普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。

僕は悲しい。とても悲しい。
インターネットで生じている事実が事実として伝えられない。

岡田有花なる人物の手により、全ての記憶が改変されてゆく。努力とか継続とかいう些細で美しい自己啓発と、インターネットという未来が生んだ魔法のブラックボックスにより、全ての事実は抹殺されてゆく。歴史は書き換えられ、僕達1人1人が真実の心を持って懸命に生きてきたインターネットが汚されてゆく。いや、浄化されて行く。美しいものへと。素晴らしいものへと。小さく儚い、それでいて強い美談へと改変されてゆく。

僕はそういった行為を許すことが出来ない。そういった言葉を許すことが出来ない。インターネットは血で有り、肉であり、尚かつ魂である。インターネットは人間の全てである。痛みを悲しみを欲望を絶望を感動を興奮を全ての感情と汗と涙を飲み込んで降り積もった真っ白で真っ黒な九龍城である。混沌である。魔窟である。昨日もそうだったし、今日もそうだった。きっと明日もそうなのである。岡田なる人物はいつもこうなんだ。僕らの本当のインターネットをくだらない美談で汚そうとする。いや、浄化しようとする。たまるもんか。浄化されてたまるもんか。全てを飲み込むインターネットは僕等1人1人の欲望で成り立っているんだ。なるもんか。浄化されてなるもんか。他愛もない話に書き換えられてなるものか。








普通の女子大生が日本一になれたのは何故か。

顔だ。
顔写真だ。
顔が美しいからだ。
顔写真が美しいからだ。



アイコンが美しい顔をした女の子の写真だからだ。だから人気が出たのだ。
美しい顔をした女の子の写真のアイコンを持つ人間が投稿したものだからだ。

嘘だと思うなら、instagramでもgoogle+でもいい。どちらでもいい。
彼女の写真を評価している人間がどのような人達か確かめてみればいい。

モテない男。
冴えない男。

そういった類の人達ばかりだ。殺到しているのだ。フォトショで巧妙に作られた顔写真のアイコン目掛けて男達が殺到しているのだ。日本だけではない。世界である。世界中である。世界中から美しい女の子の顔写真目掛けて男達の欲望が殺到しているのだ。中国語でコメントしている人、スペイン語でコメントしている人、フィリピン語でコメントしている人、どれも同じである。冴えない男である。皆そうである。アニメと歴史から日本に変な幻想を抱いたモテない男である。現実世界において美しい女の子とは無縁の生活を送る、性に飢えた世界中のインターネッターである。インターネット最大の欲望のニーズに合致したから、彼女は日本一になれたのである。





>ある日、夕日の写真を投稿してみたところ、これまでにないほど多くの
>いいねやコメントが付いた。それから、夕日や朝日ばかり撮るようになった

美談である。
美しい話である。
岡田特有の美談である。
即ちこの美談こそが癌である。




男達が求めたのは少女であり、美女である。美しい若い女である。
本当は、彼らは、直接面と向かって「美しいね」と告げたいのだ。

けれども、告げる相手が居ないのだ。
だからこそ、インターネットに逃げ込んだのだ。




現実世界には美しい女は居ない。フォトショで加工された美女も存在しない。美しいねと告げるべき相手が居ない。少しだけ美しい嘘をついて「美しいね」と言う相手すら居ない。居たとしてもインターネッターの手の外である。冴えない男には手が届かない。はなから対象外なのである。無論の事、告げる勇気もない。告げさえすればどうにかなっていたとしても、その度胸がない。度胸を担保する資産もない。それはインターネットにおいても同じだ。現実世界と同じように、冴えない男はインターネットでも冴えず、勇気の無い男はインターネットでも勇気を持たない。

彼ら悲しい男達は、島田紳助でも、ロンブー敦でも、伊藤直也でもない。セックスしたいと思う美女に対して仕事を斡旋し懇ろになる権力はない。ツイッターでフォロワーに「いちゃいちゃ前提で夕食ご一緒しませんか」とダイレクトでこっそりリプライする度胸もない。セックスの為に西へ東へ引っ越しを繰り返せる性欲もキャリアも無い。だからこそ彼等はインターネットの広い海の人畜無害な理想の美女を追い求め追い続けそして遂に辿り着いたのがgoogle+の「Aya Sakaguchi」というアカウントなのである。だいたいからして名前がずるい。早稲田でAyaという時点でずるい。明らかに可愛い。Abaを連想させる手法が汚い。これがもし「Ginko Skaguti」とかなら絶対に3万人も集まらない。20人くらいしか集まらない。「Ginko Kobayashi」ならもっと辛いだろう。5人くらいしか集まるまい。




