2008年3月16日日曜日

身内読者を苦痛に感じるブロガーと、よそ者読者を苦痛に感じるブロガー。



ブログを苦痛に感じるブロガーが大勢いる事だけは、動かしようのない事実だ。インターネットは打ち棄てられたブログで溢れており、今日も一人、また一人と、ブログを無惨な廃墟に変えて、見えない世界へ逃げ出してゆく。








ブログとは、「どういうこと」なのか。

世の中幾らか多くの人は、ブログとは「書くこと」であると捉えている。けれども、それは、間違いである。ブログとは、「書くこと」ではない。

「書くこと」とブログとの間には決して埋める事の出来ない壁が存在しており、ブログを「書くこと」だなんて言い表すのは適切ではないし、同じように書くことを「ブログ」と言い表すのも、間違いである。

書くことではない。
では、何か。単純な話である。
ブログとは、読まれることなのである。






ブログを苦にするブロガーに苦痛を与えているもの。
それは「書くこと」ではない。
「読まれること」なのだ。

読まれる事を苦痛に感じたブロガーが、その苦痛に堪えかねて、自らのブログを打ち棄て、蜘蛛の子を散らすようにmixiだとか、オフ会だとか、ゲームだとか、セックスだとかへ、逃げ出しているのである。読まれることを、嫌がって。






もちろん、書くことを苦痛に感じる人もいるだろう。少なからず存在するだろう。けれども、そういった人は、好き好んでブログを開設したりはしない。好き好んで開設されたブログから人が逃げ出してゆくのは、「読まれること」に堪えられなくなった結果なのである。

ブログとは「書くこと」であると誤認し、「書くこと」ならば任せておけとばかりに喜び勇んでブログを開設した人間が、ブログとは「読まれること」なのだと気がつき、それに堪えられなくなる。そして逃げ出す。

それは取り立てて書く程の悪い事態ではないし、誰が悪いわけでもない。ただ、ワールドワイドに横たわる、打ち棄てられたブログの山は、失われたものの大きさを、「読まれること」たるブログの闇を、僕らにまざまざと見せつける。






「読まれること」の最大の問題点は、「誰に読まれるか」が指定出来ない点にある。職場の上司に読まれるかもしれないし、親兄弟に読まれるかもしれない。恋人の読まれるかもしれないし、ニュースサイトの運営者に読まれるかもしれない。当たり屋ブロガーに読まれるかもしれないし、古い友人に読まれるかもしれない。そして、彼らに、「どのように読まれるか」も同じように指定できない。

愛する人に頬をすり寄せられる事を苦にする人は多くはないが、福田康夫に頬をすり寄せられる事を喜ぶ人は、皆無である。同じ事がブログというものにも言えるのである。

誰に、あるいはどのような人達に読まれるかを指名する仕組みはブログには無い。「ブロガーが想像もしていなかった読者」が28Kのコードを伝って遠路遙々現れて、好き放題に、読んでゆく。人はそれを苦痛に感じ、ブログから逃げ出すのである。




ブロガーは、誰に「読まれること」を望むのか。
そして、誰に「読まれること」を苦痛に感じるのだろう。

それは、人それぞれである。
ただ、1つだけなんとなく、断言できる事がある。




身内の読者に読まれる事を思い描くブロガーは、よそ者読者に読まれる事を苦にする。いっぽうで、よそ者読者に読まれる事を夢に見るブロガーは、身内読者を苦痛に感じる。

身内読者というのは、「なんらかの共通項を持つ読者」の事である。たとえば、「同じ会社で働く」という共通項を持つ読者は身内読者の一種であるし、「同じ屋根の下で生活している」という共通項を持つ読者もまた、身内読者の一種である。「同じ趣味を持つ」という共通項を持つ読者も身内読者の1つであるし、「同じ職業」という共通項を持つ読者も、身内読者の1つである。






ブロガーがブログにおいて感じる苦痛。
ブログ苦痛。

ブログ苦痛の正体は、「想定していなかった読者に読まれること」である、というのがひとまずの、第一の結論である。今更僕が下記示すまでもなく、この第一の結論は見窄らしい穴だらけの役に立たないかかしに過ぎない。




僕が考える「ブログ苦痛」とは、もっと他の、別のものである。
ブログ苦痛の本当の正体。それは、読者と読者の挙動の不一致である。




読者と読者の挙動の不一致。

よそ者読者のように振る舞う身内読者。あるいは、身内読者のような振る舞いを見せるよそ者読者。彼らこそが、ブログ苦痛の正体なのだ。




即ち、福田康夫イコールブログ苦痛なのではない。福田康夫自体は、ブログ苦痛ではないのだ。頬をすり寄せる福田康夫こそが、ブログ苦痛なのである。

福田康夫という読者の存在自体は、ブロガーにとっては苦痛ではない。その存在自体は、ブログ苦痛とは無縁である。しかし、福田康夫が恋人のように優しい笑みを浮かべながら頬をすり寄せる振る舞いを見せた時、ブロガーはそれを苦痛に感じる。

先輩面をして人生訓を語りを始める福田康夫。キャバクラ嬢のように膝に手を置き微笑みかける福田康夫。阿吽通ずるチームメイトのようにハイタッチを迫る福田康夫。肩と肩とがぶつかっても素通りしてゆく福田康夫。そんな康夫と康夫の積み重ねが、人をブログワールドから追放するに至るのである。

逆もまた然りである。微笑みながら頬をすり寄せあう仲であるはずの読者が、論立てて理詰めで正論を振り回しながら玄関の小石を箒でザッサ、ザッサと掃き始める振る舞いを見せたとき、ブロガーはそれに堪えきれなくなる。ブログとは、人間をブロガーへと変貌させる道具ではなく、身内をよそ者読者に、よそ者を身内読者に変貌させてしまう、悪魔の道具なのである。





もちろん、それを別なふうに、「ブログ苦痛における"読者"とは、他ならぬブロガー自身であり、読者として振る舞う自らの視線に、書き手としての自らが堪えられなくなる」と身も蓋もなく書き表す事も可能である。

書き手であるはずのブロガーが、よそ者読者の目線で自らのブログを読んでしまったり、身内読者の目線で自らのブログを読んでしまったりした時に、自らの視線という包丁によって書き手としての自らと読み手としての自らが切り分けられてしまい、まるでショートケーキのように切り分けられてゆく痛みをに堪えきれず、自分自身を守ろうと、懸命必死に逃げ出してゆく者達の、ポケットからこぼれ落ちたチョコレート菓子の銀紙こそが、ブログというもの、なのかもしれない。とすれば、ブログは苦痛たり得ない。