2005年6月11日土曜日

忘れ方の、忘れ方。



人は手に入れたものを見つめる事は出来るが、失ったものを見つめる事は出来ない。同じように書いたものを読む事は可能だけれど、消したものは読めない。

ブログ投稿を書くというのは書くという事であり、投稿ボタンをクリックするというのはそのエントリーを手に入れる事である。ならば是だ。手に入れろ書け、というのが正しい解き方なのだろうけれど、どうも腑に落ちない。




書いたものだけが自分自身の実体となり、書かなかったことは参照のしようがない。
至極物忘れの激しい人間であるからして、書かなかったことはすぐに忘れて消えてゆく。素直に消えるのであれば塩梅がよいのだけれど、残り香は消えない違和感。




「もしも書いていれば実体となっていたものを喪失した」
という、まるで自分自身が目減りしてしまったかのような不愉快さだけが残る。損は嫌だ。失いたくない。手にある全てを手にしたい。
ならば是だ。手に入れろ書け、というのは1つの正しい解き方なのだろう。けれども、「書こう」と身を起こすその労力でキーボードの叩き順が肉体疲労と虚弱さへの失望で上書きされてしまうような体たらくであるし、そもそも全てを書き残す事など不可能だ。




「ワールドワイドウェブだから書けぬのだ!」
と思い、ブログという形式にせずにテキストエディタの日記環境に書くようにしてきたのだけれど、「自分しか読まぬ」というオンブズマン、観客不在の甘さからか、ブログよりさらに余計に書けぬ始末。

1人日記というのは書きたくないこと、即ち読みたくないことの把握には使えるが、書き"わたくし"を実体化させ閲覧するという目的には使えないと判明し、途方に暮れる。




これは甘さであろうか、それとも優しさであろうか。あるいは、正しさか。
読みたくないものを書かぬようにしようという甘さか、読みたくないものを読ませないようにという優しさか、あるいは、そう。自分には敵が少なすぎる。おそらく憎悪が足りない。
どれにしろ、書くも書かぬも誰かが失望し、誰かが悲しむ。過去ログという形で実体化したトリプルキルの殺し続ける恍惚の中の罪悪感はもはや戻らず、機械的に能動的に、書けることだけを書き続ける時間だけがしばらくは続く。




戦績に添えてプレイレポートを書くそれだけで、一つ漏らさず塗りつぶしてゆく事が出来たのはもう2昔、いや3昔も前の事だ。あれであれば、なんの迷いもなく書けた。全てだ。

それが今ではどうだ。
書けない。書きたくない。書ききれない。そればかりだ。

書けないとは読めないを意味し、書きたくないとは読みたくないを意味する。書ききれないのは単に能力不足だ書き漏らし。実体の喪失であり、機会の損失だ。




やっかいな事に、残したいものは大抵が読みたくないものだ。
そしてまた、なかなか文章としてまとめられない書き難いものだ。
為す術もなく消えて行くすぐその脇で、書ける事だけが積み上げられてゆく。
そして、その積み上げられたそれこそが、血となり手となり足となり、真性引き篭もりhankakueisuuとなり遠のく。書けることを書くのに費やした時間と、書くべきことが同時に失われ、書いたことのみが実体として残る。時間が足りない。手一杯だ。間に合うのだろうか。一体何が漏れたのだろう。




「よいのか」と問うてみても書けぬものは書けぬし、読めぬものは読めぬ。
単純に「読みたくない事=書かずに消えて行った事」であるのならば軟弱であるな、というだけの事なのだけれど、そうでは無いからして誠に困る。7倍くらいの投稿数と、80時間くらいの1日と、少し昔の恐竜観の尻尾の先の鈍感さがあれば、打ち漏らさずに叩けるかもしれない、かもしれないが。




手に入れるべきなのは実体でも記憶でもなく、忘却なのだろう。
けれども、忘れ方というものを僕は知らない。知っていたとしても、もう忘れてしまった。また仮に、忘れるべき事自体が忘れ方、だとしたらどうすればよいのだろう。そもそも、忘れたくなどはない。書きたいのだ。残しておきたいのだ。自分自身としたいのだ。忘れたくないのだ。
書きたいのだ。けれども。



忘れたくないものを忘れる。
容易ではない。容易ではないが、やるしかない。一心不乱に忘れよう。