけでも殺せんか、とは思うがそれすらも叶わぬ。それに5人殺せば10人、10人殺せば1000人というように何を持っても先へ先へと行くだけで、胸くそ悪さは決して収まらず悪化するばかりだろう。何よりも僕はそんなことを望んではいない。欲してはいない。よくいじめられていた人間などに「見返してやりたいとは思わないのか」とか「悔しいとは思わないのか」などと発破を掛ける連中が居るが、あの理不尽さは筆舌に尽くしがたい。見返したいとも悔しいとも思わぬし、(自らが何かを成す事により)見下したいわけでも軽蔑し嘲笑いたいわけでもない。ただ安らかに生きたかった。安らかに生きたかった。「安らかに生きたかったけれど、それが叶わなかったので見返してやりたいです。」だとか、「安らかに生きたかったけれど、それが叶わなかったので幸せに生きたいです。」などと思う人間が居るとすれば、そいつは馬鹿か脳みそが悪い。せいぜい、ああ虐殺したいなあ、くらいの事しか思わぬ。Gmailの画面でなんとかして殺せんか、なんとかして殺せんか、と思ってみるも、なんとかしても殺せんだろうという事実は僕の精神を蝕むばかりだし、他の胸くそ悪い記憶を芋づる式に引き摺り出すばかりで、僕の人生の貴重な一日は解読不能な気分の悪さで埋め尽くされて消えて行く。今ではGmail notifierが新着表示を告げてくるだけで(数字でたとえるならば)7000兆5000億くらい胸くそ悪くなる。その新着メールがスパムフィルタを突き抜けて届いたスパムメールであった時だけは少し自分が人間であったかのような錯覚を覚えるが、7000兆5000億の前では焼け石に水だ。

2009年2月12日木曜日

「やったー頭痛が治まったー」って投稿しようと思ってたのに。



メタルギアソリッド的に言えば首から上をC4爆弾で吹き飛ばしたいくらいの頭痛がやっとの事で治まって、そのあまりの嬉しさに、この喜びをブログに記録しておかねば!と、久方ぶりに感じた止めることの出来ないブログ投稿への猛烈な衝動を当然ながら抑える事が出来ず、眠い目をこすって(頭痛で昼過ぎからほとんど眠れなかった)PCの電源を入れ、ウインドウズが立ち上がる間、「もう一生悪い事なんてせずにいい子として生きます」とか、「ビルゲイツがなんぼのもんじゃ。ビルゲイツがなんやっちゅうねん。」とか、「ブログは神様が僕に与えたもうた麦だ。麦を食え、麦を。」などと意味不明な、喜びのダンス、喜びという感情のダンスを頭の中で乱れ踊り、踊り乱れていたら見事に頭痛が復活してしまった。何がいけなかったんだ。空腹に耐えかねて生の大根を囓ったのが駄目だったのか、それとも水を飲んだのがいけなかったのか。吐瀉物が臭い。C4爆弾は見あたらないので、もう笑うしかない。にやけるしかない。

2009年2月9日月曜日



僕はまず謝らねばならない。あの栄光の真性引き篭もりhankakueisuuが、モールモースの騎兵隊についてついに何かを書いたのだと勝手に思い込み、勝手に信じては期待に胸を躍らせてこのページを開いたあなた方に謝らねばならない。僕にはもうそんなものについて何かを書くだけの体力が残っていない。生命力が、枯れかけているのだ。昨年の今頃と違い、体はピンピンしている。けれども、心はしおれてしまっている。もうあの日の面影はない。まるで僕の人生は巨大な悪によってねじ曲げられて倒れてしまった鉄塔のようにひしゃげて錆びている。たとえば事実このエントリーにしても、7について書き始める前に終わってしまった。