インターネットとは希望の地である。
生きる望みを最後に託して辿り着いた最後の聖域である。

彼らは懸命に希望を抱こうとするからこそ、インターネットに逃げこみ、そこで見つけた希望を日々の糧にして必死に生きようとしているのである。私達は生きねばならない。どうにかして生きねばならない。だからこそ必死なのである。生きる事に懸命なのである。それには希望が必要なのだ。Aya Sakagutiのような希望の人がどうしても必要なのである。3万人もの男達の希望であり、3万人の男達から必要とされているのである。

思い出してみてほしい。現実世界に希望を求めた男達がどうなったかを。平野綾に希望を見いだした男達がどうなったかを。豊崎愛生に希望を見いだした男達の末路を。高橋みなみに、寿美菜子に、林原めぐみに、加護亜依に、戸松遥に、秋元才加に、希望を託した彼らの末路を。絶望を。その悲しみの大きさを。全てを打ち砕かれた人生を。

だからこそ無害で安全な希望が必要とされているのだ。そして、その無害で安全な希望こそがAya Sakagutiというインターネットなのである。無害で安全な人間を探し求めインターネットを彷徨い続けた彼らが遂に見つけて辿り着いた希望の人なのである。

現実世界の希望は破壊される。完膚無きまでに打ち砕かれる。どのような希望であっても必ずや誰かに奪われるし、奪われなければ奪われないでそれはそれで悲しい物語である。どちらにしても悲しい現実だけが残ってしまうのである。

けれどもインターネットの希望はそうではない。インターネットの希望は破壊される事なく永遠に残り続ける。何故ならば彼女らは消えるのだ。音もなく静かに消えるのだ。インターネッターは消える。インターネットの美女は消える。いつの間にか居なくなる。美しい人から消えて行くのだ。美しい女性も、美しい男性も、いつの間にか居なくなる。思い出してみて欲しい。3年以上前からブログを書いている女性を、思い出せるだけ思い出してみてほしい。全員ぶさいくである。1人の美女もいない。美しさの欠片も無い。顔も醜い。心も醜い。そういう人達ばかりである。不平不満とくだらない馴れ合いをはき出して、だらだらいきている醜い人ばかりである。1人として美女はいない。もちろんの事、美男もいない。美しさは消えるのである。インターネットから消えるのである。時間と共に消えるのである。美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。そういう風に出来ているのだ。

だからこそ彼らはインターネットに希望を見いだす。Aya Sakagutiのようなアカウントに殺到する。美しい人を追いかければ、美しい人は消えて、美しい人の思い出だけが残る。金と顔との生存競争に敗北し、現実世界から逃げ延びてきた男達が、これ以上ダメージを受けないために、自らの身を守るために、行く行くは音もなく消えて行くであろうリアリティを持った仮装の美女へと殺到しているのである。




>ある日、夕日の写真を投稿してみたところ、これまでにないほど多くの
>いいねやコメントが付いた。それから、夕日や朝日ばかり撮るようになった


「美しいね」と言いたいのだ。
「素敵だね」と告げたいのだ。
Aya Sakagutiに告げたいのである。

けれども、度胸が無い。
勇気が無い。根性が無い。

無いからこそgoogle+なのである。そんな勇気があるならば、そんな度胸があるならば、そしてそういう事を告げられるだけの自信とバックボーンがあるならば、遠い昔にもう既に、どこかでよろしくやってるだろう。それが言えないからこそAya Sakagutiなのだ。それが出来ないからこそのAya Sakagutiなのである。そしてそこに写真である。夕日の写真である。




太陽。
絶対である。
全ての恵みの元である。

誰もがその美しさを知っているし、誰もがそれを素敵だと理解している。そしてそれは訪れたのだ。遂に訪れたのだ。太陽が訪れたのである。日は昇ったのである。美しさが訪れたのである。遂に来たのだ。時は来たのだ。誰の目にも明かであり、公然たる事実である美しさがそこにあるのだ。これ正に好機なのだ。

