「ネットがつまらない」=「自分がつまらない」いやはや結構。
は言い過ぎとしても
ようするにおまえ、おまえな。おまえ。こう揶揄した光景を、僅か二日後に実際に目にするとは。
おまえがくだらないのおまえ。
インターネットはつまらなくなった。
なぜならば、インターネットはあほくさくなくなったからだ。
かつてのインターネットはあほくさかった。
何をやっても得られるものはなかった。
コメントもなかった。
web拍手もなかった。
いいねもなかった。
リツイートもなかった。
グーグルもなかった。
アドセンスもアフィリエイトもなくて、
アクセスカウンタすらなかった。
アクセスカウンタがないと、書いても書いても、それが人に読まれているのかどうかがわからない。そんな空間で何かを書き続ける。それはとてもナンセンスで、とてもあほくさい行為だった。それでも人々が何かを書いていたのは、他にやる事がなかったからだ。あほくさい事をやるか、何もやらないかの2つしか選択肢がなかった。インターネットは頭のてっぺんから爪先まで全部、綺麗さっぱりあほくさかった。あほくさくないシステムはまだ、未完成であるか未成熟だった。あるいは存在すらしていなかった。
あほくさい空間は、あほくさかった。アクセスカウンタがないのはいくらなんでもあほくさいという事で、アクセスカウンタが出来た。アクセスカウンタによって、書いたものを誰かが読んでいるかもしれないと、わかるようになった。検索エンジンによって、興味のある人が自らの書いた文章に辿り着ける可能性が生まれた。あほくささは、あほくさいが故に潰された。コメントも、アドセンスも、アフィリエイトも、リツイートも、いいねも出来た。いろんなものが出来た。あほくさくないシステムが出来た。インターネットはどんどんよくなった。あほくさくなくなった。一日で全てが起こったわけではない。少しずつ、少しずつあほくさくなくなっていった。
あほくさくなくなり、あほくさくなくなり、さらにあほくさくなくなり、そこからさらにまたあほくさくなくなったことで、インターネットは浄化された。綺麗になった。素晴しい世界へと生まれ変わった。あほくさくなくなった。あほくさくないこの世界において、あほくさい事を続けるのは不可能だ。
あほくさくないシステムは、人をあほくさくなくさせる。アドセンスで5000円稼いだ。これはあほくさくない。ならば6000円稼げる事を書けば、それはもっとあほくさくない。人は成長し、人は適合し、人は最適化されて行く。どんどんあほくさくない方向へと引っ張られて行く。ちょっと前に、アマゾンアソシエイトにNOと言えというエントリーで僕が主張したのは、その危険性だ。
お金だけの話ではない。あほくさくないインターネットでは、人間関係が可視化される。人の評価が見えるようになった。自分の書いたものが、どのように他人に届いたのかがわかるようになった。果てはラインのように、自分の書いたものが読まれたかどうかまでわかるようになった。
校正も推敲も経ずに、20秒で書いたものが、10も20もリツイートされる空間もまた、かつてインターネットに存在していたあほくささとは対極的な空間である。書かずともマイクで喋るだけですぐ反応が返ってくるようなストリームサイトも、あほくさかったインターネットとは別のインターネットだ。書いたものはすぐ読まれ、発言はすぐ聞き取られる。目に見えた形のフィードバックを得られる。
あほくさくない空間で人々は、どうすればよりあほくさくないかを日々学習してゆく。こうすればアドセンスは踏まれる。こうすればアクセスが稼げる。こうすれば馴れ合える。こうすれば褒められる。こうすれば読まれる。こすうれば構ってもらえる。こういう題材について書けば注目を浴びられる。これを書けば検索エンジンからのアクセスを稼げる。あほくさくないインターネットでは、よりあほくさくない方法がすぐわかる。そして人々はそちらへと引き寄せられて行く。無意識のうちに、あるいは意識して自らを修正し、自らをよりあほくさくない書き手へと成長させる。
たとえば現在のインターネットであほくさい事を書く人間が1人生まれたとしても、その命は長く続かない。なぜならば、あほくさい事はあほくさいからだ。アドセンスに最適化されたり、リツイートに最適化されたり、アフィリエイトに最適化されたりして、あほくさい人からあほくささは消える。垢抜けて行くと書くべきだろうか。どれほどあほくさかった人も、あほくさいままで生き続ける事は出来ない。かくしてあほくささは敗北し、あほくささは死んだ。あほくさいが故に存在していたあほくさいインターネットは、あほくさいが故に滅んだのだ。
