2005年6月30日木曜日

WarCraft3を5度買った話。



実は、という程でもないのだけれど、WarCraft3も5度買った。
DiabloIIも5度買った身分であるからして、そう目新しい話ではない。


ただ、サプライズがあるとすれば、うち3回はDOTA allstarsを辞めてから、今年に入ってからだ、って事くらいのものか。もちろん、というか1ゲームもプレイしていない。もちろん、というかインストールすらしていない。

別にそれを隠してきたとかブログに書かなかったとかじゃなく、気がつかなかった読者の目が節穴なだけ、というのが僕の言い分であり、全部メタファーなんだろ!みたいな非公式見解である。







そっと部屋から抜け出して、机の上に置かれたものを手にしてそそくさ帰り、乱暴に封を開け、CDケースを箱から取り出し、インストールKEYをCDケースから引っ剥がして細かく噛みちぎり、紙切れに丸めて捨てる。ただそれだけの事である。

多分、僕の趣味はそういう事なんだろうと思う。
ゲームとか関係なしに、そういう性癖なのだろう。






例えば、ホームシアターを作っている人間は「映画を見る」という趣味と、「ホームシアターを見る」という2つの趣味を持つらしい。また、魚を釣って魚を食べる人間は、「魚を釣る」「魚を捌く」「魚を食べる」という、それぞれ別個の3つの趣味を持つらしい。

それと同じようなものなのだろう。
つまり、僕の現在の趣味はWarCraft3のCDキーを箱から剥がし、前歯で細かく噛みちぎる、という極めて野性的でスポーティなものなのだ。ケーキは別腹、みたいなもんだ。ばななはおやつ、みたいなもんだ。唯一最後に許された、至福の金の使い方だ。







今現在僕がWarCraft3を買うという行為には、インストールKEYを噛みちぎって快楽を得るという以外の側面もある。それはピラミッドであり、万里の長城であり、戦艦大和だ。一言で言えば公共事業である。つまり、僕がWarCraft3をインターネットで注文し、昼間誰もいない間に部屋を抜け出しテーブルの上に幾らか多めの区切りのいい現金とメモを置いておくと、数日後ろには丁寧にパッケージングされたWarCraft3がそこにはある、という次第だ。

僕の金銭感覚は世間からは少しずれているので、代金引換の宅配便を受け取って5000円という小遣い稼ぎがおいしいものなのか、それとも割に合わないものなのかはよくわからない。よくわからないが、支払うに値すると僕は考えているので、ここ半年で3度も支払っているのである。

今にして思えば、というか思い返すまでもなく、自分は金のかかる子供であった。
医療と教育の両方に、弟と比較すればべらぼうである金額が費やされ、さらにそれ以外にも色々な形で大変な金額が消えていった。もちろん、何の効果も無かったわけで、金も時間も面倒もかけられなかった方がまともな人間になり、金も時間も面倒もかけられた方がブロガーになった。皮肉な物、というか一体どうしてなのだろうかと思ったりもする。その幾らか余分に費やされた金額を合法的に還元する媒体としてWarCraft3を使っている、というわけなんだろう。多分。






よく、制作者が想定した以外の遊び方をされるゲームこそが素晴らしいゲームである、などといった話が成される。包容力があるゲーム、という表現である。ならば僕が行っているWarCraft3の消費方法、インストールKEYを前歯で堅く噛みちぎるというのは、ビルローパーもビッックリの想定外のものであり、WarCraft3がいかに偉大なゲームであるかの証明になる、と、思おう。思おう。WarCraft3は偉大なゲームだ。
確かにこれは、WarCraft3のインストールKEY以外では得られぬ快楽だ。


とにかく、このインストールKEYを噛むという行為は物凄い快楽であり、脳みそが真っ白になる位の快感である。噛む度に、実に素晴らしい趣味を見つけた幸せ者である自分に酔いしれるのであるけれど、一通り噛みちぎり捨て終えた後に訪れるバッドトリップがかなり酷くて、毎度毎度へこむ。「せめてWE.Skyのreplayくらいは見ておくんだった」などと意気消沈、読めもしない単語の連なる説明書を無作為に眺めて時間が過ぎてゆくのを感じていると、さすがに滅入ったりもするのだけれど「快楽には苦痛が付きものだぜ」などといかにもハードコアなゲーマーぶったコメントを残し、退屈ではなく平凡な日常へと再び身を委ねて過ごしている。

などと書くと「それだけの為に」みたいな空気もするけどそうではなくて、箱は触り心地の良い抱き枕として快適に使っているので、コストパフォーマンス的にも非常に良好。



まあ、これが許される内だけは、やりたくなったらまたやるか、といった趣きであり、一日中4k.grubbyの.wmvムービーを見ていたせいもあってか、ここ数日中にまたWarCraft3のインストールKEYを購入するんだろうな、と思っていたりもする。



世界が僕を痛めつけ、WarCraft3のインストールKEYがそれを癒す。
そういう事だ。単調でワンパターン。いつだってそう。
結局の所、僕を救ってくれるのはゲームだけだ。
もう何も信じられなくなった。それさえも。





インストールKEYの剥がれた跡に残った少しの粘着糊を、人差し指と中指でペタペタやっている間だけは、自分がまるでまともな人間であるかのような錯覚に囚われ、心の中が慈愛で満ちる。WarCraft3だから成せる業だ。素晴らしいゲームだ。



とりあえず、おそらく今の具合で行くと、あと数日くらいは動画や画像や文章を見て、指をくわえたりしながらも、手にしているものについて色々考え願いながらも我慢して、やがてどうにもならなくなる。そうなったらば、また買おう。WarCraft3をもういちど。
DiabloIIの5回を超える、6回購入したゲームが芽生えて育ち、生まれつつある。そんなとこ。今はただ、それが来るのを静かに待とう。あと数日は信じてみよう。堪えよう。












願わくばDOTA allstars?
いや、贅沢は言わない。
過ぎたるものは望まない。
分相応に身の丈に、インストールKEYで十分だ。


2005年6月29日水曜日

なんか違うなー。



溜まっていた激昂が片っ端から爆発して、消しても消しても書き消しても、文章の嵩だけが無限に連鎖で増え続け、まとまらなくて大変だった。
人間っぽいな。




少しまとまってきた。今日中に書ければいいのだけれど。




ちょっとしばらく寝かせてまとめ直します。




慌てずにゆっくり書くか・・・。


体験談



インターネットが少しずつ、体験談による侵食を受けている。


とろけるようにスイートだとか、coolでpopなコマ割りだとか、金だ女だウハウハだとか、10日で2キロも減ったとか、果ては頭が良くなったとか、体験談が溢れ出している。これまではギャンブル誌やコーディングされた藁半紙の黄色い財布、深夜番組の終わった後やデビッドマニングの専売特許であったものが、あちらこちらで増殖し、見渡す限りを覆っているのである。




体験談が増え続けるのには理由がある。
簡単な理由である。
体験談は、馬鹿でも簡単に書けるからである。






愚者が歴史を語り、馬鹿が体験を語る。
それが所謂ブログである。実にアフィリエイトだ。



紐付き体験談の増殖は、その作成の簡単さに起因するが、それだけが理由ではない。体験談は効果があるから増えているのだ。事実、保険や映画や洗剤や、本や車や化粧品、ありとあらゆる宣伝に体験談という形式が使用され、それ相応の成果を上げている。
体験談は、大衆から信じられるのだ。




どうして、体験談は効果があるのか。
なぜ、人は体験談を購入のトリガーとして使用するのか。






答えは明確。馬鹿だからだ。
世界は馬鹿で満ちあふれているからだ。

馬鹿が作った体験談を馬鹿が信じて馬鹿が買う。
得をするのも馬鹿ならば、損をするのも馬鹿だ。馬鹿物連鎖の構造である。









それだけではない。もっと根本的な理由がある。
人が体験談を信じるのは、馬鹿だからというだけではない。





人間とは、信じる生き物なのである。
疑うようには出来ていないのである。


プラシーボ効果を持ち出すまでもなく人間は、人間という生き物の口から出てきた文章を、信じるように出来ているのである。他人の言葉を生きる力へと機械的に変換し続ける単調なシステム、それが人の心というものである。

その生き物としての習性を詐欺師という詐欺師、宗教家という宗教家、神という神が利用して舌先三寸で私利私欲を貪る。その末席に列を成して、殺到するのがブロガーだ。教祖の腐ったようなやつだ。


紐付きの体験談を語るという事は、紐付きの雌のオニヤンマをぶん回すのと同じである。人間の人間性の根源たる所、人間を信じるという習性を利用し現金と充足へと返還する、非人道的行為である。




さらにもう1つ言うならば、ブログ体験談とは幻想商法である。
ブログとは、自身に都合のいい事のみを取捨選択し書き綴る、ブロガーによるブロガーの為の巨大な専用劇場である。当人が書きたくないと判断した事柄は絶対に書かれる事は無いし、書きたいと思った事は必ず書かれる。「これは書かないでおこうと思っていたんだけど」などと自分語りを始める始末の公開オナニーだ。

その、好都合な話のみで構成し作り上げたブロガーという架空の人格、虚像のイメージを利用して、読者に体験談を売りつけ、「これを買えば俺みたいになれるぜ」とやるのが、ブログにおける体験談商法の正体である。



ブログを通じて美食家のクールで知的な優しいお兄さん、みたいなイメージを作り出してハイクオータニアンぶりながら韓流ドラマの感想みたいな糞ブログを毎日毎日飽きもせず性懲りもなく書き垂れ流し続けているような奴らは実は、ライフガード片手にババネロを貪りながら水無月十三で涎を垂らしているような、社会のゴミの爪弾かれだ。



即ち、ブログが嘘、つまりはブロガーの書きたいことを好都合に書き綴る場所である限り、そこで語られる体験談とは、全てはブロガー自身がエントリーを通じて演出したい自分の姿という詐称に基づくものであり、自らを偽り幻想化する事を通じて読者のコンプレックスを金に換える行為である。イコール即ち、ビガーパンツで両手に花なやり口である。実に屑だ。








その紐付きの体験談は、形を変えて進化しながらやがて全てを覆い尽くすであろう。
そう。体験談は進化しているのである。



かつて、体験談は売りたい奴がねつ造するものであった。
「大島和也(24歳)このアクセサリーを身に付けてから彼女も出来てウハウハです!」
みたいなやつだ。ダブや洗剤のCMや、深夜の通販番組のように、実は1ユーザーでは無い人間を1ユーザーであるかのように演出し、体験談を語らせるという手法である。
この時点では、体験談とは明らかな、誰にでも解るでっちあげであった。ピンクの電話やたかたの社長やユニクロTVの出演者が、その品物の品質に本気で感動したリアクションを体験談として語っているとは誰も思っていない。それは種明かししながらも、他人の言葉を信じるという人間の習性を利用した、1つの商法だったのである。


それが少し進化して、「大勢に語らせて都合のいい物だけを編集する」という形へと変わった。映画の試写会や、店頭での試飲のCMのように、アンケートや投稿の中の都合のいい物だけを抜き出し、「本物の体験談」を恣意的に編集して宣伝行為に利用するというものである。


そこからさらに進化したのが「既に言葉の送り手として信頼されている人間に体験談を語らせる」というやり方である。それが所謂ブロガーに、日銭を掴ませ紐付きの、果ては野菜を握らせて、体験談を語らせるという手法である。


組織として行われたコマーシャルは、組織と個人の間に横たわる心理的障壁を乗り越えなければユーザーにまでは届かない。「信じる/信じない」の土俵には上がれず、「イメージを刷り込める/刷り込めない」の2択の情報として、右から左へ流され消費されるのである。TVのニュースは疑うは、2ちゃんねるの投稿は嘘半分で達観しながら検証もせずに盲信する、という「俺賢い」の論理である。
その、組織と個人の壁というマジノ線を右から迂り、個人の側から消費者を攻撃するというのが体験談商法の肝である。顔と口を通じて行う事で「信用する/信用しない」という他人への敬意問題、人と人との信頼関係へと論点をずらし、仲間を装い後ろから、差し込む奇襲の攻撃である。




ブログに蔓延る紐付きの体験談の増殖を止める術は誰も持たぬし、これからどんどん次々と、嘘大げさな紛らわしすぎるリアクションが人の手によりでっち上げられ、全てを埋め立て覆うであろう。なにしろ、データや推敲や、検証の末の思慮を経て、真面目に書かれた文章よりも、体験談という様式で、感想を適当そのままに捻る事なく無責任に書き捨てられたエントリーの方が、言霊として信頼され、信じ買われるからである。







正しく今や我々は、1億総上島竜平時代を生きているのである。


nice nice nice iya!!



っていうかこれ1試合目と3試合目神ゲー




っていうかマジ面白いよー。
45分頃から3試合、orc対orc。
強い方がzacardで、競り勝つ方がgrubby。




http://www.esl-europe.net/de/download/422299/


4k.grubby vs sk.zacardのドイツ語実況解説付きの第三者視点動画。
ダウンロードに5時間(700MB)くらいかかるし、なかなか繋がらないけれど、これは見ないとwarcraft3じゃない。というか、実況者と解説者のリアクション面白すぎて笑える。観客の沸き具合も寂れていていい。何よりゲームが凄すぎる。


感想としては、grubbyはほんとに男前なゲームをするなあと思った。
勝ちっぷりもいいんだけれど、負けっぷりがよいのがよい。
spirit_moonやMadFrogによくあるようなぐだぐだの腐った負けゲームはもちろんの事、うだうだとした勝ちゲームもほとんど無くて、負けるときはきっちり綺麗に惨めな負け方をしてくれるので、後味がさっぱりしていて見ていて気持ちがいい。固くて上手いんだけれど脆い、ってのが面白い。あー、千両役者だ。固すぎてつまらない、ってのもどこかであるんだけれど、それを超える面白さだ。まあ、相手がzacardってのも大きいのだけれど。そういやWC3Lの全リプレイを見ていた時代もあったなあ、みたいな感慨。お気に入りの雑魚プレイヤーや雑魚タッグチームがいくつかあったのだけれど、もう誰が好きだったのかすらも忘れてしまった。思い出せない。


2005年6月27日月曜日

ダブルスタンダード



任天堂DSのDSとは何の略なのか当てる。
という人生における明確な目標を発見し、よおし、さあ!といきり立とうとした瞬間に、ダブルスクリーン・・・、と明らかに正解っぽい答えを発見してしまい、拍子抜けした。

僕はあまりにも天才的に賢良さすぎる。


2005年6月26日日曜日

2通り



本音と建て前、愛と色、嘘と誠に善と悪。

複雑に見える事柄は、複雑にしたい人達が複雑に見えるようにと躍起になっているだけであり、実のところは単純である。どういう事でも大体は、大きく2つに分けられる。


その分けられた2本の柱のどちらかに必死になってしがみつくのか、あるいは忍者龍剣伝やレッドアリーマーのように器用に両の柱を都合良く、交互に踏み台に利用して、上へ上へと演じるのかは人それぞれであり、どちらが悪いでも良いでもない。蝙蝠が飛ぶのは日が陰ってからだ。




僕の日常にも2通りのものが分けられ隔てられ、それぞれ別個に存在している。PCの電源が入っている時間と、PCの電源が入っていない時間である。

今現在、その2つの時間の間を行き来すること、即ちPCの電源ボタンを押すという作業は、ナポレオンが栄光か挫折かの時間を選択する行為、即ち戦争に等しい。戦争である。


栄光か挫折かの2つであれば、栄光を望んでボタンを押すのが当然なのだろうけれど、歪んだ熱風を部屋中に響かせるそのボタンを押し入れる事と、押し消す事のどちらが自分自身の人生にとって行うべき事なのかを判断するのは困難で、ただ夜が来れば電源を入れ、夜が来れば電源を消すという肉欲的な日常が、ただ淡々と過ぎてゆく。




ある日、それが湧かなかった。

頬を走る筋や四肢が意志とはかけ離れた場所を勝手気ままに揺れるばかりで、身を起こしスイッチを入れ腰掛けるという単純な切り替え作業が行えず、仰向けに転がったままで天井と床板の間を見ていた。

季節の強さからなのか肺の弱さからなのか、あるいは別の理由からか、鼻から空気を吸い込む事が出来ず、口から息を吐き続けていると、あっという間に隠し扉で密閉された部屋中が、自分の息で満たされた。

富士の地層や活性炭を通った水が美しいのとは正反対に、生ゴミ捨て場を伝った雨や、積まれたタイヤの燻りから流れ出すそれは、同じ水であるのにとても汚い。


朱に交われば赤くなり、息を吐けば部屋が汚物で満たされる。
バンドエイドの漂う県営プールに額まで沈められ、浮かばぬように上から押さえつけられているのと同じ息苦しさが身を包む。エラ呼吸でも出来ればよいのだろうけれど、それ程までに器用ではない。


吐く息は全て汚く、浮かぶ言葉は全て醜い。
最後の秘境は1秒、1秒消える。消えてゆく。
美しくなりたい、などと過ぎたことを言うつもりはない。

ただ、願わくば汚さをものともしないだけの強さが欲しい。
汚水を泳ぐイナの群れや、埼玉を飛ぶハヤブサのように平然と、街角に立つ娼婦を引きずり殺したその足でバーへ繰り出すくらいの、至る所にありふれた、人並み程度の強さが欲しい。


2005年6月24日金曜日

人を幸せにするゲーム



良いゲームとは何だろう。

面白い、楽しい、夢中になる。
そういうゲームが一般的に、良いゲームだとされている。




けれども僕は違うと思う。

人を幸せにするゲームこそが良いゲームであると考える。







人を幸せにするゲームとは何であろうか。
享楽ではなく幸福をもたらすゲーム。
これがどうにも、思い浮かばない。




ゲームというのはかなり異常な娯楽である。
極めて長い時間モニタの前に1人隔離され、拘束され続ける。
それを彩るものなんて、精々ジャンクフードと怒号くらいだ。
その点で、ゲームとは非人間的な孤独な趣味であると言える。




「違うよ。ゲームの話とかしてコミニケーションしたりするんだよ!」などと、ゲームがいかに人間的、あるいは標準的な娯楽であるかを語ろうとする奴らは全員エセゲーマーだ。つまり、そういう奴らはゲームなどではなくて、映画だとかデスメタルだとか月9だとかベリーズ工房といったようなどんなものでも同じように消費していた人間である。たまたまゲームに出会っただけであり、必然ではない。エンドウマメとムギの区別もつかないような人達だ。






となると、やはり、迷う。
人を幸せにするゲームとはどのようなゲームなのだろうかと。
それこそが良いゲームであるのに、それが思い浮かばない。

ゲームなんてせずに、その時間を他の事に費やしていた方が人は幸せになれるのではないか、という懐疑心が芽生えて消えない。モニタの前に人を縛り付けるだけの合成麻薬ではないのか。本当に「ゲームで幸福を得た」などと言える人間がこの世の中には存在しているのだろうか。

といった事を考えていると、ふと浮かんだ。






幸福とは結果である。

つまり、幸福である人間の過去の人生における全ての行動は正当化される。
失敗も恥も失恋も、後悔も懺悔も愚かさも、「それらがあったからこそ今の幸せがある」と解釈する事が出来る。ゲームであれば、「ゲームがあったからこそ今の幸せ、今の人生がある」となるのである。





つまり、人を幸せにするゲームなどというものは存在しない。
幸せな人と、そうでない人がいるだけである。


幸せな人にとってゲームとは全て「人を幸せにするゲーム」であるし、
そうでない人にとってゲームは全て「人を不幸せにする」ものである。





とすると、ゲームというものを素晴らしい娯楽であると位置づけ、正当化したいと考えるゲームを愛するゲーム好き好き人間に与えられる至上命題とは、「幸せになる事」なのである。



同様に、人様にゲームを薦める場合は、その対象者が「幸せになりそうな人間」であるか、「不幸せになりそうな人間」であるかを良く見極め、幸せになりそうな人間のみを選んでゲームをプレイしろと薦めるべきである。

無差別にゲームをばらまき薦めるという行為は、極めて非人道的であり、ゲームの為にもならないし、人の為にもならない。


自らが幸せであると迷い無く言えないようなゲーマーは、ゲー敵にゲームを攻撃する論拠を与えているようなものであり、森昭雄の送り込んだスパイであり、ゲームの敵である。





ゲームは人を幸せにすべきであり、ゲームは人に幸せをもたらすべきだ。
即ち、ゲーマーは1人残らず今すぐに「幸福である」と胸を張らねばならぬのである。


2005年6月23日木曜日

見てはいけないものを見てしまった



負けた。
自分に負けた。


日常は抑揚が足りずに少し退屈であると誰もがどこかで思っている。その日常を少し華やかなものとする為に、誰もが適当な俺ルールを作り、それを胸張り生きているわけである。

横断歩道の白い所を踏まずに信号を渡れたら勝ちとか、家まで赤信号にひっかからずに帰宅できたら勝ちとか、目覚ましが鳴る前に起きれたら勝ちとか。あるいは、モスはいいけどマクド食べたら負けとか、ビッグブランはいいけど月見バーガーは負けとか。



僕のそういうちょっとしたルールの1つが、はてなブックマークのコメント欄を見たら負け、見なければ勝ちというものであり、随分と長く勝ち続けてきていたのに、ついうっかりとクリックして見てしまい、勢いで全部見てしまった。
壮絶へろへろ負けムードが漂って情けなく消えない。



いつ頃から、というより物心がつく前からコミニティのようなものとの相性の悪さ、より正確に言うならば人間というものとの相性の悪さというものを自分自身に感じており、「人が沸いている場所には近づかない」という光栄的な縛りプレイでMMOだとか、メール、mixi、BBSといったものに近づかずに生きてきたわけである。

と、言うと、まるで僕が社会不適合の歪がり者のように聞こえてしまうがそうではなくて、「パチンコをやったら負け!」とか、「年金払ったら負け!」とか、「アルコール飲んだら負け」とか、「不貞をはたらいたら負け!」「エロゲーやったら負け!」といったような、そういうちょっとしたルールは誰だってあるわけで、そういう類。至って普通。一般人。



つまり、はてなブックマークのコメント欄に目を通してしまった今の気分は「絶対にパチンコなんてやらねえ!」という人が朝の9時から夜の9時までパチンコを打って10万円負けてしまったのと同じくらいのものであり、壮絶なまでの脱力である。