「美しいね」と言うことが許される。
「素敵だね」と告げる事が許される。

手に入れたのである。
男達はその免罪符を手に入れたのである。

もはや躊躇する必要は全く無い。
何故ならば、太陽は美しいからである。

即ち、太陽は素敵だからである。
太陽は、問答無用の「いいね」なのだ。








美しいものを美しいと言う。
それが出来ないのが人の悲しみである。

素敵なものを素敵と言う。
それを口に出せないのが人の苦しみである。

好きな人を好きと言えない。
それこそが全ての絶望の元なのだ。


その苦しみを、その悲しみを、太陽が破壊したのである。
苦しみの永劫の鉄格子の牢獄から、人々を救い出したのである。






継続とか、努力とか、そんなものは関係ないのだ。
これは美談ではない。太陽による救出劇なのである。

彼らは美しいと言いたかったのだ。そして言えなかったのだ。好きだと言いたかったのだ。素敵だと言いたかったのだ。けれども言えなかったのだ。勇気が無かったのだ。こっそりと無記入で拍手ボタンをクリックするくらいの度胸しか無かったのだ。そして拍手ボタンなんて無かったのだ。誰も助けてくれなかったのだ。一度としてそのチャンスは訪れなかったのだ。そう、太陽が終ぞ再び天へと登るまでは、その時は訪れなかったのだ。

そして日は昇ったのである。登り続けたのである。朝になる度、甲斐甲斐しく、太陽は上を目指したのである。それは正しく具現化した希望である。同じ美しさを見あげ、同じ素敵さを共有する。それを美しいと言い、それを素敵だという。太陽の写真は正しく、Aya Sakagutiに大きく空いた「美しいね」のセキュリティーホールだったのだ。素敵さの脆弱性だったのである。

彼ら悲しいインターネッターらは、インターネットをしているのではない。希望のゲームをプレイしているのだ。誰1人として佐々木希と手を繋いで歩けないのと同じように、誰一人として寧々さんと手を繋いでは歩けない。無論の事、Aya Sakagutiとも手を繋ぐことは出来ない。けれども、である。美しいと言うことは出来る。いいねをクリックする事は出来る。




寧々さんは誰にも奪われない。
当然である。寧々さんは存在しない。現実ではない。非現実である。しかしながら、何人たりとも寧々さんの力にはなれない。寧々さんを喜ばす事は出来ないし、寧々さんを微笑ます事は出来ない。寧々さんを幸せにする方法は地球上どこを探し歩いても存在しないのだ。

佐々木希は奪われる。
当然である。現実だからだ。現実は奪われる。必ず奪われる。それでいて、何人たりとも佐々木希の力にはなれない。佐々木希を喜ばす事は出来ない。佐々木希を微笑ませる事が出来ない。佐々木希が微笑んだとすれば、それは佐々木希自らが微笑んだに過ぎない。世間一般の男達は決して佐々木希に干渉出来ないのである。

だがAya Sakagutiは違う。
インターネットは違うのである。
彼らがプレイするラブプラスは、現実世界に繋がっているのだ。全ての嘘の上位互換なのだ。Chikirinの日記をブックマークする全てのはてなブックマーカーが「俺のブックマークでホッテントリ入りした事をChikirinさんは決して忘れないだろうし、もしかしたらそれをきっかけに『あのね、ちきりんね、ずっとあなたの事が好きだったの』なんて告げられる日が何時か来るかも」と妄想して新規エントリを待ち続けては新規エントリが投稿するや否や必死に懸命にはてブし続けるのと同じように、人々は太陽を待ち望んだのだ。Chikirinは太陽であり、太陽はChikirinだったのだ。美しさであり、素敵さだったのだ。朝が来る度待ち侘びたのである。






だいたいからして、汚いのだ。卑怯なのだ。
岡田有花とそれに併合する人達は、必ず汚いのだ。

特別な能力や特別な欲望を持つ人達を「普通」というフィールドに持ち込んでストーリーを作る。決まってそうだ。毎回そうだ。僅かなポイントを付いて「普通」をでっちあげ、「普通」をアピールする。特別な人間を「普通」だと強引に定義して、普通の人間が「努力、幸運、インターネット」という三種の神器の魔法の小箱で何かを手に入れた事にして、物語を書いてしまうのだ。捏造してしまうのだ。




