情熱時間、自由時間。



学徒にとって、「自由時間」というものが往々にして自由な時間でないのは、どうしてなのだろう。ある者は自由であるはずの「自由時間」から、なんとかして逃れようと逃げ場を探してはそこへと駆け込み、ある者は自由時間が来る度に、心を屈折させるに十分な苦痛を諦めながら受け容れる。その一方で、彼らは自由時間の対極に位置する「不自由時間」に対しては、そのような恐れを抱きはしない。

自由時間の到来を告げる鐘の音が、沈痛さの到来を意味するのとは対照的に、不自由時間の到来を告げる鐘の音は、沈痛さからの開放を意味する。皮肉にも、そういった一部の学徒にとっては不自由こそが開放を意味し、自由こそが拘束を意味する。

もしも彼らの何れかが「不自由より逃げねばならぬ。」と考えたとき、その逃げねばならぬ不自由とは「不自由時間」ではなく「自由時間」である。人はなぜ、自由から、逃げねばならないのか。なぜ、自由は時として私達に牙をむいて襲いかかるのだろうか。なぜ、不自由は時に救い主となり、私達の前に姿を現すのだろうか。
















ある者は考えた。
「不自由は不自由によって作られる。」

自由時間が自由を意味せず、不自由を意味するのは、「自由時間」と銘打たれたそれらの時間は、真に自由な時間ではなく、不自由な者(国家、啓蒙主義、資本家、法律家、教職者ら)によって作られ、彼らの都合により「自由」と名付けられた時間即ち見せかけの自由であり、それら第三者による偽りの自由の押しつけ、即ち不自由の押しつけの存在せぬ時間こそが、ほんとうの自由時間であり、ほんとうの自由である、と。




これは何よりも簡潔な、受け容れやすい仮説である。

この「不自由は不自由によって作られる。」という仮説を受け容れるならば、私達は不自由を見つめ、不自由と向き合い、不自由について考え、不自由を強く憎み、ただ不自由を朽ち汚く言い続けさえすればよい。私達に不自由をもたらすものもまた不自由であり、彼らに不自由をもたらす不自由なものを、そしてさらにその不自由に不自由をもたらしているものを、と、順繰りに糾弾を繰り返しながら上へ上へと上ってゆけばよい。

幸いにして、この世界は「人が一生涯憎み罵り続けられるだけの不自由さ」を所持している。「不自由は不自由によって作られる」という考えに基づいて眺めれば、世界は幾千幾億の不自由さが複雑に絡み合って成り立っている事に気がつかされる。

世界は釈迦のたなごころであり、釈迦もまた不自由な者によって不自由を強いられているのだ。この世界は全知全能なれど不自由な何者かによって作られたが故に全てが連鎖的に不自由の支配下にある、というのが、「不自由は不自由によって作られる。」という仮説なのである。




けれども、である。

この仮説には些かの問題点がある。それは、自由の不在である。「不自由は不自由によって作られる」という考え方は、自由というものの存在を、完全に無視している。不自由にばかり目をやり、瞳を凝らして一生懸命に見つめ、絶え間なく不自由を気にかけている一方で、自由というものについては、まるで存在せぬかのように扱い、触れずにやり過ごそうとしている。

しかし、その自由の不在こそが、「不自由は不自由によって作られる」という不自由仮説が人々が受け容れられやすい理由である。不自由仮説を信仰する人々にとっては、自由の不在こそが最大の長所であり、最大の武器なのである。なぜならば、不自由仮説を無意識に受け容れる人、あるいは願望を込めて信じ込む人は、自由とは無縁の生活を送っているからである。自由の存在せぬ、人生を過ごしているからである。そして、これからも、自らの人生に自由というものが登場する機会は一切存在しないと、どこかで気がついているからである。そういう人達にとって、自由に目を遣らず、ただ不自由のみを見つめた不自由仮説は何よりも受け容れやすく、そして信じるに易い仮説なのである。

