2005年4月30日土曜日

7人トーナメント



1位10万円
2位3万円
3位2万円
4位1万円

お一人様4位以上確定!
関係者各位様真に申し訳ございませんでした……。






その頃……CS……。
登録チーム数は7……

1位50万円
2位15万円
3位10万円
4位5万円

真に幸運な1チームが4位以上確定!
そのチームとは………



じゃかじゃか




じゃかじゃか




これ、テキストサイトならフォントサイズ16ですよ。





じゃかじゃか





オチきます。




じゃかじゃか




じゃかじゃか




4dn.psymin!
これが強さだ!4位以上確定!戦わずして勝つ!孫子!孫子!孫子!



一段落ついたのでネタバラシ。
敗者復活トーナメントがあるので確定ってわけではない。


2005年4月29日金曜日

やさしいゲームの作り方



やさしさが足りないと思う。

以前3D酔いに弱いと書いた投稿にトラックバックが来ていた。

>弱いとかそういう次元を通り越して、「どこか悪いんじゃないか?」
>と、まことに失礼ながら心配になってきます。
顔。
頭。
性根。
いや、そうなんだけれど、そうなんだ。
3D酔いというエントリータイトルながら、僕の弱点がゲームであるという文章になってしまっていた。3D酔いじゃないとしたら何なのだろうかと考えていたら、ポケモン事件が頭に浮かんだ。




ポケモン事件。
テレビ東京系列のアニメ、ポケットモンスター38話「電脳戦士ポリゴン」を見たうちの685人が体調不良を訴えて医師に掛かった、という事件である。


ものは試しと半信半疑で検索エンジンに駆け込んで、「ポケモン事件再現フラッシュ」みたいなのを探し出して見てみたところ、一発(1秒)で額が前にせり出すような頭痛と、目と目の間を触れられているような不快感、ヘソの上10センチくらいで水風船が飛び跳ねているような吐き気のようなけだるさが来た。
一言で言うとアウトだった。
どうやら僕は光刺激に弱いらしい。




ポケモン事件以降、再発させない為のガイドライン(*1)が作成され、打ち切られたアニメや再放送やDVD化がお蔵入りになったアニメも数多くあるらしい。また、「部屋を明るくしてTVから離れて見てください」という表示が必ず行われるようになったのは皆様ご存知の所であろう。


アニメではこのような対策が取られたが、ゲームではどうなんだろう。
TVは同時刻に同じものを大人数が見るから、ポケモン事件のような事が起こる。
しかし、ゲームはプレイする人数が少なく、表面化する事はまず無いと言ってよい。
最初にゲームによる光感受性発作が発見されたのはインベーダーゲームであるといった笑うに笑えないものを発見してしまったりしたが、ポケモン事件のように広く知られた例は見つからなかった。







民放連の「アニメーション等の映像手法に関するガイドライン」は以下の通り。

----

1. 映像や光の点滅は、原則として1秒間に3回を超える使用を避けるとともに、次の点に留意する。
(1) 「鮮やかな赤色」の点滅は特に慎重に扱う。
(2) 前項1の条件を満たした上で1秒間に3回を超える点滅が必要なときは、5回を限度とし、かつ、画面の輝度変化を20パーセント以下に抑える。加えて、連続して2秒を超える使用は行わない。


2. コントラストの強い画面の反転や、画面の輝度変化が20パーセントを超える急激な場面転換は、原則として1秒間に3回を超えて使用しない。


3. 規則的なパターン模様(縞模様、渦巻き模様、同心円模様など)が、画面の大部分を占めることも避ける。


また、映像が与える影響から視聴者を守るためには“テレビの視聴方法”も重要な役割を果たしていることが指摘されている。テレビを見るときには、明るい部屋で、受像機から2メートル以上離れることなどの予防策も必要である。

----

このガイドラインを念頭においてゲームを見ると、ほとんどがアウトである事から見ても、やさしいゲームを作る必要がまったく無い事は明らかだ。

例えば、REZというゲームがある。
REZを一言で言い表すと「光と音と振動」であるからして僕がプレイ不可能なのは間違いないけれど、このゲームをやさしいゲーム化する必要性はまったくないし、するべきではない。もしREZをやさしいゲーム化したならば、100%糞ゲーになるだろう。
ゲームとういうものは、やさしくなくて良いのだ。





しかし、やさしく出来るのならば、やさしいに越した事は無いと思う。

例えば、シューティングゲームでショットを敵に打ち込むと敵が光ると言うものがある。
着弾フレームのみ赤く変化する、という表現方法が多く見られる。
それが16ドット×16ドット程度の雑魚敵であればなんの問題も無いのだけれど、画面の上半分を覆うようなボスが赤く光るとなると、僕はそれをプレイ出来ない。
アニメーションであれば
「TVから離れる」
「目をそらす」
「目を覆う」
という対処法があるのだけれど、PCゲームはモニタから30~50センチの距離でプレイする事になるし、シューティングゲームは見続けていないと死んでしまうので、アニメーションのようには回避できない。




同様に、2D酔い、画面揺れ酔いというのも同じように目をそらせないものが多い。

お城が崩れ落ちるという危機的状況を画面をシェイクする事で表現し、シェイクする中でメッセージを読み、シェイクする中で崩れ落ちる城から脱出する、というシーンがよくある。これもシューティングのボス戦と同様に「見なければいけない」のである。

例えば僕は風来のシレンのエンディング内容の大半を上記の理由から読めていないし、ディアブロIIではボスが死ぬと画面が揺れるのだけれど、それも目を覆う事で対処してきた。

それがゲーム終了後のエンディングであれば目をそらす事で対処可能だけれど、ゲーム中であればプレイを放棄する以外に回避手段は無い。
車や電車の中で活字を読めない人間は光刺激に弱い人間よりも多いと思われるので、こちらの方は潜在的被害者はかなりいると思う。



光の方で言うと、RPGにおいてクリスタルの封印が解かれ、「ピシューン、ピシューン、パシューン」と光がはぜる音と共に中から美少女が現れる、といったシーンがよくあるけれど、そういうものも目を伏せて対処してきたし、RPGやシミュレーションRPGで敵を攻撃時にフラッシュが入り、同時にダメージ値が表示されるシーンも目を伏せて対処してきた。

最もたちが悪いのが、RPGで敵と遭遇時に画面が光るというものである。
それは正しく僕にとってブラクラであり、心臓が握りつぶされるような威圧感を受ける。体がその感覚を覚えてしまい、ビクビクしながら歩き続けるという悲惨なものであった。似たようなもので、クリティカルヒット時のみフラッシュするというものがある。クリティカルが出ても全然嬉しくなく、寿命が縮む思いであった。そういう事もあって、swfも絶対に見ないようにしている。

アクションゲームでも、画面が揺れる中でボスと戦う、というのはよくあるシーンだ。
それがゲームの難易度と密接に関わってくるような使われ方もしている。

そういうものは、やさしくされるべきではない。
ゲームのやさしくなさ、というのはこれから先も守られるべきであると考える。







けれども、もし他の演出手段に置き換える事が可能であるならばどうだろう。

シューティングゲームの着弾光が「255, 0, 0の1フレーム」であると僕のような人間はプレイ不可能なのだけれど、RGB値にそれぞれ+20の30フレームであればなんの問題も無いと思う。

RPGの必殺技時に画面全体が光るというものも、どうしてもそれが必要であるならば守られるべきだけれど、もし何の気無しに無条件で大した演出効果も無いのに使われているとしたら、他のものに置き換えられてもいいのではないかと思う。





そういう「やさしいゲームの作り方」は、任天堂やカプコン、EAゲームスといった巨大企業においてはマニュアル化されているのだろう。けれどもアマチュアゲーム製作者や藤野俊昭はそんなもの所持していないだろうし、存在自体も知らないだろう。

やさしいゲームの作り方をマニュアル化し、これはこう置き換えると良い、というものをウェブ上で閲覧可能なテキストにするというのは非常に価値のある事なんじゃないだろうか。

プログラミングコスト(?)が低く、しかも演出力は強化され、おまけにやさしい。
そういう方法を1つでも多く保存して共有すれば、1つの力になると思う。

よっぽどの情熱と被害と知識的バックボーンがある人間じゃないと書けないだろうから、多分明文化される事は無いのだろうけれど、wikiとかでもやればそれなりに価値はあると思う。



滅茶苦茶な文章になってしまったのは資料調べとして一日中無理なゲームをプレイし続けて体調が最悪って言うか発熱と頭痛でしゃれにならない状況になってしまったせいの中で投稿を書いたせいであると物凄く責任転嫁。

何より衝撃的であったのは、僕のような人は5~6人に1人くらいはいるのだろうと思っていたのだけれど、4000人に1人から10000人に1人くらいらしいという悲惨な数字を目にした事であり、なんかやさしいゲームに対する情熱みたいなものが一気に冷めて白けてしまい、真面目に書く気力を削がれた……みたいな……10000人に1人じゃ「俺の為のゲームを作れ」って言ってるようなもんじゃん……本気で5~6人に1人はいるだろうと考えていた根拠が知りたいよ、根拠が……っていうかまじでがっくし……この投稿ボツだな……1日中必死でゲームやってただけかよ……すっげー馬鹿……けど、やっぱり、本格的に光に弱いのは10000人に1人でも、ちょっと光に弱い人とかは5~6人に1人はいると思う。根拠無いけど。駄目だ。あらゆる意味で駄目だ。なんだよ。物凄い「俺が!」みたいな気合の入り方で壮絶に真剣にダウンロードとかしまくってどの位の割合なのかとか、何が駄目なのかとか必死に凝視し続けて「うん、これはちょっとしんどいな」とかしんどくなる中で冷静に分析して分類したりして調べて頑張ってリサーチして調査したりして物凄い倒れそうな中で壮絶に検索エンジン叩いたら10000人に1人って……それ僕だけじゃん。ONLYじゃん……けど、やっぱり、本格的に光に弱いのは10000人に1人でも、ちょっと光に弱い人とかは5~6人に1人はいると思う。根拠無いけど。

---以下、参考資料

未経験フリーSTGゲーム10本をプレイして。
5タイトル:問題無し
4タイトル:一部問題有り
1タイトル:全部無理(背景、画面切り替え等)

未経験同人STGゲーム10本をプレイして。
2タイトル:問題無し
6タイトル:一部問題有り
2タイトル:全部無理(背景、ショット、着弾、爆風等)

書きっ放した責任として、「これ大丈夫?」とか「Lvで言うとどのくらい駄目?」とかそういうご依頼があれば人柱モルモットになるくらいはします。



日本民間放送連盟のアニメーションガイドライン

日本より進んでいるとされる英国のガイドライン
英語。pdf。

『ポケットモンスター』第38話を検証する
問題話のフレーム分割静止画像有り。
静止画でも黄緑色の画像はかなりきつい。圧迫感がある。

----( ゜ワ゜)ノさんへ

EveryExtend(両モード表ボスクリア)
光、揺れ共に問題無し。

DAN! DA! DAN!(表ボスクリア)
光、揺れ共に問題無し。

うにゃー(最大おかし42、最大レベル240くらい)
光、揺れ共に問題無し。



プレイ不可能な例としては、画面の大部分が1フレームで赤(255, 0, 0)や、白(255, 255, 255)になり、1フレームで元の画像に戻るというフラッシュが使われているゲームです。

RPGやシミュレーションRPGで、クリティカルヒット時に白く光るという表現、シューティングゲームで弾を撃ち込んだ際に、画面の半分近くを占める巨大なボスが赤(255, 0, 0)く1フレームだけ光るという表現が採用されているゲームは見ていられませんので、事実上プレイ不可能です。


1/10000じゃあただのクレーマーじゃんってのと、なるべく名前とか出さずリンクとかも貼らないというブログ運営方針から具体的なNGタイトルを出すのは控えさせて頂きます。洞窟物語とかうにゃーとかAOCN5とか貼ったのも僕じゃないです。読者さんです。


ただ、グラディウスVでは隕石には赤い着弾フラッシュが設定されているのに、隕石より巨大なボスには着弾フラッシュが設定されていない事や、斑鳩では爆発時のフラッシュにすら光刺激に対する気遣いが行われており、ヒットフラッシュ色の選定も相当まろやかなものである事、怒首領蜂やエスプガルーダ等の多くのゲームにおいて、相当に緩い加算合成が使用されている事などから、今も尚シューティングゲームを製作しているメーカーはそれぞれマニュアルを持っているような気がします。


また、重ねて申しますがゲームはやさしい必要はまったくありません。
未来的な雰囲気を出すには蛍光色やスタートレック色のフラッシュの中を電気的に駆け抜けるといった演出は必須ともいってよく、一切制限されるべきではありません。僕はポスタルをプレイするというだけでその人の全人格を否定するくらいの保守的な人間ですが、ポスタルをプレイするというだけで人格を否定したりはしませんし、そういったものも含めてあらゆる表現は制限されるべきではないと考えております。
一番目のプレイヤーである製作者が面白いと感じるものである事ががまず重要であり、それ以外の要素、やさしさだとか倫理だとかエロすぎるとかロリだとかといったくだらない事柄によってゲームの表現が制限されるというのは物凄く違和感があります。

「じゃあなんでこんなもの書こうと思ったんだよ!」との問いには「本気で5~6人に一人くらいはいるだろうと考えていたから」としか答えられません……





もし光刺激という視点からゲームの調整を行うのであれば、民放連のガイドラインを1つの基準として用いるのが良いのではないでしょうか。


具体的な対処法をSTGを中心にいくつか。

・着弾フラッシュに白(ALL255)や赤(255, 0, 0)を用いない。

・着弾フラッシュを20フレーム以上持続させる事で民放連基準をクリアする。

・可能であれば、着弾フラッシュは単色塗りではなく加算合成で行う。

・敵の体力が低い事を示すのに敵を赤く点滅させる場合は間隔を大きめに取り、255を避けて少しぬるめの色にする。あるいは、フェードチェンジか加算合成で。

・画面全体を白や赤にする場合は1/2秒以上を用いたフェードチェンジならばほぼ問題が無いので、調整を行うならば、色をいじるよりもフェードチェンジ化の方がゲームの演出に影響しないと思う。(真っ赤や真っ白は色として強力なメッセージを持つので)

・RPG等のクリティカル時等に画面全体が光るのは見ていられないので、10000人に1人側の人間としては他の演出手段を採用していただければありがたいです。


他。
・2D酔いを誘発する揺れに関しては、直視する必要がある文字やキャラが揺れなければ全然違うので、出来れば文字は揺らさないで欲しい。


ほんと、ただのクレーマー状態ですみません。


ブロックブログの弱点



不具合があるらしい。
原因は不明。文字コード?


>「スピノザ くすぐり」
と、



は同じものらしい。
っていうか同じじゃん……
いや、そうじゃなくて、「&12473;……

http://www.blockblog.jp/
トップページのレイアウトも滅茶苦茶。
当ブログのレイアウトも滅茶苦茶。

lol

適度な弱さ。
いい感じ。


2005年4月28日木曜日

不正ランキングと不正な正しさ。



正しさは武器だ。
強力な武器だ。
正しさが強力な武器である事は疑う余地の無い事実だ。








ブロックブログからランキングが消えたニュースが日本中を駆け巡り世界中を震撼させてから2ヶ月が経ち、一時期の異様なまでの騒がれ方は一段落しその衝撃の大きさに慌てふためき浮き足立っていたブログ界隈は落ち着きを取り戻しつつあった所へヤプログからランキングが消えたというインターネッターであれば誰もが目を疑うようなビッグニュースが各地で驚きをもって伝えられているのは皆様ご周知の通りである。


それらと比べれば遥かに小さくマイナーな話題ではあるが、ライブドアブログのランキングでは不正行為が横行し、それを有志が力をあわせて実験ブログのランキングを上げ、堀江社長ブログから1位を奪取するという形で広く知らしめる事に成功した。


それを受けて、ライブドア社はその実験ブログの削除と、いくつかの不正ブログへの対処を行い、事態は沈静化した。ライブドアランキングを巡る騒動は終わったと見てよいだろう。



この有志の行動にはいくつかの側面がある。





まず第一に、これはコミニティを守る為の戦いである。

多くのブロガーはブログサービスに多少の思い入れがある。
そのサービスに貢献したいと思い、ブログサービスと自分との関係が良好である事を願う。

その最も極端な例は、株式会社はてなのはてなとはてなユーザーの関係であろう。
はてなダイアリー最大の特徴であるキーワードで繋がる横の繋がりはユーザーなくしては成り立たない。30日以上ブログを書いたユーザーのみが作成、改変可能であるキーワードは今日も無数に増え続けており、はてなダイアリーを日々進化させ続けている。

実名騒動において多少の行き違いはあったものの、今も尚運営側とユーザーとの距離が最も近いブログサービスである事は誰もが認める所である。



もし、はてなに大きな不具合が見つかると、はてなのユーザーは近藤淳也にそれを伝え、問題点は迅速に改善修正されるだろう。それがはてなの距離である。はてなにはそれを迅速に行える体力(技術力)もあるようだ。

けれどもはてなの近さは異常な例と言ってもよく、はまちやがmixiにはまったり、有志が堀江貴文にしたようにという形が普通、悪い言い方だが普通だろうと思う。





第二に、これは聖戦である。
正しい物を守る正義の戦いである。

何事においても、ルールは遵守されるべきであり不正は許されるべきではない。
ライブドア社の定めた規約に反する行為が行われている事は疑う余地の無い事実である。
その違反をライブドア社に伝える、通報するというのは、正義である。
なんでも評点ら有志一同が行っている行動は間違いなく正しいものである。





コミニティを守る為の正義の戦い。
しかしこの問題にはもう1つ姿がある。

この戦いが持つ第三の意味。
それは、既得権益を守る為の戦いである。



ランキング上位者にとって、ランキング掲載というのは利益である。
大きな利益である。

ブロックブログのランキングにおいて、当ブログが1位となった日のランキング経由アクセス数は25アクセス、30位で5アクセス程度であった。数字としては極めて小さなものではあるが、その存在はブログ運営者にっとってもリンク集として利用するユーザーにとっても非常に大きな守るに値する利益であった。
アメーバやヤプログからランキングが消滅した際のブロガーの失望からもわかるように、ランキングの存在というのは上位者であれ下位者であれ、ブロガーにとっては非常に大きな既得益なのだ。

それが不正ブログによって脅かさる。
上位20位の半数以上が不正ブログ。
不正を行っていない人間にとっては断じて見過ごす事の出来ない既得権益の危機だ。







では、どうして不正ブログが後を絶えないのか。

ブロックブログにおいて、そのような不正が行われた事は一度としてない。
それに対し、ライブドアでは永遠に不正ブログが現れ続けるであろう。

彼らが不正を行う動機は何か。
彼らを不正へと突き動かすものは何か。

それは、現金である。



ランキング上位ブログにはライブドアー.comという巨大なアクセス数を誇るポータルサイトからリンクが張られ、同様に国内有数のアクセス数を誇るblog.livedoor.comからもリンクが張られる。
そこからは、大量のアクセスが流れ込む。

その1アクセス1アクセスは現金へと変換される。
ブログやインターネットにおいて、広告をクリックするのは超コアユーザーか一見客なのだ。超コアユーザーの人数を増やすのは困難であるが、一見客はアクセスさえしてくれれば変換レートはそれ程高くないとはいえ、そのまま現金へと変換される。
アフィリエイト収入の中核を担う一見客が100人単位で流れ込むという事実が彼らを不正へと突き動かしているのである。




ライブドアランキングを攻撃しているのは全員現金ブロガーである。
同時に、ライブドアランキングを守る運動の中心にいるのも同じ現金ブロガーである。


ライブドアブログは、現金ブログを開設するには最適なブログサービスである。
無料バージョンでは検索エンジンとの親和性が悪いので他に劣るものの、有料プランは検索エンジンとの親和性もカスタマイズ自由度も非常に高く、ランキング上位者には毎月アメーバに匹敵する現金が転がり込む。
ライブドアブログは他の追随を許さない最高の現金ブログサービスである。
ただし、ランキング上位に入れるならば、の条件付でだが。

故に、ランキング上位に入ろうと不正を行う人間が後を絶たないのである。






攻撃側と守る側の差異は何か。
それは、正しさの量である。
それだけが唯一の差異であると言ってよい。

不正を行って現金を得ようとする攻撃者には微塵の正義も無いのに対し、不正から既得権益を守る彼らは確かな正義を手にしているのだ。



しかし、彼らが守ろうとしているものは既得権益である。

株式会社はてなが実名登録を義務付けると発表(後に撤回)した際には共生関係信頼感という正しさが傷つけられたと感じ、はてなダイアリーから問答無用で離脱したユーザーが大勢いた。
しかし、ライブドアではそのような事は起こらない。現金ブログを運営するに辺り、ライブドアは問答無用で選択される程のアドバンテージを持っており、それが彼らがライブドアを選択した理由であり、抜け出す現金ブロガーはただの馬鹿としか言いようが無い状況であるからだ。



出て行けば良いという発言に対して現金ブロガーは“財産”に固執し“財産”が故にに出て行かない。より正確に言えば“財産”を考えるならば出て行くべきではない。

挙句の果てに「ライブドアからアクティブなブログをごっそり引き抜いてみませんか?」とはまったくもってお笑いである。引き抜き。引き抜きてー。引き抜いてみませんか。現金ですねー。うふふ。いやー、現金ブロガーの鏡だ。あはは。頑張れ“財産”。






彼らが正しさという武器を手に戦っているというのは紛れも無い事実である。
正しさとは世に浸透する説得力を持つ強力な武器ではあるが、無敵の兵器では無いし、正しさよりも強力な武器は無数に存在しているという事を忘れてはならない。彼らが手にしている誤差の範囲の正しさなどは何にもならないのである。



