2007年11月29日木曜日

遊ぶのは多分、とても大変。



働いていない、勉強していない、何もしていない。そんな人が、たくさんいます。
そんな人達を指さして、「遊んでいる」という人が、これもまた、たくさんいます。

けれども、それは、間違いです。

働いていないからといって、遊んでいるわけではありません。
勉強していないからといって、遊んでいるわけではありません。
なにもしていないからといって、遊んでいるわけではありません。
そのような人達は、ただ、生きているだけなのであります。

遊ぶには、エナジーがいります。

遊んだことを、楽しかったと思うには様々なものが要ります。
本当に好きなことをして遊ぶには、体力も必要です。
好きなことをして遊ぶには、技術だって必要です。

やりたくない事をやっていないというだけで、遊んだつもりになっている人がいます。
したくない事をしていないというだけで、遊んだつもりになっている人がいます。
でも、それらの多くほとんどは、「遊んでいる」とは呼べないものです。
遊んでないのに遊んだつもりに、なってしまっているだけです。


テレビを見たり、ブログを見たり、お給金で季節のビールを買ってみたり。
そんなふうにして、遊んだつもりになっている人が大勢います。

無数に散らばるそういった、小さな小さな一息の山が、エナジーの芽を摘むのです。
楽しいことを楽しいと、思う力を奪ってゆきます。遊び力を殺すのです。

人のデフォルト状態は、「遊んでいる」ではなくて、「生きている」なのであります。
そんな当たり前のことを、呆然と生きながらブログに書いております。
死なない限り生きるのは簡単。遊ぶのは多分、とても大変。


雑記。



ウリエ(笑)サッキ(笑)岡田(笑)
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ミネキさんの認知度の低いこと低いこと。
まあ青龍氏とか、円丈師匠とか、パンダさんとかあの辺もそんな感じなんだろう。
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iknowの太極旗みたいな感じで矢印が回ってるボタンのキーボードショートカットがわからない。
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ネット英語的な立場から言うと、基本読むだけな上に、喋る分にはIMEの日本語→英単語で十分なので、綴りタイピングが不要すぎる。
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チーム戦で「何買えばいい?(武器か、防具か、アイテムか?)>all」みたいな事を言った際に、何度か「英語の教科書」みたいな答えを返す人がいて、他のチームメイトがその度にバカウケしてた。
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漢字も全然書けない。昔「走る」という漢字が何度書いても書いても「止る」になってしまい本当に困った。何かが足りないという事は理解していて、5~6回消しては書くを繰り返して辿り着いたのが「歩る」だった。
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forumに「今のGrubbyに足りない物はチャックノリス」って書いてる人がいて、壮絶なまでに完全ジャストヒットしてしまい、笑いが止まらなくなった。詳しくはここ


2007年11月25日日曜日

雑記。



三連休の重さに鬱屈しながら半日ブログを書いたら疲れたので寝たら24時間寝てしまって具合が悪く、「寝過ぎたな」と思って楽観視していたら風邪だった。三連休とか寝過ぎとかまったく関係無し。げんなり。冬の空気は嫌いじゃないけどこれがあるから冬は嫌だな。脳頂部への疲労感がうざったい。こういう時はゲームに限るってクロウルダウンロードしてみたけれど脳コンディションが悪くて作業をしている感覚すらない。とりあえず睡眠欲の回復待ちだけれど、時間が過ぎるのが遅すぎて困る。神々の末裔とか幽霊の経験値修正的感覚。


2007年11月20日火曜日

[ネタ]とか[釣り]とかってのは張本勲の[喝]みたいなもので



はてなブックマークのコメント欄でよく、ネタだネタだ、釣りだ釣りだ、って得意げに言っている人を見かけるけれど、あれは、まったくに、くだらないね。ああいうのは、張本の「喝」と同類。いったい何が喝なんだ。おまえの言う喝っていったいなんなんだ。

だって張本はあれでしょう。我が輩は猫であるとか読んでも「なーにが猫だ。猫が喋るか、かーーーーっっつ!!」とか言うでしょう。2000本安打は伊達じゃない。「いもむしぃ?あんたねえ、いくらロシアったって起きてそんなんなってたら困るでしょ喝だ喝かーーーーーーーっっつ!!」ってやる。それと同じ。

「[ネタ]猫が喋るかってのwww」とか「[釣り][これはひどい]吾輩は猫、ってどう考えても釣りでしょ・・・。釣りとしても低質。」とか喜んで書いてる。くだらねえ断定の快楽。「これは喝」と言い切ることに取り付かれた張本とまったく同じ脳内構造。いわゆるレッテラー効果。

いや、それ自体はまあ、そんなに取り立てて問題なことではない。断定するのが楽しければ断定してればいいじゃない、と思う。喝って言いたきゃ喝喝言ってりゃあいいし、ネタって言いたきゃあネタネタ言やあいいし、釣りって言いたきゃあ釣り釣り言うってりゃあいい。世話は無い。

しかし、好き勝手言うならその基準を示せ。あなたの言う釣りって何ですか?おまえの言うネタって何?というのがある。はっきり言って、ネタって何がネタなのか、釣りって何が釣りなのかまったくわからない。おまえの言うネタって何?あんたがネタだと思うエントリーを100個あげてみて、みたいな。

いやあ、なにを見たって己が気に入るか気に入らないかという、明確にして壮絶なまでにシンプルな基準(さらに場の空気まで読ん)で喝喝言いまくってる張本勲みたいに、理解できないものは全部[ネタ][ネタ]言ってネタ扱いしてまともに読まず、気にいらないものは全部[釣り][釣り]言って否認したいなら、まあそりゃあご自由にってとこだけど。


2007年11月19日月曜日

視界に入ったら蹴る。



視界に入ったら蹴る、と言ってきた人が居た。その件を通じて僕が学んだのは、腹を蹴られると痛いという事だけだった。腹を蹴られると痛い。体温が2度ほど上がる。頭に血が上る。心が憎しみで満たされる。肉体からくるのか精神からくるのかはわからないが呼吸が出来ない。痛みが引いても怨念は消えない。

特定の個人に対する怨念ではない。無関係の誰かを殺すことばかり夢に思い描いていた。蹴って殴って殺さねばならないと考えていた。それが本当に考えていた、と呼べるものなのかはわからない。ただ強烈に感じていたし思っていたし、そう考えていた。

視界に入るな、と言っても難しい。廊下の向こうの方から物凄い速度で走ってくる。はじめは逃げたがそれもすぐやめた。どうせ蹴られるのだ。気がつく前に背中から蹴られて足が曲がった。しばらくトイレでしゃがめなくなり、随分と苦労した。

視界に入れば蹴る、視界に入らなければ蹴らない、という考え方が合理的である事に気がついたのは最近のことだ。私達は全てのものを蹴ることは出来ない。どこまでを蹴り、どこからは蹴らないかの判断を、光に依存するというのは理に適っている。全てが闇に覆われればなにも蹴らなくて良いし、全てが光で満たされれば我々は全てを蹴らねばならない。

今生は、視界に入れば蹴られるということだ。あれから遠く離れた今もそれは変わらない。今では見える物は指と文だけ。蹴らねばならぬし蹴られるのだろう。蒸す。


2007年11月18日日曜日

顔写真をウェブサイトにアップロードしないでください。



インターネットサーフィンをしていると顔写真を出している人の文章やなんかに出合う事があって、「これは外道の顔だ」とか「これは詐欺師の顔だ」とか「これは善人面ぶった悪人の顔だ」とか、そういうふうな判断を脳の側が勝手に行ってしまう。

思い返してみればそれらオートメイション化されたレッテル張りのほとんどが、僕の個人的な過去の体験に基づいている。嫌な記憶、憎しみの記憶というのは強烈なもので、何を見ても目と鼻さえついていれば、どうしても、そういう体に染みついた嫌悪感と結びつけられてしまう。

それはおそらく、僕にだけ起こりうる話ではなくて、誰しも、人生史上最大の悪人にそっくりな顔をしている人の書いた文章やら存在やらに、なにやらどんよりとした憎しみというか、嫌悪感のようなものを抱かずには居られないだろう。

もちろん逆の場合もあるだろう。好意を抱いていた素晴らしい人にうりふたつだから、この人の言っていることは多分正しい、みたいな先入観。顔写真をウェブサイトにアップロードしている人というのは、そういったイメージング効果を狙っているのである。「こういう顔をした人は」「こういう人である」という人々の先入観を利用した戦略である。それ以前に、我等がワールドワイドウェブでは、「顔写真をウェブサイトにアップロードしている」という事実だけで人々はそれを無意識のうちにポジティブなポイントとして受け取る。

僕はそういった類のくだらない小手先も嫌いであるし、どんな顔であっても相手が人間というだけで敵愾心を抑えられないので、顔写真は出さないでください。俺は火星人です、とか俺はbotです、俺は世間では梅田望夫と呼ばれている新種の原核生物です、くらいの雰囲気でお願いします。私達みんなの一人一人のちょっとした努力でインターネットを非人間的で夢のある幸せ空間へと変えて行きましょう。


12雑記。



よい子は寝る時間
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よい子なのに眠れない
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目標:明日はちゃんと寝る
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なんとなく:明日も眠れそうにない
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本日は予定を変更して、緊急特番「のぼ・ぱっしゅんのぶらり途中下車の旅~Cologne編~」をお送りいたします。どうぞ、お楽しみください。
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まだ終わっていないけれど総括。

このファイナル最大のカルタシスは、xload(my読みは「ショルダー(ド)」(どこをどう読めばそうなるのかは知らないけれど、初見でショルダーと呼んでしまったので今更エックスロードとは読めない))のぬし超え。戦略面も含めて。進化しすぎた人が進化しなかった人に負ける、という最近よく見られる光景。それ以上にドイツ人がオフで結果を出したのって何時ぶりだろう。いいことがあるたびに椅子の上でぴょこぴょこ飛び跳ねるxloadの屈託の無さに悶絶。あの喜びを体で表す姿勢は積極的に見習いたいと思った。あとxload若いのにドイツ語上手いね。GGCで見てる人は負け組。ライブはtvに限る。(そもそもwc3動く環境が無いんだけれど、あってもtvがあるならそっち優先で見るべき。)

それに続くのが、tedlikeの4korean&4korean超え。というよりも不死鳥&名勝負製造器超え。二人合わせて2000万人民元という昨今の世界タイトル持ちプロのインフレを象徴する二人が、中国人の冴えない二人組に蹂躙される。粉々に粉砕とかそういうレベルではなく蹂躙。無惨。チャイニーズの皆様方がted imba、line imbaとも言いたくなるのもわかる。betは取る人を間違えた。sweetに関しては仕方がないにしろ、secerを確保していれば。
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のぼぱっしゅんおいしいなー。
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かなしいくらいにおもしろかった。出てる中で贔屓を3人あげるとすればlyn、hot、sojuRemindで、みんなおいしいところを持ってった感があって最高にもりあがってよかった。lynのmyニックネームはさらに迷走しそうな予感。韓国最後の大物→最後の大物→Mr period→ラストエンペラー→最後のorc→Focusに負けた人を最後のorcって呼ぶのには抵抗感がある(今ここ)。とりあえず"last man"で。にしても何が悲いって、自分が今期からアンチSKな事。なにがかなしゅうて贔屓のひとが一人もいない(それどころかきらいなひといる)we&mymにかたいれせにゃあならんのだろう。mouz.ToD fighting!!