普通の大学か。早稲田が普通か。
違う。普通ではない。普通の大学ではない。

普通の女子大生か。その顔が普通か。
違う。普通ではない。普通の女子大生ではない。

特別な女子大生なのである。
そして特別な大学生なのである。
僅か数パーセントの上澄みの、そのまた数パーセントの人間なのだ。




そのような人物がどうして普通を騙るのか。
何故、普通であると言い張るのか。




答えは単純である。
それは勝利の為である。

普通を夢見て普通を自称する人間は、誰も皆同じである。特別な才能を持った人間が、特別な境遇に育った人間が、特別な欲望を抱いた人間が、「健気な努力で手にした素敵な勝利」というストーリーを歩む為に、「普通」という勝てるフィールドに降りてくるのだ。彼らは力が有るが故に、普通という戦場で戦えば必勝を約束されているのである。楽勝なのである。それを得る為に、即ち勝利を得る為に、彼ら上澄みの幸運で力強い人達は「自分は普通である」と頑なに言い張り、「普通の人間」である事をことさらアピールする。自らが普通の人間であると世間一般に認められさえすれば勝ちなのだ。普通であると認められる事は、「勝利者である事を認められる」とイコールなのだ。彼らにとって普通というフィールドは容易く生ぬるい世界であり、万が一にもそのフィールドへの参加が許されれば、それは即ち勝利者であることを、そして成功者であることを意味するのである。そういえば、先日インギーと内田裕也と僕の3人で白木屋に飲みに行った時に裕也さんが核心を突いた話をしていた。




「あのさぁ、あのね。
 最近ね、あれよ。

 ロックでもねーやつが。
 ロックを騙ってね。
 ロックだって言うぅ。

 スターでもなんっでもねーやつが。
 スターだぁ、スターだぁ。
 言ってるんだよ。

 ロックスターだって。
 ふざけんなだよ。」



裕也さんはいつも良い事を言う。ほんと、ふざけんなである。普通でない女性が普通を騙る事でどれだけの普通の女性が抑圧されたか。世間一般の愚かな男達があれを普通だと思う事で、どれだけの女性が癒えることのないダメージを被るか。言葉の暴力である。破壊行為である。普通罪である。これはパワーハラスメントなのだ。抑圧なのだ。力による支配なのだ。普通ではない人間が普通を騙る事で、本来普通であったはずの人達は劣等感と敗北を植え付けられて洞窟の中へと逃げ込んでゆく。そういう世界を僕達は真実の言葉によって、即ちブログというものの力によって打ち砕かねばならないのだ。岡田有花を、坂口綾優を、それ以外の「下のフィールドへと降りてくる者共」を完膚無きまでに打ち破り、破壊し、破滅に追い込まねばならないのである。自らを矮小化して見せる力有る者による普通汚染という純然たる暴力を、僕等は全てを賭して阻止せねばならないのである。ロックでもスターでも無いのにロックスターだとか言ってるような汚物共を、ブルーダイヤで消臭せねばならないのである。消し去らねばならないのである。本当にふざけんなである。決して許してはならないのである。








もう一つ重要な事がある。
心である。三万人の冴えない男の心ではない。書いた側の心である。

30000人の心が思いが欲望が、美談とインターネットというブラックボックスによって隠蔽されたのと同じように、Aya Sakagutiというストーリーを描いている側の感情もまた、ブラックボックスによって覆い隠され、偽られてしまっている事である。











>写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。
>それでもGoogle+に写真をアップし続けて要るのは、「就活のため」だ。

何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスにアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。そこが一番大切な所ではないか。そこが一番肝心な所ではないか。それだけではない「アラビア語でほめられるなんて、一生ないと思っていた」というのも全く同じである。インターネットという自由世界で得た結実を、アラビア人などという現実世界の大陸の外国語の完全なブラックボックスに委託して書き表してしまうのか。何よりもこれが許せない。

もちろんそれらは岡田の作文による所も大きいのだろう。けれども、それだけではない。特定の人物に限った事ではない。人は皆、インターネットによって見た夢を否定しようとする。インターネットの野心を、インターネットの欲望を否定しようとする。インターネットは常に現実世界の為の存在であり、独立した個別の聖なる土地ではなく、現実世界の下部構造として位置づけようとする。いや、位置づけようとする事が問題なのではない。事実としてインターネットは現実世界の下部構造なのだから、それは仕方がない。





問題は、心の偽りである。記憶の改竄である。

人々は一瞬であってもインターネットを独立した魂の領域であると思った自らを否定しようとする。誰もがそれを隠蔽し、誰もがそれを忘れようとする。インターネットで得た感動は現実世界によって齎されたものだと、記憶を改竄しようとする。インターネットの素晴らしさは若気の至りであり、過ちであるとして、リアル世界の巨大な現実をもってそれを上書きしようとする。消し去ろうとする。塗り替えようとする。僕にはそれが許せない。あまりにも悲しくて切なくて心が苦しいのだ。インターネットは常に否定され、インターネットは常に支配される。