「陰でこそこそコメントしてるこいつらキモッ・・・」みたいな印象を最初は受けたのだけれど、そういう事ではないと仮定すると、ウェブサイト単位のまとまりであったコメント欄を、コメンテーター単位のまとまりにパラダイムシフトしただけ、というわけか。そう解釈すれば気持ちの悪さはかなり減る。自分のコメント自分の発言を大切にしたい、相手の側に持ってかれるのは悔しい、己のタイピングは1タイプ漏らさず自コンテンツ化してやるという自己愛だろう。自分の足跡の一覧を目視したい、というのは解るところであるし。
とはいえ、やっぱり厳しいものがある。いや、悪いのはこちらの体質だし、見ていて当然的な使われ方をされていたのは度々言及していたこっち側に責任があるんだけど。



ウェブサイトはどこまでが誰のもの?といったような話は昔からあったのだろうと思うし、多分これからもあるのだろう。ウェブサイトに落書き出来るツールや、同じウェブサイトを見ている人同士でチャット出来るツールの延長線上に、盗まれたコメント欄としてのはてなブックマークがある。書き手の側からすると不可視な、何を言われているかわからない新たなる場所の誕生であり、抑圧と支配の構造である。それに怯えて陰コメントを読む為にアクセスした人間を取り込みはてな化する、って読み方をするとまるで恫喝だ。

幸いにして現状ではSBS利用者人口が少ないから、そのような裏コメント欄的なものとしては完全には機能していないのだろうけれど、人が増えるとどうなるのだろう。

捨てコメントの吐き捨て場、暴徒の便所の走り書き的な使われ方をする人が少しずつ増えて行き、一定数を確保するのかもしれない。まあ、はてな自体がどちらかというと実名コミニティに近い存在であるからして、そこまで匿名的な捨てブックマークユーザーが増えるとは思えないけど。


・・・って、そういや複数ID取ってた人いたな・・・
捨てコメントをしたい人は、それ用のIDを取れば済む話であり、ダイアリー~ブックマーク間の極めて実名的な繋がりは、所謂荒れコメント的なものの抑止には成り得ないか。







次の一手としてまず浮かぶのは、はてなブックマークのコメントをウェブサイト側に表示するコンポーネントの提供か。

おそらく、はてなダイアリーあたりにそれを追加してユーザーの囲い込みとかしていくんだろうと思う。そうなると「読みに行かないと読めないコメント」という盗まれたコメント欄がウェブサイト側に返還され、「コメント欄単位からコメンテーター単位への変化」という色が明確になり、ハテナーユーゲントの閉じた馴れ合いの場、盗まれたコメント欄という色は薄れるのかもしれない。





いや、まあ、ブックマーカー側から見ると、タグの利便性と外出先でも使えるブックマークという機能が根本にはあって、それが根本にあるのだろうけど。

というか、タグの表示システムはレッテル張りに最高だ。「包茎」とか、「この人、ストーカー。」とか、「ピースボート」とか、「ネカマ」といったようなタグをお調子者の人達が数人で談義してつけておけば、それが目について幾らかはアウトになる。そういうレッテル張り工作に張られた側も抵抗し、やがてはレッテル張り戦争に突入して新たな記事が書かれる度に不毛な巨大タグが画面を覆う、といった時代が訪れればそれはもう血みどろであり、最高。









というか、なんかやんごとなきにしもあらずな人がコメント入れてたりしてドン引き。お前らそんなことやってる暇あったら働けよ。仕事しろよ仕事。引くわ。マジ引くわ。









とりあえず、見てはいけないものを見てしまった事を酷く後悔しつつ、二度と見ない縛りプレイ再開。僕自身の軟弱さからして100%違いなく、遠からずまた見てしまうのだろうけれども。


2005年6月22日水曜日

能動から受動へ。お気に入りからRSSへ。



かつて、ウェブサイトを読む事は能動であった。
自ら文章を読むために、動き求める行為であった。

けれども、今ではもう違う。
文章自らRSSに乗り飛んできて、受動的に読まされる。




  アクセスする。
  更新されている。

と、アクセスした読者は更新されているという事実だけで幾分かは満足していた。





  飛んできたRSSを読まされる。
  くだらない更新が成された事にがっかりする。

以前は喜びであった「毎日更新」というものが今ではスパム、RSSスパムである。毎日更新は地に落ちて、幾分かの失望や幾分かの苛立ちを押しつける嫌がらせ行為に成り下がった。更新されたエントリーとは無理矢理に送りつけられるダイレクトメールとなってしまった。

隠されれば見たくなる。見せつけられればうざくなる。追う追われるの単純な関係がホームページにも持ち込まれ、誰も更新を待ち望まなくなった。










また、RSS層と一般読者層の違いというのもある。

RSSを利用している人間というのは平均レベルのウェブサーファーではなくて、少し先行くスマートな人々だし、これから先もRSS的な読み方をする人口がインターネット人口とイコールになる日は来ないだろう。時代遅れな古風な読者さんも存在し続ける、って事だ。


つまり、旧時代的な読者を意識するならば内容が伴っていなくても「毎日更新」は有効な手法であり、新時代の上級職的読者を意識するなら「更新しない」というアプローチが有効だ。

故郷から毎日届く中身のないメールはうざいが、半年1度のメールであれば、中身が無くても嬉しく思う。人間ってのはそういうものだと思う。拾いに行って何かがあったらそれがゴミでも嬉しいが、送り付けられる迷惑なゴミは迷惑なゴミだ。そのままだ。









話は少し逸れるが、「とりあえずRSS登録」という人達は、RSS以前では素通りしていたようなブログの読者になり、カップラーメンの裏蓋の文字列程度の緩い情報としてエントリーを消費して行っているのだと思う。書き手の人物像や、ブログタイトル、ハンドルネームすら把握できていないような緩い常連が増えているんじゃなかろうか。
これは単に情報処理能力が違うだけなのかもしれないが、はてなアンテナが200だとか、購読RSSが140だとかいった数字には途惑いを越して目眩を覚える。


「族で1000人の友達がいた」といった類の、極めて神奈川的な隔離される事への恐怖、孤独感といったものが「とりあえずRSS登録」の背を押しおり、結果として寄せるRSSの物量に目を通し処理するだけでイッパイイッパイ、言い換えれば満足してしまい、本来は読み解き受け取れるはずだった情報すら読み逃すという孤立化、繋がりの希薄化というのが、進行しているように思う。


つまりは本末転倒、繋がりを求めて繋がりを失う、というわけだ。
八方美人のOLが囲み潰され繋がり失い消えてゆくのと同じように。












読者の属性によって「毎日更新RSS」を喜ぶか喜ばないかは違うだろう。

信者と呼ばれる人達や、書き手と属性が120%一致している人達、あるいは24時間暇しているような方々は、どのような内容が送り付けられてきても喜ぶだろう。逆に、価値あるエントリーが成される事を期待して「とりあえずRSS」した人達は、毎日更新RSSによってふるい落とされ消えてゆく。


極端に言うと、毎日更新されるブログに内容を求めるまともな読者は残らない。ふるい落とされ残るのは、人間観察的な閲覧者と、コミニケーション重視の取り巻き、気持ちの悪い信者とネットジャンキーくらいのものだ。言うなれば、変な読者しか残らない。RSSが滲透すればするほど、その傾向は強まるだろう。






滅多に更新されないという希少性と、更新を待ちわびる涸渇感、それに幾分かの内容が加われば、RSSした人皆が、それなりに読み、満足する。
内容重視、後読感重視のブログというものを指向し、中身の伴う更新を行う自信があり、それを読んでくれるような読者を欲するならば、毎日更新しない、という逆方向の努力が必要である。

「中身の伴う毎日更新」というのが最もシンプルな解き方なのだろうとは思う。中身の伴う毎日更新を行える人間にのみ許された解き方ではあるが。







RSSがさらに滲透すると、ブログは「読みに行くもの」から「読まされるもの」へと完全な変化を遂げ、毎日更新される事のポジティブな側面は地に落ち、マイナス面ばかりが残るだろう。


書き手に出来る「とりあえずRSSな読者」をがっかりさせない為の数少ない防衛策としては、「更新しない」これだろう。更新しないという事により、書き手は自由な時間を得られるし、読み手は失望のRSSを送り付けられずに喜ぶ。Win-Winの関係である。
























じゃ、lose-loseで。


Musical Batton2



1本が7000億本になる不思議なバトン。


2005年6月21日火曜日

ブログの秘訣



長寿の秘訣は死なないことだ。
















「長寿番組の秘訣はマンネリだ」などと、よく言われる。
それをそのまま当てはめたなら「長寿ブログの秘訣はマンネリ」である。

事はそう単純ではない。






長寿番組は淘汰を生き抜いた番組であり、長い寿命の支持を受けている。
長寿ブログは淘汰を生き抜いたブログであり、長い寿命の長きに渡りブロガーが、長い寿命の長きに渡りブログを毎晩書き続けていられるくらいに暇だった、って事だ。一言で言えばかわいそうなひとだ。




結局のところ、長寿ブログと長寿人気ブログは違う、という事である。
長寿人気ブログを作るのであれば、長寿番組と同じ方法が使える、ってわけだ。

マンネリをやればいい。




マンネリ。
同じ事、同じパターン、同じオチ。
違った話題や違う話はなるべく抑えて同じ事。


けれども、それをやったって長寿人気ブログは作れない。
なぜなら人気が足りないからだ。





最初の1ページで人気を得て、それをマンネリに流し込む、ってのが長寿番組の手法だ。同じ事をブログでやるなら、最初の1ページで人気を得る必要がある。



最初の1ページ。


TV番組において、最初の1ページとはその番組の1クールだ。
1つのTV番組とは、1つのTV番組である。


けれどもここはインターネット。
ページとページが繋がって、連鎖引きずり続ける世界だ。
ウェブサイトとウェブサイトの間に明確な境界線は無い。





何が言いたいか。
つまり、である。


どこかで人気が出た題材に、一週遅れでついてけば、人気マンネリの出来上がりだ。
まったくもって、簡単な事だ。


人気ブログを作るには後追いを続ければよい。どこかのブログで出た話でも、1前昔の話題のネタでも、ITメディアの流行ネタでも、出自遠かれの海外ネタでも構わない。一週遅れで同じ事を繰り返せば繰り返すほど、それは即ち人気マンネリであり、長寿人気ブログの出来上がりだ。徹底的にやればやれ。



近頃数ヶ月前に仕込んだネタをいくつか物凄い自信で落としてみたのだけれど、見事なまでに綺麗さっぱり誰も気がつかずに全てスルーされているのを目の当たりにし、「自ブログ~自ブログ」間の繋がりの弱さと、「スピード」の重要さ痛感させられた。




必要なのは速さなんだろう。
求められるのはスピードだ。

「落とすのは引っ張りに引っ張ってからの方が効果的だぜ!」とか思ってると奈落の底に落とされるんだろう。間髪無しにやらないと、速度にふるい落とされて、皆まで忘れ去られるのだ。タイムスケールはデメリットだ。「フリ」~「オチ」は3日が限度か。実にせわしない。






つまりの所、恒常的な人気とはマンネリであり、必要なのはそれである。例えばブログで言うならば、人の目を留めさせるだけの力とインパクトを持つキャッチアイを「どりゃ!」とばかりに書いておき、それを取消線で消す、といったような同じパターン同じオチ、同じ展開同じネタを繰り返してさえいれば、一定量の愉快な信奉者は崇め祟ってついてくる。そうすれば瞬く間に恒常的な人気ブログは出来上がるのであり、人気ブログを作らんとすれば迷う事なくそれをやるべきである。しかしマンネリはマンネリを生み鮮度色褪せ退化して、次第にインターネットとの距離を広げて置き去りになる。置き去りになって尚、当初よりは多い人数の信仰読者は増し増えるからして、それでよいという考え方も出来るかもしれないけれど、信者を相手にする商売ってのは信者を相手にやる事でしかなく、物によっては愚かさだ。大衆に売り込むべきなのだ。しかしながら身内にウケているからといって、同じオチばかり繰り返していると大衆は「またやってるよつまんねえ」となるわけであり、「きゃーまたやってくれた!素敵!」という信仰読者との距離は開き、エントリーの大衆性は少しずつ消耗浪費し失われ行き、やがては完全に信者相手の商売となり、札の彼方に消え去るのだろう。いや、"だろう"といった話ではなくて、マンネリなネタのやりすぎで、普遍力という点では既にもう手遅れなのかも知れない。大衆性というものを意識して書いているブログがマンネリなオチをつけ続けたせいで宗教家してしまう、というのがあったとしたら物悲しい。1パターンで単純なオチをつけていなければ、インターネット的浸透力があったかもしれないエントリーが、ネタ化によってネタ化し、ネタブログは何を言ってもネタブログというのは物凄く非生産的自慰的であろう。まあ、1人のインターネットサーファーとしては新しいタレントの登場を待てばよいだけの話で、時たま過去ログ漁っては「きゃーまたやってる!素敵!」とか腹を抱えてにやつき苦笑をしながらネッてればいいか。って、一体僕は誰に向かって何を言っているんだろう。なんかよくわからなくなってきた。






































WA・KA・I・N・PO・!


高いSEOのWebスパムとしてのはてなブックマーク



マイナーゲームをキーワードに検索エンジンを叩いていると、はてなブックマークのキーワード検索結果が上位に表示される。これが、非常にうざい。



「はてなブックマークは情報収集の効率化になる!」だとか、
「Google検索よりも精度の高い絞り込みフィルタとして使える!」

といったような「はてなブックマーク=凄い」みたいなうわさ話を耳にし擦り込まれている身分であるからして、期待に胸してクリックすると、100%期待外れの結果が返される。
中身がないのだ。



はてなブックマークでは文中に登場した単語を自動で抽出し、キーワード化しているらしい。そのキーワード化されたものが、検索エンジンにひっかかるのだ。最近流行りだした新手のウェブスパム、検索結果を検索エンジンに送り込む、って手法だ。


で、その中でもはてなブックマークのSEOが最もうざい理由は1つ、壮絶なまでの中身の無さだ。



例えば「武蔵伝」。
http://b.hatena.ne.jp/keyword/%e6%ad%a6%e8%94%b5%e4%bc%9d

この中に「武蔵伝」で検索した人間の求める情報はいくつあるだろう。







「はてなブックマークは高性能なフィルタ?」
「はてなブックマークは情報収集を効率化する?」

何を言っているんだ?
ウェブサイトに徒労とJWordリンクのスパムをばらまいているだけだろ。


いや、誰がその利益を得ているんだ?
ああ、そうか。そういう事なんだろうな。



今時のんきにGoogleを叩いて泣いている奴なんて馬鹿な人間であり、脳の無い馬鹿は馬鹿でSEOスパムにひっかかって徒労を繰り返してろ、っていうのがエスプリッシュメントな人々の階層的電脳空間の結論なのだろう。




http://www.jword.jp/info/info_newsrelease.20041029.htm
ま、大体からして我が国のインターネットを代表する悪徳企業であるJWordと握っているようなところであるからして、迷惑な徒労スパムってのはお似合いの振る舞いであるとも言えるわけだし。いや、我が国じゃなくて中国か?

ああ、このJWord=巨悪という認識自体が世間のものとはずれていて、今時のインターネッターは便利な道具の神企業と思っているのかもしれないし、事実便利な道具の神企業なのかもしれない。その辺りはよくわからないけど、とりあえず僕の中では我が国最悪のインターネット企業だ。余談が過ぎた。話を戻す。









結局の所、はてなブックマークってのはSEOを自動的に作り上げる、という流行最先端のスタイルであって、それ以上でもなんでもない。ああ、マジうぜえ。迷惑だ。amazonやら楽天やらの結果を一覧表示に並び立ててアフィってる検索エンジンスパムサイトの方がマシに思えてしまうくらいだ。


いや、単純な話で「検索結果にスパまれたはてなブックマークはクリックするな」って事であり、それで収まる話なのだろう。


個人としては「クリックしなければよい」で終わるのだけど、はてなブックマークは迷惑なSEOスパムであるという側面は違いなく、迷惑広める逆宣伝であるからして、それを崇めているような信者のような取り巻き達と一般的なGooglerとの株式会社はてなに対する認識はさらに開いて行き、さらに村化が加速する、という事なのかもしれない。
いや、そんな大それた話ではないか。











根本である「中身がない」が改善されれば事は解決しなくもない。
しかし、それは無理だろう。


文中に登場した言葉を拾い、新着順に並び替えるというはてなブックマークの手法では、フレーバーフレーズとして使った単語やジョーク、たとえ話といったくだらない用途で使用された単語が抽出されてしまい、中身の無いJWordつきのリンク集が出来上がる。

例えばルーベンバラハ、シャビアロンソ、シュバインシュタイガー、なんちゃらカンビアッソ、ロイマカーイ、ロベルトアジャラ、ヤンコラー、ミチェルサルガド、高橋名人の冒険島、ツインビー、パロディウス、仮面の忍者赤影、ゴジラ対ビオランテ、エスタディオオリンピコ、セルゲイブブカ、堀尾由衣、林原めぐみ、鳥山明、ぐら乳頭、大塚愛、オレンジレンジ、ポールマッカートニー、クロノトリガー、伝説のオウガバトル、データイースト、あちゃ~・・・こんてにゅ~?、ルドラの秘宝、パネルでポン、アタリ前田のポン、ポンジュース、ジュークボックス、アクトレイザー、ポピュラスザビキニング、アランドロン、テーマパーク、タワー、僕と魔王、ケイグラントストーリー、ってそんなストーリー知りたくもない。


とかやってると、それがはてなブックマークのキーワードで拾われて、Googleに送り込まれてしまうわけである。なんというか罪悪感。多分。


これは構造上の問題であり、改善の見込みは無いだろう。どれだけ母数が増えても中身の無い自動作成SEO対策リンク集は中身の無いリンク集であり、状況は変わらないだろう。検索エンジンの1ページ目の1桁にある空リンク集が役に立たないリンク集に置き換わる、って現象は起きるだろうけど。











馬鹿と道具は使いようとはよくいったもので、馬鹿と道具は使いようであり、馬鹿と道具は常に使われる側だ。馬鹿は大人しく馬鹿らしく、強者が上手に精子で描いた地図の上をコンパスも無く左手壁で歩き続けろ。
収奪空間としてのインターネットの未来像のベタールートを。







結局の所、どこかでインターネットの使い勝手がよくなったと同時にどこかでは、インターネットの使い勝手が悪くなっているのであり、振り落とされるか居残るか、キザを気取ってついてくかの強制2択であろう。



noobは徒労に暮れて死に、proが理想の世界を作る。
逃げたくなるのも解らぬでもない。
正しく殺伐、インターネット。
これが噂のサイバーか。


2005年6月20日月曜日

LOVE BATON




■Love Baton(ラブバトン)


  1本が5本になる不思議なバトン。


  ちなみに「baton」には「男根」という意味もあります。





■概要


  当ブログに端を発する、LOVEに関する企画。


  LOVEに関する1つの質問が「バトン」として回ってきたら、自分のブログ上でその質問に答え、次の5人を選びその人にバトンを渡す、というルール。


  渡した相手からバトンが返ってきたらMAKE LOVE。





■質問


  ・今すぐにでもよろしくやりたい5名のブロガーをお答え下さい。(fuck who?)*1


   この問いへの回答が、同時にバトンを渡す相手になります。
   


  *1:英訳は一般的に流布しているもの。







というわけで、言い出しっぺの僕から質問に答えたいと思います。
バトンを渡された人はよろしく、お・ね・が・い、します。





・今すぐにでもよろしくやりたい5名のブロガーをお答え下さい。
 この問いへの回答が、同時にバトンを渡す相手になります。


 渡した相手からバトンが返ってきたらMAKE LOVE。








































































って、こんなん答えられるかーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!
無理じゃーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!
キモイヨーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!