ゴリラに勝てないウルトラマン



金で解決できるとは限らないが、金がないと解決出来ない問題というのは世の中にたくさんある。

たとえば、フットボールクラブなどは典型的なそれである。金がないと有望な選手を確保できない。カンテラで育てた若手はトップチームで活躍しだしたら即強奪。さらに有望な選手の場合はトップチームに上げる前に強奪。無い金の範囲でチームが結果を出しはじめれば、今度は監督が強奪。シーズン中にファンデラモスやクーマンを失ってはフットボールも糞も無い。選手が取れない。育てた選手を維持できない。結果が出れば監督が流出。お金がないとはじまらない。もちろん、言うまでもなくお金があっても駄目な物は駄目。ベルディとかインターミラノとか。

他では、アニメーションのクオリティなどもその1つだろう。アニメーションは動くのが基本であるはずなのに、日本のアニメは動かないのが基本である。ちょっとかくかく動いただけでやれぬるぬるだ、やれ神作画だと騒がれる。もちろん、全てがそうなわけではない。ジプリアニメはよく動く。そしてよく稼ぐ。

ところが、日本の動かぬアニメが世界で人気だと言う。聖闘士星矢、ドラゴンボール、セーラームーン、くれしん、ポケモン、犬夜叉、NARUTOと、いろんな国で稼いでいるようだ。オープニングとエンディング、一話3分しか動かないウルトラマン状態の日の丸紙芝居になぜそのような人気が集まるのか。

それは、単純な話で、人気があるのはアニメではない。原作である。原作に人気があるだけなのである。我が国では原作漫画はジャンクフードより安い価格で手に入る。しかし海外においてはそうではない。既にアニメ化された回の単行本がやっとこさ翻訳されたと思ったら、我が国の3倍、あるいは4倍の値段で売られる。

同じ物がアニメであれば無料である。テレビをつければやってくる。あるいは、ファンサブの名の元で"読める"。その利便性、即ち本来値札がついて売られているだけのクオリティを持つ原作が無料で手軽に手に入るが故に、日の丸アニメは海外でも快進撃を続けているのである。

それ、即ち漫画作品のアニメ化は、漫画家にとっても利益をもたらす。故に、それら「原作漫画のウルトラマンアニメ化」は、有る意味では正当化する事が出来る。しかし、である。それこそが問題である。

それら原作漫画をテレビジョンに起こしただけの紙芝居、所謂ウルトラマンアニメは、貧困層あるいはワーキングプアと呼ばれるような過酷な労働を強いられているアニメを職業とする下層民によって支えられている。将来に対する夢も希望も持てない人達の生活を踏みにじりながら作られている。

そんな産業に、未来などあるはずがない。彼らは「原作アニメをテレビジョンにする」という単純労働者であり、文化産業従事者でもなければ、芸術産業従事者でもない。それらの作業を行っているのは原作の漫画家である。現在の貧相な資金力で行われているアニメ化は、原作をテレビジョンに落とし込むだけの単純労働である。

一方の米国は「原作」というものをどのように処理しているのか。それは、ハリウッドを見ればわかる。スパイダーマン、エックスマン、トゥームレイダー、ハリーポッター。我が国であれば「アニメ化」されるであろうものが、片っ端から「映画化」され、アジア、中東、中南米、世界中の市場へと当たり前のように飛んで行き、イランのような「悪の枢軸」にまで浸透する。それだけではない。トランスフォーマー、バイオハザード、ドラゴンボール。

もちろん、一概にどちらが優れている、と言うことは難しい。30分12話のアニメ化と、2時間1本の映画化の、どちがより原作の蹂躙であるか、というのもまた、難しい問題である。ただ、1つだけ言えるのは、我が国の「原作動画化産業」は米国の「原作動画化産業」に比べて、はるかに小さな規模であり、また産業としての健全性も無いという事である。

スピルバーグがジュラシックパークで小説をコンピューターグラフィックにした時、「実写では不可能なこと」が映画の制約となっていた時代の終わりが始まり、今や完全に終わってしまった。(ジュラシックパークは"ウルトラマンアニメ"だったが、今やその制約は失われ、CGが3分で引っ込むことは無くなった。)

2007年において、小説やコミックの映画化を妨げているものは、「映像に対するイマジネーション」という、監督や技術スタッフの才能だけである。即ち、「紙芝居ではないアニメ化」も、「(模型劇ではない)映画化」も、同じ土俵に立っているのである。

言うまでもなく、そのステージにおいて肝心なものはボスの才能と資金力である。スピルバーグは低予算で映画を作り上げる監督として有名であるが、僅か2時間の映画一本に投じる費用は、我が国の原作動画化産業が30分12本に投じる費用よりも遙かに高い。労働者の給与水準も天と地の差がある。無論のこと、収益にはそれ以上の差がある。原作人気に頼るばかりの日の丸アニメの未来は暗い。


2007年11月16日金曜日

富くじを買う金も無いような貧民は我が国には存在しません。



富くじを当てたのが富裕層。
富くじを買わないのがインテリ。
富くじを買うのが貧困層。
富くじを買う金も無いような貧民は我が国には存在しません。


2007年11月15日木曜日

ハンバーグステーキメーカー



「fo」と書いたエントリーに対して「いいえ、それは違います。Oden.No_Gu.No_Nakade.Suki_Na(Shita_Goshirae(Syokuzai))は配列Fuyu.Ni_Naruto.Tabetaku_Naru(Tabe_Rareru(Mono))の中に含まれていますよ。」みたいなコメントが付いた際の萎えをリカバリーする方法を暗中模索しているのだけれどまあ考えようによっちゃあ誰が悪いわけでもないし未だ達せず。いやそれそのまんまだから。「Adaか!」みたいな。知らないけど。しかもそのコメントには「良く言った!」とか「そうだそうだ!その通し!」みたいなはてなスターがずらーっと並んでたりしたりするともう牛肉と豚肉を半分半分の割合でまな板の上に並べてついでに皮を剥いた偽淡路産のたまねぎもまな板の上に並べて、シスプリでもシエスタでも無いなんとか言うスパイスを適量振り掛けて、腹の底から「ウゃぁぉーーーーおおおーーーぉぉぉーー」と、地底魔神の唸り声みたいなの放りだしながら、両手に持ったマッコウクジラ型の包丁を1時間半くらい交互に振り下ろし続けたくなるね。そういう時に限って決まって豚肉切らしてるからしないけど。パン粉を入れるのは素人レイディアンドシルバーガンは素。


ピアノ最適化シューティングゲーム最適化。



ピアノは最適化されていないと思う。

Dvorak配列のようにピアノの鍵盤も最適化されるべきだと思う。たとえば、レのシャープとか、全然使われていない。右手の人差し指という、もっとも酷使に耐えうる最も力強い指の、もっとも打鍵しやすい位置に、まったく人気のないキーが配置されているピアノという楽器は、明らかな欠陥商品である。あんな打ちやすい位置に、レのシャープが配置されているというのは、もう、間違いである。大きな間違いである。他の、もっと、よく使うキーが配置されるべきえだる。「やっぱりレのシャープだよなー」とか、言っている人を、僕は未だ見たことがない。ミのフラットより人気がない。あの位置にはたとえば、ラとか、ソとか、そういった感じの、よく使われる音が配置されるべきなのである。

だいたい、ピアノというのは、古い。いちいち、丁寧に、その場その場で叩かねばならないキーを探し出して、しかも複数同時に叩かねばならない、というのはもう間違いである。ピアノの鍵盤を一番左の端から準に一つ一つ右端まで一本指で叩いていくと、JSバッハになるとか、そういうふうにならねばならない。それが、企業努力と言うものである。音楽は大衆のものでなくてはならない。




同じようにシューティングゲームも最適化されねばならない。なぜならばシューティングゲームは大衆のものでなければならないからだ。だいたい、シューティングゲームというものは、もう駄目なのだ。シューティングとか言いながら、近頃のシューティングゲームときたら避けてばっかりではないか。しかもその避けるという動作を左手に割り振っている。

あのね、まず、配列の基本から言いましょう。人間というのは、右利きの方が多い。即ち、右手の方が器用だ。だから、右手に複雑な動作を割り振らねばならない。たとえば、避けるという動作は、微妙で複雑なのだから、それは右手に割り振るべきなのである。

つまり、たとえばですよ。右手のボタン。まあ、Aボタンでも○ボタンでも、なんでもよいのですが、右手のボタンを押すだけで弾を避けねばならない。「当たる!」と思った時に、もっとも押しやすいボタンを押させる。これが最適化です。企業努力というものです。




とか考えていたら、右手に避けるキーを割り振っているシューティングゲームが既にあった。斑鳩。あれは、よくよく考えたら、右手に避けるという動作を割り振っている。しかも、ただ避けるのではない。避け攻撃である。ドンガバチョだかドスサントスだかが言っていた、「回避は最大の防御」を体現している。

しかし、あれだって、完璧ではない。なんか、左手で動かしたりしなければならない。ああいう、余計な動作が、初心者を排除して、シューティングゲームというジャンルを殺して行くのである。だからたとえば、もう、自機の位置は固定にして、動けなくして、上から弾が降ってくると、その弾の色に対応した斑鳩ボタン(仮称)で避け攻撃にする。斑鳩ボタンをジャストなタイミングで押せばGREAT!とかGOOD!とか表示したりして。あと、怒首領蜂みたいなコンボシステムも入れよう。連続でGREAT取り続けたらコンボ数表示して点数ばりばり上げるの。発売元は伝説の横シューグラディウスを世に送り出したコナミあたりで。これは流行るね絶対流行る。この唇を賭けたっていいね。


2007年11月14日水曜日

過去ログはブロガーを縛り付けるための鎖ではない。



ブログのコメント欄でコメンテーターが得意げに、ググった過去ログ引っ張り出して「あれれ、前に言っていたことと違いますね」などとにやけながら嬉しそうにはしゃいでるのを見る度に、どんよりと沈んだ気分になってしまう。
























「過去ログは何の為に存在しているのか?」
とうい問いに対する回答は、単純にして明確である。

過去ログは何が為にも存在しない。

過去ログとは事象である。かつて未来と呼ばれた物の残骸である。








過去ログがまだ生きていた頃。

即ち、過去ログが意志と未来であった頃。あの頃、過去ログは確かなる存在意義を持っていた。なぜならば、その頃はまだ、過去ログは意志と未来だったからである。今は過去ログと呼ばれている物が、ブログになってインターネットに放たれるよりもずっと昔。誰かの頭の中で、止まる事なく飛び交っていた頃。



当時過去ログは未来であった。

あの日過去ログは意志であった。けれども、それがインターネットに放たれた時にはもう、過去ログは未来ではなくなっており、意志でもなくなっていた。いや、それ以前。僕らがブログの投稿画面に辿り着きマウスカーソルをエディットボックスに置いたその時にはもう、過去ログは過去ログではなくなっていた。既に真っ赤に酸化していた。



肯定的に表記するなら、人は変わる事が出来る。

否定的に表現するなら、人は変わらずにはいられない。けれども、人が変化するということは、良いことでも、悪いことでもない。ただ、明確な事実として、人は変わるのである。変わりゆくものなのである。有史以来、不変であった人間は、ただの一人も存在しない。即ち、人は変わるが故に人であると言える。もしも人が変わらなくなったら、もうそれは人ではない。




