2008年3月23日日曜日

頭の中の文章を読めない人と、読める人。



書き出しの一段落と、書き終わりの一段落が、一字一句に至るまで頭の中で完璧に、完成してしまう事がよくある。

それに幾つものフレーズと、心にあること。前振りと、回収。他のエントリーとの関連性。仮想読者。叫びたいこと。囁きたいこと。自分が何を書きたいのか、全部、理解している。

なのに、まったくブログにならない。エントリーにならない。書き出しの一段落と、書き終わりの一段落が完成していて、内容も理解していて、流れもイメージとしてあるのに、まったく文章にならない。どうにも困り果てる。

そういう事が、よくある。




そんな時には、書き出しの一段落をとりあえず書き上げて、あとは、適当に、3時間ほどテキストエディタの前に座ってみる。大抵の場合は半日もすれば、書き終わりの一段落まで、辿り着ける。ブログのエントリーいっちょあがり、ってわけだ。そんなエントリーを書き上げて投稿する度に、僕は自分を責めていた。

カレンダーを埋めたいだけではないのか。そうまでして人に注目されたいのか。どんな低クオリティな文章を書いたってどうせRSSで読まれるし、購読RSSってのは減らないもんだという事実の上に胡座をかいている自分の傲慢さ。強情さ。全てのものが嫌になり、その度に自分を責めた。そうまでして投稿ボタンを押したいのか、と。




けれども、最近になってやっと、1つの事を少しだけ理解した。
僕の脳みそは、ハイデフにはほど遠い、って事だ。

僕は「自分の頭の中の文章を読むこと」が出来ない。
けれども、「自分の頭の中の文章を書くこと」は出来る。

だから、よく考えて、練りに練って、行き着くところまで思いが行って、見えなくなるまで駆けてって、頭の中が、「読めないけれど見える」という段階にまで達したならば、「無理矢理にでもテキストエディタの前に3時間座る」という解法は、傲慢でも何でもなくて、僕に出来る等身大の素敵なブログの書き方なのだ、と思うようになった。

以前は随分と真剣に悩んで、落ち込んだり、困ったりしたのだけれど、僕には頭の中の文章を読み上げながら、それを一字一句違わず書き写すなんて真似は、出来ないのだ。




もちろん、世の中にはそういう事が出来る人々も大勢いるのだろう。インテリジェンスグラディエーターというか、ブレインエリートというか。けれども、僕はそういうのじゃない。自分の頭の中を知るには、自分の書いたブログを読むしか方法の無い人間なのだ。即ち、無理せず、焦らず、気負わず、謙虚に自惚れて、目一杯必死で、自分に出来るやり方で、書いてゆこうと、思ったりもした。