2008年3月31日月曜日

あー、やっぱりゲームがしたくなる。



困った。


2008年3月30日日曜日

「姜尚中マジギレでメガドラを破壊!!



 大混乱の幕開けでパーティーは始まった!!」


2008年3月27日木曜日

ゲームだ、ゲームだ、御託はいいからゲームをよこせ。



時々ビデオゲームがしたくなる。ゲームだ、ゲームだ、御託はいいからゲームだと、情熱がほとばしり、燃え上がり、沸き立ち、爆発し、多少の理性もすぐ消え去って十中八九ゲームをする事になる。そして、22時間くらいすると、まるで無かった事のように冷めてしまう。そういう事が間々あるのだけれど、あの捉え所の無い不尽の情熱は、一体何なのだろう。何に該当するのだろう。時々ゲームがしたくなって、ゲームをして、その度に戸惑う。


2008年3月25日火曜日

のぞんでもよいもの。



トマトが実るのを「のぞむ」ことは出来るのだろうか。
僕は、出来ないと思う。




トマトの種を畑に蒔けば、トマトが実るのが道理である。適当な土と、適当な水と、適当な環境さえあれば、トマトは必ず実るのである。

つまり、「トマトの種を畑に蒔いた」時に僕らが出来ることは、努力だけである。適当な水分を供給する努力。適当な養分を供給する努力。外敵からトマトの苗木を守る努力。害虫からトマトの果実を守る努力。そこに「のぞみ」が存在する余地は無い。微塵もない。

もしも、トマトが実らなかったならば、それは「のぞみ」の問題ではない。「努力」の問題である。「悪いところ」があったのである。トマトの種を蒔いた人間に、至らない所が存在したが故に、トマトが実らなかったのである。




世界平和を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。子宝を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。明日の晴天を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。明るい未来を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。誰かの幸福を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。愛されることを「のぞむ」ことは出来るのだろうか。生を、あるいは死を、「のぞむ」ことは出来るのだろうか。




全て、出来ないと思う。
道理に従って努力をする事は出来る。
けれども、「のぞむ」ことは出来ないと思う。

「のぞむ」というか、「いのる」というか、「ねがう」というか……。なんと言うのかは知らないけれど、出来ないと思う。




もちろん、間違いを犯す事は出来る。
「ねがう」べきことではないのに「ねがう」事は出来る。
「いのる」べきことではないのに「いのる」事は出来る。
「のぞむ」べきことではないのに「のぞむ」事は出来る。
けれども、それらは全て間違いだ。間違った「ねがい」であり、間違った「いのり」であり、間違った「のぞみ」だ。トマトが実るのを「ねがう」のはまったく無駄な事で、そのような暇があったらトマトの結実に向けて努力するべきだし、トマトが実るのを「いのる」のはお門違いというものだ。




この世の中に、正しく「のぞむ」事が出来る物事は、存在するのだろうか。先の問いの中で、唯一、僅かな可能性があるように思えるのは、「生へののぞみ」だ。死というものは、時として道理を外れた顔を見せる。甚だしい理不尽さを見せる。「生きたい」というのぞみは、正しいもののように思える。

けれども、科学の力によって全ての病に対する対処法が確立されてしまえば、「生へののぞみ」の、不治の病という部位は取り除かれてしまう。そうなれば、「生へののぞみ」は「トマトの実りへののぞみ」と同じものになってしまうのだ。




では、「死者が生き返ることへの望み」はどうだろう。人の死は本人の人生にではなく、他人の人生により濃い影響を残す。それを回避したいと、逃れたいというのは、正しい「のぞみ」たり得るのではなかろうか。「ねがい」たり得るのではなかろうか。「いのり」、たり得る……。いや、たり得ないのだと僕は思う。

それらも、また、正しい「のぞみ」たり得はしないのだ。いつだって、正しさは「努力」や「前進」の側にある。行動の側にある。世にある「のぞみ」は全て「のぞみ」ではなくて、他の何かのための前提条件とか、プロローグとか、その類に過ぎないのだ。為す術を持たない不屈の闘志になりたい。純然たる情念になりたい。僕の肉体はあまりにも強靱すぎて、僕のこころに釣り合わないのだ。のぞみはいつも振り回されて、霧散してしまうのだ。強すぎるが故に脆く儚く弱いのだ。


雑記



http://d.hatena.ne.jp/MotionBros/20080323/1206244933
から全文RSSを全部パクった。RDLの「登録」の所のURLが正しくなった。RSS生成速度も5秒前後から1.5秒前後になったので、パクり元の方がかなり洗練されているんだろう。わからないけれど。

元はこうだった。「Cut content from:【】」とか、荒々しい。

パクらせていただきました。ありがとうございました。
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それに際して既読RSSが再配信と思います。ご容赦ください。
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僕に理解できるオープンソースの最大のメリットは、パソコンが壊れてしまっても、ソースは無くならないという点。オープンソースイコール最強のバックアップ。もしもスレイプニルがオープンソースだったら、スレイプニル2は無かったのだ。
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あるいは、パクれること。
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外人が話の流れに沿った形で「ありがと」って言うのは何故なのか?、という問題が遂に解き明かされた。「alright」は「ありがと」と読むものではないらしい。「ok alright」とか出来すぎている。
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gum


2008年3月24日月曜日

鮫とマンボウのサバイバル



「鮫のように生きたいか、それともマンボウのように生きたいか」とはまた、理不尽な問いである。僕は人であり、鮫でもなければ、マンボウでもない。「蒲鉾になれ」と命ぜられてもどだい無理な話であるし、「寿司になれ」と命ぜられても不可能である。「どちらのように生きたいかと問うているのであり、どちらのように死にたいかなどとは、問うておらん」と言われるやもしれぬが、生きるとは死ぬ事であり、死ぬとは生きる事なのである。驚くべき事に、死なないものは生き物ではなく、死ぬものは皆、生き物である。しかし、これでは話が進まない。

100歩譲って鮫が良いか、それともマンボウが良いかという事について、真面目に考えてみようという所までは行った。随分と前進したものである。しかし、これがまた難しい。僕は鮫について何も知らないし、マンボウについても何も知らない。知らないものと知らないものとを比較して、「どちらが良い」などとは言えぬ。言えぬのだけれど無理矢理に、話を進めてみようと思う。時には強引さも必要なのだ。男はみんな狼なのだ。(男は狼ではない。)

鮫とマンボウの最大の違いは何か。それは「生まれ方」だろう。鮫は卵胎生である。一方のマンボウは卵生である。この相違点に比べたら、他の差異など小さなものだ。つまり「鮫のように生きたいか、それともマンボウのように生きたいか?」という問いは「卵胎生か、それとも卵生か?」という問いなのだ。これで随分とわかりやすくなった。考えるに容易い。

いや、考えるまでもない。鮫である。そんなもの、考えるまでもなく鮫である。いったい誰が「私はマンボウが良い。マンボウのように生きたい。」などと言うだろうか。そんな事を言う人間がいるとすれば、それは狂人である。物事というものを理解できない、狂ってしまった完全に、頭のおかしな人間である。いったい誰が1メートルもの強靱な肉体を横目に、1ミリにも満たない大きさで大海原に放り出される事を選択するだろうか。いったい誰がそのような理不尽なサバイバルを願うのだろうか。

人は皆臆病で卑怯な生き物であるからして、常に鮫のようにあらんとする。けれども、もちろん、そうは行かない。鮫のようにある鮫はただの鮫であるが、鮫のようにあらんとする人はただの薄汚れた人である。希望は常に、薄汚れている。


2008年3月23日日曜日

頭の中の文章を読めない人と、読める人。



書き出しの一段落と、書き終わりの一段落が、一字一句に至るまで頭の中で完璧に、完成してしまう事がよくある。

それに幾つものフレーズと、心にあること。前振りと、回収。他のエントリーとの関連性。仮想読者。叫びたいこと。囁きたいこと。自分が何を書きたいのか、全部、理解している。

なのに、まったくブログにならない。エントリーにならない。書き出しの一段落と、書き終わりの一段落が完成していて、内容も理解していて、流れもイメージとしてあるのに、まったく文章にならない。どうにも困り果てる。

そういう事が、よくある。




そんな時には、書き出しの一段落をとりあえず書き上げて、あとは、適当に、3時間ほどテキストエディタの前に座ってみる。大抵の場合は半日もすれば、書き終わりの一段落まで、辿り着ける。ブログのエントリーいっちょあがり、ってわけだ。そんなエントリーを書き上げて投稿する度に、僕は自分を責めていた。