「過去ログは、人に非ず」

これは、僕が昨日発見した驚くべき事実である。過去ログは、人ではないのだ。何故ならば、人は変わるものであるのに対して、過去ログは不変だからである。これは、明確な証拠である。何者も反ずる事の出来ないだけの、鋼鉄の根拠である。不動の事実である。過去ログは人ではない。そして、その事実は同時に、人は過去ログではないという事をも意味する。



全てが誤りだったのだ。

過去ログを人であるかのように扱っていたその前提こそが問題だったのである。過去ログは人ではないのだから、過去ログを人として扱ってはならないし、同じように人は過去ログではないのだから、人を過去ログとして扱ってはいけない。

「変わるもの」である人間と、「変わらぬもの」である過去ログは、決して同じではいられないものなんどえある。過去ログはそのまま動かずに止まるけれど、人はその場に止まる事は出来ない。みるみるうちに両者は離れて行くのである。それが目視可能な次元で生じるか、目視不可能な次元で生じるかは別として。どちらにせよ、過去ログと人とは、お互いがどんなに似た背格好をしていようと、気がついた時には、まったくの別物になっているのだ。



変わること。

それは、良いことでも、悪いことでもない。「変わらずにいようとあらゆる手を尽くしている人」ですら、物凄いスピードで変わり続けている。六百分の一秒の速度でオートマティックに連続でシャッターを切り続けても、その変化を正確に捉える事は出来ない。1フレームの間に、ワインの入ったグラスは風に揺れる黄緑色のカーテンに、山椒の若葉は飾り時計に、提灯は天狗に変わり、そしてまた、さらに別の物へと、変化してゆく。

問題は、どのように変わるかである。人は変わるのである。人は変われるのである。もちろん、なりたいようになれるわけではない。変わりたいように変われるわけではない。制御出来る部分もあれば、制御できない部分もある。

その制御出来る部分を少しでも多くする為に、過去ログは存在するのである。過去ログは変わらない。どこまで行っても決して変わらない。即ち私達は自分が何者であったかを思い出したいとき、わたくしという生き物がどのように変化したのかを知りたいとき、過去ログを読めばよいのである。それは自分のブログでもよいし、見ず知らずの人のブログでもよい。

そこには、一人の人間が、どのように変化し、どのような推移をたどってどのような変貌を遂げてきたかが表れる。一人の人間が、何を思い、何を考え、何を書いたかが表れる。そして、そこから何かを学び取り、自らの未来を変えることが出来る。明日の自分を変えることが出来る。正確に書き示すならば、「どんなふうに変わってゆくのか」を考えることが出来る。そのようにして、考えて、未来に対する責任を果たすことが出来る。少なくとも僕はそのつもりで書いている。わたくしの打鍵の1つ1つが見知らぬ誰かの未来の礎となるべくそれを願って書き続けている。





責任とは過去に縛られる事ではない。
理想とする未来に対し忠節を誓う事である。













即ち、僕らは過去ログなんてものに一切の責任を持つ必要はない。
ただ、未だ訪れぬまだ見ぬ未来に対してのみ、忠義を果たせばよいのである。

よりよい世界を。
よりよい明日を。
よりよいさらなる過去ログを。

..WE、NEED MORE。より多くの過去が可視化された世界を。


取扱説明書なんかどうでもいいだよどうせそんなもの読まねーんだから。



取扱説明書なんてどうでもいいから値札を見せろ値札を。おまえいくらなんだよ。ピーチクパーチクうるせえな。こっちは一発やれりゃあ山羊でも烏賊でも満足なわけ。理系だ文系だってしょんべんくせえガキがあほか。買うたるさかい値札見せえ値札。


2007年11月13日火曜日

愛は血肉に返る。



「ここは、悲しむところなんだろう」と理解できるところで悲しくなるのは、思考と感情の一致なんだろうか。それとも、思考と感情の不一致なんだろうか。

悲しむところで悲しくなるのは、一見すると正しいことのように思える。けれども、ほんとうに悲しいときは、「ここは、悲しむところなんだろう」なんてことを思ったりはしないんじゃないかな、と思う。そんな余裕すらなくて、どうして悲しいのかわからないけれど、とにかく悲しい。ほんとうの悲しみというものは、そういうものなんだと思う。

これまで、誰にも増して、平坦な人生を歩んできた僕だけれど、怒りのようなもので、一人震えが止まらなくなったこともあれば、悲しみのようなもので、一人涙が止まらなくなったこともあった。そんなふうにして、図体ばかり大きくなった。あの怒りはどこへ行っちゃったんだろう。あの悲しみは今どこにあるんだろう。

インターネットの向こうでは毎日何かが生まれ、何かが花開いてゆく。一日、一日と、過ぎる度に、僕は重要ではなくなっていく。自らについて考える時、こんな僕にだって、誰かに心から愛されていた頃があったのではないだろうか、という疑念こそがもっともやっかいで、もっとも手強い。もう誰も、僕のことなんて覚えていない。だって僕自身ですらそうなんだから。

眠れなくて、眠れなくて、血管が甲羅のようになって横になってみるのだけれど、5分と持たず、糸の切れたマリオネットのように飛び起きては、PCの電源を入れようとする自分を、必死になって押さえつける。インターネットには何もないから。

みんな血肉になっていくんだ。この夜の虚しさも。そうやって、怒りも、悲しみも、寂しさも、思いすらも、感じなくなる。でも、消えたわけじゃない。全部血肉になるんだ。僕を形作るんだ。悪いように、悪いように。


情熱時間、自由時間。



学徒にとって、「自由時間」というものが往々にして自由な時間でないのは、どうしてなのだろう。ある者は自由であるはずの「自由時間」から、なんとかして逃れようと逃げ場を探してはそこへと駆け込み、ある者は自由時間が来る度に、心を屈折させるに十分な苦痛を諦めながら受け容れる。その一方で、彼らは自由時間の対極に位置する「不自由時間」に対しては、そのような恐れを抱きはしない。

自由時間の到来を告げる鐘の音が、沈痛さの到来を意味するのとは対照的に、不自由時間の到来を告げる鐘の音は、沈痛さからの開放を意味する。皮肉にも、そういった一部の学徒にとっては不自由こそが開放を意味し、自由こそが拘束を意味する。

もしも彼らの何れかが「不自由より逃げねばならぬ。」と考えたとき、その逃げねばならぬ不自由とは「不自由時間」ではなく「自由時間」である。人はなぜ、自由から、逃げねばならないのか。なぜ、自由は時として私達に牙をむいて襲いかかるのだろうか。なぜ、不自由は時に救い主となり、私達の前に姿を現すのだろうか。
















ある者は考えた。
「不自由は不自由によって作られる。」

自由時間が自由を意味せず、不自由を意味するのは、「自由時間」と銘打たれたそれらの時間は、真に自由な時間ではなく、不自由な者(国家、啓蒙主義、資本家、法律家、教職者ら)によって作られ、彼らの都合により「自由」と名付けられた時間即ち見せかけの自由であり、それら第三者による偽りの自由の押しつけ、即ち不自由の押しつけの存在せぬ時間こそが、ほんとうの自由時間であり、ほんとうの自由である、と。




これは何よりも簡潔な、受け容れやすい仮説である。

この「不自由は不自由によって作られる。」という仮説を受け容れるならば、私達は不自由を見つめ、不自由と向き合い、不自由について考え、不自由を強く憎み、ただ不自由を朽ち汚く言い続けさえすればよい。私達に不自由をもたらすものもまた不自由であり、彼らに不自由をもたらす不自由なものを、そしてさらにその不自由に不自由をもたらしているものを、と、順繰りに糾弾を繰り返しながら上へ上へと上ってゆけばよい。

幸いにして、この世界は「人が一生涯憎み罵り続けられるだけの不自由さ」を所持している。「不自由は不自由によって作られる」という考えに基づいて眺めれば、世界は幾千幾億の不自由さが複雑に絡み合って成り立っている事に気がつかされる。

世界は釈迦のたなごころであり、釈迦もまた不自由な者によって不自由を強いられているのだ。この世界は全知全能なれど不自由な何者かによって作られたが故に全てが連鎖的に不自由の支配下にある、というのが、「不自由は不自由によって作られる。」という仮説なのである。




けれども、である。

この仮説には些かの問題点がある。それは、自由の不在である。「不自由は不自由によって作られる」という考え方は、自由というものの存在を、完全に無視している。不自由にばかり目をやり、瞳を凝らして一生懸命に見つめ、絶え間なく不自由を気にかけている一方で、自由というものについては、まるで存在せぬかのように扱い、触れずにやり過ごそうとしている。

しかし、その自由の不在こそが、「不自由は不自由によって作られる」という不自由仮説が人々が受け容れられやすい理由である。不自由仮説を信仰する人々にとっては、自由の不在こそが最大の長所であり、最大の武器なのである。なぜならば、不自由仮説を無意識に受け容れる人、あるいは願望を込めて信じ込む人は、自由とは無縁の生活を送っているからである。自由の存在せぬ、人生を過ごしているからである。そして、これからも、自らの人生に自由というものが登場する機会は一切存在しないと、どこかで気がついているからである。そういう人達にとって、自由に目を遣らず、ただ不自由のみを見つめた不自由仮説は何よりも受け容れやすく、そして信じるに易い仮説なのである。

僕が思うに、「不自由は不自由によって作られる」というこの仮説を最初に主張した誰かは、自由とは無縁の半生を歩んできたのだろう。それ故に、彼の人は不自由ばかりを気にし、不自由ばかりを見つめ、不自由についてのみ考え、「不自由は不自由によって作られる」と、ただ不自由を語るだけの結論を導き出したのだろう。不幸にも、自由という者を身近に感じられる機会を一度として持たなかったが故に。




彼の言うように、この世界は不自由によって完全に覆われているのだろうか。

全ての不自由を滅ぼさない限り、不自由によって不自由は際限なく作り続けられ、驚くべき増殖力で破れた不自由の被膜は復元され、全てを不自由で上書きしてしまうのだろうか。たった1つでも不自由というものが生き残っている限り、それは瞬く間に世界の全てを覆い尽くし、自由の存在する余地は一瞬にして失われてしまうのだろうか?