僕が思うに、「不自由は不自由によって作られる」というこの仮説を最初に主張した誰かは、自由とは無縁の半生を歩んできたのだろう。それ故に、彼の人は不自由ばかりを気にし、不自由ばかりを見つめ、不自由についてのみ考え、「不自由は不自由によって作られる」と、ただ不自由を語るだけの結論を導き出したのだろう。不幸にも、自由という者を身近に感じられる機会を一度として持たなかったが故に。




彼の言うように、この世界は不自由によって完全に覆われているのだろうか。

全ての不自由を滅ぼさない限り、不自由によって不自由は際限なく作り続けられ、驚くべき増殖力で破れた不自由の被膜は復元され、全てを不自由で上書きしてしまうのだろうか。たった1つでも不自由というものが生き残っている限り、それは瞬く間に世界の全てを覆い尽くし、自由の存在する余地は一瞬にして失われてしまうのだろうか?

<全ての不自由を滅ぼす>

もしも「不自由は不自由によって作られる」と考える人達の頭の中に一分でも、「自由」というものに対する敬意が、畏怖が、あるいは渇望が存在していたならば、彼らは全ての不自由を憎み、全ての不自由を罵り、全ての不自由を否定し、全ての不自由に対して拳を振り上げ立ち向かわねばならない。いや、そうしていなければおかしいのである。全ての不自由に対して立ち上がっていなければおかしいのである。しかし、現実は違う。彼らはただ不自由仮説を信奉し、不自由を悪く言うばかりで、決して立ち上がろうとはしない。そこに不自由仮説派の限界がある。

人は食べねばならない。人は眠らねばならない。それは不自由そのものである。食物を口にするか、口にせぬかという選択肢は存在せず、誰もが、決まって食べねばならないし、同じように誰もが決まって眠らねばならない。それは正に「不自由」そのものである。人は人の中に潜むヒト、即ち人そのものによって、それらの行為を強いられるのである。硝酸アルミニウムを飲んで眠らずに生きる、という事は不可能である。

さらに、である。

人は皆死ぬ。死なない人はいない。生き続けるという選択肢は存在しない。人は皆生まれる。生まれない人はいない。生まれずにいるという選択肢は存在しない。それは強制である。不自由の押しつけである。不自由そのものである。食べねばならず、眠らねばならず、死なねばならず、そして生まれねばならない。この世界は不自由である。この世は不自由で満ちている。それどころか、今更僕が言うまでもなく、死すら自由を意味しはしない。あなた方は死して尚、連日連夜未来永劫百人の処女と床を共にし続けねばならないし、僕は僕で死してなお、無限に続く焼け石の荒野の上を焦げ付いてしまわぬようにとかけ続けねばならない。




特定の学徒にとって自由時間が不自由であるのは紛れもない事実である。けれども、その一方で、一部の学徒は自由時間を自由であると疑うことなく信じている。ある者にとって不自由の到来を告げるものであった鐘の音は、同時に他の者にとっては偉大なる自由が不自由に勝利した事を祝う空砲である。

私達は、自由時間を自由だと信じている者共を一人残らず引っ捕らえて縄をかけ、「おまえの信じる自由は自由なんかじゃないんだぜ」と、説かねばならないのだろうか?あなた方が自由だと思っているものは、何者かによって都合よくでっちあげられた名ばかりの、自由の威を借る不自由でしかなく、自由などではないのだという事を教育して回らねばならないのだろうか。

「不自由は不自由によって作られる」という信仰に基づき、その信仰を裏切らぬように、得物を持って彼らを追い回すことで「不自由によって作られた不自由」を演じ、彼らに荒縄を回し吊り下げることにより「不自由によって不自由が作られる事」を証明し続けねばならないのだろうか。

いや、それだけには収まらない。「不自由は不自由によって作られる」という仮説を支持する者は、たとえ僅かでも自由というものを感じ、その幸福を享受している人を見つけてしまったならば、棍棒で脅してその自由を捨て去らせ、こちら側へと取り込まねばならない。街の公園で自由を唱う人に運悪くばったり出くわしたならば、その口をガムテープで(あるいは唇で)塞ぎ黙らせ、二度と自由を叫ぼうなんて気を失わせてしまわねばならない。





