2005年4月20日水曜日
物凄く重い。
技術上の問題点だったみたいです。
で、一番心配したのが誰かからNGが入ったのかという事なんだけど、そうではないみたいでそれが一番安心しました。駄目な事はちゃんと駄目で区切って何も書いていないので大丈夫だと思ってたんですがやっぱりなんか不安みたいなものもあったりしてまあ非常に動揺しました。
何が一番悲しいって、まなめ新聞とかとゆー家から1000人くらい読みに来てくれてたかもしれないのにその人達に向けて全部読み込み画面5分からの404が提供されたのかと思うと精神的に辛いものがある。というかアクセス数の推移とか見てたらマジ泣きそうだ。1、0、0、96て。なんか悲しさは残るのですが復活したのでシューティング脳放題です。
というか、投稿自体削除してしまいました。
コメントつけてくださった方申し訳ございませんでした。
今復活したのでとりあえずもう一度上げてみます。
2005年4月18日月曜日
凄いエントリー
まったく同じ文章であっても、誰が書いたのかによってその価値は変化する。
中村光一が「運です」と言えば泣けるし、
飯野賢治が「運です」と言えば殴りたくなる。
湯川栄一が「運です」と言えば引くけれど、
山内溥が「運です」と言えば、なんかひれ伏す。
それは、ブログであっても同じ事だ。
凄いブロガーのブログは何が書かれていても凄いし、駄目なブロガーのブログはどんな事が書かれていても駄目だ。色眼鏡だというのではなく、事実としてそうなのだ。
ブログにおいて問われるのは文章の質ではなく、人間の質なのだ。
残念な事に、あるいは、喜ばしい事に。
なにを書いても凄い、といった状態に突入したブログは無敵だ。
例えば、本能寺以後の明智光秀がブログを書いたら、それこそ何を書いても面白いだろう。
社長ブログなどはある意味ではそのような状態に近かったのに、物凄くつまらなかったのは、堀江貴文という人間のブロガーとしての力の無さだろう。彼には、ウェブ上で凄い文章というものを書く上で必要なものが全て欠けているように思える。
「いや、あれは実はゴーストライターで本当の堀江貴文は物凄く面白いのです」みたいな起死回生の言い訳が存在するのかもしれないけれど。そんな話はアリエモン。
凄いブログというものの1つとして、その人にしか見えない世界を書くというものがある。B級アイドルやB級キャッチャー、B級弁護士やB級声優のブログが凄いのは、その人にしか書けない内側からのブログだからである。
ビバリーヒルズが青春の苦悩を内側から描き、ERが緊急医療室の苦悩を、アリーマクビールが独身女の苦悩を、ヒルズに恋してがプログラマーの苦悩をリアルに描いて成功したように、凄いブログに必須なものは、リアルさと誠実さだ。悪く言うと苦悩であり、良く言うと呵責だ。
内側からのブログというものは抜群に面白い。
ブログが無かったら決して読めなかったであろうクラスの書き手の日常というものがブログによって読む事が出来るようになった時代というものは、本当に楽しく素晴らしい。
もちろん、内側からならなんだってよいわけではなく、やっぱり問われるのはその人の誠実さみたいなもの、一人としての説得力だと思うのだけれど。
人の不幸は蜜の味とはよくいったもので、人としての説得力を持つ誰かが悩んでいる文章を「フーン」と流すのはとても心地良いウェブサーフィンだ。一般に言う面白さはまったくなくても面白いのだ。
そのリアルさというものは、別に職業や身分などではなくてもよい。
書き積み重ねてきた文章により生み出された立ち姿でも構わないのである。
同じように、その悩みは別に深刻なものでなくても構わない。
土鍋で上手くご飯が炊けないとかパンツ履いていたとかそういうレベルでいいのだ。
誠実で正直であれば、その内容は問われないのだ。
話は変わるという訳でもないのだけれど、とあるブログが光を失った。
もちろん、僕の中での話しであり、世間的にはどうだか知らない。
そのブログが凄かったのは、棺桶の中から「まだ生き返れるんじゃないか」「いや、もう無理だよ」といった実況中継を行っていた点にあった。
そりゃあもう物凄くて、初見で過去ログ全部読んだくらいに面白かった。
けれども、そこから抜け出た瞬間にそれはもう全部無くなってしまった。
批判は私怨に見えてしまうし、分析は嘲笑に見えてしまう。
砂の船から逃げ出した勝ち組狸による負け組批判が面白いわけがない。もちろん、それが完璧な文章であればそれであっても面白いのだろうけれど、そういう重さは感じられない。
ところが、ウェブ上には同じような私怨に近い感情を抱く人間がいる。
ブログ読者には自分をブログの味方だと位置づける人が多いのだ。だから、その凄さとは無関係にブログとしてはこれから先も隆盛を極めるのだろうなと思う。旧来の面白さに引き寄せられていた人はそれなりに消えつつも読み続けるだろうし。
けれども、何を書いても凄かった時代は過ぎ去ったのだろうなという感じがする。まるで、当ブログのように。
真性引き篭もりで言うと、何を書いても凄かったのはDOTA allstarsのCDキーを咀嚼して飲み込むまでだ。DOTA allsatarsが書けなくなった時点で僕はブロガーとしての価値を失ってしまったのだ。まったく、愚かな事をしてしまった。
けれども世の中にはDOTA allstars以外の事に興味があるウェブサーファーの方が圧倒的に多い。今の僕がDOTA allsatarだった頃の自分よりも凄いとは思えないのだけれど、それとはかけ離れた所で一人何かが歩いている。
まあ、「拾われたくらいで動揺するな」と書いておきながら拾われて動揺しまくり誤字脱字を直したりリンク張ってみたり後悔して慌ててリンク外してみたりというあたふたを繰り返す真性引き篭もりhankakueisuuというのは、ある意味では物凄くリアルなのかもしれないけれど。10コメント中9コメント記名とかありえないから。マジで。
凄さを計る物差しが存在していない以上、凄さを指し示す事は出来ない。
なんか滅茶苦茶な文章だな。
うお、23時59分だ投稿してしまおう。
カレンダーを埋める為の投稿を罵倒しておいてカレンダーを埋める為に慌てて投稿ボタンを押すという、凄さの欠片も無い投稿。
まあいいや。
頑張って、頑張って、DOTA allsatarsなんて無くても凄さを取り戻せる日が来るまで頑張って書いて、まあその結果として取り戻せたらそれでいいし、取り戻せなくたってそれでいいか。
失われたものを取り戻せるか取り戻せぬかなんて、運だ。
1つ1つ積み上げなおせば、取り戻せるかもしれないし。
重要なのは積み重ねる事だ。取り戻せないかもしれないけれど。
運だ。そんなもの運だ。全部運だ。
「運です山脈」
2005年4月17日日曜日
一日中ゲームをしていた。
一日中ゲームをしていた。
という文章が不真面目である事の証明になった今日、何を行えば僕は誠実さを証明する事が出来るのだろうか。
少し前までは、一日中ゲームをしていたという事実をブログに書くという事は真面目である事であり、誠実さの証明でもあった。
それが今では、不誠実さの証明になってしまっている。
この変化はあまりにも極から極で、残酷だ。
時間の流れと共に移り変わらないものはない。
僕だって変わらねばならないのだろう。
だが、急激な変化は痛みを伴う。
痛みを耐え切られるだけの体力があればいいのだが、無い場合はどうなるのだろう。一体何が残るのだろう。
痛みを感じなくなる位に傲慢になるのが一番手っ取り早いのだろうと思う。
その、傲慢になる事自体が耐え難い痛みである場合は一体どうすればいいのだ。
ありとあらゆる間違い。
ブログを1つ書くたびに、それが1つ露呈する。
けれどもその間違いを正せる力が僕にはなく、間違ってるよと笑うしかない。
火の手の上がったスーパーマーケットを遠巻きに見守る野次馬。
消せないし、守れない。何一つ残らない。
笑うべきなのだ。
笑えばいいのだ。
そうすれば、少しは楽になる。
けれども、もはや笑えるだけの体力が残っていない。
とりあえず、ブログを書くべきなのだろう。ブログを。
