鮫とマンボウのサバイバル



「鮫のように生きたいか、それともマンボウのように生きたいか」とはまた、理不尽な問いである。僕は人であり、鮫でもなければ、マンボウでもない。「蒲鉾になれ」と命ぜられてもどだい無理な話であるし、「寿司になれ」と命ぜられても不可能である。「どちらのように生きたいかと問うているのであり、どちらのように死にたいかなどとは、問うておらん」と言われるやもしれぬが、生きるとは死ぬ事であり、死ぬとは生きる事なのである。驚くべき事に、死なないものは生き物ではなく、死ぬものは皆、生き物である。しかし、これでは話が進まない。

100歩譲って鮫が良いか、それともマンボウが良いかという事について、真面目に考えてみようという所までは行った。随分と前進したものである。しかし、これがまた難しい。僕は鮫について何も知らないし、マンボウについても何も知らない。知らないものと知らないものとを比較して、「どちらが良い」などとは言えぬ。言えぬのだけれど無理矢理に、話を進めてみようと思う。時には強引さも必要なのだ。男はみんな狼なのだ。(男は狼ではない。)

鮫とマンボウの最大の違いは何か。それは「生まれ方」だろう。鮫は卵胎生である。一方のマンボウは卵生である。この相違点に比べたら、他の差異など小さなものだ。つまり「鮫のように生きたいか、それともマンボウのように生きたいか?」という問いは「卵胎生か、それとも卵生か?」という問いなのだ。これで随分とわかりやすくなった。考えるに容易い。

いや、考えるまでもない。鮫である。そんなもの、考えるまでもなく鮫である。いったい誰が「私はマンボウが良い。マンボウのように生きたい。」などと言うだろうか。そんな事を言う人間がいるとすれば、それは狂人である。物事というものを理解できない、狂ってしまった完全に、頭のおかしな人間である。いったい誰が1メートルもの強靱な肉体を横目に、1ミリにも満たない大きさで大海原に放り出される事を選択するだろうか。いったい誰がそのような理不尽なサバイバルを願うのだろうか。

人は皆臆病で卑怯な生き物であるからして、常に鮫のようにあらんとする。けれども、もちろん、そうは行かない。鮫のようにある鮫はただの鮫であるが、鮫のようにあらんとする人はただの薄汚れた人である。希望は常に、薄汚れている。