<全ての不自由を滅ぼす>

もしも「不自由は不自由によって作られる」と考える人達の頭の中に一分でも、「自由」というものに対する敬意が、畏怖が、あるいは渇望が存在していたならば、彼らは全ての不自由を憎み、全ての不自由を罵り、全ての不自由を否定し、全ての不自由に対して拳を振り上げ立ち向かわねばならない。いや、そうしていなければおかしいのである。全ての不自由に対して立ち上がっていなければおかしいのである。しかし、現実は違う。彼らはただ不自由仮説を信奉し、不自由を悪く言うばかりで、決して立ち上がろうとはしない。そこに不自由仮説派の限界がある。

人は食べねばならない。人は眠らねばならない。それは不自由そのものである。食物を口にするか、口にせぬかという選択肢は存在せず、誰もが、決まって食べねばならないし、同じように誰もが決まって眠らねばならない。それは正に「不自由」そのものである。人は人の中に潜むヒト、即ち人そのものによって、それらの行為を強いられるのである。硝酸アルミニウムを飲んで眠らずに生きる、という事は不可能である。

さらに、である。

人は皆死ぬ。死なない人はいない。生き続けるという選択肢は存在しない。人は皆生まれる。生まれない人はいない。生まれずにいるという選択肢は存在しない。それは強制である。不自由の押しつけである。不自由そのものである。食べねばならず、眠らねばならず、死なねばならず、そして生まれねばならない。この世界は不自由である。この世は不自由で満ちている。それどころか、今更僕が言うまでもなく、死すら自由を意味しはしない。あなた方は死して尚、連日連夜未来永劫百人の処女と床を共にし続けねばならないし、僕は僕で死してなお、無限に続く焼け石の荒野の上を焦げ付いてしまわぬようにとかけ続けねばならない。




特定の学徒にとって自由時間が不自由であるのは紛れもない事実である。けれども、その一方で、一部の学徒は自由時間を自由であると疑うことなく信じている。ある者にとって不自由の到来を告げるものであった鐘の音は、同時に他の者にとっては偉大なる自由が不自由に勝利した事を祝う空砲である。

私達は、自由時間を自由だと信じている者共を一人残らず引っ捕らえて縄をかけ、「おまえの信じる自由は自由なんかじゃないんだぜ」と、説かねばならないのだろうか?あなた方が自由だと思っているものは、何者かによって都合よくでっちあげられた名ばかりの、自由の威を借る不自由でしかなく、自由などではないのだという事を教育して回らねばならないのだろうか。

「不自由は不自由によって作られる」という信仰に基づき、その信仰を裏切らぬように、得物を持って彼らを追い回すことで「不自由によって作られた不自由」を演じ、彼らに荒縄を回し吊り下げることにより「不自由によって不自由が作られる事」を証明し続けねばならないのだろうか。

いや、それだけには収まらない。「不自由は不自由によって作られる」という仮説を支持する者は、たとえ僅かでも自由というものを感じ、その幸福を享受している人を見つけてしまったならば、棍棒で脅してその自由を捨て去らせ、こちら側へと取り込まねばならない。街の公園で自由を唱う人に運悪くばったり出くわしたならば、その口をガムテープで(あるいは唇で)塞ぎ黙らせ、二度と自由を叫ぼうなんて気を失わせてしまわねばならない。





そこに「不自由は不自由によって作られる」という不自由仮説の無理がある。

本来、不自由とは憎むべきものである。自由とは「あるべき姿を妨げぬもの」であり、不自由とは「あるべき姿を妨げるもの」である。不自由とは人間が人間たるを妨げるものであり、不自由とは排除されねばならないものである。

ところが、不自由仮説の元では、「万物のあるべき姿」は全て不自由であり、不自由である事は、ありのままの姿であることを意味する。その一方で「自由」とは、"自由時間"がそうであったように、何者かの都合によって強制的に改変された不自由の一形態に過ぎず、妨げられたあらざる姿であり、排除し滅ぼさねばならないものとして位置づけられてしまう。不自由仮説を受け容れたが最後、天と地が、入れ替わってしまうのである。

不自由仮説が幾らかの人々を納得させるだけの力を持つのは確かである。否定しようのない事実である。しかし、所詮、そこまでである。幾らかの人達を満足させるだけでおしまいである。「自由の不在」という不自由仮説の構造的欠陥は、その節々で軋みを上げて過ちの廃液を噴出させ、自重に耐えきれず崩壊してゆく。








「引きこもりが自由になるにはどうすればよいのか?」
あからさまに適当で投げやりな、切実さを欠く不誠実な問いである。








壁。

引きこもりを不自由たらしめているもの。それは、壁である。壁が存在するが故に、引きこもりは不自由である。壁により、引きこもりの行動は、大きく制約される。引きこもりは新聞を読むことが出来ず、そば屋でカレーうどんを啄むことも叶わず、マツモトキヨシでEVEA錠をロットで買い込む事も出来ぬのである。もしも壁が存在していなかったならば、熊井友理奈とセックスをするのも、本能寺で明智光秀を討つのも、ヨアンメルローのモウズワザップ入団を願うのも自由である。しかし、壁が存在するが故に、引きこもりにとって、それらは全て不可能である。

壁は、往々にして不自由をもたらす。受刑者を拘束し不自由たらしめているものは、法ではなく、壁である。ベルリンを二分していたものは米ソの対立ではなく、壁である。北米と中米とを遮っているものも、国境線ではなく、何者かによって意図的に作り上げられた城壁である。それらと同じように、壁こそが、引きこもりを不自由たらしめているのである。即ち、引きこもりを不自由から開放するのは、簡単な事である。ただ壁を排すればよい。

可視不可視を問わず、私達の世界は幾億もの壁で仕切られている。言葉の壁、年齢の壁、性別の壁、種の壁、細胞壁。そして、それら壁の多くは絶対である。絶対なものである。たとえば引きこもりを不自由たらしめている壁を、廃することは不可能である。ショベルカー付きブルドーザーのレバーを固く握りしめ、引きこもりを不自由たらしめている壁を破壊してみたところで、そんなもの、なんにもならない。この世界にはどんな重機を持ってしても打ち崩すことの出来ない壁が、地表から天空へと幾億も、鈴生りに成っているのである。




それでは、引きこもりは自由を手にすることは出来ないのだろうか?

この問いに対する回答もまた、簡潔にして単純である。自由を手に入れるのは簡単である。このように書くと、不自由仮説を支持するあなた方は驚かれるかもしれないが、自由を手に入れるのは簡単である。事実として、自由を手に入れるのは簡単なのである。この地球上において最も簡単なものの1つが、自由を手にする事である。
















不自由な引きこもり。
それは、かべのなかにいる引きこもりである。

自由な引きこもり。
それは、外出への情熱を手に入れた引きこもりである。
















偉大なる自由の前では、壁は無意味である。地球上に隙間無く乱立する100の地震でも微動だにせぬ合金製の壁は皆、自由の前では無力である。自由の前では壁は壁でなくなる。如何なる優れた壁であっても、自由の前ではその役目をちっとも果たせぬのである。どのような材質で出来た壁も、情熱による壁抜けを阻止する事は出来ないのである。

外出への情熱を手に入れた引きこもりの前では、壁は無力である。引きこもりが外出への情熱を手に入れた瞬間に、それまで引きこもりに対して一生の不自由を強いるかに見えた鉄壁が、なんの役目も果たせなくなる。引きこもりが外出への情熱を手に入れた瞬間に、不自由は過去の遺物と化す。そんなものが存在していたという事すら疑われる程に。




不自由なNEET。
それは、かべのなかにいるNEETである。

不自由な労働者。
それは、かべのなかにいる労働者である。

不自由な資本家。
それは、かべのなかにいる資本家である。

不自由なNEETと、不自由な労働者と、不自由は資本家は酷似している。不自由な宗教家も、不自由は政治家もそこに付け加えて良い。それだけではない。世の中の、全ての不自由は酷似している。いや、酷似ではない。それは酷似ではなく、「同じ」と書き記すべきなのである。全ての不自由は同じである。全ての不自由は同じ壁によって作られる。







自由なNEET。
それは、情熱を持つNEETである。

自由な労働者。
それは、情熱を持つ労働者である。

自由な資本家。
それは、情熱を持つ資本家である。

そして、また、全ての自由も酷似している。いや、酷似ではない。それは酷似ではなく、「同じ」と書き記すべきなのである。全ての自由は同じである。まったくの、同質である。即ち、自由とは、情熱である。情熱こそが、自由なのである。自由時間を告げる鐘は「自由時間への情熱」を所持する学徒にとっては自由を意味する。しかし「自由時間への情熱」を持たない学徒にとっては、不自由を意味するのだ。

そして、情熱を持たない人間が、他の人間に不自由を押しつけ、情熱の火床を湿らせてゆく。情熱が燃え上がりにくいように、燃え上がりにくいようにと、人間を変質させてゆく。それこそが、不自由仮説、即ち「不自由は不自由によって作られる」という仮説の正体である。不自由仮説の決定的な過ちは、自由の不在であると同時に、どのような不自由を押しつけられても、消えぬ火は消えぬという事である。どのような不自由を持ってしても、消せぬ炎は消せぬという事である。いったい、誰が、ネルソンマンデラの情熱の炎を消化しせめたろうか。出来ぬのである。例えばその者を撃ち殺したところで、消えぬ情熱は決して消えぬのである。如何なる不自由を持ってしても、消えない情熱は消せぬのである。




即ち、無職には自由な無職と不自由な無職が存在する。
それは、情熱を持つ無職と、情熱を持たぬ無職である。

同じく、労働者にも自由な労働者と不自由な労働者が存在する。
言うまでもなく、情熱を持つ労働者と、情熱を持たぬ労働者である。

全ての人は、情熱の有無によって自由なるものと不自由なものに分けられる。




職無きことは人から熱意を奪い去るに十分な事柄である。職がなければ、毛布も買えず、生牡蠣も食えぬ。髭を剃る気力すら失われぼうぼうに伸び、苛立ちから引き抜いて丸呑みしてみるも、咽に刺さってツクツクと痛むばかりで、眠れぬ夜を過ごす事もあるだろう。自らに誇りも持てぬやもしれぬし、自信も失われてゆくだろう。身近なものからの信頼も失うかもしれぬし、去る友もおろう。

同じように、労働もまた、人から熱意を奪い去るに十分な事柄である。朝食を取る間も無く蒸せ返る鉄の箱に押し込められ、雪隠にまで到り及ぶ就業規則に脳の髄まで支配され、太陽の篭もった干し草の上で眠ることも叶わず、恋文に返事を書く気力すら奪われる。自らに誇りを持てぬやもしれぬし、冗長化する給与明細とはうらはらに、渾力は失われてゆくだろう。家族と鍋をつつくゆとりもなければ、古き友と飲み交わす余裕もない。

しかし、である。職無きことも、万職も、情熱の前では無力である。








自由が力であるのと同じように、不自由とは力である。
であるとするならば、自由とは一体何なのだろうか。

結論から言おう。
自由とは、力である。
まだ見ぬものを手に入れようとする力である。

「まだ見ぬもの」とは、ある人にとっては日の丸印の宇宙ロケットであり、ある者にとってはワールドカップのトロフィーである。またあるものにとっては密かに思いを寄せているはてなダイアラーからのはてなブックマークであり、ある者にとっては心の底から笑える自分自身である。またある者にとっては愛する人とのインザベッドであり、ある者にとっては我が子の幸福な人生である。ある者にとってはカウンタックを衝動買い出来るだけの収入であり、ある者にとっては憎む相手の死であり、ある者にとっては贖罪である。

それらを手に入れる為の原動力こそが、自由である。自由とは与えられるものでもなければ、手に入れるものでもない。無論のこと、その手でつかみ取るものでもない。如何なる不自由に抗ってでも自由を手に入れたいという不滅にして無限の情熱。それこそが不滅にして無限の自由であり、不滅にして無限の自由である。即ち自由という力の神髄である。








