2013年7月31日水曜日

そうやってまたすぐにヴァァァーーーって言う。

何かを凄く好きで、何かを凄く愛している人は、あんまりヴァァァーーーってならない。ヴァァァーーーってならずに、穏やかで静かな凄く好きが続く。山もなく谷もなく、ずーっと好きで、ずーっと愛してる。何かを凄く好きになるには、心の体力がいっぱい必要なので、何かを凄く好きになれる人ってのは、そんなに多くは居ない。

「凄く好きだよ」「愛してるんだ」なんてふうに着飾る人は大勢居るけれど、その実態は、ちょっと好きなものや、ちょっと気に入ったものを、「凄く好きなんだ」「愛してるんだ」ってことにして、人生を豊かにしているに過ぎない。世の大半、ほとんど全ての人にとって、「凄く好き」とか、「愛してる」なんてのは処世術の一つであり、人々にとっては自身の感情ですら、道具の1つでしかないのだ。

ヴァァァーーーってなる人はすぐにヴァァァーーーってなるし、なんにもでヴァァァーーーってなる。凄く好きだヴァァァーーー、愛してるヴァァァーーー、最高だぜヴァァァーーー。声を張り上げて彼らは叫ぶが、息が途切れるなりそれを止める。ゼエゼエ肩で息をして膝に手を突いて、コップの水をごくんと飲んで、次にヴァァァーーーと叫んだ時には、他のものに対して叫んでいる。さっきとは全く別の他のものにたいしてヴァァァーーー、ヴァァァーーー、って叫んでる。ヴァァァーーー、ヴァァァーーー、と奇声が飛び交い、好きだ愛だが掲げられるけど、それは彼らの生業であり、愛の囁き風に溶けて、君の耳には届かない。

2013年7月30日火曜日

妨げるもの。

2日とか3日とか、あるいは一週間とか、そういう短い単位でも順調さを手に入れられる事が時々あるけれど、どのような順調さも必ず何かに妨げられる。毎度毎度妨げられていると、妨げるもののパターンが見えてくる。それを排除出来ていれば、僕の人生は随分と順調だったと思う。排除出来る見込みはないので、この人生についてはもはや諦めるしかない。何もかも手遅れなのだ。

dendiは悪い事なのか?

マイクオフでプレイを垂れ流すだけでストリームには一万五千人。ちょっと喋れば2万人。半日続ければ3万人。大会の直前直後なら5万人。ただ視聴の多い人気者というだけではなく、名実共に世界最強プレイヤーであり、dota allstars史上最大のブランド力を誇るシーンのアイドル。時給50ドルとも100ドルとも言われる動画配信者がdendiだ。

そのdendiが何をやったかというと、動画を配信して現金をちゃりんちゃりんと稼ぎまくりながら、ただゲームを楽しみたいとdota allstarsをプレイする名もない市民をねちねちとなじり、罵倒し、片っ端からレポート。その一方で自身はストリームさえしてりゃあ金が儲かるから勝ち負けなんてどうでもいいという糞プレイをしてレイジクイット。ようするにただのleaver。ただの荒らし。挙げ句意味不明なネタビルドのネタプレイをし、チームを負けさせてきゃっきゃと笑って文句言われたらミュート。かと思えばまた味方を罵しる。擁護の余地は無い史上最悪のプレイヤー。dota allstarsの敵であり、ゲーマーの敵であり、世界全70億ゲーマー全ての敵。dendiを支持したり応援したりする奴らも全員ゲーマーの敵。




ほんとうに?

ストリームで金を稼ぎながら、ゲーマーを罵倒くらい、今時のプロはみんな(みんなって誰だよ)やってるじゃん!たまたまdendiが一番成功したからスケープゴートにdendi叩いてるだけでしょ!いやいや、そんなはずはない。事実としてあそこまで酷いのはなかなかいない。え?程度問題?みんなやってるけど、dendiがちょっと酷いからアンチdendi?ようはそれって、ただの嫉妬じゃね?だいたいファックとかnoobとかみんな言ってるじゃん。なんでdendiだけ叩くの?筋が通ってないよね?やっぱりただの嫉妬じゃん。ハイハイ嫉妬乙完全論破。(どこがだ)

2013年7月29日月曜日

敗因はいつもシンプル。

敗因は、心から勝利を望まなかったこと。敗因はいつもシンプルで、心を動かせることさえ出切れば、それを取り除く事は容易い。

奇跡の人

奇跡の人。
その人について書くとアクセスが増える。


奇跡の魚。
その魚について書くとアクセスが増える。


奇跡の国。
その国について書くとアクセスが増える。


奇跡の団子。
その団子について書くとアクセスが増える。


奇跡の映画。
その映画について書くとアクセスが増える。

2013年7月28日日曜日

悲しさもどこか遠い。

あまりの暑さにコップを冷凍庫に入れたら取り出し損ねて水が膨らんで割れて悲しいけれど、そんな悲しさもどこか遠い。

幻のハッピーエンド。

ハーレーダビッドソンが海の向こうから流れて来たのを見て、「ああ、これを海の向こうに送り返せば喜ばれるだろう」と思った人が大勢居たのだろうし、それを聞いて「ああ、海の向こうから送り返されれば喜ぶだろう」と思った人も大勢居ただろう。人は自らが関わると途端に、なにかよいことが出来るのだという根拠の無い妄想に捕らわれる。それを、よくないケースを想定出来ない想像力の無能さに求めるのはおそらく間違いで、善行への憧憬という浅ましさにその原因を求めるのが正解だろう。人は、一切の努力をせずに自らの価値を高められるチャンスを血眼になって探している。その性質が、人という生き物に元来備わっているポジティブさと結びついてしまうと、どんな小さな出来事も、決して捨て置かれはしない。ハッピーエンドは流れてこない。

2013年7月27日土曜日

インターネットはつまらなくなった。

「ネットがつまらない」=「自分がつまらない」
は言い過ぎとしても
いやはや結構。





ようするにおまえ、おまえな。おまえ。
おまえがくだらないのおまえ。
こう揶揄した光景を、僅か二日後に実際に目にするとは。














インターネットはつまらなくなった。
なぜならば、インターネットはあほくさくなくなったからだ。




かつてのインターネットはあほくさかった。
何をやっても得られるものはなかった。

コメントもなかった。
web拍手もなかった。
いいねもなかった。
リツイートもなかった。
グーグルもなかった。

アドセンスもアフィリエイトもなくて、
アクセスカウンタすらなかった。




アクセスカウンタがないと、書いても書いても、それが人に読まれているのかどうかがわからない。そんな空間で何かを書き続ける。それはとてもナンセンスで、とてもあほくさい行為だった。それでも人々が何かを書いていたのは、他にやる事がなかったからだ。あほくさい事をやるか、何もやらないかの2つしか選択肢がなかった。インターネットは頭のてっぺんから爪先まで全部、綺麗さっぱりあほくさかった。あほくさくないシステムはまだ、未完成であるか未成熟だった。あるいは存在すらしていなかった。


あほくさい空間は、あほくさかった。アクセスカウンタがないのはいくらなんでもあほくさいという事で、アクセスカウンタが出来た。アクセスカウンタによって、書いたものを誰かが読んでいるかもしれないと、わかるようになった。検索エンジンによって、興味のある人が自らの書いた文章に辿り着ける可能性が生まれた。あほくささは、あほくさいが故に潰された。コメントも、アドセンスも、アフィリエイトも、リツイートも、いいねも出来た。いろんなものが出来た。あほくさくないシステムが出来た。インターネットはどんどんよくなった。あほくさくなくなった。一日で全てが起こったわけではない。少しずつ、少しずつあほくさくなくなっていった。




あほくさくなくなり、あほくさくなくなり、さらにあほくさくなくなり、そこからさらにまたあほくさくなくなったことで、インターネットは浄化された。綺麗になった。素晴しい世界へと生まれ変わった。あほくさくなくなった。あほくさくないこの世界において、あほくさい事を続けるのは不可能だ。

あほくさくないシステムは、人をあほくさくなくさせる。アドセンスで5000円稼いだ。これはあほくさくない。ならば6000円稼げる事を書けば、それはもっとあほくさくない。人は成長し、人は適合し、人は最適化されて行く。どんどんあほくさくない方向へと引っ張られて行く。ちょっと前に、アマゾンアソシエイトにNOと言えというエントリーで僕が主張したのは、その危険性だ。

お金だけの話ではない。あほくさくないインターネットでは、人間関係が可視化される。人の評価が見えるようになった。自分の書いたものが、どのように他人に届いたのかがわかるようになった。果てはラインのように、自分の書いたものが読まれたかどうかまでわかるようになった。

校正も推敲も経ずに、20秒で書いたものが、10も20もリツイートされる空間もまた、かつてインターネットに存在していたあほくささとは対極的な空間である。書かずともマイクで喋るだけですぐ反応が返ってくるようなストリームサイトも、あほくさかったインターネットとは別のインターネットだ。書いたものはすぐ読まれ、発言はすぐ聞き取られる。目に見えた形のフィードバックを得られる。




あほくさくない空間で人々は、どうすればよりあほくさくないかを日々学習してゆく。こうすればアドセンスは踏まれる。こうすればアクセスが稼げる。こうすれば馴れ合える。こうすれば褒められる。こうすれば読まれる。こすうれば構ってもらえる。こういう題材について書けば注目を浴びられる。これを書けば検索エンジンからのアクセスを稼げる。あほくさくないインターネットでは、よりあほくさくない方法がすぐわかる。そして人々はそちらへと引き寄せられて行く。無意識のうちに、あるいは意識して自らを修正し、自らをよりあほくさくない書き手へと成長させる。

たとえば現在のインターネットであほくさい事を書く人間が1人生まれたとしても、その命は長く続かない。なぜならば、あほくさい事はあほくさいからだ。アドセンスに最適化されたり、リツイートに最適化されたり、アフィリエイトに最適化されたりして、あほくさい人からあほくささは消える。垢抜けて行くと書くべきだろうか。どれほどあほくさかった人も、あほくさいままで生き続ける事は出来ない。かくしてあほくささは敗北し、あほくささは死んだ。あほくさいが故に存在していたあほくさいインターネットは、あほくさいが故に滅んだのだ。

結果としてあほくさい事をあほくさく続ける連中によって作られていたおもしろいインターネットは、あほくさくないインターネットに取って代わられた。あほくさかった人達も垢抜けてあほくさくなくなった。今、日本は正に未来。あほくさい連中が自らを鼻で笑いながら2ヶ月かけて1700字のテキストを書き上げアクセスカウンタすら存在しない自らのウェブスペースにHTMLでアップロードする間に、1つのまとめブログは740のまとめエントリーをアップロードし、300万のアクセスを集め、22000のコメントが付き、2000万円の商品を売り、100万円の広告収入を得る。あほくささはあほくささが故に悪であり、悪は滅んだのだ。






















インターネットには無限に近い選択肢がある
この種の馬鹿が吐く台詞の典型。

面白いコンテンツは、面白いコンテンツを書く人の手によって作られる。心躍るコンテンツは、心躍るコンテンツを作る才を持つ人の手によって作られる。ウナギが泥から生まれるのと同じように、インターネットは人から生まれる。人が居なければ生まれない。全部人間。結局は人間。所詮は人依存。人でしかない。そして人は有限。無限ではない。また栃木が無限ではなく、無限に思える東京ですらも無限ではないように、世界すらも無限ではなく、インターネットもそれと同じように無限ではない。狭い狭い有限の世界に立つ、少ない少ない有限の人間。インターネットはそうして成り立つ。日本語話者となると、たったの1億と少ししかいない。たったのそれっぽっちしかいない。




面白い文章を書く人が1人死ねば、面白い文章がアップロードされるウェブサイトは1つ消える。面白いブログを書く人がブログをやめれば、面白いブログは1つ消える。面白いものを書く人は、昨日も今日も減り続けている。1つ、1つ、減り続けている。書ける人は居る。大勢居る。書いていた人も居る。大勢いる。けれどもそれは減り続けている。