人生の中心に矢口真里やmixiやパチスロがあるという人間が健全ではないように、人生の中心にブログがあるという状況は健全ではないという事実は理解出来る。
では、何があれば健全なのだ。
義務か仕事か愛する人か、夢か希望かDOTA allsatarsか。
そのようなものは、どこにも転がってはいない。
探して求めて掴み取らねば手に入らない。
当たり前の事ではあるが、健全さというものは生じるものではなく、掴み取るものなのだ。
それを行えるだけの体力が僕にはもう残っていない。
極めて軟弱、ゆるゆる、どろどろ、べぢょー、ぐじゃー。
もう少し体力があれば色々と遊べたろうなと思ったりもする。
楽しかったろうな、と思ったりもする。
けれども、もう贅沢は言わない。
今はブログを1つ書くだけの体力が1日1度湧けばいい。
あとは一日中ゲームをするだけの体力があれば、それだけでいい。
それすら無くても良いか。
もう既に無くなりつつあるし。
2005年4月15日金曜日
アマゾンアソシエイト募金
アマゾンアソシエイトの仲介料収入を特定の団体へとそっくりそのまま募金する事が出来る、新たなるアソシエイトプランが実施される事を目指す。
求めるもの。
・アソシエイト募金プランの新設。
従来のアソシエイトから収入を寄付するのではなく、まったく新しいプランの導入。
アソシエイト募金経由でクリックした場合は、左上のロゴを募金系のものに変化させる等の、「募金なら・・・」といった形での購買意欲を刺激出来る明確な表示。
同時に、募金を騙って自らのリンクから買わせようとする者への抑止。
可能であればアソシエイト募金ユーザー用の外観の異なる検索窓。
・募金先を複数の候補の中から選択出来る事。
日本人は募金先というものをユニセフくらいしか知らないので、災害時にはいらないものまで送られたり24時間番組に札束が舞うといった、善意と善行のアンバランスが生まれている。
アマゾンは募金先を探す手助けをし、ユーザーは募金を行ったという満足を得て、アマゾンは売り上げ益を得るという三者三得。
アマゾン側のメリット
・企業イメージの向上。
・これまでアマゾンをスルーしていた層へのアピール。
・アソシエイトユーザー数増による、露出と利益の拡大。
・購入を迷う人間に「これは募金だ!」と購買意欲を後押しする悪魔的効果。
アソシエイト募金ユーザー側のメリット
・アソシエイトレポートにより、ウェブサイト読者動向を知る事が出来る。
Googleから奇妙な検索でお客さんが来ているのを見つけて楽しむものの発展系。
凄く無駄な情報だけど面白い。
・なんかいい人をアピール出来る。
この層は相当数いると思う。
アソシエイト募金を通じて購入するアマゾンユーザーのメリット
・なんかいい事した気分になる。
・募金するんだ!と正当化する事で地雷ソフトに突撃する勇気が芽生える。
とりあえず現段階ではここまで。
こういうプロ市民的なものってここからどうすればいいんだろう。
ありとあらゆるお問い合わせに定型文を返すとの悪名高いamazonのどこにどのようなメールを送ると「前向きに検討します」みたいな適切な対処が行われるのかよく解らなくて困っているところであり、誰か助け舟出してよー、みたいな物凄い頼りなさげでトラックバックとかくれたら嬉しい空気。
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一番大事メリットを挙げるのを忘れていた。
募金によって救われる人がいるというメリット。
吉村智樹は馬鹿だ。
僕が心の底から愛し楽しんでいるmixiをこじつけで誹謗中傷する馬鹿を発見して流石にムカついたのでちょっとだけ書いてみる。
事のあらすじ。
・よろしくやりたいと思っていた女がmixiで男とできた。
・それに嫉妬し激昂し、ブログで暴言を吐く吉村智樹(40)。
じゃ、本編。
誰かにいやがらせされたわけでも中傷されたわけでもありません。
されたとしても、なんともない。むしろ被虐的な喜びに震えますよ
と書いておきながら、会った事のあるいい女が他の男と上手くやるのはエキサイトを使ってインターネットに罵るくらいに我慢が出来ませんか。
それは被虐どうこうより、モテないキモ男の卑屈な罵倒でしょう。
おとつい書いたことが、肝心の伝わるべき人に伝わらなかった。「気をつけろ」って書いたのに……。危険な男がいっぱいいるからって書いたのに。リスキーなことをわかって書いたのに。
凄まじいまでの迷惑ブログだ。迷惑ブロガーだ。迷惑投稿だ。
続く文章がまた凄くて、
よりによって、聡明だと思っていたあなたがたが……。
あなたが三点リーダ三点リーダ。
キモいよーーーーーーー。
たすけてキモいよーーーーーー。
ぶちまけられた方はたまったもんじゃないですね。
今頃きっと
「ねえ、なんかキモいのがキモい事言ってる・・・どうしよう・・・キモいよ・・・」
「あ、ほんとだ、僕らの事だね・・・」
「ま、ほっときゃいっかー・・・で、来週さぁ」
「うん?」
みたいな会話が為されているんでしょうね。
キモブログ飛び出して地固まる、みたいな。
僕は考え違いをしていたようです。買いかぶっていたようです。いままでの評価も白紙です。男の裏の顔を知らなすぎるよ。
白紙って言われても、貴方に評価されたい淑女なんていません。
ご安心ください。裏の顔をご存知な教養人様。
まさにいま起きてるリアルなことを書いたんです。
リアルだ。物凄くリアルだ。
惚れた女がmixiでよろしくやりかけているのをエキサイトブログの投稿というインターネットの力を借りた傲慢な暴力でなんとかして止めようとする必死なキモ男(40歳)姓名吉村智樹(笑)。
素敵だ。
電車男も真っ青だ。
ほんわか癒しのラブ系ストーリーだ。
なんせ僕は男なので、意外と男に詳しいのです。
いやあ、流石ですね。お詳しい。イメクラ3件はしごしたのを誇らしげに自慢できる40歳の崇高な思考漂う文章というものは腹を抱えて匍匐絶倒、格調高さと清潔感が違いますね。
*あと別件ですが、今後、東京でのうちの事務所主催の自主イベントは一切いたしません。これ以上、被害者は増やせない。
全然別件じゃないでしょう。
まんまその話題じゃないですか。
これ以上、被害者は増やせない。
被害者(笑)
40歳男性(笑)
3件はしご(笑)
「あわよくば」側のひとり、オンナ大好きの好色一代です。
だったのに、自分が上手く行かなければ手のひら返してそれですか。
いやー、そりゃあ、うまくはいかないでしょうねぇ・・・ええ。ほんと。
聡明だと思っていたあなた……
に対し、
かどわかし、あわよくば、です
って、どれだけ明治大正な脳みそなんですか。
はしごして言う台詞ですか?(笑)
その、やりたいだけの男に食われる女、って構図以外の男と女を想像出来ない人生をどうにかした方がいいんじゃないでしょうか。やりたいのは男だけでやられるのは女、ってそれは貴方が金を投じてよろしくやっているという物凄い小さな範囲の小さな人生経験に基づいた台詞であり、なんの説得力もありません。
いや、逆に言うと物凄く説得力があるのですが。
ネットエチケットには、かなり気をつけていたはずです。
と書いたその筆乾かぬ内に、
あそこにいると、ほんとになにもかもワケがわからなくなるんでしょうね……
ですか。
いやあ、さすがですね。
あそこにいない吉村さんはなにもかもわかってらっしゃる。
そういうやつら、「ワレ、か弱い女性たちに、なんてことしてくれてるんじゃ!」と粉になるまでどつきまわしたい気持ちです。
平和主義者ですねー。さすがはブログ。
負け犬どもがストレスの捌け口を求めて暴言を吐き続けるという典型的なパターンを粉になるまでワレで行く3歳はしごな40件ですね。
流し目で嘗め回していたいい女がmixiでいい男とくっつきそうだからと、無関係であるソーシャルネットのネガティブキャンペーンをよりによってエキサイトでぬけぬけのうのうとやりのけるその卑怯さに呆れ果てました。
ま、いい。もうどうでもいい。知りません。他人の人生です。おせっかいだったようです。自分の仕事だけに専念します。
出た!勝利宣言!
戦略的撤退って言うんでしたっけ?
