2005年11月30日水曜日

一期一会.html



一期一会が増えている。








同じURLなのに、アクセスする度に表示される内容が変わる。
それは、Googleのアドセンスのようなマッチング広告だったり、それを摸倣したアマゾンアソシエイトの挿入ツールだったり。あるいは、インターネットのランキングやニュースのトピックスのRSSであったりする。F5を押す度別の顔。




「あ、今の、」と思って戻るボタンをクリックしても、そこにはもう、それは無い。
表示されるのは別の物。
もう二度と辿り着けない。
そんなものはそこにはない。




すれ違ってばかり。
いつだってそんな感じ。
動的なんてくそくそくらえ。
インターネットもHTMLも時間も全部、止まってしまえば静的いいのに。


あたしが最低だなーって思うのはたとえばこんな人。



一度寝たくらいで彼氏面する男と一度絡んだくらいで馴れ合いに来るブロガー。


閉鎖の準備は出来ている。



閉鎖に必要な物は動機と理由と捨て台詞だ。
無論、全て揃っている。

動機と理由はどうでもいいとして、重要なのは捨て台詞だ。
これがかっこよくないと決まらない。
その点僕はぬかりない。




「真性引き篭もりhankakuesiuuの暴言に耐えられなくなりました。」
ナルシズム。

「いえ、真性引き篭もりhankakueisuuが僕の暴言に耐えられなくなったと書くのが正確なのかもしれません。」
倒錯。

「即ち、読者の皆様方の愛に耐えられなくなりました。」
媚びとく。

「ありがとうございました、なんて微塵も思っていません。」
素直になれよ。

「さよならは言いません、さようなら。」
なんなんだ。





その上で、2分後くらいに「なんか予想外の方から続けて欲しいとかいう予想外なメールをいただいたりしたのでやっぱり閉鎖しません!」とかいってど真ん中へ突入してゆく勇気。閉鎖中止宣言のカテゴリは「俺に絡めよ」あたりにして、その人物がジョージ・W・ブッシュである事を匂わせて大物感を醸し出しておく。無論、待てど暮らせどメールなど来ない孤独。


2005年11月29日火曜日

僕の知るところによると僕の周囲ではなぜか、はてなポイントの送信機能は物凄く使われているし、僕の価格は精々三万かそこら





強くなるために必要な事と少しの誇張。

僕が4K.Grubbyを知った時、彼は既に世界の頂点にいた。
けれども今ほど高い位置にいたわけではなかった。





その頃のGrubbyはdeadmanというロシア人と欧州最強の椅子を争っていた。

deadmanという人間は、一言で言うと犯罪者だ。
マップハックツールを使ってアカウント停止措置を何度も喰らったという経歴の持ち主で、筋金入りの極悪人だ。当時から今に至るまで、世界中のWC3プレイヤーから嫌われまくってきたプレイヤーであり、WarCraft3界のキングオブイービルである。だから僕はdeadmanが物凄く好きなのである。

対してGrubbyも非常に素行不良で有名なプレイヤーである。各地のBBSでやんちゃをしたり、チャットで喧嘩をおっぱじめたりと、行儀の良い人間ではない。だから僕はGrubbyが物凄く嫌いなのである。


その、当時世界の頂点にいたGrubbyとdeadmanという2人のバカは、いくつかの重要な大会の重要な試合で何度か戦った。そして世界中のマップハッカーに対する怒りの声援を背に受けたGrubbyはその期待に応え、毎回毎回deadmanを粉々に粉砕し続けた。それはもう、完膚無きまでに。4K.Grubbyの伝説は、deadmanの息の根を止めた英雄として始まったのである。

以後、deadmanは鈍く輝く事しか出来なくなった。deadmanがマップハックをしてまで勝ち続けることで溜め込んだ貯金は全てGrubbyが持ち去ったのである。




Grubbyの所属する4K(Four Kings)というチームは当時、それほど強いチームではなかった。5vs5のチーム戦で行われるWarCraft3Leagueという大会において、4Kは3-2や4-1という際どいスコアを繰り返し、時として2-3という形であっさりと順位表では下位に位置するチームに敗れたりしていた。

何故ならば、当時の4KはGrubbyのワンマンチームだったからだ。




それでも4Kは勝ち続けた。
いや、Grubbyは勝ち続けた。
リーグ戦ではそれなりに負けていても、プレイオフではGrubbyが絶対的な強さを発揮し、1vs1で1勝、2vs2で1勝と、Grubby1人で2勝をあげ、残りの3試合で誰かが勝てばチームは勝利する、という状況を作り出し続けた。


そして、4Kは栄光を手にし続けた。
いや、Grubbyは栄光を手にし続けた。




そんな中で4Kには「Grubbyだけのチーム」という嘲りが常に付きまとった。
当時の2vs2におけるGrubbyのタッグパートナーは素人目にも明らかに物凄く弱いプレイヤーで、プロリーグで優勝を飾るようなチームで戦えるような実力は無かった。けれども、Grubbyはその誰よりも弱いチームメイトと共に、「2vs2でも世界最強はGrubbyだ」と誰もが認めざるを得ない活躍をし続けた。誰もGrubbyを止めることは出来なかった。




ある時、Grubbyがチームメイトの試合を観戦していると、共に観戦していたプロゲーマーの1人が言った。

「4Kのメンバーは楽で良いよな。」
「3試合で一勝するだけで金が稼げるのだから」

Grubbyは激怒した。
本当に怒っていたのかどうかは知らない。
けれどもGrubbyはしばらくの間、チームメイトをえらい剣幕で褒め続けた。

僕はますますGrubbyが嫌いになった。




ある時、Grubbyがチームメイトの試合を観戦していると、共に観戦していたプロゲーマーの1人が言った。

「(2vs2のGrubbyのタッグパートナー)は、雑魚だ。」

Grubbyは即座に言った。
「彼は世界で最も優れた2vs2プレイヤーだ。」
「なんなら、このあとですぐにやってみるかい?」

そこには、2vs2のGrubbyのタッグパートナーもいた。
僕はますますGrubbyが嫌いになった。








それからしばらくして、MaD_Frogというプレイヤーが世界の頂点に躍り出た。

韓国に招待されたMaD_Frogは、欧州よりもレベルが高い韓国の並み居る強豪を相手に奇跡的な成績を収めて欧州に帰国した。




それは正しく、凱旋帰国だった。
誰もがMaD_Frogの時代が来たと考えた。

欧州に凱旋帰国したMaD_Frogは鬼神の如き強さで勝ち続けた。それは、正しくグロ画像のような強さだった。当時MaD_Frogのゲームを観戦していた欧州のプロゲーマーの1人が動揺して「これ、どうやったら勝てるのだ?」と言ったが、誰もそれに言葉を返せず黙り込んでしまった。通夜のような重い沈黙が欧州を覆った。

MaD_Frogに敗れたプロゲーマーまでもが「ちょっと待ってくれ、それどうやったら戦えるのだ?」とMaD_Frog本人に問いかけてしまうくらいだった。そう、当時のMaD_Frogは戦う事すら許されない位に強かった。対戦相手の心を完全に折ってしまう程に、全てコールドゲームで勝ち続けた。

それは正しく、悪夢の到来だった。
誰もがMaD_Frogの時代が来てしまったと考えた。

誰もが思った。
Grubbyの時代は終わったと。
deadmanという巨悪を葬ったヒーローの時代は終わってしまったのだと。




MaD_FrogとGrubbyのどちらが強いかなんて事は、誰も語ろうとはしなかった。
もう、結果は見えていた。それ程までにMaD_Frogは圧倒的だった。

そして、両者は遂に相まみえる。
それも、プロゲームの大会の決勝戦という場で。

試合形式は三本先取した方が勝ち。
人々が注目したのはどちらが勝つかではなくて、MaD_Frogがどのように勝つかだった。いつものように相手に試合を成立させないままで勝ってしまうのか、Grubbyが辛うじて試合を成立させる事が出来るのか。それだけが注目されていた。MaD_Frogの勝利は約束されていた。




Grubby(オーク)対MaD_Frog(アンデッド)の幕が開けた。

MaD_Frogは圧倒的だった。
Grubbyの操るユニットは何も出来ずに片っ端から死んでいった。
Grubbyの操るヒーローは蘇る度に悲鳴と共に昇天していった。

もはやその空気は試合のものではなかった。
偉大なるヒーローの追悼イベントだった。
Grubbyは何も出来ずに一本目を失った。




2試合目もMaD_Frogは圧倒的だった。
韓国という虎の穴で完成させられたその強さは本物だった。

Grubbyは何も出来ずに負けた。
見ている誰もがそれからしばらくすれば、MaD_Frogの戦い方が欧州を席巻するだろうと考えて、「明日は我が身」と死に行くGrubbyの姿を怯えながら見続けていた。Grubbyに煮え湯を飲まされ続けてきた欧州のトッププロ達は、MaD_Frogと同じ種族を使ってMaD_Frogのスタイルをコピーすれば「俺でもあのGrubbyをゴミ扱い出来るのだ」、と誰もが考え始めていた。

Grubbyは何も出来ずに2本目を失った。




けれども、GrubbyはGrubbyだった。
残念なことにMaD_Frogはその他大勢でしかなかった。

2-0とMaD_Frogが王手を掛けた三試合目、誰もが目を疑う光景がそこにはあった。
Grubbyは、凱旋帰国からその試合まで相手にゲームをさせずに連勝街道をひた走ってきたMaD_Frogにゲームをさせずに完勝した。何が起こったか理解している人は世界中でたった1人、Grubbyだけだった。「まぐれだ」誰かが言った。世界中がそう考えた。




4試合目。
Grubbyは圧倒的だった。
世界中がとろけていった。

あの、MaD_Frogが何も出来ずに負けてゆく。
目の前で何が起こっているのか、誰も理解出来ていなかった。




何よりもそれを理解できていなかったのはMaD_Frog本人だった。
負けるはずがないマッチアップ、負けるはずが無い相手、事実スコアは2-0。
栄光はMaD_Frogの手中にあった。

4試合目の趨勢が誰の目にも明らかになった時、MaD_Frogは言った。
「5試合目はお互いの種族を逆にしてやろうぜ」

OVER。
「なあ、5試合目はお互いの種族を逆にしてやらないか?」

全ては終わった。
「4K.Grubby、5試合目はお互いの種族を逆にしてやってみないか?」














欧州に平和が戻った。
王の座にはGrubbyがいた。
彼はみんなのヒーローで、何度も何度も大きな大会の重要な試合でゾンビのように蘇っては復活を目指してしつこく、しつこくvsGrubbyへと辿り着き続けてきたdeadmanを、毎回毎回ストレートで打ち破り続けた。人々は笑顔を取り戻した。deadman lol。幸せな時代だった。

1つの悪夢が訪れるまでは。






それは、本物の悪夢だった。
誰もが目を疑った。




プロゲームというのは、過酷な世界である。
試合のリプレイが一瞬にして世界中に広まり、そのキーボードの細かい操作や、作戦の手順、あるいは傾向までが全て筒抜けになる。強いプレイヤーの作戦は世界中のプロゲーマーから研究され、穴を見つけられ、あるいはコピーされて広まる内に誰かが対策を思いつき、といった形で飲み込まれてゆく。

Grubbyはその過酷な生存競争を生き延び続けた。
彼の所属する4K(FourKings)というチームには少しずつ、強いプレイヤーが加わって行った。

他のチームもGrubbyの栄光を黙って見ていたわけではない。
4Kというチームはその貧弱なウェブサイトと所属プロの少なさを見てもわかるように、そんなに大きな資金力はない。Grubbyがいなければ、凡百の弱小チームだったし、今もそうだっただろう。4KはWC3Lで勝ち続けてはいたものの、誰もが認めるような世界のトップクラスのプレイヤーを補強する事は出来なかった。

それでもGrubbyはチームメイトの事を「彼は強い」「彼らは強い」と言い続けた。誰もがそれに反論をしたかったが、WC3Lという大舞台で4Kは勝ち続けていたが為に、文句を言う事が出来なかった。Grubbyは1vs1と2vs2の2勝を4Kにもたらし続けていた。




どのような補強をしても4Kの後塵を拝し続けたライバルチームは遂に、禁断の扉に手を掛けた。韓国である。WC3Lは一夜にして、韓国人の晴れ舞台と化した。山を越え、海を越え、世界中から化け物共が集結した。sprit"チャンピオン"moon。100戦100勝sweet。挙げればきりがない。時差の関係上あまり参加して来なかった国の強豪達も韓国人の後を追うようにして次から次へと契約していった。Grubbyはそれでも強かったが、4Kはあっという間に埋もれ、中堅以下の弱小チームへと成り下がった。

Grubbyは終わらない、けれども4Kは終わった。
誰もがそう口にするようになった。

「これが本当の世界のトップリーグだ」
これまでは餓鬼のお遊戯、ここからが本物の闘いだとばかりに人々は胸を躍らせた。




悪夢はそんな時に訪れた。

Zacard。
Grubbyと同じオークという種族の使い手である彼は韓国最強という称号を手にした。

それは、世界最強という称号を意味していた。
そして「世界最強オーク=Grubby」という定義の崩壊を意味していた。

誰もZacardを止められなかった。
人々はZacardをGrubby2.0だと考えた。

事実ZacardはGrubbyより操作量が多く、Grubbyよりも繊細で、Grubbyよりも丁寧で、Grubbyよりも大胆で、Grubbyより修羅場を潜ってきており、Grubbyより名のある相手を倒していた。

「Grubbyの時代は終わっていない」
人々はそのようにGrubbyを弁護した。

欧州はGrubby、AsiaはZacard。
それでいいじゃないかと、物事を丸く収めようとした。




けれども、世界は1つである。
GrubbyとZacardは同じ大会にエントリーし、同じように圧倒的な強さで勝ち進み、同じように決勝戦に駒を進めた。オーク対オーク。欧州対韓国。欧州最強対世界最強。

結果は3−0でGrubby。
「どうしてGrubbyは勝ったのか?」世界中で論争が行われた。けれども誰1人としてそれに対する明確な答えを出せずにいた。そうして人々はその3-0という結果を理解する事を諦めた。考えるのを止めたのだ。「Grubbyだから。」他の理由は見つからなかった。他に言葉はいらなかった。

それ以降、それまでは"絶対に傷のつかないプレイヤー"だったZacardはチームにとって重要な試合で勝てなくなったし、格下のニューカマー相手に頻繁に星を落とすようになった。どこにでもいる凡百のプレイヤーへと成り下がってしまったのである。魔法は解けて、悪夢は去ったのだ。




悪夢は去ったが、4Kの死は確定していた。
韓国人の草刈り場となったWC3Lで、他より遙かに見劣りする4Kの面子が勝ち星を拾い続けられる可能性はまったく無かった。何よりエースのGrubbyですら勝算の薄い強豪が大勢流入していた。

4Kのライバルチームは、オフラインで行われるプレイオフ(決勝大会)に韓国人を呼び寄せる事くらい簡単に出来るだけの資金力を有していた。4Kは終わった。




そう、4Kは終わった。
誰もがそう思った。

あの頃は良かった。
人々は昔を懐かしんだ。

けれども終わったのは4Kではなくて、deadmanの所属するaTだった。




誰がaTを終わらせたのかって?
そんなの、言わなくたってわかるだろう。

綺羅星の如きタレントを世界中から掻き集めたaTを終わらせた男。
それが、かの、aT.deadmanだ。




極悪人deadmanを抱えたaTは、deadmanが引き起こす数々のトラブルにより空中分解した。傷心のMaD_Frogが色に溺れて行方知れずとなってからも、欧州のトップ戦線で悪童っぷりを発揮し続け、Grubbyには相変わらず負け続けるも地味な進化を続けて強豪と呼ばれる地位に居続けていたdeadmanを欲しがるチームはいくつも有り、彼は再就職先を手に入れた。

けれども、deadmanほどの名前を持たない同僚の幾人かの所属は宙に浮いた。




韓国屈指のアンデッド使いaT.FoV。
次第に頭角を現し始めていたフランス人のヒューマン使いaT.ToD。

そんな彼らを拾ったチームがあった。
Grubby率いる4Kである。




誰も、そう、誰もFoVを止められなかった。
Grubbyとトレーニングを続けたFoVを止められなかった。

GrubbyはToDのトッププロという肩書きをすぐに剥がした。
ToDは欧州最強ヒューマンとして名実共に誰もが認める存在となった。

なったのではない。
Grubbyがそうしたのである。




自分よりも遙かに格下で、ライバルチームのメンバーよりも遙かに安価な選手を率いてWC3Lを取り続けてきたGrubbyにとって、過去のメンバーとは段違いの才能を所持しているFoVとToDというチームメイトを強くする事など簡単な事だったのだろう。もう誰も4Kを止める事は出来なくなった。










先日、WC3Lシーズン8の決勝戦が行われた。

FoVはスケジュールが合わず、4KはFoV抜きでプレイオフに挑んだ。4Kのアクシデントはそれだけではなかった。チームメイトの1人が選手登録後に参加出来なくなり、全5試合で行われるWC3Lのプレイオフで4Kは、1本失った状態で始まるという不利を受けた。


しかも、GrubbyとToDに続く三人目のプレイヤー、Zeusはプレイオフに駒を進めた他のチームの強豪よりは実力的にはかなり格下だった。Zeusが4Kに加入したいきさつはよく知らない。あまりWarCraft3の盛んではないクロアチアの選手だから、先進国のプレイヤーよりも獲得しやすかったのかもしれないし、操作量の多さを見込んで育てるつもりで獲得したのかもしれない。まあ、よくしらないが、とにかくZeusが勝ち星を拾える可能性はかなり低かった。




4Kが優勝する方法はただ1つ。

Grubbyの1vs1。
ToDの1vs1。
Grubby&ToDの2vs2。

その3試合で勝ち続ける事。
2人きりのプレイオフが始まった。







当然の如く、Grubbyは勝った。
1vs1は2-0。
2vs2も2-0。
誰も驚かなかった。




そして、ToDは負けた。
4K.ToD vs mYm.Hanbit.Storm。
相手はmYmという欧州のチームとHanbitというチームが合体して出来たmYm.Hanbit。

スコアは1-2。
選手はStrom。
もちろんkorean。
誰も驚かなかった。




無論、Zeusも負けた。
相手は当然韓国人。
誰も驚かなかったがフォーラムは荒れていた。
「Zeusは良いプレイヤーだが、4Kには相応しくない」もちろん僕も頷いた。




FoVを招けず、チームメイトが1人現れずデフォルトで一敗が付き、Zeusは戦力にならない4K。対するmYm.Hanbitは出場選手全員が韓国人。現地でブートキャンプをし、万全の体制で試合に挑んでいた。敵はHanbit、即ち韓国そのものだった。

WC3Lという巨大な大会のタイトルが、韓国人によって持ち去られようとしていた。




けれども、GrubbyはGrubbyで、WC3LはGrubbyの為の大会だった。

WC3Lのプレイオフはダブルイミテーション方式。
即ち、一度負けても優勝のチャンスはあった。

4Kは当たり前のように決勝戦へと駒を進め、ウイナーズサイドを勝ち上がったHanbitとの決戦に挑んだ。1勝すればHanbitの勝ち。2連勝すれば4Kの勝ち。




そして、一戦目。
Grubbyは1vs1では2-1で勝利し、2vs2を2-0で取った。

次は、Zeus対Storm。
ハイハイ、StormStorm。
はいはい、KoreanKorean。
4Kの命運はToDに託された、、、はずだった。



ありえない事が起こった。
4K.Zeus対Hanbit.Storm、2-1。
勝者、4K.Zeus。

Grubbyは驚いていなかったのかもしれないが、フォーラムは逆方向に荒れた。
「ゼウス、お前は男だ!」「昨日ゼウスに文句言ってた奴はZeusに謝罪しる!」




もはや、ギャグの領域だった。
WC3LはGrubbyの為の大会で、4KにはGrubbyがいた。



最終戦。
Grubbyは2-0で勝った。
ToDも2-0で勝った。
Grubby&ToDの2vs2も2-0で勝った。
どれも、一方的だった。

海越え山越え訪れて、キャンプまで貼った高給取りの傭兵達は4Kの2人になにもさせてもらえないままで、WC3Lシーズン8の最終戦を終えた。Zeusはもちろん0-2で負けていた。




皮肉にも、Grubbyが最も嫌うdeadmanが崩壊させたaTから移籍したToDが、Grubbyにいくつめかのタイトルをもたらした。欧州で一番の嫌われ者が韓国から欧州を守ったようなものなのだ。まったく、お笑いである。