■LOVE BATONの童貞臭いまとめ。


  ・よろしくやりたいブロガーは5人以上います。


  ・10人は女性で、2人は男性です。


  ・2人には夫が、5人には彼氏が、1人には婚約者がいます。


  ・1人には妻が、1人には彼女がいます。


  ・断じてホモじゃないです。両刀でもないです。
   勝手に擬女化してよろしくやりたいと思っているだけです。







  ・体調が最悪な中で強引に横になって寝ようとしていたら、
   眠りに入った瞬間に夢精してしまい、さらに体調が悪化しました。


  ・とりあえず、それでもよろしくやりたいです。


  ・今すぐにでもよろしくやりたいです。


  ・よろしくやりたいです。







■LOVE BATON(ラブバトン)


  ・真性引き篭もりhankakueisuu
   (これ以降は廻っていない模様)


2005年6月19日日曜日

糞ブログの条件



まったく、世の中にはいろんな人がいるものである。

例えばどこかの誰かであれば、喜び勇んで小躍りしながら突っ込んでって、向こう三日はルンルン気分、みたいな音楽転調ボーナスステージが所変われば罰ゲーム。






なんというか、もうこれは、はっきり言って次元の話ではなく、
「もったいないお化け」をも超越した真のラッキーアイテムだ。
やりたい。やりたい。今すぐにでもよろしくやりたい。いや我慢、我慢、と。

悔しい。
凄い損をした気分だ。
世界は適材適所がなっていないと痛感させられる。












普通の事も書きたかっただけれど凄すぎて、気楽に書けるものでもない。


結局の所、ナウでヤングなインターネッターが喜び勇んで食い尽くすのは、旨み香辛料やら辛味調味料でゴテゴテに味付けられたコンビニエンスストアの380円総菜だという事なのであろう。あるいはせいぜい米国帰りの輸入船か。

もはや大豆畑や豆腐屋に価値を見いだす人はいないという事であり、僕のような上品で行儀のよい金持ち喧嘩せずを地で行く品行方正モラリアンなブロガーは肩身が狭く消えゆく運命にあるのであろう。
まったく、住みづらい世の中になったものである。嫌な時代だ。



















1,ゲームに変な誇りや拘りをもっている。


2,個人ニュースサイトに取り上げられる。


3,アクセスがーアクセスがー!とか言い出す。


4,だいたい決まって例外なく糞ブログ。


2005年6月18日土曜日

アイアンマイク



体中の水分が干上がり流れ、大掛かりに寝入られず、強く頭を掻いていると頭皮がこそげ落ち腹が痒い。股が痒い。蒸し暑い。

不潔がむれている。







湿度は途方もなく高いのに、それを体に取り込んで、潤い癒す事など出来ない。
日は高く、重心は低い。志はアンフィールド。血も涙もないビロードの滑らかなゴール。
笑えばいい。
強く笑えばいい。



強い。
今が最も強い。

強い雨と、強い日差し。
そして、男にとっては最も強い曜日。

それは強さではない。
それは、弱さだ。
あまりにも。






けれども強い。
梅雨は強さの頂点だ。


強さとは何か。
それは、苦痛だ。
苦痛に耐える根性でも、苦痛を与える言葉でもなく、苦痛そのものだ。
それが強さだ。



強い雨と、強い日差し。
強さと強さが衝突をする。

戦い。鮮血。ゴムの靴。
水色の血溜まり。




随分長くアスファルト。
もう面影は何もない。

蒸し暑い朝と夜とを間違えて、雀が叫ぶ不愉快さ。
苦痛。落ちろ。



鈍感になった。
感じられない。

瞼が灼ける。
寝足りない。



苦痛を感じる心の粒が、生まれてこの方すり減って、今では立派に空元気。
僕は強いのか。
それとも、弱いのだろうか。


また雀が鳴く不愉快。
苦痛。落ちろ。
駄目なら、眠れ。
少し休んで。ゆっくりと。


すぐに始まる。
眠るなら、今だ。








雀は山にはいない。
里にいる。


どうしてだろう。
おそらくは、逃避だ。
雀は山が耐えられぬのだ。


その苦痛を越せぬのだ。
だから雀は里へ逃げ込む。
人前に出てヒバリを真似る。

野に狐などおらぬのに。
巣も卵も子もおらぬのに。



雀は弱い。
逃げている。
山の孤独に怖じ気付く。



あれでは駄目だ。先はない。
100まで踊るが精々だ。





対して僕は人である。
断じて雀などではない。

怖じ気付かぬし、叫かない。
山も小部屋も平気である。
無論苦痛も感じない。








人里離れて、人果てて。
果たして僕は雀より、幾らかくらいは強いのだろうか。






苦痛。それは強さ。
雀には苦痛が無い。

「同じく!」
と胸を張るべきか、それとも。
それとも、戦うべきか。


戦う。
ならば苦痛。
少なくとも、雀よりは強い。
太って落ちろ、かすみ網。





血が流れる。
流血の惨事。
左心房が血まみれだ。

青水色の砂時計のように、ざらざら緩慢に落ちてゆく。
水分が足りない。たまねぎが足りない。FF3かテンテンか。




どろどろの血。汚い血。
汚れてしまった岩清水。




汚さは敗北である。
敗北は苦痛である。
指先にまで達した体の、受け入れ難い苦痛である。




残念なことに。
残念なことに指先は汚れている。
ほこりまだらのキーボードと同じくらいに。



今は信じたい。
心臓から流れ出る血だけはまだ、汚れておらぬと信じたい。

確かめる術はない。
信じるしかない。
信じるは弱さだ。
弱さは苦痛だ。

とすれば、どちらだ。
一体、どっちだ。









昔よく、ノートのページを細くちぎって紙縒りにし、先を曲げて耳垢を掻いた。耳掻きをシェアするという不潔さにも、耳垢蔓延る不潔さにも、同じくらいに耐えられなかったからである。上手に耳垢をもぎ取れず、中耳に敗れしおれた巻紙の槍を見る度に、
「汚いものと綺麗なものに分けスキャンするマシーンがあればよいのに」
と、妄想したものである。丁度、空港の金属探知機のゲートのような。


けれども、果たしてどうであろうか。
もしも今すぐ、それを通れば、どのくらいの自分自身が残るのだろうか。




指先まで絡みつく、青く浮き上がった血筋。
睡眠不足のせいであると自己弁護をしたところで、
機械は機械であるからして、聞き入れてくれぬのだろう。

ならば、何も残らぬのか。
まったく、梅雨のせいだ。
いや、耳垢くらいは残るやもしれぬ。






耳垢!
耳垢!
秘書!宗男!
耳垢!
耳垢、秘書、宗男・・・。


おそらく、このフレーズは強い。
書き込み全てを飛ばしてしまうくらいに。
読んだ人の頭の中には、このフレーズしか残らぬだろう。
まあ、それでいいではないか。誰1人として読まぬとしても。いいんだ。


耳垢!
耳垢!
秘書!宗男!
耳垢!
耳垢、秘書、宗男・・・。








弱く笑って、強く罵る。
もうすぐ全部干上がって、暑さ居座る日本の夏。

体中に浮き出る青筋。
内股に、足の甲に、掻きむし爛れた脛の表に。
両の股間から臍に向かって、脇の下から太く、強く。

こめかみから眉頭へ。
こめかみからつむじへ。
こめかみから痩けた顎へ。

こめかみから、白眼へ。







青い紋様、顔中に。
まるで、マイクタイソンの入れ墨。


アイアンマイク、ストロング。
タイソンの血はアイアンの血。
1人で壁を崩壊させる。

熱を持たない冷たい強さ。もう、打てない。





それは苦痛。

戦う苦痛。
戦わぬ苦痛。
積み上げたものを異国に捨てる。


全て失う見るも苦痛。
愚かな言葉を聞かぬも苦痛。
全てが辛い。






今にして思えば、戦わせておくべきだったのかもしれない。
けれども逃げた。勝つなと言ったし、戦うなと言ったから。
だから指図の通りに逃げた。それはダマトがドンキングだ。

聞く耳持たぬは、まことに苦痛。
耳の聞こえぬ眼は苦痛。
空の氷河に消えた声。

アイアン・マイク。
戦いたいなら日本に来い。
逃げられないし、眠れない。
終わりにすべきと思うのだけれど。
















80'sは遠い昔に逃げ去った。
もうあの頃は戻らない。

太平洋の向こうの先で、雀百まで水枯れ踊る。
眠らない鉄、眠れぬマイク。
アイアンマイクに瓜一つ。


顔が見えるという不安



顔が見える企業、ってのは頼りがいがある。というか、信頼が置ける。
けれどもそれが逆にデメリットになる場合もあると思った。






顔が見えない企業、ってのは匿名企業だ。
誰が何をやっているのかわからない。
通説的に言うとだから不安である。


顔が見える企業、ってのは実名企業だ。
誰が何をやっているのか見えてくる。
通説的に言うと、だから信頼が置ける。


でも、その構図があらゆるものに当てはまるというわけではない。
顔を見せるってのが無条件で肯定要素なのは有機野菜くらいのものなんじゃなかろうか。

というか、有機野菜であっても作り笑顔で笑われるとうさんくさい。本来ならば製品の性能をアピールするべきなのに、人柄や人相というフィールドに問題を持ち込み消費者を丸め込んでいるとしか思えない。

ところが、世の逆淑女さん達は「まあ、素敵な笑顔素敵な野菜」みたいなムードでそれにころっと行くわけだ。もちろん、顔の見えない外国野菜や既存野菜への反発ってのもある。けど、それを購買に結びつけるのならば、それこそ製法、製作過程を写真と文字で表すべきであって、「うちのじさまも、息子も食べています!」みたいな顔写真でアピールすべきじゃない。

それじゃあ売れないから、とフィールドを変えているわけだ。まあ、顔を見せるってのは信頼どうこうじゃなく、宣伝戦略になってしまっている。極端な話、有機野菜の笑顔の裏でDTTぶっかけてるかもしれない、ってのは極端な話であり、言い過ぎだが。




口八丁手八丁のたかたの社長の売り笑顔や、よくある自己啓発系の「俺はこれで成功したぜ~」みたいな両目見開いたレタッチ写真、あるいは中身なんにも無いのに高い講演料で各地を回っている企業家もどきみたいなのを見ると、「商品を売らずに人を売る」というものに宗教臭さを感じてしまい、嫌悪感を覚える。

ってのは本題じゃないから置いておこう。







日記というかメモのようなものをつけているのだけれど、その整理整頓が上手く出来ずに困り、はてなダイアリーを借りようと思い立った。ところが、「はてなに登録したら負け」みたいなムード以外に、心理的な壁がある事に気がついた。

それが、運営側の非匿名性だ。



公開できる事は全てブログに投稿しているわけで、メモの側は全てが絶対に公開できないような自分自身の事である。それを顔の見える運営母体に預ける、ってのは相当に抵抗感がある。

もしも、はてなダイアリーの運営母体がYahooや、MS、Googleのような顔の見えない匿名企業であれば、なんの迷いもなくレンタルし、プライベートモードで書いていただろう。けど、顔が見えるとそうはいかない。
「えー、こいつら見てんのー?」といった言葉に出来ない不安がわき上がる。



これは僕の側に問題でレアケースなんだろうとは思う。けれども、やっぱりなんか顔の見えている奴に読まれる可能性がある、ってのは凄い不安だ。




プライベートな事を書く、という例外的な場合を除けば、


はてな>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Google>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>MS>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Yahoo
といった具合なのに、これが公開するためのものでなくなると、

MS>Google>>>>>>>>>>>>>>>>>Yahoo以下略になる。
なんか嫌なんだよな。
見られたくない文章を見る事が出来る立場にいる奴の顔が見えている、ってのは。ものによっちゃあ、企業匿名性ってのはかなり重要。アダルトグッズとかも多分そうなんじゃなかろうか。ウェブサイトに「私が責任を持って梱包します!」と、笑顔で販売者の顔写真が載ってたら嫌だろう。アダルトグッズなんて買った事無いからわからないけど多分。

あー、MSあたりに売ってくれないかなー。
はてなダイアリーシステム。
そしたら心おきなく借りれられるのに。





そんなわけで、xyzzy-howmでちまちまとやっている毎日。メモ取りやタグ付け的には互角なんだけど、xyzzy-howmは小さなメモがどうしても増えるので見渡しづらく、タグクリックで出てきたものをマウスでぐりぐりまとめて読める、ってのに憧れつつも、まあそれなりに使い勝手もいいのでこれでいいか、的な妥協。やっぱり、タグ分け+HTMLを見渡しクルージグってのがしたいんだけど。






任天堂信者の任天堂観のような、
「誰が何をやっているのか見えてこないんだけれど信頼が置ける」
ってのが商品を使う側から見ると、最高なのかもしれないと思った。

致命的なミスをしたって企業がズドーーーンとコメント出して対応すれば、「下っ端が血迷ってやったんだ」みたいな修正が効くし。


ビデオゲームバトンは馬鹿だ。



というか、これ作った人相当の馬鹿だ。
二番煎じというよりも劣悪すぎるコピー。



音楽の場合はパソコンで聞くというスタイルが世界中にある程度滲透しているから「コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量」ってのは普遍的な問いとして通用する。さらに、音楽ファイルでは容量と曲数が程度比例するのでその人のパソコン依存度のようなものが見えてくる面白さがある。

けれどもPCゲームの場合は容量と本数は比例せず、PC内のbyteサイズを答えた所でほとんど何も見えてこないので意味がない。


また、この質問はPCでゲームをするという習慣が無いに等しい日本では通り辛い。単純に「ミュージッックバトン=音楽」に対して「ビデオゲームバトン≠ゲーム」であり、これ始めた奴は相当な馬鹿か、ゲームに興味が無いかだと思う。



2~4の質問はビデオゲームに関してなのに、PC内のファイルサイズ聞いてどうすんだろう、みたいなのもある。浮きすぎ。






おまけに、ビデオゲームばっかり聞いてくるからしてPCゲーマー的には答えようがない、ってこれはこちら側の問題か。向こうだとゲームブロガー=PCゲーマーみたいなとこがあるだろうから、事情が違うんだろうな・・・

とも思ったんだけれど、それは質問1だけか。



マジでわからん。

これって、ただアクセス数、あるいはチェーンメールの発信源的な存在となる事で知名度を上げる為に作られたものだと思う。ミュージックバトンのあまりにも安直なパクリなので、アクセス乞食の売名行為的なものを感じる。






微妙。

まあ、本編というか全容だけで言うと物凄い嫌悪感を覚える企画なのだけれど、並べられ方がなんかカリスマゲーマーっぽくて凄い嬉しいので頑張って答えてみた。すげー。幸せだなー。すげー幸せ。
質問を無視してPCゲームで答えた方がいいのかな、みたいな悩みも結構あるので書き換えるかも。バテレンに気遣ってルール守らなくてもいいよな、みたいな傲慢ムード。
あと、展開先も結構悩む。
とりあえず2つだけどあとで追加するかも。
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と思ってよく見たらACゲームが有る。
それならPCゲームも有りだな。付け足すか。
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と思ったけどやはりドラクエ5だけでいいか。格が違うし。
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あまりにも質問が酷すぎるのでバトン渡すのは止めときます。
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すみません、というかごめんなさい。
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いや、そういや閉鎖的空間的おしとやかブロガーとしては外部に何かを絡んで行くなんてありえないもん。行儀良いね。だいたい、ブログってのは好きなものを・・・って、いや、ああ、そうか。こういうのが好きな人もいるのか。
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・DOTA allstars
・変愚蛮怒
・シドマイヤーズアルファケンタウリ
・ディアブロ2


ビデオゲームバトン



1.Total volume of game files on my computer
(コンピュータに入ってるゲームファイルの容量)

 0byte7000000byte。0byte。
 アクセサリ→ゲームはShift+Delete済み。



2.Game playing right now(今進行中のテレビゲーム)

 無し。



3.The last video game I bought(最後に買ったテレビゲーム)

 PSだと思うのだけど覚えていません。
 (モータートゥーングランプリ+ジルオール+ブレスオブファイア4か?)
 (スパロボ、俺屍、ロックマン3Dあたりも怪しい)
 (テイルズとロボットを組み合わせて戦わせるゲームも怪しい。)
 (この頃イッパイイッパイで買ってはテトラ買っては投げしてたから)
 (思い出せない。なんかほんとにごめん海。)
 (PCだとWarCraft3+拡張のセット欧州版)



4.Five video games I play to a lot, or that mean a lot to me
(よくプレイする、または特別な思い入れのある5つのテレビゲーム)

・ドラゴンクエスト5



5.Five people to whom I'm passing the baton(バトンを渡す5名)


悲しい。



トライジールの動画を探そうと、シューティングっぽいウェブサイトの検索窓で
「トライジール 動画」でEnter押したらWeb拍手だった。


ありがとうございますとか言われた。
やるせない。




トライジール動画発見。上げた人ありがとう。
カオスフィールドとは違って光も揺れも少なく優しい。悪く言うと地味で前時代的な印象を受ける。6000円は無理だし、500円でも無理だけど、同額でカオスフィールドかトライジールか選べって言われたらトライジールか。トライジールならなんとか遊べそうだけれど、カオスフィールドは2面から絶対無理っぽい空気が漂うので。


とはいえ、インパクト的には相当の差があって見ていて辛い。


すっごいかんちがい。



ああああああああーーーーー!!!!!!

今、衝撃的な事に気がついた。




実はだいぶ前に「トライジール」のステージ1~3超絶近接クリア動画を見て、
「トライアングルサービス地味にやるじゃん!」
「胸を張って堂々とSOSを叫んでいいよ!」
とか感動してたんだけれど、あれ、トライジールじゃないーーーーーーーーーー

カオスフィールドだーーーーーーーーーーーーーーーーーーー・・・・・・・・・・









あああああーーーー・・・・
ああーーーー・・・・


いや、なんかおかしいとは思った。
萌え絵があって「あれ?萌えなの?」みたいな空気は確かにあった。

けれども、である。
勝手に何かが補正されて、「SOSシューティングゲーム動画」という・・・・あーーーー・・・・











悲しい。
物凄く悲しい。
駄目だ。本当に駄目だ。

なんか、トライジールのレビューがどこもかしこも結構好評で、それがなんとなく嬉しくて、にたにたしながらインターネットを漁っている最中に動画を発見したせいで、なんの疑いもなく「これがトライジールか!」と思って見てしまった。

道中無いし。
近接中心だし。
なんか変だとは思った。けれども。







勘違いの原因は思いこみ以外に、英文字や片仮名言葉を認知する能力が無く初見で「トライジールだ」とどうしてか思ってしまうと、その再修正が出来なかったというのが大きい。
だいたい僕の横文字錯誤系は「8(天然):1(ネタ)」くらいの割合でほとんど天然だし。




CHAOS FIELD
TRI ZEAL

って、今にして思えばなんでこれを勘違いしたのだろう。両方同じ場所で読んでいたタイトルだったし、動画を見たくて仕方がなかった、ってのが理由なんだろうけれど、「藤野やるじゃ~ん!ヒューヒュー!」みたいな愛国心的ムードの中で画面揺れと爆発光で頭痛が来ないように丁寧に手で視界を遮ったり目を伏せたりしながら動画を何度も見ていた頃を思い出してとにかく悲しくなった。両方評価の印象に共通点みたいなものもあったし、混同しやすい下地はあったとはいえ情けない。




まあいいや、話を戻す。
じゃなくて、あまりにもショックで元の投稿の続きを書ける精神状態に無いし、逸れすぎたので単独投稿化。


2005年6月17日金曜日

ブログにカレンダーはいらない。



ブログにカレンダーはいらない。
書き手も読み手も望んでいない。







まず、読み手側から見ると必要無い。

ブログ付属のカンレンダーは、エントリーを読むのに役立たない。
「カレンダー(日付)を使ってブログを読んだ事がありますか?」
という問いかけに、YESと答える人はほとんどいないと思う。
月別があれば十分だ。


たまに1月1日の投稿を読んだりするけれど、それすら月別リンクがあれば事足りる。



はっきり言って、読み手にとって、無用の長物カレンダーだ。
ローディング時間をコンマ数秒増やすだけだ。








書き手にとってのカレンダーってのもくせ者だ。

「更新し続けると決めたんだ!」とか、「落としたら負け」みたいなムードがどうしても漂ってしまい、負担となる人も少なくはないと思う。




「カレンダーを埋める為にブログを書いている」という人ならそれでいい。
けど、そうでないブロガーにとって、カレンダーは害悪でしかない。





カレンダーのついているブログを見る度「外そうよ~」と、思うのである。
100年カレンダーのヨタ話を持ち出すまでもなく、カレンダーというのは心を圧迫すると思う。並のカレンダーでもそうなのに、ブログのカレンダーはさらに重いと思う。

なにしろ、更新した日と更新していない日が一目瞭然となり、更新日の中にある非更新日はまるで心に開いた穴だし、更新数の少ない人はまるで怠け者のようだ。

全然違うのに。
当たり前の話ではあるが、ブログなんてのは暇な狂人が書く物だ。
すくなくとも、毎日更新しているようなブロガーにろくなやつはいねえ。




それなのに、ただカレンダーがあるだけで、カレンダーを埋めれていないブロガーは駄目人間のように見えてしまう。3日坊主だ飽き性だ、枯れた果てたと笑われる。


くだらない。くだらないと思う。
ブログ付属のカレンダーってのは。











私事な話で言うと、僕が一番好きなブログはここ3ヶ月で2エントリーだ。一番好きなエントリーがあるブログは40日以上更新されていないし、一番好きなブロガーのブログも1月以上更新が無い。一番好きなはてなダイアリーは今月はまだ0エントリーだし、「mixiで書いてます」とのエントリーを最後に更新されていないブログに毎日アクセスしているような読み手である。というか、おまえら更新しろよ。

話が、逸れた。












結局の所、ブログにカレンダーは必要無いと思う。
読み手にとっては不要だし、書き手にとっては負担である。



細々と、ぼちぼちと、それぞれペースで続けて欲しい。
カレンダーなんて、捨てちゃって。


理由の1つ



我が国は武器輸出を行っていない。
十分である。










国際社会で発言力を持っている国は総じて武器輸出大国である。
米露は言うに及ばず、フランス、中国、ドイツ、オランダスウェーデンイタリア。
それらの国は武器輸出と密接に関連づけられた外交を行っている。


我が国にはそのような外交は存在しない。
なにしろ、武器輸出そのものが存在していないのである。

これは誇りである。











武器が絶対悪だ、とまで言うと語弊があるだろう。

しかし、戦争は絶対悪である。
そうでは無かった時代は過ぎ去った。
1978年、あるいは精々ソマリアまでだ。


少なくとも僕はそう認識している。
もはや、ある意味では残念な事に、戦争は絶対悪だ。

同じく、武器輸出もそうであろう。








我が国は武器を輸入している。
しかし、我が国が武器輸入国である事に、それ程の抵抗感は無い。
何故ならば、民主主義国家であり、なにしろ9条がある。






しかし、世界は日本のような国ばかりではない。
武器輸出国は所構わず武器を売る。
ところかまわずだ。
これは、悪だ。






韓国は潜水艦を持っている。
ドイツ製だ。

まあ、それは良い。
韓国は少なくとも非常に低レベルながら許容できる国家である。


対して、台湾はドイツ製の潜水艦を所有していない。
何故ならば、ドイツは台湾に潜水艦を売ることを拒んだからだ。


何故か。
単純である。



ドイツは台湾よりも購買力のある国に武器を売るつもりだからである。
数年内に、EU圏の対中武器輸出は解禁されるだろう。
ドイツは、フランスは、ベルギーは、オランダは、あの国に武器を売るのである。

そのような国を信じる事が出来ようか。
まったく、出来ない。






彼らは世界中で同じ事をしている。
「売ってやる」という外交と「買ってやる」という外交。
絶対悪と絶対悪の混じり合いである。


そのような中に、日本はいる。
それは正しく一条の光である。





即ち、日本の存在しない世界よりも日本の存在する世界の方が優れていると信じるに足りる。日本の存在しない世界よりも日本の存在する世界を信じるに足りる。
また、我が国の地位が高い世界の方が信じるに足りる。

1に国益2に国益、強い日本を望むのである。
我が国はより強くなるべきであり、より強固であるべきである。








少なくとも、武器輸出を行っていないという点で、我が国は愛するに足りる。些細だが、十分である。よってウヨである。ネット右翼である。

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おっと、大事なのを忘れてた。
参考資料。(笑)


2005年6月15日水曜日

悪いジャバスクリプト



ジャバスクリプトが悪いわけではない。
また、「普通でないこと」が悪いわけでもない。


それでも僕は、ジャバスクリプトがテキストの側に介入しているウェブサイトを目にすると、悪いウェブサイトであると思う。何故ならば、テキストにジャバスクリプトが介入しているからだ。そのままだ。




個人ウェブサイトには色々な側面がある。
BGMが鳴ったり、MIDIが鳴ったり、リンクが貼られていたり。
触っていて面白い、デザインが凄い、色々出来る。色々ある。
それは全て凄いものであり、素晴らしい。





けれども、ウェブサイト最大の長所は言葉を他人に伝えられる事だと思う。
見知らぬ人に言葉を伝える。
見知らぬ人の言葉を読む。
凄い素晴らしい。



その言葉の読み取りを、邪魔する要素は糞要素だ。
例えば、JWordのポップアップ広告。
うざい。
物凄くうざい。
文章を読むのを邪魔されてうざい。
たとえ、1クリックの手間でさえ、うざいのである。








