2005年6月26日日曜日

2通り



本音と建て前、愛と色、嘘と誠に善と悪。

複雑に見える事柄は、複雑にしたい人達が複雑に見えるようにと躍起になっているだけであり、実のところは単純である。どういう事でも大体は、大きく2つに分けられる。


その分けられた2本の柱のどちらかに必死になってしがみつくのか、あるいは忍者龍剣伝やレッドアリーマーのように器用に両の柱を都合良く、交互に踏み台に利用して、上へ上へと演じるのかは人それぞれであり、どちらが悪いでも良いでもない。蝙蝠が飛ぶのは日が陰ってからだ。




僕の日常にも2通りのものが分けられ隔てられ、それぞれ別個に存在している。PCの電源が入っている時間と、PCの電源が入っていない時間である。

今現在、その2つの時間の間を行き来すること、即ちPCの電源ボタンを押すという作業は、ナポレオンが栄光か挫折かの時間を選択する行為、即ち戦争に等しい。戦争である。


栄光か挫折かの2つであれば、栄光を望んでボタンを押すのが当然なのだろうけれど、歪んだ熱風を部屋中に響かせるそのボタンを押し入れる事と、押し消す事のどちらが自分自身の人生にとって行うべき事なのかを判断するのは困難で、ただ夜が来れば電源を入れ、夜が来れば電源を消すという肉欲的な日常が、ただ淡々と過ぎてゆく。




ある日、それが湧かなかった。

頬を走る筋や四肢が意志とはかけ離れた場所を勝手気ままに揺れるばかりで、身を起こしスイッチを入れ腰掛けるという単純な切り替え作業が行えず、仰向けに転がったままで天井と床板の間を見ていた。

季節の強さからなのか肺の弱さからなのか、あるいは別の理由からか、鼻から空気を吸い込む事が出来ず、口から息を吐き続けていると、あっという間に隠し扉で密閉された部屋中が、自分の息で満たされた。

富士の地層や活性炭を通った水が美しいのとは正反対に、生ゴミ捨て場を伝った雨や、積まれたタイヤの燻りから流れ出すそれは、同じ水であるのにとても汚い。


朱に交われば赤くなり、息を吐けば部屋が汚物で満たされる。
バンドエイドの漂う県営プールに額まで沈められ、浮かばぬように上から押さえつけられているのと同じ息苦しさが身を包む。エラ呼吸でも出来ればよいのだろうけれど、それ程までに器用ではない。


吐く息は全て汚く、浮かぶ言葉は全て醜い。
最後の秘境は1秒、1秒消える。消えてゆく。
美しくなりたい、などと過ぎたことを言うつもりはない。

ただ、願わくば汚さをものともしないだけの強さが欲しい。
汚水を泳ぐイナの群れや、埼玉を飛ぶハヤブサのように平然と、街角に立つ娼婦を引きずり殺したその足でバーへ繰り出すくらいの、至る所にありふれた、人並み程度の強さが欲しい。