カレンダーを埋めたいだけではないのか。そうまでして人に注目されたいのか。どんな低クオリティな文章を書いたってどうせRSSで読まれるし、購読RSSってのは減らないもんだという事実の上に胡座をかいている自分の傲慢さ。強情さ。全てのものが嫌になり、その度に自分を責めた。そうまでして投稿ボタンを押したいのか、と。




けれども、最近になってやっと、1つの事を少しだけ理解した。
僕の脳みそは、ハイデフにはほど遠い、って事だ。

僕は「自分の頭の中の文章を読むこと」が出来ない。
けれども、「自分の頭の中の文章を書くこと」は出来る。

だから、よく考えて、練りに練って、行き着くところまで思いが行って、見えなくなるまで駆けてって、頭の中が、「読めないけれど見える」という段階にまで達したならば、「無理矢理にでもテキストエディタの前に3時間座る」という解法は、傲慢でも何でもなくて、僕に出来る等身大の素敵なブログの書き方なのだ、と思うようになった。

以前は随分と真剣に悩んで、落ち込んだり、困ったりしたのだけれど、僕には頭の中の文章を読み上げながら、それを一字一句違わず書き写すなんて真似は、出来ないのだ。




もちろん、世の中にはそういう事が出来る人々も大勢いるのだろう。インテリジェンスグラディエーターというか、ブレインエリートというか。けれども、僕はそういうのじゃない。自分の頭の中を知るには、自分の書いたブログを読むしか方法の無い人間なのだ。即ち、無理せず、焦らず、気負わず、謙虚に自惚れて、目一杯必死で、自分に出来るやり方で、書いてゆこうと、思ったりもした。


2008年3月22日土曜日

ブログの移転先はどこがいいのか。



幾らか前からブロックブログが嫌になったので近々(あるいはいつかきっと(俺屍的な意味で))移転するつもりなのだけれど、これぞ、っていうブログサービスが無い。twitterとかtumblerとか見るべき物があるけれどブログじゃない。ブログサービスは乱立しているけれどもどれも同じようなレベルで、どこでも同じかな、という感じがする。

欲しい機能は、エントリー領域の横幅を指定できる、右カラム、広告がうるさすぎない、容量無制限、全文配信、あんまり重すぎないなど。それと、インポート機能も。インアクティブになったら消えるとか、文中に勝手にリンクが入るとか、レイアウト固定とかは無し。ブロックブログにはエクスポート機能が無いので、まずはエクスポートするやつを自前で書かないと。即ち、近々は無い。100%無い。


2008年3月21日金曜日

私信・id:naoyaへ



はてなスターつけてくれてありがとう(*^_^*)


信者はGoogleに乗って。



幾人ものブロガーが、愚にもつかないコメントを付け続ける信者への対応に追われて消えてゆくのを目にした。「迷惑なコメンテーター」というものは多種多様にして様々だけれども、信者ほど迷惑なものはない。

厳密に言えば、「信者」ではなく「信者コメンテーター」だし、「信者コメンテーター」ではなく「上から目線の信者コメンテーター」かもしれなのだけれど、その辺りはうまく書き表すにはケース毎の差異が大きすぎて困難なので、適当に省略しようと思う。




たとえば、AKB48は信者を必要としている。いっぽうで、ブロガーは信者を必要としていない。ブロガーが必要としているのは、「自らという軸で統一された発言場所」つまり、自分のブログなのである。同じように信者もまた「自らが発言する場所」つまり、他人のブログを必要としている。

彼ら信者コメンテーターが必要とするのは、「ブロガーの発言」そのものではなく、自らの(多種多様な)崇拝対象であるブロガーに対して「物を言える場所」なのである。

信者コメンテーターは神の声を必要とせず、神の耳を必要とするのである。あまり神々書くと僕がブロガーを神聖視しているように受け取られないけれど、ブロガーを神聖視しているのは僕ではなくて、信者コメンテーターである。(信者コメテーターがブロガーを神聖視して神の耳に向かって大声で叫んでいる実例が必要?alright、望夫でgoogleすればいい!したところで得られる物は何もないだろうけれど。)




もちろん、信者を必要としているブロガーが存在する事も確かだ。自ら神を名乗って悪行を働くってのはダブルミレニアムのワールドワイドウェブ的にはちょっとナンセンスなので、まず信者を作成して祭り上げさせる事により自らを神格化し、その威信を利用してセックスをする、仕事を得る、といった手法をとるブロガーも存在するし、アムウェイのように商品を売る為に一人でも多くの信者を必要とするブロガーや、AKBのようにより直接的に金を巻き上げる為の信者を必要としているブロガーも大勢いる。

彼ら現金ブロガーから見れば、信者というものは、鼠を捕まえてくれるならば黒でも赤でも一向に構わない。信者コメンテーターも一匹の商業動物にすぎないである。しかし、そのようなブログを書いている人間はそう多くはない。世にあるブログの総数からすれば、ほんの僅かな人達である。




信者コメンテーターはどこからブログへとやって来るのか。遂に待望の本題である。前述の通り、彼らは「ブロガーの発言」を必要としているのではない。「物を言える場所」より突き詰めて言えば、常に開かれている「神の耳」を必要としているのである。

僕は信者コメンテーターではないので、彼らの思考や行動パターンまではわからない。けれども、自分自身の行動パターンで言うと、「声」としてのブログを探して求めてインターネットを彷徨う時には、まずgoogleを使わない。皮肉な事に、googleは検索結果にブログが多すぎるが故に、ブログを探すのには向かないのである。

googleを使うことで得られるブログresultには、耳としてのブログ、つまり信者が欲しくて欲しくてたまらない、といったタイプの微妙なブログがあまりにも、多すぎるのである。

では、声としてのブログを探すときに何を使っているかというと、芋づる式ウェブサーフィンやソーシャルブックマーク、"http"をキーワードにしてのTwitter検索といった類のものである。機械式のグーグルとは対照的な、古典的な人力の人伝のリンクである。それらは、声としてのブログを探すにはもってこいなのだ。




そこから考えれば、信者コメンテーターの大部分はgoogleに乗って現れる、と考えるのがもっとも適当ではないかと思う。「物を言える場所」より突き詰めて言えば、常に開かれている「神の耳」を必要とした、自らの発言に耳を傾けてくれる人のいないような耳難民達が、googleを駆けずり回り、行き着いた先で信者コメンテーターとなり居座る。




googleは声たるブログを求める人間には役に立たない。「毎日訪れるを欲するだけのブログを探す」なんて課題はgoogleには重すぎるのである。人のブログを読むという行為は、googleサーフィンをするような短期間の「暇さ」と釣り合う行為ではなく、長期間、長時間に渡る、ライフのようなものであり、googleで「読み潰すブログを探す」暇があるくらいなら、人はテレビを見たり、読書をしたり、youtubeで動画を漁ったり、アサシンクリードをプレイしたりするものなのである。

いっぽうで、「耳たるブログ」を探すには、googleはもってこいだ。googleでふと思いついた適当な単語(あるいは真鍋なり望夫なり)を打ち込んで、行き着いた先に居座ってコメントを書き込んでは一時の満足を得て、さらに機会をうかがい、その機会が来るや否や大声で神の耳に向かって、コメントとな名ばかりの自己満足の為だけの愚にもつかないtextを何も考えずに書き込み続けるだけでよいのだ。




即ち、「神の耳」を求め、見つけては、そこに向かって大声で、愚にもつかないtextを自己満足の為だけの書き込む、所謂信者コメンテーターに、万が一にもなりたくはないと望むならば、あるいは迷惑なコメントを誰かのブログに残してしまいたくはないと望むならば、「googleをブログへの交通手段として用いない」という事が、何よりも優れた予防策になるだろう。もちろん、googleサーフィンをしてしまうような、手持ちぶさたなエネルギータイムを作ってしまわないように、チクタクチクタク追われて生きる、という事も含めて。そして、愚にもつかないテキストをアップロードする場所としての自らのブログを、頑なに、懸命に、必死に、全力で守り続ける事である。ill b b、その為に。


けっして書かれる事の無いものの強さ。



人を魅了するブログに憧れて、人を魅了するブログを書きたいと思ったことがあった。けれども、どのようにすれば人を魅了するブログというものが書けるのかが、わからなかった。




毎日几帳面に更新し続けている、とあるブログは僕を魅了してやまないのだけれど、1月10行書かれれば御の字なブログもまた、僕を魅了してやまない。

ゲームを愛し好き好み、毎日毎日開けても暮れてもゲームの話しばかりしている、とあるブログは僕を魅了してやまないのだけれど、ゲームを有害なものと決めつけ論外に掃しているブログもまた、僕を魅了してやまない。