最も大事な事は彼らが選択したライブドアという会社である。
ライブドアがライブドアへと進化したのはパクリと不正と抜け道の、裁かれない究極の現金企業としての正しい業務の果てである。その社色と社員の現金ブログの言論がライブドアブログの特性を作り上げたと言っても良い。

まともな神経を持つ人間ならばライブドアに正しさなど求めない。アダルトビデオのブログがノーマルカテゴリーに存在するブログに正しさも糞も無い。不正を滅ぼす正しさを求める人間はライブドアなどにブログを作らない。

彼らが正しさを手にしたのは正しさを守る為ではない。
彼ら、というよりは彼なんでも評点が正しさを手に立ち上がったのは既得権益を守る為である。



そもそも公正なランキングというものが存在しないに等しいものである。
開催国のステロイドもオリコン調べも新宿店も全て不正で成り立っている。
正しさはおろか純然たる正しさでさえ勝利する事は滅多とないのだ。

発覚しなければどのような不正も裁かれる事は無いし、発覚したとしても20年逃げ切れば無罪だ。彼らが「不正を行っていない」と認定するブログの多くも不正の塊だ。18禁のエロリンクも著作権侵害も誹謗中傷も人種差別も不正行為の正当化も何でもありだ。



正しさを手にしているのは事実だが、正しさでは無い。
不正側か、正しさを手に守る側か、現金を手に正しさと不正と戦う側か。

どう転ぶにしろ、これまでの全てのランキングがそうであったように、これからの全てのランキングもそうであろう。
負けるのは不正を行わない正しい側の人であり、勝者は常に不正な側だ。


神は死んだ




すみません、、
練習時間等がなく今回の参加は見送りました、、
com

2005年4月27日水曜日

荒らしを笑うキングダムと荒らしを恐れる一般ブログ。



数日前から俺様キングダムで馬鹿が暴れている。
馬鹿というか、正確に書くとキチガイだ。

日本で最もアクセスのあるブログといっても過言ではないサイトで馬鹿が暴れているのに、その事実がブログ界隈に広がる様子は無い。
各地で馬鹿が暴れるという形では知られているのだが、1つの出来事ニュースとして広がってはいない。

それは何故か。
答えは簡単である。


真面目なウェブサイトを運営する人間にとって、俺様キングダム~切込隊長~山本一郎というのは絶対に触れる事が出来ない危険な存在、即ちアンタッチャブルなインターネットだからである。









まともなウェブサイトを崩壊に追い込むのは簡単である。

掲示板があって、1人の荒らしがいればよい。
少人数であっても適当に荒らし続ければ、スクラムなど無くてもウェブサイトは簡単に崩壊する。それは歴史が示している。

それを阻止するには、掲示板を撤去するか、徹底的に投稿自体を削除をし続けるかだ。「掲示板=コメント欄」の撤去はブログの死を意味する。
よって、荒らしと管理人の気力勝負、体力勝負となる。



荒らしは大きく分けて2種類に分類出来る。

「刃物を持った馬鹿」
即ち、インターネットを手に入れた馬鹿が天然で暴れるもの。

「匿名集団2ちゃんねらー」
顔がおかしい、容姿がおかしい、頭がおかしい、趣味がおかしい、言論がおかしいといった粗の有るサイトが発見され、2ちゃんねるから操られた悪意と嘲笑を持った人間が殺到する、とういうものである。彼らは容赦しない。老人であろうと小学生であろうと実名のインターネット初心者だろうと構わず荒らす。

どちらにしろ、個人サイトは致命的なダメージを受ける。
真面目に運営されているウェブサイトを破壊するにはキチガイが数人いれば事足りるのである。山本一郎の言葉を借りれば「誤差の世界で計測不能」な人数で十分なのだ。





ブルーベリーうどんのギャグにすらなっていない馬鹿っぷりからも見て取れるように、俺様キングダムで数日前から暴れているのはキチガイである。
いわゆる、荒らしである。
匿名集団2ちゃんねらーである。


少し前、誰も知らないような小さなサイトがちょこっと荒れて荒んだだけで、その事実は瞬く間にインターネットを駆け巡った。それと比べれば日本で最も有名なブログで馬鹿が暴れているというのは大きな出来事であり、ニュースバリューとしては十分な価値を持つものだ。にもかかわらず、その事実はウェブ上に拡散していない。今後も無いだろう。
それは何故か。
恐れているのだ。



まともなブログを真面目に運営されている普通の人達は、荒らしを恐れているのである。
匿名集団2ちゃんねらーを恐れているのである。
それは当然の事である。

一部で、2ちゃんねるは荒らしの本拠地としての力を失ったと言われて久しい。
では、それはどこに移ったのか。
ブログである。
その頂点が、俺様キングダムである。



俺様キングダムには、10万人の読者がいる。
刃物を持った馬鹿というのはどこにでも一定の割合でいるもので、100人に1人として1000人、1000人に1人として100人の荒らしが潜んでいる。

彼の言う現状では「100人くらいが暴れている」というのを信じるならば、切込隊長アンチ荒らしの人数は100人程度だろう。しかしそれは同時に、切込隊長派の荒らしはそれ以上にいるという事を示している。


荒らしの中には、アンチも中立もシンパもいる。
彼らは、切込隊長が触れたウェブサイトに殺到し、荒らす。
いわゆる敵意と悪意を持った破壊的荒らしもいれば、流れとは無関係の馬鹿な事を俺ルールで書き込み続けてウェブサイトのルールと空気を滅茶苦茶にするものもいる。
触れる、流れ込む、ウェブサイト的死を迎える。そういう仕組みだ。



ウェブサイト開設者、ブロガーというものはそれを恐れる。
普通に努力して運営してきたサイトを荒らされたくないと考えている。

「アンチ」
「静観派」
「シンパ」
どれを書いても、そのウェブサイトには俺様系の荒らしが流れ込み、間違いなく荒れる。
真面目に運営して作り上げられた巨大なサイトであれば巨大なサイトである程荒れるからして、真面目なサイトは触れる事が出来ない。

それどころか、「触れない」という事で荒らされている。ここ数日、匿名集団2ちゃんねらーが当然匿名で、当然集団で、当然2ちゃんねるから流れ込み、
「何で触れない!」
「何で触れない!」
「お前おかしい!」
といくつかのブログを荒らしまくっているのを目にされた方は多いだろう。




つまり、この俺様キングダムが荒らされている、という事実は、アンチ投稿も静観投稿もシンパ投稿も出来ないからして、それどころか触れない事すら許されないくらいに荒らしが暴れる事柄であるからして、まともなインターネット上に広まる事はないのである。
触れる事が出来るのは匿名の2ちゃんねらーだけである。




今回の騒動は、「切込隊長さんもキチガイ集団に粘着されて大変だね~」という一般認識が広まり、匿名集団2ちゃんねらーの馬鹿さがより一層世間に浸透するだけで終わる。

山本一郎がブルーベリーうどんを超越する馬鹿さを披露したという事実が記録される事はなく、キチガイ集団によるキチガイ集団の為のキチガイ祭りという事実だけが記録に残る。

キチガイ集団が必死になって広めようとしている事実がインターネット上に拡散しないのは、そのキチガイ匿名集団2ちゃんねらーそのものが切込隊長という不可侵性を作り上げているからなのである。
滑稽な事に皮肉にも、匿名集団から切込隊長を守っているのは匿名集団自身の存在なのだ。






それだけであれば「悪いのは匿名集団2ちゃんねらーだ」というだけだ。
しかし、事はそう単純ではない。

それは、山本一郎~切込隊長自身が、匿名集団2ちゃんねらーであるからだ。
過去に、山本一郎~切込隊長は自身のブログにおいて、

>鼻歌気分でいい具合に燃やしに逝ったら見事炎上した。
>全焼したそれを眺めつつキャッキャと喜んでいたら
と書いている事や、ライブドア野球チームの名称アンケートにおいて、彼自身が匿名で2ちゃんねるにスレッドを作成扇動し、仙台ジェンキンスを持ってアンケートを荒らした事などからも明らかである。



過去のインターネットにおいて、荒らしは相手にされず無視され消えて行くった。
ところが、現在のインターネットにおいて最も力を持っているのは、匿名で荒らし行為を行った事を誇らしげに投稿する者である。

某弾道ブロガーの匿名コメントは各地で揶揄され笑われるのに、トラックバックの隠蔽化やコメントの削除が取り上げ揶揄られる事は無いし、真性小倉馬鹿秀夫の件でもわかるように、俺様キングダムからリンクされて荒らしが流れ込めば、その匿名集団2ちゃんねらーは永遠に居座り続ける。かとゆーの10倍の力を持っているし、匿名2ちゃんねらー荒らしの割合においては比較にもならないくらいの人数を持っているのだ。

「しばらくして残るのは粘着質な100人だけ」とあるように、リンクされた糞ブログに居座り続けるのは、真性の敵意を持った匿名の荒らしのみであり、それは3人どころか1人であったとしても、ウェブサイトを崩壊に追い込むくらいの力はあるのだ。全体の数が減り、粘着馬鹿だけが残り、その比重は増す。誤差の範囲で十分なのである。




小倉秀夫と山本一郎とのバトルにおいて、山本一郎の「匿名で荒らし行為を行った」というモラル崩壊、誠実さの欠如が表立って非難される事はなく、小倉秀夫の馬鹿っぷりだけが非難され笑われ続けた。

少し昔の健全なインターネットであれば、匿名での荒らし行為を行うような人間は批判され相手にされなかっただろう。彼は、作り上げられた巨大なアクセス数と、取り込んだブロガーの力により、特別な存在へと成り上がった。


信者らだけではなく、傍観者までもが小倉秀夫の馬鹿さを笑い、彼のサイトを訪れ居座った"誤差の世界で計測不能"な数人の人間は小倉秀夫の息の根を止めた。小倉秀夫は死んだ。もう永遠に息を吹き返す事は無い。

無数の信徒に守られた真鍋かをりを葬ったのが誤差の世界で計測不能な人数であったように、まともな精神を持った普通の個人サイトを葬るには、誤差の世界で計測不能な人数で十分なのである。

その、まともな神経を持った普通の人間を葬る力を「誤差の範囲」と嘲笑する事が出来るのは、彼か無数の荒らしと信者とアクセスに守られた存在であり、尚且つ荒らしに笑い勝てるだけの能力を所持し、粛々と処理すると脅せる技術力を所持しているからなのである。






また、切込隊長~山本一郎が支持を集める理由の1つが、
「2ちゃんねらーだから」
「匿名で荒らしとかするから」
といった、過去のインターネットでは蔑まされてきた事実だというのは驚きである。

大昔は蔑まれ無視される存在であった匿名掲示板集団はいつの間にか大衆化してしまい、匿名で個人のウェブサイト荒らす行為が非難される事は無くなった。
特に匿名の荒らし行為は、ブログ数の増加とコメントスパムの横行などといったその他の要因も重なった事もあり、本当に当たり前に許されるようになった。
モラル崩壊の極みである。




俺様キングダムがアクセス数を分配する、くだらない話を馬鹿にして笑い書く、という需要が発生する時においては放置される事なく崇めたてられる。アフィリエイトをしている人間からすれば正しく福音そのももである。ありがたや。ありがたや。
その一方で、山本一郎が100万荒らしを一手に率いる荒らしの王でなければ瞬く間に広まっていたであろう出来事は「荒らしは放置で」というルールの下で放置される。

誰もが、俺様キングダムが抱える荒らしが暴れに来るのを恐れているのである。
まともなサイトであれば、まともなサイトである程触れられぬのだ。



格闘ゲームに強キャラというのが存在するように、ブログ開設者にも強キャラというのは存在する。それは、荒らしだ。アクセス数を持つ荒らしだ。アクセス数を持つ荒らしを攻撃出来るブログ運営者は苫米地や小倉のような真性キチガイくらいのものである。

なにより、山本一郎その人自身がその道のプロである。
弁が立ち、2ちゃんねらーの仮面を被り匿名化してとして煽り馬鹿にし失墜させる技術を持っており、隙を見せずとも馬鹿にし笑い燃やす事など造作無い、プロ荒らしだ。
山本一郎~切込隊長がその気になれば破壊出来ないブログは存在しないと言っても良い。1月後、半年後、1年後といった忘れた頃に匿名で荒らしに現れて、破壊されぬという保障は無いのだ。
誰もがそれを恐れ、言葉に出来ぬ恐怖に怯えているのである。



だからして、山本一郎~切込隊長はブログ界の最強キャラである。
そのおかしさが表に出る事もなければ、批判的な認識が広まる事も無い。
巨万のアクセスと巨千の荒らしを抱える裸のブログの鋼鉄の人である。
触れた者は誰であろうと殺されるのだ。


コメント移転場所



1時半頃から表示不可能となり、当ブログを開設しているブログサービスは特定の投稿により「サーバーが見つかりません」となるという不具合が以前に判明していた為、今回の「サーバーが見つかりません」もそのような事が原因かと思い、コメント、トラックバック、投稿自体と順に削除してみましたが、直りませんでした。投稿が原因での接続不可は無かったようです。2時半頃に表示可能となりました。
原因はわかりませんが、ご迷惑おかけしてすみませんでした。


----以下、移転。

BLOCKBLOG コメント これまでのコメントコメント 苫米地なんかもチェックしてるんだ(w
たしかに他のブログではほとんど触れられてなかったね。まあそりゃ触れ辛いわな。
俺は切込隊長ブログで紹介されて以来ここにいるけど、真性引き篭もりhankakueisuuさんも鋼鉄のブロガーだと思うよ。

2005年4月24日日曜日

不可視ゲームと可視ゲーム。



うにゃーが面白いと書かれていたので遊んでみたけど全然面白くない。
遊んでも、遊んでも、一体どこが面白いのかまったく見えてこない。
面白くない点ばかりが目に留まる。
いつからか、見たいと願うものはまったく見えないのに、
見たくないと思うものばかりが見えてしまうようになった。
良くない事。目が腐っているのだろう。
ゲーム、ゲーム、ゲームの話。




僕が生まれるよりも前、全てのゲームは可視ゲームだった。
ちょうど将棋や囲碁のように、可視化されたルールのもと、一目で全てを見渡せるだけの小さな世界の遊びが提供されていた。
その時代の流れの続きの中で、可視ゲームは長い間栄え続けた。

ドンキーコングでは、自分、敵、ラスボス、助けるべき姫、と全ての情報が1つの画面に詰め込まれ、一瞬で全てを見る事が出来た。スペースインベーダーでは、自機、敵の数、弾、スコア、防護壁といった全てを見る事が可能だったし、ドアドアもバルーンファイトも、マリオブラザーズも、全てが一目で見渡せた。

それらはハードウェアの発展という支援を受けて、不可視ゲームへの進化を辿った。
可視ゲームであったマリオブラザーズは不可視ゲームの最初の雄へと化けた。
画面を右へ右へとスクロールさせると、そこには見た事の無い世界が広がっており、それを1ドットでも多く見るようと人々は夢中になった。
全てが一目で見渡せたSTGは姿を消し、画面を上へ上へとスクロールさせて見た事の無い世界を見るゲームへと進化を遂げて、ゼビウスやスターソルジャーは頂点に立った。

それらハードウェアの支援を受けて不可視ゲームが栄えるよりもずっと前、まったく別の場所で歴史上最も偉大な禁断の不可視ゲームは目覚めた。



糞ゲーは常に不可視だ。
どこが面白いのか見えない。
その原因を突き詰めると、ルールが見えない、ゴールが見えない、何が起こっているのか見えない。といった単純な不可視に突き当たる。
たけしの挑戦状にルールなんて無かったし、
バンゲリングベイはゴールが見えないから糞ゲー扱いされ、
シムシティ4は何が起こっているのか見えないから人々を困惑させた。

けれども、人々を狂わせるゲームも常に不可視だった。
1981年、ワードナ、トレボー、ウィザードリィ。最初の伝説。
何も見えない迷宮の中を手探りで探索し、やっとこさ強くなって色々と見えてきたと思った次の瞬間にはパーティ全員がロストされ、また全てが闇へと消えて不可視に戻る。
それは、衝撃的な不可視ゲームのデビューだった。

ここで重要なのは、不可視ゲームは見えないものを見るという作業である。
最後まで何があるのか見えないゲーム、何が起こっているのか見えず理解ができないゲームというのは往々にしてつまらない。
見えないものが最後まで見えないまま。
それはただの糞ゲーである。

その点で、ウィザードリィは完璧だった。
一寸先は闇だったゲームも、進めるにつれ少しずつ可視範囲が広がり、やがてはカーソルキーとAボタンで敵が出現した瞬間に首をはね続ける虐殺可視ゲームへと変化した。
ウィザードリィは最も偉大な不可視ゲームであると同時に、偉大な可視ゲームでもあったのだ。プレイを続ければ、見えない世界が見えるようになった。


日本に不可視ゲームを広めた男。
彼は最初から不可視だった。

軽井沢誘拐案内
ポートピア連続殺人事件
オホーツクに消ゆ
全てが見えなかった。
彼には、人々に「その先を見たい!」と思わせるだけの不可視な世界を作り上げるだけの力があった。間違いなく、特別な才能だった。そしてドラゴンクエストへ。
それは、センセーショナルだった。
たった一人で世界へ飛び出し、見えない世界を1歩1歩見て行くゲーム。
そこに用意されているのはRPG乱発期に量産されたような退屈で平凡な世界などではなく、遊び心に富んだ微妙に奇妙で新鮮な世界だった。「その先を見たい!」と思わせるだけの不可視な世界が最後まで続いた。

ドラゴンクエスト1には大きな可視が仕組まれていた。
ゲームをはじめて城から出ると、海の向こうの山の向こうにラスボスの城が見える。
ドンキーコングでゴリラが画面に見えたように、最初からゴールが見えていた。
ドラゴンクエスト1において、堀井雄二はどこまで続くか解らないといったアンフェアな行いは取らず、ここがゴールだ!とプレイヤーにフェアな勝負を挑んだ。


ウィザードリィやドラゴンクエスト1がそうであったように、偉大な可視ゲームは常に偉大な不可視ゲームでもあった。その象徴がゼルダの伝説~神々のトライフォース~だ。

ゼルダの伝説は不可視の世界で手に入れた道具でさらなる不可視の世界を切り開くと言う、不可視を可視へと変える作業の無限連鎖が巧妙に絡み合って作り上げられた1つのゲームの頂点だった。
その巨大な不可視の世界は、まるでディグダグのような1画面に収まる小さな小さな可視ゲームが延々とつなぎ合わされて作り上げられていた。
画面端まで移動すると次の1画面が全て見渡せる形で現れた。
ルールは非常に単純で全て可視化されており、難しいがフェアなゲームだった。
その可視性と引き換えにしたゼルダはより優れた不可視ゲームへと進化し、画期的な新しさを手に入れた。同時に幾らかの力を失った。
見上げる梟、白馬に跨り駆ける平野、転がる岩、笑う仮面。
可視ゲームという古い枠組みを手放すに十分な新しさだ。問答無用の3D。


不可視は常に人の手によって作られる。
不可視を人の手以外のもの、つまりは乱数によって作り上げようとする試みは全て失敗に終わった。
不思議のダンジョンという名作ゲームシリーズで乱数が司るのは極めて一部の小さな部分で、アイテム生成頻度、敵の強さと出現階数、イベント、ゴールの位置などは全て人の手によって丁寧に作り上げ調整されたものである。Morrowindは別の話だ。
乱数が不可視ゲームを作り出す事は永遠に無いだろう。
不可視の先には人々が「見て良かった!」と満足出来るだけの世界が用意されていなければならない。乱数にそのような芸当は無理だからだ。



マリオやゼルダやドラゴンクエストの成功によって、作り上げられた不可視ゲームが日本で売れると判明してからというもの、「見たい」→「がっかり」という糞不可視ゲームが雨後の筍のように誕生し、ゲーマーのときめき値を少しずつだが確実に消耗させて行った。
「見たい!」→「見て良かった!」
という不可視ゲームを作るのは本当に困難だ。
堀井雄二でさえ、ドラゴンクエスト7で幾らかの失敗をした。

「最近のゲームを楽しめない自分はもうゲーマーとしては駄目なんじゃないか」
そう思い悩むあなた方は駄目じゃない。
全然駄目じゃない。
体力が衰えたとか、感性が衰えたとか、老いたとかでは無い。
不可視の先に見て良かったと思えるだけの世界が用意されている事は非常に稀であるという事を頭と体が記憶したというだけの事である。それを学習し、学んだのだ。頭イイ。進歩。誇るべき事だ。
けれどもそれは同時にビデオゲームという不可視の世界を可視化し、沼の底まで見渡してしまったという事であり、1ゲーマーとして天寿を全うしたいと考える人間にとっては、その願いが潰えて消えたという残念さでもあるのだけれど。


中村光一。
堀井雄二と一緒にいた人。
彼も不可視を作り上げる才能に溢れた人だった。
弟切草、かまいたちの夜、街。
今尚語り継がれるサウンドノベル。
サウンドノベルやアドベンチャーというゲームにおいて、不可視は選択肢の先にあった。正しい選択をすれば不可視の世界は可視となり、間違ったものを選べば不可視は不可視のままだった。堀井雄二も小島秀夫も、MYSTもRIVENもそうだった。