4K.GrubbyはFoVとToDという、文句なしに世界最強クラスのチームメイトを手に入れた。けれども、かつてGrubbyが「強い」「良い」と言い続けてきた、"安くて弱いがたまに勝つチームメイト"は、もう1人として4Kには残っていない。それどころか、WC3Lの優勝メンバーだった彼らは全員プロゲームシーンから完全に消えてしまった。まるで最初からGrubby1人しかいなかったかのように。

いや、事実4KにはGrubbyが1人いただけなのだ。
即ちGrubbyはずっと1人だった。
そしてこれからもそうだろう。

4Kと他のチームの差異は「Grubbyがいたか、いなかったか」という違いでしかない。10人20人と大量のトップランカーと契約して囲い込んだ有力チームは全て、たった1人の人間に粉々にされたのだ。

もしも仮に世の中に「金では買えないもの」があるとすればそれはGrubbyと、Grubby的なものだけだろう。仮に4KにGrubbyがいなければ資金力の無い4Kは今も尚弱小チームだったろうし、他のチームにGrubbyがいれば、そのチームがWC3Lを連覇し続けていただろう。




それを思うと、以前どこかの誰かが「強い人と練習しないと強くはなれない」「弱い奴は強い人と練習しても弱いままだ」と言っていたのを思い出さずにはいられない。

Grubbyが強いままでいられたのは、4Kがその時点で買える範囲の中で最も強いプレイヤーを買い続け、少数精鋭で不要となったものを捨て続けてきたからに他ならない。

必要でないもの以外は不要であると、捨てられる事こそが強さなのだろう。




不要な物を捨てて。
不要な情報を捨てて。

不要な人を捨てて。
不要な時間を捨てて。

不要なRSSを捨てて。
不要なブログを読むのをやめて。

さあNOW、全部捨てちまいなよ。
全てゴミ箱に放り込んで投げ捨てて。

違う世界違う場所違う人生違うインターネット。そうすれば誰だってGrubbyになれるし、そうした所で誰もGrubbyにはなれやしない。例えば僕が今ここで真性引き篭もりhankakueisuuを投げ捨てたならば僕が失うものは僕だ。grats、Grubby。

誰がアフィリエイトをアサマシと言い換えているのか。そして何故彼らはそのような言い換えを行うのか。



アフィリエイトの事をアサマシと言い換えている人達がいる。
アフィリエイトサイトの事をアサマシサイトと言い換えている人達がいる。

彼らは何故そのような言い換えを行うのか。
それが問題である。




自分は過去にアフィリエイト批判のような投稿を行った事がある。しかし、それらはアフィリエイトにより失われるものの大きさを書いただけであり、僕はアフィリエイトを批判したことは無いどころか、常に全肯定してきたのである。

ところが、アフィリエイトをアサマシと言い換えている人達のアフィリエイトに対するそれは「道理の通った批判」ではない。アサマシという言葉による印象操作であり、アフィリエイターへの人格批判である。




何故、彼らはそのような言い換えを行うのか。その理由は「アサマシ」という言葉を使っている人間に共通する、ある事柄にさえ気がつけば自ずと浮かび上がってくる。

アフィリエイトを「アサマシ」と呼び変えている人達に共通する事柄。
アフィリエイトサイトを「アサマシサイト」と呼び変えている人達に共通する事柄。




それは、彼らは皆が皆、アフィリエイトをやっているという事である。
そう、彼らは全員が全員アフィリエイターなのである。




いったい、なぜ彼らは自身が所属するアフィリエイターというカテゴリー自体を「アサマシ」という言葉を用いて人格的に問題がある人種であると規程して言い罵り、アフィリエイトを行うサイトを「アサマシサイト」という言葉で人畜にも劣るウェブサイトであるかのように言うのか。なぜだ、いったい、いったい、なぜだ。




答えは明確にして簡潔。
そうする必要があるからだ。

アフィリエイトとは何であるかというと、それはパイの奪い合いである。
アフィリエイトの規模が年々拡大しているとはいえ、それにも増してアフィリエイターが増えてしまっては1人あたりの食い扶持が減る。即ちアフィリエイトで儲けている奴らはありとあらゆる手段を用いてライバルを減らしにかかるのである。

であるからして、彼らアフィリエイターはたかがブログを機械的に生成してアフィリエイトサイトを多数作ったくらいの事でぎゃあぎゃあと大声で喚き立てて非難するし、たかが内容関連性の薄いトラックバックや言及リンクの無いトラックバックで自らのブログのアクセスアップを企てるアフィリエイターに対して、まるで彼らが人間的欠陥を抱えた人格障害者のように言って強く非難する。

そうする事でアフィリエイターらは「アフィリエイト=馬鹿がやるもの」あるいは「アフィリエイト=あさましく汚い行為」という印象を世間に滲透させる、ライバルの新規参入を防いでいるのである。




即ち、アフィリエイトの事を「アサマシ」と呼び変えている人達は自らの所持する既得権益を少しでも守るために、世間一般の大衆を洗脳するを目的として、アフィリエイトに対する印象操作とアフィリエイターに対する人格攻撃を繰り返しているのである。




即ち、アフィリエイトを「アサマシ」と呼び変えている奴らは自らの権益の為にそれを行っているのであり、それはちょうどお小遣いサイトの運営者や情報商材の販売者が自らの利益の為に「アフィリエイトをはじめましょう」と言っているのと、まったくに同じである。

言っている事は180度違えど奴らは同じ、己の事しか頭にない連中なのである。








故に僕はそのような非道極まる連中に対して逆鱗の狼煙を上げるべく以後僕は、アフィリエイトの事を「アフェリエイト」と呼び変え、アフィリエイトサイトの事を「しあわせサイト」と呼び変える事にする。諸君らも、続け。

現金が人をしあわせにするというのは世界で一番有名な幻想であり、幸せとは世界で最も知られていない幻想である。わたしはそれを知っている。


id:yoshida65536八分



id:yoshida65536が僕のエントリーをブックマークしてくれません。


人間力のあるエントリー



今年は一年間働きに働きずめだったので、何か自分へのご褒美として車でも買い換えようと思い立ち、さあて何を買おうかと色々なウェブページを閲覧していると「頭が良くて気が利く“人間力がある人”ということだが」という一文に行き当たってしまい、思わず頭を抱えた。








僕がくそまじめに「死ねばいいのにと書くことは無責任であり同時に人生の放棄であり不誠実さに他ならず、真摯に生きるを志すならば文責を持って殺してやると書くべきだ」という投稿を懸命に書き続けていた頃に運悪く、「死ねばいいのに」というフレーズはテレビのお笑い芸人のフレーズであるという事を知ってしまい非常に萎えて、投稿ボタンに辿り着く気力というものを失ってしまったのだけれど、今にして思えば書いておけば良かったとも思わなくもない。

それによって自分が知ったのは、インターネットにはTVというものに敵愾心を抱いている人間が大勢いて、「TVは馬鹿が見るもの」というレッテルのようなアイデンティティがそこら中に林立しているにも関わらず、インターネットはテレビっ子的常識に満ちており、それをデフォルトとして扱う人達が大勢いるという事である。大勢いる、というよりも全てに等しい。

しまいには「しねばいいのにを理解できないのはお笑いの理解出来ない、おまけに空気の読めない馬鹿ですよ」などといった言論を目にしてしまうに至り、「あんたの世界観の中ではそのダウンタウンというものは日本人の基礎教養基礎知識であり読んでない奴プゲラッチョなのか?」と、思わず突っ込んでしまいそうになったというか、今現在こうして突っ込んでしまうに至っている。




と言っても別にお笑い番組というものが嫌いなわけではなく僕はただ、「食べ物を粗末にする人達」という括りに所属する人間に尋常成らざる不快感を感じずにはおられぬ性質であり、ダウンタウンだとかナインティナインといった人達はその「食べ物を粗末にする人達」にカテゴライズされているからして、そのような不愉快な人間共を見聞しようとは思わないというだけの話である。

さらに言えば自分は人間の笑い声というものを耳にすると背中をアリクイに嘗め回されたかのような不快感を感じ精神的に物凄く参ってしまう体質であり、笑い声が効果音としてけたたましく鳴り響くがデフォルトとなっているTVというものを見るには、かなりの覚悟と体力と精神的余裕が必要であるが故に、TVのお笑いの番組というものを苦痛の発生装置としてしか認識できていない。

いや、僕が死ねばいいのにを知らなかったのはそれ以前に、部屋にTVが無く僕は真性引き篭もりであるという根本的な大本の問題があり、それまでの話であるといえば、それまでの話である。




とにもかくして、即ち僕の言葉というものに対する感覚は世間とは少しばかりずれてしまっているらしい。それに関しては読み手としての立場で言えば、なんの問題はないし、不便もない。まあ、いいじゃないかと思うだけである。書き手としても別に良いのだ。そうまでして伝えたいことなんて何もない。




しかしながら、しかしながらである。
1人のブロガーとして明確な意識を持って使い続けてきた「人間力」という言葉が巨大なインターネットのサイトの上の文章の中で、「頭が良くて気が利く」とうい意味で使われているとなると、これは大きな問題である。

何故であるかというと、僕はこれまで人間力という言葉を「頭がおかしく気が狂っていてさらに無能」という意味で使ってきたからである。より正確に言えば「人間力という言葉を口にする人間はiconとしての山本昌邦と同じくらいに滅茶苦茶な言論と、それと矛盾した行動を取る無能で、場当たり的に自己正当化を繰り返す最悪の人であり嘲笑の対象であり、人間力という単語を使う人間の書く文章は読むに値しない」という意味で使ってきたからであり、僅か三文字6タイピングで猛烈なる自己批判を行える超絶便利なキーワードとして利用し続けてきたのである。

その完璧なるキーワードが世間的に完全に通用しないものであり、むしろまったく逆の意味合いを持つ言葉として広まってしまっているという事は、それ即ち物凄い悪夢だ。




山本昌邦という人が如何様な人物であるかというのは、ジュビロのファンの人に「山本昌邦に泡でも吹かせてあげてほしいんですけど……」と書かれていたり、10点満点評価で0.5という数字をつけられていたり、「何だこのコメントは。せっかく勝利したのに、何でこう評価を下げる発言をするのかなあ。」とくそみそにけなされていたり、挙げ句の果てには『そんなわけで、今季注目しているのは、山本采配で「どれだけ弱くなるのか?」という疑問に答えを出そうとしているジュビロ磐田。』とまで書かれているところから見ると、どうやら僕の知っている山本昌邦は未だ健在らしい。

即ち変化したのは山本昌邦への評価ではなく、「人間力」という言葉の意味という事になる。あるいはそもそも「人間力=山本昌邦」という公式自体が世間では成り立っていなかったのかもしれない。

僕はこの人間力という言葉に再び魂を取り戻す、あるいは魂を宿らせるがために、山本昌邦を日本代表監督、いや世界代表監督にするべく今ここで立ち上がり世界を山本昌邦で染め尽くしてやる。







結局の所、言葉と意味というものの間には常に夫と妻ほどの隔たりがあり、誰1人としてそこには辿り着けないのである。

あらゆる言葉はその意味を共有している人間の間でしか通じず、「異なった世界観を持つ人間との話し合い」という場において言葉が役に立つことはない。

即ち、異なった世界観を持つ人間同士が言葉と言葉をどれだけ交わらせた所で、両者の間の距離は埋まるどころか開くばかりであり、人は言葉という道具を通じてやり取りを行おうとする限り、啀み合うか馴れ合うかの強制自動2択から逃れることは出来ないのである。




TVってなんだい?
そりゃあ、TVだよ。

ラジオってなんだい?
そりゃあ、ラジオだよ。

ブログってなんだい?
そりゃあ、ブログだよ。

他のものにはなりゃしない。
全部それまでそこまでのものだ。

言葉ってなんだい?
そりゃあ、言葉だよ。

意味ってなんだい?
そりゃあ、意味だよ。

それ以上にはなりゃしない。
赤は青、黄色は青色、青は青。




150行書いた時点でこの投稿の内容は先に書かれてしまっているという事に気がついてしまい酷く動揺したので無理から超強引に唐突に転調してみたが手遅れなんの効果無し、くそうプンペン、おのれプンペン。







「敬語は難しい」と書く奴は庶民アピールがしたいだけ。
「英語に敬語は無いよ」と書く奴はインテリアピールしたいだけ。
「英語に敬語は無いというのは嘘」と書く奴はスーパーインアピしたいだけ。
「英語に英語は無いというのは嘘だというのは正確ではない」と書く奴は誤字脱字。




敬語は難しいらしい。
事実、敬語は難しい。

正しい敬語というものを喋り書こうとするとそれはかなりの教養がいる。
たった少しの間違いでめくぢら立ててぐらぐら言う奴が大勢いるのだ。
まったく、インターネットと教育にはゆとりが必要だと僕は思うね。
我が国の未来を背負って立つ人間力のある若者を養成するために。




即ち、世間では正しい敬語こそが正しく、間違った敬語は間違いであるとされている。しかし事実はそうではない。正しさはジャスティスで言えば正義だが、誤りが常に間違いであると考えるのは大きな誤りであり間違いである。

敬語は何を目的としたものであるかというと、それは敬意の伝達である。敬意の伝達という点において、正しい敬語であるかどうかという点は問題ではない。敬意の伝達が成されるかどうかというその一点だけが問題なのである。

例えばまったくに間違った、言葉という観点から言えば甚だ無礼な誤りを犯した偽敬語というものが並べ立てられたとしても、それによって敬意の伝達が成されたならばその間違いによる無礼さ、あるいは無教養さは敬語としての勤めを立派に果たすものであり、即ち時として言葉としての間違いは道具としての正しささえをもを意味するのである。

無論、敬語ではなく正しい敬語が必要な局面において間違った敬語を使う事は純然たる間違いであると言えるだろうが、正しい敬語が必要な局面というもの自体が間違いだ。そんなものはぶっ潰してしまえ。八丈島までどんぶらこだ。








即ち、僕がもしも誤った行動、誤った選択、誤った人生というものを歩んだとしてもそれは間違い誤りその類を意味するとは限らず、むしろそれこそが正しさであるが故に俺の行動の全ては全て、俺によって正当化される。

結局の所、大事なのは人間力なのだ。


2005年11月28日月曜日

書こうと思っていた事を先に書かれてしまったので更新意欲が失せた。



最近、そんな事が多すぎ。




僕が言おうとした事はほとんど全部先に言われてしまっており、ブロガー的に、大変堪える。誰に言われてしまったのか?って、それは、もう、真性引き篭もりhankakueisuuおまえだーーーーー!!!!ああ、即ち僕か。自己責任だ。まったくもって忌々しい。

そりゃあ、ゲームの1つも遊ばずに連夜連日ブログのエントリーばかり書着続ける生活というものを一年も続けていれば、活字に出来る段階にまで持って行くことが出来た思考の筋道あるいは踊り場、といったものは全てエントリーの中になんらかの形で書き綴ってしまっている。

まったく同じ内容の投稿を行ったとしても、文面さえ違えばそれに気がつく人なんてほとんどいない、というのは事実なのだけれど、少なくとも一番の読み手である僕自身が気がついてしまった時点で書きUPるだけの体力気力というのが失われてしまって指も脳も四肢も心臓も動かない。

ではもう投稿出来るようなものは手元にことは無いのかと言えばそうではなくて大量に、それもとてつもない量の萌芽とでも言うべきものが目の前にずらりと並んでいる。それらはどのようなものであるかというと、「書けない投稿」「投稿できない投稿」「活字として捕らえる事が出来ていない投稿」の3つであり、そのうちでエントリーになる可能性があるのは最後の1つ、即ち頭の中で鳴り響いているが言語に変換できていない思考の内容だけであるからして、それをなんとかして捕らえて投稿に仕立て上げようと椅子の上でタオルケットにくるまって震えながらウオオオ、ウオオオ、と叫べない雄叫びを上げ続けていると狂いそうになる。「狂いそうになる」と書き綴っているという事はそれ即ちもう僕は、自身が狂っているという事が理解出来ないくらいに狂ってしまっているという事だ。アディオス、健やか、g2g。





5年10年とブログを書き続けるブロガーというものが増えるにつれ、そのような一番槍を自分に取られて立ち止まるブロガーは加速度的に増えてゆくのだと思う。

そこで「以前書きましたが」とリンクを張って書ける人や、素知らぬ顔で「今俺良いこと言った」と威風堂々投稿ボタンを押せる人が生き残るのだろうな、とは思う。

残念な事に僕は自身のブログというものを自身のエントリーのまとめサイトと化させてしまえるだけの厚顔無恥さのようなものは持ち合わせておらず、今日も涙明日も涙、末は博士か彼岸花。


人の心が読めないと不安だけが増す。



世の中には理解が出来ないことがたくさんあるという事を理解しているにもかかわらず、実際に理解しきれない事柄に出会うと尋常成らざる不安を抱く。一度気になり出すと、気になってオチオチブログも書いていられない。これはいったい、どういう魂胆なのだ。




ric_flairと、
hulk_hoganが
同一人物の多重アカウントだ、という所まではすぐにわかった。


ric_flair/岩田さゆりと、
hulk_hogan/岩田さゆりなどの状況証拠から推測するに、
ric_flairさん=hulk_hoganさんは、他に2つのプライベートモードを所持している、という所までもすぐにわかった。


問題は、その動機がまったくもって見えてこないという事だ。
はてなブックマークで多重アカウントを取得してブックマークしていた人達は皆全て、「自分のサイトの宣伝」あるいは「自作自演」といったような明らかな目的を所持しており、なぜそれを行うのかが僕にもわかったし、そうしたくなる心情というものも理解することが出来た。だから、なんの不思議も抱かなかった。


けれども、ric_flairさん=hulk_hoganさんは違う。
はてなブックマークのように「人気ブックマーク」「注目のブックマーク」という、ランキングシステムすら存在していない辺境の地で、どうして、自分のサイトでも無いウェブページを、4っつものアカウントでブックマークし続けていたのだろう。


いったい、何が彼をそうさせたのだろう。
僕には理解が出来ない。
きっと世界は広すぎる。
不安と弱気だけが増す。








この世のどこかには、僕がそうすること、あるいはそうしないことを理解できない人がいて、きっと、そうする理由、あるいはそうしない理由も同じように理解できぬと頭を抱えているのだろう。少なくとも僕には理解出来ない。頭を抱える。僕は何故ブログ書く。


2005年11月27日日曜日

こんなはてなブックマーカーはキモイので死んで欲しいってみんな思っているのに本人だけがそれに気がついていない。



午前2時にはてなブックマークする奴。




しかもコメントで偉そうな口きいてる奴。




人力検索で約一年ぶりに回答をつけた質問が 『「愛してる」って言ってください。他に言葉はいりません。 』な奴。




その回答が『我愛イ尓』な奴。




ネカマ口調な奴。




キモイ奴。






























退会済みな奴。




Googleさんに聞いてみた奴。


はてな社員八分



はてな社員が僕のエントリーをブックマークしてくれません。


2005年11月26日土曜日

id:bmp八分



id:bmpが僕のエントリーをはてなブックマークしてくれません。


2005年11月25日金曜日

[アクセス乞食2.0]理想の読者はどんな人?



ブログ読者は肩身が狭い。




匿名でコメントをつければ「書き捨て」と罵られ、記名してコメントすれば「売名行為」と罵られ、ただ黙って黙々とアクセスし続ければし続けたで「君たちには失望した」と沈黙のオーディエンスなどとレッテルを張られては逆ギレされる。匿名でコメントすれば「実名を出していない奴のコメントは」などとぐちぐち言われ、実名でコメントすれば「名前を出せば何を言ってもいいとでも思ってるのか!」などと集中砲火。挙げ句の果てには「俺が2時間かけたエントリーに2分やそこらでコメントつけやがって」と罵倒され、2分で書かれたエントリーに2時間かけてコメントしたら「暇人発見(藁」ときたもんだ。

どないせえっちゅうねん。




トラックバックにトラックバック返しをしては文句を言われ、「トラックバックしました」と挨拶入れれば「そんなこと言わんでええねん」と罵られる。悪人は決まって関西弁だ。ならばとばかりにトラックバックでなんとなく好きだと書けば「どこが?」といきなりけんか腰で乗り込まれて右往左往。なんとなく嫌いと言えば言ったで「建設的でない」などと文句文句のオンパレード。

どないせえっちゅうねん。




トラックバックせずに言及すれば「ステルス言及卑怯者」などと見下され、リンクを貼らずに言及すれば「リンク貼れ」。リンクを貼れば貼ったで「儀礼的無関心ってのがわかんねえのか」などと空気読めない人扱い。挙げ句の果てには「トラックバックをしない言及は陰口とみなします」ってなんじゃそりゃあああ。

どないせえっちゅうねん。






まったく、ブロガーってのは我が儘な人種だ。
世の中にケチつけてばかり。
僕はそんなの大嫌いだね。
はっきり言って、物凄く。

不平不満を言う前に、少し笑って働こう、ね。
それが僕がDOTA allstarsから学んだことだ。
馬鹿馬鹿言っても馬鹿は消えない。
ギスギスしたって仕方がない。
fuckin noobは禁ワードだ。

仲良くしよう。
手を取り合って歩いてゆこう。
ありがとう、って素直に言おうよ。
罵詈雑言からは何も生まれないのだ。








即ち、僕はブロガーに問いたい。
あなたのブログの「理想の読者像」ってのはどんな人なんだ?