敗走、遁走、引き篭もり宣言。
俺は見ないよウムエッヘンって、駝鳥ですかエミューですか。
衝撃的なおもしろ3件おもしろブログ。
もうあそこに入り浸りで頭がぼーっとなってしまった人たちを、僕は「拒否」「削除」し、生活上の「アクセスブロック」していくしかないようです。
お言葉ですが、拒否削除しなくても願い下げられていると思われます。
あのシステムへの仕返し。敵討ちです。
革新的ネット自己中エチケットですね。
無関係のネットベンチャーとそのユーザーを言葉の限り誹謗中傷する前に、ご自分のお顔と人生を粉になるまでどつきまわす事から始めてはいかがでしょうか。
2005年4月14日木曜日
悪いアマゾン良いアマゾン
アマゾンアソシエイトにNOと言えが一月を経て着火して、その頃ちょうど運悪く物凄く忙しかったので反応できずにいたのだけれど、一通り読んでみた感想としては当たり障りの無い人は当たり障りが無いし、ごもっともな人はごもっともだし、頑張っている人は自己弁護と正当化に終始するを頑張っている有様で嘲笑の余地も無い程に惨めであり、反応する余地が無かったというのが実情である。
僕の立場は良いアマゾンアソシエイトなど存在しないというものであり、それはこれからも変わらないだろうと思うし、変える必要も無いと思う。
ただ、色々と見たり考えたりした結果、少しはぬるくなった。
アマゾンアソシエイターの手によって、amazon.co.jpとブログが無ければウェブ上に存在していなかった文章が昨日も今日も、そして明日も絶える事なく作り出され続けているのは紛い無き事実である。
amazon.co.jpが無かった頃、1つのゲームについて真面目に全文章を書き上げるという事は物凄く困難な作業であり、それを成し遂げられるのは愛か狂気が執念か、といった所であった。
それが今ではまったく違う。
以前ならば明らかに日記の中にわずか8文字「○○買ってプレイ中」といったものであったのが、アソシエイトの力を借りて10列9行の文章に化ける。とりあえずamazon、とりあえずamazonといったからっぽ文章の量産体勢が完全に確立され、amazon.co.jpが無くても書いていたであろう書き手によるamazon.co.jpが無くてもウェブ上に存在していたであろう文章はインターネットの闇に消え、深く埋もれて見失われた。実に腹立たしい。
とはいえ、amazon.co.jpにも良い点がある事を知った。
正確には以前から知ってはいたものの、着地点を見つられずに探しあぐんでいたというだけなのだが。
ウェブサイトの読者は管理人の文章から書き手を知る事が出来る。
しかし、管理人は読者の事を知る術を持たない。
これは、実にアンフェアだ。
ウェブサイトの管理人には読者の事を知りたいという欲望は多分おそらく付き物であり、足跡だとかBBSだとかメールフォームだとか、アクセス解析だといった、あらゆる手を尽くして読み手の事を知ろうとしてきた。
けれども、それでもまだまだ足りずアンフェアである。
書き手は書き手、読み手は読み手であるからして、このアンバランスが完全に解決される事は無い。いや、その問題を解決したのがmixi足跡機能であると考える事も出来るのかもしれないと思うのだが。
そのアンバランスを少しだけ真ん中よりに戻すツールとして、アマゾンアソシエイトというものは使えるのでは無いかと考えた。
アマゾンアソシエイトを導入すると、どの商品が、何回クリックされ、いくつ買われたのか、という情報を読む事が出来る。また、リンクを張っていない商品がリンクを経由して買われた時も、そのレポートを読む事が出来る。
エロゲーが3本まとめて買われていたらエロエロエロだなと思うし、マニアックな漫画本が変われていたらマニアックだなと思うし、一人炊きの炊飯器が買われていたら新生活おめでとうございますと思うのである。
これは結構大きな情報だと思う。
もしもウェブサイトの閲覧者が購入した品物をオンラインオフライン問わずに全て知れるというサイコキネシスなサービスがあったとすれば、月一万円でもやる人はやるだろう。貴方じゃがりこ食べすぎ、みたいな究極の無駄な情報。
amazon.co.jpの場合、amazon経由のクリック数と買い物しか記録されないのであり、月一万円を払う人間などいないだろうが、もっとレポートの読みやすさが改善されたのならば、月額200円分くらいの価値はあると思う。
(適当。はてなカウンターが60円、ライブドアblogProが250円辺りから。)
(もちろん、レポートの可視性が上がる事が最低条件)
ところが、今のamazon.co.jpは金を払うのではなく手に入るという形であり、「アマゾンアソシエイトレポートは有料アクセス解析よりも高性能であり、金を払うだけの価値がある」などと言ってみても荒唐無稽の滑稽であるからして、ふわふわと能天気に浮いたまま着地のしようがない。
しゃんしゃん出来る場所を探していて思い浮かんだのが、寄付である。
思いついたきっかけとしては、自分自身のブログのカテゴリーを眺めていたというものであり、物凄く情けない。
読者の情報を知りたいから、という側でレビューを書いている人間が本当に存在し、彼らがそのamazon.co.jpのアソシエイトレポートに踏ん切りをつけられない位の魅力を感じているとしたら、アマゾンアソシエイト収入の全てを寄付出来るという新アソシエイトプランが導入されれば、1つの解決となりうるのではないかと考えた。
先ごろのクリック募金の大流行や、dffを始めとするクリック募金関連サイトの一定の成功による「マウスだけで出来る善行」みたいなものの需要があることは確実である。
また、白血病解析サイトといったものが一定数の人数を集めて成功している事などからも、アソシエイト収入の全額を寄付する事が出来るアマゾンアソシエイトプランというものが導入された時に、飛びつく人は多いのではないかと思うに至った。
アマゾンアソシエイトというのは、既に現金還元を導入しており、現金に変換する事が不可能である楽天やソフマップのポイントとは違う。また、当然の事であるが、売れれば売れる程amazonは儲かるわけで寄付プランのアソシエイターがどれだけ増えた所でアマゾンは何も痛くない。
その本来アソシエイターへ分配していた現金をそのまま寄付に回すというのは、コスト的にも苦しいものではないと思うし、本来アマゾンアソシエイトに参加していなかった潔癖主義者達がアマゾンの売り子と化してくれる事や、善行需要対象者への宣伝効果とグーグル公共広告を上回る企業イメージの向上等を考えると、損をする人はいないように思える。
納得できる寄付先を探すというのは物凄い労力のいる作業で、
「寄付をしてもいいと考える団体を3つ挙げてください」
というのに回答出来る人はかなり少ないのではないかと思うくらいである。
その寄付先を探す作業をamazonが代行し、
・地域別
・課題別(赤、緑、他。)
・行動別(赤で言うと、予防接種、緊急医療、医師の育成、等。)
といった風に分類して好きな寄付先をクリック1つで選択出来るようになれば、それなりに需要があるのではなかろうか。
例えば、「アフリカで栄養失調」というものや「南米で植樹」「沖縄でサンゴ」「アジアで孤児」なんてものの寄付先を探す労力を費やせる人間はいなくても、アソシエイトレポートのついでに表示された「アフリカで栄養失調」や「北米で貧困」をクリックするのは可能な作業であり、楽であり、需要があると本気で考えるのだが、ややアレか。
スマトラ地震の際のはてな義援金に手数料が不要だった事などは、生粋のアンチはてなスタである僕の中で奇跡的なまでの企業イメージの向上があったし。
色々書き忘れた事が物凄く一杯あるのだけれどとりあえず今日はこの辺で。
とりあえずもっと頑張ってきちんとしたものを書こうと思っていたのだけれど、こういう緩い文章になってしまったのは、「もう既にやっているんじゃないか」という不安があり、検索能力の低さを晒す赤っ恥ってのが嫌だったからであり、アマゾンアソシエイト寄付、というものがまだ存在していないという確信が得られたならば、また近いうちにちゃんと書き直すつもり。
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確信を得られたので書いてみたけど甲の無い文章になってしまった・・・
これじゃあ駄目だろうな。
一応僕の立場を表明しておくと、過去にクリック募金を人に薦める人は頭がおかしいで書いたとおり、クリック募金を人に薦める人は頭がおかしいと思っているので、アソシエイト募金についても同じように思う。正確に言うと、アソシエイト募金ユーザーの方が嫌い。クリックする側(買う側)へのイメージみたいなものは、物凄くとまではいかないものの、かなりいい。
って、存在そのものが無いもののユーザーを好きだ嫌いだと書いた所でまったく意味が無いか。本当に導入される日が来るといいなぁ。
悪い話じゃないと思うんだけど、noobなのかなぁ……
2005年4月13日水曜日
スーパーが必要だ。
幸せになるべきである人間が不幸せであるという事実は悪夢だ。
幸せになるべき人は幸せになるべきであるからだ。
不幸せになるべきである人間が幸せを謳歌しているという事実も悪夢だ。
不幸せになるべき人は不幸せになるべきであるからだ。
その点だけを取ってみれば、ここは地獄だ。
血も涙も無い、壊れた希望の埋もれた荒原の裾野だ。
けれども、それだけではない。
幸せになるべき人が幸せになる事もあれば、
不幸せになるべき人が不幸せになる事もある。
そんな例はそう多くは無いのかもしれないけれど、良い人が良い人生を送り、悪い人が悪い人生を過ごしているという事実が少しでも存在する限り、世の中捨てたもんじゃない。
一見因果関係があるように思われても、実際の所は適当である。
上手くいく奴はうまくいくし、上手くいかない奴はうまくいかない。
出来る事といったら精々、徒労を繰り返し続けるか目標を手の届く所まで下げるくらいのものである。それかもう、この際だからと諦めるかだ。
うまくいく時はうまくいくし、うまくいかない時はうまくいかない。
そんなものだと思う。