作り上げられた可視の世界に選択肢という不可視を被せたゲーム。
それがゲームとしてのサウンドノベルであった。
それを逆にしたゲームがひぐらしのなく頃にである。

そのサウンドノベルは、最初から最後までが可視であった。
選択肢はまったくなく、ただ読むだけ。
可視に始まり可視に終わる。
けれどもそれには不可視が仕組まれており、それは人の心を掴んだ。
ウィザードリィやゼルダの伝説がそうであったように、人を狂わせるひぐらしのなく頃にという可視ゲームは、同時に不可視ゲームであった。
その不可視を可視化する唯一の方法は次のコミケ、その次のコミケ、またその次の。
その日が来るまで可視は可視、不可視は不可視のままである。
ひぐらしのなく頃には、これまでゲーム内で行われていた不可視を可視に変える作業をゲームの外に持ち出したのだ。それ自体は革新的ってわけではないのだけれど、それを徹底的した事でひぐらしは1つの頂点へと上り詰めた。


不可視ゲームを可視ゲームとしてリニューアルする。
それが巧妙に行われた場合、可視ゲームに不可視ゲームの皮を被せるのと同じくらいに面白いゲームが出来る。
カードゲームにおける「敵の手札は見えない」というルールを可視化したカルドセプトはCPUの力を借りて誰もが褒める名作ゲームの1つとなった。


レースゲームは常に不可視だ。
見たことも無いコースが用意され、それをクリアすれば次のコースが可視化される。
マリオカート、F-ZERO、リッジレーサー、グランツーリスモ。
それらを遊び続けていると、不可視だったコースの曲がりは完全に頭の中に刻み込まれ、やがては何も考えなくてもノーミスで走り続ける事が出来るようになる。
ウィザードリーが変化するのと同じように優れたレースゲームは常に優れた不可視ゲームから優れた可視ゲームへと変化する。駄目なレースゲームは駄目なままだけど。


ファイナルファンタジー。
これも1つの不可視の物語。
昔のファイナルファンタジーの不可視の先にある世界は、ゲーマーをメインターゲットとして作り上げられていた。けれどもそれはある時から、ゲーマー以外の人をメインターゲットとして想定した不可視の世界の物語へと変化した。
誰もが「見たい」→「見て良かった!」と思えるだけの不可視ゲームというのは簡単に作れるものじゃない。ファイナルファンタジーが取ったターゲットの設定は正しかったという事は、落ち込む事の無い売り上げ本数が示している。

昔はFFターゲットであったゲーマーが今のFFを買うというのは、「FF5は最高だった」という思い出を再確認する為にお金を出すという事だ。
それは、「武将風雲録は最高だった」「IIIは最高だった」という思い出を再確認する為にお金を出すのと同じくらいに素晴らしい事である。
思い出に対価を支払うと言うのは、それなりに正しいお金の使い方なのだ。何より、12800円ではなく7800円というリーズナブル。
新しい思い出を買うのではなく、古い思い出を買う。
少しの虚しさを伴うけれど、間違ってはいないのだ。


株式会社コーエーのシミュレーションゲームが不評なのは、他の不可視が原因だ。
シミュレーションゲームにおいて重要なのは、ルールの可視化とバランス調整である。
株式会社コーエーのシミュレーションゲームでは、ルールは完全に隠蔽されている。
数字の1がどのような効果を発揮するかはプレイを重ねても見えてこないし、特技だ必殺技だ武器だ馬だと色々な要素が入れられていながら、それがどのような働きをするのかがプレイヤーには見えないように作られている。なんか呂布と上杉謙信がなんか嫌な感じで微妙に強かったり、CPUはあからさまにイカサマをしていたり。
可視にするべき3つの点、ルール、ゴール、何が起こっているのか。
コーエーのゲームはその3つ全てが不可視であるといってもよい。
可視化されているのは、書き込まれた顔グラフィックと菅野よう子だけである。


それとは対照的な、可視化するべき点を可視化したシミュレーションゲームの頂点。
それは、シドマイヤーズ、シヴィライゼーション、アルファケンタウリである。
べらぼうに分厚い説明書の元で全てのルールがプレイヤーに公開され、しかも理解しやすいように単純化されている。マップの大きさ、陸地の広さ、敵の強さ、戦闘におけるルールなど、ゲーム進行に関わる全てのルールが可視化され、カスタマイズ可能である。
難易度調整においては、CPUのイカサマ具合を-80%から+200%の範囲で示し、その他雑多な細かいルールの全てをプレイヤーが設定出来る。
また、驚くべき事にゴールのカスタマイズも可能である。
気に入らないゴールはOFFにすれば、そのゴールはゲームから取り払われる。
標準ではOFFである特殊なゴールをONにしたら、まったく違うプレイ感になる。
さらに、何がおきているのかも見渡せる。
戦闘においては数字と数字がぶつかって、フェアな戦いが起こる。そこには隠蔽された情報、上杉謙信や諸葛亮は数値以上に強い、といったアンフェアな不可視はまったく無い。
CPUもプレイヤーと同じ条件で収入を得て、プレイヤーが望むならばそれを覗き見る事が出来る。
絵と音楽でこけ脅すコーエーシミュレーションとは何から何まで対照的である。


こけ脅し、騙し、過大広告。
それはゲームソフトにはつきものであった。
パーツのカスタマイズにより1000万パターンの自キャラが作成可能!
裏面をクリアするまでに必要なプレイ時間は1000時間!
隠しダンジョンはランダム生成により、なんと1000F!
それら、不可視の先につまらない可視、場合によってはただの乱数を用意しただけのゲームソフトというのは、人々を飽きさせゲームから離れさせた。
そしてそれに懲りた人々は不可視ゲームを敬遠し、可視ゲームを好むようになった。
小さなゲームが好まれるのは、そういう理由だと思う。
ドラクエ7やFF8がプレイヤーの心を折ったように、虫姫ウルトラや、東方のハードモードは時として人々の心を折ってしまう。「もう無理だ、これは永遠に不可視だ。」と。
それに対し、時間に応じて敵が強くなるというルールと、死というゴール、全てが一画面に収まるという見通しは誰も傷つけない。かつて不可視ゲーム、それもより一層の不可視である事を望んだハードコアゲーマー達は、時代の歩みに取り残されて孤立して、一目で全てが理解出来る可視ゲームを求めているのだと思う。
ゲームボーイや任天堂DS。ヒトフデやガンホーのワームズアルマゲドンがそうであったように、可視ゲームを待ち望み楽しむ人達がいる。
不可視ゲームを楽しめる人は可視ゲームを楽しめる人に比べて遥かに少ないのだと思う。
往々にして不可視ゲームは受けない。よっぽど良く出来ていないと。



これまで発売されたゲームの中で、究極の可視ゲームは何だろう。
僕はその候補としてリアルタイムストラテジーを推したい。
スタークラフトやウォークラフト、エイジオブエンパイアといったゲームにおいて、全てのルールとゴールは可視化されている。
対戦を前提としたゲームは、将棋、囲碁、対戦格闘、FPSなどがそうであるように、ルールとゴールが可視化されておらねばならず、非常にフェアである。
リアルタイムストラテジーには、それに加えてミニマップというものがある。
そこには、自分の軍隊が青い点で、敵の軍隊は赤い点で可視化されており、熟練者になればパックマンをプレイするかのようにリアルタイムストラテジーを小さな世界で起こる戦争ゲームとして遊べる。
ミニマップという俯瞰視点を用意する事で起こっている出来事の全てを見渡す事を可能とした、可視ゲームの1つの最終地点である。

RTSはコンシューマじゃあれだし、洋ゲーだし、まあ、日本人だしという事で国産ゲームから選ぶならば、ファイアーエムブレム辺り。
敵の位置、ダメージ計算方法、、回避率、命中率といったルールは全て可視化され、ゴールも何が起こっているのかも全て見られる。隠蔽された情報はまったくなく、非常にフェアなゲームである。


では、究極の不可視ゲームはとなると、これは難しい。
最高の不可視ゲームとは、不可視の先に待っている世界がプレイヤーに最大の満足をもたらしたゲームである。けれども、究極となれば、エバークエスト。これだ。
太平洋を横断出来るくらいの時間と10人以上の仲間がいなければ可視化出来ない世界。それだけのものが用意され、尚且つゲームとしての完成度が高かった不可視ゲームを僕は他に知らない。究極すぎてあれだけど。1つの最終到達地点の例として。




不可視か可視か。
それがゲームの話であれば、大した問題ではない。
ゲーム=人生な人達にとっては重要なのかもしれないけれど、幸いにして僕はそうではない。

問題は、人生は不可視であるか、可視であるかだ。
生まれた頃、物心がついた頃、まだ幼かった頃。
世界は不可視だった。
見た事の無い見たい世界がたくさんあって、それらは希望に満ち溢れた不可視だった。
もっともっとと、全ての不可視を見たいと誰もが望んだ。
不可視を可視に塗り替える作業は快感なのだ。

けれどもやがて気がつく。
不可視の先に待っているものは幸せばかりで無い事に。
満足の行く見た事の無い世界なんて、そうそう転がっていないと。

それに少しの時間の流れが加われば、先がだいたい見えてしまう。
不可視だった世界はそこにはなく、平凡な可視が広がる。
来年は1つ老いているだろうし、10年後には結婚しているだろう、20年後には子供が出来て、40年で年金生活、45年で孫を見て、60年後はもういない。
これっていわゆる駄目ソフトだね、と。

だけど、可視だって事はそんなに悪い事じゃないと思う。
来期のInterの順位や今年のワールドシリーズの勝者を予知する事が出来ない程度の小さな不可視はたくさん容易されているわけで、先の見えた人生の中でそういう小さな不可視に新鮮さを覚え続けるってのはそれなりに幸せな事だ。

同時に、不可視だって事もそんなに悪い事じゃない。
今はどうなるかわからずに、明日の事すら想像出来ず、ろくに希望を抱けなくても、不可視の先にはそれなりの世界が待っているかもしれない。諦めず1ドットずつスクロールして、見てみるってのも悪くない。多分、見ないよりはずっといいだろう。

そういう他愛も無い事を色々考えていると、うにゃーが面白くない原因を発見したので、それをご報告して本日の投稿を終わりにしたいと思う。
面白いゲームとは何か。
不可視ゲームだ。
面白いゲームとは何か。
可視ゲームだ。



うにゃーが面白いゲームで無いのは、不可視でも可視でもないからだ。
あれは、不可視ゲームでも可視ゲームでも無い。
おかしゲームだ。

いくつかの知らないゲームソフトについて僕が知っている事



投稿ボタンを押し臥せて、色々考えて文章が出来上がったので修正しようと椅子に座ったら、無修正縛りみたいなコメントがついてて酷く落ち込んだ。ああう、せっかく頭の中で文章練り直し、さあ、ってとこだったのに。

そんな事で悩むのならば、出来上がってから投稿しろって話なのだけど、30日を過ぎて宿題を始める子供くらいに自分を律するという仕事の出来ない人間なので、とりあえず投稿ボタンを押してから「人に見られる前にちゃんとした文章に直さねば」という危機感を利用しないと冨樫。



前置きはこのくらいにして、僕が知っている事。




・スタークラフト ブロードウォー

歴史上最も優れたリアルタイムストラテジーゲーム。



・海川腹背

ヒトラーの復活みたいなもの。



・パネキット

動力つきレゴブロック。



・カオスシード

ダンジョンキーパー2D。
ガンガイオーを作った人達が作ったゲーム。



・ゴールデンアイ

日本で最も成功したFPS。



・ブランディッシュ

PC版ゼルダの伝説。



・ジョイメガファイト

ファミコン最後のソフト。
誰もが絶賛したらしい。



・ファンタシースターII

いわゆるダメソフト。


2005年4月22日金曜日

なんの思い入れの無い最も優れたゲームソフト

自分に対する世間の評価は不当であると考える人は多い。

この評価はなんだ。
俺は世が下克上なら大名の器なのに、と。


けれども、自分と世界との力関係を知るにつれ、自分への過大評価は消えてゆく。
今の自分というものがこれまで積み重ねてきた人生における少しの努力とかなり多くの怠慢さによって作り出されたものであり、こんもりとした地位と吹き出物程度の評価は至極正当なものなんだと理解し、大人しくなる。
中には大人しくならない大人もいて、そういう人は、そういう人はどうなるんだろう。
僕は知らない。


ささやかながら退屈で小さな人生が自分に見合ったものであると受け入れるのはつまらない。
つまらないからと受け入れないでいると、でいるとどうなるんだろう。
僕は知らない。


とにかく、自分のしょぼくれた地位とありふれた評価に満足して生きる退屈な人生というのは退屈だ。

そういうなった時、人はその退屈さの発散先を、自分以外のものへと求める。豊田清の世間の評価は不当なものだ!
倖田來未の世間の評価は不当なものだ!
イブラヒムバの世間の評価は不当なものだ!
オレンジレンジの世間の評価は不当なものだ!
もっと評価されるべきだ、彼にはそれだけの価値があるのに、と。



野球にもサッカーにも音楽にも興味が無い人たち、世間ではゲーマーと呼ばれる人達の場合、その不当さの捌け口は当然ゲームに向けられる。
海原川背への世間の評価は不当なものだ!
パネキットへの世間の評価は不当なものだ!
カオスシードへの世間の評価は不当なものだ!
ゴールデンアイへの世間の評価は不当なものだ!
ブランディッシュへの世間の評価は不当なものだ!
ジョイメガファイトへの世間の評価は不当なものだ!
ファンタシースターIIへの世間の評価は不当なものだ!
もっと評価されるべきだ、それだけの価値があるとの希望を託すのだ。

はあ、かなりの無理を抱えながら斜めにするってのは疲れる。疲れた。
この労力はもっと評価されるべきだ。そこだけは断固として戦う。


特に一部のゲームオタクは粘着質でしつこくて、特定のいくつかのタイトルに固執して延々と、まるでそれが義務であるかのように褒め続ける。俺の仕事だ、任せてくれ、みたいな。




それが僕の場合はスタークラフトだというだけのオチもヤマも色気も無い投稿である。

スタークラフトの不当な評価に気がついたのは、購入して帰宅してキャンペーンを始めたのにほとんど進めず、ネットで検索した時の事である。

日本語版の出来とサポートが非常に悪い事、拡張版が当てられず、また発売される気配も無い事、そもそも日本語版を買う奴は馬鹿だという事などが目も当てられない惨状で記されており、買ったのは日本語版であった僕は酷く落ち込んでそのまま放置した。

少し経って他のゲームにも飽きた頃に引っ張り出してインストールし、10時間ほど1人でちょこまかちょこまかと軍隊を左右に動かしてはezのcpuをボコボコにしてご満悦して防波堤。

思い出も思い入れも何も無いゲームソフトで1投稿を立ち上げるという事がどれ程までに無茶であるかを痛感させられる今日でした。気の抜けた投稿。おしまい。

2005年4月21日木曜日

トリプルチーム(1)



僕は天才であった。
疑う余地の無い天才であった。
けれどもそれは昔の話で、今では凡人に成り下がった。
















>半角英数さんはとても素敵です。
メールが来ていた。
いやあ、これはezだ。

これは、ワナだ。
ちょうどその頃、僕のブログは荒れに荒れていた。
間違いなく、ワナだ。
僕はそんなものに騙されるようなnoobじゃあない。


いかにもありがちな本名っぽいハンドルネームと、プロバイダーのメールアドレス。
10行と少しの文章に、よろしければと言い訳をして返信を求める締めの一文。

僕は賢明であるからして、その意味を一瞬で悟った。
これは、熱心な海外ボツニュースのファンが僕を陥れる為に差し向けた、少し大掛かりだが陳腐なワナだ。その手には乗らない。暇で執念深い海外ボツニュース信者。全てお見通しだ。


適当なメールを返した。
出来る限り適当なメールを返した。

来たメールを丸々引用した返信メールの一番上に、
「ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。」
と、あからさまに定形文な1行を付け加え、そのまま返信ボタンを押した。

その間、約20秒。
秒殺。なんて強さだ。




1つ想定外だったのは、それに返事が来た事だろう。
返信を感謝する書き出しと20行足らずの文章に、よろしければと言い訳をして返信を求める締めの一文。ワンパターンだ。執念深い奴。


まあ、こういうのはよくある事なのだろう。
海外ボツニュースのような巨大なウェブサイトには熱烈な信者がいる。
その内の1人の狂信的で暇な奴が僕から何かを引き出して貶めようとしているだけだ。

馬鹿は放置に限ると、僕はそのメールを無視した。
なんとなくゴミ箱に放り込む事はしなかったものの、無かったものとして処理した。
気がかりだったのは、メールアドレスがフリーメールのものではなかった事と、その日本語が完璧であり尚且つ美しかった事。だがこれはワナだ。
大学は出たものの就職し損ねたニートか何かの仕業だろう。






それから1週間ほどして、またメールが来た。
そこには、僕がブログに投稿した文章を褒める言葉と、丁寧な考察が書かれていた。
それは幾らかは当っており、幾らかは外れていた。
まあ、どうでもよかった。
適当におだてて誘き出すという作戦なのだろう。
なかなかに悪知恵がはたらく奴だ、とだけ思った。
けれども褒められた事が嬉しくて、ついつい返信してしまった。

返信ボタンを押して、
「ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。」
とだけ書いて返信ボタンを即押し。

その間、約15秒。
なんて強さだ。
もはや作業だ。






翌日、またメールが来ていた。
けれども僕はそんなくだらないものを気にする必要は無かった。
これは誰かが仕組んだちょっと手の込んだ大掛かりだけど陳腐なワナで、僕の時間と日常を傷つけるのが目的。あわよくば個人情報でも引き出して晒して笑う魂胆なのだ。

そこには、返信が来ると嬉しいのだといった事がおべんちゃら交じりに整然とした日本語で書かれており、それに続いて自己紹介が書かれていた。
そして奴はついに馬脚を現した。


「簡単なもので構わないので、自己紹介お願いします。」
来た。
ワナだ。
真性引き篭もりという生業、hankakueisuuという無個性な、
「IDは半角英数でお願いします」
というブログ登録時の文章から引っ張り出したハンドルネーム。
それを破壊して個人情報を引き出して笑いものにするつもりなんだ。
僕はproだ。noobじゃない。その手には乗らない。


個人情報を要求する行をコピーして、
「お断りします。」
と7文字。

その間、約20秒。
見事な処理能力。





翌日、またメールが来ていた。
まったく、馬鹿な奴だ。
こちらは全部お見通しなのに。

ネカマだろ、ネカマ。
女を装って近づいて、キモい発言を引き出して笑う。
真性引き篭もり、中卒、ブリザドニスタ。
ハメるにはもってこいのターゲットって事だろ。

しかし、その努力は徒労に終わる。
何故なら僕はそんなものにホイホイと引っかかるような馬鹿ではないからだ。
来るメール来るメール、一瞥しては鼻で笑い、1分足らずで処理をする。
その手には乗らない。

長々とお詫びやらブログとhankakueisuuを褒める文章やらが続いたあとで、
「下の名前だけでも教えていただけませんか?」
lol


その行をそのままコピーして、
「お断りします。」

その間、約20秒。
さすがに疲れてきた。






またメールが来ていた。

気になる点は3つに増えていた。
・プロバイダーのメールアドレスである事、
・日本語がやけに美しい事、
・年齢が僕より2回りも上な事。
解せない。

普通ネカマを装うのなら、15~22くらいだろう。
なんでそんなに上なのだろうと、かなり悩んだ。

けれども、ある事に気がつき僕は笑った。
リサーチ、市場調査、敵情視察。
検索エンジンでララ+フリン+ボイルと打ち込んでEntr。
35歳、なるほどね。そういう事か。


そのメールには個人情報を問うた事への丁寧なお詫びの言葉と、うんざりする程に続くブログの投稿を褒めながら解説する文章が書かれており、「メッセでお話しませんか?」。


その行そのままコピーして、
「お断りします。」

その手には乗らないってば。
メッセのログを晒すんだろ。
僕は馬鹿じゃない。

----
トリプルチーム(2)


トリプルチーム(2)



またメールが来ていた。

いかにもありがちな女性の名前、フリーのメールアドレス。
昨日までとは別の人。
世も末だ。


その頃、僕のブログは酷く荒れていた。
解りやすい展開だ。

荒れる、暴れる、女を装いメールを寄越す。
インテリジェンスの欠片も無いワンパターンなやり口。

「半角英数さんの文章はとても素敵です」
ワンパターン。
「名前だけでも教えてくれませんか」
ワンパターン。
「無理しないでください」
ワンパターン。


捻りが足りないね、捻りが。
もっと利口なやり口というものを手取り足取り教えてやろうかと思ってしまうくらいのnoobが2匹。

やるならば、勝てる相手を選ぶべきだ。
確実に勝てる相手を選択し、労力をつぎ込むべきだ。
選んだ相手が悪すぎる。
僕はnoobじゃない。proだ。一発だ。見破った。


何通目かで、彼女は唐突に言った。
「私はアメリカ在住です」
lol
ダウト。
なにそれ。
ありがちなワナ。








しばらくして、またメールが来ていた。

ありふれた名前、プロバイダーのメールアドレス、昨日までとは別の人。

本文は一行。
「よろしくやりましょう!」



新しいパターン、新しいスタイル、新しいやり口。
なかなかに利口だが、リアリティ無さすぎ。
送付された2枚の画像にはずば抜けた美人。
ウェブ上で拾ったものだろう。


手の込んだ事をやるもんだ。
とりあえず画像をMyPictureに証拠資料として保存した上でメールは無視。
そんなワナにはハマらない。
その手には乗らない。
馬鹿は相手にすると付け上がるからな。
無視に限る。









数日後、気がついたら僕は3人の何者かとメールをしていた。
僕をハメようとしている奴は一体何人いるんだ?
1人か?2人か?3人か?
わからなかった。


理解できていたのは、僕には敵が大勢おり、僕を罠にハメて遊ぼうとする暇な奴はインターネット上に大勢いるという事実だけであった。その日も、次の日も、また次の日も僕のブログはいい塩梅に荒れており、その荒れ様だけが僕に正気を保たせていた。