そこに「不自由は不自由によって作られる」という不自由仮説の無理がある。

本来、不自由とは憎むべきものである。自由とは「あるべき姿を妨げぬもの」であり、不自由とは「あるべき姿を妨げるもの」である。不自由とは人間が人間たるを妨げるものであり、不自由とは排除されねばならないものである。

ところが、不自由仮説の元では、「万物のあるべき姿」は全て不自由であり、不自由である事は、ありのままの姿であることを意味する。その一方で「自由」とは、"自由時間"がそうであったように、何者かの都合によって強制的に改変された不自由の一形態に過ぎず、妨げられたあらざる姿であり、排除し滅ぼさねばならないものとして位置づけられてしまう。不自由仮説を受け容れたが最後、天と地が、入れ替わってしまうのである。

不自由仮説が幾らかの人々を納得させるだけの力を持つのは確かである。否定しようのない事実である。しかし、所詮、そこまでである。幾らかの人達を満足させるだけでおしまいである。「自由の不在」という不自由仮説の構造的欠陥は、その節々で軋みを上げて過ちの廃液を噴出させ、自重に耐えきれず崩壊してゆく。








「引きこもりが自由になるにはどうすればよいのか?」
あからさまに適当で投げやりな、切実さを欠く不誠実な問いである。








壁。

引きこもりを不自由たらしめているもの。それは、壁である。壁が存在するが故に、引きこもりは不自由である。壁により、引きこもりの行動は、大きく制約される。引きこもりは新聞を読むことが出来ず、そば屋でカレーうどんを啄むことも叶わず、マツモトキヨシでEVEA錠をロットで買い込む事も出来ぬのである。もしも壁が存在していなかったならば、熊井友理奈とセックスをするのも、本能寺で明智光秀を討つのも、ヨアンメルローのモウズワザップ入団を願うのも自由である。しかし、壁が存在するが故に、引きこもりにとって、それらは全て不可能である。

壁は、往々にして不自由をもたらす。受刑者を拘束し不自由たらしめているものは、法ではなく、壁である。ベルリンを二分していたものは米ソの対立ではなく、壁である。北米と中米とを遮っているものも、国境線ではなく、何者かによって意図的に作り上げられた城壁である。それらと同じように、壁こそが、引きこもりを不自由たらしめているのである。即ち、引きこもりを不自由から開放するのは、簡単な事である。ただ壁を排すればよい。

可視不可視を問わず、私達の世界は幾億もの壁で仕切られている。言葉の壁、年齢の壁、性別の壁、種の壁、細胞壁。そして、それら壁の多くは絶対である。絶対なものである。たとえば引きこもりを不自由たらしめている壁を、廃することは不可能である。ショベルカー付きブルドーザーのレバーを固く握りしめ、引きこもりを不自由たらしめている壁を破壊してみたところで、そんなもの、なんにもならない。この世界にはどんな重機を持ってしても打ち崩すことの出来ない壁が、地表から天空へと幾億も、鈴生りに成っているのである。




それでは、引きこもりは自由を手にすることは出来ないのだろうか?

この問いに対する回答もまた、簡潔にして単純である。自由を手に入れるのは簡単である。このように書くと、不自由仮説を支持するあなた方は驚かれるかもしれないが、自由を手に入れるのは簡単である。事実として、自由を手に入れるのは簡単なのである。この地球上において最も簡単なものの1つが、自由を手にする事である。
















不自由な引きこもり。
それは、かべのなかにいる引きこもりである。

自由な引きこもり。
それは、外出への情熱を手に入れた引きこもりである。
















偉大なる自由の前では、壁は無意味である。地球上に隙間無く乱立する100の地震でも微動だにせぬ合金製の壁は皆、自由の前では無力である。自由の前では壁は壁でなくなる。如何なる優れた壁であっても、自由の前ではその役目をちっとも果たせぬのである。どのような材質で出来た壁も、情熱による壁抜けを阻止する事は出来ないのである。

外出への情熱を手に入れた引きこもりの前では、壁は無力である。引きこもりが外出への情熱を手に入れた瞬間に、それまで引きこもりに対して一生の不自由を強いるかに見えた鉄壁が、なんの役目も果たせなくなる。引きこもりが外出への情熱を手に入れた瞬間に、不自由は過去の遺物と化す。そんなものが存在していたという事すら疑われる程に。