それと同じような事をジャバスクリプトはたまにやっている。


http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/
例えば、このブログの"Comment"。

Commentを「新しいウインドウで開く」を選択すると、
「サーバーが見つかりません/javascript:HaloScan('E20050616134122');」と出る。



コメントやトラックバックが上のようなjavascriptで新しいウインドウを開く設定になっている所は多い。これは、ユーザーの側から自由に読む自由を奪っているジャバスクリプトであり、悪いジャバスクリプトであると思う。
タブブラウザで「新しいウインドウで開く」を中クリックに当てはめて、中クリックを多様しているウェブサーファーからすると、ポップアップ広告以上に不快である。







さらに、これはどこだったか忘れたのだけれど、
「comment(..)」や「トラックバック(..)」をクリックすると、
ジャバスクリプトで動的にコメントがムニュ~ンと登場する所もある。

これも、「comment(..)」をクリックするとムニュ~ンと登場する、という合意が管理人と読者との間で出来ていない為、読者側はストレスを感じる結果となる。








動作に対する書き手と読み手に対する合意としては、やっぱり旧式の古くされたHTMLで単純に書ききってくれるのが一番いいと思う。

「当サイトは凄い動作だぞ!」
と、どれだけ凄くても、読み手の側は普通のサイトと同じ動作を期待して、中クリックしたり、左クリックしたり、右ダブルクリックをしたりする。








http://www.uefa.com/index.html
このサイトは究極に酷い。

なんと、ジャバスクリプトをオフにするとほとんどリンクが機能しない。
左クリックをしても、右クリックをしてもそのリンクは開かれず、読めない。
もちろん、ジャバスクリプトをオンにしても、普段通りの操作は全部殺され、サイト側で指定した動作に置き換えられて快適に読むことなど出来ない。

//タブブラウザで記事を全て中クリックして開き、片っ端から読み潰したいのに……




小さな事だけれども、シンプルイズベストであると僕は思う。
「普通原理主義」というわけではないし、新しいユーザービリティやログ管理システムを導入する!という意気込みは素晴らしいのだけれど、シンプルであった方がユーザーは自由に読めるし、ストレス無く文章を読む事が出来る。

文章を阻害するジャバスクリプトってのは、やっぱり悪いジャバスクリプトだと思う。
結局の所、何を提供するウェブサイトなのか、って事だと思う。
文章なのか、人なのか。

提供しているものが文章ならば、テキストに介入するジャバスクリプトは絶対悪だ。提供しているものが総合人間エンターテイメントならば、それもありかな、とは思うのだけれど、やっぱり、メインは、言葉じゃん。

言葉主義。ジャバスクリプトは欲しくない。
















最後に、これは本筋から離れた物凄い私的な疑問なのだけれど、cssをジャバスクリプトで読み込むメリットって何かあるんだろうか。

http://deztec.jp/design/
具体的に言うと、ここみたいなの。
よくわからないんだけれど、なんかメリットあるんだろうな・・・


これに関しては、「ウェブサイトを丸ごと取り込んで読む」という僕のスタイルと、使用している丸ごと取り込みソフト(波乗野郎)が古いだけで、ジャバスクリプトへの怒りとしてはお門違いもいいところなんだけれど、素朴な疑問として、なんでだろうというか、何のためなんだろう。

(ジャバスクリプトウゼー/http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/143463/)
(上の内容から差し替えました。)


今気がついたんだけれど



カテゴリーの1つがいつの間にかシンプルなものに変更されているのに気がついた。僕の記憶が確かならば、なんかごちゃごちゃ書いてた気がする。


ブロックブログが勝手にやった!とかそういう電波なのじゃなくて、どのような動機でいつ頃変更したのか思い出せずに気持ちが悪い。

文字数的に長すぎたから短くしたのか、カテゴリーであんまりごたごた書くのも下品だと思ったのか、棘を減らそうとしたのか、ブロックブロガー的に気を遣ったのか。まあ大した問題じゃないけど気になる。自分が何をしていたのか書き綴っている場所で自分が何をしていたのか理解出来ずに戸惑うってのは、なんとも滑稽馬鹿げてる。


贅沢は言いません。



贅沢は言いません。
無油サラサラの甘くないチョコレートはいりません。

贅沢は言いません。
眠らなくてもいい身体はいりません。

贅沢は言いません。
この際嘘でも構いません。


もう贅沢は言いません。
昨日も明日もいりません。



そうでなくても毎日です。
今この瞬間に考えている事すら思い出せない毎日です。

それは恐怖です。
大王とまでは言いません。
烏賊の腸、アニキサスです。

小さな恐怖です。
赤い糸です。

胸ぐら掴んで蠢いています。
見るも吐き気、見ぬも吐き気、張った張ったの張りぼてです。

張りつめています。
はちきれそうです。








知っていますか?
知りません。

教えてください。
教えません。

お願いします。
金よこせ。

それは恐怖です。
老いです。




風船があります。
いえ、風船はありません。

風船すら無いのです。
あるわけがありません。

海豚も河童も泳げません。
もう息継ぎも出来ません。




風船です。
風船をふくらませます。
過酸素過呼吸痩身効果。
神社の屋根まで飛んでって、全てが丸く収まるはずです。




けれどもそうは行きません。
風船がありません。
いえ、風船はあります。
この際だからぶっちゃけて言うと上げ底ですね水増しです。

毒も薄めりゃ木に登るでしょう。
意味無い言葉に本意を埋めれば朱に交われば廃棄です。
もはやゴミです。
最初から。
支離滅裂です。
いつものように。
つまりはそうです。
最初から。





針に風船で穴をあけるとどうなるでしょう。
想像してみてください。

無理です。
それは。
出来ません。
想像すらも出来ません。


自らの発言全てに筋を通すくらいのコントロールで200勝です。
重要なのは記憶です。
記録なんて飾りです。


空気が抜けてしぼみます。
もしもしぼんだ揉みくちゃの、ベッドの下のゴム風船。風船です。


それがゴミであるとしたならば、風船の価値は空気で決まるのでしょう。
仮に、です。
仮にですよ。


人間が風船であるとしたら、
風船の価値は空気で決まるのでしょう。

栗あけられた小さな穴から空気が抜けきりゃただのゴミです。
ゴミです。


凄いのは空気です。
風船ではありません。





では何でしょう。
風船なのだから風船でしょう。

「他意はありません」
って言葉は便利ですね。
何にも無しの勘合符です。

勘合符はいいですよ。
下着の線が浮き出て見えます。



そりゃあ、まあ、風船にだって価値はあるでしょう。
エレクトロニックパレードの間だけは、ダックスフンドでいられるでしょう。





けれども長くは続きません。
穴があろうと無かろうと、あっという間に萎みます。

顔赤らめて吹き入れられた、空気は空気に戻ります。
二酸化炭素も酸素もです。

結局の所ゴミはゴミです。
価値があるのは空気です。


それを集めて成形しても、秒針鋭く突き刺します。
プシューと鳴ってゴミ箱です。

じゃあ何ですか。
どうですか。

風船の価値は中身ですか。
入れ取り込んだ空気の量か、膨れあがった曲線美ですか。

そうですよね。
美しい。

曲線とても美しい。
与那国の海の海底の少し不自然な直線くらい。

なんなんですか。
ブログですよ。

ブログの中のエントリーです。
吹き入れられた直線の、不自然なまでに描く円です。






中に空気の無い風船が風船であるように、空気の抜けた風船は風船です。
空はもう二度飛べません。その手はNASAのバイオリン。




まあ、いいでしょう。
いいでしょう。

贅沢は言いません。
もう贅沢は言いません。







けれども、せめて、です。
せめてゲーマーになりたいです。


なれる物なら今すぐに、僕はゲーマーになりたいです。
将来の夢はゲーマーです。

今がちょうど将来です。
なのに、ゲーマーではありません。



夢やぶれてブログ有りです。
敗れました、負けました、千本パンチリ、ングアウトです。






「ゲームが好き」
だなんて一度も思った事はありません。

白状します。
本当です。



「ゲームがしたい」
だなんて一度も思った事はありません。

白状します。
本当です。







ただ、ゲーマーになりたかったのです。
純粋にゲーマーになりたかったのです。

それは昔、随分前、僕の1日は900秒で、僕の一年は329400秒でした。
それは僕の全てであり、他になにもはありませんでした。


TVを見れば帳消しなので、耳をかしげて背を向けて、1人馬鹿げて屈んでました。
そうして、ゲームをしたわけです。


たったの短い人生の全てを最大限に使うために、生き抜く知恵を付けました。
壺の中のザラキの位置や、たんすの中の下着の場所を、全て体に刻み込みました。

むくり上がらぬシーザーを見る度、殺してやりたい涙が出ました。
人生の貴重な時間の十数秒を奪ったものへの殺意です。
殺意です。ただの屍への明確な殺意です。






ところがです。
今思い出してみると、思い出せません。
つまりは何も覚えていません。


いや、それは当然なのです。
10年前のくしゃみの数を、覚えている人はおりません。
それと同じです。10年前の出来事は、何一つ思い出せずに消えました。


消えたわけではありません。
そうして出来たのが僕なのです。





けれども、それは、ゲーマーではありません。
贅沢は言いません。
ゲーマーになりたいです。






ゲーマーとは、ゲームが好きです。
ゲームをとても愛しています。

ゲーマーには朝食があり、ゲーマーにはおやつがあります。
駄菓子屋で買う10円の棒も、夏明るすぎる5時の壁も、空を飛ばない自転車です。





その幾つかの中からこれと、ゲームを遊んだのが、ゲーマー。
娯楽としてのゲーマーです。

その幾つかの中からこれと、ゲームを選んだのが、ゲーマー。
選択としてのゲーマーです。

その幾つかの中からこれと、ゲームに逃げたのがゲーマーです。
逃避としてのゲーマーです。





それらとは、違うのです。
娯楽でも選択でも逃避でもありません。


「あの頃ゲームが全てだった」
などと書いてる人を見る度に、串を刺して荒らしています。

串って何ですか?
自分で調べろ、って言う奴は大抵答えられない奴。






贅沢は言いません。
娯楽でも選択でも逃避でもいいのです。

ただゲーマーになりたいのです。
存在理由はゲームでした。
それだけでした。


僕の人生は睨まれながらの15分で、他の全ては水あぶくです。
水に潜るとき、苦しくなる寸前に息を吐けばもう少し長く潜れるってトリビアです。
トリビアですよ!トリビアです。とんぶりとキャビアの間の子です。









白状します。
もうこの際。

ドラゴンクエストは5しかクリアしていませんし、FFは7しか越してません。4も5も3も4も、皆糞ゲーだと思っています。糞ゲー以下です駄目ソフト。
一番好きなRPGなはずの、ブレスオブファイアは未クリアです。

シューティングなんて買う奴はバカです。
アクションゲームも同じです。
ずっとそう思っていました。

だって、そうでしょう。
15分で終わりません。





ところが、ゲーマーというのはゲームの時間を意志で決めるものだと知りました。
飽きたら止めるし、やりたけりゃやる。
我が輩の辞書にそんな文字は有馬温泉猫画像。
猫画像、ってのは検索エンジン対策です。鯛はありません。
何しろ、海老が無いのですから。








いえ、買いましたよSTG。
それからだいぶが経ってから。
アインハンターって奴です。10分遊んで海の中。


贅沢は言いません。
ゲーマーになりたいのです。
ライブアライブの黒歴史を朝から晩まで語りたいのです。
クエスト崩壊のなれの果てを飯の魚に食べたいのです。







贅沢は言いません。
ゲーマーになりたいです。
一体どうすれば僕はゲーマーになれるのでしょうか。

ゲームのタイトルを芋づる式にグーグリングを続けた所でいつ僕は、ゲーマーというものになれるのでしょうか。疲れました。いつですか、いつなれるのですか。なれるのですか、本当になれるのですか。ゲーマーというものになれるのですか。いつ、どれだけ、どうすれば、ゲーマーというものになれるのでしょうか。疲れました。消耗しました。
ゲームについての文章を読み続けるのに疲れました。

どうせ読んでも駄目なんでしょう。
もう読みません。読みません。
気に入り半分削除して、二度とゲームで検索しません。


スーパーデラックスやプロジェクトファンタズマの情報をどれだけ読んで知った所で、僕はゲーマーになれぬのです。狙われた神子もティンクルスタースプライツもシムアントも、パイレーツだって同じです。






「重要なのは知識じゃねーよ」
そういう事を言う人もいます。
大事なのは体験であると。

仮に、ですよ。
もし仮に、体験が大事であるとすれば、もう随分とやりました。


変愚蛮怒もディアブロ2も、スペルクラフトもやりました。もうべらぼうにやりました。
残ったものはただ1つだけ、「ゲーマーになりたい」それだけです。






どうすればゲーマーになれるのでしょうか。
ただ底なしにソニーを比べ、グダグダやって鉄騎です。

どれをやった、これをやった、あれをやった、などと書き続けられるのでしょうか。
新作タワーのその横で、手あかのついた旧作をプレイし続けたいです。


いえ、プレイしたくないです。
もうゲームなんてどうでもいいです。

ここ数ヶ月で遊んだものは、数時間のShift+Delete。
インターネットリバーシです。

贅沢は言いません。
ゲームをしたいなんて言いません。

ゲーマーになりたいです。
ただゲーマーになりたいです。


贅沢は言いません。
サイキッカーになりたいだなんて言いません。

贅沢は言いません。
フットボーラーになりたいだなんて言いません。

贅沢は言いません。
よろしくやりたいだなんて言いません。


ゲームとゲームを比べたいです。
ゲームとゲームで遊びたいです。
ゲームとゲームを買いたいです。
本物のゲーマーになりたいです。

偽物は嫌です。
辛いです。

似非ゲーマーのなれの果てです。
それが所謂ブロガーです。

落ちこぼれです。
彼らはみんなみなしごです。








贅沢は言いません。
もう贅沢は言いません。

人間になりたいだなんて言いません。
ゲーマーになれればそれでいいです。


2005年6月13日月曜日

近藤の限界



近藤は近藤の限界を迎える。
何故ならば近藤は無限ではなく近藤は有限であるからだ。




















はてなアイデアは凄い。
読めば読むほどその凄さがすご凄い。
あれは、道具などではない。

革命である。
不具合報告革命である。











従来の不具合報告とは、要求である。
要求において、権力は要求する側にあった。


  駄目だ!
  直せ!
  当然だろ!
   「直しました。」
  ありがとう。







という段取りだ。
ところが、はてなアイデアはその権力構造を破壊した。

はてなアイデアにおいて不具合報告は要求ではない。
ゲームだ。



そして、ゲームにおいて権力を持つのはゲームマスターだ。
極めて単純な話で、はてなアイデアで不具合を報告する人間は、はてなマスターの掌ではしゃぐテーブルトークRPGの1プレイヤーである。当然、何の権力も持たない。

ゲームであるからして、望みが叶えばラッキーだ。
望みが叶った!という成功と、ポイントという報酬の2つのリターンを得られる。

ゲームであるからして、望みが叶わず却下されたはアンラッキーだ。
「失敗だった」「ついてなかった」と反省するのはユーザーの側である。




通常の批判要求にあるような「グーグル死ね!」といった責任所在の導きは成されず、全てがユーザーの側へと降り懸かる。良いアイデアを出すゲームという枠組みの中で「駄目なアイデアを出したユーザー」に責任がある。まさに見事な構造改革である。

ゲームという革命である。









はてなに発明家はいないというのは、衆知の事だ。



はてなに世を読めるセンスオブワンダーな発明家はいない。

はてなに出来るのは、はてなユーザーという資産と、後発の優位さ、速度と言う唯一の武器を持って手頃で適当なサービスを作り上げるか、潜水艦に向けて9四歩な爆雷を投げ落とすかの2択である。

著作権にしても、実名登録にしても、RSSにしても、ダイアリーにしても、ブログにしても、世間の動向を見て後追いで適当に対応してきた。もちろん、その後追い速度の速さと対応の正確さは凄さと呼ぶに値するものなのだが、先行入力で完成品を作り上げる能力は無いという事である。

はてなにとって世間の声を後追う速度を上げる事は、その発展の為に必須であり至上命題である。その至上命題を達成する為に生み出されたのが、ユーザーの要望を効率的に回収する為の道具、それがはてなアイデアである。




単純な話だ。
自分達が出来ない事を他人にやらし、自分達はコーディングに徹する。

単純な話ではあるが、簡単な話ではない。












ユーザーは最高だ。
勝手に働き、勝手に広める。
勝手に改良し、勝手に使う。

ユーザーを使う。
それは凄い。大事だ。





かつて、日本のアニメーションを全米中に広めたのはユーザーだ。
ユーザーが勝手に働き、ユーザーが勝手に広めた。
勝手に改良し、勝手に基盤を作った。
らんま1/2のユーザーによる無償翻訳が無ければ、犬夜叉の今は無かっただろう。

つまり、ユーザーの後をうまく追い掛けられれば利益は得られるのだ。
多くの大企業は市場の動向を掴むのに大金を支払っているし、リリース前には金を払って何度も何度も改良を加える。そうして完成したものを、市場へと送り出すのである。



はてなはそれを逆にした。
まずとりあえず出してから、ユーザーにアイデアの修正をさせる。
「やりません!」と言ってた事を平気で翻すぐやるし、「やります!」と言っていた事を平気で翻すぐ止める。一見すると統一性や企業としての軸が無いように感じられるがそれは違う。ただ順序を逆にしただけなのである。



それは、ウェブサービスだから成せる事だ。

これが発泡酒や車であればこうはいかない。
商品としての初動が重要で、また修正不可能な製品では、最初にリリースするまでにいかにユーザーの動向を読み取り、完成度を高められるかが重要である。はてなが提供しているものが商品ではなく、サービスだから成せる業である。

その具現化がはてなアイデアだ。
まさしく最も近藤的なはてなだ。










オープンは結果ではない。
オープンとは戦略であり、戦術であり、攻撃である。



ユーザーを使えるものなら使いたい。どこの企業も考えている。
彼らは勝手にブームを作り、勝手に信仰し輪を広げる。
企業にとってはいい事尽くめだ。
しかし、それは簡単ではない。
何故ならば、ユーザーを育てるというのは非常に困難な作業だからである。

ユーザーの育て方、最もいいのは何かを与えてやることだ。
何かを与え続ければユーザーは絶え間なく蠢いて、企業の為に働いてくれる。



最も良いのは満足だ。
満足した彼らは自ずからユーザーとなる。

他では、製品だ。
製品をばらまけば、手にした者は勝手に働きユーザーとなる。

あるいは、金だ。
作り上げられた巨大化写真のクッキーが、世界各地で大絶賛だ。

もしくは、宣伝だ。
打ち続ける宣伝で大衆にイメージを刷込み洗脳し、ユーザー化する。






「はてながユーザーにばらまいている"何か"とは、何か。」
はてなは他の企業と同じように、ユーザーを育てる為に"何か"をウェブ上でばらまいている与えている。



それは、何か。
簡潔だ。

情報である。




情報を与える。
ユーザーよろこぶ。
ユーザー働く。
はてなよろこぶ。


無限循環永久機関再生産。
単純であり、完璧だ。






つまり、である。
はてなの場合、情報を与えなければユーザーは育たない。
アメーバが金を出したり、ライブドアがデパートやポイントを出したりとユーザーへ餌を与えて自社を育てる為に働かせている。はてなはそれと同じ事をやっているだけである。奇妙奇天烈でもなければ、異端児でもない。至って平凡な餌を与えるという、しかしながら非常にアグレッシブにフォルテッシモな攻撃的仕掛けである。
攻撃としてのはてなはオープンであるが、はてな検問やはてな添竄にわかるように、本質としてのオープンでは無い。戦略としてのオープンである。








はてなアイデアは凄い。
言うまでもなく物凄い。

ユーザーを有効活用出来るからだ。
はてなが手に塩して育てた近藤を最大限に使えるからだ。



普通、ユーザーに耳を傾けた際に聞こえてくるのは大声を出せる奴の声だ。
あとから細々ぼそぼそと、小さな声で色々来る。
それらを寄り取るのは困難を極める。

そこで、はてなアイデアだ。
ユーザーの声を選別するのにユーザーを使う。
大声を出せる人間も小さな声の人間も、同じ1票の重さとなる。
しかも、選別するのははてなが情報を与えて育てたコアなはてなユーザーだ。




彼らははてなが「何を出来るか」を知っている。
また、「何をしようとしているか」も知っている。

何故知っているのか?
それは言うまでもなく、はてなが情報をオープンにばらまいて教育したからだ。







知っている。
つまり、はてなアイデアというゲームの中で勝つ方法を知っているのだ。難解さと取っ付きにくさを兼ね備えたはてなアイデアというゲームに時間を費やし興じられるのは、はてなが出す情報を食い尽くしたはてなの分身である。言うなれば近藤淳也の分身である。



並の企業ではこうはいかない。
光栄信者に信長の野望の新作アイデアを出させてみろ。

それはもう、壮絶な事になる。「面白くしてください!」とか「かんのようこ!」とか言い出し、挙げ句の果てには「シドマイヤーを招聘しろ!」とか言い出す輩もいたりして、収拾がつかなくなり、どれが「本当に求められているもの」なのかの判断にべらぼうな時間が必要だ。収めようがなく、悪影響しか無いだろう。びるろーぱー!