そしてなによりも、減るよりも前の段階で消え続けている。面白いものを書ける才能を持った人が、初めの一歩を踏み出すよりも前に、書く事をやめてしまっている。インターネットでは面白さが生まれるよりも前に死んで行く。インターネットはつまらなくなり続ける。




何故インターネットはつまらなくなり続けているのか。

それは、インターネットが発展したからである。6年以上もブログを毎日更新してきた某ブログ魔王は今ではTwitterでフォロワーがフォローよりも1000人以上多い人気者だ。4年くらい毎日ブログを書き続けていた某はやしは、今では今年の音すらほっぽりだして、Twitterで取り巻きとちゅっちゅっちゅである。それはなにも、かつてインターネットであほくさい文章を書いていた古い世代の人達だけに限らない。今年に入って開設された素晴しいエントリーを書くブロガーは2ヶ月で20個ほどのエントリーをアップロードしたのを最後に、ブログの更新を辞めている一方で、300人ものフォロワーを誇るtwitterでは毎日30も40もつぶやき続けている。

インターネットが発展したことにより、インターネットで文章を書くという行為には、あほくささだけが残った。手軽に発言が可能で、手軽に報酬が得られ、尚かつその報酬が簡単に可視化される空間が誕生した。そんな時代において、ブログだホームページだ日記だのと、真面目に書き続けてもアクセス2桁な、あほくさいあほくさい空間で、人が何かを書き続ける理由はない。たまたま何かの間違いであほくさい事をはじめても、2ヶ月20エントリーで放置して暖かく優しく素晴しいtwitterに帰って終わりなのだ。



もう1つ重要なのはアフィだアドだの現金だ。

小銭を稼ぎたいだけの連中がどんなジャンルにも現れて、インターネットを覆って行く。現代においてブログ、及びインターネットというものは「何かを書く場所」であるよりも前に、「金を稼ぐ場所」である。そんな場所で、お金にならないブログを書いていると、あほくさくなってくる。当然の成り行きとして、モチベーションは低下する。書き続けるのが不可能になる。金を稼ぐ人達だけがモチベーションを保つことが出来る。そして一度稼いだが最後、人は成長しそちらに寄せられ、より稼げる文章を書く才能を成長させて、最適化されて行く。

まとめブログは1日に20個ものエントリーをコピペと組織化でアップロードし、10万の人がそれを読み百万の現金を稼ぎ続ける一方で、名もない人が数ヶ月もの思いと体験を結集させて、精魂込めて書き上げたエントリーはアクセス2桁。これで萎えるなと言うのは無理である。ブログを1年更新し続けるよりも、まとめブログのコメント欄でくだらないコメントを書き込んだ方が人の目にとまる。人に読まれる。反応も得られる。それならば、そうする。そっちの方がお手軽で、そっちの方がいい事だ。

そんな時代にいったい誰が、ネットで何かを書こうとするのか。
そんな時代にいったい誰が、ネットで何かを書き続けられるのか。






アフィリエイトやアドセンスが、「個人のモチベーションを底上げする」などと言っていた人も居たが、それは完全な間違いだった。アフィリエイトやアドセンスといった現金収入は、インターネットに存在する個人のモチベーションを完璧に打ち砕き、そしてインターネットを破壊した。真面目にそのジャンルを愛する人が、健気にテキストを書き残しても金にならない一方で、そのジャンルが金になりそうだというだけで参入したまとめ系サイトと、金の為に更新し続ける糞サイトだけが銭や銭やで生き残る。

ゲームよりもエロ漫画の方が儲かるからとエロ漫画を必死で更新し続けた挙げ句、リアジューの企業広告バナー契約が途切れた瞬間に休止した、えろまんがかんそうぶんなどは良い例だろう。真面目に書き続ける人ではなく、金儲けに長けた人が生き残る。金儲けをする人は広告止まるや否や、もっと儲かるサイトを作り直すと宣言して即放置。インターネットでは、そういう奴らが生き残り、インターネットはそういう奴らが浄化して行く。インターネットには、そういう奴らしか生まれない。



人には向上心というものがある。無意識に、あるいは意識的に最適化しようとする。儲かる方法があるならば儲かる方へとその才能を発展させる。人間関係の中で、同意や称賛といった報酬が得られるなら、そちらへそちらへと自らを成長させる。注目を浴びる方法があるなら、自然とそちらに近づいて行く。




LoLのブログなどもそうだ。「最近LoLはやってません」とか「ほとんど遊んでない」と平気で宣う連中が「今週のLoL動画」とか「○○からの翻訳です」などと、連日連夜更新しまくり、相互リンクに守られて、アフィとアドとで飾られたウェブサイトに、大量のアクセスを集める一方で、個人のブログは週に一度の更新が月に一度になり、やがては半年に一度になって最後には更新を停止する。LoLが出た頃にRSSを登録して読みはじめたブログは一つ残らず全滅した。ただの1つも生き残っていない。

このような現象は特定の零細ジャンルにだけ生じる現象ではない。ゲーム、アニメ、漫画やスポーツは言うに及ばず、科学や政治に至るまで、金目当ての連中が金目当てに更新する記事がインターネットを支配し、その陰では真面目に文章を書こうとした名もない個人は、あほくさくなってやめていく。

あるいは、金銭とは別の報酬が保証されている空間へと去って行く。馴れ合いという確実な報酬が保証されているlineやskypeやtwitterに時間を費やして、インターネットに届く前に消えて行く。最初の一文字がタイピングされるよりも前に、おもしろいインターネットを担うはずの人達が失われて行く。

よしんば止めるに至らずとも、書きたい事を心を込めて書くというのは、毎日のように行えるものではない。どうしても更新間隔が空き、どうしても記事数は少なくなる。結果として、毎日毎日糞記事を書き続ける人達と、アクセス互助会を構成するその取り巻きどもが、どのような場所でも上座に座る。自殺者を馬鹿にしてオフパコようはおまんこハントに精を出す前野浩太郎みたいなクズが大衆の目にとまる一方で、似たようなジャンルで群れずに昔から寂しく書き続けている所は過疎り果て、閑古鳥が鳴いている。




amazonのレビューなども、現代のインターネットを象徴する場所だ。アマゾンで発売日にビデオゲームのレビューを書けば1万人に読まれる。星を5個つけて太鼓持よろしく褒めておけば、100も200もいいねが付く。その一方で、発売から二ヶ月後に一通り遊び終えた人が、自らのブログに真面目に感想を書いたところで、それはほとんど読まれない。全てが「あほくさい」に集約される。

インターネットという徒労で非生産的で得られるもののない趣味空間は、他に選択肢がないという状態であったからこそ成り立っていた。馴れ合いという報酬や、お手軽な読者数という報酬が簡単に得られる空間がインターネット上に生まれてしまった以上、インターネットで徒労に時間を費やそうという馬鹿は、その誕生よりも前にその芽を摘まれる。

たとえば袁紹などはその典型だろう。読者が読みやすい形式と、アクセシビリティを維持して読み手に提供する事よりも、Twitterで取り巻きと楽しく馴れ合えることを選択する。「つまらなくなったインターネット」を象徴する光景である。決して、それを非難しているのではない。とても自然な行為であり、当然の成り行きなのだ。あほくさい事をするのは、あほくさいのである。

馴れ合えるなら馴れ合える場所で書く。褒められるなら褒められる内容を書く。儲かるなら儲かる事を書き、注目を浴びられるならば注目を浴びられることを書く。向上心という人の自然な性質が、*おもしろい*であったはずのものをねじ曲げ、他の何かへと造り替えて行く。




事実としてインターネットはつまらなくなり、そしてそのつまらなさは勢いを増し続けている。非生産的で得られるもののない*おもしろいインターネット*を、担っていた人達は現金に破壊されたインターネットを見てあほくさくなりその行為をやめ、今ではtwitterで気の合う仲間とよろしくやっているし、非生産的で得られるもののない*おもしろい*を今頃担っていたであろう才能を持った人は、インターネットなどには目もくれず、ソーシャルの中で人生を満喫している。べつやくれいを面白がる事の出来る才能を持った人間だけが、現代のインターネットを謳歌できるのだ。HighWire Pressで論文を検索するとアリストテレスは大量にhitするが、勝川俊雄は1件もhitしない。勝川なんて代物を有り難がってるのは日本人だけだ。泥を増やせばウナギは増える。この現代において、WarCraft3雑記やぱんだらのようなウェブサイトが生まれる余地はもはや無い。




例えば、twitterを眺めていて物足りなければ、
いやおまえアホだろ。

インターネットがつまらないと言う相手に「twitterが」と言い返す、風俗嬢に説教をするED老人系ブロガーしろくま。twitterはただのつぶやき、ピクシブはただの絵、ニコ生はただの生放送。そいつが「インターネット」の例としてあげてるのがギガジンにライフハッカーにネイバーまとめ、全部テキストですよー。頭大丈夫ですかー?ツイッターつまんねって誰が言ったの?ニコ動つまんねって誰が言ったの?脳味噌湧いてますかー?湧いてますねー。はい。残念でした。twitterやピクシブやニコ生は、あほくさくないインターネットの象徴であり、インターネットを正しく、あほくさくなく、そしてつまらなくしているものの1つでしかない。




しかもこれ、ピクシブとかニコ生とか若者ウケしそうなソーカルワードをブラックボックスいいことにオシャレワードで散りばめてるだけで、ニコ生に入り浸った事もピクシブに入り浸った事も無いことが透けて見えてしまう辺りは流石、子飼や清水と双璧を成す風俗嬢に説教をするED老人系ブロガー。おまえの言う「おもしろいインターネットの観測範囲」ってのは匿名ダイアリーで馬鹿を見付けて偉そうに見当違いの説教することなんですね素晴しいきゃー素敵お兄さん抱いてー。「その場の同調性の高さ、クローズでカルトな“熱量”に惹かれる人は、そのようなニッチな蛸壺のなかで茹で蛸パーティーでもやればいい。」ってかいやあこいつはめでたいおめでたい。脳味噌照る照るおてんとさまだね。よくもここまですっからかんのフレーズを書けるもんだ。流石だねこれは才能だよ。









他にやることがなくて仕方なくネットで書いていた人は余所へ行った。健気に生真面目に書き続けた人は現金が押し通るインターネットに踏み潰されて萎えてやめた。新しい世代の人達はネットで書くなんてあほくさい無意味な事に時間を費やそうとはしない。それでも書いてみようと始めた健気な人は、向上心を発揮した結果、儲かるパターンに集束していく。あるいは、安易に注目を浴びられるパターンへと集束してゆく。

コミュと金が全てを回収し、インターネットを完全に覆い尽くしたのが2013年という時代。おもしろいインターネットは終了しました。もちろん、完全に滅んだわけではありません。完全に消滅してしまったわけでもない。RSSを400個読んでいれば、月一くらいでは行き当たる。けれども、そのくらいにまでは減った。うなぎくらいにまでは減った。





馴れ合いたい?
どうぞどうぞ。

褒められたい?
どうぞどうぞ。

構って欲しい?
どうぞどうぞ。

あほくさい事はしたくない?
ウェルカムただ今13年。




インターネットは人々のニーズに答え、欲望を満たす為の環境を作り上げた。今やインターネットという仮想空間は、この先未来永劫無限に続く幸福eraのど真ん中にある。人々は幸せになり、インターネッターは幸せに過ごし、インターネットは壊滅し、インターネットはつまらなくなった。もはや誰1人として、人生を浪費して徒労の石を河原に積み上げる必要は無い。不完全で未完成のインターネットは、人々に徒労を強いるいびつで歪んだ空間だった。僕等はインターネットという夢の機械を介して、見知らぬ誰かを洗脳し、見知らぬ誰かを強制労働させていたのだ。今では違う。そんな心配は不要である。日進月歩で進歩した英知の果てのインターネットは、まるで現実世界のように、金と人間関係が全てを動かす、苦しみのない自由な空に成り果てたのだ。