それが正しいかどうかは問題ではない。間違っていようとかまわない。1人1人の心の中では、インターネットは絶対なる存在として輝き続けているはずなのだ。あの日見たインターネットは確かに輝いていたはずなのだ。昨日も今日も永遠に、人々の弱い心の中では強い強いインターネットが煌々と輝き続けているのだ。インターネットは夢であり、インターネットは魂なのだ。インターネットは心を写す鏡なのだ。そして人間の心というものは、現実世界よりも巨大であり、現実世界よりも広大であり、1人1人の心と心が集まれば、それは無限の大きさと無限の力を持つものであるはずなのだ。たとえ無限の力を持たないにしても、永遠の広大さを持つはずなのだ。たとえ永遠の広大さがなくても、永遠の広大さに等しいはずなのだ。なんの役にも立たずとも、なんの力にならずとも、素晴らしいものであるはずなのだ。

その素晴らしい世界を、どうしてアラビア人などという現実世界のくだらなさを持って語ろうとするのだ。無限の永遠世界の衝動を、就職活動などという確かで小さな現実世界の理由付けで説明しようとしてしまうのだ。そうじゃなかったはずだ。そんなんじゃなかったはずだ。僕らが夢見て懸命に生きたインターネットはそんなものじゃなかったはずだ。







あの興奮を覚えているだろう。
あの動機を覚えているだろう。
あの欲望をまるで昨日の事のように思い出せるだろう。

ザッカーバーグの彼女の写真を見て、インターネットがあれば俺だってワンチャンあるかも、と思った事くらいあるだろう。そうなんだよ。そういう事なんだよ。インターネットってのはそういう場所なんだよ。こんなちっぽけな僕だってザッカーバーグに求婚されるんじゃないか、って夢見る事が出来るのがインターネットなんだよ。そりゃあ、あなた方みたいな立派な大人はそんな事は思わないだろう。「おまえみたいなのがザッカーバーグとよろしくやれるわけがない」って頭ごなしに否定するだろう。インターネットはそんなもんじゃないって言うだろう。でも違うんだよ。僕らは本気で思ったんだよ。そして思っているんだよ。ザッカーバーグとワンチャンあるかもって本当に思ったんだよ。信じたんだよ。駆けたんだよ。駆け抜けたんだよ。いや、違う。今だって、今日だって、必死に走っているんだよ。僕らはインターネットの広大な世界でザッカーバーグを手にするために今日も懸命に頑張っているんだよ。完全に無駄な努力を続けているんだよ。人生の貴重な時間を浪費し続けているんだよ。そんな事くらいわかってるよ。今も頑なに信じているからだ。僕等は決してそれをやめない。インターネットという夢を、インターネットという未来を頑なに諦めない。ザッカーバーグと結婚して、おいしい天丼を食べて、良く効く胃薬を飲んで、あったかい布団でぐっすり眠りたいんだ。そして頑張り続ければ、いつか必ずその日が訪れると信じているんだ。インターネットに尽し続ければ、インターネットはきっとその献身に応えてくれる。インターネットは裏切りはしない。裏切るのはいつも人間であり、インターネットは人間ではない。だから絶対に大丈夫なはずなんだ。いつか訪れるはずなんだ。もうこの際だからザッカーバーグじゃなくてもいい。天丼を食べさせてくれるなら誰でもいい。ザッカーバーグみたいな天丼じゃなくてもいい。安い天丼でいい。天屋の天丼でいい。胃薬も諦める。もう天丼さえ食べさせてくれるなら誰でもいい。小林でも恭子でもいいよ。僕は天丼が食べたいんだ。そして天丼を食べる為にするべき事はインターネットであると確信しているのだ。だからブログを書いているんだ。それが完全なる間違いであると理解してはいるけれど、それを確かに信じているんだ。だってそうだろう。インターネットは無限なんだよ。インターネットは最強なんだよ。インターネットは完全なんだよ。インターネットは絶対なんだよ。僕らに残された最後の唯一の希望の光なんだよ。インターネットが無くなれば何も残らないんだよ。現実しか残らないんだ。そうするわけには行かないんだ。インターネットが失われれば僕等は全てを失う。だからこそ僕らは頑張れるんだよ。毎日毎日太陽を思い出せるんだ。