そのコメント欄の荒れ様、嘲笑と罵倒が行きかう様こそが、本来あるべき姿であった。
僕の鞄は不完全なサッカーボールでしかなかったし、半径一メートルに近づいたら負けであり、登校する度に鉛筆で大きくバカと書き直された机が常にあったし、事実馬鹿であった。
それは疑う余地の無い真実であったし、紛う事無きナチュラルボーンであった。


悪夢のように思えるが、それは悪夢などではなく、1つの正しい才能であった。
親しげに呼び寄せる声は下水処理場横の水藻漂うドブ川へとランドセルごと突き落とす為のトラップだ。そうやって僕は賢くなった。誰よりも用心深く、誰よりも執念深く、誰よりも汚く、誰よりも4K.Grubby。

その手には乗らない。
これは、ワナだ。
手の込んだワナだ。






何がいけなかったのかはよくわからない。

DOTA allstarsの無くなった日常というものは余りにも暇でネカマの迷惑メールを相手にするくらいに暇だった。相手は僕を罠にハメようとしている悪意のあるネットオタクだから、何一つ気を使わなくてもいいし、ブログの投稿のように推敲しなくてもいい。好き放題、吐き放題だ。その位に暇だった。

彼らのメールを読んでいると、その暇さが一瞬とはいえ綺麗に消費された。
非生産的で無価値な事だとわかっていたが、DOTA allstarsの空白よりは幾分か精神的に楽だった。
1行だった返信メールがやがて2行になり、3行になり、4行になった。


ある時強烈な自己嫌悪を覚えて全て無視してみたら、三者三様丁寧に謝られた。

「読んでくれるだけでいいので、メールさせてください」
ふざけるな。

「お断りだ!」
と返した。

「そんな事言わないで下さい」
と返ってきた。






もう、滅茶苦茶だった。

ブロガーはモテるというのは有名な事実だ。
とあるブロガーなどはチビデブ不細工の狸ブロガーをのっぽのナイスガイだと風説に流布し、寄ってきた女どもを片っ端からハメ撮っては飲み会と称してハメ撮りビデオの鑑賞会を開いているというのは有名な事実であり、WinMXとかでAブロガーシリーズと称されてバンバン流れまくっている。70番くらいまである。けれども、それは極一部の限られたブロガーのみで僕とは無縁の世界の話だ。

真性引き篭もりだぞ。
真性引き篭もり。

じゃあこれは、一体なんなんだ。
僕のメールボックスを埋める色とりどりのメールの山は……わかった。

ワナだ。
答えは1つ。
執念深いネカマのワナだ。




彼女ら、。彼女らは言った。

「切込隊長さんは好きだけど半角さんはもっと好きなの。」
ちょっと待て、おい。
いくらなんでも落差ありすぎだろう。

第一志望イエール州立大学第二希望大阪モンゴリアン馬術大学校(専門学校相当、学費2年で780万円)みたいな瀑布だ。第一志望が仲間ゆきえで第二志望が細木和子かよ。デビ婦人以下かよ。ありえないだろ。もっと中間のよさげな所を狙い撃てよ。F18ホーネットで屋台の射的のキャラメルの的を狙い打つような真似してんじゃねーよ。ちゃんと戦闘機狙えよ、戦闘機。費用対効果を考えろよ。凄まじいまでのoverkillだろ。スライムにミナディン唱えてどうすんだよ。そんなに力を誇示したいのか。何が狙いだ。何が狙いだ。

ワナ、だ。

まったく、困ったもんだ。DOTA allsatarsの無さに耐えかねてヒトフデをクローンしていた時だってそうだ。あいつの配下の旗本の眼鏡デブが迷惑なメールを寄越して来たのに慌てふためき撤収したのだ。コンクリートの鉄壁があればコンクリートの鉄壁ごしに警察呼べば済むのだろうが、こっちは外堀も内堀も二の丸も本丸も畳に立てた業物刀の一本も無い身分であるからして、白兵戦に持ち込まれマウントとられてボコボコだ。しかも3マウント。ほじくりだされた五臓六腑があちらこちらに散らばってんだ。おまけに、バラモスゾンビや能登七星城までもが緑色に染まってやがる。腐ったインターネットだ。どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。どいつもこいつも。

どう考えても。








僕は彼らの罠に見事に嵌り、心安らぐ平穏な日常生活というものを失っていた。
気がついたら、僕は3人とメッセをしていた。デスクトップ画像は、DOTA allstarsのロード画面からメール送付の画像に差し替えられていた。PCの電源を入れなおす毎に、MSNメッセとYahooメッセとSkypeが立ち上がった。

一人が僕にこう言った。
「わかる?貴方が好きなの。」

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トリプルチーム(3)


トリプルチーム(3)



もう一度、1ページ目に戻るべきだと僕は思った。
少しずつ狂い始めているものを、元の鞘へと収めるべきだと判断した。

仮にこれがワナだとすれば、今まで通りにしていればよい。
飽きた人からフェードアウトして行くだろう。思惑通りに。
その日まで適当に暇つぶしの道具として利用していればいいのだ。

けれども、もし、これがワナではなかったとしたら。
彼らの言う荒唐無稽なプロフィールが全て本当の事だったとしたら。
だとしたら。




だとしたら、僕は。

僕は誰の人生にも干渉するつもりは無い。
僕が不幸にするのは極めて閉じた範囲の回避不能であった不運というものに見舞われた数人は当面仕方が無いとしても、それをより広い範囲へと被害を拡大させるつもりは無いのだ。そのように傲慢ではないし、冷酷無比でもない。
必要なのは身分相応をわきまえるという正しさだ。
ジェットコースターに乗るつもりは無いのだ。

追いかけてくる奴がいたなら逃げる。
好かれたならば嫌われる。


逃げる術を知らず、捕まってしまった僕に出来る事はただ1つ。
嫌われるように努力する事だけであった。


これまでも、努力を重ねてきた。
丸めた布団を相手に背筋と身振りの練習をし、手鏡を盗んできては笑窪の出来ない自然な笑顔の作り方を練習し続けた。鼻が高くなるようにと左手で引っ張り続けてみたり、想定される全ての会話を紙に書き出してそれの返事をノートに書いて、寝る前に3度づつ抑揚をつけて小声で復唱したり、枕の下に「大丈夫」と6Bの鉛筆で書いた紙を敷いて寝たりといった徒労を積み重ねて生きてきた。
人に好かれんとする努力というものを繰り返してきた。
そうしても尚、嫌われ続けた。

それは天賦の才だと思われる程に、好かれる事など一度も無かった。
その力は真性引き篭もりhankakueisuuというブロガーの手により全て奪われ、嫌われる人からは嫌われ、好かれる人からは好かれる凡人へと成り下がった。

僕は思い上がっていたのだ。
自分は天才だと。
自分は特別な存在だと。

けれどもそうではない事を悟った僕は、嫌われようと努力をした。



「返信の来るメールの書き方」
というものを検索して調べ、そこで例として出されていた悪いメールというものの書き方をそのままなぞって嫌われ返事がもらえなくなるような文章でメールを書いた。

けれども、どうしてか返信が来た。
しかも、喜ばれた。
「私の為に苦手なメールを無理して書いてくれているのが伝わってきて、感激しました」
狂ってる。
何脳だよ。
エロゲー脳かときメモ脳かアンジェリーク脳か。なんなんだ。




チャットにおいては、ウォークラフト3で最も嫌われた有名なプレイヤーの口調をそのまま真似した。JK_69という彼の特徴は、ゲームの開始から終了まで全て大文字の英文で相手を罵倒し続けるというプレイスタイルであり、彼のリプレイが挙げられる度、リプレイサイトのコメント欄は荒れに荒れていた。

それは非常に素晴らしい嫌われのモデルケースであり、僕はそれを真似した。

「黙れ!」
「失せろ!」
「お断りだ!」
3つを繰り返した。

というか、なんか今見直すと物凄く嫌われそうな発言だな。
まあ・・・そりゃあそうか・・・嫌われようとしていたのだから。


それでもどうしてか嫌われなかった。
絶え間なくメールが届き、絶え間なくメッセに誘われ、絶え間なく暴言を吐いて尚、彼らはそれを止めなかった。ゲームをする暇も無いくらいに。








ブログにパソコンが壊れそうだと書くと、
「壊れたら半角さんの文章が読めなくなるからお姉さんがパソコン買ってあげる」
と来た。とりあえずもう大丈夫だという事にして、うまくあしらい断った。
刺激しないようにと、壊れかけたパソコンの事を書くのを止めた。

しばらくして、彼女はパソコンの北北東を進んできた。
「部屋借りてあげるからこっちに来ない?」
間髪入れず、「お断りだ!」と返した。
なにか、悲しそうな文章がしばらく続いて「考えといてね」と時間を与えられた。


彼女の話はつまらなかった。
誰よりもつまらなかった。

ある時、切込隊長と自分を比較しだした。
彼女の主張は切込隊長なんて、実は大した事無いというものだった。
自分の学歴が如何に優れているかを延々と説いた後で、それと比べればあんなの大した事無いの、「半角さんにはわからないでしょうけれど」私の方がずっと凄いのよ、と締めた。
どうでもよかった。
まったくもって興味が無かった。


彼女は、10分ごとに時間を気にした。
「まだ大丈夫?」
「今大丈夫?」
「悪くない?」
「いいの?」
僕が何か物凄い忙しい人間であると思い込んでいる様子だった。
ブログタイトルくらい読めよと強く思ったが、適当に無視していた。

ある時から、真面目に日本語をタイピングするのもうざくなって、
「a」
と打つようになった。
キーボードの左端に位置するそのキーを左の指で叩き、エンターキーを押すだけで、僕の時間を気遣っていたその姿は消え、解き放たれたようにつまらない話をし続けた。


上司の無能さ、同僚の馬鹿さ、男の愚かさを延々喋り続けた。
「今の職場は私一人で持っているようなものよ」誇らしげに言った。
いい加減読むのもうざったくなり、クロウルの背後で放置した。
再びフォーカスを戻すと「半角さんみたいな人はどこにもいないの」とあった。




ある日、彼女は唐突に映画を見たと言ってきた。
「マイケルダグラスがかっこよかった」
って一体何が言いたいんだ。

あんたの読んでるブログの管理人は全然マイケルじゃないしダグラスでもないわけ。
真性引き篭もり。真性の引き篭もりなの。わかる?物凄く引き篭もってるの。
もう、わけがわからなかった。
自分の身に何が起こっているのか理解が出来なかった。




突然、彼女は永遠に続くかと思われた愚痴と罵倒と嘆きを止めた。
「10年以上前の事だけど、」
と、昔の恋愛の話を始めた。

どこを歩いただとか、何を見上げただとか、どこに泊まっただとか、そういう興味のまったく沸かない話が延々と続き、その時僕が何をしていただろうかと少し考え、憂鬱になった。その彼がいかに優れた人物であったかを、延々と褒め称え続けた。
高学歴で体躯が良くて二枚目で、頭もセンスも優れていて、尚且つ正直だったらしい。



「彼とは、別れてからもいい友達だった」
「半角さんが好きなの」
ちょっと待て。
あんたは誰と話をしているんだ?

僕は中卒で、背が低くて、梅雨に2晩打たれた照る照る坊主みたいな体で、救いようの無い馬鹿で醜く嘘つきで、尚且つ数年誰とも口を聞いたことが無いような真性引き篭もりだぞ。
統合性がまったく取れていなかった。



彼女は突然言った。
それはあまりにも脈絡が無く、長い同僚への愚痴の直後に、
「まだ大丈夫?」
と時間を気にした後の事だった。


「結婚しましょう」
メッセを切断し、終了した。

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トリプルチーム(4)


トリプルチーム(4)



STFU。
STFU。
plspls。
これは一体なんなんだ。
好き放題ブログを書きたいだけなのに。

3人のうちの1人が、ある時ご丁寧にも好きな投稿ランキングというものを送りつけてきてくれた。その一覧を眺めて、こういうものを書いてはいけないのだなと僕は学習した。
というか、書けなくなった。

テキストエディタのアウトラインには、大量に投稿のあらすじとフレーズだけが溜まって行った。しばらく前ならば、喜び勇んで投稿していただろう内容の下書きが次から次へとbyteを埋めた。
けれども、それを書こうとすると、どうしてか指が進まなくなった。
クロウルをダウンロードして、ゴミ箱に捨てて、tfをダウンロードして、ゴミ箱に捨てて、IEを立ち上げて、IEを閉じて。違う投稿を書き上げて、書く事リストだけが溜まり続けた。


彼女らは口を揃えて言った。
「昔のログも全部読んだ」
いい迷惑だ。だからなんだ。
たかがブログを読んだくらいで何もかも知ったつもりか。
というか本当に読んだのだろうか。
真性で、引き篭もりで、狂気をはらんでいる。
まともな神経があったならばメールなんてしないだろうに。


「昔の方が好きだった。けれども今も好き。」
昔の方が、とういのは僕の方向転換が成功している事を示していた。
けれども、というのはそれが決定的な効果を発揮できていない事を示していた。



彼女らは明らかに僕を好いていた。
目的は、嫌われる事。
傷つける事ではなかった。
それは途方も無く困難な作業で、ただただ僕を消耗させた。







しばらく、日を置いた後、彼女は丁寧に切り出した。
自分がいかに生活力があるかを説明し、ネットゲームだけやっていればいいの。
いてくれるだけでいいの。だから一緒になろうよ、と。

そこから2つに分岐した。
1つめは、前にも聞いた部屋を借りてあげるからというもの。
2つめは、すぐに離婚しても半角さんはこれだけ得をする、というものだった。




「一日でいいの、一日で」
そう繰り返した。1日、1日と。

彼女は唐突に月10万円だと・・・と、1日の離婚で得た金で何年引き篭もれるかを数字に書き始めた。「10万円(笑)」と僕が笑うと、慌てて月20万円だと・・・と計算しだし、「一生は無理か」と寂しそうにつぶやいて、勢いを失った。



「働いてもっと稼ぐから」
彼女は話は致命的なまでにつまらないながらもそれなりに美人で、とても魅力のある人だった。にもかかわらず、彼女は金の話をし続けた。服も靴も送ってあげるといいだし、こちらに来ればゲームだって好きなだけ出来るし、サッカーだって見られると、その利を説いた。



「私は貴方を救えるの」
あまりにも短絡的だと思った。
白馬の王子様が来ないから、白馬の王子様になってやるって寸法なのはよく理解できたが、選ぶ相手を間違えているとしか思えなかった。

彼女は自分の稼いだ金が自分自身を幸せにはしていないという事は理解しているようだった。けれども、その自分自身すら救えない金というものが他の誰かを救えると頑なに信じている様子だった。確かに、救えるのかもしれない。他の誰かならば。









彼らとのメッセは非常に楽だった。
僕が何1つ喋らずにいても、町を流れる電光掲示板のようにピコンピコンと発言が続いた。気が向いたらそれを適当に読み漁るだけで、1分2分の暇は潰れたし、チャットなんかした事の無い僕にとっては適当に発言すればそれへのレスポンスが5秒足らずで返ってくるというのは結構新鮮で、面白かった。

うざくなったら、即落ちればよいだけだった。
「昨日は長い間ありがとうございました」
といった的外れなメールが届き、それまで通りの関係が続いた。
嫌われる事はなかった。傷つけたかどうかはわからないが。


彼らからのメッセが入った時、完璧に断れる台詞があった。
「今ブログ書いてる」
と言えば、丁寧な謝罪が寄越されて、僕がブログを書き終えるまで彼らは待っていた。
いや、実際にブログを書いていた事など一度として無かったのだが。
1時間でも2時間でもした後で、適当にこちらから発言すれば、「もう大丈夫?」と気遣われ、何事も無かったかのようにメッセが始まった。
何が大丈夫なのか理解が出来なかった。















彼女が4通目か5通目のメールで「アメリカ在住です」と突然に奇想天外な妄想を繰り広げた時からしばらくして、僕は彼女ともメッセをするようになった。


「半角さんって頭いいよね」
同意を求めるような文章から始まった。

「私なんか馬鹿だから」
確かに馬鹿だなと思った。



彼女はいかに自分が馬鹿なのに比較して、真性引き篭もりhankakueisuuというものが知的で優れているかを褒め称え始めた。

「貴方の全てが知りたいの」
間髪入れず「お断りだ!」と返した。
彼女はハハハと笑っていた。



「私は本とか読んだ事が無くて・・・」
と始まり、偉い、凄い、賢いと続いた。一体誰がだ。
それは一体誰に向かって言っているのだ。
どこか他のブログを読んでいるとしか思えない発言が続いた。

頭を抱えた。
どうすれば嫌われるのか考え悩んでみたものの、答えは出なかった。



ある時、どういうきっかけか、とある作家の名前が出た。
その作家は、昔好きだった映画の原作者だった。

僕がその映画で好きだった点は、屈強な男どもがドス黒い血を流しながら無慈悲な叫びを上げつつ倒れていくシーンである。そのシーンをビデオで何度も見ては「皆殺しにしてやる……皆殺しにしてやる……」とぶつぶつ呟く健全な少年時代を過ごしていた。
その映画のそのシーンは僕の頼りすがる希望の具現化した姿であった。

僕は少し興味が出て、彼女に問いかけた。
「邦訳で読むの?それとも、原文で読むの?」

間髪入れずに彼女は答えた。
「両方よ!」

物凄い自信だった。
「当たり前じゃない!好きな人のは全部読みたいでしょう?」
何が当たり前なのかまったく理解が出来なかった。
ゲームに対する1日20分の制限が取り払われてからというもの、僕は読書というものが出来なくなった。5分も読めば目がかしばみ、心と体がゲームを渇望した。
彼女が当たり前だと言った世界は、RingOfRegenerationをリングオブレギュレーションと読む程度の力しかない僕には存在していないようなものだった。

「本なんか読んだ事なくて」
という作り上げられたディテールはあっという間に崩れ落ち、何か途方も無い知性がそこにいた。僕は彼女が恐ろしくなり、どこかに隠れようとしたものの隠れる場所などどこにもなく、メールとメッセが逃げ場無く届き続けた。




誰かと同じように切り出した。
「一緒に住もう。」
おいおい。
いい冗談だ。
そこはアメリカだって設定だろ。

「月2万5000円、ルームメイト。」
どうしてか、ドルではなくて円だった。

金を出すという人と金を出せという人。
どちらも狂っていると思った。




「この国では男も女も老いも若きも強くなるの」
私は強い、と自分を評した後に彼女は続けた。

彼女の言う強さとは一体何なのだろうかと思った。
真性引き篭もり相手にメールをし続けるというのは弱さの象徴のように思えた。なのに彼女は強いと言った。何がだ。強さとは自分を偽る傲慢さなのか。
それならば僕もそれなりに強い
いや、そんな国は御免だ。


「私は貴方を癒す事が出来る。」
ブログの更新は心労でしょう。
と、ブログを更新する事の辛さに理解を示した後でそう言った。
一番心労なのは、ブログでは無くて他の何かだった。
だんまりを決め込んだ。


「私だけはずっと貴方の味方だ。」
ブログが荒れに荒れている時、彼女はそう言って寄越した。
丁度同じ頃、似たようなメールが他に2通あった。
僕を癒してくれるものは敵のみだと知った。


「世界は本当に素晴らしいの」
突然、引き篭もりを非難した。
なんだってあるの、なんだって。
それをまるで万能薬のように褒め称えた。
そんなに外の世界というものが素晴らしいのなら、それに救いを求めろよと思った。
真性引き篭もりにメールするよりまず先に。










何が狙いだ。
どうすればいいのだ。
どのような対応をしても、メールやメッセが止む事は無かった。

「今日は半角さんと話をするために残業せずに帰ってきたの」
うーん、、。
これは一体なんなんだ。

「今日は半角さんと話をするために30分早く起きたの。よかった、いてくれて。」
さっぱりだ。
さっぱりわからない。


何が言いたいんだ。
何がしたいんだ。
どうしたいだ。

3人のオンライン時間はずれており、望めば絶え間なくチャットをし続ける事が可能だった。しかもそのうち1人は一方的とはいえエロチャットだった。
高麗和男を罵る裏でエロチャットをする真性引き篭もり。
自分の正義が大きく揺らいだ。
倫理的危機だった。





ある時、3人同時にメッセをするハメに陥った。
物凄くうざったかったので、コピーアンドペーストで切り抜けた。

左の発言を真ん中に、真ん中の発言を右に、右の発言を左に。
そういう事を数時間繰り返した。
彼女らは嬉しそうに喋り続け、その中でタイピング速度の速さを褒めた。
「半角さんって凄い」


やがて「長い間相手をしてくれて本当にありがとう」と口々に言い、静寂が戻った。
なにかいけない事をしてしまったかのような罪悪感に捕らわれた。
何も悪い事なんてしていないのに。








「よろしくやりましょう!」
で始まった彼女との電信はまったくもって奇妙なものだった。
彼女からのメールには必ず画像ファイルが添えられていた。
真性引き篭もりをバイオのノートで閲覧中の画像もあった。
よく出来たコラージュだな、とネカマの技術力に感心した。


彼女の言い分は少し違った。
「これは愛なの」
これ、ってのが何なのかは解らなかった。
とにかく、彼女は愛だと称した。


全てが奇妙だった。
「歯を磨いてくる!」
と言っては、磨いてあげるとしつこく付き纏った。
どうあしらえばその付き纏いが終了するのか理解できず、色々苦難してみたものの、1つわかった事は、彼女が飽きるまでその付き纏いが続くという事だった。かと言って無視を決め込むと、無視するな無視するなと延々文句が流れ続けた。音声で。
挙句の果てに嘘泣きを経て嬌声。
うざいので切断すると、すぐに幼稚な嫌がらせのメールか、大人びた謝罪のメールが届いていた。どちらにしろ、少しほぐれた画像が送付されていた。