2013年7月25日木曜日

暴君夏の罵声

8時58分に眠ろうとするも叶わぬままに、17時17分を迎える敗北感。絶え間なく罵る夏の罵声は、澱んだ血液を沸騰させて、僕の体を火照らせる。

山口県に憧れて。

山口県で1人の男が何人かを殺して山に逃げたという話を目にした。人口は10人ほどで、皆老人ばかり。山口県というところは、殺したい人を簡単に殺せる、夢のような世界だ。殺人が日常的に横行するメキシコの麻薬カルテルの大ボスですら、こうは行かない。対麻薬戦争を裏で牛耳るバラクオバマを殺したいと思っても、その願いは叶わないし、それどころか自国のフィリペカルデロンすら殺せずに終わった。プーチンも毛沢東もスターリンも、大勢の人を殺したが、殺したい人を殺せたわけではない。スターリンがヒトラーを殺したいと願わなかったとは信じがたい。世に言う殺人鬼はどこかで妥協し、どこかで自分の心を裏切っている。本当に殺したい人はどこか他の場所に居たはずだ。しかし物理的に殺せなかった。だから諦めた。小学校で包丁を暴れた人殺しも、秋葉原の路上で暴走した人殺しも、三菱の工場で人を刺した人殺しも、皆妥協の産物として人を殺した。本当に殺したい人を殺す事を諦めた。夢を諦めた結果としての人殺しなのだ。何故人は夢を諦めるのか。それは世界が広いからだ。あまりにも広いからだ。広すぎるからだ。ヒトラーがスターリンを殺したいと願ってもモスクワは遙か彼方。スターリンがヒトラーを殺したいと願ってもベルリンは遙か彼方。人の夢を妨げるのは世界の広さだ。一番殺したい人はパリに、二番目に殺したい人はリオデジャネイロに、三番目に殺したい人は鬼籍で、四番目に殺したい人は神奈川。そんな風になってしまうと、夢は叶わない。夢が叶う余地はない。結果として人殺しは妥協で人を殺す。「誰でも良かった」と勝ち誇ったように宣う殺人犯は、嘘をついている。本当は殺したい人が居たのだ。けれども、世界が広すぎて諦めたのだ。自らの夢を裏切ったのだ。自分の心に背いたのだ。もしも世界が山口県ならば。

2013年7月24日水曜日

退路を断つとはどういう事か。

人は退路というものが後ろにしかないと知らぬ間に思い込んでしまっている。しかし島津義弘が後ろに下がれず、前方に退路を見出し前に進んで退いたように、退路は往々にして前方に現れる。源義経もまた後ろに下がれず前に進んで奥州に入りそこで討たれた。退路とは進路であり、退路とは未来である。間違った退路を断たない限り、正路を進むは難事である。退路は断つべきである。今すぐに立つべきである。可能な限り立つべきである。退路は全て断たれるべきである。

果たして、退路を断つとはどういう事か。

退路を断つとは、全ての選択肢を行き止まりまで突っ走ることである。全身全霊全力で生きて、一秒人とも油断せず、弛まぬ歩みを全力疾走、一生懸命生き続け、全ての退路を行き止まりまで突っ走り、「ああ、この先にはもう何も無い」 という事を確認した上で、行き止まりのない正しい道を引き当ててそこもまた、全力で走り続けることこそが、唯一退路を断つ術である。

諦めれば幸せになれる。素晴しい人生が手に入る。

諦めれば幸せになれる。
素晴しい人生が手に入る。



諦めない限り、人生には苦しみが付き纏う。何かを成し遂げたいという向上心と、それを許さない非情な現実とがぶつかりあい、朝夕の区別なしに繰り返されるその衝突の衝撃は、心の中に耐えがたい恐怖の振動となって響き渡り、それに脅かされた僕等はびくびくしながら怯えて過ごす。そして心は死んでいく。人間の中に存在していたはずの人間性は、消耗しすり切れ壊れて行く。苦しみに耐え、痛みに耐え、自らを叱咤激励し、時には鞭打ち、諦めずに頑張り続けるということは、自らを破壊する為の努力に他ならない。諦めないということは、他人の精神と他人の肉体、他人の人生を破壊する事に快楽を見出す加虐趣味のサディスト共の口車に乗せられ騙されて、その術中に嵌り、人の苦しみを見て喜ぶ人達に快楽を提供する為に、自らを破壊しようと懸命になっているにすぎない。

その環境から逃げ出す為の唯一の手段は、諦めることだ。




諦めれば衝突は消える。苦しみは消える。痛みは消える。悲しみも失われ、葛藤も消える。人間を阻害していた全てはなくなる。心は晴れ、健やかさが蘇り、平穏さが取り戻される。

諦めて全ての努力を放棄した途端、連中はそっぽを向くだろう。当然のことだ。彼らが君の努力に興味を示していたのは、君の成功を願っていたからではない。彼らは人の苦しみを間近で見る事に喜びを覚える変質者である。人の苦しみを喰らい、人の不幸を撫で回す為に、努力する人間に付き纏っていたのだ。

諦めた瞬間に全てが変わる。間違いで塗り固められた不条理なルールの不平等競争空間から抜け出して、真の自由が手に入る。全ての支配から逃れ、本当の人生というものが手に入る。人の中に存在していた人間というものが再び完全な姿で君の心の地平に降り立つ。気分に余裕が出来て、心は蘇る。あなたはは生き返る。はじめて人として生き返る。




生き返った心は希望を抱く。
蘇った人は夢を抱く。

そしてまた、再び突き進んで行く。
泥沼の努力に自らを突入させる。




もちろん、諦める前よりも、事態は悪化している。君が諦めていた時間、何の役にも立たない人間性を取り戻していた時間、健やかさを手に入れていた時間、心が晴れていた時間、その時間の長さの分だけ、事態は悪化している。何の役にも立たぬものの為に、君は人生をふいにしたのだ。人として生まれた僕等には、選択肢が無い。為す術はない。自らを削り、自らを破壊し、血反吐を吐きながら、得られるもののない努力を懸命に、全てが失われるまで続ける他に道はない。頑張れ、頑張れ、もっと頑張れ。






諦めるな。
絶対に諦めるな。
どうしてそこで諦めちゃうんだ。

やれば出来る。
ここまで頑張ったんだ。
あと少しじゃないか。
頑張れ、頑張れ、もっと頑張れ。






加虐趣味者は今日も笑う。
僕を眺めて今日も笑う。

2013年7月23日火曜日

悔しい。逆に悔しい。

胸を高鳴らせながら早起きしたらリプレイが見られないバグ事変で、dota2に対する興味を完全に失ってしまってからというもの、1ゲームもプレイしてないし、リプレイも見てない状態だったんだけれど、xttとcty見るべくdota2を立ち上げて、ふと思い立ったようにリプレイ検索してみたら、止めたと思ってた人達が悉くdota2続けてた。しかも、全員全ゲームノーマルレートとか、何をどうすればそんな事になるのかと発狂しそうになるレベル。明らかにおかしな事をしてるのに、教えてくれる人とか居ないんでしょうか。dota allstarsは壮絶な糞ゲーで、プレイヤースキルも人間性能も完全に不要、dota allstarsは糞ゲーです、という事を理解するだけで15ページ(上位1%)までは誰でも行ける。行けない方がおかしい。そもそも15ページ以降はdota allstarsじゃない。画面見てボタン押してクリックしてるだけのゲーム。まあ、1%は言いすぎにしても、かろうじてdota allstarsしてるのは上位5%くらい。それ以降はそもそもプレイしていない。あなた方は全員dota2プレイしてないですとはっきり申し上げたい。それにしても酷い。本当に酷い。なぜあんな有様なのか。700ゲームもしてるのに、誰もルールを教えてはくれないのか。他の人も300ゲームしてそれか、という。総計20万もするPC使ってるだけあってマウスムーブだけは上手いけれど300ゲームでそれは無いですよ。バーチャファイターなんか1ラウンド30秒ないので、動体視力や反射速度や入力速度が必要になる。どんなゲームであるかを理解しただけでは勝てない。一方dota allstarsは1ゲーム40分。動体視力も反射神経も入力速度も不要。あーなんだdota allstarsって糞ゲーなのね、って理解するだけで勝てる。プレイヤースキルも知識もモチベも必死さも何も要らない。理解だけで勝てる。勝てるまでは行かないけれど、上位5パーセントまでは確実に行ける。一瞬で行ける。余裕で行ける。行けない方がおかしい。700戦だ300戦だってやってるのにあのレベルで止まってるっていうのはありえない。furryfishたんでもネタpickしなければ上位3%くらいの腕はあると思うので、上位3%までは本当の意味で誰でも一瞬で行けると思う。上手い下手どうこうじゃなくて、700戦もしてるにも関わらず、"プレイしてる"という段階まで辿り着けていないというのがなぜ俺が悔しい。それにしても忿怒ctyは神手すぎる。傑物xttはやはり傑物。viciのpickerがluoさんならば優勝候補だったのに。

wikipediaという有害コミュニティ。

千野志麻がいかがわしいホテルの駐車場で人を轢き殺して半年が経過した。その事故はテレビのニュースも報じたし、新聞にも載った。あまつさえ千野志麻本人のウェブサイトにおいても発表があった。それから半年が経過したにも関わらず、この事故に関する記事はwikipediaから排除され続けている。これは異常な事態である。異常な事態だけれど、これがwikipediaの日常である。




wikipediaは、「誰もが執筆できるインターネット百科辞典」を自称している。しかし、千野志麻の一件に象徴されるように、それは真っ赤な嘘だ。wikipediaがインターネット百科辞典だなどというのは、全くのでたらめである。wikipediaとは、閉鎖された集団独裁制の偏向的ウェブサイトであり、極めて少数の人達が馴れ合う為に存在している有害コミュニティだ。

千野志麻は親類を辿れば総理に行き着くといった身上や、自身がマスメディアと深く繋がっているといった事情から、マスコミにおいては幾分か同情的な報道が成された。けれども、wikipediaにおいて千野志麻を守っているのは、マスコミとは全く関係の無い連中である。





wikipediaは百科辞典などではない。wikipediaとは、コミュニティである。

彼らは、wikipediaというコミュニティ以外に居場所の無い社会の負け犬であり、鬱積した不満を抱えるインテリ崩れのメンヘラである。そういう連中がwikipediaという場を牛耳り、支配している。連中は「wikipediaのルール」なるものに基づいて自由にその権限を振う。

「wikipdiaのルール」というのがどのようなものであるかというとそれは、連中が好き放題自由に振る舞うための独自裁量を保証した、ルールとは名ばかりの独裁制の担保である。




それが、たかだか千野志麻ごときに関する記事であれば、まだマシな方だ。

しかし彼らはどこにでも顔を出し、その権限をふるっては自己満足に浸る。たとえば、疑似科学について肯定的なページが存在していたとする。そのページを心あるまともな人間が訂正すると、連中のおでましである。「編集合戦につき、記事を復元した上で保護しました。」と、ページの書き換えを不可能にする。でたらめが保護される。水俣病もEM菌もブラックバスもアザサも、そのようにして保護され続けてきた。

疑似科学だけではない。小説や漫画の類、創作物を根拠にして編集された歴史上の出来事に関する記事にも連中は現れ、懸命にデマを保護して回る。愛国史観に基づいて書かれた他国を貶め日本を不当に美化する記事や、歴史の改竄を行おうとする記事においても同様に彼らはすぐに現れる。




連中は何故、そのような事を行うのか。

それは、彼らが他に居場所を持たない人間だからだ。他に威張れる場所がないからであり、他に馴れ合える場所を持たないからである。彼らは強権を発動し威張り散らす為にwikipediaにたむろし、同様の人達と馴れ合いお互いに傷を舐めあっては褒め称える為にwikipediaに居座っている。

彼らが我が物顔で振る舞うのは、wikipediaという日本で最も多くのアクセスを集めるwebサイトである。膨大なアクセス数を誇る、巨大なウェブサイトにおいて、ルールを振りかざし我が物顔に振る舞い馴れ合う事は、彼らにとって至上の快楽である。ブログやtwitter、facebockといったウェブサイトではどのように振る舞っても、ゴミアクセスしか集められられない。誰もその話を聞かない。人の目にふれない。そんな有象無象の雑魚どもが、インターネット百科辞典とは名ばかりの「俺達が共同管理する個人ウェブサイト」としてwikipediaを乗っ取り、巨大なアクセス数を誇るウェブサイトの管理人であるという自己満足に浸りながら、それを牛耳り続けているのである。