どんな服を着て、どんな靴を履いて、どんな言葉で喋るんだ?
望むのはコメントか?トラックバックか?それともただのアクセスか?オフ会か?アクセス流しか?競泳水着か?ビジネスチャンスか?寄稿依頼か?あるいはmixi招待か?それともただのネゲットか?いったいなんだ!なにを求めているんだ!

それが、わからない。

かと思えばナヨナヨと女々しく馴れ合っては「有意義な意見交換が出来て嬉しく思います^^」ってなんだよコラ。馴れ合いなんていらねえんだよ。誹謗中傷がネットの華だろ。罵詈雑言の存在しないインターネットなんて火星人のいないロズウェルみたいなもんだろ。

まったくもって、わからない。




ブロガーにとって都合の良いコメントだけが良いコメント。
ブロガーにとって都合の良いトラックバックだけが良いトラックバック。
ブロガーにとって都合の良い言及だけが良い言及で、ブロガーにとって都合のよいリンクだけが良いリンク、じゃあ、ならば、では、だ。

ブロガーにとって都合の良い読者、ってのはどんなものなんだろうと想像していると、想像する前から1つの結論が導き出されていた。




即ち、グーグルアドセンスを毎日クリックしてくれる読者だけが良い読者で、楽天アフィリエイトで一億五千万円の指輪を買ってくれる読者だけが良い読者。アマゾンアソシエイトでコミックを買ってくれる読者はドリンクバーで朝の5時まで粘る客で、アマゾンアソシエイトでラップトップを10台まとめて買ってくれる読者だけが良い読者。

それ以外の奴はみんなアクセス乞食。
アクセスするだけで働かないアクセス乞食2.0、逆転の概念。
















よお!アクセス乞食ども!
おまえら全員消えちまえ。


俺が悲しむから駄目。





人参と万国旗



太陽と月の間にいる時間に我々は、理想と現実の違いを認知する。
ここでいうWEとはskyではなく私たち、即ちみんなだ。




ため息をつきながら歩き続ける幾らかの人は、理想と現実の違いというものこそが人間をがっかりさせて落ち込ませ、駆ける意欲を失わせるものだと考えているようだけれど、そうではない。人がそれを失うのは、決して現実に叩きのめされたからでも、理想までの道筋を見失ったからでも、他の適度なぬるま湯加減の既得REALに満足してしまったからでもないのである。

人が馳せるのは理想と現実が違うからであり、人が馳せるをやめるのは理想と現実の違いを失うが故なのだ。




人の想像力には限界があり、万物には限界がない。
鉄より硬い友情なんてないし、海より深い愛などない。
虹より長い夢なんてないし、石炭より燃える魂なんてない。
秋より肥ゆる力士なんていないし、空より高い鯉のぼりなど無い。

世界は巨大すぎるのだ。
はじめは誰もそれを知らない。




何も知らなかった頃は誰もが、理想と現実は違うものだと心の底から思っていたはずだ。

ヒーロー戦隊の主人公と、今手元にある現実は別物。
スーパーサイヤ人と、今手元にある現実は別物。
Jリーガーと、今手元にある現実は別物。

ところが、実際はそうじゃない。
理想と現実はほとんど同じ、それも99.9999エンドレス、極限の一だ。




同じようにお腹はすくし、同じように雨は降る。
同じように春が来て、同じように老いてゆく。
僕らは生まれた時からもう既に、99.9%、理想の未来を生きているのだ。

世界のことを知れば知るほど、理想と現実の差異は次から次へと埋まってゆく。
人は不和から逃れられない世界に平和は訪れない。銅から金は生まれない親は子になり子は親になる。空は飛べない海は涸れない止まない雨と水不足。肉と肉とはぶつかるけれど心と心はすれ違う。

理想は魔法の景色ではなくなり、ほんの少しの違う現実、香醋の一滴入ったラーメン程度のものだという事を誰もが知る知り知った時、99.9%の理想と現実のほぼ完全なる一致がエクスプローラーに座布団を手渡して、誰もがそこに腰掛け息を吐く。パーフェクと。




そうならないために。
もしも走り続けたいと思うのならば。

何も知ろうとしないことだ。
ずっと馬鹿でいればずっと生きていける。
バレない罪は良い罪で、完全犯罪は犯罪ではない。

けれども僕はそんなものいやだし、残念な事にもう既に知りすぎている。
余白はもう無く、ここはほとんど理想の現実。




じゃあ、再び駆け出すにはどうすればいいのか。
それはおそらく、今現在未設定未想像の理想というものを一つ一つ丁寧に作り上げていけばよいのだろうと思う。そうして、現実から理想をもう一度、出来る限り乖離させればよい。万国旗の端に手を掛けて胃の中にある人参を引っ張り出し、再び天に掲げるのだ。そうすればまた駆け出せる。








一つずつ、一つずつ。
理想の靴下の柄。
理想の味噌の色。
理想の風鈴の音。
理想の暗証番号。
理想の夕暮れ時。
理想の天気、理想の髪型、理想の季節。
理想の夢、理想の希望、理想の現実、理想の理想。


理想の人参、僕は人参が好きじゃない。


2005年11月24日木曜日

分別のつかない馬鹿なおこちゃま達はdel.icio.usを「デコ・ユーエス」とは読まないらしい。



僕は立派な大人だから、今まで通り「デコ・ユーエス」って読み続けるよ。

だって、lとかiとかって基本的にはノイズやん。
人生で得られるものなんてなにもないし、愛なんてどこにもないもん。


しなもんはそんなこといわない



頑張っているブロガーの心を折ってを叩きのめすにはどのようなフレーズが有効であるかを考えに考えていると1つの結論に辿り着いた。それが「○○はそんなこといわない」である。

僕がこれまでブログを書いてきた中で最も萎え折れたフィードバックというのが何を隠そう「○○はそんなこといわない」である。というか、その上位互換の「はんかくさんはそんな事言う人じゃありません」だ。

もう随分と前の事になるが、あの説教には心底萎えた。
僕がはんかくさんじゃなかったらいったい誰がはんかくさんなんだ。というか、じゃあ、そのはんかくさんってのはどんな事を言う人なんだよちょっと言ってみろオイオイ、オイ、オイオイと、筆舌に尽くしがたいやるせなさを感じた。己が偶像化し実像から乖離して一人でどこかへ歩いて旅立っては、でっかいかぶらを引き抜いては肩に担いで帰ってくるや否やその泥土付いたかぶらで殴りかかられた現場を目撃させられたショック、ショッキング、そんなものいらねえ。




しかも「○○はそんなこといわない」という台詞を吐けるという事は一応はシンパ、いや信者の類であるからして、通りすがりの扱き下ろしや、敵対者のへたれアタックなんかよりはブロガーに与えるダメージが大きい。こんな奴が毎日見てるのか、みたいな。

今日はちゃらちゃらしてへへへと笑いながら1アクセス一瞥しては通り過ぎていったお客さんが、いつかは「○○はそんなこといわない」などと曰うシンパ信者化してしまうのではないかという恐怖で縮こまり思うようにエントリーが書けなくなる人だっているに違いない。違いないというか、それはそれ。




「○○はそんなこといわない」の破壊力の神髄は、ブロガーが発言した"そんなこと"自体は否定されていないという点にある。それどころかおそらくは潜在的に肯定されている。

「そう、その通りだ。けれども○○はそんなこといわない」これは効く。
多分かなり効くだろう。ブロガーってのはどいつもこいつも俺が俺がのナルシストばかりだから、俺ジナリティというのにかなりの誇りを持っている。「みんなが思っている事を書いただけ」という体を装いながら「どうだ、言ってやった、俺にしか言えないぜ、これは」などとにやついているのがブロガーというものだ。

そこで「○○はそんなこといわない」だ。
それは、「あなたは間違っている!」なんかとは次元が違うのである。そんなことを言うのは他の人の役割、あなたはもっと別の事を言う人なの、目を覚まして!みたいな破壊力。

なにしろ反論のしようがない。
事実として言っているのに「いわない」だから返しようがない。究極のいちゃもん。




しかも「いえ、言います」と返した所で攻撃権は相手側に移るだけ。「not u」というあなたはあなたではない攻撃か、「いえ、○○はそんなこといわない」のオウム返しか。

どのみち真面目に付き合ってしまうと勝ち目がないのでおそらくは、物凄くやる気を失わせる事が出来る。ブロガー攻撃の最終兵器。最強の嫌がらせフレーズ。アイデンティティ崩壊ウェポン。やっちまいな。ブロガー殺しの決め台詞。


「しあわせ語りをしているしあわせなブログ」こそが痛々しいイタイ系ブログの頂点に立つジャンルであると思う理由。



「わたしは今しあわせなんです!」というオーラを出しまくっているブログは痛々しくて見ていられない。そう思っていた。今も主観的に言えばそう思っている。けれども、客観的に見ればそう思っている僕こそが痛々しいというだけの事なのかもしれないと思うに至って落ち込んだ。落ち込むな俺。挫けるな俺。ドントウォーリー。ウォーリーがいない。








例えば「昨日はセフレとファックして今日は朝から体を売って一睡もせずにホストクラブでしあわせ」というしあわせ語りや、「昨日は4時までFFX、起きてパチンコ2万5000の勝ち、気分最高ヘルスで抜いて、夜は大井で3万負けた。たったの5000円で朝から晩まで楽しめて物凄いしあわせだった」といったしあわせ語りは僕から見れば、とても痛々しく見える。

何故ならば、それらを「しあわせである」とは認識できないからだ。




即ち、僕が「しあわせ語りをしているブログ」を痛々しいイタイ系の頂点に立つジャンルであると思いこんでいたのはただ単に、僕の人生経験と想像力が貧弱で、世の中にはそんな「しあわせ」など存在していないと端っから思いこんでいるだけに過ぎないのである。

であるからして、「友達とお酒飲んだ!おいしかった!たのしかった!」といった類のしあわせアピールが成されているブログのエントリーを目にすると、いたたまれなくなり目を逸らし、見てはいけないものを見てしまったという気分に苛まれて深い哀れみと浅い同情とを抱いてしまうし、「ああ、この人は物凄く無理をしていて、本当は物凄く辛いのだろうな」と思ってしまうのである。

「同窓会でみんな大人になってて凄い楽しくて俺もがんばろうと思ったりして、友情確かめ合ってちょうしあわせ!」なんてエントリーを見るとそれこそアカンアカン、イタタタ・・・と呟いてしまうし、「夕食に鍋をつついてTV見ながら一家団欒ちょうしあわせ!」なんてエントリーを見るとそれこそ、この人は今人生の絶望のどん底のど真ん中にいるのだろう、という目で見てしまう。

「久しぶりの連休なんで旅行に行ってきました!しあわせでした!」というエントリーを読めば「いいから、いいから無理すんな。わかったからやめろって!」と心底心配になってしまうし、「あまいおやつ食べました!しあわせでした!」なんてのを読めば「やめよう、ね。わかったから。無理しちゃだめだよ。スイーツだけが人生じゃないぜ?ほんと、もっと楽しいことは他にもあるよ!」と心の中のコメント欄で誠心誠意アドバイスしてしまう。




言うまでもなく、それらはただ単に仮に僕がそれを行ったならば物凄い無理、物凄い辛いだけで、全然しあわせだとは感じられないというだけの話であり、即ち僕は極めて主観的で物凄く了見の狭いオレオレ読者なのだという事に気がついて少なからずのショックを受けた。

そんな僕にも「痛々しいとは思わないしあわせ語り」というものが存在している。
それは「ゲームした。たのしかった。」だ。




たとえば「3vs3で4連敗したのでsoloに逃げたのだけど3連敗してしまい憂鬱な気分で再び3vs3に戻ったら物凄いグッドゲームで快勝出来てしあわせでした!」なんてエントリーを目にすると「お前、超しあわせじゃん!よかったね、ほんとうによかったね!」と思わず涙うるうるさせちまう。

ただ、1つ文句をつけるならば、soloで3連敗した時点でUMS、それもDOTA allstarsに逃げていたら完璧なのだが、という正しく「僕がしあわせだと思える事は、他の人にとっても幸せなのだろうと想像出来る」を体現した感想を抱いてしまう。




逆に、即ち。
僕は所謂「イタイ系エントリー」を見ても「あー、あるある、あるよねー」みたいな非常に軽い気分で楽しく読めるし、「ないけど、それはわかるなー、わかるわかる」といったような「タンスの角で足の小指をぶつけたよ」とか、「眼鏡を額に置き忘れていたよ」といった程度の感想しか抱かず、全然痛々しいなとも思わないし、見てはいけないものを見てしまった、という気分にはならない。




結論から言うと「しあわせそうにしあわせ語りをしているブログ」ってのはやっぱりイタイ系の頂点に立つ痛々しくてみていらんないブログの象徴的存在であると今も思い抱いているのである。








こんなにも大勢の毎日アクセスしてくださる素晴らしい読者さんの皆様方や、素晴らしいコメントを毎回残してくれてくださるコメンテーターの方々、あるいはとっても暖かいブックマーカーの人々に囲まれて、ブロガー冥利に尽きる物凄い幸せの真っ直中にいる僕はとてもしあわせです超しあわせ。ブログ最高。超最高。


2005年11月23日水曜日

アップルのiMac G5なんていらない!



ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君なんていらない!


ブラザーのコンパクトレーザー複合機「DCP-7010」なんていらない!


Amazon.co.jpホーム&キッチンストア便利グッズなんていらない!


生クリームではちきれんそうなシュークリームなんていらない!


健全な肉体と健全な精神と健全なエントリーなんていらない!


エプソンダイレクトの「Endeavor NT340」なんていらない!


ブラザーのレーザープリンタ「HL-2040」なんていらない!


食材宅配オイシックスの野菜・卵セットなんていらない!


ウォークラフト3のインストールキーなんていらない!


行きたい場所に行けるくらいの健脚なんていらない!


何事にも動じないような強い心さなんていらない!


人生をやり直せるタイムマシンなんていらない!


夢や希望に満ちあふれた毎日なんていらない!


エイジスオブザイモータルなんていらない!


あったかく寝られる布団なんていらない!


頭痛の起きない脳みそなんていらない!


ジェレミーベルトーなんていらない!


アップルのiMac G5なんていらない!


Googleストラップなんていらない!


Amazonギフト券なんていらない!


はてな本なんて絶対いらない!


はてなの本なんていらない!


世界平和なんていらない!


優しさなんていらない!


幸せなんていらない!


愛なんていらない!


あなたが欲しい。


もしも一日が15分だったならば



「もしも一日が15分だったなら」という問いは、実際に一日が15分であった人間に対しては質問としての体を成せない。なぜならばそれはifではなくてrealであるからだ。








もしも一日が15分だったなら、僕は何を考えるのだろう。
もっと真剣に自分自身の考えている事について考えられるのかもしれない。

もしも一日が15分だったなら、僕は何を求めるのだろう。
もっと真剣に自分自身が欲している物を、欲することが出来るのかもしれない。

もしも一日が15分だったなら、僕は何を書けるのだろう。
もっと真剣に自分自身が書きたい事を、書き続けられるのかもしれない。

もしも一日が15分だったなら、僕は何を憎むのだろう。
もっと真剣に自分自身が憎んでいる人穴一つ、呪うことが出来るのかもしれない。




けれども現実はそうではない。
一日は24時間で、96個ぶんの毎日が、凄い速度で消えてゆく。一日三ヶ月。
僕は今日も三ヶ月、何も考えられず、何も欲せず、何も書けず、何も憎めず生きてきた。

24時間は長すぎて、200時間は短すぎる。
自分が脈打つテンポについていけない。

念じて頭痛を消そうとしている時だけかろうじて、己の鼓動と付き合える。
そうじゃない時僕の心臓ここにはなくて、どこかでくべられ煮られてる。
渋皮のついたまま、物凄い量の砂糖で。








一日が15分だった頃、僕は何をするのも真剣だった。
タンスの引き出しを引くのも、壺の中をのぞき込むのも、そして逃げ出すのも真剣だった。

どこに何が入っているかを体で覚えていて、1度も間違った事なんて無かった。
僕は人生に対して誠実だったし、とても真面目に生きていた。

そうやって何周も何周もしたのだけれど、僕にはその頃の記憶がない。
あの頃は生きるだけで精一杯だったのだと思う。




何一つうまく思い出せない。
多分幸せだった、のだと思うのだけれど。
決別を経て酷く間延びした人生の中で焦燥感を見失う。

終わってしまったものはもうどうしたって戻らないのだ。
さよならを言われてから一年が経った。
存在しない僕は今、何を考え何を言うのか。







一生0秒。
問答無用。


2005年11月22日火曜日

はてなブックマークにもはてなブックマーカーにもはてブコメンテーターにも罪は無い。全ての罪は近藤淳也にある

もしも僕は1つだけ問いたい。






はてなのトップページに、特定個人への誹謗中傷サイトや、犯罪被害者のプライベート、あるいは少年犯罪加害者の実名や顔写真というものへのリンクが貼られたら、はてなはどうすんだ?