頭が良くて、頭が良くて、インターネットと僕の脳みそが共に歪んでひび割れてしまうくらいの知性をまるで嫌がらせのように発散し続けている、とあるブログは僕を魅了してやまないのだけれど、知性のtの字も無い、ぐだぐだに意味不明な放言が成され続けるだけのブログもまた、僕を魅了してやまない。

それら、僕を惹きつけるブログを全て分析した結果得られた結論は、せいぜい「僕を魅了するブログは僕を魅了する」くらいのものだった。つまりは、何も得られなかった、って事だ。




もちろん、僕だって、何もせずにただ、手をこまねいていたわけではない。いろいろと考えて、仮説を立てたりもした。

「ブログを心の底から楽しんでいるかどうか」こそが、人を魅了する鍵なのだという仮説は、苦しみ泥まみれになりながらもう数年もの間毎日更新されている、僕を魅了してやまないブログの存在によって否定されたし、「アドセンスを貼っているブログは全て糞ブログ」というおまぬけな仮説は、アフィリエイトにまみれた、僕を魅了してやまないブログの存在によって否定された。

自らに都合のよい思いつきの「人を魅了するブログの鍵」をどれだけでっち上げても、すぐにそれを否定する例がどこからともなく表れて、全ては水泡に帰してしまった。

結局の所、どんなブログが僕を魅了するのかすらも、正確に捉える事は出来なかった。「僕を魅了するブログは僕を魅了する」以上のものは、何も得られなかった。つまりは、それこそが僕が得た1つの結論なのである。




決してブログに書かれる事の無いものこそが、僕を魅了してやまないものの正体なのだ。「決してブログに書かれる事の無いもの」は十人十色、人それぞれ違う。ある者にとってそれは妻への愛であり、ある者にとってのそれは死への恐怖だ。ある者にとってのそれは自らの半生に対する後悔であり、ある者にとってのそれは特定の誰かへの憎しみだ。ある者にとってのそれは口に出すこともためらわれるような見果てぬ夢であり、ある者にとってのそれは小さな黒い過去である。ある者にとってのそれは仕事の悩みあり、ある者にとってのそれは異常な性癖である。

それらは、けっしてブログに書かれる事は無い。そればかりではなく、書き手であるブロガーすらも、それら「けっしてブログに書かれる事の無いもの」の存在に気がついていない事すらある。(言うまでもなく、ここで僕が言う「書かれないもの」は「書かないもの」や「書けないこと」とは全く別の性質のものである)

けれども、ブロガーはそれから逃れる事は出来ない。けっして「書かれる事の無い何か」は、人が何を書き残そうとも、その全てに目には見えない万色の陰を落とし、その再現性の無い唯一が人を魅了する。




それが何であるかを、僕はまだ知らない。


2008年3月20日木曜日

ブックマーク出来ない。



ブックマークが出来ない。




どのくらい出来ないかというと、メインブラウザのブックマーク数が7個。一桁。うち2つはブログの投稿画面とブログの編集画面。他にも色々あるので実質2個。その2個も心底どうでもいい何かの間違いで気紛れにブックマークしたページ。全然ブックマーク出来ていない。

そんな調子だから、ウェブサーフィン中に「これはもの凄い文章だ」とか「これはもの凄いフレーズだ」と思っても、忘れると同時に失われてしまう。もちろん、記憶を頼りにもう一度辿り着く事は可能なのだけれど、肝心の記憶力の方が頼りにならないので、時間と共に全て失われてしまう。悲しい。僕はいっぱいブックマークしたいのに。ブックマークして、ブックマークしまくりたいのに。これは、僕が悪いのではなくて、ブックマークというテクノロジーが悪い。


「ブックマークに追加」

「ブックマークタイトル編集」

「フォルダを作成」

「フォルダを選択」

「コメントを記入」

「OKボタン」


とか、なんの嫌がらせだ。どれだけお手数煩わせれば気が済むのだろう。よっぽどの目的意識が無いと普通は無理だ。そしてウェブサーフィンというのは、目的無しに行うものなのだ。つまり、ブックマークなんか出来たもんじゃない。最低でも、1アクション(マウスジェスチャ/1キー/1クリック)でブックマークしたい。タグも1キーで入れたい。ファンクションキー一発でタグ入れしたい。コメントは文字選択+1アクションで引用したい。文字選択して度ラック&ドロップか文字選択してドラッグ&スルー(特定方向投げ)とかがいい。ブックマークタイトルは文字選択+1アクションか文字選択してドラッグ&スルーで変更したい。誰か作ってよwww。




いっとき、ブックマーク出来る人間になろう計画キャンペーンを開催して懸命に、ブックマーク出来る人間になろうとしたのだけれどやっぱり駄目だった。出来ないものは出来ない。ブックマーク出来ない。ブックマークしたいのに。


2008年3月18日火曜日

死なないゲームと死ぬゲーム。



「ゲーマーにとって自分の死は快感」研究を考える

初読した際には「商業サイトにガジェットとして消費されるゲームのおはなし」以上のものは感じられずに右から左へ流してしまっていたのだけれど、ゲームの話に関しては信頼を置いている人が非常にタイトな反応を見せていたのが喉奥小骨と引っかかり、気になって、気になって、どうしようもなくなってしまった。








結論から言ってしまえば、我が国のゲームに「死」は存在しない。「死」というものを描けていない。「死」をゲームにおける前菜、副菜、お膳立てとして、都合良く利用し、「造られた偽物の死」を生け贄に献げる事で、「ほんとうの死」から懸命に逃げまどい、避け続けてきたのが我が国のゲームである。

例えば世界で最も偉大なゲームメーカーである堀井雄二のスタートは明確に死であったと言いきれるけれども、そこに死は存在しなかった。死は「おはなし」でしかなく、プレイヤーは決して死なないし、死の影すらそこには無い。死の存在しない殺人事件である。

ドラゴンクエストにしても同じで「死んでしまうとはなさけない」という台詞が、ドラゴンクエストに死が存在しないことを証明している。死といのは、情けないと誹られる類のものではない。軽井沢においても、アレフガルドにおいても、プレイヤーは不可侵の特別な存在であり、「死」はそのプレイヤーを楽しませる為に用意されたテーブルを彩るイミテーションの副菜でしかない。

キングヒドラにオルテガを<やっつけさせて>みたところで、ゲマにパパスを<やっつけさせて>みたところで、ピサロにロザリーを<やっつけさせて(この表現が最も適切だろう)>みたところで、それらは全て死ではない。死とはかけ離れた「おはなし」でしかなく、プレイヤーは不死身であるばかりでなく、死を目にする事すらない。




そういった「死を避ける邦ゲー」の黄金時代へのアンチテーゼの1つだったヘラクレスの栄光にしたって所詮は「エンディングまで死ぬんじゃない(エンディングまで死にません)」に過ぎなかったし、ファイナルファンタジーの死は「二軍メンバーがパーティーの人数制限から漏れ落ちた」以上のものではなかった。ゲーマーを不死身にする為に自ら勝手に上手い具合に消えて行ってくれる、というのが長く邦ゲーにおける死のパターンだった。

現代においてもそれは変わらない。3D化された曹操はこれ見よがしに死ぬけれど、そこに死は存在しない。からくり仕掛けのお茶くみ人形のように躙り寄ってくるかかしを100、200と殴り倒す馬鹿ゲーが死を語れるはずもない。ギースハワードは死に、三島平八も死に、エアリスもまた同じく死んだが、それは死の枠外のおはなしでしかなかった。脳犬脂肪は論外である。




真の「死」を純真で無垢なプレイヤーに近づけてはならない忌むべきものとして隠蔽しすると同時に、純真で無垢なプレイヤーに見せても良い「うつくしい死」を工業的に作り出す事によって、子供だましの感動や思い出を提供し、反映を重ねてきたが我が国のゲーム産業である。

「死」は「いけないこと」なのだから、それは適切に管理運営されるべきである、という考え方が<<<家庭>>>用ゲーム機のメッカであったJAPANの思想なのである。「死はいけないことだから適切に管理しましょう。」それは傲慢であり、うぬぼれであり、思い上がりだ。いや、それらは思い上がりなどではなく、<油断>とか<臆病>、あるいは<事なかれ主義>と書き表すのが正しいのかもしれない。




ここで言う"我が国"とは、僕の狭く偏狭な認識による"我が国"でしかないので、「僕がプレイした主立ったゲームは死を描けていない」あるいは「我が国で主流のゲームは死を裏庭で飼い慣らしながらそれから逃げ惑っている」と書くのが本当は正しいのだと思う。