結果としてあほくさい事をあほくさく続ける連中によって作られていたおもしろいインターネットは、あほくさくないインターネットに取って代わられた。あほくさかった人達も垢抜けてあほくさくなくなった。今、日本は正に未来。あほくさい連中が自らを鼻で笑いながら2ヶ月かけて1700字のテキストを書き上げアクセスカウンタすら存在しない自らのウェブスペースにHTMLでアップロードする間に、1つのまとめブログは740のまとめエントリーをアップロードし、300万のアクセスを集め、22000のコメントが付き、2000万円の商品を売り、100万円の広告収入を得る。あほくささはあほくささが故に悪であり、悪は滅んだのだ。
インターネットには無限に近い選択肢があるこの種の馬鹿が吐く台詞の典型。
面白いコンテンツは、面白いコンテンツを書く人の手によって作られる。心躍るコンテンツは、心躍るコンテンツを作る才を持つ人の手によって作られる。ウナギが泥から生まれるのと同じように、インターネットは人から生まれる。人が居なければ生まれない。全部人間。結局は人間。所詮は人依存。人でしかない。そして人は有限。無限ではない。また栃木が無限ではなく、無限に思える東京ですらも無限ではないように、世界すらも無限ではなく、インターネットもそれと同じように無限ではない。狭い狭い有限の世界に立つ、少ない少ない有限の人間。インターネットはそうして成り立つ。日本語話者となると、たったの1億と少ししかいない。たったのそれっぽっちしかいない。
面白い文章を書く人が1人死ねば、面白い文章がアップロードされるウェブサイトは1つ消える。面白いブログを書く人がブログをやめれば、面白いブログは1つ消える。面白いものを書く人は、昨日も今日も減り続けている。1つ、1つ、減り続けている。書ける人は居る。大勢居る。書いていた人も居る。大勢いる。けれどもそれは減り続けている。
そしてなによりも、減るよりも前の段階で消え続けている。面白いものを書ける才能を持った人が、初めの一歩を踏み出すよりも前に、書く事をやめてしまっている。インターネットでは面白さが生まれるよりも前に死んで行く。インターネットはつまらなくなり続ける。
何故インターネットはつまらなくなり続けているのか。
それは、インターネットが発展したからである。6年以上もブログを毎日更新してきた某ブログ魔王は今ではTwitterでフォロワーがフォローよりも1000人以上多い人気者だ。4年くらい毎日ブログを書き続けていた某はやしは、今では今年の音すらほっぽりだして、Twitterで取り巻きとちゅっちゅっちゅである。それはなにも、かつてインターネットであほくさい文章を書いていた古い世代の人達だけに限らない。今年に入って開設された素晴しいエントリーを書くブロガーは2ヶ月で20個ほどのエントリーをアップロードしたのを最後に、ブログの更新を辞めている一方で、300人ものフォロワーを誇るtwitterでは毎日30も40もつぶやき続けている。
インターネットが発展したことにより、インターネットで文章を書くという行為には、あほくささだけが残った。手軽に発言が可能で、手軽に報酬が得られ、尚かつその報酬が簡単に可視化される空間が誕生した。そんな時代において、ブログだホームページだ日記だのと、真面目に書き続けてもアクセス2桁な、あほくさいあほくさい空間で、人が何かを書き続ける理由はない。たまたま何かの間違いであほくさい事をはじめても、2ヶ月20エントリーで放置して暖かく優しく素晴しいtwitterに帰って終わりなのだ。
もう1つ重要なのはアフィだアドだの現金だ。
小銭を稼ぎたいだけの連中がどんなジャンルにも現れて、インターネットを覆って行く。現代においてブログ、及びインターネットというものは「何かを書く場所」であるよりも前に、「金を稼ぐ場所」である。そんな場所で、お金にならないブログを書いていると、あほくさくなってくる。当然の成り行きとして、モチベーションは低下する。書き続けるのが不可能になる。金を稼ぐ人達だけがモチベーションを保つことが出来る。そして一度稼いだが最後、人は成長しそちらに寄せられ、より稼げる文章を書く才能を成長させて、最適化されて行く。
まとめブログは1日に20個ものエントリーをコピペと組織化でアップロードし、10万の人がそれを読み百万の現金を稼ぎ続ける一方で、名もない人が数ヶ月もの思いと体験を結集させて、精魂込めて書き上げたエントリーはアクセス2桁。これで萎えるなと言うのは無理である。ブログを1年更新し続けるよりも、まとめブログのコメント欄でくだらないコメントを書き込んだ方が人の目にとまる。人に読まれる。反応も得られる。それならば、そうする。そっちの方がお手軽で、そっちの方がいい事だ。
