ソーシャル死ね。ソーシャルゲーム死ね。ゲームを返せ。ゲームから出てけ。

あったまきた、ほんとあったまきた。
こんなに悲しい思いしたの初めてだよ。
こんなに惨めな気分はもうこりごりだよ。






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やっとブログに書けるだけのゲーム数をプレイ出来たので、書くけれど、あったまきたよ。ほんとあったまきた。こんな不条理はないよ。いいか、DOTA2はゲームじゃない。dota allstarsはゲームだ。そして、DOTA2はdota allstarsの完全移植だって触れ込みだった。だから、僕はその宣伝を聞いて、DOTA2もdota allstarsと同じように、ゲームなんだろう、って思ってた。

でも、ゲームじゃなかった。
ビデオゲームなんかじゃなかった。

こんな理不尽が他にあるか?ビデオゲームだと思ってたら、それはソーシャルゲームだった。これは、詐欺だ。完全な詐欺だ。ビデオゲームは冒涜された。こんな事が許されていいのか?許せるわけがないだろ。僕等はビデオゲームにだけに頼って生きてきた。ずっとそうやって生き延びてきた。そのビデオゲームが消える。ビデオゲームの皮を被ったソーシャルゲームが「俺はビデオゲームです」って言いだしたんだ。こんな事態を許せるか。許せるわけないだろう。ふざけんじゃねえよ。ふざけんなよ。ビデオゲームを返せよ。僕等の人生の全てを返せよ。ソーシャルはビデオゲームから出ていけよ。








はじめに、ビデオゲームというものが生まれた。

マサチューセッツ工科大学の巨大計算機の中で、ビデオゲームというものが生まれた。一番はじめのビデオゲームは、テニスだった。テニスの模倣だった。ブロック崩しの自機バーが、右端と左端にあって、2人のMITの大学院生が、互いにボールを打ち返し合う。それがはじめのビデオゲームだった。




そうだよ。
確かに、そうだよ。




その時点では、ビデオゲームはソーシャルゲームだった。1人ではプレイ出来なかった。1人の人間が、他の人間に笑顔で語りかけ「遊ぼうぜ」と言って遊ぶものだった。2人のプレイヤーは人と人との関係で結ばれていたし、遊び終わった後も結ばれ続けていた。それが強い繋がりであったか、弱い繋がりであったかは知らない。とにかく、赤の他人ではなかった。2人は繋がっていた。お互いはソーシャルな関係だった。

それは否定しない。それは認めるよ。ビデオゲームは、ソーシャルゲームとして生まれた。その事については否定しない。全面的に受け入れる。ようするに、僕が憎むソーシャルゲームこそが先に有り、僕等が愛したビデオゲームは後発の存在だった、って事だ。だからと言って、僕等に死ねというのか?そんな昔話を根拠に、僕等からビデオゲームを奪おうというのか?








連中はエリートだった。

マサチューセッツ工科大学の、優秀な学生だった。
誰もがうらやむ存在で、成功を約束されていた。
若さと強さを併せ持つ、素晴らしい人達だ。




「ソーシャル上等」

彼らは、そういう存在だった。
挨拶も出来るし、会話も出来る。
恥ずかしくない自分を持ってた。




だから、ビデオゲームはソーシャルゲームとして生まれたんだ。

素晴らしい物を作る。
それを褒めあう。
それで遊ぶ。
それについて語り合う。
それは彼らにとっての、コミニケーションツールだった。








けれども、僕等が頼り縋って生きてきたビデオゲームはそれじゃない。

僕等が頼りにした物は、ソーシャルゲームなどではなかった。
混じりっけ無し本物の、正真正銘のビデオゲームだった。







ビデオゲームについて誰かと語り合う事なんか、無かった。
ビデオゲームを用いて、他人とコミニケーションを取る事なんて無かった。
そんな風に、邪なことに、ビデオゲームを利用するだなんて、想像も付かなかった。

僕等にとってビデオゲームは何よりも神聖なものだった。それは、ビデオゲームという名の聖域だった。人間という邪悪な生き物に出会うことなく、人生を楽しめる唯一の場所だった。この憎たらしい人生の、呪われた醜い毎日の中で、生きている事を感謝する為の、唯一無比のツールだった。ビデオゲームを遊んでいる間だけは、自分が人間である事を忘れられた。





dota allstarsはそういう存在だった。その極北だった。
dota allstarsが齎したのは完全な世界であり、完璧な救済だった。
dota allstarsがビデオゲームであったからこそ、僕等は生き続ける事が出来た。