だって覚えているだろう。忘れるわけが無いだろう。始めてフォローされた日のよくわからない嬉しさを、始めてのコメントが付いた日の静かな興奮を、始めていいねって言われた日の現実世界では味わったことのない安堵感を、気になっていた人に言及されて笑顔が止まらなくなった幸せを、ずっと好きだった人にはてブされ、中から木綿のはみ出た掛け布団を抱きしめながら右に左に埃に塗れた床を転がった日の興奮を、僕らは受け取ったはずなんだ。確かに手にしたんだ。現実世界では手にする事の出来なかった興奮を、感動を、勘違いを、思い上がりを、インターネットで手にしたんだよ。1人1人フォロワーが増えていく時の成り上がり感を、一歩一歩インターネットを駆け上っていく疾走感を、このまま走り続ければザッカーバーグに辿り着けるだろうという大いなる勘違いを、決して、決して忘れてはならないんだ。忘れようとしないんだ。忘れたくないんだ。永遠に覚えていたいんだ。

僕等は信じたはずなんだ。インターネットで幸せになれると。インターネットで人生が手に入ると。インターネットで全てが変わるんだと。でもそんな現実は無かった。インターネットでは何も変わらない。愚か者はより愚かに、必死な人はより必死に、悲しみは悲しみを生み、苦しみは苦しみを生む、悪いものを悪く、良いものを良くする力しかインターネットには無かったんだ。そんな事くらい最初からわかっていたし、今だってわかっている。インターネットを突き進めばザッカーバーグに辿り着くなんてのは間違いだった。でも間違いだってわかっていながら、一瞬は信じたはずなんだ。勘違いしたはずなんだ。見誤ったはずなんだ。誰だってそうだ。岡田だってそうだよ。ゆかたんゆかたんとか持ち上げられて末は博士かザッカーバーグって一瞬は思ったはずなんだ。それをどうして現実にアウトソーシングして消し去ってしまうんだよ。毎回毎回そんななんだよ。

インターネットに裏切られたからって、どうしてインターネットを虐げるんだ。インターネットは一度たりとも裏切ってはいない。誰も裏切っちゃいない。にもかかわらず、インターネットを勘違いしたその恥ずかしさを隠蔽する為にインターネットを否定してるだけじゃないか。そういう人達ばかりじゃないか。納得がいかない。どうしてなんだ。どうしてインターネットをそうまでして虐げようとするんだ。自らの恥部を隠すためにインターネットを改竄するんだ。インターネットを殴って、インターネットを蹴り飛ばして、現実世界の大きさと重みと温もりを語る事で一体誰が得をするんだ。僕にはわからない。本当にわからない。だって、みんな知っているんだ。インターネットなんてくだらない。インターネットを頑張ってもインターネットは助けてくれやしないって事くらい、誰だって解っているんだ。頭では解っているんだ。それでも、だからと言って、インターネットで見た一瞬の夢を、星の瞬きを、他の物事で塗りつぶしていいって事にはなりやしないだろう。

正直に言うべきなんだよ。興奮したって。震えたって。インターネットで誰かに認められて、心臓がどくんどくん言ったって。人間の脳味噌なんて1万年前から変わらない。だから10人から認められればびっくりするんだよ。嬉しいんだよ。感動するんだよ。興奮するんだよ。現実ではそんな事はない。滅多とない。カルタゴを滅ぼすべきである、って言っても誰も耳を貸さない。精々野良犬に吠えられるくらいだ。それがインターネットでは違う。5人10人簡単に集まる。だからこそ人はインターネットを見誤る。勘違いする。思い上がる。間違った興奮を覚え、身に余る欲望を抱き、的外れな期待を託し、肥大化した夢をインターネットに託してはその後に、黒歴史として隠蔽しようとする。

「そんなんじゃなかった」
と語ろうとするんだ。皆そうなんだ。あれは暇だっただけ、あれは身内に向けて書いていただけ、あれは就活の為だっただけ、あれはアラビア語が嬉しかっただけ・・・。そうじゃないだろ。そんなんじゃないだろ。インターネットはいつだってそうだった。人の感覚を撹乱し、現実を誤認させ、おかしな興奮に巻き込んだんだ。それがインターネットだったし、それがインターネットなんだ。インターネットで得た興奮と感動を、インターネットで抱いた野心を、インターネットで見た夢を、インターネットで愛した人を、インターネットで残した軌跡を、僕らは決して捨て去るべきではないし、微塵も恥じるべきではない。僕らは全力でインターネットしたし、全てをなげうってインターネットしたじゃないか。

だからこそ、今、はっきりと言うんだ。僕らがインターネットをするのはザッカーバーグの為ではなく、インターネットの為でもなく、ましてや自分自身の為でもない。愛の為だ。真実の為だ。確かに存在したはずの、真実の愛の為なんだ。