「風呂に入ってくる!」
と言っては、一緒に入ろうと言い出した。
どうあしらえば終わるのか想像も出来なかった。
新しい形の苦痛であった。



冗談じゃなくて、と前置きして彼女は言った。
「本当にこれは愛なの」
本当に迷惑だった。


彼女は突然真面目に自分の男性遍歴を書き始めた。
「私、男運が悪くて」と、これまで付き合った人間がどれ程までに極悪非道の所業を成したかを、彼女には似つかわしくない文章で長い時間をかけて淡々と書き続けた。
僕は「a」すら挟む事が出来ずにそれをただ只管読んだ。

やがて、あらかたを語り終えた彼女は唐突に言った。
「真性引き篭もりさんはそういう人じゃないから」
それは男運が悪いのではなく、男を見る目が無いのではという疑問が芽生えた。
けれども、言わずに飲み込んだ。
飲み込むしかなかった。



彼女のメールは奇妙だった。
メッセとはまったく違う折り目正しい段落づいた文章と、それに似つかわしくない画像ファイルが添えられていた。冷静に考えれば、2人一組で僕をハメようとしている罠だとしか思えないくらいにメールとメッセの文章の間には、越えられない位の差異があった。その埋められないかに思えた差異は、yahooメッセのビデオチャットによって埋められた。彼女は1人だった。丁度、真性引き篭もりhankakueisuuと僕が1人であるように。



ある時僕にどんな音楽を聴くのか?と聞いてきた。
あまりにもしつこいので、あまり好きではない古い歌手の名前を出した。

彼女のリアクションはドン引きだった。
明らかにテンションが落ちており、嫌われる兆候だった。
趣味悪いね、と言いたげだった。


2日ほどして、彼女からメールが届いた。
そこには、その歌手のアルバムを買った事、そしてその歌詞が寂しさと喜びと愛に満ち溢れたものである事、半角さんも寂しいのね、と書いた後で、私も寂しいと続き、愛していますと終わっていた。

僕もそのアルバムを持っていた。
一番出来の悪いアルバムだった。

僕が持っているその歌手のアルバムは全て英語版で、歌詞の意味なんてまったくわからなかった。唯一好きな点は、かき鳴らされる弦楽器の不協和音のみであり、歌詞なんてまったく知らなかった。彼女は特徴的な弦楽器に触れる事はなく、歌詞ばかりを褒めた。

英語を聴き取れるのか?それとも、邦訳を読んだだけか?
と問いただしたかったのだけれど、おそろしくてやめた。
もし、「英語を聞き取った」という回答が返ってきたら、立ち直れないくらいのダメージを被るような気がしたからだ。

とりあえず僕はその歌手のオフィシャルサイトに行き、邦訳の歌詞を少し読んだ。少しも心が動かされない平凡な詩がそこにはあった。
何から何まで、ずれていた。





「聞いて?」
と念を押し始まった文章はもっと理解できなかった。

「私、半角さんと出会ってからセックスしてないの」
いや、待て、待つんだ。
そもそも、出会っていない。
お前は何が言いたいのだ。

「これって、凄い事なのよ?わかってる?」
解らなかった。
そもそも異性に触れた記憶すらない。
セックスって何?食べれるの?ってレベル。
それ以前にオナニーって何?ってくらいに体力が無い。

というか、誰と喋っているんだ?
誰とメールしているんだ?
誰とメッセしているんだ?
誰にエロチャットを仕掛けているんだ?
真性引き篭もり、わかる?
真性引き篭もり。
つまり、物凄く引き篭もっているわけ。

「半角さんはいい人」って、ブログ読んでる?
何をやっているか本当に見てる?
どこがいい人なの?
どこが?
ねえ。
マジで。
誰と喋ってんの?
誰に脳内片思いしてんの?





「交通費は出すから」
同棲、同棲、と繰り返した。
それがいかにばら色の日々であるかを説明しだした。
聞けば聞くほど地獄としか思えないような解説が続いた後「今すぐ!」と続いた。

「今すぐ来て!もう我慢できない」
我慢しろ。


「私は貴方を幸せに出来る」
との主張が繰り返し成された。
幸せの意味を履き違えていると僕は思った。
何から何までずれていた。重なる部分はまったく無かった。


自分が性欲の対象として見られているという事に気がついた。
それは、恐怖だった。

夜道で足音やカブのエンジン音が後ろから迫る恐怖というものに不必要に怯える女性がいるように、真性引き篭もりhankakueisuuを褒める言葉の全てが恐怖に見えた。
執拗に当ブログを読み続けている場違いな大人の男達がもし飢えた女性だったとしたら、彼らも同じように襲い掛かってくるのかといった奇妙な妄想に取り付かれ、少し萌えて少し悶えてかなり恐ろしくなり、想像してその気持ち悪さに吐きそうになった。

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トリプルチーム(5)


トリプルチーム(5)



何もかもが狂っていた。
2月の14日にはメールが3通届き、1枚はケーキ、1枚はチョコレート、1枚は半裸だった。写真、写真、写真、メール、メール、メッセ、メッセ、声、声、声。

「声を聞かせて!マイクくらいあるでしょう!」
あるわけ無いだろ。
真性引き篭もりだぞ。

「なら買ってあげる!」
STFU。





何故真性引き篭もりなのだ。理解が出来ない。それだけの職、それだけの学歴、それだけの世界、それだけの責務、それだけの容姿というものを手に入れる所まで努力しておきながら、どうしてそこで真性引き篭もりを狙うんだよ。志が低すぎるだろ。
真面目に生きろよ。一度きりの人生だろ。
自分自身の努力に報いる相手というものを探せよ。


何故真性引き篭もりなのだ。理解が出来ない。よろしくやりたいなら、mixiだとかアバターだとかリネージュだとかFFXだとかそういうところへ駆け込めよ。対話機能搭載の穴付きおっぱいとしか見ていないようなのが大勢いるから。
山のようにいるから。
うようよいるから。
対話機能搭載の穴付きおっぱいキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!ってこれでもかってくらいに寄ってくるから。やりたい放題ちやほやされるから。


何故真性引き篭もりなのだ。理解が出来ない。
まったくもって理解が出来ない。
狂ってる。
馬鹿だ。
誠実さの欠如だ。
人生の浪費だ。
腹立たしい。
真面目に生きろよ。
ふざけるな。
幸せにしてあげるって僕はあれか、フェレットか。それともハムスターか。たまごっちか。ピカチューか。ポケットモンスターか。いろんな意味でポケットモンスターか。
お前らはお前らで勝手に幸せになれよ。
他人を巻き込むなよ、他人を。
なんで立派な大人が揃いも揃って中卒無職の真性引き篭もりを必死で口説いてんだよ。頭おかしいだろ。もっとまともなのいくらでも釣れるだろ。行くとこ行けよ。ちゃんとしろよ。幸せは掴み取るもんだろ。いや、掴み取ろうとしているのかもしれないがそれ方法論として間違ってるだろ。もっとちゃんとしろよ。











私の事どう思ってる?
「うざい!」
うざい?
うざいんだ(笑)


「失せろ!」
やだ!
「失せろ!」
やだ!
「消え失せろ!」
やだやだやだやだやだ!!

なんだこれ、一体。
まったくもって、馬鹿げていた。



ねえ!
「?」
なんでもない。

馬鹿げていた。
人にShift+/を押させるだけの労力を要求しておきながら、一体全体何様だ。



一人は4月に来いと言い、一人は5月に、一人は8月に会おうと言った。
それが無理なら12月に、ってどれだけロングスパンなんだ。
「怖がらなくていいから」怖かった。途方もなく怖かった。
それ自体ではなく、その想いが怖かった。








疲れた。
何かに疲れた。
そりゃあ、まあ、疲れるか。
壁紙にして毎日読んでメッセに追われて声聞いて動画見て擦り切れた。





嫌われようと努力してもまったく嫌われないというのは、
好かれようと努力してもまったく好かれなかったこれまでよりも辛かった。


そもそも、本当に嫌われたいのかどうかも疑わしくなっていた。
よろしくやりたいリストのブログは消し飛んで、表彰台には彼らがいた。気がついたら、一番馬鹿で一番愚かで一番強欲な一番平気で嘘をつく女に惹かれていた。何故ならば、僕自身が馬鹿で愚かで強欲で、平気で嘘をつく人間だからである。

僕と彼女に1つの差異があるとすれば、彼女は自分自身の欲望に忠実であったのに対し、僕は正しさに忠実であった。そう、僕を救ってくれるのは正しさのみだ。


世界は格子に仕切られている。
その秩序こそが正しさだ。
人はそれ相応の人生を送るべきである。
まともな大人の社会の人が、真性引き篭もりと夜な夜な話し込むなどは、言語道断馬鹿げてる。








全部やめにしようと思った。
どうすれば終わるのかを考えた。
名案が浮かんで、その通りにした。






「もし連絡してきたら真性引き篭もりを即閉鎖する」
と真性引き篭もりhankakueisuuを人質に取って断絶を告げた。

それだけじゃあ、あまりにも酷いかなと思ったので、1人には頭痛の種類を適当に、彼女が心配しなくて済むようにと実情よりはかなり軽くして書き記した。
1人には好きな本を10冊、検索エンジンでロシア+文豪で検索して出た結果をそのままコピーして、それじゃああまりにも悪いかと最後に1冊英語の絵本を入れて告げた。
1人には好きな食べ物を適当にでっちあげ、きびだんご、胡麻豆腐、刺身こんにゃく、酢昆布、といった絶対に調理不可能なラインナップのあとに、彼女が話の中で今日作って物凄くおいしかったと言った料理を入れて告げた。



「真性引き篭もりを即閉鎖する。」
その効果は絶大だった。
ものの見事に3人皆して足並みそろえて連絡が途絶えた。
綺麗さっぱりと途絶えた。
清々しい気持ちに包まれ、霧散しそうになった。


彼女らが求めていたのは真性引き篭もりというブログでありhankakueisuuというブロガーの独占的所有権なのだ。最初から解っていた事なのだけれど。
もっとはやくに気がつくべきだったのだ。いや、気がついていたのだけれど。




画像を全部削除し、メッセのログを削除し、メールを削除し、綺麗さっぱり身軽になった。受け入れがたい現実だけが残った。


「真性引き篭もりなんか閉鎖してもいいからよろしくやりましょう!」
みたいな展開があるものだと期待し、それに縋っていた僕自身の愚かさと馬鹿さとまぬけさと、唯一たった一つといってもよい弱さというものが憎かった。

3人来たら誰を選べばいいんだろう、といったエロゲーのファーストプレイにおける迷いのような展開は無かった。
荒唐無稽な話の末の、エンディングだけは等身大だった。



馬鹿げたメールで幕を開けた馬鹿げた騒動は、至極真っ当な結末へと辿り着いた。
何も無くしていないのに、喪失感だけが残った。
望んでいた平穏を得たのに、安らぎを手に入れたのに。




一体、なんだったのだろう。
10万アクセスしているサイトを見ると「1人」。
20万アクセスしているサイトを見ると「2人」。
100万アクセスシテイルサイトを見ると「10人」。
そういう偏見の眼差しだけが身についた。



他に得たものは何も無かった。
ゴミ箱復元ツールをダウンロードしてきて、画像や音声ログを蘇らせられないだろうかと色々触ってみたのだけれど、0byteのファイルしか出てこなかった。
デスクトップ画像は元のDOTA allsatarsの読み込み画面に戻った。
DOTA allsatarsのロード画面なんて、もう一生見ないだろうに。





もしも僕がこれまでの人生において一秒たりとも努力を怠らずに生きてきていたならば、真性引き篭もりhankakueisuuなどというブロガーが生まれる事などなく、それ即ちブリリアントな階層の行き送れた人間に付きまとわれる事もなかったという事なのだろう。

もしも弛まぬ気力の果てに、人並みの人生というものを手に入れていたならば、偏差値47の地方の寂れた小さな大学でかすみちゃんブルーに並ぶような青春で、今頃アフィりながらパチスロ攻略サイトを漁っていたのだろう。
寂しさをゲームで紛らわし、よろしくやりたいと思うだけの日々が待っていたのだろう。
彼女らとの接点など無いままに。



それと比べれば、この現実は遥かに幸せだ。
真性引き篭もりなどではないまともな人間とよろしくやっている3人の未来の姿を想像する事が許された今日というものは。幸せだ。間違いなく幸せだ。





いつだってこうだ。
常に僕を突き動かし、摩耗の末に疲弊させ、傷つけ追い立てたのは無償の愛だ。
いや、そうではなくて、無償の愛に見せかけた対価の要求だ。




寂しくなってtfsrcをタイピングして時間を埋めようとしたけれど、それすら2分と手につかず、ブログも書けずに時間が過ぎた。適当なゲームをやっている事にして、数日分の投稿を埋めた。元通りにならねば、元通りにならねばとそれだけを考え、ぐら乳頭と三浦あいかと松山まみを探し出し、なんとかしようとしたけれど微動だにしなかった。なにか大切な物を落としてしまったかのような錯覚を受けた。大丈夫、これは罠だ。巧妙に仕組まれた罠だ。


僕は今して尚、騙されて続けているのだ。
冷静に分析算段し、出た答えは巧妙に仕組まれた罠にハマった一人の馬鹿だ。
常識的に考えればそうだ。とってつけたようなヘルメットを被り大成功の看板を持った3流タレントが満面の笑みで現れる頃合だ。そういう時間だ。
もう、なにがなんだかわからないけれど、どうでもいいや。
陰謀論に時間を貸す奴は馬鹿だ。







少なくとも、僕は間違いなく正しかった。
優先されるべきは正しさなのだ。私利私欲は下の下だ。

もし3人でなくて、1人だったら、とか、もし東京アメリカ東京でなくて、もっと近くだったら、とかそういう問題ではない。僕の正しさが、正しかったという事だけが正しいのだ。

真性引き篭もりhankakueisuuの正しさと、真性引き篭もりhankakueisuuの誤りと、真性引き篭もりhankakueisuuの愚かさだけが僕を癒し、救ってくれるのだ。





ブログを始めてすぐに訪れた冬をまんま覆った三叉の横恋慕は終わりを告げ、賑やかな荒らぶる春が来た。DOTA allsatarsも、他の何もかも、今はもう無い。

残ったのはブログだけ。
だから僕は真性引き篭もりhankakueisuuを続ける。
書ける限りにブログを書き続ける。
それが好いて信じた人を人質に取るという卑劣なやり方で断絶を告げられた彼女らに対して僕が出来る、たった一つの償いでもあるからだ。

残ったものは、真性引き篭もりhankakueisuu一人。


お詫び&削除した投稿のコメント移転場所




2005-04-21 01:07:48付けでタイトル「トリプルチーム」
本文サイズ35870byteの巨大な記事が投稿されております。
これが、処理系を圧迫して表示が出来なくなっているもの
と思われます。


まことに申し訳ないのですが、この記事を管理ツールから
ローカル環境にコピーの上、当該記事を削除願います。
または、もう少し小さいサイズに分割して複数の記事として
アップしてください。



との事で、指示通り削除して分割再投稿しました。



長すぎるから分割しようかとも考えたのですが、RSSリーダーやはてなアンテナ等に迷惑がかかるのではないかという事と、なんか分割するのもあれだなあと思い、1つにまとめて投稿したのですが、結果としてかえってご迷惑をおかけしてしまったようですみませんでした。




コメント 感動しました。

2005年4月20日水曜日

物凄く重い。



技術上の問題点だったみたいです。

で、一番心配したのが誰かからNGが入ったのかという事なんだけど、そうではないみたいでそれが一番安心しました。駄目な事はちゃんと駄目で区切って何も書いていないので大丈夫だと思ってたんですがやっぱりなんか不安みたいなものもあったりしてまあ非常に動揺しました。

何が一番悲しいって、まなめ新聞とかとゆー家から1000人くらい読みに来てくれてたかもしれないのにその人達に向けて全部読み込み画面5分からの404が提供されたのかと思うと精神的に辛いものがある。というかアクセス数の推移とか見てたらマジ泣きそうだ。1、0、0、96て。なんか悲しさは残るのですが復活したのでシューティング脳放題です。

というか、投稿自体削除してしまいました。
コメントつけてくださった方申し訳ございませんでした。
今復活したのでとりあえずもう一度上げてみます。


2005年4月18日月曜日

凄いエントリー



まったく同じ文章であっても、誰が書いたのかによってその価値は変化する。

中村光一が「運です」と言えば泣けるし、
飯野賢治が「運です」と言えば殴りたくなる。
湯川栄一が「運です」と言えば引くけれど、
山内溥が「運です」と言えば、なんかひれ伏す。

それは、ブログであっても同じ事だ。



凄いブロガーのブログは何が書かれていても凄いし、駄目なブロガーのブログはどんな事が書かれていても駄目だ。色眼鏡だというのではなく、事実としてそうなのだ。


ブログにおいて問われるのは文章の質ではなく、人間の質なのだ。
残念な事に、あるいは、喜ばしい事に。



なにを書いても凄い、といった状態に突入したブログは無敵だ。
例えば、本能寺以後の明智光秀がブログを書いたら、それこそ何を書いても面白いだろう。

社長ブログなどはある意味ではそのような状態に近かったのに、物凄くつまらなかったのは、堀江貴文という人間のブロガーとしての力の無さだろう。彼には、ウェブ上で凄い文章というものを書く上で必要なものが全て欠けているように思える。
「いや、あれは実はゴーストライターで本当の堀江貴文は物凄く面白いのです」みたいな起死回生の言い訳が存在するのかもしれないけれど。そんな話はアリエモン。




凄いブログというものの1つとして、その人にしか見えない世界を書くというものがある。B級アイドルやB級キャッチャー、B級弁護士やB級声優のブログが凄いのは、その人にしか書けない内側からのブログだからである。


ビバリーヒルズが青春の苦悩を内側から描き、ERが緊急医療室の苦悩を、アリーマクビールが独身女の苦悩を、ヒルズに恋してがプログラマーの苦悩をリアルに描いて成功したように、凄いブログに必須なものは、リアルさと誠実さだ。悪く言うと苦悩であり、良く言うと呵責だ。


内側からのブログというものは抜群に面白い。
ブログが無かったら決して読めなかったであろうクラスの書き手の日常というものがブログによって読む事が出来るようになった時代というものは、本当に楽しく素晴らしい。
もちろん、内側からならなんだってよいわけではなく、やっぱり問われるのはその人の誠実さみたいなもの、一人としての説得力だと思うのだけれど。


人の不幸は蜜の味とはよくいったもので、人としての説得力を持つ誰かが悩んでいる文章を「フーン」と流すのはとても心地良いウェブサーフィンだ。一般に言う面白さはまったくなくても面白いのだ。

そのリアルさというものは、別に職業や身分などではなくてもよい。
書き積み重ねてきた文章により生み出された立ち姿でも構わないのである。

同じように、その悩みは別に深刻なものでなくても構わない。
土鍋で上手くご飯が炊けないとかパンツ履いていたとかそういうレベルでいいのだ。
誠実で正直であれば、その内容は問われないのだ。





話は変わるという訳でもないのだけれど、とあるブログが光を失った。
もちろん、僕の中での話しであり、世間的にはどうだか知らない。

そのブログが凄かったのは、棺桶の中から「まだ生き返れるんじゃないか」「いや、もう無理だよ」といった実況中継を行っていた点にあった。
そりゃあもう物凄くて、初見で過去ログ全部読んだくらいに面白かった。

けれども、そこから抜け出た瞬間にそれはもう全部無くなってしまった。
批判は私怨に見えてしまうし、分析は嘲笑に見えてしまう。
砂の船から逃げ出した勝ち組狸による負け組批判が面白いわけがない。もちろん、それが完璧な文章であればそれであっても面白いのだろうけれど、そういう重さは感じられない。


ところが、ウェブ上には同じような私怨に近い感情を抱く人間がいる。
ブログ読者には自分をブログの味方だと位置づける人が多いのだ。だから、その凄さとは無関係にブログとしてはこれから先も隆盛を極めるのだろうなと思う。旧来の面白さに引き寄せられていた人はそれなりに消えつつも読み続けるだろうし。

けれども、何を書いても凄かった時代は過ぎ去ったのだろうなという感じがする。まるで、当ブログのように。



真性引き篭もりで言うと、何を書いても凄かったのはDOTA allstarsのCDキーを咀嚼して飲み込むまでだ。DOTA allsatarsが書けなくなった時点で僕はブロガーとしての価値を失ってしまったのだ。まったく、愚かな事をしてしまった。

けれども世の中にはDOTA allstars以外の事に興味があるウェブサーファーの方が圧倒的に多い。今の僕がDOTA allsatarだった頃の自分よりも凄いとは思えないのだけれど、それとはかけ離れた所で一人何かが歩いている。

まあ、「拾われたくらいで動揺するな」と書いておきながら拾われて動揺しまくり誤字脱字を直したりリンク張ってみたり後悔して慌ててリンク外してみたりというあたふたを繰り返す真性引き篭もりhankakueisuuというのは、ある意味では物凄くリアルなのかもしれないけれど。10コメント中9コメント記名とかありえないから。マジで。



凄さを計る物差しが存在していない以上、凄さを指し示す事は出来ない。
なんか滅茶苦茶な文章だな。



うお、23時59分だ投稿してしまおう。


カレンダーを埋める為の投稿を罵倒しておいてカレンダーを埋める為に慌てて投稿ボタンを押すという、凄さの欠片も無い投稿。
まあいいや。



頑張って、頑張って、DOTA allsatarsなんて無くても凄さを取り戻せる日が来るまで頑張って書いて、まあその結果として取り戻せたらそれでいいし、取り戻せなくたってそれでいいか。
失われたものを取り戻せるか取り戻せぬかなんて、運だ。
1つ1つ積み上げなおせば、取り戻せるかもしれないし。
重要なのは積み重ねる事だ。取り戻せないかもしれないけれど。
運だ。そんなもの運だ。全部運だ。