それは、本物のビデオゲームだった。
正真正銘のビデオゲームだった。




ビデオゲームとインターネットの完全な出会いは「人間の抹消」とでも呼ぶべき事態を引き起こした。そしてそれこそが、真のゲーマーである僕達が、心の底から望み続けてきたものだった。人間という血と肉と骨で出来た醜い無様な生き物は、ビデオゲームの世界において、手強い敵キャラに生まれ変わった。完全無欠の美しい、電子信号へと変身した。歯石が溶け込んだ臭い息も、左胸を刺す悲しみの針も、服の袖で啜る鼻水も、他の誰かへの憎しみも、我が身を削る煩悩も、全て大鍋で茹でられて、ただの電気信号に生まれ変わり、キーボードとマウスのコードを伝い、僕等は遂にビデオゲームになった。つむじから爪先まで、生きとし生ける細胞の全てが、ビデオゲームへと変換された。ただの敵キャラに変換された。




その世界で僕達は、人間ではなかった。
強くて手強い敵キャラでしかなかった。






そうなんだ。
僕等は遂に手に入れたのだ。

望まれずに生まれた。
災難として生まれた。

それにも関わらず。
存外な結果を要求された。
弛まぬ努力を要求された。

馬車馬のように働き。
結果を出し。期待に応え。
そして従順である事を求められた。




関わりたくないソーシャルの渦の中央で。
体裁を保つ為の生き物として。
話したくもない人達と。
生きたくもない人生を。
背負いたくない重荷を。
無理矢理に押しつけられた。

人間であるということは。
全ての苦しみの元だった。

人との関係というものは。
全ての苦しみの元だった。




そうなんだ。
僕等は遂に手に入れたんだ。

その世界では、人ではなかった。
強くて手強い敵でしかなかった。


俺達の苦しみは全て無視され。俺達の心は全て排除され。ただのbotとして生まれ変わった。完全無欠の無垢な存在として、邪悪さとも善良さとも関わりのない存在として、生身の体を捨て去って、電気信号そのものとして、生き続ける事が出来た。それがビデオゲームだった。それこそが、ビデオゲームとインターネットの融合だった。






その世界では、ソーシャルは不用だった。
誰との関係も必要なかった。

スタートボタンをクリックすれば、生身の体は失われ、電子信号に変換された。ただそれだけで、僕等は全てを得る事が出来た。誰とも話さず。誰にも見られず。誰とも会わず。誰も見ず。そこは人の居ない世界だった。人間関係の無い世界だった。憎しみもない、差別もない、嫉妬もない、嘲笑もない、誰もが平等で、誰もが公平な、夢にまで見た桃源郷だった。即ち完全な世界だった。マサチューセッツ工科大学の院生であろうとなかろうと、立派で善良な人間であろうとなかろうと、仕事をしていようとしていまいと、醜かろうと、美しかろうと、全てが平等だった。誰もが皆、ただの敵キャラでしかなかった。

人との関係が生み続けてきた、全ての苦しみ、全ての悲しみ、全ての痛み。それらは完全に消え去った。それどころか、苦しみや悲しみまでもが電子信号に変換され、敵キャラとしての強さや弱さに変換された。僕等は痛みを認める事が可能になった。悲しみを受け入れる事が可能になった。自らという一匹の血と肉を形作る、全ての過去を愛する事が出来るようになった。人生を理解し、楽しむことが出来るようになった。

もちろんのこと、愛など理解出来ない。
ビデオゲームの世界では、人は人で居られなかった。
ただの手強い敵キャラは、愛の存在など知るよしもなかった。

もちろんのこと、人生など楽しくない。
ビデオゲームの世界では、人は人では居られなかった。
ただの手強い敵キャラは、人生の意味など知るよしもなかった。








それこそが、僕等の望みだった。それこそが、僕等の願いだった。全ての人間が消え去った世界。全ての人間関係が消え去った世界。人間の存在しない、完璧な世界。美しい世界。痛みの無い世界。苦しみの無い世界。それだけが望みだった。それだけが願いだった。人が生き物である限り、人間関係から離れる事は出来ない。望まずに強いられた遺伝子から逃れる事は出来ない。人間関係というものは、物心もつく前に、車の鍵を投げつけられて、築港から飛び込んで来いと言われるような類のものだった。そんなものは必要無かった。人間など、不用だった。他人であろうと、自分であろうと、人間などと言う物は不用な存在だった。





ビデオゲーム。

かつてのそれは何も変えなかった。1つのチェンジも齎さなかった。人間は人間のままであり続けた。ビデオゲームをプレイするという行為は、僕等の惨めな気分を、ただ増幅するだけだった。5分、10分、20分。ビデオゲームをプレイすると、時間だけが過ぎて行った。その間中ずっと、僕等は人間だった。人間のままだった。