その点、はてなは完璧だ。本当に凄い。

はてなアイデアユーザーの中核にいる教育されたハテナーユーゲント達は、はてなが作成可能な難易度、注ぎ込むことが可能な労力、可能かどうかの判断、方向性、といったありとあらゆるはてなに精通しており熟知して、最適化された選別を行う。はてなアイデアは時間と共に、完璧なものへと進化し続けるだろう。経れば経るほど良いはてなアイデアになるだろう。

はてなアイデアが唯一無比なのは、はてなの能力、方向性、優先順位、といったものを知り尽くしているコアなマニアの多さである。これは凡百、いや超百の企業がどれだけ努力しても手に入れられないであろう凄さである。逆に言うと、普通のインターネッターがはてなアイデアに流れ込むとそれは普通のアイデアとなり、優位性特性を失い困るのである。




「はてなが実現可能なアイデア」をユーザーに選ばせる。
オープンで何を出来るのかを衆知させているからこそ成せる業である。
「オープンにした」というよりも、「クローズドに出来なかった」という言い方が正しい。







「アイデアを出させるという作業をユーザーに任す」
それ自体は新しくはない。
全然新しくない。
画期的でも何でもない。

これまで幾つもの企業がユーザーからアイデアを募り、それを製品化してきた。
「良いアイデアには100万円!」だとか、「特製グッズ!」とかだ。近い所で言うと、任天堂がDSでやっているようなやつだ。けれども、はてなはこれらとは違う。


ユーザーのアイデア応募動機を「ゲーム」という枠組みに流し込んだのである。
はてなアイデアはゲームだ。面白いぞ。ファンタジーサッカーみたいな奴だ。違うけど。とにかくゲームだ。ゲームは勝ってこそだ。と、ユーザーにアイデアを出す動機を与えた。

余りにも凄すぎて、狡猾という言葉でしか言い表せぬくらいだ。







もちろん、「緊急性の高い要望の発見」という側面も持つ。

もしも、実名登録問題のようなユーザーが重要だと思う問題や、致命的な不具合が生じた場合、ユーザーはその要望に殺到し、株式会社はてなは即座(数時間で!)にそれを発見する事が出来る。これは、はてな政策の失敗を修正する為にも使えるし、はてな発展の最適化にも使える。
センスオブワンダーな射手がいないはてなにとって、方向修正のスピードは全てであり、全てである。これまで行ってきたような後手後手の修正を高速化させ、効率化する為の道具である。ま、天才なんてどこにもいない。モリニューもライトも皆死んだ。それはつまり、即ち、ユーザーの声を聞く為の道具を作り上げたはてなというはてなアイデアが如何に優れた道具であるかを裏付けするものである。とはいえ、結局最終的にどれを選別するかという点と方向性で一定量の特別なものが必要となるのは間違い無いのだが。












しかし、はてなアイデアにも弱点はある。



「オープンにされるとまずい不具合」
が発見され、はてなアイデアに流れ込むとどうなるか。

「悪用される可能性のある不具合」
が先鋭的はてなアイデアゲーマーに発見されるとどうなるのか。





例えば、「カウンターのデータを他人でも閲覧可能」や、「mixi認証の脆弱性」といった不具合が生じた場合、それがはてなアイデアで公開されてしまうと、リスクが拡大し、被害が広がる。一度広まってしまった脆弱性は消火できない揉み消せない。

それらに対する対処や、窓口の作成がはてなアイデアでは行われておらず、下手をすれば「ポイントをGETしたい」という先鋭的ゲーマーによりリスクの拡散が行われるだろう。この点では自らの傷口を広める為の道具として機能してしまう可能性が高く、はてなアイデアという革命下での不具合対応における唯一最大の弱点である。

その不具合が致命的なものであった場合、はてなは2度死ぬ。3度死ぬ。
不具合が広まり死ぬ。不具合を広める道具を作り死ぬ。対応を間違えばもう一度死ぬ。













はてなアイデアは完璧なシステムだ。
しかし、問題が無いわけでもない。


はてなの想定対象ユーザーの一人目は近藤淳也だ。
これは長所であると同時に、欠点でもある。






近藤が使って使いよい道具というのは、はてなが使って使いよい。
はてなが使って使いよい道具というのは、はてニスタが使って使いよい。





しかし、である。
はてニスタが使って使いよい道具をどれだけ完璧に作ってみても、一般ピープルの使って使い良い道具は出来上がらない。つまり、はてなが作る道具を有り難がるのは一般ピープルでは無いのだ。はてニスタ、つまりは近藤な人達がはてなアイデアというゲームを通じて選び出すのははてな的なアイデアだ。

近藤は近藤にしかなれず、はてながはてなにしかなれない。
それが近藤の限界であり、はてなの限界であると僕は思う。

はてなアイデアは、はてなのはてな化を最適化する為の優れた道具であると同時に、はてなのはてな化を促進させ、はてなの限界をより明らかに硬化導く。







おそらく、と言っては何なんだが、手元のシンクタンクから先日見せられたデータから頂いた所によると、はてなのサービスの中で一般人が有り難いと思えるものは非常に少ない。
「はてなキーワードを伝ってのアクセス」と、「はてなアンテナ」くらいのものだ。そして、その2つは大昔に作られたものである。「はてなでは無いはてな」は、だいぶ前に終わってしまったのだとも捕らえられる。








近藤な人々にとって株式会社はてなの道具というのは正しく神のツールだ。
その近藤な人間がはてなアイデアを通じてはてなの近藤化を加速させた場合、はてなというウェブサービス会社はより近藤化してしまい、大衆化のきっかけを掴めずに終わる。


もちろん、「大衆化する事=アガリ」では無いからして、それが駄目なわけではないが、近藤というパイはそれ程大きくない。つまり、近藤の限界は間近に迫っている、あるいはもう既に近藤の限界に達しているのかもしれない。

「はてなは、近藤の壁を越を壊せるか?」
難問だ。
難問だが、壊せないだろう。


はてなブックマークがソーシャルなブックマークで無いのと同じように、はてなアイデアが放り出すものもまた、ソーシャルではないアイデアだ。はてなアイデアだ。それは近藤的なはてニスタにとっては"最善の選択"だろうが、多くの人はその利益を被ることが出来ない。結局の所、「はてなダイアリー+はてなアンテナ」の総和がはてなの限界であり、それを打ち破る事は出来ないだろう。






「特定の人が最高だと思うもの」それは狭き門だ。危険な道だ。

「はてニスタが最高だと思うもの」それは狭き門だ。危険な道だ。
ADOBEやAPPLEのようになればよいが、利率からしてセガやクインテットやデータイースト程度に停滞し老朽化し、GREE的に淘汰されて限界の壁に消えるだろう。greeが滅びていないのと同じくらいかそれ以上にはてなは滅びないであろうが、近藤化するはてなはmixiにはなれないだろうという事を、非常に強く感じる。


あるいは、脱はてな、脱近藤、いや、論外。
それに待つのは凡庸化であり、バッドエンドだ。
あるいはせいぜいノーマルエンドだ。はてなエンドでは無い。













はてなはポルシェを作れない。
はてなはビートルも作れない。
では何を作るのか。
何も作れない。
精々はてなだ。


現状のはてなは、"人力検索"としては機能していない。もちろん、ぐだぐだのコミニケーションBBSから利益を生み出す、という収益モデルである事は物凄いのだが、もはや金のかかる童貞くさい大手小町という程度の留まりであり、それ以上の説得力を持つ日は来ないだろう。


とすると、やっぱりイコール「ダイアリー+アンテナ」である。
それを越えられるだけの発明をはてなが成せるのか、となると非常に疑わしい。


もちろん、"近藤"が喜ぶものはこれから先いくらでも出るだろう。
しかし近藤は無限ではなく、近藤は有限である。
その近藤の壁を乗り越えてインターネットにはてなを解き放つには、それ相応のファンタジーが必要になる。


はてなには、ファンタジーが無い。「枯れてしまった」と捕らえる事も出来るだろうが、最初から無かったとするのが正解だろう。近藤淳也はファンタジスタでは無い。

彼はトーマスグラベセンでありクロードマケレレでありディディエデシャンだ。超人的労働者に過ぎない。無論、オレンジ革命は起こせない。
武器は労働力と対応力、スピードと適応力である。
フットボーラーはボールを追う。
はてなは近藤の分身を追う。



物凄いスピードと正確さで追い掛け続け、改善改良続けた所で、得られるものは諸手歓喜のはてニスタだ。それは、はやくも、もう、はてなが「ユーザーを抱え込むという局面」に突入してしまっているという事でもある。

はてなアイデアとはそういう事だ。














はてなの癌は近藤であり、はてなの宝は手塩に掛けたユーザーだ。
近藤イコールユーザーで、ユーザーイコール近藤だ。
癌はイコール宝であり、宝はイコール癌である。



結果として、はてなははてなになるだろう。
いや、はてなははてなにしかなれぬだろう。


2005年6月11日土曜日

忘れ方の、忘れ方。



人は手に入れたものを見つめる事は出来るが、失ったものを見つめる事は出来ない。同じように書いたものを読む事は可能だけれど、消したものは読めない。

ブログ投稿を書くというのは書くという事であり、投稿ボタンをクリックするというのはそのエントリーを手に入れる事である。ならば是だ。手に入れろ書け、というのが正しい解き方なのだろうけれど、どうも腑に落ちない。




書いたものだけが自分自身の実体となり、書かなかったことは参照のしようがない。
至極物忘れの激しい人間であるからして、書かなかったことはすぐに忘れて消えてゆく。素直に消えるのであれば塩梅がよいのだけれど、残り香は消えない違和感。




「もしも書いていれば実体となっていたものを喪失した」
という、まるで自分自身が目減りしてしまったかのような不愉快さだけが残る。損は嫌だ。失いたくない。手にある全てを手にしたい。
ならば是だ。手に入れろ書け、というのは1つの正しい解き方なのだろう。けれども、「書こう」と身を起こすその労力でキーボードの叩き順が肉体疲労と虚弱さへの失望で上書きされてしまうような体たらくであるし、そもそも全てを書き残す事など不可能だ。




「ワールドワイドウェブだから書けぬのだ!」
と思い、ブログという形式にせずにテキストエディタの日記環境に書くようにしてきたのだけれど、「自分しか読まぬ」というオンブズマン、観客不在の甘さからか、ブログよりさらに余計に書けぬ始末。

1人日記というのは書きたくないこと、即ち読みたくないことの把握には使えるが、書き"わたくし"を実体化させ閲覧するという目的には使えないと判明し、途方に暮れる。




これは甘さであろうか、それとも優しさであろうか。あるいは、正しさか。
読みたくないものを書かぬようにしようという甘さか、読みたくないものを読ませないようにという優しさか、あるいは、そう。自分には敵が少なすぎる。おそらく憎悪が足りない。
どれにしろ、書くも書かぬも誰かが失望し、誰かが悲しむ。過去ログという形で実体化したトリプルキルの殺し続ける恍惚の中の罪悪感はもはや戻らず、機械的に能動的に、書けることだけを書き続ける時間だけがしばらくは続く。




戦績に添えてプレイレポートを書くそれだけで、一つ漏らさず塗りつぶしてゆく事が出来たのはもう2昔、いや3昔も前の事だ。あれであれば、なんの迷いもなく書けた。全てだ。

それが今ではどうだ。
書けない。書きたくない。書ききれない。そればかりだ。

書けないとは読めないを意味し、書きたくないとは読みたくないを意味する。書ききれないのは単に能力不足だ書き漏らし。実体の喪失であり、機会の損失だ。




やっかいな事に、残したいものは大抵が読みたくないものだ。
そしてまた、なかなか文章としてまとめられない書き難いものだ。
為す術もなく消えて行くすぐその脇で、書ける事だけが積み上げられてゆく。
そして、その積み上げられたそれこそが、血となり手となり足となり、真性引き篭もりhankakueisuuとなり遠のく。書けることを書くのに費やした時間と、書くべきことが同時に失われ、書いたことのみが実体として残る。時間が足りない。手一杯だ。間に合うのだろうか。一体何が漏れたのだろう。




「よいのか」と問うてみても書けぬものは書けぬし、読めぬものは読めぬ。
単純に「読みたくない事=書かずに消えて行った事」であるのならば軟弱であるな、というだけの事なのだけれど、そうでは無いからして誠に困る。7倍くらいの投稿数と、80時間くらいの1日と、少し昔の恐竜観の尻尾の先の鈍感さがあれば、打ち漏らさずに叩けるかもしれない、かもしれないが。




手に入れるべきなのは実体でも記憶でもなく、忘却なのだろう。
けれども、忘れ方というものを僕は知らない。知っていたとしても、もう忘れてしまった。また仮に、忘れるべき事自体が忘れ方、だとしたらどうすればよいのだろう。そもそも、忘れたくなどはない。書きたいのだ。残しておきたいのだ。自分自身としたいのだ。忘れたくないのだ。
書きたいのだ。けれども。



忘れたくないものを忘れる。
容易ではない。容易ではないが、やるしかない。一心不乱に忘れよう。


責任の所在



http://announce.bblog.jp/entry/193853/
表示サーバーがいっこ壊れたらしい。壊れ書けのサーバー担当だったんだろうな、と思うと気が楽。よかった。よくないけどよかった。 大変そうだな、なんというか、だから、せめて、広告入れろとー。
----
夜9時過ぎに投稿すれば明らかに重くなる。
投稿をしなければ、結構大丈夫。


重くなるのがここだけであれば構わないのだけれど、以前ブロックブログの一部のブログが接続不能になった際に、当ブログと一緒に接続不能になったブログまでもが同じように重くなる。明らかな繋がりが見える。表示に3分かかったり、サーバーに繋がりませんと返ってきたりする。

なんか悪玉っぽくて悪いので、そういう危険な時間帯に投稿するのは止めるようにしてはいるのだけれど、ついうっかりと投稿を連発。真性外道。



wikistyleでテーブル表記やってみたんだけど、それがちゃんと表示されているかどうかも確かめられないわけで、自業自得な時間帯。


2005年6月10日金曜日

最も丁寧な仲間由紀恵の口説き方



世の中にはTODOというものがあるらしい。
それさえ書けば、魔法のように、やるべき事がやれるらしい。

いやあ、うかつであった。
そのような優れた道具を知らなかったとはまぬけであった。
まこと、人生の損をした。

つまり、人という人ブロガーというブロガー人間という人間は皆して今すぐ今すぐに、TODOというものを書けばよいのである。いや、果たして、TODOなどというものを書いた事が無い身分であるからして、上手に書けるかどうかとなるとわからない。わからないが、書かぬよりは書くTODOだ。
そのような段取りで、TODOというものを書くに行き当たった。













1,仲間由紀恵を見つける。







2,仲間由紀恵を捕まえる。







3,仲間由紀恵を持ち帰る。







4,ちなみに、TODOの話とは関係ないが、言語学者の金田一春彦氏によると、目上の人に塩をとって欲しい場合の、最も丁寧な言い方は、「すみません、それはお塩でしょうか?」だそうである(『日本語を反省して見ませんか』角川書店)。それを読んだときに、まさに「言語は文化である」と感動した。 







5,「すみません、あなたは仲間由紀恵でしょうか?」と、訪ねる。







6,よろしくやる。







7,ブログを書く。







8,ブログを投稿する。







9,こういう投稿のシンボルに仲間由紀恵を用いて良いのかどうかをリサーチする。







10,真面目なTODOを書く。







0,さんしょう。


雑記



3時間に一つずつバックアップを取り忘れていたデータを思い出していく。
あれもこれも状態。別に致命的なものではないし、最初からやり直せばいいのだと大車輪。車輪は転がるためにあるんじゃない。再生産するためにあるんだ。






この実験は確実性を考慮して、できれば一万人、いや十万人程度のサンプルを集めてなされることが望ましいということを科学者の立場からも付言しておきたい。



じゅんと三波春夫の間に割り言って「三波春夫でございます」というよりもまださらに壮絶なまでの突っ込み待ち。それを放置するインターネット。インターネットは残酷ですね。両者共々物凄くもったいないです。蛇に足はいりません。できれば一億人、いや十億人程度のサンプルを集めてなされることが望ましいということを科学者の立場からも付言しておきたいくらいの残酷さです。







ただのちょっと(かなり)粘着はいった少ない時間でもなんとかネタしぼりだそうとしているただのオヤジ(ないしオバサン)じゃあないですか。



こちらは神懸かっていて逆にドン引き。さらりと言えてしまうところが人徳ですねというか資質ですねというかタレントですね。黙読する度にいろんな人の図柄が頭に浮かんでは恐れ多くも笑ってしまい、果てなく思えて仕方がない。最強のブロガー評。



無敵。






せっかく空気読めない人が行かないようにと新規投稿で埋め立てて隠しておいたのに、念力のこもったトラックバックを差し向けて来るという暴挙に出たせいで無記名コメントがついているのを見つけてヘナヘナになった。だいたいからして労力使いすぎ。わびさびってものがない。必要なのは奥ゆかしさだ。


まあ、とっくの昔にアンインストールしたcococをネタの為だけにインストールしてスクリーンショットパチパチ撮ってる僕もかなりだいたいからしてなのだけれど。


cococの何が駄目って、物凄く読みたいブログとどうでもいいようなぎりぎり読むか、程度のブログを一緒に放り込んでおくと、どうでもいいブログばっかりが更新されて「新着!」とポップアップする。
僕は非常に無垢であるからして「物凄く読みたいブログが更新されたーーー!!」と純粋に喜び見に行くと、どうでもいいブログのどうでもいい新着記事を読まされるハメになる。


「ああ、これは駄目だ」と学習し、どうでもいいブログを1つ1つ削除していき、物凄く読みたいブログのみをcococに残すと、今度は一日中ポップアップされない。気分は裕木奈江。


神経衰弱をするような気分でお気に入りフォルダを1つ1つクリックしていく位の作業を欲しているという結論に達し、cococをShift+Delete。きちんとしたアンインストールの手続きを取らなかったせいか、IEの右クリックには「cococ: RSSを探して追加する」がミンダナオ島。






援助しすぎでしょ。もちっと引いて見たほうがいいよ。
 文章からキレが失われてるように感じるので、むしろ引き篭もりさんのほうが心配。


 良くも悪くも部外者なんだから、岡目八目に徹したほうがいいと思うよ。
com

2005年6月9日木曜日

はてなブックマークが共有しているもの



はてなだ。


















ソーシャルブックマークサービスが本来共有するであろうものと、今現在のSBSが共有しているものは違う。何故ならば、SBSという道具自体が共有されていないからである。


つまり現時点のソーシャルブックマークサービスは全然ソーシャルではない。ローカルであり、マイナーであり、アンダーグラウンドだ。SBSを使っているのは一般人ではない。



では、誰がSBSを使っているのかという事になる。
それはもう答えは明確である。

はてなブックマークで言うと、使っているのははてな市民だ。いや、それすら正確ではない。はてな市民などではなく、ハテナーユーゲントだ。100万はてなユーザーの中でも最もはてなと統合性の取れる一握りの人間がはてなブックマークを構成しているのである。


構造としては至って単純だ。
はてなリーダーがはてな市民を作りだし、その中から選ばれしもの達が共有知、共有情報を作り出し、はてなリーダーの再生産を行う。現状のはてなブックマークにおいて知と称されるものは「はてな知」であり、情報と称されるものの正体は「はてな情報」である。


それらブックマークされた「はてな知」は、はてなブックマーカ-にとっては常に相性が良い。何故ならば、現時点でのはてなブックマークユーザーは全員が全員、近藤淳也によって作り出されたはてなの擬人化した姿、言うならばはてなの忍法影分身だからだ。


彼らは象徴としてのはてなを共有し、意識し、はてながウイと言えばヤーと言う。
今更言うまでも無く、はてなブックマークとは、ソーシャルのブックマークではない。
はてなのブックマークである。そのハテナーユーゲント100%のVOTEによって作り出される共有情報は、彼ら自身がはてな化する為に不可欠な、はてなによるはてなの為のはてなのブックマークであり、はてな市民をはてな市民へと再教育する為の情報である。


はてなブックマークがはてなブックマーカーに提供しているものは「はてなブックマークを使えば君も貴方もはてなになれる」という幻想であり、はてなブックマークでは無い。
はてなブックマークとは夢を売る道具なのだ。


はてなという思想、即ち抽象化された量産型というナノマシンの手動ブックマークこそがはてなブックマークであり、はてなブックマーカーとは細切れに細かく切り分けられた近藤淳也そのものなのである。夢、それは即ち、ちょいと小粋な逃げ場のある嘘だ。










対して、真に共有されたソーシャルブックマークが共有するものは時代だ。


人と情報、情報と人によって浮き出るものはくだらない。
大衆は常に場当たり的に情報を求め、その欲求の流れが時代を作り出す。
時代の中心にあるのは、くだらない知と、くだらない情報だ。
くだらない流行、即ち時代というものである。
真に共有されたソーシャルブックマークにおけるブックマーカーとは、細切れに細かく切り分けられた時代そのもの、つまりは時代そのものなのである。しかし、時代そのものがくだらないわけではない。共有していた人々にとって、それぞれそれの重みを成す。

Googleに「ウーゴヴィアナ」と打ち込んでEnterキーを叩くと、ウーゴヴィアナが上から下まで無機質に並んで出てくるのと同じように、真に共有化されたソーシャルブックマークでは「時代」というキーワードでEnterされたURLがジャンル分けされ並べ出る。無機質に。上から下まで。



もしもはてなブックマークがソーシャルなソーシャルブックマークと化したならば、オレンジレンジや大塚愛の新曲情報やレジスタンス的にUPされた歌詞などが瞬時にして数百万のブックマークを稼ぎ出すその横で、近藤淳也が2時間掛けて書き上げた渾身の投稿が「ブックマーク・・・たったの1851・・・プッ、ゴミめ・・・」と余丁町散人的世界観の元での農民として扱われる事になる。

ここで言うオレンジレンジや大塚愛とはオレンジレンジや大塚愛ではなく、敦煌だとかエリマキトカゲ、太陽の季節やら踊るポンポコリン、クレイジーゴナクレイジー、といったそれそのものを指している。



仮にそのような日が訪れたならば、はてな知やはてな情報の恩恵を最大限に被っていたはてな的な人達は時代の波に押し流されて失望し、「SBSの終焉」だとかほっぽり出して逃げ出して、特殊化したよりクローズドなソーシャルへと逃げ込みよろしくやがて消え去り、みっともないズボンをダボダボのサスペンダーで繋ぎ止めて学長選挙に落選するような末路を辿るだろう。


手元のシンクタンクから頂いた先日の資料のデータによると、はてなブックマークのユーザー数は9月には180万人を突破し、来年の4月には1700万人に達するであろう見込みが確実視されている事実だ。つまり来年の4月には肥大化したはてなブックマークははてなリーダーの手に負えなくなり、はてなブックマークとしての致死に至り死に、細かく巨大化した近藤淳也も死ぬ。それを持ってソーシャルブックマークサービスはソーシャルブックマークサービスとなり、ソーシャルではないソーシャルという1つの時代は終焉し、作り上げられた近藤淳也というはてなはそれぞれの心の中へと帰って行き、「そんな時代もあったね」と語られる日々の中でjin115ややねうらおといったような人々の脇に添えられてしまう時代が訪れる事が確実視されている事実だ。















そういう時代だ。


コメント欄で馬鹿が暴れててマジムカつく



http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/166197/
URLをコピーすれば済んでしまうくらいに単純な話。
無関係に人様の事を書くなら堂々と当人の元へ直々に書くか自分で立てて書け。っていうか死ね。


2005年6月8日水曜日

人生はゲームだ。



人生はゲームではない。
もっと美しく素晴らしいものだ。
















ゲームは素晴らしい。
今更僕が言うまでもない。

素晴らしいゲーム、それは素晴らしいルールだ。
素晴らしいルールのあるゲームは素晴らしい。



上から6種類のブロックが降ってきて、横に一列揃うと消える。
素晴らしい。実に素晴らしい。赤ぷよと黄ぷよが一緒くたに落ちてくる事なんて無いし、インベーダーが右往左往に攻め寄せる来る事も無い。素晴らしい誠実さだ。







ゲームは美しい。
今更僕が書くまでもない。

素晴らしいゲーム、それは素晴らしいルールだ。
ゲームにおいてルールははじめに提示された姿のままで、形を変える事は無い。
美しさ誠実さだ。初志貫徹に二言無く、反故にするなどありえない。




つまりゲームは美しく、即ちゲームは素晴らしい。
ゲームとは法であり、ゲームとは秩序だ。
法と秩序の具現化した姿だ。









対して、人生は醜い。

仮にルールがある人生というものが存在したならば、それは疑う余地の無い素晴らしさと、揺らぎ無き美しさを兼ね備えたものであろう。そんな人生、見たこと無い。

即ち、人生は醜い。
見るに耐えない忌々しさだ。
なぜならば、人生にはルールが無い。




眼鏡を掛けた美少女が上から降っくる事など無いし、消したいものは消しても消えない。そうではない。確かに、そうではない。
人生にもルールはある。
当人が作るルールである。








言い換えるならば、人生はゲームだ。
ルールを作るゲームだ。



遊んだら勝ち、遊ばなければ負け。
笑ったら勝ち、笑わなければ負け。
怒ったら勝ち、怒らなければ負け。
楽しければ勝ち、苦しければ負け。
そのルール。


遊んだら負け、遊ばなければ勝ち。
笑ったら負け、笑わなければ勝ち。
怒ったら負け、怒らなければ勝ち。
楽しければ負け、苦しければ勝ち。
好き放題だ。



逃げるが勝ち戦うが勝ち、追うが勝ち。
寝れば勝ち、起きれば勝ち、やれば勝ち、やれば勝ち。
思いのままに変えられる。
制約なんて、なにも無い。



そして、その「ルールを変えるゲーム」は機能していない。
何故ならば、それは「ゴールを変えるゲーム」に他ならないからだ。









足元にまでゴールを移動させ、ボールを蹴り込みカズダンス。
それが人生というものの正体だ。
そんな三浦知良が見たいか?