そんな時代にいったい誰が、ネットで何かを書こうとするのか。
そんな時代にいったい誰が、ネットで何かを書き続けられるのか。
アフィリエイトやアドセンスが、「個人のモチベーションを底上げする」などと言っていた人も居たが、それは完全な間違いだった。アフィリエイトやアドセンスといった現金収入は、インターネットに存在する個人のモチベーションを完璧に打ち砕き、そしてインターネットを破壊した。真面目にそのジャンルを愛する人が、健気にテキストを書き残しても金にならない一方で、そのジャンルが金になりそうだというだけで参入したまとめ系サイトと、金の為に更新し続ける糞サイトだけが銭や銭やで生き残る。
ゲームよりもエロ漫画の方が儲かるからとエロ漫画を必死で更新し続けた挙げ句、リアジューの企業広告バナー契約が途切れた瞬間に休止した、えろまんがかんそうぶんなどは良い例だろう。真面目に書き続ける人ではなく、金儲けに長けた人が生き残る。金儲けをする人は広告止まるや否や、もっと儲かるサイトを作り直すと宣言して即放置。インターネットでは、そういう奴らが生き残り、インターネットはそういう奴らが浄化して行く。インターネットには、そういう奴らしか生まれない。
人には向上心というものがある。無意識に、あるいは意識的に最適化しようとする。儲かる方法があるならば儲かる方へとその才能を発展させる。人間関係の中で、同意や称賛といった報酬が得られるなら、そちらへそちらへと自らを成長させる。注目を浴びる方法があるなら、自然とそちらに近づいて行く。
LoLのブログなどもそうだ。「最近LoLはやってません」とか「ほとんど遊んでない」と平気で宣う連中が「今週のLoL動画」とか「○○からの翻訳です」などと、連日連夜更新しまくり、相互リンクに守られて、アフィとアドとで飾られたウェブサイトに、大量のアクセスを集める一方で、個人のブログは週に一度の更新が月に一度になり、やがては半年に一度になって最後には更新を停止する。LoLが出た頃にRSSを登録して読みはじめたブログは一つ残らず全滅した。ただの1つも生き残っていない。
このような現象は特定の零細ジャンルにだけ生じる現象ではない。ゲーム、アニメ、漫画やスポーツは言うに及ばず、科学や政治に至るまで、金目当ての連中が金目当てに更新する記事がインターネットを支配し、その陰では真面目に文章を書こうとした名もない個人は、あほくさくなってやめていく。
あるいは、金銭とは別の報酬が保証されている空間へと去って行く。馴れ合いという確実な報酬が保証されているlineやskypeやtwitterに時間を費やして、インターネットに届く前に消えて行く。最初の一文字がタイピングされるよりも前に、おもしろいインターネットを担うはずの人達が失われて行く。
よしんば止めるに至らずとも、書きたい事を心を込めて書くというのは、毎日のように行えるものではない。どうしても更新間隔が空き、どうしても記事数は少なくなる。結果として、毎日毎日糞記事を書き続ける人達と、アクセス互助会を構成するその取り巻きどもが、どのような場所でも上座に座る。自殺者を馬鹿にしてオフパコようはおまんこハントに精を出す前野浩太郎みたいなクズが大衆の目にとまる一方で、似たようなジャンルで群れずに昔から寂しく書き続けている所は過疎り果て、閑古鳥が鳴いている。
amazonのレビューなども、現代のインターネットを象徴する場所だ。アマゾンで発売日にビデオゲームのレビューを書けば1万人に読まれる。星を5個つけて太鼓持よろしく褒めておけば、100も200もいいねが付く。その一方で、発売から二ヶ月後に一通り遊び終えた人が、自らのブログに真面目に感想を書いたところで、それはほとんど読まれない。全てが「あほくさい」に集約される。
インターネットという徒労で非生産的で得られるもののない趣味空間は、他に選択肢がないという状態であったからこそ成り立っていた。馴れ合いという報酬や、お手軽な読者数という報酬が簡単に得られる空間がインターネット上に生まれてしまった以上、インターネットで徒労に時間を費やそうという馬鹿は、その誕生よりも前にその芽を摘まれる。
たとえば袁紹などはその典型だろう。読者が読みやすい形式と、アクセシビリティを維持して読み手に提供する事よりも、Twitterで取り巻きと楽しく馴れ合えることを選択する。「つまらなくなったインターネット」を象徴する光景である。決して、それを非難しているのではない。とても自然な行為であり、当然の成り行きなのだ。あほくさい事をするのは、あほくさいのである。