当然「当事者間で解決しろ」って言うんだよな?
とうぜん、「ブックマークは自由だから」って言うんだよな?
いや、それはもう既に行われている事なんだから、この問いは不適切だよな。
















どうやら、僕が問題にしている事と他の人達が盛り上がっている事は表面的に少しだけ、あるいは根本的に全然違う問題のようだ。もちろん、その文脈上で一緒に読まれる事に関しては有り難いとは思いこそすれ迷惑だとは思わないのだけれど、ちょっと書きたい気分になったので少しだけ僭越ながら書かせていただこうと思うに至る。





自分は、コメントの善し悪し、ブックマークの善意と悪意なんてものには興味がない。そんな話はするだけ無駄だし、考えるだけ無駄なことだ。

どこにでもろくでもない奴ってのは一定の割合でいて、インターネットに限らず、あらゆる場所やものは人が増えれば俗悪化するのである。そして、我が国のインターネットはもはや未来永劫、"2ちゃんねる化というゴールが押し寄せてくること"から逃れる事は出来ないのである。(2ちゃんねる化から逃れられない、という意味ではない。)

また、はてなブックマークが道具として欠陥を抱えていると言うつもりも無い。
なにせ、あんなもの仕組み的に言えば既存のものを極東アジアのパクリ大国のプログラマーが島国バージョンにマイナー化しただけの劣悪なロシツキー即ち2番煎じであり、そんなことはどうでもいい話だ。








ユーザーには問題がない。
ツールにも問題はない。
では何が問題なのか。

それは、たった一つにして唯一それ。
株式会社はてなの運営姿勢、強いては思想そのものだ。

一言で言えば「道徳を果たさない」という戦略だ。
平易な言葉で言えば「やりたい事しかやらない」という無責任さだ。





はてなブックマークでは、どんなよくない事が起こりうるのか。
まあ、よくない事と言っても、それは僕が気に入らないって事でしかなく、万人がよくないと思うかどうかなんて知ったこっちゃないし、そこをやりあう気はまったく無い。


つまり、はてなブックマークで例えばどんな、よくない事が起こるのか。
それは言うまでもなく、2ちゃんねると同じ事が起こるのである。


それはもう生じているし、生じているのではなくシステム的に生産されているのである。URL必須の一行掲示板、そしてvoteによるトップページへの晒し上げシステム、お気に入りというイービル子分からしたイービル親分の追い掛けやすさというのは設計だけで言えば2ちゃんねるよりもさらに悪意に化けるものだ。





そして、僕の頭の中にある起こりうる具体例は次のようなものだ。
例えば、容姿端麗ではない顔写真をウェブサイトにアップロードしていた、というだけで暴徒が押し寄せてネタ化され、1人の人間の人生存在そのものがはてなのトップページに晒されて娯楽として消費されるという事態が生じた時にあなた方は何を考えて何を言うつもりなのだ。

覆水盆に返らぬ場所で、その不可逆な嘲笑、陰口、個人叩き、一方的暴力、はてブスクラム、ブックマークrapeの生産と拡散を手助けしながら「当事者間で解決しろ」「ブックマークは自由」と曰う奴らに激昂を感じずにいられる程に僕は人間が出来ていない。


それら、娯楽として消費される人生が生じる事に対して「自己責任だろ」と自己責任論を唱える人々に対しては、一定の譲歩をする。例えばきもいおたくをきもいと書いた人の全てのプライバシーが暴力に晒された事件などは、自己責任という側面がある。




けれども、世の中にはそのような事態ばかりではない。
例えば、スターウォーズ少年は世界中の笑いものとされたわけだが、彼はそれを自分でインターネット上にアップロードしたのではない。つまり、第三者による悪意あるコンテンツ作成が簡単に出来てしまうのがインターネットなのである。

また、対象者が二十歳20の大人であれば「自己責任だ」という意見は一定の説得力を持つが、それが中学生であればそのような物言いには説得力が無く、小学生ともなればそのような自己責任論はただの暴力でしかない。

そのような事態が生じたときに「当事者間での解決」を求めるという対応が適切で筋の通ったものであると考える人間がいたらそれははてなか、真性の馬鹿かだ。





そして、これは当事者の辛さという以外の問題を抱えている。
それは、場としての健全さだ。

2ちゃんねる化とは何か。
それは「全ての場は、人が増えると俗悪化リスクが高まる」という事である。

はてなブックマークという場には、今のところたかだか2000人しかいないのである。
たったの2000人である。

その中ではてなブックマーカーと呼ぶ事の出来る人は200人といった所だろう。
たったの200人なのだ。

さらにトラブルを生じさせる人となると、その十分の一、20人くらいのものだ。
たったの20人なのだ。


それはあまりの少人数極めて小さな村の出来事であるからして、大きな問題は起こっていないと考える人にとっては、大きな問題は起こっていないと言う事が出来るだろう。けれども、母数が増えればもっと凄い人は出てくる。



ご存じの通りはてなブックマークは多重アカウントが可能だ。
しかも「当事者間での解決を求める」という運営姿勢を取っている。
おまけに、特定URLをブックマーク禁止に出来るような設計も存在しない。
即ち、もっと凄い人、凄い悪意を持った人、というのが出現したらおしまいなのだ。



例えば裸の駄々っ子なんかは掛け値無しで100時間以上かけたし、拝啓、Mr.Nituiteも数十時間をかけて集めて全てのURLに対してトラックバックを撃った。仮に同じくらいの異質な生真面目さを持った人間が真の悪意を有していたとすれば、はてなのトップページという巨大なアクセスを有するウェブサイトに連日連夜誹謗中傷サイトを晒し上げ続ける、という作業は簡単に成し遂げられるものである。


言うまでもなく、そういう頭のおかしな狂った人間に対して自治だとか当事者間の話あいだとか、心がけをどうしろだとか、マナーだモラルだ礼だ心だ気配りだなんてのは、釈迦に鉄砲ジャギに説法隣の客は小龍包だ。


そして、もう1つ。
はてなブックマークはもう随分と前から2ちゃんねる化してる。

アジアの安全な食べ物 中国の7色に輝く河川と食品のはてなブックマーク を見てみると良い。これが2ちゃんねるでなければ一体何なのだ。

馬鹿向けの娯楽を悪意有る馬鹿が作り、それを馬鹿が消費する。馬鹿による馬鹿の為の馬鹿の馬鹿だ。あまりにもくだらなすぎて、真面目に反論する奴なんて正味の話どこにもいない。皆が皆して「馬鹿の事だから」と誰もが我関せずで無視をする日本の二分化だ。

その中で、はてなという巨大なウェブサイトのトップのページにこのいようなありえない人種差別コンテンツへのリンクが堂々と貼られるという事態をよくない事であると認識するのは人として当然のことだ。そう認識出来ない奴はNEET引き篭もりネット癈人その類だ。ネット麻痺という大病により正常な神経を失っているのである。特定人種への酷い差別タグ、酷い差別コメントが散見されるを完全に放置は異常な事だ。

尋常成らざる酷いタグや酷いコメントを不可視にするは前もって用意しておくが当然の勤めだ。





さらに、はてなブックマークの真の被害者というものは、インターネットに接続していてもはてなブックマークが何であるのかを知ることは無い。はてなブックマークで嗤われていたり馬鹿にされていたとして、それに気がつくのは普通ではない人達だけである。普通の人即ち一般人は、アクセス解析などというものは有していないのだ。

そのような人々にとってのはてなブックマークとは、内容如何に関わらず完全なる陰口の場所、不可視の広場なのである。不可視であるからして、どのような酷い暴虐の行使が成されても、当事者がそれに気がつかなければその問題は解決する事はない。もちろん、気がついたとて当事者間で解決など出来るはずもないのだが、その前提が成り立たないのだ。

「気がつかないならいいではないか」というのは知らぬが仏という観点から見れば確かにそうであるのだが、遅れて気がつき不満を抱いた場合は場合はどうすればよいのか、という事を考えねばならない。理不尽な暴力を当事者間で解決?馬鹿げてる。


解法は1つ。
管理だ。




別に全てを隠蔽しろとは言わない。
それは、言う奴の方が"どちらかといえば"間違っている。
自由であることに対しては決定的な敵愾心を抱いてはいない。
ただ、巨大アクセスを持つウェブサイトからのリンクくらいは切れ。然り。


そして、この事がイコールはてなisイービルであるのには理由がある。


はてなには事実、検問や削除と言った超権力の行使は存在するのだ。
そして、それを度々行使し続けてきたという歴史があるのだ。

いわゆる悪徳企業からの抗議ではてなダイアリーのエントリーを削除するという行為を行ったり、言論の流通を圧殺する為にキーワードを何度も削除したりといった事を行ってきたのが株式会社はてなであり近藤淳也なのだ。

つまりはてなの放治とは真の放置ではなく、金と権力を有しているものには媚びへつらって靡き、「当事者間で解決しろ」などとは決して言わず、対して力も金も言論能力も持たない弱者に対してはお前らは座してoilを被って死ねとばかりに「ブックマークだから自由」「当事者間で解決しろ」と曰い放つ。それどころか、窓口すらない不条理悪徳企業そのものそれがはてなの正体である。




即ち、はてなは既に、既存のマスメディアと同じ病理の中にあるのだ。
強者に丁寧にたなびいて、弱者を蹂躙しながら暴利を貪る。
その体質の真っ直中に遠い昔から在るのである。

既存のマスコミはスポンサー企業や抗議圧力を有している団体への批判報道は行わず、弱者のプライバシーは過熱報道で破壊する。はてなはスポンサー企業や抗議圧力を有している団体の申し入れに対しては「当事者間で解決」などとは決して言わずに問答無用のトップダウンで検閲を行い、力も金も無い奴には屁理屈並べて死ねと言う。

その、パワーダブルスタンダードこそがはてなの邪悪さの根幹であり、道徳の無さなのだ。




誰かに迷惑がかかろうが知らず関せずで我が道を行くという、モラルハザードであるはてなのそれは、ちょうど柳沢ツヨシが誰かに迷惑がかかろうが知らず関せずで我が道を行き必死に小銭を掻き集めようと画策しているのとまったく同じなのである。

このような企業に伴う責任を有さずにいられるのは、インターネットという特異な場所の犯罪的な行き過ぎた自由故であり、インターネットはウェブサービスを作っている奴らからしてダブルスタンダード暴徒なのだ。






もう1つ、はてなブックマーカーが思想として選択すべきものの事柄を書く。


はてなブックマークのコメント機能を無くせ、などといった論を見てわたくしは天を仰いだ。ふざけるな。それは暴徒に負けてルールを変えろ、暴徒に敗れてシステムを変更しろという暴力を背景とした圧力の論であり、人類の敗北そのものであり、努力の放棄であり、生存停止のススメ全人類に対して自死しろと言っているのと同じ事だ。

それは断じて成らざる究極の間違いであり、決して思想として選択すべきではないものなのである。つまり、2ちゃんねる化は不可避であるが、それを管理によって一定レベルに押さえ込む事は可能なのであるからして、その努力を行えあるいは怠るなという考え方こそが正しいのである。

悪者の為のルールを作り、悪者のための設計をし、悪者に併合する形でいいもんに対してそのルールと設計を押し付け、不便を強いるとはまったくもっての言語道断、誤りである。

悪者、というのはたかだか1%あるいはその前後に過ぎない。
その程度の輩の為に何かを放棄しろと残りの99%に説くは愚行の極みである。

それを主するという事は「全てが2ちゃんねるになる」という事態を望んでいるのと同じおことであり、アンチ2ちゃんねる的なものという僕の立ち位置からすれば絶対に許容できない思考の置き場所である。必要なのは暴徒の排除もしくは隔離隠蔽である。










これは異常なことなのである。削除システムを用意せずにリリースし、それを自慢気に語れるなどは、真性あたまがおかしいオレイズムだ。即ちはてなには常識がない。常識がないのは悪い事ではないが、常識の無さにより特定の人を虐げる道具を平然と運営するには怒るに至る。




例えば少年犯罪の犯罪者の実名や顔写真といったものがはてなのトップページからリンクされるという事態は最初から起こりえたし、今も起こりえるし、母数が増えて大衆化が進めば間違いなく生じる。(そうする事が正義だと思っている奴らが大勢いるからだ)



同時に、特定個人への中傷ページをはてなのトップページ入りさせるという事も簡単にできる。(アカウントを50個取得して50ブックマークでトップページ入りさせる、なんてのは僕に言わせれば極めて簡単片手間で出来る事だ)

そのような事態が今のところ生じていないのは、はてなブックマークの母数が2000人以下であるという極限のマイナーツール状態だからにすぎない。


人間が増えればどこにでも、おかしい奴というのは紛れ込んでくるのである。
それを「ブックマークだから」と言って捨ててしまえる神経は異常そのものである。


はてなは当然にしてそのような事態、即ち特定個人のプライバシーに関するページや誹謗中傷のページがはてなのトップページに晒し上げられるという事態になっても「ブックマークだから自由です」とコメントするのだろう。というより、既にそれをやっている。



また二言目には「当事者間で解決しろ」と言うのだろう。
当事者のいない一方的rapeが当事者間で解決されるわけがない。


言うまでもなく一度インターネットに広まったものを回収することは不可能だ。
ワンピープルワンライフはそこで終わるのだ。
その暴虐が不愉快でならない。




とあるダイアリーのコメント欄で延々暴れていたような人間がそれを2ちゃんねるのような特定ウェブサイトに書き込んで、毎日30個のアカウントを作成して連日トップページ入りさせたらどうなるのか。

たかがコメント欄で実名を出されたくらいでぶち切れるような小者ブロガーのあらいざらいをどこかに書いて、毎日延々30個のアカウントを作成して連日トップページ入りさせたらどうなるのか。

そのような「真の悪意を持つ人間」あるいは「悪意ある振る舞いを平気で行える人間」に対して、モラルやマナーといったものは一切通用しないのである。それら「2ちゃんねる化」即ち「不健全化」への対抗手段は唯一、権力による絶対統治だけなのだ。24時間人を張り付けて「健全さを維持する努力」というものを行えばそれだけで解決する話なのである。そのような準備心構えが存在せぬは、まったくもって異常な事だ。





結局の所僕は、誰かが人生を傷つけられてインターネット自体をトラウマ化させるなんて光景はまっぴらごめんであるし、500時間1000時間かけて作り上げたウェブサイトの更新意欲を失う、あるいは閉鎖する、という事を行うような道具運営が成されていれば全力で否定するだろう。

そしてはてなブックマークは事実、そうであるのだ。







そして最後にもう一度だけ僕はきっとそれを書くだろう。
事実、アイムワンクエッション。
私は1つの問いである。




はてなのトップページに、特定個人への誹謗中傷サイトや、犯罪被害者のプライベート、あるいは少年犯罪加害者の実名や顔写真というものへのリンクが貼られたら、はてなはどうすんだ?

当然「当事者間で解決しろ」って言うんだよな?
とうぜん、「ブックマークは自由だから」って言うんだよな?
いや、それはもう既に行われている事なんだから、この問いは不適切だよな。

韓国のスタークラフトのプロゲームの大会の決勝戦のTV中継の動画



韓国のプロゲームのケーブルTV中継動画があったので、興味のある人はご覧になっていただければどんな感じか感覚的に少しは掴めると思います。





OSL(Ongamenet Star Legue)という大会の、第六次大会決勝戦の中継動画です。


wikipedia英語版StarCraftのページによると、第17シーズンにあたるっぽいのだけれど、そのあたりよくわかりません。年次的には6年目。一定の大会形式が定まってからは5年目っぽい気がしますが中国語も韓国語も思いっきり読めないので、そのあたりはよくわかりません。優勝賞金も不明。本気で調べたけど本気でわかりませんでした。




K-1で言うと決勝戦でピーターアーツがアンディフグに勝ったのが六年目。
ファイナルファンタジー8よりも前に発売されたゲームの大会です。
そのあたりを踏まえてご覧いただければと思います。








一応、素人解説。


イム・ヨファン(boxer)は人気実力共にStarCraftを代表するプロゲーマーで、7800万円の3年契約でSKテレコムに引き抜かれた世界最強のテランという種族の使い手。通称テランの皇帝www




Known to Koreans as the "Terran Emperor", Boxer is the most popular Starcraft player in Korea due to his highly creative play. He is also probably the most successful (with the possible exception of Nada),



wikipediaより紹介文。韓国人o2、って感じ。"Terran Emperor"www





なんと、あまりの人気にプロゲーマー役でスクリーンデビューまで果たしたというからその辺り、一応は驚きどころ。高橋名人vs毛利名人の映画を連想引きするよりは、窪塚洋介主演映画「凶気の桜」の須藤元気が我が国ではそれに近いか。


で、このテランの皇帝wwwイム・ヨファン(boxer)は2001年のOSLで2度優勝し、Age of Empire部門でhalen(日本人)が優勝した2002年のWCGという大会でもStarCraft部門で優勝している。つまり、その頃からトップ中のトップで、トレーニングは1日10時間だとか。


韓国に150人以上いるプロゲーマーの頂点に立つ男と見てまず間違いは無い模様。




そんな名実ともに世界最強であり、「彼はプロゲーマーではなくてスターだ」とまで言われて完全にアイドル化しているイム・ヨファンだけれど、2001年にOSLを2度制覇してからは、4度の準優勝とタイトルからは完全に見放されてしまっている感じ。


そのイム・ヨファン(boxer)が決勝戦に進出したってんだから盛り上がらないはずがない、といった感じの試合中継動画です。




相手は思いっきり格下のanyTime(といっても直近のランキングでは25位近辺。皇帝は5位とかその辺)。


3本先取の決勝戦でいきなり超格下のanyTimeが2本先取でテランの皇帝絶体絶命。そこから2本を取り返して2-2のイーブンに。そして最後の1本、という試合のケーブルTV中継動画です。





4試合目。イム・ヨファンが2-2のイーブンに持ち込む。90MB。


5試合目。決勝戦最終試合。180MB


雰囲気だけ見たい人は90MBの4試合目だけ見れば大体感じは掴めると思います。画面右の眼鏡をかけてない方がイム・ヨファン。眼鏡がanyTime。


ゲームプレイ的にも物凄いことをやっているのだけれど、リアルタイムストラテジーゲームのプレイ経験が無い方にはちょっとわからないかもしれない。皇帝のbikeの地雷設置による道中の支配と、tankの砲撃モードを生かした攻守とそれに対応するanytimeの地味な差し引きが見所。


2005年11月20日日曜日

東京ブロガー



誰1人として俺が真性引き篭もりhankakueisuuだって事に気がついていないのには笑った。


2005年11月19日土曜日

タイムリミット



3つのエントリーをハシゴして書き進めていたら一つも纏まらず、自らに対する猜疑心だけが脳の上っかわをドタバタと下品に書け鳴らし続けるに至ってしまい、朝が来た。

序文の締めに「朝が来た」というフレーズを使うのはもう何度目かの出来事で、もうこのような言葉の流れを使うのは例えそれが事実であったとしてもやめにしようとは思っているのだが、代替可能なフレーズとして僕の頭に浮かんだものは「昼が来た」と「夜が来た」の2つだけであり、その2つを書き入れる為にはあと6時間、あるいは12時間の間をテキストエディタの前で右往左往しながら過ごさねばならない。

残念な事に僕の日常は多忙で満ちており、そのようなくだらない事の為に一日を捧げる事など出来ないが故に、やむなく朝が来た。来てしまったのだ。




朝が来た、といっても何一つ変わるものはない。同じように寒く、同じように独りで、同じように物事の全てを理解して完全に解決しようとしては失敗に終わる。昨日とまったくの同じである。

しかしながら、僕はそうして、何も変わらないではないかと思いながら、いくつものタイムリミットを踏み越えてしまったのだろうとも思う。けれども踏み越えたのがいつだったかなんて決して知る事は出来ないし、何のタイムリミットであったかという事もわかりやしない。認知している明らかな踏み越えたそれはといえば、この世に生を受けたという所まで戻らねばならない。

つまり、自分自身の人生というものに対する理解は、どうしようもなく漠然としたものであり、弱かったから、愚かだったから、私であったから、といった類の具体的ではない話ばかりだ。

それらは確かに当たってはいるのだけれど、強く狡猾になり、また自分自身を維持する事を諦めて他の何者かに成り変わる、という開法は選択肢たり得ない。座してブログを書く夜明け。僕はどうなっちゃうのかな、グッドモーニング。


2005年11月18日金曜日

ブログで食べていくという事。



さきっちょやはあちゅうの人や、実録鬼嫁日記の人、あるいはガ島通信の人が「ブログが無ければ今の人生は無かった」と言うとそれは一定の華やかしさというものが感じられるファンタジックな言葉として聞けるのだけれど、同じ台詞を僕が言うとただ痛々しいだけである。








ブログブームも一巡し、ブログというものが色々な形で様々な方向へと滲透し行く中で、日本でもブログで食べて行ける時代が来た、などという声をちらほらと聞くようになった。けれども、食べて行けるという事がそんなにも大それたものなのかと疑問に思わずにはいられない。

現代の日本において食べていくという事はもはや当たり前の事となってしまっており、ブログで食べていける奴は別に他の事でも間違いなく食べていけるだろう。我が国において餓死者などというものはもはや存在しない。即ち、命としての食は息絶えたのだ。

つまり、ブログという道具がもし仮に素晴らしさというものを有しているとすれば、それは食べていけるという事ではなく、生きていけるというそのものの部分であると僕は考えている。

おそらくこの国のインターネットにはもう随分と前からブログというものだけを人生の拠り所にして生きている人がたくさん存在していて、それは食べていけている人なんかとは比べものにならないくらい大勢いるだろうし、それは「食べていける」なんてのよりもずっと大切な事なんじゃないか、と思ったりもするのである。








僕はブログで生きてゆく。
他の何をも縋らずに。


2005年11月17日木曜日

生き腐り



たかが結婚したくらいでヘリコプターが飛んでくれるような人も世の中にはいるが、たとえば僕が死んだとしても蠅の一匹すら飛んではくれぬのではなかろうかと不安になり、飛ぶ蠅を割り箸で摘んでは「おい」「おい」と片っ端から声を掛けてみたものの、全て無視された。蠅は蠅で忙しく、僕のような人間に構っていられるような暇は無いらしい。曰く腐った人間だけがよい人間だよ、と吐き捨てるように飛び去られたので追い掛けながら「性根も脳髄も腐っている、腐りきっているよ、だから。」と懇願に次ぐ懇願を叫び続けて走ってみたが、やはり僕では駄目らしい。

怨念渦巻く古戦場を真夜中に1人で歩き、怨霊という怨霊に取り憑かれれば、少しは上手い具合に落ち着くのではないかと思うが残念ながら人は死ねばそれまでであり、怨霊などいやしない。そんなものいなくたって、夜が来る度に怯えて小さく丸くなり、朝が来るまで震えている。

けれどもそれは夜の暗さに怯えているのではなく、無論静けさや寒さに怯えているのでもなく、ただ朝が来るのが恐ろしくて、恐ろしくて、それが耐えられないのである。一日分年老いて、一日分馬鹿になり、一日分消えてゆく。

忘れたいことが多すぎて、何を忘れたかったのかすら覚えていられない。ただ何かを思い出す度に、悲鳴と嗚咽が渦巻いて、自分自身が何を頼りに生きているのかを忘れてしまいそうになる。