アツやエムボマに「ちょっとゴール運んで来い」と命令するカズ。
彼ら残りの10人が額に汗して運んできたゴールに向かってボールを蹴り込み得意げに踊る三浦知良を見て素晴らしいと思うか?美しいと思うか?そんなの見たいと思うか?それ以前の問題として、ヴィッセル神戸のゲームを見たいと思うか?
見たくないだろ。見たくない。絶対に見たくない。






つまりサッカーは美しく、即ちサッカーは素晴らしい。
実に美しい。何故ならば、サッカーには明確なルールがある。
ルールに基づき審判が、黒上げたら黒、赤を上げたら赤。即ちそれは美しい。
サッカーボールとは法と秩序が縫い上げられた、インド生まれの丸いコアだ。


仮に動かなかったゴールマウスのカズダンスと同じくらいの人生が存在したならば、それは動かなかったゴールマウスのカズダンスと同じくらいの人生と同じくらいに素晴らしいものだろう。同じくらいに美しいだろう。けれども、そんな人生見たことが無い。



美しいゲームとは美しいルールだ。
素晴らしいゲームとは素晴らしいルールだ。
美しいルールや素晴らしいルールはルールとして君臨し続ける。
それは変化する事が無く、変化するのはプレイヤーの道理のみである。

人生が美しくないのはルールが存在しないからだ。
人生は往々にしてプレイヤーの道理のみが変化する。

美しいルールは都合のいいルールへと運び足元ねじ曲げられて、
素晴らしいルールは日常という生活によって改訂され続ける。
即ち、人生は醜い。





ルールを変えるという事。
それは、イコール醜さではない。

昔、サッカーは今とは違った。
ゴールの前で待ち伏せても良かった。
ある時大きくルールが変わり、オフサイドというルールが出来た。
サッカーは大きく変わったけれど、その美しさは色褪せなかった。
なぜならそれは、競じる両者に平等に、当てはめられたからである。


けれども人生において変更されたルールが両者に平等に適用させる事などありえない。変更されたルールの影響を被る両者とは、その人自身の過去と未来の2者だからである。








「変わったね」「君も」「貴方も」

違う。
変わったのはルールである。「この人と結婚したら勝ち」などと、定め決められたルールでさえも、よりよい人が現れたなら、見るも無惨に揺らいで消える。変節返心、心変わりだ醜さだ。一貫性などまるで無い。




美しい衣服と美しい肉。
ルール、
時間、
ルール。
美しい生活と美しい子供。そして、美しい思い出。

ゴールマウスを運ばせただけだ。
手の届く範囲にルールを持ち替えただけである。









その点、女は男より美しい。


美しい金と美しい生活。
ルール、
時間、
ルール。
美しい金と美しい生活。そして、幾分かの後悔。

男も女も中間さんも、ゴールマウスを運ばせただけだ。
人生は忌々しい。
醜くそれは軽率だ。












けれども、である。
美しい人生は存在する。
素晴らしいもどこかにある。

それは、過去と未来の両者に同じルールが適用される人生だ。
物心が付く前に見た夢をそのまま変えずに持ち越して、さらに後から付け加えたルールも1つ残らず持ち歩き、そのルールの中でゴールを目指して最後までプレイする人生。

それはきっと美しい。
それはきっと素晴らしい。




人生は自由だ。
美しくするも自由、素晴らしくするのも自由。
また、醜くするのも忌々しくするのも自由である。

多くの人の人生に美しさが足りないのと同じくらいに、ゲームには醜さが足りない。ゲームの美しさがルールという不自由さに依存しているのと同じくらいに、人生の美しさは自由に依存している。人生は自由だから美しく、人生は自由であるから素晴らしい。

何をするのも好き勝手だ。
ルールを都合良くねじ曲げるのも自由、ゴールを足元まで運ばせるのも自由、ゴールを異国の遠くまで運び去らせるのもまた自由だ。引くも進むも踏み止まるも、1つの偉大なノーホールズヴァーリトゥードだ。目を瞑るのも、はしゃぐのも、踊るも歌うも泣くも笑うも、なんでもありだ。なんでもありだ。好きも嫌いも信じるも、裏切り果てるも思いのままだ。愛するも憎むも好き放題だ。素晴らしく自由であり、美しく自由である。
















人生は素晴らしい。
今更僕が言うまでもない。

人生は美しい。
今更僕が書くまでもない。



自由だ。
ルールもゴールも意のままだ。


憂鬱使いの憂鬱



ちょっと考えてOS入れ直してみた。






























>真性引き篭もりではブログというメディアに対する姿勢が
>まったく相容れないと思う某弾道ミサイルブロガーからの
>トラックバックでさえ削除したことがありませんし、
(*^ - ^*)(T _ T) (> <) :"O























パスワード関係はメモってあるし、バックアップの必要があるデータなど無いと思ってさくっと開始したのだけれど、カスタマイズしたテキストエディタのキーバインドやらなにやらを保存しておけばよかったと少し後悔。

さらに復活してキーボードを触っていると、窓使いの憂鬱でスペースキーやらエンターキーやらシフトやらタブやらを滅茶苦茶に入れ替えてあった事に気がついて茫然自失。元通りに戻すのに数時間かかるという物凄く憂鬱な時間を過ごし快適さが戻ってきた頃にはOS再インストール前のごちゃごちゃとしたハードディスクが綺麗に復元されてしまっている有様で片っ端からShift+Delete。必要な物を消し去っていらないものを拾い集める。元通りの日常。取り戻したのは日常。

捨てていい物と捨ててはいけないものの区別もつかない鈍感な人間であるという事をWindowsに告げられて、それなりに憂鬱、それなりに快適。


2005年6月7日火曜日

RSS更新チェッカー cococに感動



巡回ブログをサーフィンしてみたものの、どこもかしこも更新されていないので自棄になって適当にクリックして回ってたら「RSS更新チェッカー cococ」なるものを見つけた。
これ凄い。




一定時間ごとに登録したRSSが更新されているかどうか確認しに行き、もしも更新されていた場合はモニタの右下にポップアップを出して報告してくれる。

それだけならまあ、並のソフトという感じなのだけれど、このcococの凄い所はクリックをすると、収集したRSSをHTML化し、「指定のブラウザ」で表示してくれる。



この、「指定のブラウザ」ってのが物凄い。
IEなり、Sleipnirなり、FireFoxなり、Dountなり、Operaなり、なんなり。
新しいアプリケーションを入れるって感覚ではなくて、普段使っているブラウザ+αといった感覚でそのままで使えるので導入コストが非常に低い。



でもって、一通り相性の良さそうなサービスを探してみた。


「ソーシャルブックマーク」
RSSを登録しておけば、新着ブックマークのみ報告してくれる。
感動。

「ニュースサイト」
RSSを登録しておけば、新着ニュースのみ報告してくれる。
感動。

「はてなフォトライフ」
RSSを登録しておけば、新着画像のみ報告してくれる。
感動。

「はてなアンテナ」
RSSを登録しておけば、更新されたサイトのみ報告してくれる。
感動。


以前RSSリーダーの導入を試み際は、14インチのモニタを細切れにされたり、操作方法が解りづらかったり、普段使っているブラウザの設定が引き継げずにストレスが溜まりすぐに投げ出したけれど、cococなら普段通りの感覚でそのまま使えるわけで物凄い凄い。
感動。



おまけに、.cssを編集することで出力されるHTMLを自由自在にカスタマイズ出来るので、背景色も文字色も自由自在にいじれるし、横幅の広さや行間のpxも自由自在。
背景深緑に白文字、横幅700pxにすれば読みすくて感動。






何がお勧めって、はてなアンテナの上限の200件が近づいている人はRSS対応サイトをcococに移し、未対応サイトのみをはてなアンテナに残せば200件内に絶対に収まるので超、はてな兵糧攻めに出来るのでお勧め。感動。とていうか、凄い優しいね!こんな便利ツールを見事なタイミングで教えてあげるなんて!超優しい!愛に溢れているね!この新着のみポップアップしてHTML化してくれるというはてなアンテナとの親和性はマジ神懸かり的。いや、どっちかーってーとはてなが凄いんだろうけど。


・・・まさかブロックブログにお金払わずに敵国にお金を払うような非国民はブロックブログにはいないよね!いないよね!絶対にいないよね!いないよね!いないよね!いないよね!いないよね!いないよね!いないよね!まさかね!いないよね!いないよね!いないよね!いないよね!一緒にがんばろう♪\(^O^)/♪ネ...



RSS更新チェッカー cococ


http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/cococ_defo.jpeg
設定画面はこんな感じ。
普段はタスクトレイに隠れている。


http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/cococ_foto.jpeg
はてなフォトライフのRSSを登録するとこんな感じになる。
新着画像が一覧でズラーと出るので、スクロールするだけで根こそぎ見られる。写真RSS用のフォルダを作っておけば一発。


http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/cococ_SBB.jpeg
はてなアンテナやソーシャルブックマークだとこんな感じ。


http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/cococ_smple.jpeg
ブログサービスの新着RSSを登録するとこんな感じ。


http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/cococo_opt.jpeg
オプションはこんな感じ。
記事の保存件数を1にすれば、はてなアンテナのような感じになる。
リンク先を別ウインドウで表示するをチェックしてタグブラウザで使うと凄い楽。


http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/cococo_sort.jpeg
新規RSSを登録してすぐにAlt+Enterを押せば編集画面が開けるので、適当にタグを付けておけばソートされるので楽。





タスクトレイのアイコンをCtrlを押しながらクリックすると、直前に新着として報告されたものを再現してくれるので、うっかり読み流してしまった場合でも回収出来て楽。RSSの最終更新取得時刻毎にソート出来れば楽なんだけれど。

RSS更新チェッカー cococ


2005年6月6日月曜日

インターネットとゲームの画像。



気になって調べていたのだけれど、いくらなんでも酷すぎるという感じ。
厳しすぎ。冷たすぎ。虐げすぎ。距離が遠すぎ。心と心が離れすぎ。









HUNTER*HUNTERのファンサイトの管理人が有償での使用許可について問い合わせたりしてるのを読んでいて泣けてきたので、ゲーム会社のスクリーンショット等への対応を一通り調べてみた。

許可している所だけ。




◆トレジャー/全面許可。
  個人ホームページ運営、同人誌制作等に関するガイドライン
  有権利4タイトルは全て特に規制無しとの事。最強。神。異端。頑張れ。
  ・シルエット ミラージュ
  ・レイディアント シルバーガン
  ・爆裂無敵バンガイオー
  ・斑鳩 IKARUGA
  以上がそのタイトル。斑鳩の動画は検索すればいくつか見つかります。

ノーガードなのはトレジャーのみ。




◆メディアワークス/ガイドライン有り。
  画像使用のガイドライン
  物凄く細かく明文化されている。タイトル毎に記述があり非常に優れている。

  >現在ご利用頂いている方々には申し訳ございませんが、
  >この文章を見た方はご自分のホームページから削除をお願い致します。
  対抗措置は上記の通り。柔らかい。1つの理想型。素晴らしいと思う。
  これで許可じゃなくてPSOのような報告のみで良ければ完璧。
  個人情報保護についても記述有り、という事で。


◆D3PUBLISHER/許諾制。
  ゲーム画像/素材の利用許諾についてより。
  >以下の場合、利用許諾をお断り/掲載中止をお願いする場合がありますのでご了承下さい。
  対抗措置に関してはこんな感じ。表記は非常に柔らかい。


◆FOG/許諾制
  Q&Aより。
  >原則的には不可ですが、下記の公開条件等を守っていただける場合には許諾
  本名、住所、電話番号を含む7項目を要求しといて、
  個人情報保護法案に関する記述が無いというのは頂けない。
  MIDIファイルも画像と同じ条件の許諾制。台湾というか久遠の絆。


◆アークシステムワークス/許可制
   >必ず事前に使用許諾申請をお願いいたします。


◆アイディアファクトリー/許可制
   >必ず下記アドレスまでご連絡下さい。
   ・フリー素材有り。


◆魔法株式会社/一部許諾制。
  花火職人になろう2サポートページより。
  >著作権の都合上、いくつかの条件を満たしていただいた場合にのみ、許諾しています。
  >ユーザーサポート係までお問い合わせください。
  スクリーンショット&動画観賞ゲーでこれは厳しいんじゃないか。


◆ガスト/原則禁止。
  ・画像使用に関するお問い合わせより。
  >原則として使用を許可しておりません。
  例外として「ガストサポーターズリンク」に加盟する事で、公式画像の利用が可能。


◆チュンソフト/一部許諾制。
  ガイドラインより。
  >デジカメやビデオキャプチャー、スキャナー等により取りこまれた
  >画像については、原則として許諾しておりません。
  権利関係が複雑なトルネコ、街等は全面禁止。
  ウェブサイト上で公開している有権利製品の画像は許諾制。


◆テンキー/原則全面禁止。例外有り。
  画像データの取り扱いについて
  非営利の二次創作物は許可。94年以前の古い作品の画像は特別に許可を出すこともあるとの事。


◆トンキハウス/禁止。
  ご注意より。
  Webサイト上にある画像は許諾制。スクリーンショットは禁止。
  非営利の二次創作物は許可。対抗措置(許可の取り消し)についての記述も柔らかい。


◆日本一ソフトウェア/禁止。
  このサイトについてより。
  ・『ファンページのための画像素材』に掲載しております画像に限り許可
   使用後にはご連絡下さいとの事。スクリーンショットは禁止。


◆スクウェアエニックス/例外を除き禁止。
  インターネット上での画像使用に関するご注意
  >個人のホームページにおける使用であっても、「私的使用」には該当いたしません。
  対抗措置に関する記述は一切無し。心情的には理解できる範囲なのだけれどしかまこ殺すのかと。

  プレイオンライン/著作物の利用ガイドラインより。
  >依頼のあった場合には遅滞無くスクリーンショット掲載を中止すること
  オンラインゲームの画像掲載は許可されています。対抗措置は上記の通り緩い。


◆セガ/例外を除き禁止。
  ファンタシースターオンライン著作物利用規約より。
  >PSOに限り、ガイドラインを規定した上で個人により開設され且つ営利を目的としない(後略
  >これは「PSOに限って」のことですので、他のソニックチーム関連のコンテンツ、
  >及びセガの他のゲームには適用されませんことを予めご了承ください。


◆X-box/記載無し。
  Xbox関連製品、サービスについての画像および情報提供
  ・タイトル毎にプレス向けの画像が用意されている。個人の場合は許諾が必要。





だいたい印象順に並び替えてみた。他は全滅。
書く気力も無くなるほどの惨状。いくらなんでもこれは酷すぎると思う。韓ゲーとエロゲーは触りだけちょこっと調べた。家庭用の邦ゲーと比較すればかなり緩いかな、って感じ。宣伝費が無いならユーザーを使え、ってとこか。逆に言えば、まだ体力があるのかな、などとも思わなくもないけれど、いくらなんでも遅すぎるよな、再認識が。リンクが許可制でメールの返事を待ってから、だなんて時代錯誤もパカパカしい。




ゲーム会社や漫画の版権者がどうしてここまでインターネットに厳しいのかがいまいち理解できない、というよりも、インターネットというものへのきちんとした評価が出来ていないだけという印象が強い。露出機会、宣伝効果、ってのをきちんと評価すれば、こんな事にはならないはずだ。スクリーンショットの1枚も許さず、使えるのはamazonのjpegだけという惨状はなんとかしてくれないと、と思う。ゲーム雑誌にお金を支払って広告を出すよりも、公式に画像を許可した方がよっぽど購買層への浸透力が高いと思うのだけれど。

ゲーム雑誌を買うのはゲームを買う気がある人達だから、宣伝効果がありそう、ってのはなんとなく理解が出来る。けれどもゲーム雑誌を買う人達はインターネットでもゲーム情報を漁っていると思う。
スクリーンショットの掲載に関するルールを作り、それを許可しておくことは、そういう人達を拾うことも出来るし、ゲーム雑誌を買わないが興味の沸いたゲームは買う、という軽度ゲーム購買層に対する拾いアピールにもなる。

メテオスやビューティフルジョー、塊魂なんかはトレジャー体制を取っていればもう少し出ていたと思う。それがどの位の本数かはわからないけれど、確実に出ていたと思う。

それを逃している、ってのはとても痛いことだ。





企業側から見ればそんな感じだけど、信仰心の厚いファンから見ればもっと厳しい。

カプコンやナムコに代表されるような「ゲーム画像の全面禁止」が明文化された会社のゲームの画像は、不信心なならず者達が平気でウェブ上で流通させている一方で、信仰心の厚いファンはルールを遵守し、真面目に文章ばかり書いている。この不平等さを開放できるのは企業だけだ。それを行わないのは、怠慢であるし、ファンへの裏切り行為でもある。熱心なユーザーを脅して何が得られるってんだ。
そりゃあ無いよ、としか言えない。

現実問題として、エミュレーターから録画したような動画や抜き出したような画像はウェブ上に散乱しており、それを利用して好き放題やっているような奴らが蠢いているわけ。その一方で忠実に追い掛け続けてきたルールを守る純粋なファンが虐げられている、ってのは納得が行かない。未だに「ディープリンク禁止」とかやっているのを見ていると、哀れすぎて涙も出ない。

一体彼らはどうしたいんだろう。権利ってのは使うために有しているものであり、制限すればいいってもんじゃない。有効活用しないと。
何を守らなければいけないか、ってのがわかっていない。
守らなければ生けないのは利益と、ユーザーだ。
それを守るのは頭ごなしの制限でも法をちらつかせての高圧的な脅しではない。
必要なのはインターネットに対する適切な再評価とルール作りだ。



更に付け加えると、ゲームは歴史であり文化であり生活だ。
リンクの冒険とゼルダの伝説を切り離す事は不可能だし、ファイナルファンタジー12はファイナルファンタジー1から来たものだ。それら歴史を「ゲームをプレイする」という形で追うことは、今の若いゲームファンにとっては不可能となってしまっている。
時間的にもそうだし、プレイまでの壁という点でも敷居が高すぎる。

その細分化されたゲームファン同士の歴史認識を共有化する為に、一定期間が経過したゲーム画像や動画の公開くらいは許してくれたっていいと思う。
一言で言うと、歴史認識を共有したいと思うのである。

厚みというのは開放することからしか生まれない。
実態の無い制限からは実態のある広まりは生じない。
必要なのは自由だ。
明確な自由が与えられれば、ゲームは勝手に広がってゆくと思う。

文化を育てるのは自由だ。
抑圧ばかりじゃ裾野は広がらない。

アンダーグラウンドに帰したいのならば抑圧したままでも構わないと思うけど、自社の知名度と自社文化を広げて育てて行きたいのならば、今すぐにでも開放すべきだ。メディアワークスくらいの細かい制限つきでいいから。

スクリーンショットや動画の掲載くらいはなんとかして認めて、十分な露出をさせればもう少しなんとか栄えられるくらいの力はゲームには残っている、と僕は思うね。もう少しだけ。


漫画に関しては門外漢なのでよくわからないのだけれど、心情的には
WANDER*HUNTERくらいはなんとかしてあげないと、と思う。1つのサイトにつき1コマ*10枚まで、引用元を記述してリンクを貼って、等の制限をつけて許す事は何の問題も無いだろう。
完全禁止を明文化し、法律文をサイトで引いてファンを脅している出版社の態度がまともなものだとは思えない。相手は子供だろ。子供だから良い、というわけではないが、子供相手の商売なら尚更脅しちゃ駄目だろうと思う。
現状でもスキャン画像で好き放題やっているサイトは山ほどある。
それらを全て撲滅するか、一定の許可基準を出すかの2択となれば、取る行動は決まっているだろ、と思うのだが。まったくもって馬鹿げてる。

漫画の表紙の画像を見る度に、これまで雑誌社を支えてきたのはAmazonじゃないだろう、と突っ込みたくなる。どんだけ無碍に扱うんだ。米国米国。









結局の所ゲーム会社のほとんどは腐った対応で真っ当なファンを見捨て、トレジャーは揺らぐ事の無い唯一神としての地位を確立した、と。

あー、そうか。
トレジャーが任天堂とカプコンとナムコとコナミとマイクロソフトとその他いろんな企業を片っ端から全部買収すればいいんだ!それいいそれいい!