うまくいく、ってのは一体なんなんだろう。
「スーパーサイヤ人になりたい」
ってのは無理なわけである。
絶対にそのような願いが成就される事は無いわけである。
もし、本気で「スーパーサイヤ人になりたい」と思っている人がいたとして、その人にとっての最高のうまくいった結末というのは、どの程度のレベルのものなのかと悩んだ。
スーパーサイヤ人になりたいと願いながらスーパーに勉強して、スーパーに友達と山に登って花を見て、スーパーな学校に行ってスーパーに部活動。
スーパーに甘酸っぱいすれ違いの果てにスーパーな出会いが訪れて、それはスーパーな時間の流れに切り裂かれて終わってしまい、スーパーな思い出だけを残し、真新しいあかぬけた女とよろしくスーパー。やがてスーパーに卒業してスーパーに就職。スーパーな結婚をしたものの浮気がバレてスーパー修羅場。
そんな修羅場もスーパーな嘘で切り抜け、誰からも頼られるようなスーパーな大人物となってスーパーな働き盛りをスーパーに生き抜くスーパー人間。
けれどもそのように全てが上手く運んだとしても、それはスーパーであるだけでありサイヤ人では無いからして、うまくいったとは言い切れない。
言い切れないからといって、お前の人生は失敗だったとスーパー人間に告げるのは酷というものだろう。それが完璧でなかったとしても想定し得る現実的に、かなり優れた結果が出たなら、それをもってうまくいったとするべきなのだろうと思う。
では、僕の人生において最高のうまくいった状態、うまくいった人生ってのはどんなものなのだろうかと少し思い悩んだ。
赤鬼も空飛ぶ魔女もおっさんも化け物も全部倒して、その先のでっかい奴も倒して、クロウルは59分59秒で勝利というか脱出して、normlistで100万点して、どうにかしてDOTA allsatarsを取り戻して、適当なブログを毎日書いて、お腹を壊さずに頭痛もほどほど、たまに自分の愚かさに笑ったりしながらキーボードを叩いてというのが最高のケースであろうと思う。
しかし、これはいくらなんでも望みすぎでありスーパーサイヤ人だ。
どう贔屓目に見ても不可能であるからして、適当な妥協点、即ちスーパーが必要だ。
スーパー、スーパー、スーパー。
難しい。
何もかも不可能に思える一方で、願うにも値しないぞろり地を這うハードルが靴の周りをぐるりと包囲している。そんなものをスーパーであると設定し、うまくいったと喜ぶ事なんて出来やしない。あまりにも志が低すぎる。
必要のはそんなものじゃない。
リアル。
現実目標。
適度なスーパー。
例えば、こんなのはどうだろう。
適当に寝て適当に起きて、髪の毛を一本づつ人差し指にくるくるとまきつけキューティクルにして引き抜いて暇を潰したりして、クロウルをダウンロードして自動拾いを書き直し、マップチップをいじった段階で飽き果ててShift+Delete。
行き着けのよろしいブログを巡って全て更新されていないのを確認して激昂し、インターネットリバーシ。勝てない事に激昂し、ピンボール。糞ゲーだと激昂し、行き着けのブログを一周。更新されていない。もう駄目。
仕方が無いのでダンジョンクロウルをダウンロードして自動破壊拾いを書き直すのがめんどくさいのでタイムアタックをせずに普通にプレイ。普通に即宝物庫して普通に負の耐性無いままルーン取って逃げ出す最中に負のブレス連打されて普通に即死。
やるせなくて仕方が無く、メールボックスを確認していると、
SUBJECT:おまんこーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
内容文:ちんぽーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
というメールが届いている。
なんだ、これ・・・一体全体なんなんだ。
真性引き篭もりhankakueisuuに久々に届くメールのレベルはどうしてこうも低いんだ。頭が悪すぎる。けれども、せっかくメールしてくれたものに返事を書かずに無視するってのも悪いなという罪の意識に苛まれ、
何も無かったこのようなブログがここまで来れたのは貴方様のような有形無形のファンの方に支えられての事であります。
そのようなわけで、個人的にですがこういう下品なメールであれ、僕としては真に感謝している所であり、有り難く思っております。
今後とも適当によろしくお願い申し上げます。
真性引き篭もりhankakueisuu
と糞くだらないメールに対して物凄く真面目なメールを返信。
どれだけ生真面目なんだと少し落ち込んで、クロウルをShift+Delete。
お腹がすいたので、階段を登っている最中に転んでしまって黒くひしゃげた潰れたバナナを剥いて食う。なんか二酸化炭素みたいな薬物臭がして、吐きそうになるももったいないので頑張って完食。今度からは転ばないようにしよう。左足の脛と足首が痛い。老いたな。
テキストエディタを立ち上げて、今日はどれを書こうかと1時間ほど悩んでから、よろしいブログを一巡りするを4セット。計4時間。これは一体何のトレーニングなんだろう。
とりあえずどうでもいいやと、書く予定一覧に無かった文章を書き上げて投稿。
これってSUPER?
もしかしてSUPER?
なんだ、僕にとってのスーパーとは真性引き篭もりhankakueisuuであったのか。
それならばなんとかなれそうだ。
いや、無理かな、どうだろう。
とりあえず、なれたらいいな。
正真正銘のスーパーに。
純然たる真性引き篭もりhankakueisuuって奴に。
2005年4月11日月曜日
はてなブックマークの便利な使い方
1、はてなのユーザーアカウントを大量に取得する。
2、はてなブックマークに自分のウェブサイトを自作自演で登録しまくる。
3、そこからはてなブックマークユーザーが大量に流れ込む。
4、アフィリエイトで大儲け。
とりあえず手始めに実践として、はてなのアカウントを20個ほど作成して当サイトのアマゾンアソシエイトで買う次世代電子レンジ!という記事を放り込んでみた。よしよし、ちゃんと注目のエントリーって所に表示されてるし、家電カテゴリだとカテゴリトップの登録数だし。完璧だな。僕個人としては、物凄いマイクロ派。
兄さん大事件です。
あらすじ。
ウォークラフト3の世界大会予選に、まったく別のゲーム(カウンターストライク)のトッププレイヤーがエントリー。
彼が率いるチームは、プロ意識の足りないプレイヤーへの批判を行ってちょっとした騒ぎになったという過去があり、局地的スーパーヒール集団。
カウンターストライクとウォークラフト3はまったく別ジャンルのゲームなので、どのような結果になるのか今から楽しみだという内容の投稿。
栃木(笑)
みたいな空気が名前1つで一変した。
これは事件だ。
AOCN5 日本予選参加選手リスト
登録未完了選手
4dn.psymin ! Buddha
欧州選手権3連覇の実績!とか、ミスターレッドソックス!とかそんな感じ。
いや、そういうレベルを遥かに超えている。
過去の強豪だとか、引退したトップ選手の現役復帰だとか、世界を取った伝説の人だとかそういうのじゃなくて、もろに現役の名前、しかも今これ以上にインパクトのある名前は無いというクラスのビッグネームでしかもスーパーヒールときたら、「もしかして、本気と書いてマジと読む?」みたいな空気を感じてとても楽しい。名前だけで人をワクワクさせられる人間というのは生きているだけで価値があるわけで凄く凄い。
で、実際出てきたら
「偵察っつーか、環境確認の下調べに決まってんだろ。
こんな糞ゲー真面目にやってられっかよ(核爆」
とかだったら凄惨だろうな、強烈に。僕の中で。
だって、その名前でそれ言うか、世界中のブリザードエンターテイナーを敵に回したって事だな、よし、みたいな空気になるじゃん、多分。
「横綱がなんで68人しかいないか教えてやりますよ」
みたいな空気だったら和むだろうな、猛烈に。
倒した人はヒーローだろうな。横綱よりは強いだろうし。
まあ、どんだけ本気でやってきたとしてもパッと出の新人に持ってかれるような生ぬるい出場登録面子じゃないので、切符って点では見えてるし。おそらく結果は平凡なもので、ベスト8で1-2とかで消えるといったトキメキの欠片もないようなものだろうとは思うのだけれど。とりあえず現段階では相当なものである。
ここはもう、
高橋名人┐
├┐
毛利名人┘│
├ベスト4へ
psymin─┐│
├┘
梅原大吾┘
koouu─┐
├┐
tenti─┘│
├ベスト4へ
akisaya┐│
├┘
coyote ┘
くらいにK-1やPRIDEが霞む位の衝撃的組み合わせを期待したい。
その準決勝、物凄い高品質な30秒番宣作れるね、って感じのものを。
ところが蓋を開けてみれば毛利名人がベスト4に進出しちゃって慌てふためく運営側、みたいな絵があればもう最高。一生ついて行く。
どうしてか、最近猛烈にリプレイが見たい。
やりたいとかはもう全然無くなったんだけど。
なんで終わったゲームの大会ごときで凄くワクワクしているんのだろう。
あほらし
ついでに、補足解説。
開催日時がウォークラフト→カウンターストライクの順であり、彼自身はカウンターストライクに選手としてはエントリーしていない。
使用する機材や会場は同じなわけで、え、まさかそれって・・・みたいな。
ウォークラフトというゲームをご存知でない方もご存知の方も、真性引き篭もりを読むなんて時間の無駄であり人生の浪費なので今すぐやめるべきです。その中でもこの投稿は特にウォークラフト3をご存知の無い方は読んでも理解不能であると思います。
というかこの際だからもうぶっちゃけて言うけど、ああいう先鋭的なクランがウォークラフトにもいれば1ユーザーとしては楽しいのにと常々思っていた。存在しない事が不満だった。なんかなよなよしたのしかなくて。というのは以前まあちょっと書いたりしたりした通りであり、4dn.psyminがカウンターストライク界に対して行った批判に比較的近いものがあった。その点で4dn.psyminというのは仮想allstars。
よりによってその「こんな人達がいればいいのに」の大ボスが乱入!