不自由なNEET。
それは、かべのなかにいるNEETである。

不自由な労働者。
それは、かべのなかにいる労働者である。

不自由な資本家。
それは、かべのなかにいる資本家である。

不自由なNEETと、不自由な労働者と、不自由は資本家は酷似している。不自由な宗教家も、不自由は政治家もそこに付け加えて良い。それだけではない。世の中の、全ての不自由は酷似している。いや、酷似ではない。それは酷似ではなく、「同じ」と書き記すべきなのである。全ての不自由は同じである。全ての不自由は同じ壁によって作られる。







自由なNEET。
それは、情熱を持つNEETである。

自由な労働者。
それは、情熱を持つ労働者である。

自由な資本家。
それは、情熱を持つ資本家である。

そして、また、全ての自由も酷似している。いや、酷似ではない。それは酷似ではなく、「同じ」と書き記すべきなのである。全ての自由は同じである。まったくの、同質である。即ち、自由とは、情熱である。情熱こそが、自由なのである。自由時間を告げる鐘は「自由時間への情熱」を所持する学徒にとっては自由を意味する。しかし「自由時間への情熱」を持たない学徒にとっては、不自由を意味するのだ。

そして、情熱を持たない人間が、他の人間に不自由を押しつけ、情熱の火床を湿らせてゆく。情熱が燃え上がりにくいように、燃え上がりにくいようにと、人間を変質させてゆく。それこそが、不自由仮説、即ち「不自由は不自由によって作られる」という仮説の正体である。不自由仮説の決定的な過ちは、自由の不在であると同時に、どのような不自由を押しつけられても、消えぬ火は消えぬという事である。どのような不自由を持ってしても、消せぬ炎は消せぬという事である。いったい、誰が、ネルソンマンデラの情熱の炎を消化しせめたろうか。出来ぬのである。例えばその者を撃ち殺したところで、消えぬ情熱は決して消えぬのである。如何なる不自由を持ってしても、消えない情熱は消せぬのである。




即ち、無職には自由な無職と不自由な無職が存在する。
それは、情熱を持つ無職と、情熱を持たぬ無職である。

同じく、労働者にも自由な労働者と不自由な労働者が存在する。
言うまでもなく、情熱を持つ労働者と、情熱を持たぬ労働者である。

全ての人は、情熱の有無によって自由なるものと不自由なものに分けられる。




職無きことは人から熱意を奪い去るに十分な事柄である。職がなければ、毛布も買えず、生牡蠣も食えぬ。髭を剃る気力すら失われぼうぼうに伸び、苛立ちから引き抜いて丸呑みしてみるも、咽に刺さってツクツクと痛むばかりで、眠れぬ夜を過ごす事もあるだろう。自らに誇りも持てぬやもしれぬし、自信も失われてゆくだろう。身近なものからの信頼も失うかもしれぬし、去る友もおろう。

同じように、労働もまた、人から熱意を奪い去るに十分な事柄である。朝食を取る間も無く蒸せ返る鉄の箱に押し込められ、雪隠にまで到り及ぶ就業規則に脳の髄まで支配され、太陽の篭もった干し草の上で眠ることも叶わず、恋文に返事を書く気力すら奪われる。自らに誇りを持てぬやもしれぬし、冗長化する給与明細とはうらはらに、渾力は失われてゆくだろう。家族と鍋をつつくゆとりもなければ、古き友と飲み交わす余裕もない。

しかし、である。職無きことも、万職も、情熱の前では無力である。








自由が力であるのと同じように、不自由とは力である。
であるとするならば、自由とは一体何なのだろうか。

結論から言おう。
自由とは、力である。
まだ見ぬものを手に入れようとする力である。

「まだ見ぬもの」とは、ある人にとっては日の丸印の宇宙ロケットであり、ある者にとってはワールドカップのトロフィーである。またあるものにとっては密かに思いを寄せているはてなダイアラーからのはてなブックマークであり、ある者にとっては心の底から笑える自分自身である。またある者にとっては愛する人とのインザベッドであり、ある者にとっては我が子の幸福な人生である。ある者にとってはカウンタックを衝動買い出来るだけの収入であり、ある者にとっては憎む相手の死であり、ある者にとっては贖罪である。