では、不自由とは一体何なのだろうか。
僕はそれを知らないので、想像で書く事にする。








不自由仮説を唱えた人が、不自由仮説に基づき、不自由の名の元で世界を見渡したとき、この地球上に「自由」というものなど、まるで存在せぬかのように見えた。少なくとも、彼の目にはそう映った。ところが、情熱という自由の力の名の下で世界を見渡したらば逆に、「不自由」を見つけ出す事の方が難しい。いや、無論、小さな不自由はすぐに見つける事が出来る。いくつも、いくつも、目について、それらを片っ端から指してゆく事は容易い。しかし、どれも自由の力、即ち情熱というものを完全に妨げるには小さすぎる気がするのである。どれも、自由の前では役に立たない壁に過ぎぬように思えてならぬのである。








不自由とは、情熱の墓場である。自由の力で「まだ見ぬもの」を手に入れた人間が行き着く墓場である。同時に、不自由とは力である。人間の根幹に寄り添う、根源に位置する1つの偉大な力である。不自由とは、念願叶って手に入れた見果てぬ夢を、なんとしてでも守ろうとする力の成れの果てである。

私達が、まだ手に入れた物の全てを守らねば生きてゆけなかった時代。人がまだ弱く、おぼろげに息づいていた時代。その時代を、私達人類は「手に入れたものを守ろうとする力」で乗り切り、馬も空飛ぶ平成の世へと辿り着いた。全ての物は大切に貯蔵され、全ての知識は大切に口伝された。それらをし損じた文明は滅び、大地へと返っていった。

人間は群れで生活する生き物である。群れにおいて、与えられたものは全て守らねばならなかった。財産も、知識も、地位も、労役も、自由も、同じように守らねばならないものだった。時として自由ですら守らねば生きてゆけぬ程に、人類が弱く儚い時代は長く続いた。それ故に、もはや、そのように万物を保守して生き延びる必要の無くなったこの現代においても、私達は本能的にあらゆるものを守ろうとしてしまう。

地位、財産、労役、時として不自由すらも、頑なに守ろうとしてしまう。"わたくし"の不自由が何者かにとっての利益となるならば、その不自由が自らに大いに不利益をもたらすものであっても、懸命に守ろうとしてしまう。故に、私達は、自らの本能の原色の欲求に追い立てられ、与えられた不自由を守ろうとするのである。国家、組織、地位、義理、給金。

であるからといって、彼ら、即ちそれらの不自由を懸命必死に、自らを犠牲にしながら守り続けている人達に「捨てろ」と説くのは間違いである。過ちである。そのように説くことは「人の本能を捨てろ」と説くことであり、即ち「人間である事を捨てろ」と説くことと同義であり、それは汝死すべしの一語に等しい。




即ち、自由とは力であり、不自由とはその墓場である。
不自由とは、自由が石炭燃やして駆けずり目指す終着駅である。

だからと言って、全ての自由が不自由へと帰着する運命にある事を嘆く必要はまったく無い。何故ならば、情熱は永遠に滅びることの無い存在である、自由が不自由へと帰趨するよりも盛んに、絶え間なく火柱となって地表を突き破り爆ぜ続けるのである。人の滅びぬ限りずっと。
















ブログの投稿画面を開いたインターネットエクスプローラと眼球の間の虚空を睨め付けながらキーボードをなぞるその瞬間にのみ、情熱は僕に生まれて宿る。ならば肩背中頬に熱疼く後悔と懺悔の脈流より放り出された渾身の打鍵をもって今ここに自由を宣言する。全て不可能と知りながら。


2007年11月12日月曜日

糸井重里ゲームやろうぜ!



「糸井重里ゲームやろうぜ!」

  「なにそれ。」


「あのね、糸井重里しってる?」

  「知ってるよ。糸井重里ね。」


「あれさー、かっこいいじゃん。」

  「あー、そうだね。わかんないけど。」


「でさー、あれやんの。糸井重里ゲーム。」

  「どうやんの。それどうやんの?」


「あのね、俺が、糸井重里やるから。」

  「おまえ糸井重里か。わかった。おまえ重里ね。」


「じゃあ行くよ?」

  「いや、ちょっと待って。全然飲み込めない。」


「んぇ?」

  「全然飲み込めない。俺なにすりゃいいの?」










「あー、あのね。俺がね、糸井重里みたいに、コピー言うの。」

  「コピー?」


「『おとなも、こどもも、おねーさんも』みたいなやつ言うの。」

  「あー、なるほどね。糸井重里じゃん。」


「そーそー、糸井重里。」

  「あ、だから糸井重里ゲームなのか。」


「そうそうでぇー、おまえは適当にビデオゲーム。ビデオゲームわかる?」

  「わかるよ。ひらたく言えばテレビゲームね。」


「そうそう、それそれ、飲み込みいいねー。」

  「よく言われる。それよく言われる。」










「じゃあ行くよ?」

  「いや、ちょっと待って。全然飲み込めてない。」


「んぇ?」

  「おまえ重里で、俺は、あれ、なにすりゃいいの?」


「あーあんーま飲み込みよくないね。」

  「わかんなぃぜんぜん。」


「だから俺がー、キャッチコピー言うの。」
 
  「うん。」


「それでおまえはー、ビデオゲームのタイトル言うの。」

  「なんでもいいの?」


「うんなんでもいいよ。好きなやつ。」

  「わかったおっけ。了解飲み込んだ。」


「かっこよく言ってよ。CMのナレーターみたいな感じで。」

  「かっこよくね。まかせとけ俺そういうのうまい。」














「じゃあ行くよ?」

  「おっけレディ」

「いといしげさとゲーーーーーム!」

  「いぇいゲェーーーーーーーーーーーム!!」














「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ドラゴンクエスト8、空と海と大地と呪われし姫君。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「大神。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リッジレーサー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ゼルダの伝説トワイライトプリンセス。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「戦国無双。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「世界樹の迷宮。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「セガガガ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「鬼武者。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「バイオハザード、コードベロニカ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「源平討魔伝。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ハットリス。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「パックマン。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「通勤ヒトフデ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「式神の城。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「スーパーマリオサンシャイン。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ルドラの秘宝。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「グランディア。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ドラゴンクエストツー、悪霊の神々。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「マイトアンドマジック。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「カードヒーロー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「チョコボの不思議なダンジョン。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「かまいたちの夜。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「CAPCOM vs SNK」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「NAMCO vs CAPCOM」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「スパイ vs スパイ」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「巨乳会長 vs 触手番長」


「ーーー音声だけの。ーーーゲームはいらない。」

  「ハイロォゥー シュリー」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「パンツァードラグーン、ツヴァイ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファミコンウォーズDS」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「WIIスポーツ」


「おんせいだけの、ゲームはいらない。」

  「スーパーマリオギャラクシー☆」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「デッドオアアライブ乳バレー。」


「スネーク、聞いてくれ。音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ポリスノーツ。」


「スネーク、よく聞け。音声だけのゲームはいらない。」

  「アストロノーカ。」


「スネーク、スネェェェーク!!音声だけのゲームはいらない。」

  「ゼノサーガ。」


「私だスネーク、音声だけのゲームはいらない。」

  「スナッチャー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ストリートファイターリアルバトルオンフィルム」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「覇王ッ!」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「戦場の狼」


「オンセイダケノ、ゲームハイラナイ」

  「ジェットセットレディオ、フューチャー!」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「シャイニングフォース3。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ジョイメガファイトDS」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「みんなのゴルフ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「バーチャファイター。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「天外魔境ZERO」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「xi」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイアーエム ブレム 紋章の 謎。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「rogue」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「東京ナンパストリート」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「セカンドライフ。」


「おんせいだけの、げいむはいらない。」

  「ぽす☆たる」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「平安京エイリアン。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」
 
  「ランドストーカー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「レディストーカー」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「S.T.A.L.K.E.R.」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「資格試験DS」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「パロディウスだ!」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ギターヒーロー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「モータゥ、コンヴァーッ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ケルナグール。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「電車でGO。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「シベリア。」


「ONSHEI DAKENO GAME HA IRANAI」

  「DAIKATANA。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リンクの冒険。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「スーパーマリオRPG。]


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「黄金の太陽。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「幻想水滸伝。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「幻想水滸伝2。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「幻想水滸伝3。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「幻想水滸伝4。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー2。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー3。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー4。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー5。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー6。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー7。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー9。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー10。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー11。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジータクティクス。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファイナルファンタジー1、2。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「テイルズオブ、エターナル」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「まさしくんハイ!」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「どこでもいっしょ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「お料理DS」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「メタルギアソリッド」


「スネーク、私だ。音声だけのゲームはいらない。」

  「トランスフォーマーコンボイの謎。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「メタルギアソリッド2サンズオブリバティ。」


「スネーク、頼む、お願いだ。音声だけのゲームはいらない。

  「トランスポートタイクーン。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「メタルギアソリッド3スネークイーター。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ジュラシックパーク」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「シドマイヤーズパイレーツ。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ルナティックドーン第三の書。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「トルネコの不思議のダンジョン。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ルイイイイイイイイイイイウィイイイイイヂレイサアアアア!」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リッジレーサー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リッジレーサー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リッジレーサー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リッジレーサー。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「リッジレーサー・・・。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「グンペイ」


「音声だけの・THE・ゲームはいらない。」

  「ビヨンド・THE・ビヨンド。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ときめき、メモリアル。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ゴッドオブウォー2。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「マッデンNFL2008。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ファンタシースターオンライン。」


「ゥォンスゥェイダケノ ギュェームハイリャヌイ。」

  「ウェブリゥィ ウェクスツュェインド」


「オンセイダケノ ゲームハイラナイ」

  「レィディ アンド シルバーガン」


「おんせいだけ の ゲームはいらない」

  「ひぐらし の なくころに」


「イーエーゲームス!音声だけの、ゲームはいらない。」

  「ニードフォースピード、カーヴォン。チャレンジエブリディ」


「コナーミ。音声だけの、ゲームはいらない。」

  「エースコンバット、シックス、出た。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「街。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「伝説のオウガバトル。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「魔界村。」


「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「QUAKE4。」











「音声だけの、ゲームはいらない。」

  「あのさ、あのさちょっと待って。」


「んぇ?」

  「あのさ。」


「なに?」

  「これどうやったら勝ち、っていうか負けなの?」


「そりゃおまえが音声だけのゲームを言っちゃったら負けだよ。」

  「そんなゲームねえよ!」


2007年11月11日日曜日

ジャパニーズドリームとは就職を指し、アメリカンドリームとは退職を指す。



俺達のジュリームはそのどちらでもない。


2007年11月10日土曜日

母数が不明問題。



2007年のベストゲームです!とか言いながら嬉しそうに売れ筋の糞ゲー(売れ筋の糞ゲー)をアマゾンアソシエイトしている人を見ると、シマアジの刺身に味の素をふりかけて「今まで生きてきた中で一番おいしいです!」って喜んでいる人を見てしまったかのような閉口感を味あわされて途方に暮れる。


おまえの言う「ベスト」っていうのはどれとどれとどれの中でのベストなのだ。ノミネートを書けノミネートを。全部。1つ残らず。「断トツで面白かったです!」って、どれとどれとどれの中の断トツなのだ。他に遊んだソフトといえば資格検定DSだけ、とかならもはや何も言うまい。


2007年11月8日木曜日

国家の三大義務



昼間は暑さすら感じるほどに蒸し暖かかったにも関わらず、こうも寒くなってしまうと、国民の三大義務というものが何だったのかすら思い出せない。納税ッ、納税、、、納税。「なんだって金で解決」とか「まあええからとりあえず金よこせや」的な自分の脳味噌のアンサーが嫌だけれど、どうせ思い出せそうにないので、とりあえず納税、納税、納税でファイナルアンサー。