よくないことばかり思い出してしまう自分が悪いのか、よくない思い出ばかりを作り上げてしまった自分が悪いのか、あるいは自分が悪いのかが解らずに、振り上げた拳を見失う。何を憎めばいいのかがわからない。何を愛し何を排ずべきかというのは、もう随分と前からわかりきっているのだけれど。

例えばこうなれば楽しいだろうな、という事態を何か一つでも胸に抱ければそれだけで生きていけるのではないかと、今更な夢を夢見て賢明に365通りの日常というものを想像してみても全ては恐怖。脳裏が赤く腫れ上がる。

この先ずっと真っ暗闇になってしまうくらいにまぶしい光で全てを見失いたい。
あいにくここには明かりなどなく朝日が差して、一夜が失われた。


ムカつくトラックバックが来た。



どれくらいムカついた、というかどれくらい激昂したかというとブログごと削除してやろうかと思ったくらい腹が立った。というかトラックバックは削除しません的俺ルールに基づいてブログをやっている身であるからして、リアルでやりそうになったがぎりぎりのところで踏み止まった。やっと精神的には多少落ち着いてきた。というかそれどころじゃなかったというのもあるのだけれどとにかく腹が立った。

何が気に入らない、というか腹が立ったかというとというか生真面目に書こうとすればまた脳みそがちぎれそうな感じになって文章が書けずまたさらに気分だけが害されてゆく。即ち、何故ムカついたかというとそれが検索エンジン経由の検索トラックバックだとか、言及リンク無しのトラックバックだとか、そういうことではなく、トラックバック元のブログが韓国叩きで生計を立てているというイデオロギー的に僕が最も忌み嫌う類のブログであり、そのようなブログの宣伝行為に自分のウェブサイトが利用されているという事は今すぐに滅多刺しにしてやりたいという類の怒りを禁じ得ない。というか本当に八つ裂きにしてやりたい。皆殺しにしてやりたい。地球を爆発させるスイッチというものがもしも仮に存在しているならば迷わず押す。たとえそれがエベレストの山頂にあろうとも押しに行く。

トラックバックという極度に機械化かつ大衆化された自動リンク挿入システムの一番の弊害はおそらく「話の通じない人からトラックバックが来る」とういものだろう。自分自身どちらかというと話の通じない側にいるからして、余計にそう思う。あ、これは別の話か。




そういや、「○○は駄目です」という記事を物凄く真剣に書いた所、Googleアドセンスによってこともあろうかその「○○の宣伝」が挿入された事に腹を立ててGoogleアドセンスを削除した、という話をどこかで読んだことがある。

それはいくらなんでも過敏すぎるだろう、とその時は思ったのだけれど、今ならば少しくらいは理解が出来るような気がする。その程度の実入りだった、という事なんだろうが。




どうでもいいのだけれど、未だに発作的にやばいくらいに腹が立つので、しばらくの間に跡形もなくブログ削除してどっか行ったりしていたらそれは「ああ激昂したんだな」くらいの話って事で。というか、都合良く収まっていたのにまたむかついてきた。

こっちはゲームもせず、食うもんもろくに食わず、飲むものもろくに飲まず、満足に手洗いにも立てず朝から晩までエントリーの散らばった骨格、フレーズ、キーワード、というものを必死に寄せ集め続けてなんとかして1エントリーをこしらえようとそればかり考えて一年中過ごし、言うならば大げさでも何でもなく人生の全てを注ぎ込んでおかげでアホほど金も時間も浪費してインストールキーも飲み込んで書きたいことばかりが増えていく中で収拾がつかず、ろくに一つも書き上げられずに何一つ成し遂げられない、それどころかブログのエントリーの1つを書き上げる能力すら失われ、さらに日々失われ続けてゆく自分自身というものに苛立ちばかりが増しては「元々そんなものは無かったのだ」などと逆方向に自分自身を慰めて見事逆効果あばら骨が全開になって心臓がおっぱいミサイルのように飛んで行ってしまいそうなくらいの虚無感を感じまくっている間中もずっと、頭の中ではブログの切れ端、あるいはエントリーの原型が「俺を書け」「俺を書け」とあたかもオレオレ詐欺の実行犯のように自己主張を繰り返しては修行中のラマ僧の鳴り止まぬ読教のように、ブログのエントリーになる余地の無いくだらなくて取るに足らないフレーズやら感情やらを脳髄に突き付けてくる。当然にして僕は浮き足だって「ああ、ブログを書かねば」「ああ、ブログを書かねば」と、もはやそれ以外の一切の自分自身の人生における選択、あるいは決断というものを下す能力を失ってしまっており、ただ阿片の中毒に骨抜きにされた眠れぬ獅子言い換えれば不眠症の巨大な猫のようになった自分自身を眺めてはまた「ブログを書かねば」としか思えないという破滅。目が覚めるとまず一番に本日のエントリーというものをまだ書き上げられていないという事実に気が重くなり、投稿ボタンを押した瞬間からは明日のエントリーというものがまだ原型すら成していないという事実に滅びそうになる。滅びろ、いっそ滅びろと思ってみてもこしゃくなことに一向に、滅びる気配というものが無い。ああ、ムカつく。結局の所激昂したからという理由付けを行ってブログなんて捨てちまえばよかったのではないかと思うくらいにムカつく。おそらく怒り方というものが間違っている。おそらくは少し疲れているのだと思うが、眠ればどうにかなる、あるいは休めばどうにかなるといった類の疲れではなく、書けばどうにかなる、としか思えない類の疲れであるからして書くしかないのだけれど、「書けばどうにかなるだろう」という予測自体がまったくもって間違っており、書いたところでどうにもならないという事はこの一年間が証明しているではないか。ゲームをプレイして駄目なやつというのはゲームをやめたところで他の事をやるだけであり、その本質的な駄目さ、即ち救いようの無さというものはまったく変化していない。つまりは魂が汚れているのだ、魂と書くと宗教じみていてキモく聞こえるから書き換えると、性根が腐っているのだ、そう。性根が腐っているのだ。根腐り。根腐り。今の自分に必要なものというのがもしも仮にあるとすればそれは消毒だ。ホルマリンの中にでもたたき込んでしまうべきなのだ、全てを。ホルマリンという薬剤がどのような効果を持つものであるかなどまったく知らないが、消毒用アルコールなどよりは強力だろう。強力であればよい。即ち何か大それた強さによって全てを蒸散させてしまえばよいのだ。思慮とか、配慮とか、気遣いとか、気配りとか、優しさとか、怒りとか、希望とか絶望とか己の人生これまで生きた軌跡の全てとか。そうして馬鹿になってしまえばよい。ほんまもんの馬鹿にさえなってしまえばおそらくは、ブログなんて書かなくてもよくなるのだ。だからといって、ブログを書いている人間が馬鹿ではないかというとそうではない。馬鹿にも色々あるのだ。よくわからないがとにかくムカつく腹が立つ激昂。いったいなにに?ってそれは最初に書いただろ。
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というかマジでムカつく。朝まで腹が立つ腹が立つ収まらない収まらないって書き続けられそうな位にムカつく。いい加減精神衛生上よくないと思うのでブログのエントリーでも書くか、という思考順序からして間違っている。それではおそらくではあるが余計に腹が立つだけだ。何故ならば自身が労力あるいは人生というものを注ぎ込んでいるからこそ、それが糞野郎に商業利用、しかも、という形でされた事に腹が立つのであり、「俺はブログなんてどうでもいいよ」という斜に構えた態度で適当にブログをやっておればおそらくは、こんなには腹が立たなかったはずなのだ。つまり正面から全力でブログというものを書いているからしてこんなにも腹が立つのだ。畜生。なんでこのように賢明に書き続けてきたものを糞トラックバックで汚されねばならんのだ。まったくもって忌々しいにも程がある。死ね。


2005年11月16日水曜日

真性引き篭もり hack



仮に最も適切な当ブログの読み方というものが存在するとすれば、それは表題だけを読んで中身は読まないという形だろう。当ブログのエントリーは全てタイトルの一行で終わっている話をぐだぐだとやっているだけであり、まったくもって読むだけ無駄なのである。といっても真性引き篭もりがとりたててくだらないブログだから読むだけ無駄であるという事ではなく、世にあるブログを読むなどという行為は全て無駄であり、その末席を陵辱しまくっているというだけの話である。




そんなわけで、何が言いたいかというと、
「伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシだ。」
という当ブログのエントリーのはてなブックマークのブックマークタイトルが、
「「伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシ」なのか?」
に書き換えられているのは物凄く遺憾であるという事を述べたいのである。




「伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシだ。」
というのは物凄く僕の中では純度の高い結論であり、句点まで打っているからして、もう完全にタイトル一行で話の全ては完結しているのである。

それを、"「伝えたいことが無いのならばブログの更新なんてしない方がマシ」なのか?"なんて書き換えられたら、まったく別の話になってしまう。たまったもんじゃあない。

そんな疑問符まったく無い。句点まで打ってるのだ。物凄く話はそこで終わっているのである。これはもう、白を黒と黒を白とされたくらいの陵辱された感である。気持ち悪くて気持ち悪くて超絶に物凄く不愉快。

だいたいからして、この理不尽なタイトル書き換えさえなければ700ブックマークくらいは優に超えていた事が確実視されている事実だったのに、この書き換えのせいで30ブックマーク止まりで打ち止めになってしまっていてものすごく悲しい。謝罪と賠償とブックマークを求めたい。




結局の所何が言いたかったかと言うと、ブロックブログはエントリー毎のページタイトルが「真性引き篭もり/entry」という形で統一されてしまうが為に、はてなブックマーカーの人は毎回毎回手作業でブックマークタイトルを入力しなきゃならないようなお手間をかけさせてしまってごめんね。あと、毎回々々手作業でブックマークタイトルつけてくれている人は本当にありがとう。じゃ、またね!バイバイ。


2005年11月15日火曜日

実名などというものは何の抑止力にもならないし、それがハンドルネームともなれば無論のことである。




はてなブックマークにおけるコメント欄が2ちゃんねると違う点があるとすればそれがブログと紐付けられているかどうかの一点。ブログと紐付けられていればそれは純粋な匿名とはいえず何らかの立ち位置が示された個が識別可能。コテハンといいうるものがあるかどうかが重要。



いったいどこをどのように考えればそのようなお話しに辿り着けるのかがまったくもって理解できない。さすがは引き篭もりなだけあって、糞ブログで毒電波垂れ流すのだけは上手だな。っていうかお前それしか脳が無いだろ。







おおよそ、匿名の2ちゃんねるでは治安は保たれず、コテハンのはてなブックマークではあ治安を保つことは可能、という主張が成されているわけだけれどまったくもって馬鹿げているとしか言いようがない。被害者側が加害者の人格あるいはハンドルネームを知っているというだけで全ての暴力が止むというユートピアな思想にはまったくもって驚かされる。


仮にそのような世界が現実のものとしてあれば、この世の中の存在する犯罪行為や嫌がらせの大半は存在しないだろう。たかが「人物が特定される」という事で暴力の抑止となるならばドメスティックバイオレンスなどという犯罪は一切おこらないだろうし、ストーカーという行為の大半は存在しないという事になる。無論のこといじめなどというものも存在しないだろうし、いじめた人間のフルネームをGoogleで検索してその人物の大学学部や勤め先を知っている人間、なんてものは存在しえないだろう。


即ち、ありとあらゆる諸問題への取り得る選択肢は唯一、超権力による統治のみである。他の一切、あるいは合切といったものは何の効果も無い。





一つ進んで結論から言ってしまうと、いざこざの正体は全てパワーハラスメントである。


その場において、「どちらが正しいか」だとか「正当性があるか」などといったくだらない要素はまったくもって関係が無い。つまり、強きものは弱きものを娯楽として消費し、弱きものはその人生を強きものの娯楽として消費される事を余儀なくされるというのがこの世の中のあらゆる場所に横たわる現実である。


そして、2ちゃんねるで殺害予告をされた小学校の学徒が2ちゃんねるを知らないことからわかるように、2ちゃんねるにより迷惑を被る真の被害者と呼べる層は真の意味で2ちゃんねるとは何であるかを知らないのと同様に、はてなブックマークにより真の被害者と呼ぶことの出来る人間あるは層が生まれているとすれば(いや事実生まれているのであるが)、彼らははてなブックマークとは何であるかを知らないだろう。





つまり、まったくの弱者というものは、自らに拳を振り上げているものが何であるかを理解するだけの能力あるいは余裕というものを持ち合わせていないのである。それが匿名だろうと実名だろうとそんなものはまったく関係ないし、悪意のある言いがかりだろうと、善意ある嘲笑だろうと他の何であろうとそんなことはどうでもいいのだ。


言うまでもなくそのような人々ははてなブックマークに不条理かつ不愉快なコメントを発見したとしても、それを不条理であると指摘し弁舌反論を行う能力を持ち合わせていない。また、どこかに駆け込み助けを求める能力を持ち合わせていない。そもそも問い合わせ窓口も規約も無い無法地帯だ。


即ち、声なき弱者の声を聞く方法は無い。
それらに対する唯一の対処こそが、絶対なる統治である。





そして、なによりも忘れてはならないのは、インターネットの企業においては「儲ける為には統治を放棄する」というのが最も有効な手だてであるという事だ。即ち、はてなに道徳が無いのは「はてなに道徳がないから」ではなく、それを戦略として選択しているに過ぎない。


例えば2ちゃんねるが、あるいは一部アップローダーの管理者が、winnyの開設サイトの運営者が、違法アダルトサイトの運営者が、道徳の無さというものを戦略として選択肢し、暴利を貪っているのと同じように、はてなはそれを戦略として選択し、持ちうる資源の全てを特定箇所に集中することで成長しているのであり、仮に礼による統治というものがこの世界に実在するとしても、そんな高コストを費やす余裕はない。そもそもそのようなものは実在しない。


つまり、これは場としてのはてなブックマークが放置という戦略を象徴する場所であり、そのような場所にはそのような行いが生まれるのは当然の帰趨である。


そもそもはてなブックマークにはブログとの紐付けなどというものは存在していない。ブックマーカーのコメントからブログを見てそれがどのような人物であるかを見るのは、引き篭もりだのNEETだのというどうしようもないくらいの暇人か、コメンテーター側の、コメンテーターについての情報を持つ関係者だけだ。それは信者と表現してもよいくらいの狭い領域の馴れ合い関係者である。即ち、第三者は知り得ない領域の話であり、存在しないに等しいのである。





もう、まったくもって、たかだがハンドルネームだなにだがわかったくらいで世の中の全てのパワーハラスメントが存在しなくなると考えられるようなおてんとさまには白旗降参。


2005年11月14日月曜日

コメント欄で書かずにご自分のブログででもやったらどうですか?



多くの一般閲覧者にとってのブログのコメント欄というものが往々にしてつまらないコンテンツと化しているのはただ単純に、魅力的なブログというものを書くブロガーのエントリーに対する取り組み強度と、コメンテーターのコメントに対する取り組み強度が致命的なまでに違う、というのがまず第一にあると思う。


僕以外のブロガーがエントリーというものにどれくらいの日常的思考労力と、純粋なタイピング時間というものを費やしているのかは知らないけれど、少なくともコメンテーターのコメントに費やすそれよりは遙かに多いだろう。


ブログというツールがエントリー毎にコメント欄を保持している事の弊害として、コメント欄の寿命が非常に短くなってしまっている、というのがまず挙げられると思う。僕がいくつか見ているブログなどを含めて感じる事は、コメント欄の寿命は基本的には次のエントリーまで、僕の感覚ではさらに~18時間程度で場としてのコメント欄はお開きになる、という感じがする。mixiのレスなんかもそんな感じだと思う。もちろん例外的なものも存在するのだけれど、その例外は「遅れて訪れた人が脊髄反射でコメントを書く」というものであり、場の寿命が長い、というものではない。


とにかく、場の寿命は驚くほど短いのである。そんな寿命の短い場所に、読むに値するコンテンツが生成される、なんてことは滅多とない。ブロガーの返すレスポンスを横除きして、人格や素顔をうかがい知る、というラジオ番組的なメリットなんかはあるのだけれど。




さらにもう1つ言うと、コメントをつける人間というのは「ブロガーの言いたいことをからっきしわかっていない」という場合が多い。というか、かなりの割合がそれである。そうして、見当違いな所にぎゃあぎゃあと文句を言うコメンテーターがブロガーが消耗させるのを何度か見て、コメントをつけるのは馬鹿か信者、というのがコメント欄というもののコンテンツとしてのつまらなさを助長しているのだろうな、と思った。


ブロガーという1人の書き手にとって「想定通り的確に消化してくれた人」というのはどのような人間なのだろうか。それは人それぞれ違うのだろうけれど、やはり多くの人は褒められれば嬉しいのかな、と思ったりもする。まあ、この話はまた別の機会に。





では、コメント欄不要論者なのか?っていうとそれは違うし、面白いコメント欄なんて無いのか?というとそれもまた全然違う話で、僕が呼んでいるいくつかのブログの中には物凄くコメント欄が面白いブログもある。それら「第三者が見てもおもしろいコメント欄」というものの成立条件には、参入障壁の存在が必須である。即ち、誰もがコメントを書き込める雰囲気ではない、という空気が存在し、同時に身内の為の馴れ合いではない、という場所が成立しさえすれば、それは物凄く面白いものとなるはずである。


参入障壁は同時に糞コメントの自粛に繋がるし、馴れ合いではないという事はブロガーの消耗を招くこともなく、またレスや満足の行く返信が成されなかったからといってコメンテーターがいじける事もない。


けれども、それって、よくよく考えればトラックバックでやればいい話的なものでもある。だけど、トラックバックなんて誰も見ないし、といった徒労ループ。





まあ、当ブログに過去につけられたコメントの中で中身の詰まった価値有るコメントなんて俺様の自作自演擁護コメントくらいのものであとは全部消えた方がいいってくらいの糞コメントばっかだしな。








無駄に長い(無駄に長いだけで、無駄なわけではないとわたくしは主張します)前置きのあとで、結局何が書きたかったかっていうと、こんな所のコメント欄に埋もれさせておくにはもったいない、ちょっとびっしりめのコメントがついていたので、うれしくなってコピペ!