それらを手に入れる為の原動力こそが、自由である。自由とは与えられるものでもなければ、手に入れるものでもない。無論のこと、その手でつかみ取るものでもない。如何なる不自由に抗ってでも自由を手に入れたいという不滅にして無限の情熱。それこそが不滅にして無限の自由であり、不滅にして無限の自由である。即ち自由という力の神髄である。








では、不自由とは一体何なのだろうか。
僕はそれを知らないので、想像で書く事にする。








不自由仮説を唱えた人が、不自由仮説に基づき、不自由の名の元で世界を見渡したとき、この地球上に「自由」というものなど、まるで存在せぬかのように見えた。少なくとも、彼の目にはそう映った。ところが、情熱という自由の力の名の下で世界を見渡したらば逆に、「不自由」を見つけ出す事の方が難しい。いや、無論、小さな不自由はすぐに見つける事が出来る。いくつも、いくつも、目について、それらを片っ端から指してゆく事は容易い。しかし、どれも自由の力、即ち情熱というものを完全に妨げるには小さすぎる気がするのである。どれも、自由の前では役に立たない壁に過ぎぬように思えてならぬのである。








不自由とは、情熱の墓場である。自由の力で「まだ見ぬもの」を手に入れた人間が行き着く墓場である。同時に、不自由とは力である。人間の根幹に寄り添う、根源に位置する1つの偉大な力である。不自由とは、念願叶って手に入れた見果てぬ夢を、なんとしてでも守ろうとする力の成れの果てである。

私達が、まだ手に入れた物の全てを守らねば生きてゆけなかった時代。人がまだ弱く、おぼろげに息づいていた時代。その時代を、私達人類は「手に入れたものを守ろうとする力」で乗り切り、馬も空飛ぶ平成の世へと辿り着いた。全ての物は大切に貯蔵され、全ての知識は大切に口伝された。それらをし損じた文明は滅び、大地へと返っていった。

人間は群れで生活する生き物である。群れにおいて、与えられたものは全て守らねばならなかった。財産も、知識も、地位も、労役も、自由も、同じように守らねばならないものだった。時として自由ですら守らねば生きてゆけぬ程に、人類が弱く儚い時代は長く続いた。それ故に、もはや、そのように万物を保守して生き延びる必要の無くなったこの現代においても、私達は本能的にあらゆるものを守ろうとしてしまう。

地位、財産、労役、時として不自由すらも、頑なに守ろうとしてしまう。"わたくし"の不自由が何者かにとっての利益となるならば、その不自由が自らに大いに不利益をもたらすものであっても、懸命に守ろうとしてしまう。故に、私達は、自らの本能の原色の欲求に追い立てられ、与えられた不自由を守ろうとするのである。国家、組織、地位、義理、給金。

であるからといって、彼ら、即ちそれらの不自由を懸命必死に、自らを犠牲にしながら守り続けている人達に「捨てろ」と説くのは間違いである。過ちである。そのように説くことは「人の本能を捨てろ」と説くことであり、即ち「人間である事を捨てろ」と説くことと同義であり、それは汝死すべしの一語に等しい。




即ち、自由とは力であり、不自由とはその墓場である。
不自由とは、自由が石炭燃やして駆けずり目指す終着駅である。

だからと言って、全ての自由が不自由へと帰着する運命にある事を嘆く必要はまったく無い。何故ならば、情熱は永遠に滅びることの無い存在である、自由が不自由へと帰趨するよりも盛んに、絶え間なく火柱となって地表を突き破り爆ぜ続けるのである。人の滅びぬ限りずっと。
















ブログの投稿画面を開いたインターネットエクスプローラと眼球の間の虚空を睨め付けながらキーボードをなぞるその瞬間にのみ、情熱は僕に生まれて宿る。ならば肩背中頬に熱疼く後悔と懺悔の脈流より放り出された渾身の打鍵をもって今ここに自由を宣言する。全て不可能と知りながら。