たとえば河野一二三や、三並達也といった一連の名前が幻想以上のものを僕らにもたらすのは確かだ。深作欣二を起用するに至ったゲームが死から逃げるはずがない。飯野の言う上田君にしても同じである。




もちろん、死から逃げ惑い続けた我が国が、駄目なゲームのカントリーであると言うつもりは毛頭ない。かつて「ゲーマーの死」を写実的に描くのは非常に困難なものだった。モータルコンバットとストリートファイター2のどちらが真っ当なゲームであったかを考えればそれはよく分かる。モータルコンバットは死を描こうとはしていたが、そこにあったのは邦ゲーと同じ「制作者によって適切に管理された死」であり、死の盆栽ゲームでしかなかった。刀で切られてもレーザーで撃たれてもびくともしない死を禁じられたキャラクター達が、finish himの表示と共に死ぬ。今更僕が言うまでもなく、それはギャグでしかなかった。

マリオ、ゼルダ、ソニックあるいはドラクエ、FF、ファイエム、マザーといったゲームがどれも死から逃げながら、傲慢に死を管理しようとしたご都合主義ゲーであったのは確かだけれど、どれもゲームとしては優れたものだった。メタルギアソリッドも「管理された死」を用いる事により死から逃げるという邦ゲーの黄金パターンを踏襲したものであったけれど、間違いなく優れたゲームだった。




けれどもid Software以降に関して言えば、死はアメリカの独壇場だ。「死なないゲームvs死ぬゲーム」という対立軸において、「世界を席巻する我が国のゲーム産業」という幻想的な甘い神話は完全な敗北を喫して崩れ去ったのである。




ナイフで刺されたら死ぬ。ライフルで撃たれたら死ぬ。高いところから落ちたら死ぬ。それらは「管理されない死」であり、死の無法地帯である。エアリスやオルテガ、かみやギルガメッシュなどは確かに死んだけれど、それらは全て「管理された許可制の死」だった。死の盆栽は死の原生林の前に敗れ去ったのである。

「死と向き合うか/死を避けるか」というのは、ゲームとしての優劣には全く影響しない。死から逃げ惑い続けてきた我が国のゲームにも特筆すべき優れたゲームがある。しかし、死を管理しようとした傲慢さは、死と素直に向き合ったアメリカンブレイブに敗れたのである。

ハードウェアの性能の向上によって、リアルな死の原生林を描くことが出来るようになった現代において、我が国の主流であった「死を管理しようとしたゲーム」は敗北を続け、その価値と存在感を薄め続けた。

死の原生林の前に破れ去り飲み込まれてゆく死の盆栽を横目に「しってなに?それたべれるのか?」な知性の欠片もない京都の玉無しヤクザ任天堂だけが唯一、死の原生林の浸食を全く受けず、そればかりか「しってなに?それたべれるのか?」という価値観を持ったゲームで死の原生林を浸食していくという、皮肉な結果を生んでいるのである。脳犬脂肪は論外(語るに値しないという意味で)だとしても、スマッシュブラザーズに死は無いし、ポケモンやマリオ、あるいはゼルダにしてもそこに死は存在しない。「管理された死」すらも。











「ゲーマーにとって自分の死は快感」に戻る。


「死の盆栽ゲーム」のハードコアプレイヤーであった僕が件の文章を読むに取らないものとして読み飛ばすのは当然であり、「死の原生林ゲーム」のハードコアプレイヤーである人間がタイトな反応を見せるのは当然の事なのだ。




なぜならば、僕らが「ゲーマーにとっての自分の死」という文字列を目にしたときに思い出すのは、「しんでしまうとはなさけない」や「植松伸夫のプレリュード」、あるいは「スネーク、スネェェェエエエク」といった類の、「死を描く事から逃れる為に造られた死」つまり「適切に管理された死」である。それらは「死」とはかけ離れた、ゲーマーが不死身の超人である世界における、死とはなばかりのちょっとしたペナルティでしかない。

言うまでもなく「死」というものは適切に管理出来るものなどではない。ちょっとしたペナルティなどではない。ナイフで刺されたら死ぬ、ライフルで撃たれたら死ぬ、高いところから落ちたら死ぬ、という世界における死こそが、「自分の死」なのだ。

最もメジャーな一人称シューティングおける「ゲーマーにとっての自分の死」はちょっとしたペナルティではなく、ゲームからの完全な退場を意味する。(元記事の調査対象タイトルである 007: NightFire が同じジャンルの一人称シューティングなのかどうかは分からない)






では、死が適切に管理されたゲームにおいて、「ゲーマーにとっての自分の死」はどこにあるのだろう。邦ゲーに死は存在しないのだろうか?死は死んでしまったのだろうか?いや、違う。死の原生林と全く同じような死が、死の盆栽にも存在する。

それこそが、「ゲームからの離脱」であり、「ゲームからの逃亡」であり、「アンインストール」でなのだ。それらは前述の一人称シューティングにおける「死」と同じ、「ゲームからの完全な退場」を意味する。












新作ゲームが全ての店で売り切れていると安心して楽な気分になったものだし、中毒化していたゲームをアンインストールするときの安心感は筆舌に尽くしがたい。忌々しいコンパクトディスクが弧を描いて海に吸い込まれるのを見たときなどは、至上の快楽を得られたものだ。




まだ見ぬ空は
もう真っ赤


2008年3月16日日曜日

身内読者を苦痛に感じるブロガーと、よそ者読者を苦痛に感じるブロガー。



ブログを苦痛に感じるブロガーが大勢いる事だけは、動かしようのない事実だ。インターネットは打ち棄てられたブログで溢れており、今日も一人、また一人と、ブログを無惨な廃墟に変えて、見えない世界へ逃げ出してゆく。








ブログとは、「どういうこと」なのか。

世の中幾らか多くの人は、ブログとは「書くこと」であると捉えている。けれども、それは、間違いである。ブログとは、「書くこと」ではない。

「書くこと」とブログとの間には決して埋める事の出来ない壁が存在しており、ブログを「書くこと」だなんて言い表すのは適切ではないし、同じように書くことを「ブログ」と言い表すのも、間違いである。

書くことではない。
では、何か。単純な話である。
ブログとは、読まれることなのである。






ブログを苦にするブロガーに苦痛を与えているもの。
それは「書くこと」ではない。
「読まれること」なのだ。

読まれる事を苦痛に感じたブロガーが、その苦痛に堪えかねて、自らのブログを打ち棄て、蜘蛛の子を散らすようにmixiだとか、オフ会だとか、ゲームだとか、セックスだとかへ、逃げ出しているのである。読まれることを、嫌がって。






もちろん、書くことを苦痛に感じる人もいるだろう。少なからず存在するだろう。けれども、そういった人は、好き好んでブログを開設したりはしない。好き好んで開設されたブログから人が逃げ出してゆくのは、「読まれること」に堪えられなくなった結果なのである。

ブログとは「書くこと」であると誤認し、「書くこと」ならば任せておけとばかりに喜び勇んでブログを開設した人間が、ブログとは「読まれること」なのだと気がつき、それに堪えられなくなる。そして逃げ出す。

それは取り立てて書く程の悪い事態ではないし、誰が悪いわけでもない。ただ、ワールドワイドに横たわる、打ち棄てられたブログの山は、失われたものの大きさを、「読まれること」たるブログの闇を、僕らにまざまざと見せつける。






「読まれること」の最大の問題点は、「誰に読まれるか」が指定出来ない点にある。職場の上司に読まれるかもしれないし、親兄弟に読まれるかもしれない。恋人の読まれるかもしれないし、ニュースサイトの運営者に読まれるかもしれない。当たり屋ブロガーに読まれるかもしれないし、古い友人に読まれるかもしれない。そして、彼らに、「どのように読まれるか」も同じように指定できない。

愛する人に頬をすり寄せられる事を苦にする人は多くはないが、福田康夫に頬をすり寄せられる事を喜ぶ人は、皆無である。同じ事がブログというものにも言えるのである。

誰に、あるいはどのような人達に読まれるかを指名する仕組みはブログには無い。「ブロガーが想像もしていなかった読者」が28Kのコードを伝って遠路遙々現れて、好き放題に、読んでゆく。人はそれを苦痛に感じ、ブログから逃げ出すのである。