日本赤軍が共産主義団体などではなく、ただの有害コミュニティであったように、在特会が国粋主義団体などではなく、ただの有害コミュニティでしかなかったように、wikipediaというインターネット百科辞典を自称するウェブサイトもまた、連中が連中と馴れ合うためだけに存在している有害コミュニティでしかない。現実世界に居場所を持たない、社会から爪弾きにされた負け犬どもが、権限を振りかざして自己満足に浸り、お互いに褒めあい馴れ合う為だけに、我が国の情報を破壊し、インターネットを阻害し、一部の人達が自らの利益の為に、でたらめの自説やデマを撒き散らす事を助け続けているのである。

2013年7月22日月曜日

インターネットってくだらないなあ。

インターネットってくだらないなあ。どこがどうくだらないのか書くのもあほらしい。ブログってくだらないなあ。どこがどうくだらないのか書くのもあほくさい。ようするにおまえ、おまえな。おまえ。おまえがくだらないのおまえ。

2013年7月21日日曜日

目が覚めるなり力尽きる。

体の中でふつふつと沸く憎しみを素知らぬ顔で通り過ぎて、おはようの一語を声にも出さず中空に放つ。暑さに押されてスタックした意思を持たないおはようの一語を乱暴に手で振り払って手から血が出る。流れ出た血は空に染みこみ救いのない夏の深い夜をまた続かせる。力尽きるまで僕は眠れず、力尽きるまで僕は眠る。

2013年7月20日土曜日

一番好きを、一番先に。

好きな女の子が100人居て、百番目に好きな人から順番に告白していくと、君には変な噂が立つ。あの男の人は誰にでも、好きだ好きだって言う不真面目な人だって。百番目に好きな人から順番に告白していくと、どんな恋も実らない。



好きな飲み物が100杯あって、百番目に好きな飲み物から順番に飲んでいくと、僕のお腹はすぐたぷたぷ。蛙みたいなお腹になって、あっという間に息も吸えない。どんなに好きだった飲み物も、決して喉を通らない。



好きな仕事が100個あって、百番目に好きな仕事から働いていくと、あっという間におじいさん。好きと言えば好きなんだけど、そんなに好きでも無い仕事を、短い期間で梯子してると、何一つものにはならない。小さな成果も上げられぬまま、無闇に転職繰り返し、なんでもすぐ投げる男の出来上がり。



好きなゲームが100本あって、百番目に好きなゲームから遊んでいくと、僕の人生はすり減って行く。十何本か遊んだ頃には、人生はお手軽に破綻して、ゲームどころじゃなくなっちまう。どんな素晴しいゲームであっても、もう心には響かない。



好きな男の人が100人居て、百番目に好きな人から順番にキスしていくと、誰にでも跨るあばずれ女の出来上がり。まともな男は見向きもせずに逃げていくし、誰も真剣にはなってくれない。誰かに都合の良いだけの、虚ろな人生が待っている。






好きなものが100個あるなら、一番好きからはじめるのがいい。
自分がとても、ほんとうに、最高に好きなものからするのがいい。


一番好きなものに近づいて、何かが壊れて傷つくのが怖いとか、そんな無駄な心配をして、あんまり好きじゃないものから順に、自分の心を試していると、見えないところで心がすり減る。どこがで何かが駄目になってゆく。一番好きを、一番先に。一番好きを、まずはじめに。











好きな人がどこにもいなくて。
食べたいものが一つもなくて。
幸せにしたい人も1人もいなくて。
行きたい場所も思い浮かばない。

2013年7月19日金曜日

宮本茂に忘れられた僕等は今すぐ、宮本茂を忘れよう。「1997」のファイナルファンタジーと、ダブルミリオンの黒歴史。

宮本茂の発言をまともに取り合う、という行為自体が間違いである。まともに取り合うべきではないし、そもそも読むべきではない。発言者としての宮本茂は全く読むに値しない人物である。それを理由に宮本茂を叩くというのも間違いだ。宮本茂が読むに値しない発言を繰り返すのは、本人の責任ではない。あれは立場上の不幸だ。

宮本茂は不可侵の存在であり、アンタッチャブルな存在だ。何を言っても絶対に非難されない。もちろん、一部の好事家は真面目に揚げ足取りをするだろう。けれども宮本が出てきた時点でメディアは菊タブーよろしくひれ伏すし、信者はそれを崇め奉る。

任天堂は宮本茂の神性を宣伝広告に利用している。現代の任天堂がインターネットで行える最も効率的な宣伝こそが、宮本の露出なのだ。故に、任天堂は新作のゲームを発売する度に宮本を下界に送り出す。アンタッチャブルな宮本様は4gamerのような「下衆な媒体」にまで降臨なされ、有り難いお言葉をうがうがと放つ。聞くに値しないそんな言葉を下衆な媒体の糞メディアどもは検証無しに「ありがたやー」とご静聴して世に放つ。信者は崇めるしアンチは叩く。一般人は皆ひれ伏す。宮本が出現する度に散々繰り返された光景である。

しかし、これは宮本の責任ではない。宮本茂を広告塔に用いる会社の責任である。宮本は悪くない。宮本がどんなおかしな事を言おうと、どんなおかしな考えを持っていようと、宮本は一切悪くない。ゲームを作る人間の評価は、作ったゲームによって成されるべきだ。宮本茂が関わったゲームが面白いか、面白くないか、素晴しいか、素晴しくないか、という点のみが評価されるべきで、宮本茂の発言は全て無視されるべきだ。何故ならば、宮本茂の発言は宮本茂によって生み出されたものではなく、「神性を帯びた不可侵の広告塔」という社内での立場によって生み出されたものだからである。

宮本茂はいくつかの巨大な業績を残した果てに、本人が本来の能力を発揮する事の出来ない、適正を持たないポジションにまで上り詰めてしまった。これは出世の不幸であり、地位の不幸だ。そして歩く宣伝媒体という職業が生み出した不幸だ。故にこれまでそうであったようにこれからも、宮本茂の発言は一切顧みられるべきではない。もちろん、今現在も、なのだけれど。










宮本氏:
 僕はアクションゲームをもう30年も作ってきたんですが,日本はアクションゲームの人気がだんだんと落ちていった国で,アメリカは育ち続けた国だと,大きく分けて考えているんですね。
 アクションゲームって,その難しさを超えられない人にとって触りたくないものになっていくという問題点が,どうしてもつきまとうんです。そしてそれが,ゲーム全般に対する「難しいからイヤ」という拒否反応につながってしまっているところがある。
 アメリカの場合は,チャレンジしてくれる人が多いので,最初のハードルを乗り越えて面白味を見付けてくれる人達が大勢いるんですが。

これを目にした時に、そのあまりの酷さに危うくブログを投稿しそうになった。けれども宮本茂は宮本茂なので、その発言を取り上げるのは完全に間違いだし、どうせもっと適切な他の誰かが書くのだろうと筆を折ったのだけれど、少し思うところがあったので書き残しておく。







宮本の主張は次の通り。

「私はアクションゲームを30年作ってきた」
「日本はアクションゲームの人気が落ちて行った国」
「アメリカはアクションゲームの人気が育ち続けた国」
「アメリカはチャレンジしてくれる人が多いので、ハードルを乗り越えて面白みを見付けてくれる人が大勢居るが、日本には大勢居ない。」





「私はアクションゲームを30年作ってきた」
これはマリオブラザーズの事だろう。

では、そのマリオブラザーズがどのくらい売れたかというと、まあ、それなりに売れた。それなりに売れたが、麻雀よりも売れなかった。それなりに売れたが、ゴルフよりも売れなかった。テニスよりも売れなかった。ベースボールよりも売れなかった。バレーボールよりも売れなかった。そんなもんなんですよ。アクションゲームなんてその程度のもの。アクションゲームなんてジャンルは、そうそう売れるジャンルではない。人民はアクションゲームなんてものを求めていない。

「だんだん落ちて行った」なんて事実はなく、元から売れてない。アクションゲームは最初から売れてない。四人麻雀や、F1レース程度にしか売れてない。アクションゲームなんてものは、元来その程度のジャンルだったんです。

アクションゲームには先行の利があった。ファミコンの時点でアクションゲームには歴史が有り、他のジャンルよりもゲームデザインの面で有利だった。また、ハードの性能が低く、他のジャンルで優れたゲームを作る事は難しかった。さらにサードパーティも不在だった。




スーパーマリオブラザーズというゲームは、そんな時代に登場したゲームなのです。これは売れました。確かに売れました。無茶苦茶売れました。傑出したソフトだったので、きちんと売れました。


けれども、スーパーマリオブラザーズには日本もアメリカも関係ありません。日本でも売れたしアメリカでも売れた。スーパーマリオは世界で売れた。問題はその後です。スーマリには続編が存在します。それがスーパーマリオブラザーズ2です。





日本では250万本という凄まじい売り上げを記録したスーパーマリオブラザーズ2は、宮本の言う「チャレンジしてくれる人が多い国」でどれだけ売れたでしょうか?宮本茂が「アクションゲームの人気が育ち続けた国」と言ったアメリカでどれだけ売れたでしょうか?

日本人はハードルを乗り越えてくれない。アメリカ人はハードルを乗り越えて面白みを見付けてくれる。宮本様の有り難いお言葉です。アメリカでスーマリ2がどれだけ売れたか。0本です。0本です。1本も売れていません。なぜならば、そもそもスーマリ2はアメリカで発売されなかったからです。





スーマリ2がアメリカで発売されなかった理由。
それは、「難しいから」です。
一体アメリカのどこがハードルを乗り越えてくれる国なんでしょうか。




皆様ご存じの通り、国外では夢工場ドキドキパニックが、マリオのキャラクターに差し替えられて「スーパーマリオブラザーズ2」という名前で売られました。日本という国は世界で唯一「宮本茂がアホみたいに上げたハードルの糞ゲー」を真面目に購入した国なんです。それも、ディスクシステムというハードウェアごと購入して遊んだ国なんです。250万本も買った国なんです。宮本茂が作った馬鹿げた難易度の糞ゲーに大金を支払い、プレイして裏切られ頭を抱えた国なんです。

宮本茂は前述の発言において、自らが真面目に作った糞難易度の糞ゲーを真面目に購入した人達を罵倒したのです。しかも、ただ罵倒しただけではない。実在しない「ハードルを乗り越えるアメリカ人」を捏造してまで、自社製品のユーザーを罵ったのです。こんなもん、弁護の余地は一切無いです。まあ、宮本茂はいつもこの調子なので、真面目に取り合うのが間違いだと言われればそれまでなのですが。





「ユーザーに責任転嫁して自社製品のユーザーを罵倒」
「"アメリカは~"、"海外は~"と架空の外国を脳内で制作」
「さらに歴史を捏造しての自己正当化」

テンプレートofテンプレート。しかも、なんの為にそんな事をしているかというと、ピクミンの宣伝。自社製品の宣伝の為に自社ユーザーを罵るという、いつかどこかで見たパターン。もうこういうのにはうんざりです。それもこれも、発言者としての適正を全く持たないアンタッチャブルな人物が広告塔をやらされているという、不幸が全て悪いと言えば悪いのであって、宮本茂個人の責任ではありません。宮本茂は小島秀夫やピーター・モリニューのパターンとは違うのです。ですが、だからと言って。







視点を現代のアメリカにうつすと、確かに今のアメリカはアクションゲームが売れているという雰囲気があります。宮本茂の「アメリカはアクションゲームが育ち続けた国」という発言を鵜呑みにして、今アメリカで売れているゲームの元を辿れば、どうしても、”1997”に辿り着いてしまいます。よく言われる通り、過度な1997史観は非常に危険なものです。「無理矢理1997にこじつけてるだけ」という批判は時として正当性を帯びます。それでも、1997がビデオゲームの歴史の中で最も重要な季節の一つであった事は、動かしようのない事実です。