「運です山脈」


2005年4月17日日曜日

一日中ゲームをしていた。



一日中ゲームをしていた。
という文章が不真面目である事の証明になった今日、何を行えば僕は誠実さを証明する事が出来るのだろうか。

少し前までは、一日中ゲームをしていたという事実をブログに書くという事は真面目である事であり、誠実さの証明でもあった。

それが今では、不誠実さの証明になってしまっている。
この変化はあまりにも極から極で、残酷だ。


時間の流れと共に移り変わらないものはない。
僕だって変わらねばならないのだろう。

だが、急激な変化は痛みを伴う。
痛みを耐え切られるだけの体力があればいいのだが、無い場合はどうなるのだろう。一体何が残るのだろう。


痛みを感じなくなる位に傲慢になるのが一番手っ取り早いのだろうと思う。
その、傲慢になる事自体が耐え難い痛みである場合は一体どうすればいいのだ。

ありとあらゆる間違い。
ブログを1つ書くたびに、それが1つ露呈する。
けれどもその間違いを正せる力が僕にはなく、間違ってるよと笑うしかない。
火の手の上がったスーパーマーケットを遠巻きに見守る野次馬。
消せないし、守れない。何一つ残らない。
笑うべきなのだ。
笑えばいいのだ。
そうすれば、少しは楽になる。
けれども、もはや笑えるだけの体力が残っていない。
とりあえず、ブログを書くべきなのだろう。ブログを。




人生の中心に矢口真里やmixiやパチスロがあるという人間が健全ではないように、人生の中心にブログがあるという状況は健全ではないという事実は理解出来る。

では、何があれば健全なのだ。
義務か仕事か愛する人か、夢か希望かDOTA allsatarsか。

そのようなものは、どこにも転がってはいない。
探して求めて掴み取らねば手に入らない。
当たり前の事ではあるが、健全さというものは生じるものではなく、掴み取るものなのだ。
それを行えるだけの体力が僕にはもう残っていない。
極めて軟弱、ゆるゆる、どろどろ、べぢょー、ぐじゃー。




もう少し体力があれば色々と遊べたろうなと思ったりもする。
楽しかったろうな、と思ったりもする。

けれども、もう贅沢は言わない。
今はブログを1つ書くだけの体力が1日1度湧けばいい。

あとは一日中ゲームをするだけの体力があれば、それだけでいい。
それすら無くても良いか。
もう既に無くなりつつあるし。


2005年4月15日金曜日

アマゾンアソシエイト募金



アマゾンアソシエイトの仲介料収入を特定の団体へとそっくりそのまま募金する事が出来る、新たなるアソシエイトプランが実施される事を目指す。





求めるもの。


・アソシエイト募金プランの新設。

従来のアソシエイトから収入を寄付するのではなく、まったく新しいプランの導入。

アソシエイト募金経由でクリックした場合は、左上のロゴを募金系のものに変化させる等の、「募金なら・・・」といった形での購買意欲を刺激出来る明確な表示。
同時に、募金を騙って自らのリンクから買わせようとする者への抑止。

可能であればアソシエイト募金ユーザー用の外観の異なる検索窓。


・募金先を複数の候補の中から選択出来る事。

日本人は募金先というものをユニセフくらいしか知らないので、災害時にはいらないものまで送られたり24時間番組に札束が舞うといった、善意と善行のアンバランスが生まれている。
アマゾンは募金先を探す手助けをし、ユーザーは募金を行ったという満足を得て、アマゾンは売り上げ益を得るという三者三得。




アマゾン側のメリット

・企業イメージの向上。

・これまでアマゾンをスルーしていた層へのアピール。

・アソシエイトユーザー数増による、露出と利益の拡大。

・購入を迷う人間に「これは募金だ!」と購買意欲を後押しする悪魔的効果。


アソシエイト募金ユーザー側のメリット

・アソシエイトレポートにより、ウェブサイト読者動向を知る事が出来る。
  Googleから奇妙な検索でお客さんが来ているのを見つけて楽しむものの発展系。
  凄く無駄な情報だけど面白い。

・なんかいい人をアピール出来る。
  この層は相当数いると思う。



アソシエイト募金を通じて購入するアマゾンユーザーのメリット

・なんかいい事した気分になる。

・募金するんだ!と正当化する事で地雷ソフトに突撃する勇気が芽生える。



とりあえず現段階ではここまで。
こういうプロ市民的なものってここからどうすればいいんだろう。
ありとあらゆるお問い合わせに定型文を返すとの悪名高いamazonのどこにどのようなメールを送ると「前向きに検討します」みたいな適切な対処が行われるのかよく解らなくて困っているところであり、誰か助け舟出してよー、みたいな物凄い頼りなさげでトラックバックとかくれたら嬉しい空気。


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一番大事メリットを挙げるのを忘れていた。

募金によって救われる人がいるというメリット。


吉村智樹は馬鹿だ。



僕が心の底から愛し楽しんでいるmixiをこじつけで誹謗中傷する馬鹿を発見して流石にムカついたのでちょっとだけ書いてみる。



事のあらすじ。


・よろしくやりたいと思っていた女がmixiで男とできた。


・それに嫉妬し激昂し、ブログで暴言を吐く吉村智樹(40)。


じゃ、本編。




誰かにいやがらせされたわけでも中傷されたわけでもありません。
されたとしても、なんともない。むしろ被虐的な喜びに震えますよ



と書いておきながら、会った事のあるいい女が他の男と上手くやるのはエキサイトを使ってインターネットに罵るくらいに我慢が出来ませんか。
それは被虐どうこうより、モテないキモ男の卑屈な罵倒でしょう。



おとつい書いたことが、肝心の伝わるべき人に伝わらなかった。「気をつけろ」って書いたのに……。危険な男がいっぱいいるからって書いたのに。リスキーなことをわかって書いたのに。



凄まじいまでの迷惑ブログだ。迷惑ブロガーだ。迷惑投稿だ。
続く文章がまた凄くて、



よりによって、聡明だと思っていたあなたがたが……。



あなたが三点リーダ三点リーダ。
キモいよーーーーーーー。
たすけてキモいよーーーーーー。
ぶちまけられた方はたまったもんじゃないですね。
今頃きっと



「ねえ、なんかキモいのがキモい事言ってる・・・どうしよう・・・キモいよ・・・」
  「あ、ほんとだ、僕らの事だね・・・」
「ま、ほっときゃいっかー・・・で、来週さぁ」
  「うん?」


みたいな会話が為されているんでしょうね。
キモブログ飛び出して地固まる、みたいな。


僕は考え違いをしていたようです。買いかぶっていたようです。いままでの評価も白紙です。男の裏の顔を知らなすぎるよ。



白紙って言われても、貴方に評価されたい淑女なんていません。
ご安心ください。裏の顔をご存知な教養人様。



まさにいま起きてるリアルなことを書いたんです。



リアルだ。物凄くリアルだ。
惚れた女がmixiでよろしくやりかけているのをエキサイトブログの投稿というインターネットの力を借りた傲慢な暴力でなんとかして止めようとする必死なキモ男(40歳)姓名吉村智樹(笑)。



素敵だ。
電車男も真っ青だ。
ほんわか癒しのラブ系ストーリーだ。



なんせ僕は男なので、意外と男に詳しいのです。



いやあ、流石ですね。お詳しい。イメクラ3件はしごしたのを誇らしげに自慢できる40歳の崇高な思考漂う文章というものは腹を抱えて匍匐絶倒、格調高さと清潔感が違いますね。





*あと別件ですが、今後、東京でのうちの事務所主催の自主イベントは一切いたしません。これ以上、被害者は増やせない。



全然別件じゃないでしょう。
まんまその話題じゃないですか。
これ以上、被害者は増やせない。
被害者(笑)
40歳男性(笑)
3件はしご(笑)






「あわよくば」側のひとり、オンナ大好きの好色一代です。



だったのに、自分が上手く行かなければ手のひら返してそれですか。
いやー、そりゃあ、うまくはいかないでしょうねぇ・・・ええ。ほんと。



聡明だと思っていたあなた……



に対し、



かどわかし、あわよくば、です



って、どれだけ明治大正な脳みそなんですか。
はしごして言う台詞ですか?(笑)



その、やりたいだけの男に食われる女、って構図以外の男と女を想像出来ない人生をどうにかした方がいいんじゃないでしょうか。やりたいのは男だけでやられるのは女、ってそれは貴方が金を投じてよろしくやっているという物凄い小さな範囲の小さな人生経験に基づいた台詞であり、なんの説得力もありません。
いや、逆に言うと物凄く説得力があるのですが。





ネットエチケットには、かなり気をつけていたはずです。



と書いたその筆乾かぬ内に、



あそこにいると、ほんとになにもかもワケがわからなくなるんでしょうね……



ですか。
いやあ、さすがですね。
あそこにいない吉村さんはなにもかもわかってらっしゃる。



そういうやつら、「ワレ、か弱い女性たちに、なんてことしてくれてるんじゃ!」と粉になるまでどつきまわしたい気持ちです。



平和主義者ですねー。さすがはブログ。
負け犬どもがストレスの捌け口を求めて暴言を吐き続けるという典型的なパターンを粉になるまでワレで行く3歳はしごな40件ですね。






流し目で嘗め回していたいい女がmixiでいい男とくっつきそうだからと、無関係であるソーシャルネットのネガティブキャンペーンをよりによってエキサイトでぬけぬけのうのうとやりのけるその卑怯さに呆れ果てました。


 ま、いい。もうどうでもいい。知りません。他人の人生です。おせっかいだったようです。自分の仕事だけに専念します。



出た!勝利宣言!
戦略的撤退って言うんでしたっけ?
敗走、遁走、引き篭もり宣言。
俺は見ないよウムエッヘンって、駝鳥ですかエミューですか。
衝撃的なおもしろ3件おもしろブログ。





もうあそこに入り浸りで頭がぼーっとなってしまった人たちを、僕は「拒否」「削除」し、生活上の「アクセスブロック」していくしかないようです。



お言葉ですが、拒否削除しなくても願い下げられていると思われます。






あのシステムへの仕返し。敵討ちです。



革新的ネット自己中エチケットですね。
無関係のネットベンチャーとそのユーザーを言葉の限り誹謗中傷する前に、ご自分のお顔と人生を粉になるまでどつきまわす事から始めてはいかがでしょうか。



2005年4月14日木曜日

悪いアマゾン良いアマゾン



アマゾンアソシエイトにNOと言えが一月を経て着火して、その頃ちょうど運悪く物凄く忙しかったので反応できずにいたのだけれど、一通り読んでみた感想としては当たり障りの無い人は当たり障りが無いし、ごもっともな人はごもっともだし、頑張っている人は自己弁護と正当化に終始するを頑張っている有様で嘲笑の余地も無い程に惨めであり、反応する余地が無かったというのが実情である。


僕の立場は良いアマゾンアソシエイトなど存在しないというものであり、それはこれからも変わらないだろうと思うし、変える必要も無いと思う。
ただ、色々と見たり考えたりした結果、少しはぬるくなった。





アマゾンアソシエイターの手によって、amazon.co.jpとブログが無ければウェブ上に存在していなかった文章が昨日も今日も、そして明日も絶える事なく作り出され続けているのは紛い無き事実である。

amazon.co.jpが無かった頃、1つのゲームについて真面目に全文章を書き上げるという事は物凄く困難な作業であり、それを成し遂げられるのは愛か狂気が執念か、といった所であった。


それが今ではまったく違う。
以前ならば明らかに日記の中にわずか8文字「○○買ってプレイ中」といったものであったのが、アソシエイトの力を借りて10列9行の文章に化ける。とりあえずamazon、とりあえずamazonといったからっぽ文章の量産体勢が完全に確立され、amazon.co.jpが無くても書いていたであろう書き手によるamazon.co.jpが無くてもウェブ上に存在していたであろう文章はインターネットの闇に消え、深く埋もれて見失われた。実に腹立たしい。






とはいえ、amazon.co.jpにも良い点がある事を知った。
正確には以前から知ってはいたものの、着地点を見つられずに探しあぐんでいたというだけなのだが。



ウェブサイトの読者は管理人の文章から書き手を知る事が出来る。
しかし、管理人は読者の事を知る術を持たない。

これは、実にアンフェアだ。
ウェブサイトの管理人には読者の事を知りたいという欲望は多分おそらく付き物であり、足跡だとかBBSだとかメールフォームだとか、アクセス解析だといった、あらゆる手を尽くして読み手の事を知ろうとしてきた。
けれども、それでもまだまだ足りずアンフェアである。


書き手は書き手、読み手は読み手であるからして、このアンバランスが完全に解決される事は無い。いや、その問題を解決したのがmixi足跡機能であると考える事も出来るのかもしれないと思うのだが。






そのアンバランスを少しだけ真ん中よりに戻すツールとして、アマゾンアソシエイトというものは使えるのでは無いかと考えた。

アマゾンアソシエイトを導入すると、どの商品が、何回クリックされ、いくつ買われたのか、という情報を読む事が出来る。また、リンクを張っていない商品がリンクを経由して買われた時も、そのレポートを読む事が出来る。

エロゲーが3本まとめて買われていたらエロエロエロだなと思うし、マニアックな漫画本が変われていたらマニアックだなと思うし、一人炊きの炊飯器が買われていたら新生活おめでとうございますと思うのである。



これは結構大きな情報だと思う。
もしもウェブサイトの閲覧者が購入した品物をオンラインオフライン問わずに全て知れるというサイコキネシスなサービスがあったとすれば、月一万円でもやる人はやるだろう。貴方じゃがりこ食べすぎ、みたいな究極の無駄な情報。


amazon.co.jpの場合、amazon経由のクリック数と買い物しか記録されないのであり、月一万円を払う人間などいないだろうが、もっとレポートの読みやすさが改善されたのならば、月額200円分くらいの価値はあると思う。
(適当。はてなカウンターが60円、ライブドアblogProが250円辺りから。)
(もちろん、レポートの可視性が上がる事が最低条件)




ところが、今のamazon.co.jpは金を払うのではなく手に入るという形であり、「アマゾンアソシエイトレポートは有料アクセス解析よりも高性能であり、金を払うだけの価値がある」などと言ってみても荒唐無稽の滑稽であるからして、ふわふわと能天気に浮いたまま着地のしようがない。






しゃんしゃん出来る場所を探していて思い浮かんだのが、寄付である。
思いついたきっかけとしては、自分自身のブログのカテゴリーを眺めていたというものであり、物凄く情けない。


読者の情報を知りたいから、という側でレビューを書いている人間が本当に存在し、彼らがそのamazon.co.jpのアソシエイトレポートに踏ん切りをつけられない位の魅力を感じているとしたら、アマゾンアソシエイト収入の全てを寄付出来るという新アソシエイトプランが導入されれば、1つの解決となりうるのではないかと考えた。



先ごろのクリック募金の大流行や、dffを始めとするクリック募金関連サイトの一定の成功による「マウスだけで出来る善行」みたいなものの需要があることは確実である。

また、白血病解析サイトといったものが一定数の人数を集めて成功している事などからも、アソシエイト収入の全額を寄付する事が出来るアマゾンアソシエイトプランというものが導入された時に、飛びつく人は多いのではないかと思うに至った。


アマゾンアソシエイトというのは、既に現金還元を導入しており、現金に変換する事が不可能である楽天やソフマップのポイントとは違う。また、当然の事であるが、売れれば売れる程amazonは儲かるわけで寄付プランのアソシエイターがどれだけ増えた所でアマゾンは何も痛くない。


その本来アソシエイターへ分配していた現金をそのまま寄付に回すというのは、コスト的にも苦しいものではないと思うし、本来アマゾンアソシエイトに参加していなかった潔癖主義者達がアマゾンの売り子と化してくれる事や、善行需要対象者への宣伝効果とグーグル公共広告を上回る企業イメージの向上等を考えると、損をする人はいないように思える。



納得できる寄付先を探すというのは物凄い労力のいる作業で、
「寄付をしてもいいと考える団体を3つ挙げてください」
というのに回答出来る人はかなり少ないのではないかと思うくらいである。

その寄付先を探す作業をamazonが代行し、
・地域別
・課題別(赤、緑、他。)
・行動別(赤で言うと、予防接種、緊急医療、医師の育成、等。)
といった風に分類して好きな寄付先をクリック1つで選択出来るようになれば、それなりに需要があるのではなかろうか。

例えば、「アフリカで栄養失調」というものや「南米で植樹」「沖縄でサンゴ」「アジアで孤児」なんてものの寄付先を探す労力を費やせる人間はいなくても、アソシエイトレポートのついでに表示された「アフリカで栄養失調」や「北米で貧困」をクリックするのは可能な作業であり、楽であり、需要があると本気で考えるのだが、ややアレか。



スマトラ地震の際のはてな義援金に手数料が不要だった事などは、生粋のアンチはてなスタである僕の中で奇跡的なまでの企業イメージの向上があったし。





色々書き忘れた事が物凄く一杯あるのだけれどとりあえず今日はこの辺で。

とりあえずもっと頑張ってきちんとしたものを書こうと思っていたのだけれど、こういう緩い文章になってしまったのは、「もう既にやっているんじゃないか」という不安があり、検索能力の低さを晒す赤っ恥ってのが嫌だったからであり、アマゾンアソシエイト寄付、というものがまだ存在していないという確信が得られたならば、また近いうちにちゃんと書き直すつもり。
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確信を得られたので書いてみたけど甲の無い文章になってしまった・・・
これじゃあ駄目だろうな。
一応僕の立場を表明しておくと、過去にクリック募金を人に薦める人は頭がおかしいで書いたとおり、クリック募金を人に薦める人は頭がおかしいと思っているので、アソシエイト募金についても同じように思う。正確に言うと、アソシエイト募金ユーザーの方が嫌い。クリックする側(買う側)へのイメージみたいなものは、物凄くとまではいかないものの、かなりいい。
って、存在そのものが無いもののユーザーを好きだ嫌いだと書いた所でまったく意味が無いか。本当に導入される日が来るといいなぁ。
悪い話じゃないと思うんだけど、noobなのかなぁ……


2005年4月13日水曜日

スーパーが必要だ。



幸せになるべきである人間が不幸せであるという事実は悪夢だ。
幸せになるべき人は幸せになるべきであるからだ。


不幸せになるべきである人間が幸せを謳歌しているという事実も悪夢だ。
不幸せになるべき人は不幸せになるべきであるからだ。


その点だけを取ってみれば、ここは地獄だ。
血も涙も無い、壊れた希望の埋もれた荒原の裾野だ。





けれども、それだけではない。
幸せになるべき人が幸せになる事もあれば、
不幸せになるべき人が不幸せになる事もある。


そんな例はそう多くは無いのかもしれないけれど、良い人が良い人生を送り、悪い人が悪い人生を過ごしているという事実が少しでも存在する限り、世の中捨てたもんじゃない。




一見因果関係があるように思われても、実際の所は適当である。
上手くいく奴はうまくいくし、上手くいかない奴はうまくいかない。
出来る事といったら精々、徒労を繰り返し続けるか目標を手の届く所まで下げるくらいのものである。それかもう、この際だからと諦めるかだ。
うまくいく時はうまくいくし、うまくいかない時はうまくいかない。
そんなものだと思う。


うまくいく、ってのは一体なんなんだろう。
「スーパーサイヤ人になりたい」
ってのは無理なわけである。
絶対にそのような願いが成就される事は無いわけである。


もし、本気で「スーパーサイヤ人になりたい」と思っている人がいたとして、その人にとっての最高のうまくいった結末というのは、どの程度のレベルのものなのかと悩んだ。


スーパーサイヤ人になりたいと願いながらスーパーに勉強して、スーパーに友達と山に登って花を見て、スーパーな学校に行ってスーパーに部活動。
スーパーに甘酸っぱいすれ違いの果てにスーパーな出会いが訪れて、それはスーパーな時間の流れに切り裂かれて終わってしまい、スーパーな思い出だけを残し、真新しいあかぬけた女とよろしくスーパー。やがてスーパーに卒業してスーパーに就職。スーパーな結婚をしたものの浮気がバレてスーパー修羅場。
そんな修羅場もスーパーな嘘で切り抜け、誰からも頼られるようなスーパーな大人物となってスーパーな働き盛りをスーパーに生き抜くスーパー人間。


けれどもそのように全てが上手く運んだとしても、それはスーパーであるだけでありサイヤ人では無いからして、うまくいったとは言い切れない。


言い切れないからといって、お前の人生は失敗だったとスーパー人間に告げるのは酷というものだろう。それが完璧でなかったとしても想定し得る現実的に、かなり優れた結果が出たなら、それをもってうまくいったとするべきなのだろうと思う。





では、僕の人生において最高のうまくいった状態、うまくいった人生ってのはどんなものなのだろうかと少し思い悩んだ。


赤鬼も空飛ぶ魔女もおっさんも化け物も全部倒して、その先のでっかい奴も倒して、クロウルは59分59秒で勝利というか脱出して、normlistで100万点して、どうにかしてDOTA allsatarsを取り戻して、適当なブログを毎日書いて、お腹を壊さずに頭痛もほどほど、たまに自分の愚かさに笑ったりしながらキーボードを叩いてというのが最高のケースであろうと思う。
しかし、これはいくらなんでも望みすぎでありスーパーサイヤ人だ。


どう贔屓目に見ても不可能であるからして、適当な妥協点、即ちスーパーが必要だ。





スーパー、スーパー、スーパー。
難しい。
何もかも不可能に思える一方で、願うにも値しないぞろり地を這うハードルが靴の周りをぐるりと包囲している。そんなものをスーパーであると設定し、うまくいったと喜ぶ事なんて出来やしない。あまりにも志が低すぎる。
必要のはそんなものじゃない。
リアル。
現実目標。
適度なスーパー。




例えば、こんなのはどうだろう。


適当に寝て適当に起きて、髪の毛を一本づつ人差し指にくるくるとまきつけキューティクルにして引き抜いて暇を潰したりして、クロウルをダウンロードして自動拾いを書き直し、マップチップをいじった段階で飽き果ててShift+Delete。
行き着けのよろしいブログを巡って全て更新されていないのを確認して激昂し、インターネットリバーシ。勝てない事に激昂し、ピンボール。糞ゲーだと激昂し、行き着けのブログを一周。更新されていない。もう駄目。
仕方が無いのでダンジョンクロウルをダウンロードして自動破壊拾いを書き直すのがめんどくさいのでタイムアタックをせずに普通にプレイ。普通に即宝物庫して普通に負の耐性無いままルーン取って逃げ出す最中に負のブレス連打されて普通に即死。


やるせなくて仕方が無く、メールボックスを確認していると、


SUBJECT:おまんこーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!