「コメント欄で書かずにご自分のブログでやったらどうですか?」
ってのは基本的にはドードス的煽り文句なんだけれど、そうじゃない場合もあるってことで。とはいえ、ブログなんて書くもんじゃないし、ブロガーになんてなるもんじゃない、って思っているからそうは言えないんだけれど。





スタークラフトを発売当初からやっていたぼくの記憶では
初期のころの世界チャンピオンとかラッダーのランク上位
はアメリカのオタクばっかりだった気がするな。
ところがある日突然どっかの韓国人がラッダーランク1位になったた。
そこから一気に韓国人が台頭してくるようになった。
毎日のように酔っ払った韓国人や小学生中学生がJPNチャンネルをあらしに来てた。
それが原因で辞めていった人も多かったし、とても新規の日本人が参加できる環境じゃなかった。
知り合いを誘う気にもならなかったな~。我慢できなくなったたくさんの日本人プレイヤーのなかの一人
T氏が私設サーバーを立ち上げて、ほとんどの日本人スタクラプレイヤーははバトルネットを去り
私設サーバーに避難した。結局もともとプレイ人口がおおくなかったので
(最高接続人数は100人ぐらいだった)
閉鎖的なコミュニティのなかでプレイすることがほとんどだったと思う。
日本でスタクラが流行らなかったのはそういうことも関係してると思うな~。

2005年11月13日日曜日

愛は死んでいない。



愛のエプロンという1つの偉大なテレビ番組は我々に1つの物事を教えてくれる。
それは、料理とは何であるかという事だ。




「料理は愛だ、愛があればLOVE is OK。」という愛のエプロンを象徴する言葉は、それを明示的に指し示していると言ってよい。




即ち、料理とは愛である。
・・・という事、ではない。








ご存じの通り、愛のエプロンが描き出す風景は常に「料理とは技術」という残酷な結果だ。料理というフィールドにおいて、他の一切は何の役にも立たない。愛だの心だの誠意だのといったものは何の役にも立たないし、誠実さや生真面目さといったものすらそこでは意味がない。


全ては技術である、という事だけが指し示されている。
それは、「料理は愛ではない」というメッセージであり、「料理は心や」という明らかな嘘を平然と曰う神田川俊郎へのカウンターカルチャーこそが愛のエプロンであり、我が国において真実を示唆するテレビ番組というものが仮に存在するとするならば、それは愛のエプロンただ1つである。




技術が全てなのは、なにも料理だけの話ではない。
即ち、全てのあらゆる物事の全ては、技術なのだ。




例えばブログについても同じである。

ブログにとって大切なのは毎日の更新であるとか、筆力であるとか、ユーモアであるとか、あるいは人間力である、などということをまことしやかに語る輩が居るが、それらは全てが嘘なのである。即ち、ブログあるいはブロガーに求められる能力というのは唯一にしてただ一つ、技術だけなのである。

仮に「心あるブロガー」というものが存在しているならばそれは心あるブロガーではなく、心あるブログを書く技術を有している人間に過ぎないし、「良識あるブログ」というものが存在しているならばそれは良識あるブログではなく、良識あるブログを作り上げる技術を有している人間に過ぎない。

無論のこと、「誠実なブロガー」というものが存在しているならばそれは誠実あるブロガーなどではあなく、誠実なブロガーを演じる技術を有している人間がいるに過ぎず、「面白いブログ」などというものがもしも、仮に存在しているとすれば、それは言うまでもなく面白ブログではない。そこにあるのはただ一つ技術だけなのである。

即ち、我々が「それ」と呼んでいるものの正体は実は「それ」ではなく、「それを装う技術」でしかないのだ。上手く装えない奴は「それではない」と見抜かれて滅び、上手く装い振る舞えるだけの技術を持った人間だけが生き残る。

そして、本物の「それ」は誰の目にも捉えられる事無く、存在を確認することも、存在を確認される事も許されないままで、技術によって無限に生成され続けられる「それ」のクローンの出来損ないの死体に紛れて消えてゆくのだ。




また、「人気ブログ」というものが仮に存在しているならばそれは人気ブログを求める馬鹿読者どもの無駄なアクセスという弛まぬ技術の結晶であり、「αブロガー」というものが存在しているならばそれは「αを作る技術を持った人間と、αを作る技術は無いがαを作り上げたいβ達」の共同作業によって作り上げられたものでしかない。

言うまでもなく、「愛あるブログ」などというものが万が一、もしも仮に存在するとするならば、それは愛あるブログなどではない。愛のある場所に愛は無いのだ。




人が愛であると思っているそこにあるものはただ一つ、技術である。
そして、それは悪いことでも良いことでもない。

人が夢であると思っているそこにあるものはただ一つ、技術である。
もちろん、それも悪いことでも良いことでもない。

人が心であると思っているそこにあるものはただ一つ、技術である。
無論、それは悪いことでも良いことでもない。




重ねて言うまでもなく、人々がそれであると思っているのはそれではなく、技術なのだ。そして重ねて言うが、それは悪いことでも良いことでもない。人間とはそういうものなのである。世の中の全ての物事は、そういうものなのである。

その点において我々が息づくこの世界は非常にフェァアだ。
技術を得た者だけが賞賛され、技術無きものは嘆き滅びる。
技術を手にした者が自由になり、技術無きは不自由に死ぬ。
技術を持つ者だけが栄光を手にし、技術無きものは消える。
技術を有する者だけが幸せを手にし、技術無きものは詰む。

即ち、この世界は光と希望で満ちており、可能性に溢れている。
EZな技術さえ身に付ければ、あらゆる物事はうまくいくのだ。




同時に、あらゆる物事は存在する事を許されぬというのもまた真だ。
あらゆる物事は「その技術」でしかなく、本当のあらゆる物事は「その技術」として存在をするか、存在しないものとして存在するかの二択を歩むこととなる。




即ち、仮に世界に愛というものが存在するとするならば、それは一切の言葉も一切の行動も伴わない、誰にも知られる事の無い、そしてまた誰も知ることの出来ない形でしか存在しえないのである。仮にそうでなくなった場合、それは技術というフィールドでの秩序無き技術勝負でしかない。その点において「愛は存在する」と言う事も出来るし、「愛は存在しない」という事も出来る。








つまり、「愛は死んだ」という事も出来るし、「愛は死んでいない」という事も出来る。


2005年11月12日土曜日

ボツ投稿



先日プロゲームの話をテキストエディタを立ち上げずにIEの投稿画面で勢いに委せて書いたのだけれど、別に韓国の話がしたかったわけではなく、ただ単に1プロゲームファンとしてプロゲームの可能性というものの話がしたかっただけである。という前置きがこの投稿にとって本当に必要なのかどうかすらも、判断がつかない。


とりあえず全宇宙で最も非生産的で無駄な行為であるコメントに対するコメントから。


リンク先。何度見ても思うのは昔のファミコン漫画やゲームセンターあらしの雰囲気に酷似しているという事なんだが、半角氏はそれをどう思う?

雑記。



「ゲームで国民が熱狂するなんて変な国!」と韓国のスタークラフトブームを揶揄する声をたまに目にするのだけれど、「残虐な殴り合いで国民が熱狂する我が国はそれを言える立場なのか」という疑問が消えない。

もちろんここで言う「残虐」とは本気でそう思っているわけではないが、たとえば曙vsホイスのような総合格闘技の試合は海外では御法度なはずである。それが大晦日という日に放映され(しかも複数局で)、国民が熱狂する我が国というのは唐竹割り的に言うと「未開で野蛮な国」になってしまう。

もちろん実際はそんな事はなくて、おそらく色々な歴史や積み重ね、あるいはアントニオ猪木、みたいなものがいてそうなったのだとは思うけれど、それでも我が国は韓国にも増してかなり特異な国であると言えるのではないか。

その、「ゲーム」と「格闘技」という2つの競技のうち、どちらを支持するかと言えば、そりゃあ疑う余地無くゲームを支持する。なにしろゲームは格闘技と違って血が流れないし、平和的な娯楽である。誰もが楽しむことが出来るし、コストもかからない。ただし物凄く不健康。

けれどもコンテンツという点で見ればゲームは健全である。やられた選手が血まみれになってお茶の間を凍り付かせる事もなければ、不透明なレフリングで試合が決まってしまうこともない。

さらに、ゲームは「世界で今一番強いのは誰か」というのが一発でわかるので、K1の武蔵のように自国スターが不健全に作り上げられる事もなく、非常にフェアである。

次いで言えば、アメリカではアメフトが、世界的に見ればフットボールが、といった具合でそれぞれの国でそれぞれの競技が人気を持っているわけだけれど、どの競技が優れているとかではなくて、たまたまその競技が受け入れられた、という事にすぎず、優劣はない、みたいな話を書こうとしていたのだけれどうまくまとまらずにたいへん困ったもう駄目だ。




あと、「プロゲーマーはなりそこねると再起不能で即NEET」という不健全さは、学歴社会かつ徴兵のある韓国においては物凄くあると思う。そのような負の側面がどのくらい韓国で表面化しているのかは知らない。レベル的にはNEETにしかなれないような人間の晴れ舞台!的な次元には、もう既に無い。

プロゲーマーの潰しのきかない不健全さというものは、例えばプロ野球選手や相撲取りを目指して芽が出なかった際の不健全さと同レベルであり、取り立てて考える程に特異なものではないのではないかと思った。

韓国のプロ野球選手の平均年俸が1000万円を大きく割っている事から考えれば、韓国のプロゲーマーの収入は「誰もが参入可能」とうい間口の広さからすればそれなりに健全なのではないか、みたいな感想もあったりする。




先日プロゲームの話はテキストエディタを立ち上げずにIEの投稿画面で勢いに委せて書いたものだし、この投稿もそうなんだけれど、別に韓国の話がしたかったわけではなく、ただ単に1プロゲームファンとしてプロゲームの可能性というものの話がしたかっただけなのに気張って書こうとするとどうしてか、途中で他の投稿を書きたくなってしまい、他の投稿を書いていると元の投稿が書きたくなり、それを書いているとまた別の、と延々にワープし続けるばかりで完成せず、こうして勢いに任せただけの投稿が量産され続けるのであった。おしまい。めでたし、めでたし。


2005年11月11日金曜日

あなたのおめめはふしあなですか?




あと、はてなブックマークのコメントを必死で書き換えてた奴とか小物すぎて笑える。おまえ絶対に初孫出来たら全力でいたづらしてやるから覚悟しとけよあるいは泥沼の中に沈んで死ね!!てめえだよてめえええid



俺にからめよ真性引き篭もり、って直前で絡んでるのが見えないのか?




[[藤代さんからの真っ当な反論



ってコメントはどこ行ったんだ?なにが「泥沼化継続中。」だよwww。コメントだけじゃなくブックマークタイトルも「藤代さんから真性引き篭もりへの真っ当な反論」にしてただろwww。あんたwww、小心者にも程があるなwww。なにこそこそ書き換えてんだよwww。おいチキンwww。小者すぎて涙が出らあwww。おまえみたいのは一生プラってろwww。


2005年11月10日木曜日

サイワールド・スタークラフト・MMO=洗濯機・冷蔵庫・テレビ



日本にはプロゲームが根付く余地というものが存在していないように思える。

韓国のプロゲームの放送動画を見ていて感じたのは「ああ、これはK1だな」という事である。藤原紀香みたいな女の人がいたり、オープニングの選手紹介ムービーは妙にハイスピーディなテンションだったり、観客席の見栄えのいいお客さんは所々でカメラで抜かれたり、といった番組のつくりは非常にK1的である。邪推だが、なんらかの影響を受けているのではないかと思えるくらいに全体の雰囲気が似ている。

しかも観客には驚くほどカップルが多い。恋人同士のデートでプロゲーム見に行く、なんて我が国では想像出来ない光景であるが、恋人同士のデートでK1を見に行く、という話であれば理解可能な領域である。

さらに、たいした男前でもないのに、強いというだけの理由でアイドル化している自国選手に飛ぶ黄色い声援はK1のそれと被るし、世界中から選手を招聘して自国選手とぶつける、というマッチメイクのやり方も、K1とまったく同じである。

つまり、自分はK1(あるいは昨今の格闘技ブーム)の成り立ちというものに詳しくないのでよくわからないのだけれど、中韓のプロゲームの隆盛は、他にやることが無い若者の興味を集める娯楽というものを、タイミングよく提供する事に成功した、という事なのではないだろうか。

おそらくではあるが、韓国人の多くは別にゲームというものを好きでもなんでもなく、(本当の意味で)他の娯楽が無かった、というだけなのではなかろうか。



と考えると、日本にはもう1つの良い例として、Jリーグフィーバーというものが過去にあり、猫も杓子もカズダンス、といったような状況が作り出された。それは、2002年に韓国のワールドカップフィーバーに重ねて見る事が出来るものである。

ご存じの通り韓国のサッカー熱は完全に冷め切り、JリーグのTV中継が我が国から一気に消滅したのと同じように、韓国ではあのフィーバーを国内サッカーリーグの人気へと繋げる事が出来ておらず、ワールドカップの為に造られた巨大な箱物は、赤字生成マシーン化してしまっているという惨憺たる状況がそこにはある。

我が国のJリーグ経営というものはどうやら結果だけで見ると非常に優れており、フィーバー後の落ち込みからどうにかして全チームが観客動員、収益、人気といった面において完全に立ち直ったようであり、その努力と実行能力は非常に素晴らしいものである。おそらくだが、韓国にそれを行うだけの与力は残っていないだろう。

韓国相撲シルムが潰れ、韓国野球も韓国サッカーもボロボロという状況からすれば、もはや韓国の若者層向け大衆娯楽はインターネットが生み出した「サイワールド、スタークラフト、MMO」という巨大にして強大な、韓国全土を制圧してしまっている時間も金もそれなりに必要な存在と真っ向から戦わねばならない状況に陥ってしまっており、それはほとんど勝利不可能な領域のように思えてならない。

韓国のサッカーや野球は広告塔という面でも収益という面でもインターネット的なものに淘汰され、ますます痩せ細ってゆくのではないかと、物凄く勝手に思っている。



とすると、どうも我が国と韓国は非常に似ているように感じる。ただ、我が国が韓国よりも優れている(あるいは優れていた)点があったとすれば、我が国には若者娯楽の多様性というものが存在しており、PCゲームユーザー(潜在的プロゲーム視聴者)というものが、アニメやら漫画やら家庭用ゲームやら、あるいはその他の一般的娯楽やらというものに分散してしまっており、我が国は文化的に多様であるが故にプロゲームなどというものが根付く余地が無かった、とするのが正解ではなかろうか(物凄い適当)。



即ち、我が国には趣味の階層というものがきっちりと出来上がってしまっており、「オシャレな娯楽」「オシャレでない娯楽」「ファッショナブルな娯楽」「ファッショナブルでない娯楽」などという風にあらゆる娯楽の一般的分類が完成されてしまっているように思える。

例えば、趣味欄に記入される「国内サッカー」「海外サッカー」「国内野球」「大リーグ」という4つの活字には、純粋に競技の違いというものを越えた場所で、それぞれまったく違う意味合いが付加されてしまっている。

同様に、映画/単館映画/TVドラマ/アニメというものにもそれぞれ意味合いが付加されているように思えるし、小説にしてもSF/ミステリー、純文学、大衆小説などといったようなジャンル毎に読者層の棲み分けが綺麗に成されているような印象を受けるし、webコミニケーションにしても、livedoor/mixi/楽天/はてな/アメーバといった具合で、客層の違いのようなものが感じられる。



対して韓国では全人口がサイワールドとうい1つのウェブコミニケーションツールに向かってしまっている。

サイワールドの韓国でのユーザー数はなんと1500万という数字である。
韓国のネット人口は3000万人という数字があるくらいだから、2人に1人はサイワールドという極めて実名系SNSに自分のウェブスペースを持っている、という状況である。



つまり、というか説明になっているかどうかはわからないのだけれど、日本ではあらゆるウェブサービスや娯楽(K1, スポーツ, 映画, オタク)が枝、つまり個性を表現する道具、個性を表す趣味として存在しているのに対して、韓国は娯楽の多様性がほとんど存在していなかった所に突如として、経済崩壊からのIT化政策、インターネット&スタークラフトという巨大すぎる存在が現れたが故に、それが人間の条件として、興味を持っていて当たり前のものとして滲透してしまったのではないか、と思える。

その視点で「サイワールド・スタークラフト・MMO」という韓国を完全に制覇し、一般大衆レベルに満遍なく滲透した3つを考えると、我が国においてそれに最も近いものは「洗濯機・冷蔵庫・テレビ」という所謂三種の神器である。(MMOではなくオーマイニュースが正解かもしれないけれど。)

つまり、韓国人は取り立ててそれらの道具を好きというわけではなく、それらが「当たり前のもの」「当然のもの」として滲透し、消費されているのだと僕は捕らえている。
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関連かどうかわからないけれどリンク


2005年11月9日水曜日

人生が遠い。



人生が遠い。
果てなく遠い。

寝て起きてシャワーを浴びて濃淡色の食べ物を口にしブログを書いてはまた横になるという単調な生活の中に再び、寒さという暴力が舞い戻ってきたのを目にして何もかもが凍ってしまえばよいと思うのだけれど、僕の心は息絶える事なくおどろおどろしい原色色のあぶくを破裂させながら煮えたぎり続けており凍らない。燃えくゆっており消えない。まだここにあって失われない。

「くだらないエントリーばかり書いている場合ではない」という日常に対する至極真っ当な疑問が絶え間なく爆ぜるまではよい。そこまではよい。そこだけを取り出して見れば僕は極めて正常な神経の持ち主であると言える。しかし、くだらないエントリーなど書いている場合ではない、では何をするべきなのか、という葛藤の正体が「ブログのエントリーを書くべきだ」であるからして救いがない。しかも、そのブログのエントリーの題材の芽生えぬ種の一覧を上から下まで眺めてそれらを冷静に評価判断してみれば、どれも全てがどうしようもなくくだらない。世にくだらなくないブログなど存在せぬを地で行く強度だ。

駄目な奴、と一括りに言ってみても、世の中には多種多様な駄目な奴が存在する。その最たるものはやれもしないことをやるという、という類の輩だろう。志だけは高い無能な奴ほどやっかいなものはない。そういう人間というのはあらゆるものをとっちらかして滅茶苦茶にしてくれる。例えば「今日から毎日ブログのエントリーを3つ書き続ける」などと連日連夜誰にも言わずに宣言している僕などは、どうしようもなさの象徴的存在である。

なにしろ、そんなこと出来やしないし、例え出来たとしてもどうにもならないからだ。




人生が遠い。
果てなく遠い。
顔を覆って泣き笑う。
モニタの光を15秒ほど遮ってさあ、ブログでも書くか。飛びっきりにくだらないやつを。


2005年11月8日火曜日

コメントに対するコメントとか。



どのエントリーについても物凄く本気で人として持ちうる人生そのものを上回るパワーを注ぎ込んで全て真剣勝負状態にいる自分としては他人のエントリーも全てそのようなものであると反射的に思ってしまうのだけれど、世の中はそのような人ばかりでは出来ておらず、適当だとかネタだとかか書き捨てだとかそういうものがある中で、web上に一度あげた文章を削除する輩が後を絶たずけしからん、という話ではない。ほんと、一度ブログにあげたエントリーを削除する輩にろくなやつはいねえ。あ、R30さんの事ではないです。真性引き篭もりhankakueisuuさんのことです。僕はそんな昔の事をうじうじ言うような粘着質な人間ではないです。断じてR30さんの事ではないです。違います。私は潔白だ。


あと、はてなブックマークのコメントを必死で書き換えてた奴とか小物すぎて笑える。おまえ絶対に初孫出来たら全力でいたづらしてやるから覚悟しとけよあるいは泥沼の中に沈んで死ね!!てめえだよてめえええid:(ry。違う私じゃない。私は潔白だ。







はてなブックマークという仕組みそのものに罪はない。


問題があるとするのならそれははてなブックマークユーザの個々のコメントのつけかたをどのようにするべきかという問題であり、はてなが放置していると憂うのであるのなら、自治を試みてみるなどの対案を提案するのが筋であろうと私は考える。



で、本当に性質の悪い冗談だと思えてしまうのだけれど、本気であるとして本気で書くと、それを言うのならばululunさんは2ちゃんねるの悪しき側面に文句を言う人には「文句ばっかり言っていないで自治を試みなさい」と言うべきだし、イラクの悪しき側面に文句を言う人には「文句ばっかり言っていないで自治を試みなさい」と言わなければならない。



いやあ、もしもそれを「言う」と仰るのならばそれはそれでいいとは思うのだけれど、それではただの電波になってしまいますよ。その土俵、即ち非現実ワールドで勝負するのですか?という率直な疑問。





>コメントのつけかたをどのようにするべきか
>自治を試みてみるなどの対案を提案
しかも、インターネットのグローバルなこの時代のこの場所でそんな村社会的発想が通用すると本気でお考えなのですか?暴徒は暴徒であるからして暴徒であり、あらゆる人間は万物を想像する能力を有していないが故にそのような行いを行う可能性というものがあるのです。つまり人を傷つけるのに悪意に基づく出刃包丁は必要ない。無神経さだけあればよい。即ち、無神経という暴力により生じるトラブルを未然に防ぐことなど不可能であり、対抗手段は対処療法以外に存在しない。そしてそれを行うには権力が必要である。つまり運営側しか行い得ない。


仮に対処療法の自治というものが存在するとすればそれは風紀委員のおままごとでしかなく、即ち学級会ごっこのようなそういうのはよくないと思いますみたいなぬるま湯的解決手段が本気で存在すると考えているとすればそれはもう取り返しの付かないところまで非現実主義者の所業だ。





そもそも、対案を出せばOK!みたいな所でもはや間違っているのである。
つまりはてなブックマークの仕組みそのもの、即ち「コメントがを削除出来ない」というURL必須の一行掲示板即ち盗まれたコメント欄につけられたコメントというものが永遠に残り、それに対する手段は放置以外にないという仕様と、それに対する対応即ち「当事者間で解決しろ」という方策が間違っているのであって、対案なるものがあるとすれば「運営側がコメントに対する対抗手段を用意する」か「解決のガイドラインを作りそれに基づく運用を行う」でしかない。で、それは既に書いている。


現状のはてなブックマークの運営は2ちゃんねると同じか、それより悪い。
即ち、はてなブックマークが2ちゃんねるのように大きな問題の真っ直中にいないとすれば、それはただ単に人口母数の問題でしかない。そして、さらに言えば既に同様の問題は幾たびも生じている。


即ち単純に言うと、はてなは道義というものを果たさないという戦略をとっている。即ち、犠牲者が出てもコストが削減できればいいという考え方であり、そんな奴ははてなの成長の犠牲となってしねばいいと思っているというだけの話である。




