2005年6月29日水曜日

体験談



インターネットが少しずつ、体験談による侵食を受けている。


とろけるようにスイートだとか、coolでpopなコマ割りだとか、金だ女だウハウハだとか、10日で2キロも減ったとか、果ては頭が良くなったとか、体験談が溢れ出している。これまではギャンブル誌やコーディングされた藁半紙の黄色い財布、深夜番組の終わった後やデビッドマニングの専売特許であったものが、あちらこちらで増殖し、見渡す限りを覆っているのである。




体験談が増え続けるのには理由がある。
簡単な理由である。
体験談は、馬鹿でも簡単に書けるからである。






愚者が歴史を語り、馬鹿が体験を語る。
それが所謂ブログである。実にアフィリエイトだ。



紐付き体験談の増殖は、その作成の簡単さに起因するが、それだけが理由ではない。体験談は効果があるから増えているのだ。事実、保険や映画や洗剤や、本や車や化粧品、ありとあらゆる宣伝に体験談という形式が使用され、それ相応の成果を上げている。
体験談は、大衆から信じられるのだ。




どうして、体験談は効果があるのか。
なぜ、人は体験談を購入のトリガーとして使用するのか。






答えは明確。馬鹿だからだ。
世界は馬鹿で満ちあふれているからだ。

馬鹿が作った体験談を馬鹿が信じて馬鹿が買う。
得をするのも馬鹿ならば、損をするのも馬鹿だ。馬鹿物連鎖の構造である。









それだけではない。もっと根本的な理由がある。
人が体験談を信じるのは、馬鹿だからというだけではない。





人間とは、信じる生き物なのである。
疑うようには出来ていないのである。


プラシーボ効果を持ち出すまでもなく人間は、人間という生き物の口から出てきた文章を、信じるように出来ているのである。他人の言葉を生きる力へと機械的に変換し続ける単調なシステム、それが人の心というものである。

その生き物としての習性を詐欺師という詐欺師、宗教家という宗教家、神という神が利用して舌先三寸で私利私欲を貪る。その末席に列を成して、殺到するのがブロガーだ。教祖の腐ったようなやつだ。


紐付きの体験談を語るという事は、紐付きの雌のオニヤンマをぶん回すのと同じである。人間の人間性の根源たる所、人間を信じるという習性を利用し現金と充足へと返還する、非人道的行為である。




さらにもう1つ言うならば、ブログ体験談とは幻想商法である。
ブログとは、自身に都合のいい事のみを取捨選択し書き綴る、ブロガーによるブロガーの為の巨大な専用劇場である。当人が書きたくないと判断した事柄は絶対に書かれる事は無いし、書きたいと思った事は必ず書かれる。「これは書かないでおこうと思っていたんだけど」などと自分語りを始める始末の公開オナニーだ。

その、好都合な話のみで構成し作り上げたブロガーという架空の人格、虚像のイメージを利用して、読者に体験談を売りつけ、「これを買えば俺みたいになれるぜ」とやるのが、ブログにおける体験談商法の正体である。



ブログを通じて美食家のクールで知的な優しいお兄さん、みたいなイメージを作り出してハイクオータニアンぶりながら韓流ドラマの感想みたいな糞ブログを毎日毎日飽きもせず性懲りもなく書き垂れ流し続けているような奴らは実は、ライフガード片手にババネロを貪りながら水無月十三で涎を垂らしているような、社会のゴミの爪弾かれだ。



即ち、ブログが嘘、つまりはブロガーの書きたいことを好都合に書き綴る場所である限り、そこで語られる体験談とは、全てはブロガー自身がエントリーを通じて演出したい自分の姿という詐称に基づくものであり、自らを偽り幻想化する事を通じて読者のコンプレックスを金に換える行為である。イコール即ち、ビガーパンツで両手に花なやり口である。実に屑だ。








その紐付きの体験談は、形を変えて進化しながらやがて全てを覆い尽くすであろう。
そう。体験談は進化しているのである。



かつて、体験談は売りたい奴がねつ造するものであった。
「大島和也(24歳)このアクセサリーを身に付けてから彼女も出来てウハウハです!」
みたいなやつだ。ダブや洗剤のCMや、深夜の通販番組のように、実は1ユーザーでは無い人間を1ユーザーであるかのように演出し、体験談を語らせるという手法である。
この時点では、体験談とは明らかな、誰にでも解るでっちあげであった。ピンクの電話やたかたの社長やユニクロTVの出演者が、その品物の品質に本気で感動したリアクションを体験談として語っているとは誰も思っていない。それは種明かししながらも、他人の言葉を信じるという人間の習性を利用した、1つの商法だったのである。


それが少し進化して、「大勢に語らせて都合のいい物だけを編集する」という形へと変わった。映画の試写会や、店頭での試飲のCMのように、アンケートや投稿の中の都合のいい物だけを抜き出し、「本物の体験談」を恣意的に編集して宣伝行為に利用するというものである。


そこからさらに進化したのが「既に言葉の送り手として信頼されている人間に体験談を語らせる」というやり方である。それが所謂ブロガーに、日銭を掴ませ紐付きの、果ては野菜を握らせて、体験談を語らせるという手法である。


組織として行われたコマーシャルは、組織と個人の間に横たわる心理的障壁を乗り越えなければユーザーにまでは届かない。「信じる/信じない」の土俵には上がれず、「イメージを刷り込める/刷り込めない」の2択の情報として、右から左へ流され消費されるのである。TVのニュースは疑うは、2ちゃんねるの投稿は嘘半分で達観しながら検証もせずに盲信する、という「俺賢い」の論理である。
その、組織と個人の壁というマジノ線を右から迂り、個人の側から消費者を攻撃するというのが体験談商法の肝である。顔と口を通じて行う事で「信用する/信用しない」という他人への敬意問題、人と人との信頼関係へと論点をずらし、仲間を装い後ろから、差し込む奇襲の攻撃である。




ブログに蔓延る紐付きの体験談の増殖を止める術は誰も持たぬし、これからどんどん次々と、嘘大げさな紛らわしすぎるリアクションが人の手によりでっち上げられ、全てを埋め立て覆うであろう。なにしろ、データや推敲や、検証の末の思慮を経て、真面目に書かれた文章よりも、体験談という様式で、感想を適当そのままに捻る事なく無責任に書き捨てられたエントリーの方が、言霊として信頼され、信じ買われるからである。







正しく今や我々は、1億総上島竜平時代を生きているのである。