「1997」は和ゲーと洋ゲーの立場が入れ替わるターニングyearとして知られています。また、現在の洋ゲーに繋がる直系の祖先が出尽くし、尚かつ完成した年としても知られています。ウルティマオンライン、The elder scroll 2、Grand Theft Auto、ディアブロ、スタークラフトといったゲームが発売されました。また、「doom以後のFPS」もid、epic、valveの3社により、この時期に出揃っています。

1997については語り尽くされた感がありますし、決して当時の事情に詳しい人間ではないので、今更僕に書ける事はあまりないのですが、「スタークラフト→ウォークラフト3→dota→dota allstars→LoL」という現代への流れもまた、1997に続く道の1つだと言えるでしょう。










さて、問題は日本です。
1997の日本です。

1997という季節に日本では、何が起こったのでしょうか。





日本の1997を象徴するゲームは、ファイナルファンタジー7です。FF7こそが、日本の1997です。FF7を境にして、任天堂が日本のゲームを支配した時代は完全に終了し、プレイステーションの時代が訪れます。けれども、1997というターニングyearに日本で一番売れたゲームはFF7ではありません。










1997に日本で一番売れたゲーム。
それがポケットモンスターです。




ポケットモンスターは1997に売れただけではありません。それから15年もの間、売れに売れました。売れ続けました。ポケットモンスターこそが、我が国の歴史上、最も売れたゲームです。ドラクエも、FFも、ポケモンには遠く及びません。それどころか、15年も先行していたマリオですらもポケモンには敵いません。1997というターニングyearにFF7を打ち負かしたポケモンこそが、我が国のゲーム市場を支配し続けているのです。




このポケモンというゲームを作ったのが、ご存じ田尻智です。

田尻智は「ゲームライターがハリウッドの頂点に立った」という文脈で語られる事が多い人物ですが、他にも見過ごしてはならない重要な事実が存在します。それは、田尻智という人はアクションゲームを作っていた、という事実です。

田尻智はクインティというアクションゲームを作っています。しかもこのクインティ、無茶苦茶ハードルの低いゲームです。宮本茂のスーマリ2などとは比べようもありません。もちろん、スーマリやスーマリ3よりも遙かに簡単なアクションゲームです。クインティというアクションゲームは、チャンレンジでもハードルでもなく、エンジョイでありFUNなのです。そんなユーザーフレンドリーなアクションゲームを作っていた人物が、次に世に送り出したゲームこそがポケットモンスターなのです。







ポケモンって何?
そうなんです。

結局のところ、私達はポケモンを決してぞんざいには扱えないのです。




我が国の1997において最も重要な出来事は、FF7が売れた事でも、ポケモンが売れた事でもありません。FF7よりもポケモンの方が売れたという事実であり、FF7という旧体制の象徴的なゲームソフトを、ポケモンという新機軸が打ち破ったという事実なのです。

ファイナルファンタジー7は、それまでの我が国のゲームの歴史を全て集約し、さらに発展させたゲームでした。「RPGが売れる国」であった我が国の歴史そのものでした。さらにそこに次世代機による華麗なグラフィックと壮大な音楽が加わった、我が国のゲームの未来だったのです。

そのFF7が、僅か5センチメートルの液晶しか持たない、稚拙なグラフィックのモノクロゲームに敗れてしまったのです。我が国の未来になるはずだったビデオゲームは、ポケモンという名の得体の知れない怪物に敗れてしまったのです。ポケモンの登場により、我が国のゲームの歴史は半ばほぼ全てが過去となってしまったのです。

なぜ完全武装のファイナルファンタジー7は敗れたのでしょうか。
なぜ、カラーですらない次元の低いポケモンが勝利したのでしょうか。







ポケットモンスターは、ネットワークゲームです。


「1997」のウルティマオンラインがネットワークゲームであったように、
「1997」のスタークラフトがネットワークゲームであったように、
「1997」のディアブロがネットワークゲームであったように、
「1997」のFPSがネットワークゲームであったように、

「1997」のポケモンもまた、ネットワークゲームだったのです。




RPGの歴史の集大成であり、RPGの到達点であったFF7は、貧弱な音楽と稚拙なグラフィック、さらにはちっぽけな白黒の画面しか持たない、我が国初の成功したネットワークゲームに敗れたのです。

現在のアメリカを支配するのは、「グラフィック」と「ネットワークゲーム」が共存するFPSやTPSです。けれども我が国ではグラフィックとネットワークが共存するゲームは、良いポジションに位置していません。我が国のゲームは「グラフィック」という要素と「ネットワークゲーム」という要素が、FF7とポケモンの1997をきっかけに行き違い、そして行き別れてしまったのです。

アクションゲームはかつて我が国のゲーム市場に君臨していました。けれどもそれは、麻雀やバレーボールがミリオン売れた、RPGもアクションアドベンチャーも存在しない時代の出来事でした。鳥無き島の徒花でしかなかったのです。

同様にRPGというジャンルもまた、ネットワークゲームや3Dアドベンチャーが存在しなかった時代の蝙蝠でしかありませんでした。ハードウェアの性能に縛られながら、ポケモンもバイオも居ない島の小さな空を羽ばたいていたに過ぎなかったのです。

そして遂にハードウェアの性能という制約が取り払われ、プレイステーションという大空に向けて、RPGが遂に羽ばたいたその日には、ネットワークゲームという新しい概念のモンスターがそこに立ちはだかったのです。







ポケモンは我が国の歴史上最も成功したビデオゲームであるだけではなく、最も成功したネットワークゲームです。ハードルの高いアクションゲームはどの国でも売れない。それどころか、ハードルの低いアクションゲームすらも売れない。アクションゲームは売れない。では何が売れるか。アクション以外のゲームが売れるのです。その最右翼こそが、ネットワークゲームなのです。

ハードルの高いモンハンがアクションゲームなのは事実ですが、モンハンがRPGである事を否定するのは不可能ですし、ネットワークゲームである事実を否定することもまた、不可能です。

宮本茂がアクションゲームを作った30年前という時代は、様々なジャンルのゲームが完成するよりも前の時代でした。それどころか、多くのジャンルは生まれてすらいなかったのです。

そんな時代において、250万本も売れてしまったスーマリ2という理不尽な難易度の黒歴史は、最も悲しむべき、最も悲惨な、決して忘れてはならない過去の大きなあやまちなのです。ゲームメーカーはユーザーを虐げてはいけない。ゲームメーカーはユーザーを馬鹿にしてはいけない。ブランドを、自社のハードウェアを売る為の道具として乱雑に扱ってはいけない。メジャーなゲームであろうとするならば、難易度の袋小路に入り込んでしまってはいけない。その教訓こそがスーパーマリオブラザーズ2なのです。

アクションゲームを作っていた田尻智が他のジャンルのゲームを作った。その事実だけでも、アクションというジャンルがハードの制約によって生み出された隙間産業に過ぎなかったことを如実に証明しています。アクションでは万単位だった人が、ネットワークゲームを100万単位で売ったのです。





ゼルダもリンクも、アクションです。
けれども、ゼルダもリンクもRPGです。
そして、アドベンチャーです。冒険です。

ゼルダやリンクやピクミンがアクションであると主張するならば、スト2や聖剣伝説だってアクションですし、テイルズすらも完全にアクションです。スカイリムはアクションですが、アクションが評価されて売れたのではありません。GTAも同じです。ゲームをジャンルで語る事など、何の意味もありません。ゲームを語ろうとするならば、ゲームを語らねばなりません。ジャンルを語るのは間違いです。

そもそも宮本茂はピクミンをアクションゲームだと主張していますが、宮本茂はこんなゲームを30年も作っていません。アクション要素のあるゲームは生き残っていますが、アクションゲームはマリオ以外売れません。FPSはアメリカで売れていますが、FPSを切り捨てて完全に放棄した任天堂の宮本茂に日本人を罵倒する権利はありません。たとえその権利があったとしても、「アメリカは」「一方日本人は」と捏造した歴史を元に、日本人の自社ユーザーを罵倒する事は許されざる行いです。

それでもジャンルという価値観に基づいて歴史をひもとくならば、アクションはハードウェアの性能が低かった時代であればこそ。RPGというジャンルもまた、ネットワークゲームが存在しない時代だったからこそ、天下を取る事が出来たのです。今でもファイナルファンタジーは売れ続けていますが、ユーザーが買っているのはRPGではなく、ファイナルファンタジーです。







結局のところ、振り出しに戻ってしまうのだけれど、宮本茂の発言を相手にするのは間違いです。宮本茂は小島秀夫のようなパターンとは違い、完全に会社の命令で仕方なく、やむにやまれず職務としてにやにや笑ってやがりますし、任天堂という企業のあまりにも強大な支配力を考えると、宮本茂にきちんと問う事の出来ないインタビュアーの無能さを責める事も間違いです。宮本茂はその存在だけであまりにも強大でアンタッチャブルな権力であり、本人も会社もそれを理解しているが故に、宮本茂に新作ゲームの広告塔をさせているのです。










といった不毛すぎるエントリーを書いてしまったのは、有害まとめサイトとして悪名高いtogetterで必死に晒し上げにしている人を見て吐瀉を覚えたからだったと思う。togetterこそが我が国で最も有害なウェブサイトであるという事実だけが記憶として残る、後味の悪い話でした。

2013年7月16日火曜日

DK対LGD、1分間プレイヤーレビュー。

一昨日のアップデートでリプレイに関するバグがfixされ、過去のリプレイを含めて幾つか見られるようになったものがあったので一通り見た中で、最も面白かったレッドブル準決勝のDK対LGD三本目、ゲーム終了直前、ゲーム時間50分25秒、リプレイ時間では64分15秒から1分間に渡って繰り広げられた最終決戦の、プレイヤーレビュー。



DK

バーニング、tiny、1/10

gyroのホーミングミサイルに対してBKB押せないプレイヤーって何なんでしょうか。発射から着弾まで4秒ですよ、4秒。いーちい、にーいー、さーあんー、しーいー、でBKB押せないcarryってなんなんでしょうかあああああ!?!?!?。ミサイルにドラゴンテイル重ねられて5秒スタン。しかも体力残り3割でBKB押して即死してbuy back。バーニングさーん、buy back前提で死ぬ時は決戦兵器(BKB/manta/ult)を温存しなきゃだめだってご存じ無いのですかー?