とれじゃあ、そういう事で(大円団)。






http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/GameScs.txt
おまけ。全部入り。手動で調べたので、バンプレストグループや巨大企業のタイトル別の扱い、一部のFullFlashサイトなどは記述見逃しが存在する可能性が有り、精度の保証は出来ませんが、wiki作ってやる人やHP作ってやる人がいたならば是非とも勝手に使ってください。
問い合わせたら雰囲気的に許可してくれそうな所も何社かあったので、人手をかければ5~10社くらいはリストに加えられると思います。

http://www.sutv.zaq.ne.jp/takaki/
ゲーム会社の抽出はこちらにお世話になりました。
次世代機以降限定で総当たりし、いくつかの新興企業を追加しました。


2005年6月5日日曜日

インターネットとゲームの画像



当たり前だ。
罰則の伴わないルールは機能しない。


ルールを遵守する良い奴が消え、ルールを屁とも思わない奴らがはびこる。
2002年の世紀末だ。










しょこたん☆ぶろぐからゲームの画像が消えたのを目にして腹が立った


僕が人様のブログを貪り読むのは、ゲームという世界で今何が起こっているのかを知るためである。ゲームの画像を見たいが為にのみアクセスしているブログの上に、マイナーアイドルの目写真やら猫写真やらが嫌がらせのように並んでいるのを見る度に「俺の為に黙ってゲーム画像をアップしろ」とはらわたが煮えくりかえっているわけである。悶え萌えながら、ゲーヲタを食べるとスゴーク旨いだろうなとか考えながらよろしくやりたい、よろしくやりたい、よろしくやりたいとは思わないからせめてよろしくやって欲しいと願いながらブログサーフィンをしているわけである。
その楽しみが突然スポイルされた。許せない。







「ゲームの画像をインターネットに載せてはいけない」
というルールが完全に機能しているのならば、納得して引き下がる。それを決めるのはゲーム会社であり、きっちりと機能しているのならば文句を言える立場ではない。





けれども、「ゲームの画像をインターネットに載せてはいけない」というルールは機能していない。エミュレーターの動画やらゲームの画像やら雑誌のスキャンやらでアフィってるgameonlineみたいな奴らが大量に「問題があったらご連絡下さい削除します」などとふざけた俺ルールで法と秩序を破壊している。


そのような形骸化したルールに従うのは最も良心的でまともな部類の人間のみだ。
悪人がゲーマーを駆逐する。インターネットはどんどん悪くなる。





とりあえず主要メーカーのホームページへの画像掲載許可状況を調べてみた。
題材が幽々白書だったという事で、なんとなく少年雑誌から。

















講談社完全禁止
集英社完全禁止
小学館見あたらず
秋田書店見あたらず。

凄いよ。
それどころか、講談社と集英社は二次創作物や要約まで禁止。
文章の一部も禁止って事は漫画本の台詞を書くのも駄目にしたいつもりらしい。
正気の沙汰とは思えないけど、漫画には興味がないので次。


















































カプコン禁止
任天堂見あたらず
コナミ見あたらず
ナムコ見あたらず
EA Japan見あたらず
バンプレスト見あたらず
マイルストーン見あたらず
データイースト見あたらず
びんぼうソフト見あたらず
フロムソフトウェア見あたらず
セガ一部例外を除き禁止
スクウェア一部例外を除き禁止
D3パブリッシャー利用許諾が必要
トレジャー許可



これはイラストやCG、タイトルロゴだけでなく、ゲームのパッケージや
取扱説明書、ポスターやチラシなどの販促物、カプコンキャラクターの
グッズ写真、ゲーム雑誌、攻略本等の出版物からの転載、
およびゲームから取り込んだ動画、静止画(ゲーム画面も含む)、
音声のデータなども含まれます。


「個人使用を目的としたものであれば問題ないのでは?」という
疑問を持たれるかもしれませんが、第三者が閲覧することが
前提であるホームページという媒体の性質上、不特定多数の人が
画像を閲覧できるような状態にすることになりますので、
それが営利目的か否かに関わらず個人的な使用の範囲を超えた行為となります。


          ~カプコン


凄いね。
これは凄いね。
おまえはしかまこも殺す気か?
流石はウォークラフト3日本語版の発売元だ。
びっくりぎょうてんバイオハザードって漢字で言葉も出ない。
スクウェアとセガは、オンラインゲームについては例外的に認めるけれど他は禁止。






もー、なんか、絶望的。
コナミやナムコは、「リンクも許可制!」とか言ってる。
見てられない。何これジョーク?





ゲームとネットの親和性が高いかどうかは知らないし、よくわからない。けれども、ゲーヲタとネットの親和性はかなり高い。放置しておけば勝手に口コミで増殖してくれるし、自発的に宣伝しまくってくれる。それを全面的に殺してどうするんだ。海外のオンラインゲームのようにスクリーンショットを許可してユーザーを宣伝要員として利用しろよ。
悪評を恐れて禁止しているって側面もあるのだろうけれど、画像や動画をどれだけ禁止しても悪評は消えないし、ソースとして画像や動画を提供できないことにより、逆に理不尽な悪評が蔓延るのを手助けしているようにも思える。


ドラゴンクエストのようなゲームの場合、ラスボスの画像を載せられたら嫌だ、ってのはよくわかる。それならそれで発売する時点で「ムドーまで、Lv10まで」といったような規約をソフト毎に出して行けばいい。「良心的なゲーマーは自主的に全面禁止している」という、ゲームを愛している人間の行動のみが制限されているという現状をなんとかしないと、ゲームはインターネットから見捨てられ、一般人のインターネットから切り離され隔離されてしまう。




新作は新作で動画やスクリーンショットを許可して欲しいし、古いゲームに関しては「発売後3年経過したら全面開放」とかでいいから、何とかして欲しい。
良心による制約でまともな奴らが駆逐され、ルールやマナーを屁とも思わないような腐った奴らがのさばるだけのインターネットはもう懲り懲りだ。開放してくれ。ゲーム会社がゲーヲタに冷たくあたるだなんて、あんまりじゃないか。幾ら注ぎ込んできたと思ってんだ。ちょっとくらいなんとかさせてくれたっていいだろ。だいたいからして、ゲームってのは人を幸せにする為のもんだろ。それがせめてもの大義名分ってものだろう。せめてインターネット上の画像の掲載くらいなんとかしてくれよ。適当なルールを作ってくれよ。


このままじゃ、ゲームはインターネットから取り残されるよ。
画像の掲載くらいは許可して露出機会を拾ってくべきだろ。








結局何が言いたかったかというと、動画まで全面開放しているトレジャーは凄いな、と。1秒も遊んだ事無いけれど、今日から、僕は、トレジャー信者に、なりました。


トレジャー万歳!
トレジャー万歳!
トレジャー万歳!


アマゾンアソシエイト始めます。



一円にもならんものをろくでもなく書き続けている事があほらしく思えてきて事実あほらしいのでアマゾンアソシエイト始めます。一切ブログへと再還元するつもりは無いからそこんとこよろしく。儲けまくるつもりなので、しっかり買えるようにきちんと金貯めておくように。
じゃ。そういうことで。


信者war



ブログ著作権ガイドとかガ島通信みたいな人達に向かって書いた文章はレスポンスが帰ってきたら対応するけれど、返ってくるとは思っていないので手のつけようがない。

ガ島通信が「匿名で何が悪い!」と実名ブログに向かってぶち切れた歴史とかも踏まえて本人さんに書いたわけで。ウェブ上の文章の一部を引用元を示さずに書くの禁止と言いアフィってるを踏まえて本人さんに書いたわけで。それらを踏んだ上でじゃないと回らない。それが悪いって言うわけじゃないけれど、そういう心づもりです。リアルについても盗用元についても返ってくれば書くけれど、それはつまり、書かないだろうという事で。


ブロックブログvs株式会社はてな!全面戦争の口火が落とされた!



ブロックブログvs株式会社はてな

全!
面!
戦! 
争! 
勃!
発!










>ユーザーは1人につき唯一のユーザー名と唯一の
>パスワードを保有できるのみとします。


http://sekai.bblog.jp/entry/190954/
ブロッックブログユーザーの多重アカウント取得攻撃!
鬼だ!
悪魔だ!
スーパーマンだ!



はてなは、もはや、陥落寸前!
はてなは、もはや、虫の息!
ブロックブログ最強!最強。


2005年6月4日土曜日

本格凍り炒飯



冷凍庫の中で凍りついた炒飯を見つけた。

「うわ肉だ」などと素直な気持ちで少しだけ器に取ってしまったのだけれど、電子レンジする程の量でもないし、精神的な余裕も無いしでそのまま持ち帰った。当初は溶けるのを待って食べるつもりであったのだけれど、目の前に肉があると食べたくなるのが人情。凍ったままの炒飯を箸ですくって放り込むと、これがどうしてか非常に旨い。久しぶりに肉喰った。肉。なにより驚かされたのが冷凍食品というもののレベルの高さ。加ト吉のうどんも凄いと思ったけれど、これも凄い。冷凍食品に対する謎の深海魚を衣に包んで凍らせた物という思い出が日に日に薄れ、他の何かに置き換わって行く。残酷なもんだね。時代を先取り。冷たい物は冷たいままで。これは、来年辺り流行るよ。

冷凍食品を凍ったままで食べる、って切り口。
電通あたりが仕掛けるね。大々的に。また夏だ。


ほんとうに残酷なもの



永久岩のVaultの中じゃ、秩序もとろけず形無しだ。
溶けない壁も、あるって事だ。


あちら側では、消えた穴熊が卑怯とされる。
こちら側では、消えない壁が卑怯とされる。
立場が違えば正反対だ。











例えばの話をしよう。
和尚が2人いたとする。

1人は東海道を東から西へ、もう1人は北海道を西から東へ歩いていた。
一人の和尚は富士山を見て「綺麗だな」と思った。
もう一人の和尚は、ツキノワグマに襲われ凍死した。



そういう事だ。
わかるだろ。
残酷だね。

ああ、これじゃあ、通じないかな?
賢明な読者の方ならわかってくれたと思うのだけれど、駄目かね。
まあ、ちょっとたとえ話が拙かったかもしれない。








もう少し、うまい事言おう。

例えばの話をする。
力士が2人いるんだ。

1人は東海道を東から西へ、もう1人は北海道を西から東へ歩いていた。
一人の力士は安倍なつみを見て「素敵だな」と思った。
もう一人の力士は、ヒグマに喰われて溺死した。





よく、わかったろう。
完璧だ。


つまり、こちら側で卑怯な事はあちら側では律義だ。
向こう側では卑怯な事は、こちら側では律義だ。

書くことが卑怯で、書かないことが卑怯だ。
書くことが律義で、書かないことが律義だ。





僕はここ数日、この今までは卑怯であった。
しかし、この今をして、律義になる。

同時に、僕はここ数日律義であった。
しかし、この今をして、卑怯になる。


卑怯になる為に書いているのではない。
卑怯でなくなる為に書いているのである。







わかりにくい。
確かに、わかりにくい。
わかりよいように、たとえばの話をする。






和尚が1人いたとする。
宗派は、そうだな、無宗教だ。無宗教。
ああ、無宗教の和尚ってのはちょっと変か。

和尚はやめておこう。
力士にしよう。力士に。


力士がいるんだ。
和尚じゃなくて力士がいるんだ。
無宗教かどうかは知らない。
力士が1人いるんだ。


そこに、力士がもう1人いたとすればどうだろう。
力士が2人だ。
言い換えれば、2人の相撲取りだ。



相撲取りが2人いたとなれば、話は簡単だ。
やる事は決まっている。
相撲だ。



ところが、である。
仮に、この2人の相撲取りが兄弟だったとしたらどうだろう。
あくまでも、たとえばの話だ。





1人は「兄弟なんだから手加減してやるのが律義だ」と考える。
もう1人は「兄弟であっても本気を出すのが律義だ」と考える。

正反対だ!
弟は兄の律義さを「卑怯だ!」と思うだろう。
兄は弟の律義さを「卑怯だ!」と思うかもしれない。



兄弟ですら、これなのだから、書き手と読者であれば、どのような。ま、他人の事を気にしても仕方がない。ここ数日抱えていた卑怯さをテトラポットには登らずに、遠投で投げ捨てる。抱えたままじゃあ、さっしが開かない。












その頃の僕は未完成だった。分解のない秩序くらいに弱かった。人としても、そのものとして不完全だった。なぜならば、最も重要なパーツ、世間ではSFCと3文字に略されているものが欠けていたからである。


SFCは随分と前から家の中にあった。「どこにも売ってない」という言い訳を一年ほど聞かされた後に誕生日のプレゼントとして買って貰ったものだ。電気仕掛けの幼児用の縫いぐるみがガチャガチャと太鼓をかき鳴らす中で丁寧なプラスチックの取っ手の付いたスーパーファミコンを親から強奪し、それを家へと持ち帰った。けれども、僕が何度目かの誕生日と引き替えに手に入れたのは「SFCを買って貰う権利」だけであった。



問題点ははっきりしていた。
頭が弱く、一人前の子供ではなかった。
一方はそれは親のせいだとし、親は信心が足りないとした。
親はなんとかして僕を一人前の子供へと仕立て上げようと躍起になっていた。


帰宅して、車を降りる前に成された提案は「3分で九九を」というものだった。指令、かな。とりあえず、その意味が良く理解できないままで胸に抱えた巨大な箱がとにかく無性に嬉しくて、その提案を一つ返事で呑んだ。その数字が途轍もなく遠いものであると気がついたのは随分と後だ。

どの位であったかはもう覚えていないけれど、Vaultで区切られた升目に数字を放り込む度に親戚の家に行く度にずっと遊んでいたゲームの事を一通り思い出してから次の升目へと進入した。緩慢だった。


けれども、それは最も幸せな生活であった。僕には3分という目標があり、夢があり、希望があった。それさえ成し遂げれば最も重要なものを手に入れられるという幸せな時間であった。いや、正確に言うと手に入れてはいたのだけれど、開封したらいけないという決まりになっていた。ある時僕はたまりかねてそれを解き開け、こっぴどく叱られ見えない場所へと取り上げられた。


だからといって、それが遠のいた訳ではない。
僕は少しずつだが確実に、3分へと近づいていた。








僕には他に、まだあった。
体が弱く、一人前の子供ではなかった。
一方はそれは親のせいだとし、親は信心が足りないとした。
親はなんとかして僕を一人前の子供へと仕立て上げようと躍起になっていた。

毎日僕をそっと叩き起こして階段の上でて硬貨を手渡しそれを放り投げさせて、帰りに公園で鉄棒を握らせた。



気がついたら、僕に許された時間は倍になっていた。
3分で100升と3分で5回。それが何を意味するのかはよく理解できていなかったけれど、画用紙に定規でスーパーファミコンやゲームボーイの絵を丁寧に書いているだけで幸せだった。




だけど、ある日突如として近づいていた物が遠ざかった。
レゴブロックの小さな箱を手渡されるのと時を同じくして、1分で100升と3分で5回という新たな指令が下された。とにかく、嬉しかった。3分という目標を達成する。褒められる。物をもらえる。物凄く嬉しかった。1分で100升、というものがそういうものだと気がついたのは、それからだいぶ経ってからだ。だいぶ、というか、1分を切ってから更に相当後の事だ。










そんな中で僕の通っていた学校の組に、教育実習の教師が来た。いや、教師ではなくて学生か。それは女であり、それなりの身なりをしていた。幾つだったのかは知らないけれど、同じくらいの歳になり、それが何であったのかが少し理解が出来るようになった。



それは子供であった。他の子供と同じように僕にあたった。違ったのは大きさくらいのものだった。ある時下駄箱の前を腕を掴んで引きずりあるき、視線を寄越して少し笑って立ち去った。恐怖であった。


僕は弱かったので、恐怖する以外に選択肢が無かった。スーパーファミコンをやりたいと思うのと同じくらいに、強くなりたいと思っていた。怯えるのは懲り懲りだと思っていた。近くの席の学童が挙手をする度に肩を凍らせて鉛筆を握りしめていた。目を突いたら勝てるのではないか、くらいの恐怖はあったが怖かった。




やがて教師が去る日が近づき、教師に向けて作文を書けと言われた。僕は真正直に、思っていた事を書いた。どのような事を書いたのかは忘れてしまったのだけれど、大きくなったら必ずお前を殺しに行くからそれまでに死んでおけ、といった事を書いた。子供って残酷だね。僕は悪くない。悪いのは子供だ。






どうしてかそれは家へとまわり、掌を尻につけて立たされて、メトロノームのように殴られた。一方はそれは親のせいだとし、親は信心が足りないとした。1分で100升と1分で5回という許された目標と言う名の夢と希望は白紙に戻され、1分で100升と1分で5回だけが残った。他に選択肢が無かったので仕方なく、縮まる気配の無い時差に向かって毎日毎日繰り返していた。逃れる術は何もなかった。


それからしばらくして、夏が来た。
いや、冬だったかもしれない。


その教師だった女から、年賀状が来た。
いや、残暑見舞いだったかもしれない。
それは毎年続いて来たが、何が書かれてあったのかなんてほとんど覚えていない。
僕が記憶しているのは、教師になるのは止めにした、と綴られていた手紙だけだ。
その女から葉書が来る度に、横に手本が置かれた机に監視され、鉛筆の握り方がおかしいと言われる中で何度も何度も書き直させられた。握力が少し欠けていた。


それから随分と経って、僕は冬を丸々伏せて過ごした。一方はそれは親のせいだとし、親は信心が足りないとした。年賀状は来ていたけれど、返事を書ける余裕はなかった。そして、夏と冬とに欠かさず来ていたその女からの葉書はそこで途絶え、僕はスーパーファミコンとドラゴンクエストVを手に入れた。



同じくらいの歳になり、あれは教師ではなく老いた子供だったのだと解った。
結局何度も書いたのだけれど、僕が書いたのは1枚の原稿用紙だけであった。
























届いたのだろうか。
永久岩のVaultの中から。


2005年6月3日金曜日

藤代裕之さんへ贈るリアル。



どうして、「藤代裕之はレッテル貼りを行う議論の出来ない人物」
という指摘に対して、レッテル張りで対応するのですか?


「レッテルを貼って人格批判を行う」
という僕が提示した藤代裕之観をそのままなぞるのですか?





全ての責任を「引き篭もり」に求めてどうするんですか?
「全国紙」が「引き篭もり」に置き換わっただけじゃないですか。




僕は藤代裕之さんが「地方紙>全国紙」「問題意識を持つ俺>脳天気な同僚」という絶対的な価値観を基準にして"議論"と呼ぶものを行ってきた事を批判しました。


それに対するリアクションが「働く俺>引き篭もり」という絶対的価値観の提示というのは、批判し、指摘したその通りの行動です。
読ませて頂いて、これは無理だな、としか思えないです。





文章に対して投げかけた文章を「リアルが全て」という意味不明の絶対的な基準を持ち出して処理する人間に対して何かを言う事は不可能です。議論どころか、会話すら成り立ちません。


「リアル」って何ですか?



そして、ほとんどのブロガーが、イベントや旅行、買い物など身の回りの出来事や家族や友人との付き合いや悩みなど、リアルに根ざしたエントリーを立てています。



って、ご存じでは無いようですが、当ブログでは「リアルに根ざしたエントリー」を書き続け、投稿し続けてきています。





「リアル」って何ですか?
「サイバーへ引き篭もる」って、何ですか?
サイバーで文章を流すことにより生活している藤代裕之さんは「リアルの住人」なんですよね。対してフィードバックを生活へと持ち込む事なくブログを書いている僕は「サイバーへ引き篭もる」なんですよね。



という事は、僕が真面目にアフィリエイト貼って稼いで生活していたら「リアルの住人」に認定していただけるのですか?それとも「実名で書く事」ですか?


本当にわからないので、お聞かせいただきたい。











藤代裕之さんは過去のガ島通信において、ジャーナリズム考現学さんを「発想そのものが全国紙的」と、高田昌幸さんを「出している和菓子には問題があるけど、私たちは懸命にやっているし、努力している。ただ、組織はそう変わらない。それぐらい分かってるでしょ?」「メディア側の論理しか見えません」と、レッテルを貼って門前払いし、カレーとご飯の神隠しに記載されていた具体的な指摘に対しても「私は炎上とは思っていませんけど」と具体的な事には一切答えずに結論だけを述べています。


そのような人物に対して、どのような文章を書くべきかかなり悩みました。
矛盾点を1から指摘する文章も書いたのですが、繰り返された異論反論に対してレッテルを貼って対処するか論点をずらし言い訳に終始してきた人間に何を書いても無意味であると判断し、ガ島通信というメディアを全て読んだ結果として抱いた評価を素直に書く事にしたわけです。





私がヘナチョコとへりくだることで安全圏に自分をおいてメディアを批判したように、hankakueisuu氏は引き篭もっている(頭が悪いという言葉もある)という設定で安全圏に身を置ている(その際、hankakueisuu氏が本当に引き篭もっているか、引き篭もっていないかは無関係である)、自分が傷つかないように。



頭が悪い人間が自己紹介の途上や、謙遜としてその事実を書く事が、卑怯であるとは考えていません。






僕が指摘したのは、議論がしたいと言いながら反論が寄せられた際に、


・全国紙的発想ですね。(レッテル張り)
・頭が悪くて書けませんでした。
・私の文章をちゃんと読んでいませんね。


という3点に責任を転嫁して安全圏から全てを処理する姿勢です。
「答えない」という最も安全圏な選択肢が一番多かったですが。




つまり、反論に対して「頭が悪い」「故に上手く書けなかった」という免罪符を持ち出す事に対する批判です。真性引き篭もりのどこを読んで「頭が悪いという言葉もある」としているのかは知りませんが、私投稿と混同しないでください。僕は頭の悪さや無教養さに対する責任は全面的に背負います。










「何度も言いますが、物事は複雑です。」
と、僕のそちらに対する初投稿以来散々述べてらっしゃいますが、高田昌幸さんの「物事は複雑だ」という指摘を菓子屋で切り捨てた人間が、そんな事を平然と言ってのけるのを見ていると、本当にどうしようもありません。
都合のいいように、都合のいいように変節し、新たなアリバイ、新たな材料を探し続けておられますよね。「リアル」の次は何を拾ってくるのですか?先日の投稿ですら1日遅れていたらどのような事に利用されていたか解らないというのを想像すると背筋が寒くなります。





「自分が傷つかないように引き篭もっている」
と主張なさっておられますが、真性引き篭もりではブログというメディアに対する姿勢がまったく相容れないと思う某弾道ミサイルブロガーからのトラックバックでさえ削除したことがありませんし、コメント欄も昨年来から荒れ続けていますがガ島通信さんとは違い、引き篭もらずに解放しきっています。


「自分が傷つかないように引き篭もっている」
のはどちらですか?




