2005年6月24日金曜日

人を幸せにするゲーム



良いゲームとは何だろう。

面白い、楽しい、夢中になる。
そういうゲームが一般的に、良いゲームだとされている。




けれども僕は違うと思う。

人を幸せにするゲームこそが良いゲームであると考える。







人を幸せにするゲームとは何であろうか。
享楽ではなく幸福をもたらすゲーム。
これがどうにも、思い浮かばない。




ゲームというのはかなり異常な娯楽である。
極めて長い時間モニタの前に1人隔離され、拘束され続ける。
それを彩るものなんて、精々ジャンクフードと怒号くらいだ。
その点で、ゲームとは非人間的な孤独な趣味であると言える。




「違うよ。ゲームの話とかしてコミニケーションしたりするんだよ!」などと、ゲームがいかに人間的、あるいは標準的な娯楽であるかを語ろうとする奴らは全員エセゲーマーだ。つまり、そういう奴らはゲームなどではなくて、映画だとかデスメタルだとか月9だとかベリーズ工房といったようなどんなものでも同じように消費していた人間である。たまたまゲームに出会っただけであり、必然ではない。エンドウマメとムギの区別もつかないような人達だ。






となると、やはり、迷う。
人を幸せにするゲームとはどのようなゲームなのだろうかと。
それこそが良いゲームであるのに、それが思い浮かばない。

ゲームなんてせずに、その時間を他の事に費やしていた方が人は幸せになれるのではないか、という懐疑心が芽生えて消えない。モニタの前に人を縛り付けるだけの合成麻薬ではないのか。本当に「ゲームで幸福を得た」などと言える人間がこの世の中には存在しているのだろうか。

といった事を考えていると、ふと浮かんだ。






幸福とは結果である。

つまり、幸福である人間の過去の人生における全ての行動は正当化される。
失敗も恥も失恋も、後悔も懺悔も愚かさも、「それらがあったからこそ今の幸せがある」と解釈する事が出来る。ゲームであれば、「ゲームがあったからこそ今の幸せ、今の人生がある」となるのである。





つまり、人を幸せにするゲームなどというものは存在しない。
幸せな人と、そうでない人がいるだけである。


幸せな人にとってゲームとは全て「人を幸せにするゲーム」であるし、
そうでない人にとってゲームは全て「人を不幸せにする」ものである。





とすると、ゲームというものを素晴らしい娯楽であると位置づけ、正当化したいと考えるゲームを愛するゲーム好き好き人間に与えられる至上命題とは、「幸せになる事」なのである。



同様に、人様にゲームを薦める場合は、その対象者が「幸せになりそうな人間」であるか、「不幸せになりそうな人間」であるかを良く見極め、幸せになりそうな人間のみを選んでゲームをプレイしろと薦めるべきである。

無差別にゲームをばらまき薦めるという行為は、極めて非人道的であり、ゲームの為にもならないし、人の為にもならない。


自らが幸せであると迷い無く言えないようなゲーマーは、ゲー敵にゲームを攻撃する論拠を与えているようなものであり、森昭雄の送り込んだスパイであり、ゲームの敵である。





ゲームは人を幸せにすべきであり、ゲームは人に幸せをもたらすべきだ。
即ち、ゲーマーは1人残らず今すぐに「幸福である」と胸を張らねばならぬのである。