最終決戦開始と同時にハイ終了。お疲れ様でした状態。その後のaimこそ期待値を叩きだしていたものの、だから何ってレベル・・・。ひどいものを見た。バーニングですらこれなんだから、xboctやLodaやauiやblackやfearは、胸をはって堂々としてればいいと思う。
 

super、mag、3/10

この日、3ゲーム通じて最高の内容を残したsuperだが、 最終決戦の90秒前に行われた集団戦で致命的なult空撃ちをしてしまい、チームは敗走、自らも頓死からbuy backを行ってしまっており、最終決戦でref orbによるダブルウルトを放つ事が出来なかった。

何よりも致命的だったのは、集団戦開始の5秒前にbhにultをつけられてしまった事。あそこでbhのultを回避出来ていれば、結果は全く違っていたと思う。あのトラックさえ無ければ、2hexとbuff込みtiny wispを抱えるDKにも勝機は有った。

せっかく作ったref orbが箪笥の肥やし、おまけにバーニングが即死となれば、やれる事はなかった。この時点でsuperに出来る事はやったという感はあるので、59秒間レビューならば5点。開幕のトラックで減点2、時間外のult空撃ちを採点に含めればさらに2点減点の1点。この日素晴しい内容だっただけにせつない。



QQQ、frion、1/10

来るの遅い、来る場所悪い、meka押せてない。hexを死に体のesに使って無駄撃ち。おまけにゴースト持ちにaim。良い所がなかった。この人のフリオンとバーニングの熊を抱えるDKは、アライエンスに簡単に勝てるチームのはずなんだけれど……。



dai、wisp、3/10

5秒スタンしてるバーニングを連れてultで退くという模範解答が存在していたが、見逃してしまった。BKBに行こうとしていたけれど、ゴーストを買っておくのが正解だったと思う。ポジショニングや操作などは良かった。



rotk、puck、2/10

酷いポジショニングをとり、trackをつけられるというミス。daggerもwもeも、15チャージのスティックも使わないままesに刺し殺されるなど、散々な内容。この最終決戦の前に全く意味の無いultを放ち、最終決戦にultのcdが間に合わないという最悪なプレイをしてしまっている。時間外のult空撃ちは4点減点級の致命的なミス。bhにトラックをつけられた時点で出来る事は無かった。とにかくポジショニングが悪すぎた。




LGD


 xiao8、bh、9/10

最終決戦の開幕を告げるtrack、さらにpuckにtrack、ついでにtinyにtrack。おまけにフリオンにtrack。相手の主力に全部track。極めつけはmagのdagger ultを見てからBKB(この試合二回目)。そりゃあ理論上は可能な事だけれど、1ゲームで2度もそれを見せられるとキュンとくる。これ以上何を望もうかという、完璧に近いポジショニングと操作。DPS的にはもうちょっと出せたと思うので9点をつけたものの、満点からは誤差の範囲。


yao、DK、9/10

60秒間でaimが揺らいだのは僅かに2秒ほどと、スローであら探しをすればやっと幾つか見つかる程度。それ以上に良かったのがポジショニングで、DK側に選択肢を与えなかった。tiny潰して、wisp刺して、フリオン殺して、tiny刺して。



dd、es、8/10

puckを封殺。tinyをハメ殺すという選択もあったけれど、buy backの無いpuckを潰す事を選んだのは正解。最後に迂闊に右に歩いて死んだのは余計。



ddc、visage、4/10

ultのポジショニングが悪すぎ。おまけにultのスタンが未使用。ultのcdが解消されてたので、6連続スタンを使う事が出来た。操作量に弱点を持つddcさんの悪い面が全て出てしまった。その一方で、magがBKB押したのを確認してultを回避した動作は、この人の真骨頂。視界の広さと目の良さが出た。



syl、gyro、7/10

相手のcarryであるバーニングが初手で大失態をしたおかげで、LGDのcarryであるsylに担えるタスクはなくなってしまった。良いプレイを行う機会自体が失われてしまった。けなす所も、褒める所もない。普通に歩いて、普通に殴って、普通にBKB押して、普通に勝ち。集団戦で常に合格点をたたき出す、保護色型の控えめなcarryプレイヤー。

yaoが左に開き、sylが右に開くポジショニングは素晴しかった。




 DKはmidを諦めて遅延防御でpuckのultを待ち、btmで戦うべきだった。tinyが完成していた上にフリオンとwispが居り、1つ勝てばbaseを割れる状況だったので、mid守備に固執する理由はなかった。LGDが最後の5分で極まったのに対して、DKは最後の5分で崩れてしまった。DKは本当に惜しかった。

僕はしなもん

しなもんは糞だ。当然の理だ。しなもんはゴミだ。自明の理だ。それが理解出来ない奴は、ブロガーではない。そんな事も理解出来ない奴は、ブログとは何かを未だ知るまい。まず第一に、しなもんは犬だ。第二に、犬は日本語を書けない。第三に、しなもんは日本語でブログを書いている。おかしい。これはおかしい。明らかにおかしい。何かがおかしい。そして糞だ。そしてゴミだ。異常事態だ。しなもんがブログを書いているという事実を、異常であると捉えられない人間が存在しているとすれば、それはもはや人ではない。犬だ。しなもんの犬だ。

犬は日本語を書けない。犬はキーボードを叩けない。犬は、ブログなど書けぬのだ。いや、確かに、確かにである。人の言葉を完全に理解する猿が居る。手話で2000語を喋るという。そのような猿も居るのだから、そのような犬が存在する可能性もある。しなもんという犬が天才的な才覚を持つ、並外れた犬である可能性も否定は出来ない。決して無いとは言いきれない。しかし、である。しなもんに関する伝聞を読む限り、その可能性はない。しなもんという犬は、日本語を操りブログを更新する例外的な天才犬などではない。あれは犬だ。ただの犬だ。

犬にブログは書けない。ブログを書くのは人だ。人こそがブログであり、人こそがブログの本質である。ブログとは人であり、人とはブログである。即ち、しなもんのブログを書いているのはしなもんではない。しなもん以外の何者かだ。

何者かがしなもんを名乗り、何者かがしなもんを装い、何者かがしなもんを自称し、何者かがしなもんに無断でしなもんを騙ってブログを書いている。許してはならない。見過ごしてはいけない。潰さねばならなぬ。一刻も早く潰さねばならない。イチジクが未だ甘い限り、しなもんは今すぐに滅ぼされねばならない。何者かが何者かを騙り、何者かが何者かを自称するブログなどというものを、決して許してはならない。かつて水が水そのものであり、かつて土が土そのものであったのと同じように、ブログとは人そのものでなければならない。




僕等は堅苦しい世界から逃げ出してきた。誰もが仮面を付けて生きる世界から逃げ延びてきた。なんの許可も無く、無断で無理矢理に人の形をした血と肉と精神を与えられ、人として生きる事を運命づけられ、人と人とが構築する複雑に編み込まれた世界の中で、何らかの役割をこなすことを強いられた僕等は、遂に自らが自らのまま、自らとして生きる事が可能な場所へと辿り着いた。それがブログだ。それこそがブログだ。人が人として生きられる場所、自らが自らのままであれる場所、それがブログなのだ。それこそがブログだったはずだ。しなもんは、その世界を破壊しようとしているのだ。

しなもんを騙るしなもんという暴力により、僕等の世界を壊そうとしているのだ。




しなもんが実際に思っていないことを主張する。それも、ただ主張するだけではない。「しなもんはこのようなことを思っているだろう」という形ではなく、俺はしなもんだ、俺こそがしなもんだ、そして俺はこう思うと、しなもんの名を騙り書き綴り、インターネットに配布する。世界へと広める。それも、ただ広めるのではない。ブログという神聖なる世界を用いてそれを行う。しなもんはブログを冒涜し、この世界そのものを破壊しようとしている。しなもんはしなもんという架空の暴力を用いて、この汚れない世界を破壊し、まるで実在の世界のように、打算と欲望で編み込まれた世界に造り替えようとしている。ブログを滅ぼそうとしている。

許してはならない。決して許してはならない。自らを偽り、自らを捏造し、他の属性を持つ他者を装い、騙る。偽りの自らという着ぐるみを用いて、その意志見聞を世に広める。ブログに書く。許すまじ。断じて許すまじ。インターネットを侵略する、偽の現実を許してはならない。電車男も、少女も、紀伊國屋も、DSも、ゲーセンも、風俗嬢も、PS3も、ありとあらゆる偽りは、全て叩き潰さねばならない。1つたりとも許してはならない。今すぐamazonで斧を買い、それを手に取り立ち上がり、しなもんを破壊し尽くさねばならない。メタセコイアでハンマーを作り、それを手に取り叩き潰さねばならない。二度と立ち上がれぬように、しなもんを叩き潰さねばならない。壁を割り、書を燃やし、塩を撒き、完膚なきまでに滅ぼし尽くさねばならない。




ブログとは己であり、ブログとは自らでなければならない。歪んだ世界の汗を嗅ぎながら環状線を揺られる僕等は、己を保ち続ける事が出来ない。自らであり続ける事は出来ない。何かを騙り、何かを名乗り、何かを自称し、まるで何かのように振る舞わねばならない。居酒屋に行けば愚痴をこぼさねばならないし、バーに行けば小洒落た会話をせねばならない。ライフハックを見れば興味を抱かねばならないし、ライフハッカーを見れば鼻で笑わねばならない。赤子を見ればかわいいと言わねばならぬし、老人を見れば席を譲らねばならない。それを義務づけられているのだ。良き妻であり、良き夫であり、良き親であり、良き友であらねばならない。あるいは、そうではない妻であり、そうではない夫であり、そうではない親であり、そうではない赤の他人であらねばならない。僕らはそんな世界から抜け出して、ブログに辿り着いたんだ。仮面も役割もないこの清浄な世界へと、遂に辿り着いたんだ。

それがブログだ。そこがブログだ。そうだろう?違うか?いや、そうだ。そうに違いない。そうなんだ。そうだったんだよ。ブログとは自由であり、ブログこそが全てだったんだ。汚れきった世界に存在しない唯一の、人のまことの心なんだ。どんな役割も、どんな仮面も存在しない、ありのままの世界、それがブログなんだ。しなもんはしなもんという架空のしなもんにより作られた、しなもんという暴力を用いて、この世界を侵略し、破壊しようとしているんだ。許してはいけない。見過ごしてはいけない。潰さねばならない。殺さねばならない。しなもんは糞であり、しなもんはゴミだ。全身全霊全てを持って、全力で滅ぼさねばならない。だがしかし。

だがしかし、果たして僕にしなもんを殴る権利はあるのか。「しなもんは実在しない」「何者かがしなもんを騙っている」「しなもんという架空の感情を捏造している」。そのようにブログで批判する僕は、実在しない真性引き篭もりhankakueisuuを騙り、真性引き篭もりhankakueisuuという感情を捏造し続けている。畜生、そんなはずはない。僕が真性引き篭もりhankakueisuuでないとすれば、俺はいったい誰なんだ。僕が真性引き篭もりhankakueisuuとして歯を食いしばり、必死に頑張り続けてきた努力は全て捏造された偽りのしなもんで、俺が真性引き篭もりhankakueisuuとして抱いた苦しみや悲しみ、孤独や絶望、呪いや憎悪も全てがしなもんなのか。

実在しない、ありえない、捏造されたしなもんと、実在しない、ありえない、捏造された真性引き篭もりhankakueisuuの間に、一体どれだけの差異が存在しているのか。しなもんを殺せとHHKP2を懸命に叩き続ける僕はしなもんで、この一打鍵すらもしなもんなのか。そんなはずはない、ありえないと、嗚咽し叫び声をあげながら、必死に抗弁する事は可能だろう。僕は実在する。真性引き篭もりhankakueisuuも実在する。何故ならば実際に腹は減るし、欠伸もする。疲れるし、眠たくなるし、間々落ち込むし、たまに喜ぶ。僕は実在する。僕はしなもんじゃない。腹が減るんだ実在するんだ。欠伸をするんだ本当なんだ。だがそこにしなもんという壁が立ちはだかる。しなもんだって欠伸をするし、しなもんだって腹が減る。どうすればいい、僕はどうすればいい。自らがしなもんではないと確かめる為に、一体何を頼ればいい。

僕は、僕は誰なんだ。僕は一体なにものなんだ。たとえば僕がしなもんであるとすれば、僕はいつからしなもんなんだ。ブログを書き始めた時はもう既にしなもんだったのか。あるいは生まれた時にはもう既に、完全にしなもんだったのか。それとも長い人生のどこかで、何かから必死に逃れようと、自ら望んでしなもんになっちまったのか。僕はしなもんじゃない。断じて違う。そんなはんずはない。それでもしなもんであるとすれば、僕のどこがしなもんなんだ。どの悲しみがしなもんで、どの喜びがしなもんなんだ。僕の中のしなもんと、しなもん以外を見分ける方法は存在しない。何故ならば、しなもんとしなもんを判別しようとする感情すらも、もはや今ではしなもんなのだ。もはや全てがしなもんなのだ。僕の悲しみは僕の悲しみのしなもんでしかうなく、僕の絶望は僕の絶望のしなもんでしかない。血は血のしなもんであり、肉は肉のしなもんでしかない。情欲は情欲のしなもんであり、愛すらも愛のしなもんなんだ。涙も涎も鼻水も、糞尿すらもしなもんなんだ。一体どこに、僕のどこに、しなもんではないしなもんが存在するというのだ。

