2005年6月8日水曜日

人生はゲームだ。



人生はゲームではない。
もっと美しく素晴らしいものだ。
















ゲームは素晴らしい。
今更僕が言うまでもない。

素晴らしいゲーム、それは素晴らしいルールだ。
素晴らしいルールのあるゲームは素晴らしい。



上から6種類のブロックが降ってきて、横に一列揃うと消える。
素晴らしい。実に素晴らしい。赤ぷよと黄ぷよが一緒くたに落ちてくる事なんて無いし、インベーダーが右往左往に攻め寄せる来る事も無い。素晴らしい誠実さだ。







ゲームは美しい。
今更僕が書くまでもない。

素晴らしいゲーム、それは素晴らしいルールだ。
ゲームにおいてルールははじめに提示された姿のままで、形を変える事は無い。
美しさ誠実さだ。初志貫徹に二言無く、反故にするなどありえない。




つまりゲームは美しく、即ちゲームは素晴らしい。
ゲームとは法であり、ゲームとは秩序だ。
法と秩序の具現化した姿だ。









対して、人生は醜い。

仮にルールがある人生というものが存在したならば、それは疑う余地の無い素晴らしさと、揺らぎ無き美しさを兼ね備えたものであろう。そんな人生、見たこと無い。

即ち、人生は醜い。
見るに耐えない忌々しさだ。
なぜならば、人生にはルールが無い。




眼鏡を掛けた美少女が上から降っくる事など無いし、消したいものは消しても消えない。そうではない。確かに、そうではない。
人生にもルールはある。
当人が作るルールである。








言い換えるならば、人生はゲームだ。
ルールを作るゲームだ。



遊んだら勝ち、遊ばなければ負け。
笑ったら勝ち、笑わなければ負け。
怒ったら勝ち、怒らなければ負け。
楽しければ勝ち、苦しければ負け。
そのルール。


遊んだら負け、遊ばなければ勝ち。
笑ったら負け、笑わなければ勝ち。
怒ったら負け、怒らなければ勝ち。
楽しければ負け、苦しければ勝ち。
好き放題だ。



逃げるが勝ち戦うが勝ち、追うが勝ち。
寝れば勝ち、起きれば勝ち、やれば勝ち、やれば勝ち。
思いのままに変えられる。
制約なんて、なにも無い。



そして、その「ルールを変えるゲーム」は機能していない。
何故ならば、それは「ゴールを変えるゲーム」に他ならないからだ。









足元にまでゴールを移動させ、ボールを蹴り込みカズダンス。
それが人生というものの正体だ。
そんな三浦知良が見たいか?


アツやエムボマに「ちょっとゴール運んで来い」と命令するカズ。
彼ら残りの10人が額に汗して運んできたゴールに向かってボールを蹴り込み得意げに踊る三浦知良を見て素晴らしいと思うか?美しいと思うか?そんなの見たいと思うか?それ以前の問題として、ヴィッセル神戸のゲームを見たいと思うか?
見たくないだろ。見たくない。絶対に見たくない。






つまりサッカーは美しく、即ちサッカーは素晴らしい。
実に美しい。何故ならば、サッカーには明確なルールがある。
ルールに基づき審判が、黒上げたら黒、赤を上げたら赤。即ちそれは美しい。
サッカーボールとは法と秩序が縫い上げられた、インド生まれの丸いコアだ。


仮に動かなかったゴールマウスのカズダンスと同じくらいの人生が存在したならば、それは動かなかったゴールマウスのカズダンスと同じくらいの人生と同じくらいに素晴らしいものだろう。同じくらいに美しいだろう。けれども、そんな人生見たことが無い。



美しいゲームとは美しいルールだ。
素晴らしいゲームとは素晴らしいルールだ。
美しいルールや素晴らしいルールはルールとして君臨し続ける。
それは変化する事が無く、変化するのはプレイヤーの道理のみである。

人生が美しくないのはルールが存在しないからだ。
人生は往々にしてプレイヤーの道理のみが変化する。

美しいルールは都合のいいルールへと運び足元ねじ曲げられて、
素晴らしいルールは日常という生活によって改訂され続ける。
即ち、人生は醜い。





ルールを変えるという事。
それは、イコール醜さではない。

昔、サッカーは今とは違った。
ゴールの前で待ち伏せても良かった。
ある時大きくルールが変わり、オフサイドというルールが出来た。
サッカーは大きく変わったけれど、その美しさは色褪せなかった。
なぜならそれは、競じる両者に平等に、当てはめられたからである。


けれども人生において変更されたルールが両者に平等に適用させる事などありえない。変更されたルールの影響を被る両者とは、その人自身の過去と未来の2者だからである。








「変わったね」「君も」「貴方も」

違う。
変わったのはルールである。「この人と結婚したら勝ち」などと、定め決められたルールでさえも、よりよい人が現れたなら、見るも無惨に揺らいで消える。変節返心、心変わりだ醜さだ。一貫性などまるで無い。




美しい衣服と美しい肉。
ルール、
時間、
ルール。
美しい生活と美しい子供。そして、美しい思い出。

ゴールマウスを運ばせただけだ。
手の届く範囲にルールを持ち替えただけである。









その点、女は男より美しい。


美しい金と美しい生活。
ルール、
時間、
ルール。
美しい金と美しい生活。そして、幾分かの後悔。

男も女も中間さんも、ゴールマウスを運ばせただけだ。
人生は忌々しい。
醜くそれは軽率だ。












けれども、である。
美しい人生は存在する。
素晴らしいもどこかにある。

それは、過去と未来の両者に同じルールが適用される人生だ。
物心が付く前に見た夢をそのまま変えずに持ち越して、さらに後から付け加えたルールも1つ残らず持ち歩き、そのルールの中でゴールを目指して最後までプレイする人生。

それはきっと美しい。
それはきっと素晴らしい。




人生は自由だ。
美しくするも自由、素晴らしくするのも自由。
また、醜くするのも忌々しくするのも自由である。

多くの人の人生に美しさが足りないのと同じくらいに、ゲームには醜さが足りない。ゲームの美しさがルールという不自由さに依存しているのと同じくらいに、人生の美しさは自由に依存している。人生は自由だから美しく、人生は自由であるから素晴らしい。

何をするのも好き勝手だ。
ルールを都合良くねじ曲げるのも自由、ゴールを足元まで運ばせるのも自由、ゴールを異国の遠くまで運び去らせるのもまた自由だ。引くも進むも踏み止まるも、1つの偉大なノーホールズヴァーリトゥードだ。目を瞑るのも、はしゃぐのも、踊るも歌うも泣くも笑うも、なんでもありだ。なんでもありだ。好きも嫌いも信じるも、裏切り果てるも思いのままだ。愛するも憎むも好き放題だ。素晴らしく自由であり、美しく自由である。
















人生は素晴らしい。
今更僕が言うまでもない。

人生は美しい。
今更僕が書くまでもない。



自由だ。
ルールもゴールも意のままだ。