ブロガーは、誰に「読まれること」を望むのか。
そして、誰に「読まれること」を苦痛に感じるのだろう。

それは、人それぞれである。
ただ、1つだけなんとなく、断言できる事がある。




身内の読者に読まれる事を思い描くブロガーは、よそ者読者に読まれる事を苦にする。いっぽうで、よそ者読者に読まれる事を夢に見るブロガーは、身内読者を苦痛に感じる。

身内読者というのは、「なんらかの共通項を持つ読者」の事である。たとえば、「同じ会社で働く」という共通項を持つ読者は身内読者の一種であるし、「同じ屋根の下で生活している」という共通項を持つ読者もまた、身内読者の一種である。「同じ趣味を持つ」という共通項を持つ読者も身内読者の1つであるし、「同じ職業」という共通項を持つ読者も、身内読者の1つである。






ブロガーがブログにおいて感じる苦痛。
ブログ苦痛。

ブログ苦痛の正体は、「想定していなかった読者に読まれること」である、というのがひとまずの、第一の結論である。今更僕が下記示すまでもなく、この第一の結論は見窄らしい穴だらけの役に立たないかかしに過ぎない。




僕が考える「ブログ苦痛」とは、もっと他の、別のものである。
ブログ苦痛の本当の正体。それは、読者と読者の挙動の不一致である。




読者と読者の挙動の不一致。

よそ者読者のように振る舞う身内読者。あるいは、身内読者のような振る舞いを見せるよそ者読者。彼らこそが、ブログ苦痛の正体なのだ。




即ち、福田康夫イコールブログ苦痛なのではない。福田康夫自体は、ブログ苦痛ではないのだ。頬をすり寄せる福田康夫こそが、ブログ苦痛なのである。

福田康夫という読者の存在自体は、ブロガーにとっては苦痛ではない。その存在自体は、ブログ苦痛とは無縁である。しかし、福田康夫が恋人のように優しい笑みを浮かべながら頬をすり寄せる振る舞いを見せた時、ブロガーはそれを苦痛に感じる。

先輩面をして人生訓を語りを始める福田康夫。キャバクラ嬢のように膝に手を置き微笑みかける福田康夫。阿吽通ずるチームメイトのようにハイタッチを迫る福田康夫。肩と肩とがぶつかっても素通りしてゆく福田康夫。そんな康夫と康夫の積み重ねが、人をブログワールドから追放するに至るのである。

逆もまた然りである。微笑みながら頬をすり寄せあう仲であるはずの読者が、論立てて理詰めで正論を振り回しながら玄関の小石を箒でザッサ、ザッサと掃き始める振る舞いを見せたとき、ブロガーはそれに堪えきれなくなる。ブログとは、人間をブロガーへと変貌させる道具ではなく、身内をよそ者読者に、よそ者を身内読者に変貌させてしまう、悪魔の道具なのである。





もちろん、それを別なふうに、「ブログ苦痛における"読者"とは、他ならぬブロガー自身であり、読者として振る舞う自らの視線に、書き手としての自らが堪えられなくなる」と身も蓋もなく書き表す事も可能である。

書き手であるはずのブロガーが、よそ者読者の目線で自らのブログを読んでしまったり、身内読者の目線で自らのブログを読んでしまったりした時に、自らの視線という包丁によって書き手としての自らと読み手としての自らが切り分けられてしまい、まるでショートケーキのように切り分けられてゆく痛みをに堪えきれず、自分自身を守ろうと、懸命必死に逃げ出してゆく者達の、ポケットからこぼれ落ちたチョコレート菓子の銀紙こそが、ブログというもの、なのかもしれない。とすれば、ブログは苦痛たり得ない。


自分の名前ではてなダイアリーキーワードを作成し、自作自演で明らかに不自然な自画自賛を書きまくっている奴を見つけた。



三雲成持とはって誰だよおまえwww過去400日間言及数0www雑魚がwww
「~負け戦と知りながら真昼の出撃だ~三雲成持の日記」て、勝てよwww頑張れよwwwしかもプライベートモードwwwチキンwww南近江www三雲成持さん必死だなwww


さくらさく



冬だったのに
キスをしても春


コメントの削除を行いました。



当ブログのコメント欄にて騙り行為が行われたと判断、認識しましたので、下記のコメント欄の削除を行いました。











のコメント欄


※コメントを記入する際は必ず「ニックネーム」を入れてください。
尚、批判、非難、誹謗中傷の類は一切受け付けません。
どうしてもいいたいことのある方はメールをご利用ください。
ご迷惑おかけしますが当分の間よろしくお願いします。
commented by 真性引き篭

個人ニュースサイトで取り上げられても全然嬉しくない。



少し世俗的な興味のある題材があって、その事柄についていろいろ知りたいと、インターネットサーフィンをして片っ端から見て回っている最中に、僕のブログのエントリーが個人ニュースサイトに取り上げられているのを発見してしまい、やった!超嬉しい!これで僕も一人前のブロガーだ!いくぜ!ブログ下克上!人生始まった!明日のかをりん目指して頑張るぜ!みたいな気分になった。

どうやら、 DONTAKT -> 読みゲー -> DEEP BLUE -> かーずSP という流れらしい。凄い。これは凄い。奇跡と言ってもよい。狭き門×4timesである。よく生き残れたもんだ。「ご、、ご無事でしたか!」って感じである。まさしく快挙だ。僕は凄い。そして偉い。カエルで言うとトノサマガエルに匹敵するくらい凄い。そして偉い。

当ブログにはアクセス解析もリンク元記録も存在しないので、個人ニュースサイトに取り上げられても全然気がつかないから、こうして偶然見つけてしまうと尚更嬉しさが増す的サプライズ。もう、「戻るで文章が飛んだのは天恵」くらいの勢いで嬉しい。

・・・のだけれど、よくよく考えてみると、個人ニュースサイトにリンクされても、全然嬉しくない。むしろ、逆に言うと、リンクされない方が嬉しいんじゃない?くらいの勢いである。

何故かというと、個人ニュースサイトは、ウェブサイトにリンクを貼るサイトだからである。個人ニュースサイトの運営者はリンクを張るという行為を生業として営んでおり、リンクを張るのが当たり前だからである。

つまり、個人ニュースサイトからリンクを張られるという事は、お好み焼き屋さんでお好み焼き定食を頼んだら、白米とお好み焼きがセットになって出てきた、くらいの勢いで炭水化物なのだ。深呼吸をしたら肺に酸素が入ってきました、くらいの勢いで嬉しくないのである。

ならば、一人のブロガーとして、どんな事が嬉しいかというと、「これまで一度として他サイトにリンクを貼った事が無かった自分メモなサイトに、初めて貼られたリンクが僕のエントリー」みたいなのが、とても嬉しいのである。処女性とまでは言わないけれど、「滅多な事では他人に言及しないサイトで言及される」みたいなの方が良いのだ。

といった事を考えていたら、「個人ニュースサイトで取り上げられて嬉しい」というケースも存在している事に気がついた。それは、「その個人ニュースサイトが、これまで一度として取り上げた事の無いジャンルのエントリーを取り上げる」という、ブレインスルー的な取り上げ方である。


即ち、僕は、「ゆんゆんな2行詩で動画ファイルナビゲーターからリンクされる」という偉業を成し遂げるべく、故郷のミシガン州で「自分を愛している!自らを信じている!自分の才能を信じている!僕の2行詩が動ナビでも通用すると信じている!」とマイク片手にまくしたて、苦難に満ちた2行詩道を今ここに、おぼつかない足取りで、全速力で駆け出したのである。ロムニーか。


2008年3月15日土曜日

海開き



閉ざされた海が僕を呼び
開かれた海が僕らを拒む


2008年3月14日金曜日

陰謀論。



待て、あわてるな。
これはwillmistの罠だ。


実名でブログを書かれると困る。僕が困る。



僕はブログと美少女にしか興味がない、平凡でありふれた正常な人間だ。
そこで問題になるのが、美少女の不在である。








僕はこれまで生きてきて、未だかつて美少女というものにお目にかかったことがない。けれども、僕は、美少女の存在を信じている。この広い宇宙のどこかに、必ずや、競泳水着を華麗に着こなして颯爽と街を行く美少女が存在していると信じている。


実際に僕が愛読しているブログを書いているブロガーは、全員が選りすぐりの美少女である。当然の話である。なぜならば、僕はブログと美少女にしか興味が無いからである。


競泳水着を着せて、椅子に座らせて、居眠りをさせて、だらしなく開けられた口からこぼれ落ちて来た涎をこっそりと、ぺろり、ぺろりと舐めとりたいと、そればかり、毎日毎日、夢に見ている。


ありとあらゆる状況証拠が、そのブログは、人生投了済みの中年男性が書いているブログである事を指し示していても、それは、変態ストーカーから自らの身を守り、世を偽る仮の姿であり、本当は美少女なのだと信じている。本当にそうなのだと確信している。