僕が「国民の義務」という「国民」と「義務」をという互い共に曖昧な単語を繋ぎ合わせただけの言葉を好きになれないのは、「では国家の三大義務とは何か」という問題が有耶無耶にされ、「国家は国家としての義務を果たしているのか?」という問いには誰も答えてくれないからだ。「おまえは国民の三大義務を果たしているか?」という問いには簡単に答えられる(あるいは果てしない言い逃れを繰り返す事は出来る。たとえばこのエントリーのように)のに対して、「我が国は国家の三大義務を果たしているか?」という問いは「善処しています」なんてつまんねー回答で全て処理されてしまうだろう。あるいは「某国よりかはマシである」とか「世界的に見れば」とか「先進国の中では下位に位置するとはいえ」的な。あー、想像しただけでも反吐が出るぜ(想像しなければ反吐なんて出ないのにね。)。




そもそも国家ってのはどこにあるのだ。我が国はどこにあるのだ。福田(ここで言う福田とは、フクダーダではなく福田康夫現総理を指す)と小沢の宴席の中か?国民の所在は一人一人、1億2000万全て記帳され突き止められているのに、国家の所在地は「とりあえず永田町って答えておけば」みたいな就職面接の赤本のような適当さの中にある。

事実上全ての日本国民は義務教育(あ、これ義務だ。)という強制の中で、義務を果たせ、義務を果たせと押しつけられているわけで、どうもその辺りに不健全さを感じるし、不愉快さを感じるし、欺瞞というものを感じてしまう。




はじめの課題に立ち返って無理矢理国民の三大義務というものを懸命に思い出す努力をしてみると、納税は確定として、あとは勤労と勤勉かなぁ。(言うまでもなく国民の三大義務を知りたいという気はさらさらないので調べる気など一切無し。そんなくだらない事について調べる暇があったら光点ずらしについて調べていた方が遙かに良い。)

という事で、たとえば国民の三大義務というものが「納税、勤労、勤勉」であったと仮定(用語的には労働/教育だろう)しても、やはり不健全だなあ。「銭や、銭。なにはともあれ銭よこせ」「働けこら。くーっけっけっけ」「ぼうやー。いいかーい、よーくお勉強しなよー(そして大きくなったらいっぱい働いていっぱい稼いでいっぱい銭よこすんだぜ、けーっけっけっけ)。」って、日本ってドラゴンクエスト5の悪役的国家なんだなあ。小物臭ここに極まれり。

実際の所「ただしい国民の三大義務」なんてのは存在しないのじゃないか。人間が当たり前のようにころんと生まれて当たり前のようにころんと死んでゆける場所としての、あるべき理想の国家が真に成り立ったならば、そこに義務なんて言葉は不要だろう。

今現在の日本という国が(即ち日本という国の国民の極一部の人達が自らの都合に基づいて)国民に対して一方的に押しつけている「国民の三大義務」は、国民の為に作られ、国民の為に存在しているのではなく、国家の為に作られ、国家の為に存在している、としか感じられないくだらないもので、嫌な気分だ。

たとえば「一日三食残さず食べる」「泣きそうな時はとりあえず笑え」「愛のあるセックス」とかのドラゴンクエスト2の悪役的な三大義務を国民に押しつけようと企む国家の方が遙かにマシな気がするなあ。さもなくば死を!みたいな感じでいきなりシドーが出てくんの。僕なんて命が幾つあっても足りない。ドラゴンクエスト2の悪役に対する認識が間違っている的な突っ込み所はさておき。


2007年11月6日火曜日

悪いエントリーを投稿する人、悪いエントリーを投稿せぬ人。



ときどき、本当にときどきだけれど、とても悪いエントリーが思い浮かぶ。





悪いエントリーは、とても悪いから、寝ている間に息吐く度に、いろんなものを飲み込んで、もこもこ、もこもこ、大きくなる。凄い速度で、ぐんぐんと。あっという間に、あとはタイピングをして投稿ボタンを押すだけ、という所にまで成長する。「出来ちゃった・・・」で、ある。

その、出来上がってしまった悪いエントリーを、投稿するべきか、投稿せぬべきかが問題である。悪いエントリーは、悪いからして、悪いエントリーを投稿する事は悪い。悪いエントリーはインターネットに対する害悪であり、悪いエントリーは世界に対する害悪である。

つまり、何も迷うことはない。悪いエントリーを消し去り削除し隠蔽し、心の中へと押しとどめ、闇に葬り去る事こそが正しい行いであり、インターネットを、そして世界を守り助ける正しい行為である。しかし、である。




悪を闇へと葬り去る事は、本当に正しいことなのだろうか。




悪とは、光の中で生まれ、闇の中で巨大に育つものである。もしも、世界の全てが光で包まれていたならば、悪というものは生まれこそすれ、決して大きく育ったりはせぬのである。

つまり、これは、仮説であるが、世界を正しさで塗りつぶしてしまおうという企みこそが悪を蔓延らせているのではないか。そして、世界から悪を排除し無き者にしてしまえという考えこそが悪なのではないか。

即ち、ブログから悪いエントリーを取り除こうという企てこそが悪そのものなのではないか。それこそがブログに対する裏切りなのではないか。思い返してみれば、ブログというものは、正しさで満ちあふれている。誰もが、自分の信じる正しさを、七人十色それぞれのやり方で、懇切丁寧にがなりたてている。

ブロガーという生き物は、自らのやましいところは闇に葬り隠蔽する一方で、好きなところには千光灯をこれでもかと照射し照らし出し、さらにはそれをイリュミネーションで飾り立て、インターネットを光で満ちあふれさせてゆく。




それこそが、<よくないこと>なのではないか。




僕には分からない。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。世の中で信じ行い続けられているとおり、悪を闇に葬り隠蔽し続けながら、良いエントリーを投稿し続ける事こそが正しい行いなのかもしれない。けれども、今は、とりあえず、僕にはそうは思えないので、生きゆる限り全力で、悪いエントリーを、これでもか、これでもかと、とっても悪く書きまくってゆこうと思った。俺は悪だぜ惚れるなよ、知らない誰かの一瞥の、冷たい吐息の熱視線が、僕を蒸散させるまで。空も月も折からの突風だってドゥーイービル。なんだってきっと悪いんだ。


Twitterの素晴らしさはBlogから合法的にコメント欄を取り除いたという一点に尽きる。



事実。ブログにはコメント欄があるが、Twitterにはコメント欄が無い。

ブログにおいてコメント欄ほど「あほらしい」ものはない。自慢げに揚げ足取りをはじめる者、突如として降臨する高知己説教屋、何かにつけていちゃもんをつけるもの、馬鹿丸出しの太鼓持ち、余所でやれとしか言いようのない自分語り。機能としてのブログのコメント欄はまったくの役立たずであり、不要品である。

しかし、Movable TypeやWordPress、あるいはfriendsterをはじめとするソーシャルブックマークサービスや、レンタルブログサービスによって世間に広まった、ブログにはエントリー毎にコメント欄が用意されるという「当たり前のこと」を覆すのは不可能である。

では、ブログにコメント欄は不要である、という認識を持つ人間の需要を喚起するにはどうすればよいか。その答えがTwitterの出した「これはBlogですか?」「いいえ、これはTwitterです。」という答えである。ブログではないのだから、コメント欄なんて無くても結構、という塩梅である。




Twitterの広まりが所謂ギークらから広がった、というのも然りである。

たとえばスティーブジョブスがブログを開設したならば、コメント欄は一瞬にしてゴミ共のパーティー会場になるだろう。そういった人達、つまり「他人のコメント意見というものをまったく必要としていない人達」にとって、Twitterは疑う余地の無い優れたツールであった。

Twitterにコメント欄は存在せず、Twitterのmyアカウントは純度100%自らの発言によってのみ埋め尽くされる。それは不可侵であり、糞の訳にもたたねえコメンテーターのつまんねえ文章によって汚される事は決してない。




コメント欄とは、つまり、「自らのページに他人が書き込める脆弱性」でしかなかった。たとえば、「コメントログイン制」にしても、「コメント認可制」にしても、「自らのページに他人が書き込めてしまう脆弱性」というコメント欄の根底はまったく揺るがなかった。

しかし、Twitterではもはやその心配はない。「自らのページに他人が書き込める脆弱性」は存在せず、自らのページ(twitter.com/ユーザーネーム)に書き込む事が出来るのは本人だけである。他人は一切書き込む事が出来ない。

その完璧なセキュリティ、己サイトの聖域化こそが、Twitter最大の長所であり、成功の根幹である。Twitterユーザーのホームページは一切汚される事なく存在し続けるのだ。土足で踏みにじられる事を運命づけられたblogとは対照的に。




もちろん、いくらジョブス(ここで言うジョブスは、仮想ユーザーとしてのジョブスであり、ジョブス本人を指すものではない。)であっても、コミニケーション機能は必要である。むしろ、選り好みしたコミニケーションが可能であるからこそ、階層としてのギークに受け入れられ、そこから下へと広がったのだろう。

しかし、コメントが付追されるのは「相手のページ」ではない。Twitterユーザーが書き込む事が出来るのは、あくまでも自らのページのみである。Twitterにおいてウェブページとは聖域であり、不可侵領域なのだ。そして、それこそが求められていたものなのである。

「自らのページは糞コメントで汚される事はなく、それでいて他人のコメントを受け付ける事が可能」それがTwitterのレボリューションである。空間を塀と空堀で囲い、垣根のあるワールドワイドウェブを取り戻したのである。

Twitterは、その成り立ちはどうあれど、事実として、現実として、ブログに嫌気が差した幾多のブログユーザーが願い望んだ「自らのページに他人が書き込めてしまえる脆弱性の排除」という夢を具現化させ、それを「Twitter」と名付ける事により、その一歩を踏みだしたのである。


2007年11月5日月曜日

雑記



昔のメールアドレスを覗いたら、DOTA allstarsの新バージョン出たからやりませんか?みたいな物凄い完成度のメールが来てた。要点が簡潔にシャキッ、シャキッと過不足無く書かれていて、あまりのビジネスメールっぽさに笑ってしまった。覚えていますか?ワタシです、ってそりゃあまあ、覚えていますよ、みたいな。

その人とは、dotaからDOTA allstarsに移り住んだ頃に一時期かなりmadに遊んでた。で、その人のよく使うスラング(いや、先程調べたらスラングでもなんでもなかったわけだけれど)の中で一番印象に残っているのが「buddy」で、僕は当時それを「豚共」と訳していた。「ブ」繋がり。だいたい意味は通っていたので、おそらくだいたい雰囲気的には合ってるだろうと思ったのだけれど、どうやら僅かばかり違ったようだ。

「おまえもbuddyだぜ」みたいな事言われて、「ああ、そうか。僕も豚か。」となんというか、無理矢理暴走族に組み込まれてしまったいじめられっ子みたいな感情に陥ってしまい、ちょっと心に壁を作ってしまったのを覚えているのだけれど、今にして思えばあの壁は、ちょっとした誤解から生まれた代物だったようだ。

