2008年3月12日水曜日

コメントに対して全返レスを行う事にしたその日に酷い目にあった。



ふと思うところがあって、コメントは全身全霊全力を以て読むけれども返レスは書かないという方針を変更して、コメントに対しては誠心誠意全力を以て返レスを返す事にしたその日に「うつ病じゃないでしょうか?」っていうコメントがついて、そのコメントに対して全力を以て


ブログを書いていて強く感じているのは、適当なブロガーを引っ張りだして「病んでる」と書くのは、とても簡単な事だ、という事です。具体的に名前をあげるのは憚られますが、梅田望夫でも、雪舟でも、白鳥百合子でも、otuneでも、いくらかの道理に適った「病んでる」というコメントやエントリーを書くのは非常に簡単です。その対象がブロガーではなく、日本、アメリカ、あるいはトルコやデンマークや中国といった国であっても「病んでいる」と書くのは非常に簡単です。もちろんトヨタや任天堂、シティバンクやソニーといった企業を「病んでいる」と書くのはそれ以上に簡単な事でしょう。生き物というのは自ずから病むものだからです。病んでいて当たり前なのです。鳥に対して「あなたは鳥です」という事や、鉛筆に対して「これは鉛筆です」というのと同じくらいに、何かに対して「これは病んでいます」というのは簡単な事なのです。


当たり前の事を当たり前に書くというのは正しいコメントであり、正しいブログなのです。それは正しい姿です。しかし、インターネットの上で他人を「病んでいる」と書いている人の多くは、「当たり前の事を当たり前に書いている」のではなく、「いくらかの道理に適った発言を行う機会」というものを卑しく貪っているだけにすぎないと僕は感じており、それ故に「人様に対して<病んでいる>と書くことは、不退転の覚悟無しに行ってはいけない」と考えており、それに従っています。


誰かを(何かを)「病んでいる」と書くと言うことは、100%こちらに分がある(万物はすべて病んでいるといくらかの道理を持って言えるものですから病んでいるという指摘に正当性があるのは当然)その「当然至極の正当性」という「卑怯性」に見合うだけの失態、即ち「自ら己自体の病み」を「病んでいる」という指摘に含める事により、「当然至極の正当性」や「卑怯性」を逸する、薄める必要がある、というのが僕の古くからの訓なのですが、これは非常に難しいものです。能無しの無職が理詰めで論立てて、きわめて道理に適った形でゲイツを「病んでいる」と言い、「まあそういう俺も病んでいるのは確かだが」と書いたところで、人々に残るのは理詰めで論立てて道理に適った形で提示された「ゲイツは病んでいる」という事実だけでしょう。


少し話しが逸れた感はありますが、あなたの言う「うつ病」とはどのような「病み」を指すものなのか、そしてどこをどう読んで「うつ病」であると判断なされたのか説明していただけませんか。さすがにそのコメントだけではコメントのしようがございませんので。



という返レスを入れたら、さあ大変。






「私自身長年うつ病を患っており」とか「数年前からは躁うつ病となり、今うつ期です」とか「何度か自殺未遂を図ったこともあります」とか、「婆心ながらご忠告した次第」とか「うつ病者の戯言です」とか「私はうつ病(躁うつ病)になって良かったと思える瞬間があります」とか「あなたも実社会に出てみれば病んでいる人の気持ちが少しは分かるかもしれませんね。」とか「どうぞお大事に。」といった具合に自分語りの御高説が始まるという酷い目にあった。「頭のおかしなコメンテーターに居座られたブログの管理人はどうするべきか。こういうのって次から次へと沸いてくるな」的展開。助けてブログ魔王!(注釈:ブログ魔王はコメント欄閉鎖済み)





現実的に言うと一月に一度まとめて返レスとかだけれど、コメント欄で「ブロガーと外様コメンテーターのはなしがなりたっている」状態のブログは確かに存在するし、そうなるまでの間に「頭のおかしなコメンテーターとの徒労でしかないやりとり」というものも目にしてきたので、これは真面目に返レスを返す事にしたブロガーが乗り越えなければならない壁なんだろう、とも思う。


コメントに対する返レスが行われているブログのほとんどは、身内主義で外様をあしらうか、絶対王制で身内も外様も見下して(ブロガー←→コメンテーターという立場的に見下して)あしらうかのどちらかで、外様コメンテーターとの「はなしがなりたっている」コメント欄はほとんど無いから。返レスはするけれど「おまえらとはなしをする気はない」という逆方向はコメント欄閉鎖や放置より悪いものだし。