2005年11月5日土曜日

自分が発狂していないかどうか不安になってきたので、発狂に詳しい人に発狂したらどうなるのか聞いてみた。



「なぜ書くのか」なんて問われた時には「そこにブログがあるから」とでも答えておけばよい。アムンゼンでは無いだれか卿はその一言を持ってして偉大であると言える。ここでGoogleを使っては負けである。

しかしながら、果たして僕は誰の為にブログというものを書き続けているのだろうかとふと疑問に思ったりする。仮に今現在僕がブログを書く力というものを失いつつあるとすれば、もし仮に全くの虚空に落ちてしまったかのように頭の中にあった文章という文章、より正確に言うならば感情という感情、衝動という衝動の全てが消え失せつつあるとすれば、それは。

それは、これまで僕がブログを書き続けてきた相手、即ちエントリーというものを放ち続けてきた相手が消滅しつつあるという事を意味するのではないか。そのような懸念が頭を過ぎり続ける。過ぎり続けると書くと日本語が壊れているかのように見えるが、そうではない。事実として、そのような懸念が過ぎり続けているのである。




いったい、即ち。いったい、僕は誰に向かってブログというものを書き続けてきたのであろうか。初め、即ち一年前の今頃。それは言うまでもなく、僕自身に向けてであった。

動物、即ち馬や鹿の目の前に鏡を置くと、動物、即ち馬やら鹿はそれを自分自身の映った姿であるとは認識出来ぬという話がある。それを持って猿やら雉は自分を客観視する能力を持っていないという事までをもするつもりはない。そのようなことには興味がない。馬が馬かろうと鹿が鹿かろうと、知ったこっちゃない。

つまり、かつて僕は自分自身というものを外側から見る手段というものを持ち合わせていなかった。そして、その為のブログだったのである。即ち、僕にとってブログとは自分を外側から見るための道具、即ち鏡だったのである。




つまり、当初は言うまでもなく、自分自身に向けて書いていたのである。
それがいつからか明らかに、僕は他人の為にブログを書くようになった。

より正確に言うならば、僕は誰かに認められたかったのだ。




即ち、僕がもうブログなど書けぬと毎秒毎に思っており、事実毎秒毎にブログのエントリーの1タイピングすら行えず時間だけが過ぎゆき午前6時を迎えんとしているという事実は、僕が認めて貰いたかった相手というものが消滅した事を意味しているのではないかと思うに至って朝が来た。

それが誰であったのかがわからない。
結論から言ってしまえば「僕自身」であり、失われたのはそれなのだろう。




ゲームをやめれば認めて貰えるだろうという、極めて視野の狭くハードルの低い目標を達した事に一定の評価を与え続けていた自分自身がブログというものを通じて一般化され、ゲームをやめた事など評価に値しない、という状態へと変化してしまったのだ。

そして今、僕があの頃のDOTA allstarsのように毎日々々寝る間も惜しんで行い続けているものはと言えば、それは即ちブログを書くことである。つまり現時点において、僕が自分自身から評価されるには、ちょうどDOTA allstarsをそうしたように、ブログを完全に止めてしまうというのが唯一であるかのように思える。

いや、問題は多分もう少し複雑で、「ブログを止めれば評価された」という局面はもう過ぎ去ってしまっており、今現在僕に出来る事は「ブログを書き続ける」であり、もう他の全ては残っていないのだ。

困惑だけが残る。




ブログを書き続けてきたのは自分のためである。確定である。疑う余地は無い。では、自分のためとは一体何だったんだろう。どうしたかったのか、どうなりたかったのか、どうなれば勝ちだったのか。




もう、いいや。
時間の無駄だ。

即ち、当初はブログという道具そのものが鏡であったのに対し、いつからか「鏡に映った自分」が鏡になっていた。即ち真性引き篭もりhankakueisuuという虚像の描く悲しみ、苦しみ、あるいは怒りというものを僕は必死になぞって追い掛けていただけなのではないかという疑念が消えない。

何の為にそんな事を、というと、それは真性引き篭もりhankakueisuuを認めている人達を満足させる為、なんだろう。そしてより正確に言うならば、それは人達、という不特定多数の読者を指し示すものではなく、特定個人を指していたのではないか。

それが誰であったのかがわからない。真性引き篭もりhankakueisuuであったようにも思える(真性引き篭もりhankakueisuuの為に僕は尽くしてきたかのように思える)し、逆に僕であったようにも思える(僕の為に真性引き篭もりhankakkueisuuが尽くしてきたかのようにも思える)。あるいは他の誰かか。

この無気力の正体がわからない。あるいはこれが絶望というものではないかとも思うのだが、絶望にしては軽やかすぎる。僕の思い描いていた絶望とは失意のどん底の更に下、眠る事も出来ず起こる事も出来ず身を起こす事も動く事も出来ないといった状態であり、それに等しい時期は相当の長きに渡り存在していた。

まあ、いいや。明日になれば何事も無かったかのようにまた再び書けるだろう。血栓のように脳を分断しているエントリーの種が頭蓋を突き破って生えてくるだろう。春が来れば雪が消え去るのと同じように。当たり前のそぶりで。








などといった、如何にも脳みそパッパラパーなエントリーを書いていると、まるで自分が既に発狂しているかのように思えてきた。しかしながら、発狂している人間というのは狂っているからして、自分が狂っているのか狂っていないのかがわからない。

「私は狂ってるよ」という人が狂っているか狂っていないかの確立は1/2のイーブンイーブン。サイコロで1が出る確立は50%。1が出ない確立は50%。全ては平等なのだ。世の中には"どちらか"しか存在しない。正しいか、誤りか。いずれでもないか、いずれでもあるか。まったく、狂っている。




即ち、僕はもう既に発狂しているのではないかと不安になり、発狂に詳しい人に発狂したらどうなるのかを聞いてみた。すると、「発狂したら高速5Way弾をばらまいたり、ワインダー散らしながら自機狙いレーザー撃ってきたり、高速で突進しながら全方位低速扇弾をばらまいたりするようになるよ」という答えが返ってきた。

幸いにしてまだ僕は、高速5Way弾をばらまいた事も無ければ、ワインダーを散らしながらレーザーを撃ったこともなく、高速で突進しながら全方位に低速扇弾をばらまいた事もない。僕がばらまいているものといえば、即ち、せいぜい「即ち」くらいのものである。即ち、僕は発狂していない。至って、正常。正常ブロガー。ブロガー正常。即ち。