畜生、畜生。このしなもんには希望がない。このしなもんはもう駄目だ。もしも生まれ変わったならば、僕は可愛いしなもんになって、しなもんと結婚して幸せに過ごすんだ。しなもんの汗と尿の臭いが僅かに染みこんだベッドの上で、真っ白に伸びた白いシーツにくるまって、朝までしなもんとセックスするんだ。生クリームと牛乳を入れて、胡椒を降ってオムレツを焼いて紅茶を入れてパンを千切り、しなもんと二人で食べてから、しなもんがゲームをするのを膝に座ってじっと見るんだ。違う、そんなんじゃない。しなもんじゃない。しなもんに逃げてはいけない。しなもんと戦わねばならない。しなもんである限り、しなもんから逃れようとせねばならない。僕はしなもんじゃないし、事実僕はしなもんじゃない。違うんだ。僕はしなもんじゃないんだ。じゃあなんなんだ。なんなんだよ。しなもんでないとすれば何なんだ。精々しなもん、あるいはしなもん、そうでなければしなもんか。くそっ、僕はしなもん、もうしなもん。そんなはずはない。そんなことがあってたまるか。そう書いて臍を噛む僕のしなもん。しなもんじゃない僕はしなもん。

2013年7月13日土曜日

一ヶ月が5時間くらいしかない。

貴重な時間を大切に使おうなどと言ってみたところで、一ヶ月が5時間では限界がある。その5時間もまとまっていればまだ生きようがあるだろうが、細切れの5時間となるともはや手の施しようがない。僅かに5時間だけ人の性質を取り戻し、ほかの時間を得体の知れない生き物として過ごす。その満遍なく長い魑魅魍魎として生きた、一月の大半を占める長い時間は、自らを人の身分から遠ざけ、得体の知れない所へと僕を連れ去ってしまう。僅か5時間、細切れの5時間に、そこから懸命にはいずり出て、さあ人間をやりましょうと気張ってみても、淡い願いは皆砕かれる。人間になりたいという夢はもはやかなわず、人でありたかったという願いは元から人でなく、ただ自らがまるで人間のように見える歪んだ水面の見えるところで、愛しい人の枯れた笑い声や澄んだつぶやきに耳を向け手で土を掘り土を食う、そんな低層は空より高い井戸の底よりまだかなた上。僕の死んだ人間が死んだ5時間に死んでゆく。

2013年7月12日金曜日

リプレイ見とこうと早起きしたら、今度は別のバグで見られない。

リプレイ一覧は表示されたものの、リプレイunなんちゃら、って表示される例のバグが出てダウンロード出来ず。本格的に興味失いつつある。残念。まあいいやどうせnaviには好きなプレイヤーいないしLGDのファンだし。

2013年7月11日木曜日

眠い、暑い、人生が悲しい。

眠い眠い眠い眠い。 暑い暑い暑い暑い。 それ以外の言葉は20秒で消える。 私の記憶は20秒。 僕の人生は20秒。 悲しい悲しい眠たい暑い。

2013年7月10日水曜日

リプレイを見られず萎える

早起きしてリプレイを見ようとしたら、この大会だけ何故かリプレイ一覧が表示されず、 解決法探してる最中にネタバレを踏む神展開。10ドル払ってこれ。リプレイを見る権利を売るけどダウンロード出来ませんだってさ。怒りを覚えるっていうより単純に興味を完全に失いそうな勢いで萎えた。
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とりあえずネタバレ踏んだけどリプレイ見て無い段階での感想なんだけれど、ウイナーズブラケットを勝ち上がったチームが損をする大会ってなんなんだろう。ルール作ってる時点でおかしいと思わないのかな。LGDにデフォルトwinが1付くか、もう一度のbo5のグランドファイナル二本目が有るかのどちらかでないとおかしい。なぜnaviはダブルイルミネーションなのにLGDはシングルイルミネーションなんだよ。

2013年7月8日月曜日

心のざらざら

まぶたの裏で心の何かがざらざらと摩擦を引き起こし、白目の上をゴロゴロなぞる。何人をも好きにはなれず、憎しみを抱くばかりに矯正されてしまった自らの精神と、誰も愛してはくれない寂しさが混じり合って、泣き叫びたくなる暑さを作るが暑さ故にかその気力は無い。心臓と腋との僅かな隙間で赤いビニールの風船が膨らみ、前頭葉は涙で染まる。誰かを幸せにしたかった、誰かを喜ばせたかったと法華経教徒のように呟くけれど、自らの幸せを願えない人間が誰かの幸せを願うなど不可能。俺の言う架空の誰かが自分自身である可能性に嘔吐して、断末魔の叫びは憎しみと熱さで炎と共に消えて行く。

navi対LGD1分間プレイヤーレビュー。

リプレイでは53分から54分、ゲームタイムでは50分から51分にかけて1分間にわたって繰り広げられた集団戦のプレイヤーレビュー。この1分間は凄く面白かったので一時間くらい見た。

この時点でスコアはnaviが6、LGDは10。キルデスこそLGDながら、navi優性で、さらにdendiはaegis持ち。しかしながらこの1分間でnaviはaegisを失い全滅。さらに主力3人が無意味なbuy backを行い、序盤から中盤にかけて維持していた優位を完全に失ってしまう。





xiao8、mag、5/10。
開幕時に、xboctのDKにスタンを打たれる致命的なポジショニングミスを犯すも、xboctがrubickにスタンを打つというミスをして命拾い。DKスタン打つ、magがBKB押す、magがultという流れ。
 
僅かにnw側に歩く事でDKとnwに2man ultを決めて退出。ref orbを用いた二度目のultは3 manを狙うもnwに逃げられて2 man止まり。とは言えsfとdkに当てる事でDPSを完全に封じる素晴しいult。さらに追撃戦でkurokyとpuppyの2サポートを仕留めるなど出来る事は全てやった。

ゲーム全体を通してみると、ultを二度も空撃ちするなど低調なパフォーマンスが目立ったものの、大事な1分間で素晴しい結果を残した。最終決戦でも4 man ultを決め、勝利の立役者に。

所持金が0に等しくbuyout不可能なタイミングでの防衛戦だったので、開幕時のポジショニングミスをxboctに刺されていたらLGDは終わってた。結果論的には7点だけれど、運が良かっただけなので2点減点。



yao、bh、9/10。
dkとnwの居る位置を読み切って、ping2連発。これが全て。
このマップハック級のping連打がなければNaViが勝っていた。

ghost見てからtoss余裕でしたのダメージ稼ぎや、消えて殴ってultからtossなど、DPS的には期待値を叩きだしている。nwではなくdkにtrackを付けてしまうというミスを犯し、nwに活躍の機会を与えてしまったのは大きな減点ポイント。可能なtrack killを逃したのも惜しかった。プレイは6点。pingで+3点。あのping連打が全てだった。



syl、gyro、5/10
qを押していない、wを撃たずに死んでる、せっかくbhがlinaにtrack付けているのに、BKBの押すタイミングが悪すぎる、BKB見えてる所にultを撃ってダメージ0など、理想には程遠い内容。しかしながらとりあえず殴りDPSとしての役割は果たした上でサタニックを完璧なタイミングで押し、HP二桁から大復活。2400ダメージと2000被ダメを稼いでチームを勝利に導いた。理想には程遠いし、手放しで褒める事は出来ないけれど、最低限度の役割を果たした。合格点。相手のミスとチームメイトの素晴しいプレイに救われた感は拭えないものの、合格点。



ddc、visage、7/10
ultのcdが開戦10秒後に間に合い、dendiにultでスタンを2連打。相手のDPSを2秒半止めた功績は大きい。それもただのDPSではなくdendiを止めきり、gyroを救う活躍。nukeも的確にマナが尽きるまで打ち切って、nwを殺しきるなど、visageに期待されるタスクを見事にこなした。開幕時に味方に帯同せず、右に退いて見切れた動きも良かったと思う。 ただし、戦闘中一度もmedalを使わなかったのはあまりにも酷い。なんの為にmedal買ったの!?!?それ以降も数分間メダルを忘れており、おそらく誰かに指摘されてやっと思い出したようにメダルを使い出した。メダル以外は完璧で、この1分間、最も良かったプレイヤー。



dd、rubick、4/10
視野が狭い。見えていない。そのせいで位置取りが悪い。ところがそれが吉に出てしまったので評価が難しい。magが味方に居るチームは、サポートが前歩きして歩哨の役目を果たさなければならないのだけれど、視界の狭さから来るポジショニングのミスが結果的に歩哨の動きになり、身を挺してmagを守った。

ghostを使うタイミングとfsでの出入りは良かったものの、DKのスタンを盗むのが遅すぎ、それを使うのも遅すぎ、さらにターゲットも間違った。おまけに最後は死なずに済んだのに死んでしまった。





puppy、chen、3/10
開始から30秒間スキルを使わず右往左往。単純に操作量が足りていなかった。開幕時に見切れてしまい、進軍ルートをyaoに悟られてしまったのもルートを指示したpuppeyの責任。2人にスタンを当てたシーンだけは良かったが、それだけだった。ゴーストセプターも使わず死んで、1600goldが完全な無駄。 アガニムやfsを買えてたのに。

結果に繋がらなかったものの、進軍ルートを騙す為の操作は良かった。よく頑張ったと思う。yaoがpingを撃っていなければ、何人かは騙されていたと思う。



Xboct、DK、1/10
開幕時にBKB押してないmagが目の前に居るのにrubickにスタン。あんさん、なんちゅうことしてくれたんや。ここでmagにスタンを撃ってたら、全てが終わっていた。

さらに、gyroを殴るべきシーンでmag殴る→yaoにスタン→ yao殴る→慌ててgyroを殴るも時既に遅しで死亡。さらに、全く意味のないbuy back。おまけにrubickにスタンを盗ませるなど、全てが終わっていた。セーフレーンcarryが大事な局面でここまで酷いと勝てるものも勝てない。この人「nice pause =)」とか言ってたけど、いったいどの口で。最終スコア1-7。ルービックがスタン使う為要員。あなたセーフレーンcarryですよ……。



dendi、sf、3/10
aegisを持ち、完璧な視野を持ちながら、kurokyにブロックされた上に、相手の退路を読み違えて進軍ルートを誤り、さらにkurokyにブロックされるという酷いスタート。殴っていればダメージを稼げた場面でultを空撃ちしてしまったのも、非常に残念だった。aimこそ良かったものの、aegis持ってたんだから、一番に前歩きしてaegisを使うべきだったと思う。



kuroky、 lina、2/10
dendiをブロック。dendiをブロック。そこからさらにdendiをブロックして、おまけにdendiをブロック。なにしてるの。2人にスタンを当てた場面こそ素晴しかったものの、惜しくも勝利には繋がらなかった。資金を2500余らせており、daggerもfsも買えていた。何が酷いって、最後の最後でまた再びdendiを微妙にブロックしているところ。dkとnwが落ちた時点でどのみち駄目だったけどさ。



fun1、nw、3/10
途中まではnaviで一番良かった。最初にqを当てきれずポジションを悟らせるというミスを犯すも、BKBをきちんと押して、ダメージも稼いでいる。危ない場面で相手の視界から外れた上で、gyroを殴って仕事をしている。最後にgargを殴って15チャージのstickを抱えたままで無駄死にしたのは残念。dendiのaegis復活時にはultのcdは解消されており、この人が生きていれば、痛み分け以上の結果を得られた可能性があった。(退避してアイテム置いて15チャージ使えばHPを500以上回復出来た)





pick負けという側面も確かにあるけれど、プレイ負けでもあった。
dendiが5人居れば。せめでdendiが4人居れば。

またpuppyでpick負け。

1ゲーム目にvisageをBANして勝って、2ゲーム目、3ゲーム目でvisageを1st pickされ、10-1-10と5-1-20されて負けるpickerっておかしいよ。これがpick負けでなければどれがpick負けなんだというくらいの負けっぷり。dendiかわいそう。そして乗るヒーローが未だに見つからないkurokyとfun1。dendiかわいそう。とは言えファイナルフォームNaViはけっこう早くいい感じになった。あとはkurokyとfun1の居場所が見つかれば。kurokyは本当にあのkurokyなのかと疑いたくなる程に魅力の無いプレイヤーになってしまった。dendiかわいそう。この負けを見ると、いくらdendiこそが疑う余地の無い現代最高のプレイヤーであると言っても、dendiざまあ路線で行った方が、最終的には良い気分で居られると思う。いくら僕が筋金入りのdendiアンチであると言っても、掛け直されたボタンで「なによりおめでとう」と書いたあのdendiと同一人物なわけで、時々肩入れして見てしまう。