で、その馬鹿丁寧な完成度が高すぎるあまりにもビジネスライクなメールに記載されていたURL(マイスペース)にアクセスしたら、カジノで400万£すった直後のマイケルオーウェンみたいな顔した身長2メートル弱のええ車持ってるええとこの大学生だった。このハイソサエティめ!みたいなムード。

えー、こんな人とdota allstarsやってたんー、みたいな白けムードが漂ってしまった。でもフェイスブックではなくてマイスペースって事は、こいつドキュンか!?みたいな意味のない分析をしてしまっている自分自身に激しく萎えた。

でも、その人が仲間内で話す時の口調とはあまりにも違う完成度の高い要点がきっちり書かれたメールで、気を遣わせてしまって悪いというのと同時に、この人はコミニケーション強者側に属する人で、仕事とか出来るタイプなんだろうなー、とか思って、悲しくなった。いや、物凄い自然体でそういう完璧なビジネスライクメールを書ける人間なのかもしれないけれど(とすればそれこそそっち側の人間という事でますますやるせない。)。

そもそもwarcraft3が動くパソコン無いしcd-keyも無いので、とりあえずメールは黙殺。ここ読んでたら、そういう事で、って読んでるわけないけど。
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一時間辺りのタイプ数を数えてわかったことは、親指シフトでもローマ字配列でも、一時間辺りの文字数にはほとんど変化が無いケースが多いという事。とくに投稿ボタンに近づけば近づくほど、日本語を作る能力がボトルネックになっている。それどころか日本語でなくても同じくらいの数字。一時間に1000字弱。一分間に15字ライン。

完全に出来上がった文章(段落)をタイピングしている時は50字/分に跳ね上がるのだけれど、エントリー全てが一語一句まで出来上がっているものを書くというのは月に1度かそのくらいしか無いので、現実的ではない。cpu換装したい。見るからに親指シフトな誤字脱字を見つけて妙な上気に囚われてしまったりするのは危険信号。
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過去ログの誤字を幾つか直した。なんか、頭痛が無い時にこういう事を行う、というのは悲しい物だけれど、さすがに「suck」を「sock」と誤記していたのはやばかった。あと、「伝説の空飛ぶアンデット」も「伝説の空飛ぶアンデッド」に直した。単語としてのアンデットには抵抗は無いのだけれど、元ネタは洋ゲーでスウェーデン人のニックネームとなれば、アンデットは誤記に等しい。


ヨァウヨシモモヘ運動



僕は日本語が、嫌いである。

なぜ日本語が嫌いになったかというと、我が国には、あまりにも日本語が反乱しすぎているからだ。もしも僕がスコットランドで育てば英語が嫌いになっていたかもしれないし、ドイツで育ておればドイツ語が嫌いであったやもしれぬ。しかし事実として、変えられぬ過去として、僕は日本で生まれ、日本で育ち、そして日本語が嫌いになった。

無論の事、日本語の全てが嫌いなわけではない。好きなところもある。学がないので、学術的にこのような箇所が好きである、と書き記せぬのは無念であるが、好きなところもたくさんある。

1書き手としての立場から言えば、一打一打のキーボードの打鍵を、1つ1つ大切に発音してくれる点は、大好きである。私は、私の指の叫びがそのまま誰かの魂即ちソウルに振動となって響き渡っている事を想像して、少し幸せな気持ちになる。

あるいは、読み手として(もちろん書き手としても)は、ひらがなの丸さ、カタカナの角張り、漢字の内包する多様性と字面としての重みのバランスなども、大好きである。日本語の変なTシャツや、変な日本語の入れ墨を、少しは理解出来る。日本語は、かっこいいのだ。

あいにく僕は凄まじいまでの悪筆で、「字を書く」という行為が日本語を汚しているような行為であるかのように感じられてしまい、字を書くという行為が昔から大嫌いであったし、これからもそうであろう。パーソナルコンピュータの時代が訪れていなければ、僕は死ぬまでこんなにも、日本語をこのように表記する事など無かっただろうと思う。偉大なるゲイツに感謝せねばならない。

具体的な語で言えば、「平家にあらずんば人にあらず」とか「五月はものみなあらたに」とか「さんよんさん」とか「秦の始皇帝」とかが好きである。




けれども、残念なことに、全てを合わせ見れば、僕は日本語が嫌いなのである。何故ならば、我が国は日本語をぞんざいに扱う輩で満ちあふれており、それらに触れ続けた結果、僕は無念にも日本語が嫌いになってしまったのである。

たとえば、我が国には運動会というイベントがある。そこにおいては、何者か(教師もしくは怪我で運動の出来ぬ生徒)が拡声器で、「がんばれがんばれ」「がんばれがんばれ」とけたたましく叫び立てる。もう一度言うが、拡声器で、である。この語が嫌いで、嫌いで、ならない。

なぜ頑張らねばならぬのか。なぜ頑張れと申すのか。はっきり申し上げて、必然性というものが存在しない。お国から、走れと命ぜられて、走るくらいは童にだって出来よう。しかし、頑張るか、頑張らぬか、というのは意志である。人の根幹である。

人間が、50年の人生で、全ての瞬間において頑張り続けられるわけではない。気力とは摩耗するリソースであり、頑張りとは枯渇するリソースである。その大切なものを、くだらない瞬間に放出せよと命ずる語が、抑揚もなく拡声器で(あるいは口に手を当てて)叫び続けられているのは、正しく異常である。




しかし、「がんばれ」という語にも、幾らか同情の余地がある。幾つかの局面において、我が国には、「がんばれ」を代用出来る語が存在しないのである。たとえば、先に述べた運動会であれば「走れ」で良いだろう。実際の所、まったく頑張らなくても実は走れるのである。

「がんばる」という行為が必要になる局面があるとすれば、それは走る際ではなく、走るための下準備の際である。かつて槍投げの世界王者が「あとは(槍を)置いてくるだけだ」と表現したように、真にがんばった人間にとっての舞台というものは、全てが始まる前に全てが終わっているのである。

つまり、どうして、このように、日本語が嫌いになってしまったかというと、相応しくない場で、相応しくない語が、これでもか、これでもか、と連呼され、叫ばれ、それを聞かされ読まされし続けてきたが故に、僕はもう、素直に日本語というものを受け取れなくなってしまっているのである。








英語圏のウェブサイトにおいて、「母国語で書き込むべきか」というのは、1つのちょっとした問題である。代表的な例を言えば、今で言うとYouTubeになろうか。ああいった場で、どのような言語で書き込むべきか、というのは幾つかの論争を生んだ。

そしてまぬけなことに、我が国においては、「英語のサイトなんだから英語で書き込め」といった脳味噌腐っている一派が一定の勝利を収めた。そして英文の体を成していない酷いコメントが日本人の手によって今も日々、量産され続けている。阿呆である。

つまり、端的に結論から言ってしまえば、何かを書こうとする時、どの言語を選択するべきか、というのは悩むような問題ではない、という事である。その人が、最も得意とする言語で書けばよいのである。それが日本語であれば日本語であるし、ブラジル語であればブラジル語でよい。

どうせ、どの言語を用いても、それが完全な形で伝わる可能性、というのは0である。どうせ言葉は無力なのだから、発言者は自身にとって最も効率的な言語を用いて、最善を尽くせばよいのである。それを読む努力を行うかどうか、というのは明日明明後日の問題である。([明明後日]を[しあさって]と読むのは、いくらなんでも酷いと思う。)




先日、外国のブログを見ていて、不覚にも疎外感と一体感を動じに味わい、奇妙な感傷的な気分に陥った。そのブログには、「ヨァウヨ」という語と、「シモモヘ」という語が含まれたコメントがあちらこちらに頻出し、圧倒的な存在感を持って、そのエントリーのコメント欄を支配していたのである。

それは、なんてことのないシフトJISエンコードに強く依存した文字化けであり、その文字列をヨァウヨ、シモモヘ、と読んでいるのは世界中で僕くらいだったのかもしれない。現地の人間のPCから見れば、文字と認識できない奇妙な記号に過ぎないのである。

しかし、その、彼ら外国人にとっては音読どころか目視すら不可能な語が、僕の目にはヨァウヨ、シモモヘと映り、長い英文で渾身を持って語られるコメントの合間合間に、途切れる事なく表れるヨァウヨとシモモヘは、刻一刻と存在感を増し、頭の中でリフレインされ続ける。

コメント欄を読み進めれば、読み進める程に、ヨァウヨシモモヘが頻出し、その響きが僕の魂即ちソウルへと流れ込んでいく。そして僕は不覚にも涙した。僕は多分に漏れず中国人というものが大嫌いで、自分の好きなチームに所属する選手を例外として、中国人を応援した事など、ただの一度も無い。

にも、かかわらずである。

中国人が中国語で投稿したコメントが、シフトJISエンコードによって「ヨァウヨ」「シモモヘ」へと化け、僕の心と脳みそは、「ヨァウヨ」「シモモヘ」一色に染まる。誰一人として「ヨァウヨ」とも「シモモヘ」とも書き込んでいないにも関わらずである。

そして僕は、全ての言語圏に属する全ての人が「ヨァウヨ」「シモモヘ」を共有している事までを強く確信するに至ってしまい、その一体感と疎外感に不覚にも心を揺さぶられてしまった。




その中で1つ関心したのは、中国語で書き込みながら、申し訳程度に英語を添える、という中国人の姿勢である。人によってかなりの差はあり、旧ソ圏や独仏圏のものに引けを取らない英文もあれば、定型文のコピー&ペーストのものまで、内容は様々なのだけれど、「ヨァウヨ」「シモモヘ」に添えられたそれらの英文により、僕は「ヨァウヨ」「シモモヘ」を共有出来たのである。

多言語空間におけるネットコメントはかくあるべきだと僕は考える。つまり、最も得意とする言語で文章を書き、(多くの場合は)英語を添える、というのが最も適切だろう。

インターネットは無惨なもので、現実としてコメント欄は管理者との1対1のコミニケーションの場としては機能しないものであるから、(1つのエントリーに対して世界中から700ものコメントがつけられるコメント欄に対してそのような機能を追い求めてもそれは徒労にしかならない。)コメント欄を開いた人間(youtubeであれば動画投稿者、ブログであればエントリー投稿者)が可読不可能な言語であろうと、おかまいなしに、自らの最も得意とする言語で書き込み、インターネット公用語たる英語、あるいは現地語を可能なレベル添える、というのが最も正しい多国籍コメンテーターのあり方だと思う。

わたくしの話で言えば、以前韓国の人が日本語で書き込んでくれたけれど、むしろ韓国語で良いのに、と思った。無理をして日本語で書き込むよりは、最も得意とする言語で書きまくってくれた方が、時間あたりの生産性は遙かに上で、質量ともに優れたコメントを書くことが可能であったろう事は、疑う余地は無いからである。




話を「ヨァウヨ」「シモモヘ」に戻してこのエントリーを終わりにしようと思う。結論から言ってしまえば、今、僕は、この「ヨァウヨ」と「シモモヘ」という2つの語を、我が国に、いや世界へと広めねばなぬという使命感に駆られているのである。

たとえば、僕が今、我が国の為に、そして世界の為に出来る事が、もしも仮に存在しているとすれば、それは「ヨァウヨ」「シモモヘ」という、僕が外人のブログのコメント欄で出合った2つの語を、ブログのエントリーにて、インターネットへと流布せしめんとする事だけである。