内容文:ちんぽーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!



というメールが届いている。
なんだ、これ・・・一体全体なんなんだ。
真性引き篭もりhankakueisuuに久々に届くメールのレベルはどうしてこうも低いんだ。頭が悪すぎる。けれども、せっかくメールしてくれたものに返事を書かずに無視するってのも悪いなという罪の意識に苛まれ、



何も無かったこのようなブログがここまで来れたのは貴方様のような有形無形のファンの方に支えられての事であります。
そのようなわけで、個人的にですがこういう下品なメールであれ、僕としては真に感謝している所であり、有り難く思っております。
今後とも適当によろしくお願い申し上げます。
真性引き篭もりhankakueisuu



と糞くだらないメールに対して物凄く真面目なメールを返信。
どれだけ生真面目なんだと少し落ち込んで、クロウルをShift+Delete。



お腹がすいたので、階段を登っている最中に転んでしまって黒くひしゃげた潰れたバナナを剥いて食う。なんか二酸化炭素みたいな薬物臭がして、吐きそうになるももったいないので頑張って完食。今度からは転ばないようにしよう。左足の脛と足首が痛い。老いたな。


テキストエディタを立ち上げて、今日はどれを書こうかと1時間ほど悩んでから、よろしいブログを一巡りするを4セット。計4時間。これは一体何のトレーニングなんだろう。


とりあえずどうでもいいやと、書く予定一覧に無かった文章を書き上げて投稿。
これってSUPER?
もしかしてSUPER?





なんだ、僕にとってのスーパーとは真性引き篭もりhankakueisuuであったのか。
それならばなんとかなれそうだ。
いや、無理かな、どうだろう。
とりあえず、なれたらいいな。


正真正銘のスーパーに。
純然たる真性引き篭もりhankakueisuuって奴に。


2005年4月11日月曜日

はてなブックマークの便利な使い方



1、はてなのユーザーアカウントを大量に取得する。

2、はてなブックマークに自分のウェブサイトを自作自演で登録しまくる。

3、そこからはてなブックマークユーザーが大量に流れ込む。

4、アフィリエイトで大儲け。



とりあえず手始めに実践として、はてなのアカウントを20個ほど作成して当サイトのアマゾンアソシエイトで買う次世代電子レンジ!という記事を放り込んでみた。よしよし、ちゃんと注目のエントリーって所に表示されてるし、家電カテゴリだとカテゴリトップの登録数だし。完璧だな。僕個人としては、物凄いマイクロ派。


兄さん大事件です。



あらすじ。


ウォークラフト3の世界大会予選に、まったく別のゲーム(カウンターストライク)のトッププレイヤーがエントリー。


彼が率いるチームは、プロ意識の足りないプレイヤーへの批判を行ってちょっとした騒ぎになったという過去があり、局地的スーパーヒール集団。



カウンターストライクとウォークラフト3はまったく別ジャンルのゲームなので、どのような結果になるのか今から楽しみだという内容の投稿。






栃木(笑)
みたいな空気が名前1つで一変した。
これは事件だ。





AOCN5 日本予選参加選手リスト


登録未完了選手
4dn.psymin ! Buddha



欧州選手権3連覇の実績!とか、ミスターレッドソックス!とかそんな感じ。
いや、そういうレベルを遥かに超えている。





過去の強豪だとか、引退したトップ選手の現役復帰だとか、世界を取った伝説の人だとかそういうのじゃなくて、もろに現役の名前、しかも今これ以上にインパクトのある名前は無いというクラスのビッグネームでしかもスーパーヒールときたら、「もしかして、本気と書いてマジと読む?」みたいな空気を感じてとても楽しい。名前だけで人をワクワクさせられる人間というのは生きているだけで価値があるわけで凄く凄い。





で、実際出てきたら
「偵察っつーか、環境確認の下調べに決まってんだろ。
 こんな糞ゲー真面目にやってられっかよ(核爆」
とかだったら凄惨だろうな、強烈に。僕の中で。
だって、その名前でそれ言うか、世界中のブリザードエンターテイナーを敵に回したって事だな、よし、みたいな空気になるじゃん、多分。


「横綱がなんで68人しかいないか教えてやりますよ」
みたいな空気だったら和むだろうな、猛烈に。
倒した人はヒーローだろうな。横綱よりは強いだろうし。



まあ、どんだけ本気でやってきたとしてもパッと出の新人に持ってかれるような生ぬるい出場登録面子じゃないので、切符って点では見えてるし。おそらく結果は平凡なもので、ベスト8で1-2とかで消えるといったトキメキの欠片もないようなものだろうとは思うのだけれど。とりあえず現段階では相当なものである。






ここはもう、


高橋名人┐


        ├┐

毛利名人┘│


          ├ベスト4へ

psymin─┐│


        ├┘

梅原大吾┘


koouu─┐


       ├┐

tenti─┘│


         ├ベスト4へ

akisaya┐│


       ├┘

coyote ┘


くらいにK-1やPRIDEが霞む位の衝撃的組み合わせを期待したい。
その準決勝、物凄い高品質な30秒番宣作れるね、って感じのものを。


ところが蓋を開けてみれば毛利名人がベスト4に進出しちゃって慌てふためく運営側、みたいな絵があればもう最高。一生ついて行く。






どうしてか、最近猛烈にリプレイが見たい。
やりたいとかはもう全然無くなったんだけど。
なんで終わったゲームの大会ごときで凄くワクワクしているんのだろう。
あほらし




ついでに、補足解説。


開催日時がウォークラフト→カウンターストライクの順であり、彼自身はカウンターストライクに選手としてはエントリーしていない。
使用する機材や会場は同じなわけで、え、まさかそれって・・・みたいな。


ウォークラフトというゲームをご存知でない方もご存知の方も、真性引き篭もりを読むなんて時間の無駄であり人生の浪費なので今すぐやめるべきです。その中でもこの投稿は特にウォークラフト3をご存知の無い方は読んでも理解不能であると思います。


というかこの際だからもうぶっちゃけて言うけど、ああいう先鋭的なクランがウォークラフトにもいれば1ユーザーとしては楽しいのにと常々思っていた。存在しない事が不満だった。なんかなよなよしたのしかなくて。というのは以前まあちょっと書いたりしたりした通りであり、4dn.psyminがカウンターストライク界に対して行った批判に比較的近いものがあった。その点で4dn.psyminというのは仮想allstars。


よりによってその「こんな人達がいればいいのに」の大ボスが乱入!
しかも迎え撃つのが批判先のリアルエネミーと愉快な仲間達。
おいおい、どっちを応援すればいいんだよ、みたいな。
さあ、どうなる、みたいな。まじですっげーワクワク。
うわー、改めて書いててもほんと興奮しちゃう位に凄い。


ウォークラフト3史上最も刺激的な大会であり、
一部の引き篭もりにとっては衝撃的な大事件。


ブログのアクセス数を上げる方法。



トラックバックスパム。
正直、これに限るよ。

コツとしては、出来るだけ自分のブログに定着してくれる人間の多そうな、つまりは客層が似通ったブログを狙って撃つのが大事。
ちょっとトスったので、今日は500くらい増えるはず。


「追記」
全部削除されたみたいで、そのせいで500くらい増えなかった。


2005年4月10日日曜日

アフィリエイトのススメ



アフィリバナーと糞ガーによって、糞ブログが今日も増え続けているのは紛れも無い事実であり、疑う余地の無い悪夢だ。

けれども、全てのアフィリバナーが悪いわけではない。





時々、アクセスカウンタが怖くなる。
なぜなら、時としてそれは人の心を狂わせるからだ。ちょっと人が増えたくらいでR30までもがピーチクパーチク踊っているのを見たりしたりして、その恐ろしさを再認識した。


ああいうタフな人ならどうって事無いのだろうけれど、僕に代表されるような繊細でか弱く健気な晩生の末端ブロガー達は、アクセスカウンタのはじき出す数字に右往左往を繰り返す。

問題は、アクセス数ではない。
それら読者がどこから来るのかだ。


個人ニュースサイトというジャンルがある。
あれは本当に恐ろしい。
知らない人が突然として、物凄い数で訪れる。当ブログの場合は3~5%くらい定着していただいたような感じもするのだけれど、僕が目にしたいくつかの現場では定着率は見事に0%だった。10が200、500、200を経て10に戻るというのは、相当に堪える。




何かをウェブ上に上げるという事は、誰かに読ませるという事である。
誰かに読んでもらいたいという事である。
基本的には、あくまでも、基本的には。
だもんで、アクセス数が増える事を嬉しいと思わないブロガーはほとんどいない。
悪意を持った匿名掲示板からのリンクだとかいったような例外を除いては。


そういう意味では、大きなサイトの管理人が誰も知らない小さなブログを取り上げるってのは、ニュースサイトの中の人側から見れば「面白い記事へのリンク」という意味だけではなく、分け隔て無くという愛である。

けれども、明らかに違う客層の人が普段の10倍以上も訪れて、それが数日で去ってしまうと普通の人は、結構乱れるものであり、単純にハッピーだとは言い切れない。無慈悲であり、残酷なアクセスだ。



ブログ以前、まだインターネットが物凄く不便だった頃、リンクというものは物凄くいびつに、けれども緻密にか細くか弱く繋がっていて、今で言うソーシャルネットみたいな感じだった。見ず知らずの人が大挙して押し寄せては大潮のように引いてゆくなんて事はあまり無かった。
いや、実は全然知らなくて決めうちで適当に言っているだけなんだけど、多分。


それが今では、ちょっと話題性のある投稿をしただけで、それを目掛けて大勢が訪れるバリアフリーのインターネットになってしまった。クリッピングサイトだけではなくて、トラックバックとか、ブログランキングとか、ソーシャルブックマークとか、色々。



そういう、まったくブロガーには興味の無い読み手がYahooやGooを読むような感覚で訪れては去っていく、という対象にされた時の為に、なんらかの防御策を講じておいた方がいいと思う。

アクセス数が跳ね上がったのを目にして高揚し、力を入れすぎて燃え尽きるのとか、コメントをハンドルネーム入りでつけた人々が次の日にはもう綺麗さっぱりいなくなって一度きりな事に対する喪失感とか、その日のアクセス/dayがずっと一位をキープするのを見て「あの日が自分の書き手としての頂点だったんじゃないか」って落ち込むのとか。





そんな風にならないためにお勧めのアイテムが、これ。
アフィリバナー。



アフィリバナーを自分のブログに貼っておくだけで、アクセス数の跳ね上がりがとろけるプリンや箱説無しのバハムートラグーンに変換されて人生を彩り、変な風に悩み慌てる事無しに、どっしり構えてられるようになるわけである。


アマゾンとグーグルとA8netと電脳卸とカリビアンドットコムとカジノと腐った出会い系だけが唯一貴方の味方なのだ。他は全部敵だ。悪意の無い殺意だ。頼れるものの何も無い弱小ブロガーにとって救世主であり必須アイテムであり、今すぐ張りまくるべきなのだ。




というわけで、本当に!
みんな、今すぐアフィろうよ。
儲けたいとか欲の面とかキモいとか、そんな事は気にせずに、訪れるかもしれない大量の通りすがりによるモチベーション危機に備える為の、護身の為のアドセンス。


微妙な空気になっていて気になるのだけれど、



フォローの仕方がわからない。
適当に、例えば、こんなブログの管理人はカレーライスが好物だ。戦車が好きだが、幼女の裸はもっと好きだ。とか、こんなブログの管理人はkazzyさんの貴重な投稿を闇に葬った大戦犯だ。halenに次ぐ2番手みたいなイメージがあるが、実はyokowake以下だ。とか、こんなブログの管理人は新パッチ情報を10日も信じていたっていうかなんで未だにウォークラフトを追いかけているのか自分でも理解が出来ずに悲しくなる、とか、そういう物凄い適当な酷いコメントをつけてお前だよお前死ね!って自作自演で名指しすればいいのだろうか。。。
まあいいや。あんまり完璧を目指すのはよくない。
トルシエの通訳くらいの勢いのまぬけなブロガーを保ち続けよう。
お化けも飽きたしクロウルを再開しよう。
それにしても、ジャンプアクションというのは残酷である。落ちたら即死というのはいくらなんでも僕には無理だ。その穴には一体何が潜んでるんだ、そこには。もうこの際、その即死穴とよろしくやりたいくらいの恐怖だ。3-3?くらいで3時間くらいハマって投げそうになったし。なんか一見ヌルそうなんだけれどかなりキツかった。っていうか予告で次何書くって書いてたのか忘れた・・・


2005年4月9日土曜日

コメント欄で馬鹿が暴れててマジムカつく



真性引き篭もり管理人真性引き篭もりhankakueisuuとしては、荒らそうが暴れようがスクラム組もうが関せずといった所であり、歓迎するわけでもないけれどまあご自由にというよりはむしろ有り難くといったらなんかけんか売っているみたいであれであり、謹んでとお受け賜るわけだけど、匿名で無関係の第三者を中傷したいなら責任持って門を構えてよそでやれ。っていうか死ね。


もうネタギレだ。



ゲームばかりやっているからだ。


と、なんでもゲームのせいにする。
にもかかわらずアイデンティティはゲームという自己矛盾。


今更鉄拳テイストだ。



それ以前にパクリだ。


2005年4月8日金曜日

作者おばけの行進曲の為



急病という事にしておきます。


作者急病の為



作者急病の為、おばけの行進曲やってます。
ほんと、やむなく。


2005年4月7日木曜日

test



http://www.blockblog.jp/cgi/bbs.cgi?mode=allread&no=1105&page=0
ちょっとバグってたらしい。
直ったみたいでなにより。


2005年4月5日火曜日

ブログ読者はブログを読んでいないという事実



ウェブ上の文章を読む人間は存在しない。

インターネットのウェブサーファーはウェブサイトを閲覧、流し見しこそすれ読みはしない。それはブログに投稿された文章や、投稿につけられたコメントやトラックバックであっても同じ事である。

誰も読んでなどいないのである。
それは悲しいし、切ない事実だ。
けれどもそれはそれでよいのだと感じる。



読み取られたくないような事柄私信を、こっそりひっそり吐き出す事で得られる快感を楽しんでいるブロガーは多い。「うはははは!これわかんねーだろー!」というものを。
それは読者への裏切りであり、背徳の優越を感じさせるに十分だ。


けれども同時に、誰かに読まれたいとも思っている。
1から100を読みとってくれ!と、心のどこかで願っている。

そのバランスが悩ましい。





どれだけ丁寧に書いても100人中100人がその通りに読んでくれるわけではないし、どれだけデコイを並べても、発見され見透かされてしまう事もある。



もし、読まれずスルーされてしまった事柄や、
誤った受け取られ方をしてしまった投稿に対して、

「そうじゃないんだ」
と言おうものなら、その「そうじゃないんだ」自体が違う読み取り方をされ、延々と無意味な誤読のミルフィーユが折り重ねられてしまう。
なにせ、ブログ読者がウェブ上の文章を読まないように、ブログ著者もウェブ上の文章、つまりはコメントやトラックバックを読んでいない事がほとんどなのだから。

ムジュンだ、撤回しろ、説明しろ謝罪しろと、もう滅茶苦茶に炎上だ。
それはあまりに非生産的で疲れる作業で、流し合うしか無いのだろうなと思う。
話せば解るは嘘なんだ。






どこかで誰かが書いていた(#1)のだけれど、ブログは投稿それぞれが独立したものとして扱われてしまう傾向にある。投稿自体が読まれないのだから、当然にして流れ文脈前後の投稿というものも読まれない。
多種多彩な話題を扱ったブログであれば、それがよい方向で機能する事もあるのだけれど、連なり書かれたブログの場合は大変だろうな、と思う。

当ブログの例で言うと、言葉遊びに対して真顔で訂正を求められたり、「こちらがチョキを出したので、グーを出したら勝てますよ!」と説明した後にグーーーーーって叫びながら目の色変えたカレーパンマンが突っ込んできたのを目の当たりにして頭を抱えたり、青い人に想定外のゲレロンをされてあたふたしたり、したりして、本当に難しいものだなと感じた。




では僕が人様のブログをちゃんと読んでるのか?
となると、それもどうやら疑わしい。

明らかに都合のよいカテゴリ-だけを何度も何度も読み返し、よろしくやりたいよろしくやりたいとただそれだけを思い続けているわけで、真性引き篭もりhankakueisuuという読者は書き手にとって物凄く迷惑心外な沈黙のオーディエンスなのだろうと思う。




その疑い、つまりは「誰も読んでくれていないのかもしれない」という不安感と、諦め漂う徒労感を避ける為にブロガーが行うべき事はだだ1つ、読者を信じる事だろう。


コメント欄にも現れず、トラックバックも送ってこない、インターネットの片隅で、呼んでくれている人がいるんだという事を信じて、信じて書くしかないのだろう。
それは100万/dayのウェブサイトでも、3/dayのウェブサイトでも同じ事なのだろうと思う。


ウェブサイトにおける一番の読者は筆者自身である。
どんな文章であれ、最低でも筆者自身という一人の人間はそれを読んでいるのだから、少なくとも一人は読んでくれているんだから、それでいいじゃないか、と思う。伝わったら伝わったで喜べばいいし、伝わらなかったら伝わらなかったで喜ぶべきなんだ。



「0人じゃない」って事実だけでも十分に素晴らしいと思うよ。
そりゃあ、「1人じゃない」って方が素晴らしいのかもしれないけれど。

アイプロミスユア。というわけでもないけれど。というわけで。
僕は読者裏切るし、やりたい放題やるけれど、僕は貴方を信じてる。

なにより僕を安堵させる事実は、真性引き篭もりの読者は真性引き篭もりなんかよりもずっと素晴らしく、よっぽどまともで信じるに価する立派な人間なのだろうという事だ。そういう方々が誤読にしろ一瞥にしろ、当サイトをクリックしてくれているという事は、本当に有り難いと思う。それはとても幸せで。


何一つ伝わらなくても構わないと思う。
すれ違ってばかりでも、どこかで誰かがそれを目にして満足するのなら。
傷つけ馬鹿にしあうのも、1つの癒しの形なのだ。
少なくとも、ウェブ上では。











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ブログと日記/居室待機
言葉遊びに対して真顔で訂正を求められた/幸せは罪である
カレーパンマン/カレーとご飯の神隠し
青い人/ミッドナイト・ホームレス・ブルー Plus One


2005年4月4日月曜日

花粉症(><;)



動かない。

体が動かないのか、頭が動かないのか、心が動かないのか。
何が原因なのかはわからないけれど、指が動かない。
ブログが書けない。


インターネットエクスプローラとテキストエディタの間をマウスカーソルだけが飛び回り続けている。なにも変化しない。
頭の中では序文書き出し投稿内容、段落フレーズ締めの一行といったものが生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。けれども、それらは一行としてブログに変化してくれない。繰り返される沈痛さの波の原因を体調に求める軟弱さ。

感情と、考えと、思い出の全てが異物感となって体中を駆け巡っている。
それらを駆け巡らせているのは僕という人間の中で唯一生真面目さを所有している機関であり、伸縮だけを繰り返す心臓である。少し油断すると、穴という穴から間欠泉、僕というものの全てが体外へ輩出されてしまいそうな恐怖を抱く。一時の油断も許されない。



花粉症だとか春の風邪とかそういう奴だろう。
悪いのは体調不良だ。
僕は何も悪くない。
物凄く正しい。



あと2時間も経てば、完全な僕というものを取り戻せるだろう。
体も頭も心も、普段どおりの活気を取り戻し、やりたい放題ブログれるだろう。

そうなったら、あと2時間ほど経過したら、物凄いブログを書いてやる。
蒸散させて焼き付けて、椅子の布の染みにしてしまうくらいに強烈な奴を。
正しいやつを、凄いやつを。


2005年4月2日土曜日

エイプリルフール



とても悲しい。
その投稿日が4月の1日であるというだけで、その全てが疑われてしまう世界が悲しい。


何を書いても疑われ、何を書いても嘘になる。
インターネット仮死。
ブログが死ぬ日だ。
なにが面白いのかわからない。

そんなに嘘をつきたいのならば、暦を免罪符にする卑怯な後ろ盾を用意せず、自分自身の責任で世界の全てを欺くべきだ。
無責任すぎる。
迷惑だ。



そりゃあまあ、僕は疑われるに値するのだろう。
不誠実な文章を書いてきたし、誰にもわからない事柄を誰にもわからないように書いてきた。書いた本人にすら伝わらないかもしれないという恐怖を抱きながら投稿ボタンを押したのは一度や二度の事ではない。
けれども誠実にやってきたし、責任は全て僕にある。