しかも迎え撃つのが批判先のリアルエネミーと愉快な仲間達。
おいおい、どっちを応援すればいいんだよ、みたいな。
さあ、どうなる、みたいな。まじですっげーワクワク。
うわー、改めて書いててもほんと興奮しちゃう位に凄い。
ウォークラフト3史上最も刺激的な大会であり、
一部の引き篭もりにとっては衝撃的な大事件。
ブログのアクセス数を上げる方法。
トラックバックスパム。
正直、これに限るよ。
コツとしては、出来るだけ自分のブログに定着してくれる人間の多そうな、つまりは客層が似通ったブログを狙って撃つのが大事。
ちょっとトスったので、今日は500くらい増えるはず。
「追記」
全部削除されたみたいで、そのせいで500くらい増えなかった。
2005年4月10日日曜日
アフィリエイトのススメ
アフィリバナーと糞ガーによって、糞ブログが今日も増え続けているのは紛れも無い事実であり、疑う余地の無い悪夢だ。
けれども、全てのアフィリバナーが悪いわけではない。
時々、アクセスカウンタが怖くなる。
なぜなら、時としてそれは人の心を狂わせるからだ。ちょっと人が増えたくらいでR30までもがピーチクパーチク踊っているのを見たりしたりして、その恐ろしさを再認識した。
ああいうタフな人ならどうって事無いのだろうけれど、僕に代表されるような繊細でか弱く健気な晩生の末端ブロガー達は、アクセスカウンタのはじき出す数字に右往左往を繰り返す。
問題は、アクセス数ではない。
それら読者がどこから来るのかだ。
個人ニュースサイトというジャンルがある。
あれは本当に恐ろしい。
知らない人が突然として、物凄い数で訪れる。当ブログの場合は3~5%くらい定着していただいたような感じもするのだけれど、僕が目にしたいくつかの現場では定着率は見事に0%だった。10が200、500、200を経て10に戻るというのは、相当に堪える。
何かをウェブ上に上げるという事は、誰かに読ませるという事である。
誰かに読んでもらいたいという事である。
基本的には、あくまでも、基本的には。
だもんで、アクセス数が増える事を嬉しいと思わないブロガーはほとんどいない。
悪意を持った匿名掲示板からのリンクだとかいったような例外を除いては。
そういう意味では、大きなサイトの管理人が誰も知らない小さなブログを取り上げるってのは、ニュースサイトの中の人側から見れば「面白い記事へのリンク」という意味だけではなく、分け隔て無くという愛である。
けれども、明らかに違う客層の人が普段の10倍以上も訪れて、それが数日で去ってしまうと普通の人は、結構乱れるものであり、単純にハッピーだとは言い切れない。無慈悲であり、残酷なアクセスだ。
ブログ以前、まだインターネットが物凄く不便だった頃、リンクというものは物凄くいびつに、けれども緻密にか細くか弱く繋がっていて、今で言うソーシャルネットみたいな感じだった。見ず知らずの人が大挙して押し寄せては大潮のように引いてゆくなんて事はあまり無かった。
いや、実は全然知らなくて決めうちで適当に言っているだけなんだけど、多分。
それが今では、ちょっと話題性のある投稿をしただけで、それを目掛けて大勢が訪れるバリアフリーのインターネットになってしまった。クリッピングサイトだけではなくて、トラックバックとか、ブログランキングとか、ソーシャルブックマークとか、色々。
そういう、まったくブロガーには興味の無い読み手がYahooやGooを読むような感覚で訪れては去っていく、という対象にされた時の為に、なんらかの防御策を講じておいた方がいいと思う。
アクセス数が跳ね上がったのを目にして高揚し、力を入れすぎて燃え尽きるのとか、コメントをハンドルネーム入りでつけた人々が次の日にはもう綺麗さっぱりいなくなって一度きりな事に対する喪失感とか、その日のアクセス/dayがずっと一位をキープするのを見て「あの日が自分の書き手としての頂点だったんじゃないか」って落ち込むのとか。
そんな風にならないためにお勧めのアイテムが、これ。
アフィリバナー。
アフィリバナーを自分のブログに貼っておくだけで、アクセス数の跳ね上がりがとろけるプリンや箱説無しのバハムートラグーンに変換されて人生を彩り、変な風に悩み慌てる事無しに、どっしり構えてられるようになるわけである。
アマゾンとグーグルとA8netと電脳卸とカリビアンドットコムとカジノと腐った出会い系だけが唯一貴方の味方なのだ。他は全部敵だ。悪意の無い殺意だ。頼れるものの何も無い弱小ブロガーにとって救世主であり必須アイテムであり、今すぐ張りまくるべきなのだ。
というわけで、本当に!
みんな、今すぐアフィろうよ。
儲けたいとか欲の面とかキモいとか、そんな事は気にせずに、訪れるかもしれない大量の通りすがりによるモチベーション危機に備える為の、護身の為のアドセンス。
微妙な空気になっていて気になるのだけれど、
フォローの仕方がわからない。
適当に、例えば、こんなブログの管理人はカレーライスが好物だ。戦車が好きだが、幼女の裸はもっと好きだ。とか、こんなブログの管理人はkazzyさんの貴重な投稿を闇に葬った大戦犯だ。halenに次ぐ2番手みたいなイメージがあるが、実はyokowake以下だ。とか、こんなブログの管理人は新パッチ情報を10日も信じていたっていうかなんで未だにウォークラフトを追いかけているのか自分でも理解が出来ずに悲しくなる、とか、そういう物凄い適当な酷いコメントをつけてお前だよお前死ね!って自作自演で名指しすればいいのだろうか。。。
まあいいや。あんまり完璧を目指すのはよくない。
トルシエの通訳くらいの勢いのまぬけなブロガーを保ち続けよう。
お化けも飽きたしクロウルを再開しよう。
それにしても、ジャンプアクションというのは残酷である。落ちたら即死というのはいくらなんでも僕には無理だ。その穴には一体何が潜んでるんだ、そこには。もうこの際、その即死穴とよろしくやりたいくらいの恐怖だ。3-3?くらいで3時間くらいハマって投げそうになったし。なんか一見ヌルそうなんだけれどかなりキツかった。っていうか予告で次何書くって書いてたのか忘れた・・・
2005年4月9日土曜日
コメント欄で馬鹿が暴れててマジムカつく
真性引き篭もり管理人真性引き篭もりhankakueisuuとしては、荒らそうが暴れようがスクラム組もうが関せずといった所であり、歓迎するわけでもないけれどまあご自由にというよりはむしろ有り難くといったらなんかけんか売っているみたいであれであり、謹んでとお受け賜るわけだけど、匿名で無関係の第三者を中傷したいなら責任持って門を構えてよそでやれ。っていうか死ね。
2005年4月8日金曜日
2005年4月7日木曜日
2005年4月5日火曜日
ブログ読者はブログを読んでいないという事実
ウェブ上の文章を読む人間は存在しない。
インターネットのウェブサーファーはウェブサイトを閲覧、流し見しこそすれ読みはしない。それはブログに投稿された文章や、投稿につけられたコメントやトラックバックであっても同じ事である。
誰も読んでなどいないのである。
それは悲しいし、切ない事実だ。
けれどもそれはそれでよいのだと感じる。
読み取られたくないような事柄私信を、こっそりひっそり吐き出す事で得られる快感を楽しんでいるブロガーは多い。「うはははは!これわかんねーだろー!」というものを。
それは読者への裏切りであり、背徳の優越を感じさせるに十分だ。
けれども同時に、誰かに読まれたいとも思っている。
1から100を読みとってくれ!と、心のどこかで願っている。
そのバランスが悩ましい。
どれだけ丁寧に書いても100人中100人がその通りに読んでくれるわけではないし、どれだけデコイを並べても、発見され見透かされてしまう事もある。
もし、読まれずスルーされてしまった事柄や、
誤った受け取られ方をしてしまった投稿に対して、
「そうじゃないんだ」
と言おうものなら、その「そうじゃないんだ」自体が違う読み取り方をされ、延々と無意味な誤読のミルフィーユが折り重ねられてしまう。
なにせ、ブログ読者がウェブ上の文章を読まないように、ブログ著者もウェブ上の文章、つまりはコメントやトラックバックを読んでいない事がほとんどなのだから。
ムジュンだ、撤回しろ、説明しろ謝罪しろと、もう滅茶苦茶に炎上だ。
それはあまりに非生産的で疲れる作業で、流し合うしか無いのだろうなと思う。
話せば解るは嘘なんだ。
どこかで誰かが書いていた(#1)のだけれど、ブログは投稿それぞれが独立したものとして扱われてしまう傾向にある。投稿自体が読まれないのだから、当然にして流れ文脈前後の投稿というものも読まれない。
多種多彩な話題を扱ったブログであれば、それがよい方向で機能する事もあるのだけれど、連なり書かれたブログの場合は大変だろうな、と思う。
当ブログの例で言うと、言葉遊びに対して真顔で訂正を求められたり、「こちらがチョキを出したので、グーを出したら勝てますよ!」と説明した後にグーーーーーって叫びながら目の色変えたカレーパンマンが突っ込んできたのを目の当たりにして頭を抱えたり、青い人に想定外のゲレロンをされてあたふたしたり、したりして、本当に難しいものだなと感じた。
では僕が人様のブログをちゃんと読んでるのか?