商品の使用により生じる諸問題から人民を守る責任が企業にあるのは当然の事である。とは言っても、金属バットで殺害された人間に対する保証を金属バット製造会社が行うべきであるか、という点についてはNOだ。





つまり、おそらくこの話は「どこに境界線を敷くか」という側面をも持つ。
仮に一定のガイドラインが存在して、「当事者間の話し合い」などという馬鹿げた方策ではなく、はてな側が一定の努力を行ってさえいれば、然したる問題ではないとしていただろう。即ち管理能力が無い事が問題なのではなく、管理意思が存在しないという事が問題なのである。





事実として、


1,管理側は自由に、個別のブックマーク及びコメントをログイン中の本人以外からは見えない状態に出来る。


2,管理側は自由に注目エントリー/人気エントリーに表示されない状態に出来る。


3.管理側は自由にURL毎に1及び2のモードを指定出来る。


4,厳格な運営規程と常時1人の人足。


という予備措置、即ち十分なトラブルに対する準備というものを行ってリリースし、そこに1人の人足を24時間張り付けてさえおれば、はてなブックマークにより生じたあらゆる被ブックマーク側の心労トラブルというものは大いに解消されたであろう。という対案は既に出している。なぜそれをやらないかというと、それは「そうした方が安くつく」からだ。それは維持コストの面でも、工数の面でもそうである。即ち利益の為に暴力を放置する、という姿勢が問題なのである。当たり前の話であるが、規模の拡大に伴って果たすべき社会的責任というものも増大するのである。


一応補足しておくと、1に関してはブックマーク毎であり、ブックマーカーごと不可視にするわけではない。つまり、あたかも本人以外からは「そのブックマーク+コメント」がなされていないかのように見えればよい。幸いにしてはてなブックマークはそれを包容出来る「プライベートユーザー」というものを持っており、可視ユーザー数とブックマークユーザー数の間に差異があっても不自然ではない。


「はてなブックマークはブックマークです」という主張に基づけば、特定の暴力的ブックマークや、暴力的ウェブサイトが注目のエントリーや人気エントリーに入らなくても何の問題は無いはずであり、ブックマークした当人にさえ見られればそれで良いはずである。そのような目に見えて問題のあるブックマークの割合などたかがしれているわけで、それらが抹殺されたとしても何の問題も無い。


自治などという脳みそ空洞化現象状態の空想を語れるまでには幼くはない。





つまり単純に言うと、はてなは真の意味で馬鹿である、とする事も出来るし、そのような問題は存在していないと定義し放置する事によりコストを削減し動きを軽くしているとも言えるのである。より正確く言えば、それらを利用していると言い換える事も出来るのであり、単純人足という最もつまらないコストを削減する事で軽量化を行っているはてなというものの姿勢を悪しきとするのは当然の事である。





さらに言えば「はてなにより削除しました」はそれにあたるわけで、はてなははてなの利益の為ならばそれを行うという事は証明されている。即ち、ネットの末端の馬鹿な人民を守ることははてなの利益にはならないからやらないが、金と力をある人には媚び従った厳正な運用を行い、それを持たない人には「当事者間で解決しろ」と曰うを平然と行える汚さが汚いというだけの話。


つまり、弱者と馬鹿ははてなの犠牲となって死ね、というのがはてなの描く世界であり、無論のことそのような選民思想的な強者の描く世界観は受け入れられない。





もう1つ付け加えておくならば、仮にそのようなインビシブル化を行う管理体制というものが存在しており/あるいは導入されて、表題に馬鹿だとか死ねだとか入っていると即インビシブル、といったような極めて厳格な管理が導入され当ブログのエントリーなどは片っ端から即インビシブル化されたとするならば、当然にして僕は「言論統制はてな死ね」などと書くだろうが、その運営姿勢自体は当然にして強く支持する。





即ち、仮に混沌というものを鎮められるものがあるとすれば、強大な権力による何よりも厳格な管理でしかない。付け加えるならば単純労働者を必要量確保しての人海戦術以外にありえない。そして人を集めれば混沌というものが生じるのは当然であり、それを未然に防ぐだけの準備を行うのは当然の責務である。


2005年11月7日月曜日

情報商材の1ページ目に「wikipediaをパクりましょう」と堂々と記されてしまっている事をどのように捉えるべきなのか。



例えばはてなブックマークのアカウントを多重に取得し自サイトの宣伝行為に使用している人間を指摘してモラルの無さを嘆き私物化に怒り羞恥の無さを笑う事は容易いが、それには何の意味もない。インターネットには法も秩序も存在せず、良い振る舞いも悪い振る舞いも1つの戦略に過ぎず、それどころかもはや関心や無関心ですらそのままの意味では通らず、作為ある振る舞いとしてしか存在しえない。




問題、というよりも僕の関心事は、そのサイトのコンテンツがwikipediaの無法コピーであるということだ。文章も写真もコピーしまくりパクりまくり、もちろん引用元表示なんて行っていないし、文章は適度に改変されている。まあ、なんとも酷いものだが珍しいものではない。こういった類のウィキペディアフィリエイトサイトは、海千山千合計二千を越える程にはインターネットに増殖している。極めて緩いwikipediaシンパとしては嘆かわしい事態である。




そのwikipediaというインターネットの百科事典が、情報商材の1ページ目に「wikipediaをパクりましょう」と書かれてしまっている事について、どのように捉えればいいのかを判断しかねている。

そりゃあ、wikipediaをパクるという単純作業を丁寧に行えば「文章を書く才能はいりません!」「誰にでも出来る簡単な作業です!」「月3万円のお小遣いをgetできます!」という情報商材の宣伝文句は事実であり、確かに可能なものである。

そして、「接続詞や語尾は柔らかい言葉で置き換えましょう」と書かれてしまっている今現在において我々に問われているのは「それを行うか行わないか」ではなく、それを行う人間を良しとするのか悪しきとするのか、あるいは我関せずを行くのかという、第三者としての倫理基準的な価値判断である。




wikipediaには著作権に関わるライセンスというものが一応は存在する。
無論のこと、そんなもの誰も読んじゃあいない。

罰則の存在しない規程などというものは機能しないのである。
wikipediaを不法にコピーしてアドセンスやらアソシエイトやらでがっぽがっぽした人間は、そっくりそのままその通り、やったもん勝ちであり、一切のペナルティは受けない。

wikipediaは幾千幾万の人々が丁寧に編み織りなして作り上げた立派なコンテンツであるからして、その特定ジャンルを抜き出してウェブサイトとして纏めれば、特定ジャンルに特化したサイトは往々にしてwikipediaよりも検索エンジンにとって相性の良い存在となってしまうが為に、5000dayを成することなど容易い。

wikipediaのコンテンツには、それだけの価値があるのである。




つまり、今ではwikipediaとは巨大な貯金箱なのである。
それはインターネットという行き過ぎた自由に支配された巨大な貯金箱の象徴的存在である。




そして最も致命的にして重大な問題は、wikipediaの不法コピーサイトは往々にしてユーザーインターフェースという面においてwikipediaを上回ってしまう、という点にある。

wikipediaはwikiという極めてオールドフェイスなウェブサイトであり、さらにあまりにも広大すぎるウェブサイトであるからして、特化して作られたウェブサイトと比べれば、利便性という点で遙かに劣る存在である。

単純に言ってしまえば、世にある幾多のウィキペディアフィリエイトサイトは全て、wikipediaのまとめサイトであると言い換える事が可能である。

ちょうど、2ちゃんねるのまとめサイトがおもしろさや大衆受けという基軸にて選り好まれた情報だけを纏めて、閲覧のしやすさという点に特化した形で提供しているのと同じように、wikipediaのまとめサイトである、よくできた不法wikipediアフィリエイトサイトは全て、wikipediaの情報を読者に優しい形でまとめて提示しているだけなのである。

それだけではない。
ウィキペディアフィリエイトサイトはアフィリエイトサイトであるからして、「広告」という価値ある情報を付加した形でwikipediaのコンテンツをインターネッターに届けているのである。

つまり、ウィキペディアの不法コピーアフィリエイトサイトは、wikipedia2.0としての側面を持つ。それは特定ジャンルに特化されたサイドバーという形でのユーザーインターフェース面でもそうだし、検索エンジンにhitしやすいウェブサイトタイトルという面でもそうである。また、インターネット広告というユーザーにとって有用な情報も付加されている。

Googleアドセンスがどうしてクリックされるかというと、それはユーザーがそこに表示された情報を価値あるコンテンツだと判断したからである。




即ち、かつてスパムと呼ばれていたもの、あるいは今でもスパムと呼ばれている巨根になる薬の宣伝に象徴されるスパムメールというものがエンドユーザーに非難されたその理由の第一は、トラフィックの占有でも、メールボックスのパンクでもなく、それが「コンテンツとしての魅力を持たない無駄な広告」であったからである。

対して、Web系のスパムに近いウィキペディアフィリサイトは、wikipediaのコピーであるからして当然ながらコンテンツとしての一定の魅力を持ち、さらにGoogleアドセンスというテキスト適合形広告機械によって、ユーザーが求めるであろう広告が表示される。




これを非難出来る根拠というものが、一体どこにあるのだろうかと疑問に思うのである。

いや、もちろん「wikipediaのライセンスに違反している」という形式での非難は可能である。しかし罰則の無い法が機能しないのは当然の事であり、それは根拠と成り得ないのではないかと僕は思う。つまり、GNU FDLというwikipediaの提示するルールを守るか守らないかという判断は、法という秩序ではなく、モラルの範疇に持ち込まれてしまっているのである。




そこで、ウィキペディアフィリエイターの第一の反論、あるいは第一の弁護として考えられるのが「誰にも迷惑はかけていないじゃないか」というものである。確かにwikipediaを不法にパクった事により迷惑を被る人はいない。それどころか、インターネッターに実りあるコンテンツを提供しているのだから、価値ある貢献行為を行っていると捉えるのが自然である。

さらに、極小フォントで引用元を表示したwikipediaの丸コピーサイトはどうか。
それらサイトは「ライセンスに違反している」というwikipedia側の唯一の拠り所すら失わせるものであり「いくらなんでも全文パクっちゃ駄目だろ」という反論はwikipediaの提示している引用ルール一応は筋の通ったものなのだけれど、その曖昧な基準線を明示的に描ける人間はどこにもいない。




つまり、wikipediaの不法コピーサイトというものを考えるならば、「誰にも迷惑がかかってないんだからいいだろ」という主張に基づく行為を許すのか、「誰にも迷惑がかかっていなくても、それどころか誰かの役に立っていたとしても、倫理的に問題のある駄目」であるとするのかの2つに1つの選択となる。

無論、他の選択肢としては「わからない」と「興味ないね」があるわけで、多くの人間はそれを選択するのであろう。もはや真剣さを演じようとするものほど滑稽に映る世の中であり、誰も真の真剣さあるいは誠実さなどというものを手にすることは出来ないのである。




結局の所、ここではやったもん勝ちなのだ。
ちょうどそれは世の中がそうであるように。


日本にプロゲームというものが根付かない理由。



熱狂が過ぎ去った後に何が残るかなんて、誰にもわかりやしない。
けれども、1つだけ確かなことは熱狂の後には必ず何かが残るという事だ。
もちろん、それが負の遺産であるか正の遺産であるかなんて、誰にもわかりやしない。








宇宙の誕生を目にした人がいないのと同じように、あらゆる評価や真っ当な事実認識なんてものは事後に歴史家が行うものであり、その意味で僕らは直視出来ない未来を生きている。

その光、即ち2005年の11月7日夕刻という今この瞬間に光っているものが我々の目に届きその姿形を明らかにするのは、5年10年先のこと。瞳は常に何かを見ており、自分が何を見ているのかを知らない人は1人もいないが、己の瞳が何を見つめているのかを確かめられた人は1人としていない。

出来ることといえば、ただひたすらにその場を離れ続けること。
その全容が見えてくるくらいまで、遠く、遠くKEEP LEAVEING!!




全力疾走というものがもしも仮に存在するとすれば、それは追求や探求などではなく、逃れ得ぬものからの逃亡に他ならない。そして、逃れえぬものの半分は享楽を求める欲望であり、残りの半分は老いだ。

「時間が全てを解決してくれる」という言葉が示すように全て灰燼、俺は廃人、ブログの中に住む怪人、ここはハイチ、今来た海路、アルプスの少女、、、ハイジ!!!。

色々な意味で、僕はもう駄目だ。




人が何かを駄目だ、とけちをつける場合、 その人そのものが駄目なのを責任転嫁している事が多い。 この場合もまさしくその類で、僕はもう駄目だ。はじめからわかっていたことだけれど。って、そのままじゃねえか。((インスパイアmyself))




即ち、時間が全てを解決してくれるという言葉が示すように全ては灰燼に帰すのだ。真実というものがもしも仮に存在しているとするならばそれは。

*はいのなかにある*








こんな酷い前置きを書いてしまったその続きとして、日本にプロゲームというものが根付く余地は無いだなどと書き進めていいのかどうか相当に悩んだのだけれど、どうせだから書いてしまおうと思ったので、書かないことに決めた。逆を行く。常に逆を行く。泣きたいときには笑い、笑いたい時には泣き、叫びたいときには星より秘かにインターネットで歌おうじゃないか。僕らが立ってるこの場所は、ここは未来の歌声喫茶。


2005年11月6日日曜日

仮にGoogleが未来を作っているとするならば、金子勇は犯罪を作っており、西村博之は暴徒を作っている。



Googleは未来をつくっていない。
これは主張では無い。
事実である。








仮にこの世の中に未来を作るという行為が存在しているとすれば、それは愛のある子作りだけである。Googleは愛のある子作りをしていない。即ちGoogleは未来をつくっていない。

しかしながらGoogleが何も作っていないとするのは間違いである。
Googleは確かに何かを作っており、事実、Googleは何かを作ろうとしている。




Googleは何を作っているのか。
それは、インフラである。
未来という文脈上で言うならば、それは未来のインフラである。




インターネットのあらゆる道具は、何かしらの基盤即ちインフラとなる。
実のところ僕はGoogleが未来のインフラを作っているだなんてこれっぽっちも思ってはいないのだけれど、もしも仮にGoogleが未来のインフラを作っているとするならば、金子勇は犯罪のインフラを作っているし、西村博之は暴徒のインフラを作っている。

GoogleはGoogleであるが故に未来の巣窟であるし、
winnyはwinnyであるが故に犯罪の巣窟であるし、
2ちゃんねるは2ちゃんねるであるが故に暴徒の巣窟なのだ。




そしてそれら全てのインフラに共通して言える事は、それらのインフラはそれを使う人民には利得をもたらし、作り手には利益をもたらす。言うならばGoogleが作ろうとしているもの、あるいは既に作り上げたものは新たなる利益構造であり、新たなる既得権益の礎となるインフラであり、それは即ち現在のインフラではなく、現在のインフラの一部を破壊しその場に収まる未来のインフラである。




では、はてなブックマークは何のインフラたるのか。
それはウェブサイトへの暴言のインフラであり晒し上げのインフラである。

今更言うまでもなく、はてなブックマークとはURL必須の一行掲示板である。
即ち、はてなブックマークとは盗まれたコメント欄である。
であるかどうかは別として、盗まれたコメント欄として機能するのである。

それはウェブサイトの管理人が存在すら知り得ぬという点で盗まれているし、
ウェブサイトの管理人が管理出来ないという点においても盗まれている。

それだけであればコメント欄が盗まれた事のみが問題となるだけであろう。しかし、問題即ち重大な事実は、はてなブックマークはただ単純なる盗まれたコメント欄ではないという事だ。




はてなブックマークという盗まれたコメント欄には、通常のウェブサイトのコメント欄というものには存在していなかった横の繋がりというものが存在する。コメントをつけた人間のコメントは全て一覧にして閲覧が可能であるし、さらに多数のコメンテーターがコメント、より正確に言うならばブックマークしたウェブサイトは、はてなという巨大サイトの巨大ページにおいて衆人の目に晒される。

そして、それに対するウェブサイトの管理人は常に無力である。盗まれたコメント欄にして何の対応も不可能である。無論の事2005年にという現在においてコメント欄につけられるコメントとウェブサイターの間とのトラブルが当事者間の話し合いで解決する事などありえない。ウェブサイトがインターネットに向けて振り上げられた拳であるのと同じように、コメントというのはウェブサイトに向けて振り上げられた拳でしかない。仮に話し合いによる解決の手段というものが存在しているとするならば、それは拳と拳の語り合いでしかなく、過半を占める多くのウェブサイターはそのような事柄を全く望んではいない。

つまりその点において僕が指示する行動というものはコメント欄の完全なる閉鎖において他はなく、海は陸へと成り代わる。それはガ島の昔から自分が主張し続けている事柄である。話せば解るは嘘なのだ。




つまり、仮にはてなブックマークに問題があるとすれば。
いや、この仮定はおかしい。
なぜならば事実。

はてなブックマークには問題があるからである。即ち、はてなブックマークの問題は、盗まれたコメント欄としての機能に対する対策というものが一切用意されておらず、そればかりははてなは当然にして用意するべきその責任を果たすつもりが一切ないのである。




今更言うまでもなく。
はてなブックマークは墨俣にて作られ、それにより生じるであろう一切の諸問題に対する対策というものを行わず、その責任を果たさず、無論のこと果たすつもりもなく、より正確に言うならば果たさない事による利益というものを保持する為にはてなブックマークは50%にてリリースされたのである。そしてそれは永遠の50%即ち1/2である。




はてなはなぜ、いやインターネットの企業というものは往々にして、なぜ、50%即ち完全な形ではない未完成な段階でウェブアプリケーションというものをリリースするのか。

それは、利益の為である。
インターネットの速度というものは犬にも増して速きものであり、その1秒1分を1セントに変換し回収するが為に、彼らは一秒でも早く、遅れをとらぬ事だけを目指してリリースを行うのである。即ち、それは作り手の利益の為であり、その他一切の諸々は考慮されない。




結局の所、あらゆる製品を製造する企業には、ユーザーに対する責任というものが生じる。そしてそれは果たすべき義務であり、本来ならば当然の勤めなのである。

不良品を売った企業は回収する義務が生じるし、ユーザーに不利益が生じなたらばそれに対する責任というものが当然にして生じるのである。即ち消費者は保護される。




ところが、インターネットという道具は消費者という概念を破壊した。
ウェブ時代の消費者とは、元来の消費者という言葉が指し示したお金を出して物品を購入していた人という構図を打ち壊し、お金を出さずにサービスを利用する使用者という緩い広がりへと形を変えたのである。

さらに、それだけには留まらない。
ワールドワイドウェブという境界の存在しない場所におけるあらゆるサービスは、インターネットに息吹を吹き込む全ての人々を繋げ、「消費者」と「非消費者」という境界線を消し去って、閲覧者という1つの枠組みに括ってしまったのである。

しかしながら、それ自体は新しいものではない。
それは丁度、テレビ番組やラジオ番組の消費者が、莫大な金額を費やして生産された商品を一円の対価をも支払うことなく消費するのと同じように、インターネットもそうなのである。




ただし、インターネットと元来のマスメディアには、大きく違う点がある。
それは、結論から言ってしまえば、自由であるか自由ではないかだ。

放送というものは様々な規制の下にあり、自由でも無法でもなく責任追求衆人環視白日の下に晒される。対してインターネットは様々な規制が事実上無効化されており、行き過ぎた自由を享受するインターネッターだけがそこにあり、彼らは一切の道義的責任の管理外にある。








結局の所、はてなブックマークは暴言暴徒の根拠地と成り得、晒し上げの場所としての機能を持ち、事実暴言暴徒の根拠地と成り晒し上げの場として機能し続けているにも関わらず、はてなはそれに対する一切の対策責任というものを行わず怠り、50パーセント1/2、即ち企業の利益保護だけを追求し、インターネッターの保護というものを放置し続けているのである。


はてなブックマークとは商品の作り手というものが当然にして果たすべき勤めを果たさぬインターネットが具現化した無責任であり、道義と愚か者とが愚かであるというたったそれだけの理由により死に行く象徴の場所である。


2005年11月5日土曜日

自分が発狂していないかどうか不安になってきたので、発狂に詳しい人に発狂したらどうなるのか聞いてみた。



「なぜ書くのか」なんて問われた時には「そこにブログがあるから」とでも答えておけばよい。アムンゼンでは無いだれか卿はその一言を持ってして偉大であると言える。ここでGoogleを使っては負けである。

しかしながら、果たして僕は誰の為にブログというものを書き続けているのだろうかとふと疑問に思ったりする。仮に今現在僕がブログを書く力というものを失いつつあるとすれば、もし仮に全くの虚空に落ちてしまったかのように頭の中にあった文章という文章、より正確に言うならば感情という感情、衝動という衝動の全てが消え失せつつあるとすれば、それは。

