2005年6月3日金曜日
もしもの話。
もしもの話。
壮絶なコストを支払って書かれた文章の中に「コストを最小に!」という文字列を見つけてしまったら対応に困るだろうな。というか、突っ込まずにはいられないだろう。壮絶な自虐ネタなんだろうかと頭を悩まさずにはいられないだろう。正確に言えばコストを最小にする人に壮絶なコストを支払わせるに至らしめた真性引き篭もりhankakueisuuさん死ねひい堪忍なひい堪忍。
もしもの話であり、そんな機会は絶対に訪れないだろうけれど。
求める物が違うのである。
「論破して泣かせる」「正直に言う」「嘘をつく」「説き伏せる」「信者に崇められる」「口説き落としてGETする」「PVを稼ぐ」「アフィり稼ぐ」、人それぞれ。そして、その目的を異にした人と人とが正面からぶつかってしまうのがインターネットの面白さであり、それは同時に恐ろしさでもあると思う。
論破する事を目的としている人が他のブログと出会ってしまうと、一方は論破しようと滅茶苦茶になり、一方はPVを稼ごうと滅茶苦茶になる。だいたいからして、僕思ってませんから!ってそんなの知ってるっちゅうに。極めて不毛。非生産的。どちらが悪いというわけではなく。
僕がブログを書いているのは論破する為でも説き伏せるためでもなく、hankakueisuuでいる為である。演じるのではなくて、そのままで居続ける為だ。つまり、正直に思った事をフルパワーでnelfせずに全力で書く。理想を書く事もあれば、そうでない時もある。
「後ろめたさ批判」は理想について書いたものであるし、知らないどこかのワールドウェブで至って生真面目なホームページを運営している誰かが後ろめたさを取りやめて、堂々とアフィってくれたらいいな、くらいの希望も込めた。
理想と議論と結果と日記は、全て別次元であり適当な距離が必要だと思う。
だからしてトラックバックもしっかりと送らなかったのだけれど、文中でさんざんタグを挿入したり、表題を「あさましさ批判批判」から変更してしまったりと、直接的言及のようになったのは失敗だったな、と反省しているところです。接点が無いはずの人間を材料として使ったつもりが、接点となってしまうのが怖いところ、というか面白いところ、というか。人間の屑が発見されてしまう前から感じている所。後ろめたさ批判とは後ろめたさという行動を批判しているのではなくて後ろめたさという何か、何か。書いている内に少し整理出来ずにこんがらがってしまって、わけわからんくなって酷い文章。ブログが人を幸せにするものであればいいなくらいの理想は持ってます。