となると、それもどうやら疑わしい。
明らかに都合のよいカテゴリ-だけを何度も何度も読み返し、よろしくやりたいよろしくやりたいとただそれだけを思い続けているわけで、真性引き篭もりhankakueisuuという読者は書き手にとって物凄く迷惑心外な沈黙のオーディエンスなのだろうと思う。
その疑い、つまりは「誰も読んでくれていないのかもしれない」という不安感と、諦め漂う徒労感を避ける為にブロガーが行うべき事はだだ1つ、読者を信じる事だろう。
コメント欄にも現れず、トラックバックも送ってこない、インターネットの片隅で、呼んでくれている人がいるんだという事を信じて、信じて書くしかないのだろう。
それは100万/dayのウェブサイトでも、3/dayのウェブサイトでも同じ事なのだろうと思う。
ウェブサイトにおける一番の読者は筆者自身である。
どんな文章であれ、最低でも筆者自身という一人の人間はそれを読んでいるのだから、少なくとも一人は読んでくれているんだから、それでいいじゃないか、と思う。伝わったら伝わったで喜べばいいし、伝わらなかったら伝わらなかったで喜ぶべきなんだ。
「0人じゃない」って事実だけでも十分に素晴らしいと思うよ。
そりゃあ、「1人じゃない」って方が素晴らしいのかもしれないけれど。
アイプロミスユア。というわけでもないけれど。というわけで。
僕は読者裏切るし、やりたい放題やるけれど、僕は貴方を信じてる。
なにより僕を安堵させる事実は、真性引き篭もりの読者は真性引き篭もりなんかよりもずっと素晴らしく、よっぽどまともで信じるに価する立派な人間なのだろうという事だ。そういう方々が誤読にしろ一瞥にしろ、当サイトをクリックしてくれているという事は、本当に有り難いと思う。それはとても幸せで。
何一つ伝わらなくても構わないと思う。
すれ違ってばかりでも、どこかで誰かがそれを目にして満足するのなら。
傷つけ馬鹿にしあうのも、1つの癒しの形なのだ。
少なくとも、ウェブ上では。
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ブログと日記/居室待機
言葉遊びに対して真顔で訂正を求められた/幸せは罪である
カレーパンマン/カレーとご飯の神隠し
青い人/ミッドナイト・ホームレス・ブルー Plus One
2005年4月4日月曜日
花粉症(><;)
動かない。
体が動かないのか、頭が動かないのか、心が動かないのか。
何が原因なのかはわからないけれど、指が動かない。
ブログが書けない。
インターネットエクスプローラとテキストエディタの間をマウスカーソルだけが飛び回り続けている。なにも変化しない。
頭の中では序文書き出し投稿内容、段落フレーズ締めの一行といったものが生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。けれども、それらは一行としてブログに変化してくれない。繰り返される沈痛さの波の原因を体調に求める軟弱さ。
感情と、考えと、思い出の全てが異物感となって体中を駆け巡っている。
それらを駆け巡らせているのは僕という人間の中で唯一生真面目さを所有している機関であり、伸縮だけを繰り返す心臓である。少し油断すると、穴という穴から間欠泉、僕というものの全てが体外へ輩出されてしまいそうな恐怖を抱く。一時の油断も許されない。
花粉症だとか春の風邪とかそういう奴だろう。
悪いのは体調不良だ。
僕は何も悪くない。
物凄く正しい。
あと2時間も経てば、完全な僕というものを取り戻せるだろう。
体も頭も心も、普段どおりの活気を取り戻し、やりたい放題ブログれるだろう。
そうなったら、あと2時間ほど経過したら、物凄いブログを書いてやる。
蒸散させて焼き付けて、椅子の布の染みにしてしまうくらいに強烈な奴を。
正しいやつを、凄いやつを。
2005年4月2日土曜日
エイプリルフール
とても悲しい。
その投稿日が4月の1日であるというだけで、その全てが疑われてしまう世界が悲しい。
何を書いても疑われ、何を書いても嘘になる。
インターネット仮死。
ブログが死ぬ日だ。
なにが面白いのかわからない。
そんなに嘘をつきたいのならば、暦を免罪符にする卑怯な後ろ盾を用意せず、自分自身の責任で世界の全てを欺くべきだ。
無責任すぎる。
迷惑だ。
そりゃあまあ、僕は疑われるに値するのだろう。
不誠実な文章を書いてきたし、誰にもわからない事柄を誰にもわからないように書いてきた。書いた本人にすら伝わらないかもしれないという恐怖を抱きながら投稿ボタンを押したのは一度や二度の事ではない。
けれども誠実にやってきたし、責任は全て僕にある。
それが嘘や大げさや紛らわしいであったとすれば、悪いのは僕だ。
責められるべきは真性引き篭もりhankakueisuuだ。
ところが、その投稿日が4月1日であるというただそれだけの理由で、僕は免責され、4月1日という暦が一人断罪される。
僕は投稿するだけの人である。
それがどのように読まれようと、受け止められようと、誤読誤解をされようと、それに対して干渉するつもりはないし、文句を言える立場に無い。
けれども、僕の投稿で僕が放置され、4月1日だ4月1日だと受け取られるのは心外である。
真性引き篭もりの文章がくだらないと判定されれば嘲笑われるべきなのは僕であり、真性引き篭もりの文章が駄目であると判断されれば責め立てられるのは僕であり、真性引き篭もりの文章が意味不明であると判断されれば罵倒されるのは僕なのである。
それが嘘であると読まれれば、責められるのは僕であるべきなのだ。
僕はそこまで卑怯じゃあない。
罪無き暦を責めるのはよせ。
いけない冤罪。
真性引き篭もりの投稿に対する罵倒嘲笑鼻笑い、軽蔑蔑視罵り反射の全ては僕に向けられるべきであり、それを暦に向けるなどというのは全然違うのである。
エイプリルフールなんて糞っくらえだ。
死んでしまえ。
荒らしは放置で、
何も考えずにただその瞬間、適当に思った事を書き残すというのは物凄く本位では無いのだけれど、どうしても書きたくなってしまったので投稿してしまう事にした。
僕が見るウェブサイトは大きく分けて次の3つである。
1つは、ニュース。
2つめは、ゲームサイト。
3つめは、よろしくやりたいサイト。
ニュースサイトは別として、ゲームサイトやよろしくやりたいサイトは物凄く末端の個人ウェブサイトである。
そのようなウェブサイトにある日突然チョンだとかチャンコロだとかいう文字列が現れては酷く沈む。一体、どうすればよいのだろう。
大昔、僕がまだインターネットというものを知らなかった頃、世界のどこかの国で不況で将来図がぼやけた若者が右傾化してどうこうだとかいう新聞記事や、極右政党が5議席確保してどうだとかいうニュースを聞いたりしていたけれど、それは現実ではないお伽の国のトロルであった。
それが気がついたら自分の周囲380度を包囲していた。
誰かが別に中国を信仰して朝日新聞を崇拝しようと、その逆であろうと、どうでもいいし関心は無いに等しい。ちゃかすつもりもなければ彼らの人生や考え行動というものに文句を言うつもりも干渉するつもりもまったくない。
とはいえ、それとは別に、よろしくやりたいサイトの2番目でチョンだとか強姦だとかそういう文字列が踊っているのを見ると、よろしくやりたいは覚めなくても萎える。別に左とかじゃなくて、単純に物凄く萎える。
だって、RIR6?さんが行く所まで行っちゃった左の人だとかそういう終わっている事実は理解出来るし、一部の方々が必死すぎて物凄く終わっているのも理解出来る。
けれどもそれとこれとは違うだろう。
なんというか、どうなんだろう。
そもそも、進級してクラス替えがあった時に同じクラスになった好きだった女学生が泣きだしたのとか、ってなんでこんな事書いているのだろう。まあ、とにかく悲しいという事である。
彼ら、即ち都合のよい仮想敵というものを捏造してレッツゲレロンする人々を指して、馬鹿だとかあほだとかまぬけだとか、より正確に言うと思慮が足り無さすぎるだろう、といった激昂に近い感情もあるのだけれど、それは別としてとにかく悲しい。
おそらく、真面目なサイトの真面目な人々、つまりは識者と言い換えられるような方々は1日15hitのネットゲームブログなんて読まないだろうし、場末の女学生の写真も赤裸々話も無いブログをよろしくやりたいと嘗め回す事も無いだろう。
一生目にする事のない無縁のインターネットなのだと思う。
そういう方々は「実に由々しき事態であるw」とか一言で終わりだろう。
けれども、僕は住人であり読者である。
ブックマークから削除してもう読まないでおこうと決めて忘れ去ろうとしてみたところで、切り株を覆うとりもちのような違和感が消える事は無い。
本当にわからない。