それは、これまで僕がブログを書き続けてきた相手、即ちエントリーというものを放ち続けてきた相手が消滅しつつあるという事を意味するのではないか。そのような懸念が頭を過ぎり続ける。過ぎり続けると書くと日本語が壊れているかのように見えるが、そうではない。事実として、そのような懸念が過ぎり続けているのである。




いったい、即ち。いったい、僕は誰に向かってブログというものを書き続けてきたのであろうか。初め、即ち一年前の今頃。それは言うまでもなく、僕自身に向けてであった。

動物、即ち馬や鹿の目の前に鏡を置くと、動物、即ち馬やら鹿はそれを自分自身の映った姿であるとは認識出来ぬという話がある。それを持って猿やら雉は自分を客観視する能力を持っていないという事までをもするつもりはない。そのようなことには興味がない。馬が馬かろうと鹿が鹿かろうと、知ったこっちゃない。

つまり、かつて僕は自分自身というものを外側から見る手段というものを持ち合わせていなかった。そして、その為のブログだったのである。即ち、僕にとってブログとは自分を外側から見るための道具、即ち鏡だったのである。




つまり、当初は言うまでもなく、自分自身に向けて書いていたのである。
それがいつからか明らかに、僕は他人の為にブログを書くようになった。

より正確に言うならば、僕は誰かに認められたかったのだ。




即ち、僕がもうブログなど書けぬと毎秒毎に思っており、事実毎秒毎にブログのエントリーの1タイピングすら行えず時間だけが過ぎゆき午前6時を迎えんとしているという事実は、僕が認めて貰いたかった相手というものが消滅した事を意味しているのではないかと思うに至って朝が来た。

それが誰であったのかがわからない。
結論から言ってしまえば「僕自身」であり、失われたのはそれなのだろう。




ゲームをやめれば認めて貰えるだろうという、極めて視野の狭くハードルの低い目標を達した事に一定の評価を与え続けていた自分自身がブログというものを通じて一般化され、ゲームをやめた事など評価に値しない、という状態へと変化してしまったのだ。

そして今、僕があの頃のDOTA allstarsのように毎日々々寝る間も惜しんで行い続けているものはと言えば、それは即ちブログを書くことである。つまり現時点において、僕が自分自身から評価されるには、ちょうどDOTA allstarsをそうしたように、ブログを完全に止めてしまうというのが唯一であるかのように思える。

いや、問題は多分もう少し複雑で、「ブログを止めれば評価された」という局面はもう過ぎ去ってしまっており、今現在僕に出来る事は「ブログを書き続ける」であり、もう他の全ては残っていないのだ。

困惑だけが残る。




ブログを書き続けてきたのは自分のためである。確定である。疑う余地は無い。では、自分のためとは一体何だったんだろう。どうしたかったのか、どうなりたかったのか、どうなれば勝ちだったのか。




もう、いいや。
時間の無駄だ。

即ち、当初はブログという道具そのものが鏡であったのに対し、いつからか「鏡に映った自分」が鏡になっていた。即ち真性引き篭もりhankakueisuuという虚像の描く悲しみ、苦しみ、あるいは怒りというものを僕は必死になぞって追い掛けていただけなのではないかという疑念が消えない。

何の為にそんな事を、というと、それは真性引き篭もりhankakueisuuを認めている人達を満足させる為、なんだろう。そしてより正確に言うならば、それは人達、という不特定多数の読者を指し示すものではなく、特定個人を指していたのではないか。

それが誰であったのかがわからない。真性引き篭もりhankakueisuuであったようにも思える(真性引き篭もりhankakueisuuの為に僕は尽くしてきたかのように思える)し、逆に僕であったようにも思える(僕の為に真性引き篭もりhankakkueisuuが尽くしてきたかのようにも思える)。あるいは他の誰かか。

この無気力の正体がわからない。あるいはこれが絶望というものではないかとも思うのだが、絶望にしては軽やかすぎる。僕の思い描いていた絶望とは失意のどん底の更に下、眠る事も出来ず起こる事も出来ず身を起こす事も動く事も出来ないといった状態であり、それに等しい時期は相当の長きに渡り存在していた。

まあ、いいや。明日になれば何事も無かったかのようにまた再び書けるだろう。血栓のように脳を分断しているエントリーの種が頭蓋を突き破って生えてくるだろう。春が来れば雪が消え去るのと同じように。当たり前のそぶりで。








などといった、如何にも脳みそパッパラパーなエントリーを書いていると、まるで自分が既に発狂しているかのように思えてきた。しかしながら、発狂している人間というのは狂っているからして、自分が狂っているのか狂っていないのかがわからない。

「私は狂ってるよ」という人が狂っているか狂っていないかの確立は1/2のイーブンイーブン。サイコロで1が出る確立は50%。1が出ない確立は50%。全ては平等なのだ。世の中には"どちらか"しか存在しない。正しいか、誤りか。いずれでもないか、いずれでもあるか。まったく、狂っている。




即ち、僕はもう既に発狂しているのではないかと不安になり、発狂に詳しい人に発狂したらどうなるのかを聞いてみた。すると、「発狂したら高速5Way弾をばらまいたり、ワインダー散らしながら自機狙いレーザー撃ってきたり、高速で突進しながら全方位低速扇弾をばらまいたりするようになるよ」という答えが返ってきた。

幸いにしてまだ僕は、高速5Way弾をばらまいた事も無ければ、ワインダーを散らしながらレーザーを撃ったこともなく、高速で突進しながら全方位に低速扇弾をばらまいた事もない。僕がばらまいているものといえば、即ち、せいぜい「即ち」くらいのものである。即ち、僕は発狂していない。至って、正常。正常ブロガー。ブロガー正常。即ち。


2005年11月3日木曜日

Googleが落ちていた。



「記念に」とスクリーンショットを撮る自分を見て「何か間違っている」と感じた。Googleに行けばGoogleがあるというデフォルト状態、即ち普通である事こそが普通であるという大前提があり、そこから外れたものは異常な珍現象であり、ケラケラ笑って写真に納める。まったくもって下品。

おちたっていいじゃない。ぐうぐるだもの。
いや、やっぱり駄目だ。Googleだもの。


高橋(弟)メソッド



ようし、書くぞ。書いてやる。








やけくそである。逆ギレである。投げやりであり暴れはっちゃくぶらり旅である。暴れはっちゃくが何であるかなど知りはしない。ただ適当に書いただけである。フレーズの1つ1つにまで気を入れながら書いているとどれだけやっても投稿ボタンにまで辿り着けない事に対するレジスタンス投稿である。

真性引き篭もりである事は容易い。真に引き篭もっておればよい。しかしながら、インターネット接続環境を所持しながら真性引き篭もりを維持するのは非常に困難である。真性引き篭もりとは何であるかというと、真の引き篭もりである。人と視線を交わしてはならないし、人と顔を合わせてはならない。人と喋るなどもってのほかである。

その点においてインターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである。アンチと言っても、2ボス右上左下などといった類のアンチではない。アンチである。別に言葉遊びをしているわけではない。ただ単に思考が乱れているだけの話である。物凄くふしだらである。

即ち、その点においてインターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである。老人は同じ話を何度も何度も繰り返す。なぜ老人が同じ話を繰り返すのかというと、老人はあまりに長く生きたが故に、認知している全てのものに対する評価、志向興味の順位付けというものがほぼ完全に固定化されてしまっているからである。即ち老人には流動性が無い。

と僕が今ここで書いているという事は、僕の中で老人とうものの評価が完全に固定化されてしまっているからであり、即ち僕は老人である。とすればおかしな話のように聞こえるが、そんなにおかしな話ではない。どうだ、この知性。これだけ馬鹿でまぬけで間延びした、さらに内容の無い文章というものは滅多とお目に掛かれまい。

その点においてインターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである。おおっと。




つまり、何が言いたかったかと言うと、どうして僕は「エントリーを書き上げ損ねた時に投稿する為のエントリー」というものを大量に用意しているにも関わらず、エントリーを投稿しない日、などというものを作り上げてしまうのだろうか。今見たら22本もある。そのどれもが永遠に日の目を見る事なく終わりそうな糞エントリーだ。ここで言う駄目エントリーとは、内容の善し悪しではない。文章の内容やら題材やらが駄目であるといえば、当ブログのエントリーなどは全てそうである。

当たり前だ。真の駄目であると言い切ってよい真性引き篭もりに駄目で無い投稿などというものが書けるはずがない。即ち、ここで言う駄目とは一般的な基準から見たブログエントリーの駄目さではなく、「投稿ボタンを押すに至れない」という駄目である。それは物凄く駄目である。

つまり、インターネットは真性引き篭もりのアンチユニットである事を言いたい。いや、別にそんなに言いたいわけではない。別に言わなくてもいい。そもそも、強度としてはそんなに強く思っていないし、四捨五入すれば0である。Back Spaceキーを使わずに思考も推敲もまた感情すらも挟まずに嫌がらせの如くエントリーというものを書きまくればどうなるかという実験、などではなく単なる自暴自棄だ。即ちhankakueisuu的なものを殺しにかかっていると言ってもよい。

というかマジでムカついた。
なんで手元の名称未定のデータによると20時間以上もテキストエディタと向き合っていたのにたった1つ、ブログのエントリーのたった1つすら書けておらぬのだ。おかしい。テキストエディタなのにウェブサイトのブラウジングが出来るというのがおかしい。おかげで、「インターネットは1日6時間まで」という自分の中の約束事を達成できているのか達成できていないのかがわからない。非常に困る。困るというか、この1日6時間という制限自体があまりにも真性引き篭もり的不健全さに包まれているものであり、なんとかしたいと思う。非常に改善したいと思う。だって6時間あれば真性引き篭もりの新規エントリーが1つ書けるじゃないか!、エクステンションマーク。

デパ地下巡る食いしん坊がショーウィンドウを眺めて全てを食べた気分になりながら自分の胃がまるで底なしであるかのように脳みそを振る舞わせたり、毛の生えただけではなく、黴まで生えた童貞がテレビのCMやら折り込み広告やらを眺めて全てを食べた気分になりながら自分の胃がまるで底なしであるかのように脳みそを振る舞わせたりするのと同じように最近は、何か物事を考えるとそれを即座に擬似的にブログのエントリー化している自分はあまりにもブロガーすぎると思う次第である。

つまり今現在の日常において僕はブログ、あるいは擬似的なブログエントリーという枠組みの外で思考というものを行うことが出来ない。本来ならば「僕」という私個人の中の1要素として真性引き篭もりhankakueisuuが存在していたはずなのに、今では「真性引き篭もりhankakueisuu」という虚の中の1要素として私個人としての僕が存在する。

飲み込まれた、取り込まれたのだ。自分を見失っただとか、自制能力を逸しただとか、そういう話ではない。事実僕は真性引き篭もりhankakueisuuというものに完全に吸収されてしまったのである。もはやこのような真性引き篭もりhankakueisuuに対する僕の些細な反乱ですら、真性引き篭もりhankakueisuuの葛藤、悩み、あるいは独白という形を逃れられない。僕がたとえ自暴自棄になったとして支離滅裂にして滅茶苦茶なエントリーを書いたとしても、それは真性引き篭もりhankakueisuuの自暴自棄であり僕の自暴自棄ではない。

だいたい、自暴自棄になった人間がブログのエントリーを書くだなんて話は聞いたことがない。相場としては自棄酒自棄食い自棄オナニー、僕の場合で言うならば自棄ゲームだろう。即ち自棄エントリーなどというのは真性引き篭もりhankakueisuuの典型的な行動であり、つまり即ち僕は既にもういない。




「いなくなった人がいる」と書くと、まるで怪談のような響きがある。
けれどもこれは怪談ではない。
あるいは、怪談である。

即ち、インターネットという場所は、いなくなった人が大勢いる場所なのである。





何故突然、まるで1つのエントリーであるかのように改行が入り始めたかというと、1つのエントリーとして書こうと思っていた話をどさくさに紛れて書いているからだ。もう、真面目に新規投稿として書いていては投稿ボタンに辿り着く前に他のエントリーへと興味情熱が転移してしまい、九郎義経の発想飛び状態で考えが飛び飛びになって最後まで行けない。いや、考えが飛び飛びになっているのならば、まだいい。心の整理もつくだろう。

そうではなくて、考え自体は完璧に纏まって全て出来上がっているのにそれが活字として独り立ちしてくれない。文章として独立してくれない。まるで真性引き篭もりのようにシナプスの陰で小さく丸くなっている。大きく硬くなっている。巨根。真性引き篭もりhankakueisuuによる嫌がらせとしか思えないノイズが文中に紛れ込んでは僕の清潔感というものを消耗させる。




今一番の苛立ちは僕が馬鹿になっているという事だ。別に僕が馬鹿になることに関しては構わない。どれだけ馬鹿になろうと、馬鹿は己の馬鹿さに気がつかないから馬鹿なのであり、それ自体を苦にする事は無い。己の馬鹿さを苦に出来ない人間こそが真の馬鹿なのである。即ちその点において真の知は真の馬鹿に等しい。

事実として金で買えぬものなど2005年の冬という時代には1つも存在しないのだが、仮にもしも金で買えないものが存在しなとするならば、エナジーグリッドを買い占めて*勝利*が可能なだけの資産を持つ大富豪と、何一つ買う事の出来ない一文無しは等しい。

つまり、現存する最たる富者と現存する最たる貧者が等しくないのは、真の富者が真の富者では無いという事にも増して、真の貧者が真の貧者で無いという点に原因がある。

富者が全てを埋める事が不可能であるのと同じように、貧者は全てを空っぽにすることが出来ないのが問題なのである。捨てる神あれば拾う神ありというのが問題なのだ。捨てる神に関しては何の問題もない。それは人が友を捨てるように、夫が妻を、妻が子を、不倫相手が不倫相手を捨てるように人は神を捨て去ってよく、神は人を捨てさってよい。

問題は拾う奴がいるという事だ。現代において死に絶えたのは死だ。死は死んだ。絶望は途絶えた。下手をすれば言葉遊びに読まれかねない領域だが、僕は本当に思っている。真性引き篭もりは真性引き篭もったが故に真性引き篭もりを維持する事が不可能になった。それはまた別の話であるかもしれないが、この際構わない。




即ち、今一番の苛立ちは僕が馬鹿になっているという事ではなく、僕の脳みそが馬鹿になってしまっているという事だ。それはちょうどセンターバックを放置出来なくなった34歳のストライカーと同じように、やろうとしているのだけれどやれないのだ。考えようとしているのに考えられない。これは衰えではなく、堕落であり涸渇である。何が涸渇したか、それは言うまでもない。真性引き篭もりが涸渇したのだ。

かつて、と書いて構わない段階、即ち一年あるいはもう少し昔の僕の人生を支配していたものは恐怖だ。しかしそれは恐怖であったが純然たる恐怖ではない。恐怖と共になんらかの未来に対する渇望というものがあった。少なくともドラゴンクエスト8をプレイしたいと思っていたし、引き篭もりを脱したいという思いもあった。あるいはもっと切実な所で言うとワールドカップが見たかった。なのに今ではそれら、人生における欲望というものが全て失われた。セックスもキスもしたくない。解りやすく言えばそうだ。




「ゲームを辞めたい」とすら思わなくなった。
ゲームを辞めてしまったからだ。

それどころか、「ゲームをやりたい」とすら思わなくなった。
いや、それ自体はよい。

「ゲームをやりたい」と思わない事は正常な事である。
二十歳を超えてゲームをやっているような奴は人生設計に失敗した奴だ。漏れなく。

しかし、この僕が、いや、あの僕が、違う、かの真性引き篭もりhankakueisuuが「ゲームをやりたい」という感情を取り戻したいと思わなくなったというのは致命的である。




「ゲームなしでは生きられない」と考えていた状態は純然たる正常であり、
「ゲームなしでは生きられないと思っていた」と過去形で捉えるは正常だ。
対して「ゲームなしでも生きられる」というのは終焉を通り過ぎた向こう側だ。

「眠らなくても生きていける」だとか「食べなくても生きられる」あるいは「羽が無くても飛べるんだ!」なんて言っている人間と同じくらいに「ゲームなしでも生きられる」と軽々しく言い放つ事が可能である私個人即ち僕というものは完全に壊れてしまっている。無い。




即ち、今一番の苛立ちは想像力の無さの例えとして持ち出そうとしたフランス代表でリーズからローマあたりに行ってあとはどうなったかは詳しくは知らないし、今どこにいるかは知らないけれどボランチ、ボランチの人の名前を思い出せないということだ。違う、それ自体は構わない。まったくもって馬鹿になっているが、そんな些細なことはどうでもよいのだ。問題はこのような文章というものをエントリーに紛れ込ませると「ああ、それはクロードマケレレですね」といったくだらねえ、まったくもって焦点のずれたコメントがつくだろうという予測だ。いや、クロードマケレレではなくオリビエダクールなのだが、問題はそこではない。もちろん、書いている最中に思い出してしまったという事でもない。今一番の問題は、今一番の問題は、今一番の問題が何であるのかが理解出来ぬという事だ。もはや僕の処理能力の限界を超えている。何故僕は真性引き篭もりhankakueisuuなのだ。

下手をすればあと1000行くらい書いてしまいそうな勢いだ、というか今日一日でそれくらいは書いたのだが、投稿ボタンを押せなかったというだけだ。それくらい書いたと言ってもびっしり書いたわけではない。7割は改行だ。改行多すぎだ。なんで自分でもそんなに改行ばっかしているのかが理解できない。なんで自分でもこれほどまでにうまくエントリーを纏め上げられないのかが理解できない。頭の中にはあるのだけれどそれを取り出す方法がない。

「困った」と頭をまさぐってみたら、抜けてぐらついていた太いプラグに手が触れて「ああ、これを差し直せば元通り、明朗闊達なブロガーに戻れるのか」と差し直そうとしたがなかなか刺さらない。どうしてかと手にとって改めて見ればそれはプラグではなくて髪の毛だった。ヤマは無い。中身は無い。内容は無い。こけおどし、こけおどしだ。








つまりもう僕は真性引き篭もりhankakueisuuである事にうんざりしているふりをしている。全くうんざりなんてしていないのにも関わらずだ。全ては計算なのだ。全ては謀略なのだ。全ては策略なのだ。「世の中は汚い」と言う奴はそいつ自身が汚いのだ。「世の中は狂っている」と言う奴はそいつ自身が狂っているのだ。「紅音ほたるはエロい」と言う奴はエロい奴で「ビヨンド・ザ・ビヨンドはつまらない」と言う奴はそいつ自身がつまらない人間なのだ。ビヨンド・ザ・ビヨンドはつまらない。


2005年11月1日火曜日

煮こごり



恐怖でPCの電源を入れられなくなる事がある。
事がある、という表現は的確ではない。毎度の事だ。

それでもPCの電源を入れてしまうのは、他にやることがない、といった脳天気な理由からではなく、PCの電源が入っていない状態という恐怖に耐えられないというだけの話である。恐怖に押されて生きている。今の自分に助けてくれるものはただ1つ恐怖だけであり、それ自ずから恐怖。恐怖する。

故に、恐れおののかない心というものが欲しい。言葉にするなら不動心。機械的な不動心あるいは野性的な不動心純然たる恐怖。いろんなものが並び立たない。


「exciteブログにはネット右翼は存在しない」という仮説を立てた。



「exciteブログにはネット右翼は存在しないとい」う仮説に基づき調べてみたら、熱心なネット右翼がたくさんいた。びっくりした。

ネット右翼というものがブログを書く動機の大きな1つにアフィリエイトというものがあると考えていたので、アフィリエイトが不可能であるエキサイトブログに専業ネット右翼blogは皆無だろうという予測を立てていたのだけれど、全然そんな事は無かった。

そんな単純なものではないんだな。




そういや、mumurブログとかとゆー家の断絶はそのアクセス数にも関わらず、アフィリエイトでがっぽがっぽしていないという事を思い出した。

そこで、「mumurとかとゆーは、金を稼いでも使い道が存在しないからアフィリエイトをしていない」という仮説を立て「彼らはとても悲しい人なんだね」と感傷的な気分で夜を更かしていたのだけれど「それって僕自身がそうなだけでは?」という致命的なネタバレに気がついてしまい、とてもがっかりした。




結局の所mumurとかとゆーがアフィリエイトをしていないのはただ単に2人がとてつもない情報音痴の時代遅れだってだけの極めて単純な話なんだと思う。
少なくとも、僕はそう。