ビデオゲームは僕等を惨めにするだけだった。

1人の惨めな人間を、ビデオゲームをプレイする、1人の惨めな人間に変えただけだった。事態は少しだけ悪くなった。ビデオゲームを100時間プレイすれば、100時間分の惨めさが、自らの中に生まれた。100時間の間中ずっと、僕等は人間であり続けた。ビデオゲームをプレイする事で、他の何から目を逸らそうとする人間であり続けた。他の何かを忘れようとする人間であり続けた。




この広い世界には、人間である事を受け入れられる人が存在する。

その幸せを最大限に享受する事の出来る人達がいる。人として生まれた事を、喜びであると捉えられる人達がいる。けれども、僕等はそうではなかった。僕等のような、真のゲーマー達にっとて、人間であるという事は、ただ、ただ、苦しみだった。悲しみだった。痛みだった。全ての絶望の元だった。ビデオゲームはその現実を少しだけ、少しだけ、モルヒネのように忘れさせてくれた。ビデオゲームは痛覚を麻痺させる薬であり、ビデオゲームは僕等を守る盾であった。けれども、ビデオゲームは小さかった。弱かった。

そう、かつて、ビデオゲームは弱かったのだ。

一時ばかり現実世界をせき止めはこそしたが、その盾は時間と共にやせ細り、やがては砕け散って死んだ。ビデオゲームが堰き止めた現実世界の長さのぶんだけ、惨めさは巨大なうねりとなって僕等の身上に押し寄せた。僕等は過去へと遡り、ビデオゲームをプレイし続けた長さと同じだけの惨めさを、苦しみを、悲しみを、痛みを、利子を付けてまで受け取った。それが一時間であれば、1時間の分だけ。それが1年であれば、1年の分だけ。それが10年であれば、10年の分だけ。






けれども、dota allstarsは違った。

その世界では、僕等は人間ではなかった。ほんの僅かな個性を持った、ありふれた敵キャラクターでしかなかた。それは、ビデオゲームそのものだった。僕等こそが、ビデオゲームそのものだった。AIよりも少しだけ鈍くさく、少しだけ狡猾で、少しだけ軽率な、ビデオゲームそのものだった。ビデオゲームとインターネットの融合は、血と肉を持つ1人のゲーマーを、ただの電子信号へと変換した。僕は、ゲームだった。僕等は、ただのゲームだった。金無垢のゲームだった。痛みもない。苦しみもない。悲しみもない。正真正銘のゲームだった。それがdota allstarsだった。それが、dota allstarsだったんだ。









けれども、dota2は違った。

今にして思えば、浅はかだった。
今にして思えば、無邪気すぎたんだ。
dota allstarsがそうだったんだから、
dota2もそうなんだろうと思い込んでいた。






けれども、dota2は違った。

そこには、苦しみがあった。
ただ、悲しみだけがあった。
僕は涙を流しながら、惨めな気分で敵を殺した。
痛みを浴びせられながら、惨めな気分で殺された。












はじめは、dota2も同じだと思っていた。
これはdota allstarsなんだ、って思っていた。

dota2はdota allstarsの完全移植。だから同じだと思っていた。
けれども少し勝ち越して、貯金が2桁を超えた頃、光景が一変した。






気がつくと、ソーシャルゲームの真っ只中に投げ込まれていた。

ただの電子信号であるはずの、僕等の相手に選ばれたのは、5人組のフレンドだった。ゲームもコミニケーションも上手い奴らが、ツイッターやフェイスブック、あるいはスカイプやircといったような、様々なツールを利用して、徒党を組んで立ち塞がっていた。彼らはインターネットを狡猾に使いこなし、人間と人間の繋がりによって、ビデオゲームを土足で踏み躙っていた。社交的な奴らは人との繋がりを利用して、戦略的なプレイングをし、個別のプレイヤーを蹂躙していた。ゲームが上手い奴はゲームが上手い奴と結びつき、強靱な絆によって、ゲームが下手な奴を糞味噌に叩き潰していた。




敵だけではなかった。
味方だってそうだった。




僕は度々、四人組みのフレンドとチームを組まされた。

人間と人間との関係性で強く結ばれた彼らは、少しでも気に入らない事があったり、少しでも都合が悪い事が起こったりすると、ソーシャルの外側に居る人間に責任を押しつけ、人のせいにして、罵った。ソーシャルの外側に居る人間を攻撃することは、彼らにとって最も自然で最も平穏なコミニケーションの方法だった。何かを憎み、何かを軽蔑し、何かに責任を押しつける。ゲーマーと呼ばれる人達が、現実世界で行ってきた事を、彼らはゲームの世界に持ち込んだ。ソーシャルという暴力で、ゲームという聖域を踏み躙った。ソーシャルな欲望でゲームの純血を汚した。