あらゆる状況証拠が、そのブログは、妻子在るよき父が書いているブログである事を指し示していても、それは変な人に付きまとわれない為の防御策であり、本当は美少女で、ししゃも足で、怒り肩で、貧乳もしくは美乳か巨乳で、間違いなく僕に惚れていると確信している。絶対処女だ。誇張でも何でもなく、嘘偽りなしに、そうなのだと確信している。


だから、実名でブログを書かれると、困る。僕が困る。だって、全てのブログが実名になるという事は、僕の人生から美少女が消失する事を意味するからである。それだけは、なんとしても阻止せねばならない。なぜならば、美少女の喪失は、夢と希望の喪失を意味するからである。僕らは美少女を守らねばならない。小倉秀夫の魔の手から、美少女を守らねばならない。なぜならば僕は美少女を愛していて、美少女は皆間違いなく僕に惚れているのだから。









つまり、僕は、今すぐにでも、故郷のミシガン州で「美少女を愛している!美少女を信じている!美少女の存在を信じている!全てのブロガーは美少女であると信じている!」とマイク片手にまくしたて、大統領選挙への出馬を表明したいくらいなのである。ロムニーか。


投稿ボタンを押したら文章飛んだ。



ブロックブログには3時間で自動ログオフが成されるという仕組みがあり、そのせいで、投稿ボタンを押したら「投稿されました」ではなく「ログインしてください」な画面が出て、文章飛んだ。しばらくinactiveだったのですっかり忘れていた。


頼みの綱のクリップボード履歴は「親も、子も、友達も、」「インターネットは、打ち棄てられたブログで溢れている。」「打ち棄てられた」「なるほど、アレックスワードは恐ろしい男だ。」「死を」の五件のみで、まったく役に立たない。


まず窓使いの憂鬱をダウンロードしてCtrl+Enterで全文選択してコピーのショートカットを作り直す所から始めようと思うのだけれど、そんな事をする余裕があるくらいならブログを書くし。


2008年3月12日水曜日

嫌いな人が嫌いな人を褒め称えているのを目にすると、とても幸せな気分になってしまうのは、なぜなんだろう。



嫌いな人が嫌いな物を手放しで大絶賛しているのを見ると、とても幸せな気分になる。愉快で、嬉しくて、小躍りしそうになる。嫌いな人が嫌いな人をあらゆる手を尽くして褒め称えているのを目にした時などは、もう、堪えられないものがある。至極の喜びである。

どうしてなんだろう。








おそらく、僕が思い描いている、この広い世界のイメージは、ディズニーの映画や、TBSのワイドショーや、ジョブスのスピーチや、冗長なタイトルのライトノベルや、ドリル汁の漫画や、jkondoのブログと同じくらいに、退屈で、くだらなくて、安っぽくて、俗悪で、無価値な、とても幼稚なものなのだろう。

つまり、そういう事だ。








悪い人は、とっても悪い。何から何まで、皆悪い。悪い輩というものは、車椅子のマークの上に止めたワゴンカーの荷台に幼児を置いて博打を打ち、アラブの大富豪と結託してジャンボジェットをビルディングに突っ込ませ、ハシシを吸いながらコンドームを付けずにセックスをして、紅茶で海を茶色に染めて、勝間和代を買い漁る。

悪い人は、馬鹿で、阿呆で、愚かで、まぬけで、汚くて、ずるくて、意地悪で、賢くて、残虐で、世界を裏から牛耳って、自らの手を汚さずに、道行く人の頭めがけて無差別に、金属バッドを振り下ろす。僕の描いている、世界のイメージというのは、たぶん、そんな感じなのだ。




そんな世界のイメージに、なるだけ沿った出来事を目にすると、とても幸せな気分になったり、無邪気にきゃっきゃと喜んでしまい、そういう情報を、そういう出来事を、もっともっとと求めてしまうのだろう。

だから僕は、嫌いな人が嫌いな物を大絶賛している現場を、どうにかして押さえようと、懸命に血眼になって、嫌いな人の言動を追いかける。嫌いな人が嫌いな人を褒め称えている現場を目にしたいという欲望を抑えきれず、嫌いな人を探して、嫌いな人をコレクションして、まだ足りない、まだ足りないと、自分の手帳の一番のページに、嫌いな人と嫌いな物のリストを、丁寧に、丁寧に、書き入れ続けているのだろう。

たぶん、それは、不毛で。
でも、幸せが欲しいんだ。
そんなものでも、僕には喜びなんだ。
くだらないってわかっていても、他に楽しい事が無いんだもの。








でも、それは、僕に限った話じゃない。

朝日新聞が中国を褒めると、大勢の人が幸せになる。大勢の人が嬉しそうに、喜んでいるじゃないか。産経新聞が靖国を讃えると、大勢の人が幸せになる。みんな、とびっきりの笑顔になる。井筒が亀田を褒めても良いし、電通がセカンドライフを褒めたっていい。

多分だけれど、世の中は、そういう風にして、幾つものグループに、細切れにされていくんじゃないかな。幸せと、喜びとを求めて欲するささやかな希望によって、世界は寸断されていくんだろう。安らぎと癒しを求めるほんのささやかな希望によって、僕らは取り返しの付かないくらいに離ればなれになって行くんだ。
















好きな物を好きだって言うだけで、どこかで誰かが幸せになるんだ。好きな物を好きだって言うだけで、誰かが悪に染められてくんだ。みんな悪者になっちまうんだ。


ゴールまで一歩の距離で。



戻るで文章飛ばないようにするにはテキストエディタで書けばいい、というのは確かに正しい意見ではあるのだけれど、テキストエディタで書くという事は、投稿ボタンから遠く離れた場所で文章を書く、という事だ。

「そこに投稿ボタンがある」という、言うならば核のボタンを手に持った状態で書き上がる文章と、「投稿ボタンは遠くになりにけり」なテキストエディタ上で書き上がる文章は、どうしても違うものになってしまう。

どちらが好きで、どちらが嫌い、というわけではない。けれども、「そこに投稿ボタンがある」という状態で書きたい果断さ、蛮勇が必要なエントリーは、ブラウザの投稿画面で書きたいし、「投稿ボタンは遙か彼方に」という状態で書きたい慎重さ、臆病さが必要なエントリーは、テキストエディタで書きたい。

つまり、「戻るで文章が飛んでしまう人に必要なツール」は「ブラウザでテキスト領域に文字を入力するときに、自分の好きなエディタを使えるツール(AreaEditorやMozEx)」ではなく、「ブラウザでテキスト領域に入力した文字のバックアップを取ってくれるツール」である。(わかりやすく言うとキーロガー的なツール。テキストロガー。)

以前は「Ctrl+Enter」に全てのテキストを選択してコピーという操作を割り振って、クリップボード拡張ツールを用いる事で随時手動でバックアップをとっていたのだけれど、OSの再インストールをしたせいで、手動バックアップシステムが失われてしまった所に、戻るで文章飛んでしまった。

まあ、戻るで文章飛んでもそんなに沈む必要はない。僕の脳みそは上手い具合に物忘れして、半年もすればまた、あらたな気分で書けるのだ。


ずるいでござる。



「ずるいでござる!」
「高杉はずるいでござる!」
僕の野武士が叫ぶ声が最高潮に達した。

それにつけても、高杉はずるい。
















「おもしろき こともなきよを おもしろく」
これである。
ずるい。高杉はずるい。
泣きじゃくりたい。そのくらい、ずるい。








高杉は、酷い男だ。
僕らが住んでるこの、希望と未来で満ちあふれた幸せな楽園たる地球船宇宙号を、「おもしろき こともなき世」と言って罵る。僕らの息づくこの世界が、こんな誹りを受けたことが、今まで、ただの一度でもあったろうか。いや、ナインティナインの、オールナイト日本。








少し高杉を、真似てみた。
おもしろくなきフレーズを、エントリーに紛れ込ませてみた。そうしてみて、初めてわかったのだけれど、やはり、高杉は、随分とずるい。おもしろくなきフレーズは、おもしろくない。それは、けっして、揺らがない。








高杉を斬って捨てたい。
ばさりと、やってしまいたい。
この、おもしろき事で満ちあふれた世の中を、「おもしろくなき世」と悪く言う高杉を、僕は決して許すことが出来ない。このおもしろき世を心の底から愛している僕は高杉を、決して許すことが出来ない。そうだ。僕はこのおもしろき世を心の底から愛しているのである。「この世を愛している!この世を愛している!」と故郷のミシガン州でマイク片手にまくりたてて、大統領選挙への出馬を表明したいくらいである。ロムニーか。