そこで、なぜ、今、我が国で、「ヨァウヨ」なのか、「シモモヘ」なのか。という、最も肝心な点について書き記しておきたい。日本語には、「ポジティブな単語」というのが不足している。人を馬鹿にし、嘲笑い、おちょくり、挫き、罵り、痛打する、負の単語は有り余っている。これでもかとばかりに、世の中に溢れている。その一方で、正の単語、即ち前向きな単語、ポジティブな単語、というものは、完全に不足している。

たとえば、「がんばれ」はその最たるものだ。本来ならば「がんばる」というのは各自己が独自の判断にて行う、とっておきの聖なるものなのに、その命令形としての「がんばれ」が、氾濫し、不適切な場で用いられ、連呼され続けている。

それは、「他に適切な語が存在しない」という日本語の不完全さに起因するものである。つまり、僕は、この「ヨァウヨ」「シモモヘ」を、単語不在の日本語のニッチを埋める救世主として皆様に広く告知、流布したいのである。

「ヨァウヨ」「シモモヘ」という、コンピューターという魔法の箱が生み出した2つの語は、「軽快さ」と「極限のポジティブさ」と「全肯定」の3つを統合した語である。(故に僕はそのブログのコメント欄が遠く離れた異国の人間によって発された、ヨァウヨとシモモヘで埋め尽くされているのを見て、不覚にも心を動かされてしまったのである。)

「ヨァウヨ」「シモモヘ」は、元となった中国語とは無関係である。あくまでも、この2語は、未来の魔法のランプたるコンピューターにより、作られ、生み出された、1つの奇跡であり、新たなる単語である。

そして、日本語において、完全に単語が不足してしまっている「極限のポジティブさを持つ軽快な全肯定」という1つのニッチを、完全に過不足無く埋める事の出来る、我々が追い求めていた単語である。




即ち、日本語で書くのは困難だけれど、応援したい、肯定したい、ポジティブな方向でvoteしたい、という場があった時には、迷うことなく「ヨァウヨ」「シモモヘ」の二語を用いるべきである。少なくとも「がんばって!」とか「がんばれ!」よりは遙かに良い。(重ねて言うが、「がんばる」とは人間の奥底より生み出でる根源の生の力であり、他者が干渉すべきものではない。「がんばれ」をデフォルトの作戦として定義したドラゴンクエスト4は未来永劫糾弾の対象となるべきである。)

たとえば携帯のメールで、応援したい、肯定したい、ポジティブな方向でvoteしたい、という際には迷わずヨァウヨシモモヘである。「バイト頑張って!」などという日本語は、忌み嫌うべき最たるものであり、「お仕事頑張ってね!」なんてものは極限の欺瞞である。ひげぽんが頑張りたいのは仕事ではなく子作りである。

あるいは、バカにされ煽られているブロガーなり、コメンテーターなり、あるいはソーシャルブックマーカーなりを、応援肯定ポジティブにvoteしたいと思った際にはとりあえず、「ヨァウヨ」「シモモヘ」と言っておけばいい。擁護するのは労力的に不可能だし、何を書いても角が立つし、という場合には、ヨァウヨとシモモヘの二語を使ってやっていただきたい。

あるいは、「お礼は3行で」というルールが存在する場においては、「ヨァウヨ」「感謝すべき相手のハンドルネーム」「シモモヘ」と書けば、事足りる。正しく日本語の足りない部分を埋めるべく、電気仕掛けの魔法の箱が僕らの為にこの2語を、考え編みだし作り上げてくれたのである。












ヨァウヨ、シモモヘ。


2007年11月4日日曜日

目覚めたぜ!



YOMENひゃっほう調子はどうだいBUDDYZ。おいらはっつーと、10時30分に寝て、1時半に起きたわけだから、丸々39時間寝ていたわけだぜBABY。FUCK寝過ぎたYO。せっかくの休日だってーのに。おっと失礼、おたくさんは休日も平日も関係の無い愉快なご身分だったかなHAHAHA。

さすがにこれだけ寝ると、脳みそがが危機領域。具体的に言うと超頭痛。左耳の奥を中心として主に頭蓋骨近辺がまんべんなく響く、響く。ぎゅいんぎゅいん共鳴してやばい。中華街に置いてある、こすると水が泡立ち跳ねる鍋状態。

で、まあ、こんにゃくゼリーで出来たマフラーが台風の突風に煽られて頭にべったりと張り付いた状態級の頭痛の中でなんでこういうふうにブログを駈けているかっていうと、「逆ギレ」とか「自棄っかぶれ」とかではなしに、同時に我が脳核がハイパーモードに突入してしまっているからなんだぜBABY。

さすがに、流石の僕でも39時間ぶっ通しで眠れるわけなくて、何度も何度も目が覚めたんだけれど、無視して強引に眠る、という作業を15回くらい繰り返した結果(途中の目覚めはほんと一瞬長くて十秒)が39時間睡眠、ってわけで、まあこれだけ寝ると、瞼は目やにでひっついて開かないし、明らかに体中の水分資源が枯渇している感があるし、頭の1つもおかしくなる、ってなもんだ。

まあ、こういう頭痛を伴う超人類感自体には慣れていて今にして思えばゲームしてた頃って、ゲーム中毒ではなくて、むしろこの超長時間睡眠後の超頭痛&超人感中毒だったのではないか、みたいな分析も出来ようってなもんである。

はっきり言って、今の状態でゲームをプレイすれば脳がぎゅいんぎゅいんする超興奮を得られる、ってのがわかっているんだけれどあいにくゲームなんてものはもう無いしなー、ってわけでブログを書いているんだがこんなのブログじゃねえYO!ちきしょう。

あー、はっきり言うと、なんでこんなに寝てしまったかって言うと、まあ現実逃避なわけで、月曜日の投稿を目指して書いていたエントリーを書き損じちまったわけよ。まあ単純化して言えば。9時間くらい書いていたんだけれど投稿ボタンが一向に見えず「ああ、これまた次の月曜も無理だな」みたいな冷静な分析結果が自分の中で出てしまって。「あきらめたら試合終了ですよ」とか言っても、試合終了のブザーが鳴って紙吹雪が舞う中で「まだ大丈夫だ」と思っている奴がいるとすればそいつは狂ってやがるぜ。

で、何故月曜日かブロガー即ち僕自身にとって特別な日であるかというと、そりゃあ、僕はこのブログの読者というものに一週間というものを幸せに過ごして貰いたいからに他ならないからだ。

つまり、真性引き篭もりhankakueisuuという仮想生命体を作り上げたのは、他ならぬ真性引き篭もりの読者諸君であるわけで、なぜ読者諸君が真性引き篭もりhankakueisuuなる仮想生命体を苦心惨憺つまらねーエントリーを読み続ける事等の労役を自らに課して作り上げたかというと、それは真性引き篭もりhanakakueisuuなる仮想生命体が、自らの利益になる、という算段に基づいて、だ。

つまり、そういった目論見によって作り上げられた仮想生命体である真性引き篭もりhankakueisuuたる僕は、彼ら、彼女ら、のその目論見、即ち期待、希望というものに答えねばならない義務があるってわけよ。つまり僕自身という生き物が自らの手によって作り上げられた物でないという明らかな事実がある限り、僕は自らを作り上げた彼ら彼女らに報いる責務を持っている、ってわけ。

幸いにして僕はそれら責務を投げだそう、ってなような無責任なイキモノではない。私が成せる限りを成してその責務を果たし期待に応えいざ一分でも報いん、としているわけである。

即ち、現実的に言って僕に可能な最もホガラカな忠義は、カレンカーペンターが憂鬱の成立条件として歌った一極としての月曜日というものを、少しでも楽しく、愉快な物にして差し上げる、ってことなのである。つまりは、真性引き篭もりのエントリーを読んであれこれにやにやしていたら、いつの間にか金曜日の夜になっちまっていた、ってなやつを。

というわけで月曜日が俄に迫る度にこちとらなんとかしてそういう類のエントリーってやつを投稿ボタンまで持って行こうと努力をしてはみるんだけれども生憎の無能。上手い具合には行かずにふて寝でもしよう、ってな気分になるわけよ。

話を頭痛と気分に戻すと、39時間睡眠+寝る前には9時間ブログを書いていた、って事は、合計50時間無食無給水だったわけで、あいにくぼくは人間であり、人間というのは生き物なのだから、肉体がそれだけの異常事態に陥れば当然にして精神状態、脳の状態も少なからず変化する、というもので、まあ一番の特徴は、こうしてブログを書いている間に左耳の奥から額の裏側へと移動した、笑うに笑えぬ頭痛であり、それに伴う超人類感(もちろんシドマイヤーズ用語としての)である。

平坦に言うと超活動的気分、とかだろうか。おそらく、皆様方に説明するにあたって最もわかりやすにのは、熱風邪で2~3日寝込んで、それが治ってちょうど上手い具合に朝方目が覚めてさっぱりして「もう大丈夫?」「うん、治った。なんか食べたいわー。」みたいな会話をしている時の気分であろうか。

つまり、人間という物は50時間寝込んだら生き物としては何かを食べたり飲んだりせねばならないので、可能な限り活動的になる、明るい気分になる、というように仕組まれているんだろう。つまり、その何億年だかしらないけれどそういったくだらない結末が今の僕の気分を完全に支配してしまっているわけで、僕の感情に占める僕の割合なんて、ほんの僅かなもんなのだろう。

へへい、この気分すら僕の物じゃあないんだぜ、となるといったい僕はどこにいるんだー。そりゃあ、もちろん、君の胸の中さ。「Talkin' to myself and feelin' old」直訳すると「ブログを書いて、死んでしまえと罵った」てな塩梅。じゃあな、またな、BUDDYZ。


2007年11月2日金曜日

プレスリリース



本日が2007年11月2日金曜日である事に対し、強く遺憾の意を表す。
                               真性引き篭もりhankakueisuu


2007年11月1日木曜日

国軍トップの汚職は無視されファンネルで盛り上がるインターネット。



国防族は珍防族に言い換えよう、とかそういうくだらないムーブメントでも起こってるものかと一通り見て回ったけれど一切見えず。ファンネルで騒いでる。たのしそうだなあ。ほんとうに。国民が国防費だと思っていたものは一打ウン百万円ゴルフ代とインターネッターへのPR費用SEO費用でした。日本は接待と汚職の国でありまして、ってそういう問題ではなく必要なものの1つも売って貰えなくなるわけで言うまでも無し国賊。トップがあれじゃあ下まで然り。糞の役にも立たない国軍なんか廃して(半減縮小して)教育と少子化に回せよ。2回だったものが5回まで無料になります、ってはいそうですかで子供が増えるわけがない。前年比65%増しです、って370億円。おまえら脳みそついてんの?めでたいなあ。国防費1%を堅守しても国民国家が1/10規模になったら意味ないのに。1人の労働者が2人の上司と5人の老人を食わせる時代の到来。そりゃあ子供産む与力なんてあるはずがない。てな事を言うと国軍よりも先に削減する無駄がある、なんて冷や水ですか、ああそうですか。腐敗していようと犯罪の根城になっていようともっと悪い輩は他にいまして、権力に腐敗は付きものであり、国軍は換えの利かない国軍なのだからという国軍の聖域化。いやその前におまえ税金払えよ、ってか。知らないよ。