というか大学生の知性というか思考回路のシステムは一体どうなっているのだろう。国立大学の女学生がどういう日常を過ごせばチョンだとか強姦ビザだとか言い出すインターネットなのだろう。壮大なネタなのだろうか?とかそういう疑いすら持ってしまうくらいに理解が出来ない。
人間というものを過大評価しているのかもしれないと思う。
過大評価して幻想を抱いていたいのかもしれない。
自分が人間であるという点を抜きにしてもだ。
僕は多分おそらく人間というものを。保身の為かな。
どのような間違った事柄であっても、それなりの手続きが踏まれていたのならば距離を保った1読者としては構わないと思っている。1ブログ1ウェブサイト1個人としては、構わないと思う。
それを正当化する為の吹けば儲かる桶屋だとか、ねじ曲げられた詭弁の理論武装だとか、極端な話直接的な1例としての実体験だとか。
けれどもそういったものすら無しで、明らかに人生バラ色、少なくとも僕よりは遥かに充実した青春を送っている明らかに僕よりも頭が良くて満ち溢れた時間を過ごしている人間が、どうしてノーモーションでそういう投稿を行うのだろう。いくらなんでもボークすぎる。野球コメントをつけてくださったりしてる人達を意識して野球に例えてみた。すっげーファンサービス心旺盛だ。凄い媚び。いや、まあそういう手続きすら無しであっても別にどうって事はなく、いいんだけれど、よろしくやりたい女性アイドル(18)がダンボール魔だったくらいの勢いで朽ちる。
こういういかにも思った事をそのまま書きましたな投稿を行ってしまうのは望ましい事ではないのだけれど、これはどれだけ考えてもまともな文章になど出来ないであろうし、まあ率直に書く事に意味があるのかもしれないといったような気もするから書いているので、たまにはこういうのも許されるのだろう。許されないならば、許されないで構わないし。わからない。好きにしていいとは思ってないけど好きにする。
とにかく、右だとか左だとか人権だとかあるいはそういうのを抜きにした問題だとかを真面目に論じている方々は高台の上でやっているわけで、わかりやすく言うと住んでる世界が違うのである。
で、「そういう馬鹿はほっとけばよろし」という、ウェブサイトにおける「荒らしは放置で、」みたいな大前提の元で彼らは討論主張を行っているわけである。
そのほっとかれたブログ、放置されたインターネットのウェブサーファーである僕は、どのようにすればよいのだろう。放置され無視される悲しみを知っているから余計に辛い。重ねると住む世界が違うのだというだけであり、階層と境目と敷居のあるインターネットだという事なのだろうけれど。数字の1か、ノイズか誤差か。
両眼が干上がる湿度無風。
mixi招待メールという恐怖
「mixi招待メール公害」と表題をつけようと思っていた。
しかし、迷った。
世間一般ではmixi招待メールというものは幸せなイベントとして認識されており、それを指して公害と言いきるのは幾らかの問題があるように思えた。
そこで、正確に書く事にしたのである。
毒があればおもしろいというものではないのだ。
まず、mixiとは何かという事について、mixiというものをご存知の無い方の為に説明しておこう。mixiとはgreeみたいなやつだ。では、本題。
「mixiとは何か?」
というのは、散々mixi近辺では語られている所である。
mixi外の人間である僕が書ける事は何一つ無いし、書くつもりも無い。
ケチをつけるつもりなどまったくないし、批判するつもりもまったくない。
僕とは無関係な世界の無関係なインターネットだからである。
例えば僕がmixiというものを書くという事はベルギーのブリュッセルのチョコレート職人が塩と砂糖を間違えた事に対してあれこれ捏ねくり書くようなものであり、荒唐無稽である。
では、何について書くのかというと、mixi招待メールについて書くのである。
ストレートな表題の通り、mixi招待メールにより生じる恐怖を書くのである。
「mixiとは何か」というものがよく語られているのに対し、「mixi招待メールとは何か」という事について触れる人間がまったくに等しい程いない理由としては、mixi招待メールというものに対して、誰もが「ラッキーイベント」という共通の認識を持っているからなのだと思う。
確かに、閉じたコミニティへの招待状というのは貴方が特別な存在だと認識されている事の証明であり、晴れてミクサーになれるイベントである。
しかし、僕にとってのmixi招待メールとは、そのようなものではない。
インターネットの仲間からの幸せへの招待切符などではない。
恐怖である。
まさか、自分自身がmixi招待メールなどというものに頭を抱える日がやってくるとは想像もしていなかった。いつの頃からかポツポツと「mixiどうですか」みたいなメールが入るようになり、「返信する」と「返信する」の二択を強いられるハメに陥った。
僕は彼らの意図がまったくわからない。
mixiは招待した人が記録されるらしいから、恩を売りたいだとか、同じコミニティに引き込みたいのかな、といった印象を受けるものもあったのだけれど、彼らはmixiに誘うのは良い事であると確信しているようである。
悲しい。
ありえない。
繊細さの欠如である。
招待メールミクサーはその思い込みを今すぐ取り払うべきだ。
mixi招待は誰もが待ち望む福音であるという思い上がりを捨て去るべきだ。
一部の人間、それは即ちmixiのような濃厚なインターネットと相容れない存在である人間にとって、mixiへの招待メールとは公害であり、迷惑以外の何者でもない。
心労だ。
消耗だ。
物凄い負担だ。
僕はインターネットのウェブ上で、誰とも係わり合いになりたくないのである。
それくらい、ブログタイトルを読んで気がつくべきだ。
ウォークラフトというネットゲームで僕は100以上ものアカウントを作成し、誰かに褒められたりフレンドリーな対応をされたりクランに誘われたりというアカウントを片っ端から削除してきた。それは色々あった末に辿り着いた唯一にして正しい結論であり、僕自身の保身の為でも相手方への配慮でもあった。
個人対個人のコミニケーションを取れない人間、また、対等なコミニケーションを取るに値しないような軽薄な人間にとって、濃厚な個人と個人のインターネットというものは、決して相容れられないものなのである。
なのに、というか、つまり。
「mixiどうっすか?」と言われても物凄く困る。困り果てる。
なぜ困り果てるかというと、彼らはよかれと思って近づいてきているからである。
その能天気さが果てしなく恐ろしい。
彼らは真性引き篭もり上にあるメールアドレスをコピーし、ペーストし、あるいは書き写し、メーラーを立ち上げて僕にメールを送りつけてきた熱心な味方なのだ。
彼らは「真性引き篭もりhankakueisuuの味方」というものを自称しているに違いない。僕からすれば究極の迷惑メールの発信者でしかないのだが。
上澄みという言い方は非常に失礼で不適切ではあるものの、彼らはそれだけのかなり熱心な真性引き篭もり読者であり、誠意に欠く返信をしてしまうと僕の人間力が疑われてしまう。
いや、人間力などまったくないし、まったく無いという事は既に白日のバレバレなのだけれど、無碍に扱ってしまうと優れた人間力の素晴らしい人格者であるを偽りたいという欲望を満たす事が出来ない。
だからして、mixi招待メールが来る度に、極度に緊張し、そわそわと落ち着かなくなる。
お断りの返信メールを書かねば書かねば書かねばと、最高の友達だと思っていた幼馴染に本気で告白された女学生(実は彼氏持ち(自営業者、×2、47歳))のように動揺し、日常生活から平穏というものが奪われてしまう。
返信の文章を書く為に立ち上げたインターネットエクスプローラの前で、キーボードに触れる事すら出来ずに悩み続けるハメに陥るのである。
mixiに誘いに来た彼らを失望させたくないし、その思いを裏切りたくは無い。このような僕に手を差し伸べてくれた人間というものをがっかりさせたくはないのだ。けれども、僕は日本語が不自由な人間である。書きたいと思った事を一度として書けた試しは無いし、伝えたいと思った事を正確に伝えられた事も無い。mixiへの招待を断るに適切な文章といった難易度の高い文章を書き通せるはずがない。
どう努力をして捻り直進説明しようと努力した所でただ長くなるばかりであるし、どれだけ長く書いたとしても伝え説明する事など出来ないのである。
であるからして、これ以上mixiへの招待を断るという非常にやっかいな作業に悩む事なく過ごせるようにと、このような文章を投稿するに至ったのである。
mixi招待メールは謹んでお断り申し上げますので、よろしくお願いします。
失望させられてばかりである。
誰とも係わり合いになりたくないとかいうのなら、なんでブログなんか書いているんだよ!といった突っ込みには「アマゾンアソシエイトで稼ぎまくる為です」との事です。