高杉は、きっとこう言うだろう。
「ほら、おもしろくない。」

ちくしょう。
こんちくしょう。
高杉黙れ。黙れ高杉。

おもしろいのだ!
僕はおもしろいのだ!
世界一僕は面白いブログを書くのだ。

もしも、僕が、ブログオブザブログを書き上げたならば、宇宙がそれにショックを受けて大爆発をするだろうと、僕は心のどこかで、心の底から、それを信じているのだ。ちくしょう。こんちくしょう。高杉は、きっとこう言うのだろう。「ほら、このブログを見てごらんよ。ぜんぜんおもしろくない。ちっともおもしろくない。鋭くもなければ、滑稽でもない。ユーモアも、エスプリも、教養も、なにもない。なのに、この男は、自分の書くブログが、何よりも面白いはずだと、心から信じてやがるんだぜ。けっ、おわらいだぜ。真性引き篭もりhankakueisuuってのはよ。くはあっ、くはあっ、くはあっ。」おのれ、高杉。くそう。ちくしょう。てめえ、たいがいにしろよ。調子に乗ってたら、ぶっ殺すぞ。粋がるんじゃねえ。








高杉は、ろくでもない。
あれは、ろくでもない野郎だ。たのしくて、愉快で、おもしろさで満ちあふれた、とても幸せなこの世の中を、「おもしろくなき世」と平然と、言ってしまえる高杉は、まったく愉快なご身分で、ろくでもない奴だ。とてもではないけれど、僕はそんな事、決して言えない。だって僕はとても正直で、誠実で、素直な人だから。おもしろいものはおもしろいと、笑って言える、人だから。








高杉は、おかしい。
高杉の言っていることには、筋というものが通っていない。
あんなもの、僕に言わせれば侍でも、維新志士でも、なんでもない。だって、そうではないか。この世というのは、おもしろい。大変におもしろい。たとえば、wii fitなんて、もの凄い面白いではないか。任天堂は凄い。あれは、レボリューションだよ。いつの世も皆、時代は京を、目指したものだ。








高杉は、汚い。
高杉くらいに汚い男を、僕は他に知らない。
高杉は、「おもしろき こともなき世」などとは、ちっとも思っていないのだ。あいつは、そういう男だ。ちっとも思っていない事を、平気で言ってのける、ブロガーのような男だ。汚い男だ。ちーーっとも思っていない事を、当たり前の事のように言い、そしてその逆を行く。おもしろい世の中を、「おもしろき こともなき世」と言いきった上で、「おもしろく」である。汚い。高杉は汚い。おもしろいのである。世は、大抱腹時代である。世は、おもしろくて、おもしろくて、たまらないのである。








高杉になりたい。
ああ、はっきり言って、僕は、高杉になりたい。だって、高杉は、面白かったのだ。おもしろき事で満ちあふれた世の中を、口汚く罵ってなお、高杉という男は、おもしろさを生きたのだ。僕とは正反対に。








高杉は嘘つきで、僕はおもしろくない。
悔しいけれど、おもしろくない。

世界が、もしも、おもしろくなき世であったなら、僕は、どんなに面白かっただろう。もしもこの世が、おもしろくなき事で満ちあふれていたら、僕の毎日はその一粒一粒までが、きらきらと、まばゆいばかりに輝いていただろう。でも、そうは行かない。世は、おもしろい。おもしろい事で満ちあふれている。









世は、おもしろい事で満ちている。
僕には、それが、おもしろくない。
おもしろき世が、おもしろくない。


方針転換のお知らせ。



ここ数日散々に悩んだ挙げ句にコメント欄のコメントに対して全て全身全霊全力を以て返レスを行うという方針転換を行ったのですが、二進も三進も行かなくなり追い込まれ、もの凄いトラウマ的なこっぱずかしさ、汚点というものを自らの歴史に残すと引き替えに精神的に一段落したので、冷静に考えた結果、僕にはコメント欄の全てのコメントに対して全身全霊全力を以て返レスを行うというのは、ちょっと明らかに不可能であるという結論に達したので、コメント欄のコメントに対して全て返レスを行うという方針を放棄する事をお知らせします。


戻るで飛んでしまった文章を再び書くのは、どうしてあんなにも困難なのだろう。



また、戻るで文章が飛んでしまった。




正確に書くと、タブを保護とタブをロックしていたにも関わらず、Gmailノーチフィアーが新着メールを知らせてきて、それを中クリックしたら、保護している上にロックまでしている現タブが上書きされてしまい、文章が飛んでしまった。どちらにしても、文章が飛んでしまった事だけは確かで、ひどく沈む。




文章を飛ばす度に感じるのだけれど、一度飛んでしまった文章を、再び書くという作業は、非常に困難である。さきほどまでそこにあった文章を再び書こうとしても、まったくにうまくいかない。ほとんど完璧なまでに頭の中で子細まで書き上がっていたエントリーですら、パーツとパーツが繋がらず、不自然で、いびつな、カタマリダマシイ的構造物ができあがってしまう。




書くというのは、文章という1つの未知へと、到達する道のりなのだろう。未知への飽くなき欲求なのである。一度それが既知のものとなってしまった時、もはや、人は二度と同じ路を同じ直向きさと情熱で辿ることなど出来ないのだろう。




得たものは、失われたもの。


コメントに対して全返レスを行う事にしたその日に酷い目にあった。



ふと思うところがあって、コメントは全身全霊全力を以て読むけれども返レスは書かないという方針を変更して、コメントに対しては誠心誠意全力を以て返レスを返す事にしたその日に「うつ病じゃないでしょうか?」っていうコメントがついて、そのコメントに対して全力を以て


ブログを書いていて強く感じているのは、適当なブロガーを引っ張りだして「病んでる」と書くのは、とても簡単な事だ、という事です。具体的に名前をあげるのは憚られますが、梅田望夫でも、雪舟でも、白鳥百合子でも、otuneでも、いくらかの道理に適った「病んでる」というコメントやエントリーを書くのは非常に簡単です。その対象がブロガーではなく、日本、アメリカ、あるいはトルコやデンマークや中国といった国であっても「病んでいる」と書くのは非常に簡単です。もちろんトヨタや任天堂、シティバンクやソニーといった企業を「病んでいる」と書くのはそれ以上に簡単な事でしょう。生き物というのは自ずから病むものだからです。病んでいて当たり前なのです。鳥に対して「あなたは鳥です」という事や、鉛筆に対して「これは鉛筆です」というのと同じくらいに、何かに対して「これは病んでいます」というのは簡単な事なのです。


当たり前の事を当たり前に書くというのは正しいコメントであり、正しいブログなのです。それは正しい姿です。しかし、インターネットの上で他人を「病んでいる」と書いている人の多くは、「当たり前の事を当たり前に書いている」のではなく、「いくらかの道理に適った発言を行う機会」というものを卑しく貪っているだけにすぎないと僕は感じており、それ故に「人様に対して<病んでいる>と書くことは、不退転の覚悟無しに行ってはいけない」と考えており、それに従っています。


誰かを(何かを)「病んでいる」と書くと言うことは、100%こちらに分がある(万物はすべて病んでいるといくらかの道理を持って言えるものですから病んでいるという指摘に正当性があるのは当然)その「当然至極の正当性」という「卑怯性」に見合うだけの失態、即ち「自ら己自体の病み」を「病んでいる」という指摘に含める事により、「当然至極の正当性」や「卑怯性」を逸する、薄める必要がある、というのが僕の古くからの訓なのですが、これは非常に難しいものです。能無しの無職が理詰めで論立てて、きわめて道理に適った形でゲイツを「病んでいる」と言い、「まあそういう俺も病んでいるのは確かだが」と書いたところで、人々に残るのは理詰めで論立てて道理に適った形で提示された「ゲイツは病んでいる」という事実だけでしょう。


少し話しが逸れた感はありますが、あなたの言う「うつ病」とはどのような「病み」を指すものなのか、そしてどこをどう読んで「うつ病」であると判断なされたのか説明していただけませんか。さすがにそのコメントだけではコメントのしようがございませんので。



という返レスを入れたら、さあ大変。






「私自身長年うつ病を患っており」とか「数年前からは躁うつ病となり、今うつ期です」とか「何度か自殺未遂を図ったこともあります」とか、「婆心ながらご忠告した次第」とか「うつ病者の戯言です」とか「私はうつ病(躁うつ病)になって良かったと思える瞬間があります」とか「あなたも実社会に出てみれば病んでいる人の気持ちが少しは分かるかもしれませんね。」とか「どうぞお大事に。」といった具合に自分語りの御高説が始まるという酷い目にあった。「頭のおかしなコメンテーターに居座られたブログの管理人はどうするべきか。こういうのって次から次へと沸いてくるな」的展開。助けてブログ魔王!(注釈:ブログ魔王はコメント欄閉鎖済み)





