この夏に僕がした事。

行かねばならない。
誰かの為ではなく、自分自身のために。










歩こうと思った。
叶うならば走ろうと思った。

歩けばどこかに辿り着く。
走ればより早く着く。
それを信じていた。

歩けばどこかに行ける。それを信じると言うことは、歩かなければ何も起きないと思い込む事だった。ずっと止まったままで居られる。何も変化は起きない。そう信じていた。信じるだけだった。何も考えはしなかった。一度として考えた事も、想像した事も無かった。だから僕は歩かなかった。走るだなんてとんでもなかった。一歩も動かなかった。微動だにしなかった。そうすれば、全てが止まって見えた。何も変わらないはずだった。けれどもカーテンの奥の窓の外側で、世界は止まらず動いていた。誰かは走り、誰かは戦っていた。それに気がついて、僕は困った。焦りを覚えた。そして自分に問いかけた「どうすればいいんだ」と。

どうもこうも無かった。僕には何も無かった。これまで一日も欠かさず全力で逃げ続けてきたのだ。椅子に座り、目を伏せ、微動だにしない事は、即ち逃げる事だった。全てから目を背け、考える事から逃げていたのだ。




カーネギーは言った。

自分を変えなければ、他人を変える事は出来ない。
自分が変わらなければ、世界も変わらない。




僕はカーネギーを信じた。
変わらずに有ろうとした。
成し得る限り、変化を拒んだ。

自分が変わらない限り、他の誰かも変わらない。
自分が変わらない限り、世界は少しも動かない。
そう信じていた。それだけを信じていた。

だから逃げ続けた。
考える事から逃げた。
向き合う事から逃げた。
来るべき未来から逃げた。
変わらずに居ようとし続けた。
その積み重ねが今の自分だった。
逃げ続けた結果が今日の僕だった。




全てが間違っていた。僕が逃げている間にも、誰かは戦い、誰かは苦しんでいた。逃げているのは自分だけだった。それに気がつき、途方に暮れた。「どうすればいい」と問われて困り果てた。僕に出来る事は何も無かった。仮にあったとしても、そうする勇気が無かった。金もなく、服もなく、靴もなく、社会経験もなく、言葉を紡ぐ担保もなく、愚かさと間抜けさだけを抱えた臆病者。それが自分だった。出来る事は幾らでもあった。すべき事も幾つでもあった。ただ自信が無かった。傷つきたくなかったのだ。だから何もしなかった。キーボードの上に左手と右手を載せて、口を開けて座っていた。夜が明けて、日が暮れて、思った。行かねばならぬ。




そうして僕は夏を歩いた。走ろうと思ったが足音に怯え、アスファルトの上をそっと歩いた。空を見上げて月の小ささに驚いた。インターネットでは巨大に見えた月が、親指ほどの太さしか無かった。季節を無視した春の虫と、季節を無視した秋の虫が鳴いていた。夜は夏でありながら、他の季節を混ぜ込んでいた。純潔の夏の暴力に怯え、夜である事に救いを感じた。知らない光景ばかりだった。何故なんだろうと疑問に思った。答えを探しはしなかった。

突然、蝉の声が聞こえてきた。小さな一本の立木が、蝉の声で埋め尽くされていた。蝉はその木だけで鳴いていた。壊れた蛍光灯のように鳴く、真夜中の蝉がそこだけに居た。不思議な事もあるもんだと、立ち止まってしばらく見ていた。真っ暗なので何も見えず、一歩近づく勇気も無かった。蝉の姿は見えなかった。この蝉が何者なのか、帰ってググろうとそれだけ思った。何をするでもなく、何を思うでもなく、ただ蝉の音を聞いていた。高い高い電信柱のたわんだ電線がひっきりなしに、頭上で電気を運んでいた。蝉たちはずっと同じ木で、変わることなく鳴いていた。

一歩進むと一歩離れ、一歩進むと一歩遠のいた。それでも蝉は鳴いていた。柑橘系の立木か何かだろうと、曖昧な予想を頭に浮かべた。予想でもなんでもなく、ただ思っただけだった。何一つ検証されず、何一つ確かめられる事は無かった。夏を歩いて尚、僕は何も考えていなかった。考える事から逃げていた。とにかく誰かが怖かった。何者にも触れたくなかった。カーネギズムを信じていた。世界に干渉したくなかった。だから歩きたくなんてなかった。それでも歩いた。誰かの為ではなく、自分自身の為に行かねばならぬと強く思った。保身の為だった。身を守るためだった。

歩くことがどのように自分の身を守り、どのように救いを齎すのか、まったく想像は出来なかったけれど、僕は歩き続けた。歩かないよりマシだと思った。白線の内側を歩き続けていると、右の靴が何かを蹴った。ミリリリリリリィと羽音が鳴った。肘から上に鳥肌が立った。少し転がりそして止まった。蝉だった。蝉を蹴飛ばした。動揺し、途端に機嫌が悪くなった。なぜ蝉が路上に居るのだ。憤慨した。許せなかった。蝉は蝉の木に止まっているべきだったのだ。そうすれば蹴飛ばされる事など無かったのだ。そしてさらなる言い訳を探した。

「蝉は死ぬものだ。」

当たり前の事実に気がつき、気が楽になった。そうだ。大切な事を忘れれていたのだ。蝉は死ぬのだ。僕が蹴らずとも蝉は死ぬ。それどころか、路上に落ちているような蝉は、死にかけの蝉なのだ。死ぬ寸前だったのだ。生きて、生きて、十分生きて、ちょうど死ぬ日に落ちていたのだ。死ぬ日が来たから路上に居たのだ。僕が蹴った事は蝉にとって痛みではないし、苦しみでもない。死ぬはずだった蝉は死ぬ。死ぬはずだった蝉が死んだ。それ以上でもそれ以下でもない。僕は何もしていない。悪い事などしていない。蝉を蹴飛ばしてすらいない。蝉をはじめに見た時から、蝉が死ぬ事くらいはわかっていた。みんなわかっていた。僕だけじゃない。みんな知っていた。蝉は死ぬものだと知っていた。僕だけが知っていて、僕だけが蹴飛ばしたわけじゃない。皆して蹴飛ばしたんだ。僕が歩いたのは夏の夜のただの一日の数時間だ。ほんの僅かな一瞬だ。その一瞬に落ちていた蝉が悪いのだ。僕は悪くない。死にかけの蝉が悪いのだ。僕はただ自分自身の為に、他の誰かの為ではなく、自らの身を守るため、ただ保身の為に夜を歩いただけなのだ。たまたまその時その瞬間に、落ちてた蝉が悪いのだ。僕は一歩も歩いちゃいない。何もしていない。どんな蝉をも蹴飛ばしてはいない。蝉の声すら聞いていない。ずっと何もしなかった。座っていただけだ。あの夜だって何もしなかった。









この夏に僕がしたのは、自分の為に歩き、死にかけの蝉を蹴飛ばしただけ。
そして僕にはもうその夏が、どの夏であったのかすら、思い出せずに居る。