どうして僕が以前「荒れるブログの作り方」で書いた「リアルに引き篭もればいい」という最強の対処法を平然と行って、それをぶつけて来られるんですか?








まるで初期のガ島通信のように…。近親憎悪にも似たコンプレックスとガ島通信@藤代裕之が望むものではなくなった失望。リアル藤代裕之はhankakueisuu氏にとって「ダメ」でなければならなかった…(新聞を憎んでいるとか仕事が嫌いだとかもはずれています。hankakueisuu氏が行間や言葉の裏が読めなかったのではなく、藤代裕之が仕事が嫌いでなければならなかったのです)。



あの、酷いです。
僕はガ島通信@藤代裕之に何一つ望んでいません。

批判や指摘に対する解答を行わずにマスコミを攻撃し続けた人間が、罵倒によって集めた2万PVという数字を武器にマスコミに転職するというグリーンメーラー的卑劣さへの怒りはありますし、エントリーを一瞥して条件反射的に書かれた文章がウェブ上を駆けめぐる事への抵抗感もあります。






「リアル藤代裕之はhankakueisuu氏にとって「ダメ」でなければならなかった…」
という文章が核となっていますが、「ダメだ」「ダメだ」と延々と書き続けて来たのはそちらでしょう。自分で書いた文章に対する責任は一切取らないおつもりですか?ご自身で書いてこられた事を全部無かった事にして、それを反論材料にするというのは、正直正気の沙汰とは思えません。


「なければならなかった」のはどちらなんですか?


・レッテル張り。
・頭が悪くて書けませんでした。
・私の文章をちゃんと読んでいませんね。


という、ガ島通信そのままじゃないですか。





私はサイバーという虚構世界の言葉遊びをガ島通信でやってきたつもりはありません。



存じていますよ。
「勇気が欲しい」って仰ってましたよね。
ブログで新聞を攻撃し、退職をする勇気と新たな職を得た。
インターネットを自分が幸せになる為の道具として使う。
素晴らしいじゃないですか。自分たちが利益を得る為に好き放題の暴力的な報道を続けるマスゴミそのものですね。僕が「無かった」と書いた事の意味がおわかりですか?






私はサイバーという虚構世界の言葉遊びをガ島通信でやってきたつもりはありません。hankakueisuu氏が脳内世界の妄想でとどまるならそれでいいでしょう。しかし、それならば私のことをあそこまで書く資格はない(とか書くと「資格ってなんだー」という反応がありそう。あそこまで、です。程度問題です)。今までどおり「引き篭もればいい」のです。



意味がわかりません。
僕もサイバーという虚構世界の言葉遊びをやってきたつもりはありません。
全責任を負っています。






>hankakueisuu氏が脳内世界の妄想でとどまるならそれでいいでしょう。
って本当に意味がわからないんですが。


インターネット=脳内世界の妄想なのですか?
ワールドワイドウェブはリアルじゃないのですか?
新手のゲームか何かですか?


読まずにレッテルを貼るのがリアルで、過去のエントリーも全て読めと言われて真面目に全て読む事がサイバーなのですか?お前暇だな(藁)ですか?




「マスコミ」や「ワイドショー」といったものはは脳内世界のものではありません。好き放題に書いてお金を稼いで生活している人達は、立派な労働者であり、リアルです。


同じく矛盾点や問題点の指摘を完全に無視して好き放題に書いてお金を稼いで生活している藤代裕之さんも、脳内世界の妄想の住人ではないわけです。


では、真性引き篭もりhankakueisuuのどこが「脳内世界の妄想」なんですか?
現実世界の現金というフィードバックを受け取っていない事なのですか?


「リアル」。
それは、何なんですか?








。あそこまで、です。程度問題です



程度問題というのは、自分に都合のいい事は書いてもいいけれど、ムカつく事は書くなって事ですか?僕は藤代裕之さんが度々述べてこられた「読んでいませんね」という主張を受け入れて、エントリーを一瞥して文章を書く人間へのアンチテーゼとして、ウェブ上に存在するガ島通信関連の全ての文章に目を通した上で書かせていただいたのです。



大量に引用を用いてますし、疑いを持った読者さんには本家の原文を読んで確かめていただけるようにと周辺系へのリンクも貼りました。





ガ島通信ではこれまで、問題指摘する投稿が幾度も繰り返されてきました。
僕はそれに対する藤代裕之さんのレッテル張り、完全無視、論点のすり替え、責任転嫁といった対処を見て、問題を指摘しても無駄であると考え、見解を述べる形の投稿を行ったわけです。


僕が一方的見解を述べるに止め、放置可能な形で投稿したのは、藤代裕之さんには何を言っても無駄であり、レッテルを貼り、論点をずらし処理されてしまうだろう、という推測からです。真面目に書かれた文章に対して「全国紙的発想ですね」とか、「ケーキ屋だと」とか言い、再反論や再指摘には完全無視を決め込む人間に何を言っても無駄だと思いました。







もしも、半年にわたって繰り返されたあれらの対応が何かの間違いであったとするならば、これまで成された異論反論にでも構いませんし、新たに異論反論を募るという形でも結構ですので、3人ほど選んで解答して見せて頂けませんか?


話の出来る人間であるという所を見せていただけませんか?
ラプターさんや徳保隆夫さんとは違い、何を書いても無駄だと思っています。
そんなコミニケーションとして成立しないコミニケーションを行う気は、今のところありません。





私はこの連載の二回目から再三言葉の定義の不備を指摘しているが一向に改まらない。
例えば連載の第三回、「既存メディア」という言葉の使い方は以下の有様。


>ネット上にあるソースのほとんどが既存メディアから発信されて
 ⇒新聞、ラジオ、テレビなどITの発達以前からある(発信者としての)マスメディア
>一方、既存メディアからの
 ⇒新聞社
>既存メディアとネットでは、
 ⇒ネットを伝達手段の主としないマスメディアのビジネスモデル
>既存メディアはニュースで食べているという意識が強すぎて
 ⇒新聞社(通信社含む。且つロイター通信除く)の企業意識(或いは経営方針)
>既存メディアは「ホリエモン祭り」を巻き起こして
 ⇒ライブドア情報を伝えた(発信/媒介者としての)メディア(ネットを主な伝達手段とするメディアを除く)
>ニュースの使い方を自覚しなかった既存メディア
 ⇒新聞社(通信社含む。且つロイター通信除く)の経営戦略


「既存メディア」というくくりで何から何までごっちゃに理論を(おそらく思考も)展開している。
これでは何を批判し何を評価して何を問うているのかさっぱり分からない。
高田氏の「「伝達手段」の話であって、「伝達内容」とごっちゃにして論じるのは、少し違うのではないか」という疑問は至極当然だ。


~(hal*、2005/04/29)
~日経BPコメント欄より



カリーさん所から連想引きで悪いのですが、hal*さんの上記の指摘に対して、解答できるものをお持ちですか?滅茶苦茶な論理で「既存メディア」「新聞社」「新聞記者」というものを散々に叩き続けて来た事に対して責任を取る形での説明が出来るのですか?








きちんと対応して頂ければ、こちらもきちんとした対応をします。



真性引き篭もり攻撃において使用した「リアル」という言葉の定義を書き、説明を行った上で、異論や反論を募るなり、過去ログから選び出すなりして3人くらいの質問に対しきちっと解答し、会話の出来るところを見せて頂けたならば、もう1度自説の展開という形ではなく、最初はそうするつもりであった「藤代裕之さんへの文章」というものを真面目に書かせて頂きます。









これは藤代さんじゃないので関係無いですけど、ガ島通信で「その反権威は一番厄介な切込隊長や、膨大博識なファイナルベントには向かっていかない」とコメントなさってる方がいましたが、http://sinseihikikomori.bblog.jp/category/sine/荒らしの親玉ってカテゴリーがあるんですが。また、藤代裕之が2ちゃんねらーよりもやっかいだとは思えないのですが。


確かめずにそういう逆引きをするのは止した方が良いと思います。


著作権への関心度や理解度、その保護の度合いは、その国の文化のバロメーターといわれています。



少しだけ似ている文章を見つけたよ!


いやー、なんて事無いです。
インターネットじゃ良くある事です。
ハイ。
ええ。




ただ、ものによっちゃあ「面白いな~」と思ってブログ投稿したりもします。
面白いな~。






1月10日 「ハウルの動く城」海賊版販売事件(刑)
 兵庫県警西宮署/逮捕
宮崎駿監督の人気アニメ映画「ハウルの動く城」などを違法コピーした海賊版DVDを露店で売ったとして、西宮署は著作権法違反の現行犯で姫路市の露天商を逮捕、所持していた海賊版DVD約1000枚を押収した。
     ~日本ユニ著作権センター




「ハウルの動く城海賊版DVD販売事件」
 宮崎駿監督の人気アニメ映画「ハウルの動く城」などを違法コピーした海賊版DVDを露店で売ったとして、西宮署は著作権法違反の現行犯で姫路市の露天商を逮捕、所持していた海賊版DVD約1000枚が押収されました。(「ハウルの動く城海賊版販売事件」兵庫県警西宮署 平成17.1.10)
     ~ブログ著作権ガイド [Blog Copyright Guide]




STOP!
ちょっとだけ、似てるね!


比べてみるよ!










>宮崎駿監督の人気アニメ映画「ハウルの動く城」などを違法コピーした
>宮崎駿監督の人気アニメ映画「ハウルの動く城」などを違法コピーした





>海賊版DVDを露店で売ったとして、西宮署は著作権法違反の現行犯で
>海賊版DVDを露店で売ったとして、西宮署は著作権法違反の現行犯で





>姫路市の露天商を逮捕、所持していた海賊版DVD約1000枚
>姫路市の露天商を逮捕、所持していた海賊版DVD約1000枚










>が押収されました。
>を押収した。


違うね~。
違うよね~。
全然違うよね~。


けど、似てるね。
ほーんのちょっとだけ似てるね。



ところで、これは、判例じゃないですね。
片方は、日本ユニ著作権センターの中の人が頑張って書いた文章ですね。
盗んじゃ駄目な文章ですよね。
盗んで自らのコンテンツ化してはいけない文章ですね。








いやー、いい身分ですね。
盗み盗んで著作権ですか。
バリューコマースにアドセンスですか。





ほんとー、素晴らしいですね!
はたらくことって。労働って。
ペタペタぺったと張りまくりですか。



>ウェブログニュースが注目するキーワード
>・今流行の
>・ネット広告
>・デジタル著作権


むっはーーーーーーーーーー!
アフィリエイトさいこ~~~!
ブログ万歳~~~~~~~~!





いやー、僕もコピー&ペーストで盗み盗んで語尾だけ変えて、
「著作権侵害です!」とか言ってお金儲けしてみたいです。ハイ(^^;













著作権への関心度や理解度、その保護の度合いは、その国の文化のバロメーターといわれています。



ごもっともです!
文化のパロメーターですね。
コピー&ペーストに、3文字削って、6字付け足し、アフィフィフィフィ♪





最高ですね~ハイ。
いい時代になりました。
インターネットってほ~んと、素晴らしいですね。






あー、いやいや、違いました?
誤爆でした?
僕の思い違いでした?


そうでしたら、あのー、失礼ですが、こp、もとい、情報元はどこですか?
お伺いしてもよろしいでしょうかというかお伺いしたいです。そうでしたら。








より多くの方に、著作権への理解を深めていただきたいなと思います。



が~んばってくださ~い。
その国の文化の未来とインターネットの未来の為に。



3やおいゲーム≠1シューティングゲーム



「yaoi」
約 1,550,000 件
「yaoi japan OR japanese」
約 391,000 件
「yaoi love」
約 553,000 件


「game shooting OR Shmups OR shooter」
約 9,630,000 件
「game shooting OR Shmups OR shooter japan OR japanese」
約 1,750,000 件
「game shooting OR Shmups OR shooter love」
約 97,800 件


完勝。




「shooter」
約 6,040,000 件
「shooter ikaruga」
約 22,400 件
「ikaruga game」
約 97,800 件


万歳!万歳!万歳!
良かった・・・本当に良かった。
ご指摘ありがとうございました。




「"yaoi game"」で4850件ヒット。
「Shmups」で15200件ヒット。


つまり、3やおいと1STGは等価。
日本は恐ろしい国。
世界は恐ろしい世界。
恐怖で涙も出ない。
リアルでドン引き。
見てはいけないものを見てしまった。
見なかった事にしよう。
忘れよう。




そうじゃない
0ヒットだ。
役に立たない。
しかも、なにがもしかしてだ。
ふざけるな。全然違う。失礼な。
って、"Yaoi game"って本当に"Yaoi game"の事なのか・・・凄い。


もしもの話。



もしもの話。

壮絶なコストを支払って書かれた文章の中に「コストを最小に!」という文字列を見つけてしまったら対応に困るだろうな。というか、突っ込まずにはいられないだろう。壮絶な自虐ネタなんだろうかと頭を悩まさずにはいられないだろう。正確に言えばコストを最小にする人に壮絶なコストを支払わせるに至らしめた真性引き篭もりhankakueisuuさん死ねひい堪忍なひい堪忍。

もしもの話であり、そんな機会は絶対に訪れないだろうけれど。







求める物が違うのである。

「論破して泣かせる」「正直に言う」「嘘をつく」「説き伏せる」「信者に崇められる」「口説き落としてGETする」「PVを稼ぐ」「アフィり稼ぐ」、人それぞれ。そして、その目的を異にした人と人とが正面からぶつかってしまうのがインターネットの面白さであり、それは同時に恐ろしさでもあると思う。

論破する事を目的としている人が他のブログと出会ってしまうと、一方は論破しようと滅茶苦茶になり、一方はPVを稼ごうと滅茶苦茶になる。だいたいからして、僕思ってませんから!ってそんなの知ってるっちゅうに。極めて不毛。非生産的。どちらが悪いというわけではなく。



僕がブログを書いているのは論破する為でも説き伏せるためでもなく、hankakueisuuでいる為である。演じるのではなくて、そのままで居続ける為だ。つまり、正直に思った事をフルパワーでnelfせずに全力で書く。理想を書く事もあれば、そうでない時もある。

「後ろめたさ批判」は理想について書いたものであるし、知らないどこかのワールドウェブで至って生真面目なホームページを運営している誰かが後ろめたさを取りやめて、堂々とアフィってくれたらいいな、くらいの希望も込めた。


理想と議論と結果と日記は、全て別次元であり適当な距離が必要だと思う。
だからしてトラックバックもしっかりと送らなかったのだけれど、文中でさんざんタグを挿入したり、表題を「あさましさ批判批判」から変更してしまったりと、直接的言及のようになったのは失敗だったな、と反省しているところです。接点が無いはずの人間を材料として使ったつもりが、接点となってしまうのが怖いところ、というか面白いところ、というか。人間の屑が発見されてしまう前から感じている所。後ろめたさ批判とは後ろめたさという行動を批判しているのではなくて後ろめたさという何か、何か。書いている内に少し整理出来ずにこんがらがってしまって、わけわからんくなって酷い文章。ブログが人を幸せにするものであればいいなくらいの理想は持ってます。


2005年6月2日木曜日

エンジン



下ネタを平気でブログに書くような人間に対して心底嫌悪感を覚える。吐き気がする。特にゲームの話を読みに行っているブログで性生活を語るエントリーが突如として暗雲から成されたりすると、物凄いダメージを受ける。「死ね!」とか思いつつお気に入りから削除して、検索エンジン経由で毎日アクセスし続けるくらいのダメージを受ける。

見た夢の話を平気でエントリーするような人間に対して心底嫌悪感を覚える。吐き気がする。特にゲームの話を読みに行っているブログでいきなり「素敵な夢を見たっちゃ♪」とかやられると、物凄いダメージを受ける。夢なんて見るな!夢なんて信じるな!現実だけを信じろ!必要なのはリアリティだ。



その位のうぶさだ。
純白。下ネタなんて絶対に書かない。
その位の真面目さ。
誠実。嘘なんて絶対につかない。
見たくない。
読みたくない。
目にしたくない。
葬り去ってしまいたい。

例えば、今、話は変わるが、ここで僕が「夢精しました」と書いたとするとどうなるのだろうか。心底嫌われてしまうのだろうか。いや、既に心底嫌われてしまっているからフローしてALL STATUSが255になったりするのだろうか。最強だ。
嫌われるにこしたことは無いが、嫌われないにこしたことはない。
今抱えている最大の問題は、相手が水鳥だった事だ。
あれは鴨なのか、それともあひるなのか。
よくわからないが、ちょっと待て。そんな性癖は無い。何かの間違いだ。


【お詫び】 真性引き篭もりhankakueisuuに関して



「謝罪の機会を完全に逸し、謝り損ねてしまった場合、どうすればいい?」
素直に謝ればいいと思う。



「素直に謝る事の出来ない人間が謝りたいと思った場合、どうすればいい?」
素直に謝ればいいと思う。




いや、だから、そうではなくて。
答えになっていない。

やはり、そこで、思うのは「謝らざるを得ない状況」を作り出すってのが最高だと思う。
機会どうこう抜きで謝らざるを得ないだろうし、片意地なんて張ってられない。



「謝らざるを得ない状況」を上手く作り出せない場合どうすればいい?
素直に謝ればいいと思う。



あー、そうか。
じゃあ、そうするか。


1人殺したら悪人で、100万人を殺せば英雄。
じゃあ、1人に向かって謝れば何?
100万人に向かって謝れば、何?

何だっていい。
とにかく僕は謝ろうと思う。
「謝らざるを得ない状況」には少し足りないけれど、とりあえず僕の中では有りかなって雰囲気だ。もう少しかなって気もするが、磁石が馬鹿になっているのでここら辺りが限界だろう。仕立て上げるだなんてとんでもない。憎みたい奴を憎んで罰したい奴を罰すればいい。いつだって一人称は無罪放免だ。悪いのは、そうじゃない。


だいたいからして、傷つけるつもりなんて全く無かった。本当に。
当然じゃないか!僕をブログ投稿へと駆り立てるものは全て愛だ。
酷い事を言った?バイアスをかけた?空気を曲げた?嘘をついた?
知らないよ。知らない。

ただ生真面目に真正直にやるべきであると判断した事をやっただけである。
なにしろ、僕は真性引き篭もりであり物凄く時間が余っている。
少なくとも、筋は通した。
バランスを取っただけだ。



どうしてこんなことをしているんだろう、と思わなくもなかった。
けれども、じゃあ?って話だ。
ただ思った事を書いただけだ。
幾つかの思惑をまぜこぜにして。



酷く傷つけたろうと思う。
まあ、罵りたくもなるだろう。
そうするべきだ。
そういうものだ。
やるときはこそっとだ。
インターネットはおそろしい。
条件反射で顔引きつらせ激昂だ。
最高じゃないか!レッツゲレロン!
見つかったのが運の尽きだ。
まあ、運が悪かったって事だ。

仕方がない。
一度書こうと思った事は書かずにはいられない性質なんだ。



とにかく、である。
許してくれだなんて言うつもりは無いが忘れてくれ。
見逃してくれだなんて言うつもりはないが無かった事にしてくれ。

そういう事だ。
明らかに、悪いのは僕だ。
火を見るよりも明らかだ。


だから。
物事は至って単純。
罵りたい奴が罵る。
たったそれだけの事で全てが丸く収まるんだ。最高じゃないか!


反省なんてちっともしてない。
後悔だってまったくない。
何一つ本心じゃない。
でっちあげだ。


ブログのカンレンダーの1日分の投稿履歴を埋めるためだ。
ごめんなさいだなんて言うつもりは無いが悪かった。
許してくれだなんて言うつもりは無いが忘れてくれ。
見逃してくれだなんて言うつもりはないが無かった事にしてくれ。




そんなつもりは無かったんだ。本当に。
ついうっかり、書くよモードになってもうたねん。
ついうっかり、左クリックを押してしまったのである。


つまり僕が何を言いたいかというと、ごめんなさい、って事だ。
いや、わかってる。
いないかもしれない。
見ているかもしれない。
いや、見ている訳がない。
わからない。どうでもいい。いようといまいと謝りたいから謝る。
いや、そん事はわかっているが、謝らなければ気が済まないのだ。
本当に心の底から申し訳ないことをしたと思っているわけである。



ブログを私信に使うなだとか、直接やればいいだろうとか、お言葉は色々あるだろう。けれども、ブログで謝って何が悪い。WWWで謝って何が悪い。


いやあ、まあ、謝って済む問題じゃあないという事は解っている不可逆。
許してくれだなんて言うつもりは無いが忘れてくれ。
見逃してくれだなんて言うつもりはないが無かった事にしてくれ。
そういうもんだ、いつ何ときも誰だって互い違いに掛け違いだ。
まあ、そういうもんだ。

1人殺したら悪人で、100万殺しは100万殺しだ。
1謝りは誠意であり、100万謝りは100万誠意だ。
とてものすごく、あれな人だ。1つくらいは命中するだろう。
謝罪スパムだ。まさに外道。当たらなくてもそれはそれ。





「って、誰に?」
って、君だよ!君!
キミキミ詫び。
最先端の未来形の詐欺。


「もしかして?」
って、そのもしか。


「俺じゃなくて、?」
そうそう。
違うくて、そう。
あれあれ。
そうそう。



結局の所、素直に謝れないような人間になっちゃ駄目だって事だ。
素直に好きって言えないような大人になっちゃ駄目って事だ。
素直に物事を伝えられるくらいの日本語力が必要だって事だ。
つまりは駄目って事なのだ。
まったくもって。




とにかく、本当だ。
そんなつもりはなかった。
こればかりは、嘘ではない。

これっぽっちもなんだけど、物凄く申し訳ないことをしたと思っている。そういうものだどうしようもない。いろんな、って事だ。世界は広い。

本当に申し訳ございませんでした。
深く謝罪してお詫び申し上げます。
ごめんなさい。

以上。
乱文お許し下さい。
真性引き篭もりhankakueisuu