それが嘘や大げさや紛らわしいであったとすれば、悪いのは僕だ。
責められるべきは真性引き篭もりhankakueisuuだ。

ところが、その投稿日が4月1日であるというただそれだけの理由で、僕は免責され、4月1日という暦が一人断罪される。



僕は投稿するだけの人である。
それがどのように読まれようと、受け止められようと、誤読誤解をされようと、それに対して干渉するつもりはないし、文句を言える立場に無い。

けれども、僕の投稿で僕が放置され、4月1日だ4月1日だと受け取られるのは心外である。

真性引き篭もりの文章がくだらないと判定されれば嘲笑われるべきなのは僕であり、真性引き篭もりの文章が駄目であると判断されれば責め立てられるのは僕であり、真性引き篭もりの文章が意味不明であると判断されれば罵倒されるのは僕なのである。
それが嘘であると読まれれば、責められるのは僕であるべきなのだ。
僕はそこまで卑怯じゃあない。
罪無き暦を責めるのはよせ。
いけない冤罪。



真性引き篭もりの投稿に対する罵倒嘲笑鼻笑い、軽蔑蔑視罵り反射の全ては僕に向けられるべきであり、それを暦に向けるなどというのは全然違うのである。

エイプリルフールなんて糞っくらえだ。
死んでしまえ。


荒らしは放置で、



何も考えずにただその瞬間、適当に思った事を書き残すというのは物凄く本位では無いのだけれど、どうしても書きたくなってしまったので投稿してしまう事にした。



僕が見るウェブサイトは大きく分けて次の3つである。

1つは、ニュース。
2つめは、ゲームサイト。
3つめは、よろしくやりたいサイト。


ニュースサイトは別として、ゲームサイトやよろしくやりたいサイトは物凄く末端の個人ウェブサイトである。

そのようなウェブサイトにある日突然チョンだとかチャンコロだとかいう文字列が現れては酷く沈む。一体、どうすればよいのだろう。



大昔、僕がまだインターネットというものを知らなかった頃、世界のどこかの国で不況で将来図がぼやけた若者が右傾化してどうこうだとかいう新聞記事や、極右政党が5議席確保してどうだとかいうニュースを聞いたりしていたけれど、それは現実ではないお伽の国のトロルであった。

それが気がついたら自分の周囲380度を包囲していた。



誰かが別に中国を信仰して朝日新聞を崇拝しようと、その逆であろうと、どうでもいいし関心は無いに等しい。ちゃかすつもりもなければ彼らの人生や考え行動というものに文句を言うつもりも干渉するつもりもまったくない。


とはいえ、それとは別に、よろしくやりたいサイトの2番目でチョンだとか強姦だとかそういう文字列が踊っているのを見ると、よろしくやりたいは覚めなくても萎える。別に左とかじゃなくて、単純に物凄く萎える。
だって、RIR6?さんが行く所まで行っちゃった左の人だとかそういう終わっている事実は理解出来るし、一部の方々が必死すぎて物凄く終わっているのも理解出来る。

けれどもそれとこれとは違うだろう。
なんというか、どうなんだろう。

そもそも、進級してクラス替えがあった時に同じクラスになった好きだった女学生が泣きだしたのとか、ってなんでこんな事書いているのだろう。まあ、とにかく悲しいという事である。



彼ら、即ち都合のよい仮想敵というものを捏造してレッツゲレロンする人々を指して、馬鹿だとかあほだとかまぬけだとか、より正確に言うと思慮が足り無さすぎるだろう、といった激昂に近い感情もあるのだけれど、それは別としてとにかく悲しい。


おそらく、真面目なサイトの真面目な人々、つまりは識者と言い換えられるような方々は1日15hitのネットゲームブログなんて読まないだろうし、場末の女学生の写真も赤裸々話も無いブログをよろしくやりたいと嘗め回す事も無いだろう。
一生目にする事のない無縁のインターネットなのだと思う。

そういう方々は「実に由々しき事態であるw」とか一言で終わりだろう。

けれども、僕は住人であり読者である。
ブックマークから削除してもう読まないでおこうと決めて忘れ去ろうとしてみたところで、切り株を覆うとりもちのような違和感が消える事は無い。


本当にわからない。
というか大学生の知性というか思考回路のシステムは一体どうなっているのだろう。国立大学の女学生がどういう日常を過ごせばチョンだとか強姦ビザだとか言い出すインターネットなのだろう。壮大なネタなのだろうか?とかそういう疑いすら持ってしまうくらいに理解が出来ない。

人間というものを過大評価しているのかもしれないと思う。
過大評価して幻想を抱いていたいのかもしれない。
自分が人間であるという点を抜きにしてもだ。
僕は多分おそらく人間というものを。保身の為かな。





どのような間違った事柄であっても、それなりの手続きが踏まれていたのならば距離を保った1読者としては構わないと思っている。1ブログ1ウェブサイト1個人としては、構わないと思う。
それを正当化する為の吹けば儲かる桶屋だとか、ねじ曲げられた詭弁の理論武装だとか、極端な話直接的な1例としての実体験だとか。

けれどもそういったものすら無しで、明らかに人生バラ色、少なくとも僕よりは遥かに充実した青春を送っている明らかに僕よりも頭が良くて満ち溢れた時間を過ごしている人間が、どうしてノーモーションでそういう投稿を行うのだろう。いくらなんでもボークすぎる。野球コメントをつけてくださったりしてる人達を意識して野球に例えてみた。すっげーファンサービス心旺盛だ。凄い媚び。いや、まあそういう手続きすら無しであっても別にどうって事はなく、いいんだけれど、よろしくやりたい女性アイドル(18)がダンボール魔だったくらいの勢いで朽ちる。


こういういかにも思った事をそのまま書きましたな投稿を行ってしまうのは望ましい事ではないのだけれど、これはどれだけ考えてもまともな文章になど出来ないであろうし、まあ率直に書く事に意味があるのかもしれないといったような気もするから書いているので、たまにはこういうのも許されるのだろう。許されないならば、許されないで構わないし。わからない。好きにしていいとは思ってないけど好きにする。



とにかく、右だとか左だとか人権だとかあるいはそういうのを抜きにした問題だとかを真面目に論じている方々は高台の上でやっているわけで、わかりやすく言うと住んでる世界が違うのである。

で、「そういう馬鹿はほっとけばよろし」という、ウェブサイトにおける「荒らしは放置で、」みたいな大前提の元で彼らは討論主張を行っているわけである。



そのほっとかれたブログ、放置されたインターネットのウェブサーファーである僕は、どのようにすればよいのだろう。放置され無視される悲しみを知っているから余計に辛い。重ねると住む世界が違うのだというだけであり、階層と境目と敷居のあるインターネットだという事なのだろうけれど。数字の1か、ノイズか誤差か。
両眼が干上がる湿度無風。


mixi招待メールという恐怖



「mixi招待メール公害」と表題をつけようと思っていた。

しかし、迷った。
世間一般ではmixi招待メールというものは幸せなイベントとして認識されており、それを指して公害と言いきるのは幾らかの問題があるように思えた。
そこで、正確に書く事にしたのである。
毒があればおもしろいというものではないのだ。




まず、mixiとは何かという事について、mixiというものをご存知の無い方の為に説明しておこう。mixiとはgreeみたいなやつだ。では、本題。







「mixiとは何か?」
というのは、散々mixi近辺では語られている所である。
mixi外の人間である僕が書ける事は何一つ無いし、書くつもりも無い。
ケチをつけるつもりなどまったくないし、批判するつもりもまったくない。
僕とは無関係な世界の無関係なインターネットだからである。
例えば僕がmixiというものを書くという事はベルギーのブリュッセルのチョコレート職人が塩と砂糖を間違えた事に対してあれこれ捏ねくり書くようなものであり、荒唐無稽である。


では、何について書くのかというと、mixi招待メールについて書くのである。
ストレートな表題の通り、mixi招待メールにより生じる恐怖を書くのである。



「mixiとは何か」というものがよく語られているのに対し、「mixi招待メールとは何か」という事について触れる人間がまったくに等しい程いない理由としては、mixi招待メールというものに対して、誰もが「ラッキーイベント」という共通の認識を持っているからなのだと思う。


確かに、閉じたコミニティへの招待状というのは貴方が特別な存在だと認識されている事の証明であり、晴れてミクサーになれるイベントである。

しかし、僕にとってのmixi招待メールとは、そのようなものではない。
インターネットの仲間からの幸せへの招待切符などではない。
恐怖である。



まさか、自分自身がmixi招待メールなどというものに頭を抱える日がやってくるとは想像もしていなかった。いつの頃からかポツポツと「mixiどうですか」みたいなメールが入るようになり、「返信する」と「返信する」の二択を強いられるハメに陥った。


僕は彼らの意図がまったくわからない。
mixiは招待した人が記録されるらしいから、恩を売りたいだとか、同じコミニティに引き込みたいのかな、といった印象を受けるものもあったのだけれど、彼らはmixiに誘うのは良い事であると確信しているようである。


悲しい。
ありえない。
繊細さの欠如である。
招待メールミクサーはその思い込みを今すぐ取り払うべきだ。
mixi招待は誰もが待ち望む福音であるという思い上がりを捨て去るべきだ。


一部の人間、それは即ちmixiのような濃厚なインターネットと相容れない存在である人間にとって、mixiへの招待メールとは公害であり、迷惑以外の何者でもない。
心労だ。
消耗だ。
物凄い負担だ。



僕はインターネットのウェブ上で、誰とも係わり合いになりたくないのである。
それくらい、ブログタイトルを読んで気がつくべきだ。
ウォークラフトというネットゲームで僕は100以上ものアカウントを作成し、誰かに褒められたりフレンドリーな対応をされたりクランに誘われたりというアカウントを片っ端から削除してきた。それは色々あった末に辿り着いた唯一にして正しい結論であり、僕自身の保身の為でも相手方への配慮でもあった。


個人対個人のコミニケーションを取れない人間、また、対等なコミニケーションを取るに値しないような軽薄な人間にとって、濃厚な個人と個人のインターネットというものは、決して相容れられないものなのである。


なのに、というか、つまり。
「mixiどうっすか?」と言われても物凄く困る。困り果てる。



なぜ困り果てるかというと、彼らはよかれと思って近づいてきているからである。
その能天気さが果てしなく恐ろしい。


彼らは真性引き篭もり上にあるメールアドレスをコピーし、ペーストし、あるいは書き写し、メーラーを立ち上げて僕にメールを送りつけてきた熱心な味方なのだ。
彼らは「真性引き篭もりhankakueisuuの味方」というものを自称しているに違いない。僕からすれば究極の迷惑メールの発信者でしかないのだが。


上澄みという言い方は非常に失礼で不適切ではあるものの、彼らはそれだけのかなり熱心な真性引き篭もり読者であり、誠意に欠く返信をしてしまうと僕の人間力が疑われてしまう。
いや、人間力などまったくないし、まったく無いという事は既に白日のバレバレなのだけれど、無碍に扱ってしまうと優れた人間力の素晴らしい人格者であるを偽りたいという欲望を満たす事が出来ない。



だからして、mixi招待メールが来る度に、極度に緊張し、そわそわと落ち着かなくなる。
お断りの返信メールを書かねば書かねば書かねばと、最高の友達だと思っていた幼馴染に本気で告白された女学生(実は彼氏持ち(自営業者、×2、47歳))のように動揺し、日常生活から平穏というものが奪われてしまう。

返信の文章を書く為に立ち上げたインターネットエクスプローラの前で、キーボードに触れる事すら出来ずに悩み続けるハメに陥るのである。

mixiに誘いに来た彼らを失望させたくないし、その思いを裏切りたくは無い。このような僕に手を差し伸べてくれた人間というものをがっかりさせたくはないのだ。けれども、僕は日本語が不自由な人間である。書きたいと思った事を一度として書けた試しは無いし、伝えたいと思った事を正確に伝えられた事も無い。mixiへの招待を断るに適切な文章といった難易度の高い文章を書き通せるはずがない。
どう努力をして捻り直進説明しようと努力した所でただ長くなるばかりであるし、どれだけ長く書いたとしても伝え説明する事など出来ないのである。

であるからして、これ以上mixiへの招待を断るという非常にやっかいな作業に悩む事なく過ごせるようにと、このような文章を投稿するに至ったのである。


mixi招待メールは謹んでお断り申し上げますので、よろしくお願いします。
失望させられてばかりである。












誰とも係わり合いになりたくないとかいうのなら、なんでブログなんか書いているんだよ!といった突っ込みには「アマゾンアソシエイトで稼ぎまくる為です」との事です。

僕がブログというものを書き続けている理由はアマゾンアソシエイトでがっぽがっぽ儲けまくるという唯一にしてたった一つの目的の為でありそれがたったひとつ。第二に、「頑張ってください」とかそういうくだらないメールを送ってきた人間を片っ端からとっかえひっかえだまくらかして連れ出してよろしくやりまくるという目的の為であり、物凄く欲望に忠実な権化の出会い系ブログなのである。


つぐみはどこにいるのか



答えは1つである。
つぐみはいない。




登場人物を整理しておこう。

・つぐみを探す母親ブロガー
・つぐみを探す母親に協力するブロガー
・つぐみを探す母親に文句を言うブロガー

それが全てである。
つぐみはいない。






我が子が突然いなくなった時の気持ち。
それは普遍的なものであり、誰しもが簡単に理解出来る。

見つけたいと思うのが親の愛であるし、
それを手助けしたいと思うのが人の心である。


我が子が「行方不明」になった。
それを探す、藁をも縋る、ブログが出来た。
それは、瞬く間に広がった。


これまで、子供が「行方不明」になるというものに対しては色々な術が取られてきた。
まず、「行方不明」の原因を探る。
情報を調べ、その上で公が判断を下し、どのような方法を取るのかを選択する。
それらは慎重に行われてきた。



なぜならば「行方不明」という問題は、デリケートな問題だからである。
それが誘拐であったならば、公にしてはいけない。
それが誘拐で無い場合、色々なケースが考えられる。
その中で公にされるのは、以下の2つ。

・なんらかの事件に巻き込まれたと考えられるもの。
・事故にあったと考えられるもの。

の、2点である。
家出というものは、そこには含まれない。
なぜならば、家出というものの問題は単純化出来るものではなく、公の中の公にして探しあてるのに相応しい行方不明では無いからである。



全てが省かれた。
隠され、隠蔽された。


・行方不明になった娘を探す母親ブロガー
一人だけが歩いて行った。



愛だ。
これは愛だ。
助けるべきだ。
愛を助けるべきだ。


ブロガーが群がった。
愛だ。
これは愛だ。
この母親を助けるのだ。
母親の愛を手助けするのだ。



素晴らしい事である。
娘の行方を案ずる母親。
案ずる母親を案ずるブロガー。



どこにいるのか。
いないのだ。


想像力の欠如、という言い方は相応しくないのかもしれない。
サラリーマン高校生社長専務副社長市民大学生主婦老人腐女子、全てのブロガー。
彼らが理解しやすいものは、「行方不明」の娘を探す母親である。
物凄く理解がしやすい感情であり、行動である。

彼らが理解出来るのは、家出したいと漏らし続けた小学生ではない。
そのような一般的ではない感情というものをまず念頭に置いてブログを読む人間などいないという事なのだろう。ブログというものを行方不明の人助けという崇高な目的の為に使用する、理知的で模範的で尊敬されるべきブロガーにとっては、存在していなくても構わないくらいの無価値な存在であり、理解出来ぬ感情理解出来ぬ行動想像もつかない人生なのである。
そりゃあ、まあ、そうだろう。普通じゃあない。

それら広め広まる絵面を指して人間性と繊細さの欠如と言うのは簡単であるが、人間とはとうよりブロガーとはそのようなものなのであろうと思う。善良なるブロガーによる善良なエントリーと善良なトラックバックによる善良な勝利。これは良い事なのだ。


行方不明の娘を探す母親がブログを書いた。
ブロガーの手で日本列島に広まった。
行方不明の娘が見つかった。
つぐみはどこにいるのか。
つぐみはいない。


本当に今までどうもありがとう本当にごめんなさいさようなら本当に閉鎖



なんか投稿しようと思っていた投稿の中の2行か3行が巡回先ともろ被りな内容であった事が悲しく切なく、本来は一昨日行っていたはずであったその投稿を今日にまで遅延させた頭痛というものに激昂したので頭痛というものを分類してみた。




「頭痛」
頭蓋骨の中央で、除夜の鐘が叩かれている状態。
脈拍よりも遥かに遅い感覚で、ズーン、ズーンと頭全体に来る。
頭痛薬を飲めば、15分程度で治る。
たまに、もやのような違和感が残るが、ゲームをしたりブログを書いたり、delphiをいじったりというような事をする妨げになるようなものではない。


「圧迫」
頭痛の逆バージョン。
外側から押しつぶしに来る。
どこに痛みがあるかわからないので、堪えづらい。
だいたい、頭の上半分が痛い感じ。
頭痛薬は確実な効果が期待出来るので、飲めばまず大丈夫。


「眼球」
眼球からエコーが広がり続けるが、頭全体に拡散はせず、目玉と目玉の周囲がピンポイントで痛い。
目を開けていられないのが最も辛く、思わず眼球を指で握り締めてしまうので、眼球が疲労して物凄く体力を消耗してしまう。その結果、目にゴミが入ったような違和感が残ったり、視界がずれたりというのが長く残るので、非常に嫌。
向こう2日は呼吸をするのも疲れるくらいに体力を失い、回復するのに時間がかかる。
ゲームやブログ、何かを考えたりする等は一切出来ない。
シャープペンシルも持てない。


「額の裏側」
眼球の4センチ上で、何者かが額を蹴ったり押したりしている状態。
ドドドドドドと蹴ったかと思えば、嫌がらせのようにさらりさらりとなで続けたり、というものが不定期に繰り返され、痛いというよりはうざったい。
目蓋の上から指を入れて、ツンツンしながら脳みそを揉めば収拾出来る。
来てからの頭痛薬は効かないのだが、予兆が来た段階で頭痛薬を飲めば完全に押さえ込む事が出来る。しかし、頭痛薬があと200くらいしか無いので予兆の段階で飲むのは精神的に相当な負担となり、飲み損ねてしまう事が多い。
ゲームやdelphiは出来るが、集中力が妨げられるので複雑なものは出来ない。
思考能力もかなり低下する。


「毛根」
髪の毛が痛い。
髪の毛が揺れると、頭皮全体が焼けるように痛い。
頭の内側はまったく痛くないので、楽といえば楽なのだけれど、耳たぶにまで降りてくる事が多い。耳たぶまで降りてくると相当辛く、一度収まってもまた第二第三の波が耳たぶにおしよせるので、物凄く耳たぶが消耗する。
横になると悪化するので、横になれず、眠れない。
長い時は100時間くらい続き、強引に寝入って目が覚めてもまだ続いている事が多い。
頭痛薬はどの段階でもまったく効かない。
一週間もすれば収まる、的な考えでやる。
痛みの波があり、緩やかな時間帯であれば何でも出来るが、すぐぶり返すので1時間が限度。ゲームをするには厳しい。


「こめかみ」
こめかみで爆竹が爆発し続ける。
脈拍よりも高速でバッバッバッバッバッバッバッバッバッと来るので、何もかも出来ない。
倒れるしかない。
基本的に、眠る事に成功したら、おきた時にはマシになっているので、寝るのがよい。
頭痛薬は、緩和効果はあるものの、完全に収まるのは稀。


「後頭部」
頭の後ろの弱い所をギューーーーーーーーンと、つままれる。
1時間以内に治るのだけれど、来た時は物凄く厳しい。また、強烈な吐き気を伴う。
他の頭痛に引き起こされたり、ゲームで死んだりして無気力になった時に油断すると来る。気を張り詰めていたら来ないので、注意さえ怠らなければ大丈夫。
頭痛薬はまったく効かないが、あまりにも痛いので効かないとわかっていても消費してしまうというアイテム在庫に厳しいタイプの頭痛。


「鼓膜、頬骨」
変な頭痛。
左鼓膜にドグン!と来て、両方の頬骨が共鳴してドスン!。
10分くらい休んで、またドグン!ドンドン!と来る奇襲タイプ。
油断した頃に来るので、思わずウゥゥゥと呻いてしまう。
けれども、頭痛が来るのは一瞬なので、次の瞬間にはもう完全に収まっている。
不愉快は残るものの、30秒もすればそれも消えるので何でも出来る。



だいたい、このくらい。

けれども、頭痛はブログやらインターネットとは違い、僕を傷つける事は無いので、僕を救ってくれるのは頭痛だけであると言い換える事も出来るのであろうと思う。
ゲームなどというものは僕を消耗させ傷つけるだけであり、ブログなどというものは僕をボロボロにして搾り取るだけである。なんかムカついてきて2度もまったく同じ内容の投稿をするはめになったし。なんだこれは、同じ題材で延々と読み続ける句会か何かか。ちきしょうめ。腹立たしい。クロウルとかクロウルとか色々と忙しいのに。あと頭痛とか。

だからして、もう一生ゲームなどやらぬし、真性引き篭もりも今この投稿を持って更新を終了して明日明後日頃には閉鎖して削除して未来永劫インターネットなどしない。僕がブログに何も出来ないのと同じように、ブログは僕を救ってはくれないのだ。最も正しい選択であり唯一のAntwortだ。くだらない。長らくのご愛顧ご声援ご街宣まことに感謝しておりました。本当に今までどうも構っていただきありがとうごめんなさいさようなら