馴れ合えるなら馴れ合える場所で書く。褒められるなら褒められる内容を書く。儲かるなら儲かる事を書き、注目を浴びられるならば注目を浴びられることを書く。向上心という人の自然な性質が、*おもしろい*であったはずのものをねじ曲げ、他の何かへと造り替えて行く。
事実としてインターネットはつまらなくなり、そしてそのつまらなさは勢いを増し続けている。非生産的で得られるもののない*おもしろいインターネット*を、担っていた人達は現金に破壊されたインターネットを見てあほくさくなりその行為をやめ、今ではtwitterで気の合う仲間とよろしくやっているし、非生産的で得られるもののない*おもしろい*を今頃担っていたであろう才能を持った人は、インターネットなどには目もくれず、ソーシャルの中で人生を満喫している。べつやくれいを面白がる事の出来る才能を持った人間だけが、現代のインターネットを謳歌できるのだ。HighWire Pressで論文を検索するとアリストテレスは大量にhitするが、勝川俊雄は1件もhitしない。勝川なんて代物を有り難がってるのは日本人だけだ。泥を増やせばウナギは増える。この現代において、WarCraft3雑記やぱんだらのようなウェブサイトが生まれる余地はもはや無い。
例えば、twitterを眺めていて物足りなければ、いやおまえアホだろ。
インターネットがつまらないと言う相手に「twitterが」と言い返す、風俗嬢に説教をするED老人系ブロガーしろくま。twitterはただのつぶやき、ピクシブはただの絵、ニコ生はただの生放送。そいつが「インターネット」の例としてあげてるのがギガジンにライフハッカーにネイバーまとめ、全部テキストですよー。頭大丈夫ですかー?ツイッターつまんねって誰が言ったの?ニコ動つまんねって誰が言ったの?脳味噌湧いてますかー?湧いてますねー。はい。残念でした。twitterやピクシブやニコ生は、あほくさくないインターネットの象徴であり、インターネットを正しく、あほくさくなく、そしてつまらなくしているものの1つでしかない。
しかもこれ、ピクシブとかニコ生とか若者ウケしそうなソーカルワードをブラックボックスいいことにオシャレワードで散りばめてるだけで、ニコ生に入り浸った事もピクシブに入り浸った事も無いことが透けて見えてしまう辺りは流石、子飼や清水と双璧を成す風俗嬢に説教をするED老人系ブロガー。おまえの言う「おもしろいインターネットの観測範囲」ってのは匿名ダイアリーで馬鹿を見付けて偉そうに見当違いの説教することなんですね素晴しいきゃー素敵お兄さん抱いてー。「その場の同調性の高さ、クローズでカルトな“熱量”に惹かれる人は、そのようなニッチな蛸壺のなかで茹で蛸パーティーでもやればいい。」ってかいやあこいつはめでたいおめでたい。脳味噌照る照るおてんとさまだね。よくもここまですっからかんのフレーズを書けるもんだ。流石だねこれは才能だよ。
他にやることがなくて仕方なくネットで書いていた人は余所へ行った。健気に生真面目に書き続けた人は現金が押し通るインターネットに踏み潰されて萎えてやめた。新しい世代の人達はネットで書くなんてあほくさい無意味な事に時間を費やそうとはしない。それでも書いてみようと始めた健気な人は、向上心を発揮した結果、儲かるパターンに集束していく。あるいは、安易に注目を浴びられるパターンへと集束してゆく。
コミュと金が全てを回収し、インターネットを完全に覆い尽くしたのが2013年という時代。おもしろいインターネットは終了しました。もちろん、完全に滅んだわけではありません。完全に消滅してしまったわけでもない。RSSを400個読んでいれば、月一くらいでは行き当たる。けれども、そのくらいにまでは減った。うなぎくらいにまでは減った。
馴れ合いたい?
どうぞどうぞ。
褒められたい?
どうぞどうぞ。
構って欲しい?
どうぞどうぞ。
あほくさい事はしたくない?
ウェルカムただ今13年。
インターネットは人々のニーズに答え、欲望を満たす為の環境を作り上げた。今やインターネットという仮想空間は、この先未来永劫無限に続く幸福eraのど真ん中にある。人々は幸せになり、インターネッターは幸せに過ごし、インターネットは壊滅し、インターネットはつまらなくなった。もはや誰1人として、人生を浪費して徒労の石を河原に積み上げる必要は無い。不完全で未完成のインターネットは、人々に徒労を強いるいびつで歪んだ空間だった。僕等はインターネットという夢の機械を介して、見知らぬ誰かを洗脳し、見知らぬ誰かを強制労働させていたのだ。今では違う。そんな心配は不要である。日進月歩で進歩した英知の果てのインターネットは、まるで現実世界のように、金と人間関係が全てを動かす、苦しみのない自由な空に成り果てたのだ。