2013年7月7日日曜日

tongfuが勝つ事の意味。

tongfuのbananaさんはbiubiubiu!というアカウントで、SEAで有名なパブスタンパーチームの頭領をやっていた。当時bananaが所属していたforloveは弱小チームだったので、試合で勝てない人達がパブで無双してる、という印象が否めなかった。そんなbananaさんが、forloveからtongfuに移籍した瞬間に晩年中堅のtongfuが生まれ変わって勝ちまくり、igの半年続いた連勝を止め、さらにはタイトルまで獲ってしまったのだからたまらない。

それもただ勝っているだけではなく、チーム自体がチームbananaに見えるほどの神後衛。しかももう一人の後衛はsansheng。駄目なプレイヤー、どうしようもないプレイヤーだったあのsanshengと、あのbananaが神後衛してる。人間は変われるんです。成長出来るんです。tongfuのリプレイを見ていると、bananaがアシストとるだけで感動が込み上げてくる。bananaご一行様とエンカウントして負ける度に「また微妙なプロに負けてしまった」としんどさが拭えなかったのだけれど、tongfuの戴冠によってbananaに負けまくった過去は全て赦された。良かった。全部赦された。


 
もう一人凄かったのはkingJ。あのkingJ。

tongfu加入後のkingJは、どうしようもない駄目なプレイヤー。10敗中8敗はkingJのプレイで負けているというくらい酷いプレイヤーで、明らかに現代シーンにおける競技力は足りていない。そのkingJがエニグマでレーン行って完璧な内容で戴冠。凄い。エニグマはかつて中国で流行り、今もそのポテンシャルこそ理解されているものの、世界中探してもエニグマをまともに使えるプレイヤーは一人も居ませんでした、というあまりにもせつない結論により、もはや見向きもされないヒーロー。puppyも、iceiceiceもエニグマ扱えません、というレベルなのにkingJがエニグマで活躍してしまう不思議。実力の劣るプレイヤーでも、 チームオーダーとモチベーション次第で活躍出来る良いゲームに思えてきてしまう。



これによって報われたのはhaoさん。

haoは中国最強carryプレイヤーのはずだったのに、チームの低迷と共にその名前は忘れられつつあった。中国では、「虎穴に入らず戦艦を建造する」というタイプのcarryプレイヤーがチームワークで勝つというパターンが大勢を占め、「虎穴に入って虎を狩る」といったタイプのBAKAプレイヤーは消えて久しい。そんな中国でBAKAプレイヤーと見まごう挙動で勝っていたのがhaoさん。そのhaoさんが当時のプレイスタイルそのままに戴冠。kingJがあまりにも弱すぎるので、このチームが大きなタイトルを獲る事は絶対にありえないと思っていただけに、びっくりした。




最後に真性引き篭もりhankakueisuuさんの神々しい文章をコピペしておきたいと思う。
bananaとかzippoとか、akkeとかsakuraといったプレイヤーが生存する空間はもはや存在しない。

2013年7月6日土曜日

魔法の刀

ある日突然、一本の刀が魔法の力を帯びて、人間を斬り殺し始めた。ある者は四肢を落とされ、ある者は喉を突かれ、またある者は額から股間に向けて綺麗に斬り分けられた。一本の刀は神出鬼没、倉敷で1人の老婆の胴体を斜めに切り分けた30分後には札幌で乳飲み子を抱く母親をその子もろとも斬り殺し、その僅か10分後には上野のカプセルホテルで仮眠を取っていた男の心臓を突いた。ここならば安全だろうと洋上に逃げ、船の上で生活していた一家は男を残して皆斬られ、この国を出れば安全であろうと地球の裏側アルゼンチンのコンドミニアムで避難生活を満喫していた裕福な若い女はその一室で、胴体の上に首が乗る無惨な姿で発見された。一本の刀は町で人を斬り、山で人を斬り、海でも空でも人を斬った。それも1人や2人のことではない、魔法の力を帯びたその刀は、毎日百人以上を斬り殺し続けた。1年で5万人、10年で50万人もの人が刀に斬られて死んだが、人々の生活と私達の社会は何も変わらずそのまま続いた。

2013年7月5日金曜日

秋と春の区別がつかない。

秋は涼しく、春も涼しい。雨の降る夏の夜明けもまた涼しく、全てが同じに思える。冬は近い。近くて遠い。凍える夜はもうすぐそこ。

2013年7月4日木曜日

地球防衛軍4の支離滅裂と、ドワンゴというブラック企業。

D3パブリッシャーが地球防衛軍4の動画をアップロードするな、配信をするなと言っている。それだけならば、理解出来ないわけではない。そういう考え方もあるだろう。けれどもD3パブリッシャーはニコニコ生放送の広告枠を買い、広告を出している。このD3パブリッシャーの行いは、何を意味しているのだろうか。



http://ads.nicovideo.jp/assets/images/3c/3cc1869deb83331721606297b056c988.jpeg












youtubeという動画共有サイトでは、動画をアップロードした人間が、収入を得る事が出来る。けれどもニコニコ動画は違う。動画をアップロードしたユーザーが収入を得る手段は存在しない。それどころか、無料でのアップロードには大きな制限がかかり、動画をアップロードするには基本的に課金が必要である。

サイト運営による利益は総取りする。動画を作成し、アップロードしたユーザーには1円たりとも還元しないばかりか、金を取る。巻き上げる。それがニコニコ動画を運営するドワンゴという会社である。動画制作者などというものは、野原に生えるよもぎのようなもので、生えたら生えただけ摘み取る、どうせまた勝手に生えて来る。本来ならば動画を制作するクリエイター達に還元される金を自分達で独占する、一切還元せず、搾取した金で豪遊する。それが彼らの姿勢である。




動画配信サイトであるニコニコ生放送でも彼らの姿勢は同じである。

海外の動画配信サイトでは、配信者自身が収入を得る手段が存在する。ストリーム配信をすれば、配信した人間が利益を得る事が出来る。けれどもニコニコ生放送は違う。ニコニコ生放送で動画を配信するには、課金が必要だ。ニコニコを運営するドワンゴという会社に、金を払わなければ動画配信を行う事が出来ない。配信者は収入を得るどころか、金銭を支払わなければならないのである。

儲かるのはニコニコ動画であり、配信者に金が行くシステムは存在しない。


クリエイターが動画を作れば収入を得られるのが当たり前の世界において、我が国のインターネットは、クリエイターが金を取られるという異常な光景が維持され続けているのである。

ニコニコ生放送にはユーザーがアマゾンへのリンクを貼る事が出来るシステムが存在するが、そのアフィリエイトIDはユーザーのものではなく、ドワンゴのものである。1円も還元しない。利益は総取りする。それどころか、金を支払わせる。ユーザーは奴隷である。クリエイターは奴隷である。奴隷労働をさせる。徹底的に搾取する。それがドワンゴの社是である。




即ち、D3パブリッシャーの行った行為は、自社製品を購入したユーザーの迫害であるというだけには収らない。彼らは自社のユーザーを迫害し、ただ働きさせ、搾取する、ブラック企業、ドワンゴという現代日本のインターネットを象徴する悪徳集団に金を渡し、媚びを売り、増長させているのである。




その一方で、自社の製品を購入したユーザーには圧力をかける。圧迫する。彼らが「動画配信をするな」という事で、地球防衛軍4を購入したユーザーが行う動画配信は荒らされる。地球防衛軍4を予約して購入したユーザーが制作してアップロードした動画は荒らされる。

D3パブリッシャーは、他人に嫉妬し、他人の足を引っ張り、他人を不愉快にさせる事だけに生き甲斐を見出す、自らの手では何一つの素敵な物事をも制作しない連中に錦の御旗を与え、人を不快にさせる事に楽しみを見出すインターネットの暴徒共に、自社製品を購入したユーザーを攻撃する権利を配布したのである。

彼らは自社製品を購入したユーザーを迫害するドワンゴという悪徳企業に金を払い媚びを売り、自社製品のユーザーをBANさせるだけに留まらず、自社の製品を購入する気のない連中に斧を配り、銃を配り、火炎瓶をそして手榴弾を配り、二ヶ月前から予約をし、一ヶ月前から有給を獲り、2週間前から有給日に向けて仕事を頑張り、一週間前から地球を守れない人間が仕事を頑張れますかなどと宣い胸をときめかせ、「俺は7年も待ったんだ」とはしゃぐいたいけなユーザー達を、暴徒共を用いて攻撃させているのである。

夜を削って

削って、削って、夜を削って、耐え難き朝がまた近づく。真っ暗で音のない涼しい夜に何かブログでも書ければと志すが、瞼が眠たさでチクチク尖る。夜はどんどん失われて行く、人の心も失われて行く。今日も命が消えて行く。命を削って何かが良くなるならば、進んで命を削りたい。命を燃やして何かが良くなるのならば、進んで命を燃やそう。削れば削るほど薄くなり、燃えれば燃えるほど焦げてゆく。どうにかならないかどうにかならないかと思うが、どうにもならない。また一枚、また一枚。

2013年7月2日火曜日

太股を見て楽しいですか。

夏の夜は肩の血を凍らせて私肉をかたびらに変える。言葉はいくらでも出てくるがそこに考えはない。長く続いた動揺はそれ自体がありのままになり、挙動不審の男を作る。とにかく休息が必要で、何より安息が必要だ。何れもこの人生においてはもはや叶わない。あどけない夏に食べたかき氷とそれが生んだ頭痛を思い出す。あの日に帰って誰かを救えるのならば、あの日に帰らずとも誰かを救えるだろう。砕くべき氷も、砕かれた氷も全て溶けてどこかへ消えて、頭痛だけが残った。今晩も眠るに気乗りせず呆然と座り、なんの前触れもなく首を折って、太股を眺める。

2013年7月1日月曜日

SurG,homehomeは糞ゴミのカスでした。

魔境民のqooさんが味方に来て、amを即pickして15-0ペースで無双してくれたので、さすが魔境民のblink inは格が違うと感心しながらqooさんの履歴を見ていたら、直前の試合でzenithご一行様とやってた。面白そうなのでリプレイ見てみたら、iceiceiceさんの芸術的な凡ミスなどがあってqooさん自身は2-10ながら他の人のAMで勝ってた。

で、さらに一つリプレイを遡って見たら、魔境勢の大型パーティにも関わらず、8分で負けてた。一体何事かとリプレイを見ると、味方の一人がtrollプレイ(利敵行為)をして味方をkickしてた。qooさんもこんな味方を引くとはついてないなあと思いつつプロフィール見たらSurG.homehomeでした。うわあ、ただのゴミじゃん。



full partyで行かない限り必ずといっていいほど、ババを引く
とか


pub でtrollといってもいいほどのプレイヤーにあたりストレスがたまり、muteでなにも言えないことで血管が破裂しそうになる


などと高尚なことをうじうじと愚痴っておきながら、自分がtrollして味方kickとか終わってんな。よくもまあ言えたもんだ。しかもこれ、pubじゃなくて5人パーティ組んで、歩いてるだけで勝てるようなパーティープレイをしておきながら、trollして利敵行為して味方負けさせてんのな。ありえんだろ。終わってるとかそういうレベルの話じゃねえわ。たいしたプレイヤーでも無いのに外人にへえこらへえこら媚び打って強パーティ組んで勝率稼いでいい気になった挙げ句、日本を貶める利敵行為とかゲーマーでもプレイヤーでもなんでもない、ただのゴミ。こういうのがアイアムジャパニーズとか言ってるのかと思うと反吐がでるわ。我が国の恥だから北極に移民してCHOでも勝手にやってろよ。

もう幾つ寝ると七月。

寝て起きれば七月ならば、眠らなければ永遠に六月。そんな淡い迷信も、日は又昇り消えて行く。