僕がブログというものを書き続けている理由はアマゾンアソシエイトでがっぽがっぽ儲けまくるという唯一にしてたった一つの目的の為でありそれがたったひとつ。第二に、「頑張ってください」とかそういうくだらないメールを送ってきた人間を片っ端からとっかえひっかえだまくらかして連れ出してよろしくやりまくるという目的の為であり、物凄く欲望に忠実な権化の出会い系ブログなのである。
つぐみはどこにいるのか
答えは1つである。
つぐみはいない。
登場人物を整理しておこう。
・つぐみを探す母親ブロガー
・つぐみを探す母親に協力するブロガー
・つぐみを探す母親に文句を言うブロガー
それが全てである。
つぐみはいない。
我が子が突然いなくなった時の気持ち。
それは普遍的なものであり、誰しもが簡単に理解出来る。
見つけたいと思うのが親の愛であるし、
それを手助けしたいと思うのが人の心である。
我が子が「行方不明」になった。
それを探す、藁をも縋る、ブログが出来た。
それは、瞬く間に広がった。
これまで、子供が「行方不明」になるというものに対しては色々な術が取られてきた。
まず、「行方不明」の原因を探る。
情報を調べ、その上で公が判断を下し、どのような方法を取るのかを選択する。
それらは慎重に行われてきた。
なぜならば「行方不明」という問題は、デリケートな問題だからである。
それが誘拐であったならば、公にしてはいけない。
それが誘拐で無い場合、色々なケースが考えられる。
その中で公にされるのは、以下の2つ。
・なんらかの事件に巻き込まれたと考えられるもの。
・事故にあったと考えられるもの。
の、2点である。
家出というものは、そこには含まれない。
なぜならば、家出というものの問題は単純化出来るものではなく、公の中の公にして探しあてるのに相応しい行方不明では無いからである。
全てが省かれた。
隠され、隠蔽された。
・行方不明になった娘を探す母親ブロガー
一人だけが歩いて行った。
愛だ。
これは愛だ。
助けるべきだ。
愛を助けるべきだ。
ブロガーが群がった。
愛だ。
これは愛だ。
この母親を助けるのだ。
母親の愛を手助けするのだ。
素晴らしい事である。
娘の行方を案ずる母親。
案ずる母親を案ずるブロガー。
どこにいるのか。
いないのだ。
想像力の欠如、という言い方は相応しくないのかもしれない。
サラリーマン高校生社長専務副社長市民大学生主婦老人腐女子、全てのブロガー。
彼らが理解しやすいものは、「行方不明」の娘を探す母親である。
物凄く理解がしやすい感情であり、行動である。
彼らが理解出来るのは、家出したいと漏らし続けた小学生ではない。
そのような一般的ではない感情というものをまず念頭に置いてブログを読む人間などいないという事なのだろう。ブログというものを行方不明の人助けという崇高な目的の為に使用する、理知的で模範的で尊敬されるべきブロガーにとっては、存在していなくても構わないくらいの無価値な存在であり、理解出来ぬ感情理解出来ぬ行動想像もつかない人生なのである。
そりゃあ、まあ、そうだろう。普通じゃあない。
それら広め広まる絵面を指して人間性と繊細さの欠如と言うのは簡単であるが、人間とはとうよりブロガーとはそのようなものなのであろうと思う。善良なるブロガーによる善良なエントリーと善良なトラックバックによる善良な勝利。これは良い事なのだ。
行方不明の娘を探す母親がブログを書いた。
ブロガーの手で日本列島に広まった。
行方不明の娘が見つかった。
つぐみはどこにいるのか。
つぐみはいない。
本当に今までどうもありがとう本当にごめんなさいさようなら本当に閉鎖
なんか投稿しようと思っていた投稿の中の2行か3行が巡回先ともろ被りな内容であった事が悲しく切なく、本来は一昨日行っていたはずであったその投稿を今日にまで遅延させた頭痛というものに激昂したので頭痛というものを分類してみた。
「頭痛」
頭蓋骨の中央で、除夜の鐘が叩かれている状態。
脈拍よりも遥かに遅い感覚で、ズーン、ズーンと頭全体に来る。
頭痛薬を飲めば、15分程度で治る。
たまに、もやのような違和感が残るが、ゲームをしたりブログを書いたり、delphiをいじったりというような事をする妨げになるようなものではない。
「圧迫」
頭痛の逆バージョン。
外側から押しつぶしに来る。
どこに痛みがあるかわからないので、堪えづらい。
だいたい、頭の上半分が痛い感じ。
頭痛薬は確実な効果が期待出来るので、飲めばまず大丈夫。
「眼球」
眼球からエコーが広がり続けるが、頭全体に拡散はせず、目玉と目玉の周囲がピンポイントで痛い。
目を開けていられないのが最も辛く、思わず眼球を指で握り締めてしまうので、眼球が疲労して物凄く体力を消耗してしまう。その結果、目にゴミが入ったような違和感が残ったり、視界がずれたりというのが長く残るので、非常に嫌。
向こう2日は呼吸をするのも疲れるくらいに体力を失い、回復するのに時間がかかる。
ゲームやブログ、何かを考えたりする等は一切出来ない。
シャープペンシルも持てない。
「額の裏側」
眼球の4センチ上で、何者かが額を蹴ったり押したりしている状態。
ドドドドドドと蹴ったかと思えば、嫌がらせのようにさらりさらりとなで続けたり、というものが不定期に繰り返され、痛いというよりはうざったい。
目蓋の上から指を入れて、ツンツンしながら脳みそを揉めば収拾出来る。
来てからの頭痛薬は効かないのだが、予兆が来た段階で頭痛薬を飲めば完全に押さえ込む事が出来る。しかし、頭痛薬があと200くらいしか無いので予兆の段階で飲むのは精神的に相当な負担となり、飲み損ねてしまう事が多い。
ゲームやdelphiは出来るが、集中力が妨げられるので複雑なものは出来ない。
思考能力もかなり低下する。
「毛根」
髪の毛が痛い。
髪の毛が揺れると、頭皮全体が焼けるように痛い。
頭の内側はまったく痛くないので、楽といえば楽なのだけれど、耳たぶにまで降りてくる事が多い。耳たぶまで降りてくると相当辛く、一度収まってもまた第二第三の波が耳たぶにおしよせるので、物凄く耳たぶが消耗する。
横になると悪化するので、横になれず、眠れない。
長い時は100時間くらい続き、強引に寝入って目が覚めてもまだ続いている事が多い。
頭痛薬はどの段階でもまったく効かない。
一週間もすれば収まる、的な考えでやる。
痛みの波があり、緩やかな時間帯であれば何でも出来るが、すぐぶり返すので1時間が限度。ゲームをするには厳しい。
「こめかみ」
こめかみで爆竹が爆発し続ける。
脈拍よりも高速でバッバッバッバッバッバッバッバッバッと来るので、何もかも出来ない。
倒れるしかない。
基本的に、眠る事に成功したら、おきた時にはマシになっているので、寝るのがよい。
頭痛薬は、緩和効果はあるものの、完全に収まるのは稀。
「後頭部」
頭の後ろの弱い所をギューーーーーーーーンと、つままれる。
1時間以内に治るのだけれど、来た時は物凄く厳しい。また、強烈な吐き気を伴う。
他の頭痛に引き起こされたり、ゲームで死んだりして無気力になった時に油断すると来る。気を張り詰めていたら来ないので、注意さえ怠らなければ大丈夫。
頭痛薬はまったく効かないが、あまりにも痛いので効かないとわかっていても消費してしまうというアイテム在庫に厳しいタイプの頭痛。
「鼓膜、頬骨」
変な頭痛。
左鼓膜にドグン!と来て、両方の頬骨が共鳴してドスン!。
10分くらい休んで、またドグン!ドンドン!と来る奇襲タイプ。
油断した頃に来るので、思わずウゥゥゥと呻いてしまう。
けれども、頭痛が来るのは一瞬なので、次の瞬間にはもう完全に収まっている。
不愉快は残るものの、30秒もすればそれも消えるので何でも出来る。
だいたい、このくらい。
けれども、頭痛はブログやらインターネットとは違い、僕を傷つける事は無いので、僕を救ってくれるのは頭痛だけであると言い換える事も出来るのであろうと思う。
ゲームなどというものは僕を消耗させ傷つけるだけであり、ブログなどというものは僕をボロボロにして搾り取るだけである。なんかムカついてきて2度もまったく同じ内容の投稿をするはめになったし。なんだこれは、同じ題材で延々と読み続ける句会か何かか。ちきしょうめ。腹立たしい。クロウルとかクロウルとか色々と忙しいのに。あと頭痛とか。
だからして、もう一生ゲームなどやらぬし、真性引き篭もりも今この投稿を持って更新を終了して明日明後日頃には閉鎖して削除して未来永劫インターネットなどしない。僕がブログに何も出来ないのと同じように、ブログは僕を救ってはくれないのだ。最も正しい選択であり唯一のAntwortだ。くだらない。長らくのご愛顧ご声援ご街宣まことに感謝しておりました。本当に今までどうも構っていただきありがとうごめんなさいさようなら