人が人として、人と繋がる。

そんな糞くだらないゴミみたいな世界は、ツイッターやフェイスブックだけで十分だ。インターネットだけで十分だ。ビデオゲームはそうではなかった。dota allstarsはそうではなかった。そんな世界ではなかった。だから僕等はdota allstarsをプレイした。し続けた。人間である事を中止し、電子信号になる為だけに、dota allstarsをプレイした。そこにはゲームとしての面白さなど意味は無かった。面白いとか、面白くないとか、そういった事は関係無かった。そんな話では無かったのだ。ただdota allstarsがdota allstarsであればよかった。そして、dota allstarsは本物のdota allstarsだった。本物のビデオゲームだった。人間の存在しない完璧なインターネットだった。完全な世界だった。パーフェクトなワールドだった。だからこそ、僕らは一粒の涙も長さずに、dota allstarsをプレイし続けた。全ての感覚を消し去って、電子信号になりきった。








人間である事を止められる世界。
人として生きる事を中断出来る世界。
1人の人間も存在しない世界。
それがdota allstarsだった。






けれども、dota2は違った。

dota2は、mixiだった。
dota2は、ツイッターだった。
dota2は、フェイスブックだった。
ただのソーシャルネットワークだった。






ビデオゲームは利用される。
ソーシャルネットワークの為に利用される。

人間関係が「人間関係である」という事実だけでは人を集められなくなった時代が訪れた。現金に貪欲な糞野郎どもは、ビデオゲームに目を付けた。人間関係という地獄の鋼の強靱な鎖で、人を繋ぎ止める為に、彼らに現金をもたらすユーザーを繋ぎ止める為に、ビデオゲームに目を付けたのだ。そしてとあるビデオゲームを完全にコピーして、ソーシャルゲームに造り替えた。それが、dota2だ。ゲームとは名ばかりの、ソーシャルゲーム。それが、dota2だ。その世界で価値あるものは、人間関係だけだった。

人間関係により強さが決まり、人間関係により上手さが決まった。誰との繋がりを持たない僕達は、殺されるだけの存在だった。僕が生きられるスペースは微塵もなかった。僕の居場所はどこにも無かった。コミニケーション能力に長けた奴らは、強い奴らと結びつき、インスタントに手軽な強さを手に入れた。強い奴はソーシャルを利用し強い奴らと結びつき、さらなる強さを手に入れた。ビデオゲームは殺された。ソーシャルによって殺害された。ビデオゲームは死んでしまった。人間と、人間だけが生き残った。この世は地獄だ。地獄でしかない。






valveが目指したのは、ビデオゲームではなかった。
valveが作ろうとしたものは、ソーシャルネットワークだった。




ソーシャルネットワークは金になる。
ビデオゲームは金にならない。




それだけの理由で、ビデオゲームは殺害されたのだ。
たったそれだけの理由で、ビデオゲームは殺されたのだ。




世の中は、金だ。
金が全てだ。





金さえあれば、好きな人に会いに行く事だって出来ただろう。金さえあれば、好きな人を助ける事だって出来るだろう。金さえあれば、生まれた時点で無理矢理に押しつけられた人間関係から、離脱する事も出来ただろう。けれども、僕には金が無かった。最も必要だった時に金が無かった。1円の現金もなかった。だから僕はdota allstarsの世界に逃げ込んだのだ。自ら望んで人間である事をやめたのだ。電子信号として生まれ変わったのだ。ビデオゲームの世界を生きる、ただの敵キャラになったのだ。その聖域は、その世界は、金のために汚された。もはや完全に、失われた。

人と人との絆が、人間と人間の繋がりが、全てのインターネットを埋め尽くした。世界は人で溢れ、それ以上に人と人との繋がりで溢れた。目には見えない無数の鎖が、ソーシャルによって可視化され、僕等の行く手を遮った。それどころか、僕等の首を締め付けた。ここは地獄だ。インターネットは地獄だ。人間しか居ない。人間しか居ない。









ゲームを返してくれ。
僕にゲームを返してくれ。

ゲームが好きだったんだ。ゲームだけが好きだったんだ。人間なんて、いらない。人間関係なんて、いらない。そんなものは、はじめから、必要としていない。ただゲームだけがあれば良かったんだ。ゲーム無しには生きてはいけない。僕1人では生きてはいけない。dota allstarsを返してくれ。dota allstarsから出て行ってくれ。dota2なんか、僕等は一度も望んじゃあいない。dota allstarsをコピーして、それにソーシャルを付け加え、これがdota2です、なんて言われても、どうすればいいかわからない。死刑宣告にしか聞こえない。ソーシャルなんていらないんだ。人間なんていらないんだ。その為のゲームなんだ。その為のビデオゲームなんだ。ソーシャルの醜い血と肉で、ソーシャルの臭い視線と息で、ビデオゲームを汚さないでくれ。お願いだから出て行ってくれ。ビデオゲームを返してくれ。