現実的に言うと一月に一度まとめて返レスとかだけれど、コメント欄で「ブロガーと外様コメンテーターのはなしがなりたっている」状態のブログは確かに存在するし、そうなるまでの間に「頭のおかしなコメンテーターとの徒労でしかないやりとり」というものも目にしてきたので、これは真面目に返レスを返す事にしたブロガーが乗り越えなければならない壁なんだろう、とも思う。


コメントに対する返レスが行われているブログのほとんどは、身内主義で外様をあしらうか、絶対王制で身内も外様も見下して(ブロガー←→コメンテーターという立場的に見下して)あしらうかのどちらかで、外様コメンテーターとの「はなしがなりたっている」コメント欄はほとんど無いから。返レスはするけれど「おまえらとはなしをする気はない」という逆方向はコメント欄閉鎖や放置より悪いものだし。


2008年3月11日火曜日

戻るで文章飛んだ。





不安、不安、高揚感。



毎日びくびくしている。怯えてばかりいる。不安だ。不安で、不安で、たまらない。僕には何もない。自信がない。勇気がない。心がない。夢がない。誇れるものは何もない。多分誰かが僕を見たならきっとこんな風に言うだろう。ああ、この人には何もないね。だってまず表情が無いんだから。とか。何とか。もちろん、僕にはそんな機会すらない。

不安だ。悲しくない。苦しくもない。辛くもない。不安だ。不安で、不安で、ならない。少なからずあった悲しいことや、少なからずあった辛いことは、全て不安に化けてしまった。悲しみも、苦しみも、全てが不安に化けてしまった。あんなに悲しかったのに。あんなに苦しかったのに。僕は別人のようになってしまった。耳は冴えて、首はこごって、背筋は曲がって、目はしぼんで、僕の涙は死んでしまった。

不安だ。不安である。どうしたものか。どうもしない。どうすることも出来ないからだ。3年の間ブログを書いて、不安だけが残った。そうではなくて、その前からずっと、僕は不安だったのかもしれない。けれども、もう、覚えていない。この空っぽの頭の中には、不安の他にはもう何も、残ってはいない。

不安だ。不安で、不安で、胸躍る。


2008年3月2日日曜日

2月はものみなあらたに。



一年の中で何月が一番最高か、って言うとそりゃあ、もう、2月に限るね。だって2月と来たら、最高にホットで、最高にクールなんだもの。









たとえば、もしも僕が。いや、たとえば、もしも君が、何か大胆で、素敵な事を思いついたとしよう。たとえばだよ。たとえばの話。「今月いっぱいは放蕩するけれど、来月からは世のため人のため世界をよくして回るんだ」と、思いついて、思い立ったとする。そんな時、もしも、8月だったらどうなるか、考えてごらんよ。



8月は長い。
とても長い。
31日もある。



もしも、それが、8月だったら、なんと三十一日間もの間、MYMのフォーラムを漁ったり、世界樹の迷宮のwikiを読んだり、飯野賢治をバカにしたりして過ごさなければならない。そりゃあもう、大変なもんだよ。人類にとっての、おおきな損失だよ。

ところが、これが、2月だったならば、そんな風にはならないんだ。なにせ、2月ってのはとても短い。とびっきりに短いんだ。なんとびっくり驚きの、たったの28日間。あっという間に過ぎ去ってしまう。マリファナも、コカインも、僕らの手には届かない。そんなものを買い付けるまでに、僕らの2月は過ぎ去ってしまう。あっという間にだ。あっという間にである。つまり、僕が言いたいのは、2月ってのは、最高にホットで、最高にクールだって事さ。だってそうだろ。そうじゃん。そうだよね?




それにさ、2月っていうのは、最高にホットでクールなだけじゃない。最高にクールでホットなんだ。たとえばだよ。たとえばの話をしよう。僕が誰かを心から好きになっても僕に出来る事なんて何もないんだ。結局の所僕なんてくだらない生き物はまるで存在していないみたいなものさ。つまり、たとえばの話をしよう。

たとえば、もしも僕が。いや。たとえば、もしも君が、何か途方もなくて大変なことを思いついたとする。たとえばだよ。たとえばの話。宇宙の歴史が始まって以来たとえ話が何かの役に立ったことなんて1度としてないよね。たとえ話なんて生まれてこなければ良かったのに。

「今月から頑張る」と、あなたが、思いついたとする。頑張る、って言ったってなんでもいい。そうだな、たとえば、一日170キロメートルのジョギングを自らに課す事にしたとする。軽いダイエットだ。フィットネスってやつだよ。アテナイ式のね。そうした時に、もしも、それが、8月だったなら、大変な事になる。なぜならば、8月は長い。とても長い。31日もある。これはたいそうなもんだよ。よっぽどの事さ。

だって、考えてみなよ。31日もの間、毎日、毎日、200キロもの道のりを走り続けたら、シューズもズックも破けちまうよ。もうボロボロだよ。途方もない事だよ。つまり8月ってのは、とんでもなくろくでもないって事。

でも、それが、もしも2月だったなら、そんな風にはならない。なぜならば、2月はたったの28日しかない。あっという間だ。あっという間に過ぎ去っちまう。つまり、それが、ただ、2月だっというだけで、最悪のシナリオは回避されるのだ。

即ち、僕が言いたいのは、2月っていうのは最高にホットなだけではなく最高にクールで、それだけに止まらず2月っていうのは、最高にクールな上に最高にホットだって事さ。つまり、2月ってのは、何かを始めるのにも、何かを止めるのにも、最高に適している、とびっきりに素敵な月だって事。








2月が最高の月だって事についぞ気がついてしまった僕は、2月から新しい何かを始める事に決めたんだ。そうさ。僕の人生は。2月からは、もの、みな、あらたに。


愛故に。



久しぶりに昔好きだったブログを読んでいて、そのあまりの面白さに恍惚と卒倒の間を何度も何度も行き来しながら過去ログ全て読んでしまった。くらくら来てしまったのである。それにしても、面白いブログというのは面白い。納得がいかない。理不尽である。面白いブログというものは、どうしてあんなに面白いのだろうか。コメント欄が閉鎖されているからだろうか。十中八九そうだろう。妻も子もいるリア充だからだろうか。十中八九そうだろう。あるいはそれ以外の何かに起因するものなのだろうか。十中八九そうだろう。それとも、ブログというものに愛されているからなのだろうか。ああ、きっとそうに違いない。面白いブログが面白いのは、ブログというものに愛されているからなのだ。

まったくムカつくのである。腹立たしいのである。理不尽であり、納得いかないのである。両親に愛され、兄弟に愛され、友に愛され、初恋の人に愛され、身勝手な理由で初恋の人を捨てておきながら尚も憎まれる事なく愛され続け、挙げ句の果てに妻に愛され、子に愛され、同僚に愛され、部下にまで愛されている人間が、事もあろうかブログにまで愛されているという現実が、腹立たしくてならぬのだ。これが理不尽でなくて何であろうか。

世の中では、明確に、愛の寡占というものが生じているのである。それだけならばまだよい。それだけならば、愛など不要の長物とばかりに嫌悪と憎悪と徒党を組んで21世紀を生き抜ける。しかし、世の中で愛の寡占というものの上で胡座をかいて笑っておる連中は、世の中の愛という愛をもぎ取ってシーザーサラダの具にしてかっこむだけに収まらず、おまえらにはこれがお似合いだ、これで十分だろと、本来ならば取るに足らないはずの雑多な心労とか、真夜中にトタンを叩き続ける春の嵐とか、さらに迷惑な春とかを、いらないものを無理矢理に、押しつけてきやがるのである。

僕はそういった事が嫌いである。そういった事を行わない。くだらないものを人様に押しつける真似をしたくない。嫌がらせだけを生き甲斐にして生きたくなんか無いのである。つまり僕は閃いたのだ。開眼したのだ。得意気な妄想に取り憑かれて狂信的にブログの投稿ボタンを押し続ける行為は、道行く人の口元めがけテラノーバ入りのジャンクフードを投げつける行為に他ならないのだという事実に。だから世界をこよなく愛する僕はブログを更新する事を止める事にしたんだ。愛故に。


2008年3月1日土曜日

おやすみなさい。