死なないゲームと死ぬゲーム。



「ゲーマーにとって自分の死は快感」研究を考える

初読した際には「商業サイトにガジェットとして消費されるゲームのおはなし」以上のものは感じられずに右から左へ流してしまっていたのだけれど、ゲームの話に関しては信頼を置いている人が非常にタイトな反応を見せていたのが喉奥小骨と引っかかり、気になって、気になって、どうしようもなくなってしまった。








結論から言ってしまえば、我が国のゲームに「死」は存在しない。「死」というものを描けていない。「死」をゲームにおける前菜、副菜、お膳立てとして、都合良く利用し、「造られた偽物の死」を生け贄に献げる事で、「ほんとうの死」から懸命に逃げまどい、避け続けてきたのが我が国のゲームである。

例えば世界で最も偉大なゲームメーカーである堀井雄二のスタートは明確に死であったと言いきれるけれども、そこに死は存在しなかった。死は「おはなし」でしかなく、プレイヤーは決して死なないし、死の影すらそこには無い。死の存在しない殺人事件である。

ドラゴンクエストにしても同じで「死んでしまうとはなさけない」という台詞が、ドラゴンクエストに死が存在しないことを証明している。死といのは、情けないと誹られる類のものではない。軽井沢においても、アレフガルドにおいても、プレイヤーは不可侵の特別な存在であり、「死」はそのプレイヤーを楽しませる為に用意されたテーブルを彩るイミテーションの副菜でしかない。

キングヒドラにオルテガを<やっつけさせて>みたところで、ゲマにパパスを<やっつけさせて>みたところで、ピサロにロザリーを<やっつけさせて(この表現が最も適切だろう)>みたところで、それらは全て死ではない。死とはかけ離れた「おはなし」でしかなく、プレイヤーは不死身であるばかりでなく、死を目にする事すらない。




そういった「死を避ける邦ゲー」の黄金時代へのアンチテーゼの1つだったヘラクレスの栄光にしたって所詮は「エンディングまで死ぬんじゃない(エンディングまで死にません)」に過ぎなかったし、ファイナルファンタジーの死は「二軍メンバーがパーティーの人数制限から漏れ落ちた」以上のものではなかった。ゲーマーを不死身にする為に自ら勝手に上手い具合に消えて行ってくれる、というのが長く邦ゲーにおける死のパターンだった。

現代においてもそれは変わらない。3D化された曹操はこれ見よがしに死ぬけれど、そこに死は存在しない。からくり仕掛けのお茶くみ人形のように躙り寄ってくるかかしを100、200と殴り倒す馬鹿ゲーが死を語れるはずもない。ギースハワードは死に、三島平八も死に、エアリスもまた同じく死んだが、それは死の枠外のおはなしでしかなかった。脳犬脂肪は論外である。




真の「死」を純真で無垢なプレイヤーに近づけてはならない忌むべきものとして隠蔽しすると同時に、純真で無垢なプレイヤーに見せても良い「うつくしい死」を工業的に作り出す事によって、子供だましの感動や思い出を提供し、反映を重ねてきたが我が国のゲーム産業である。

「死」は「いけないこと」なのだから、それは適切に管理運営されるべきである、という考え方が<<<家庭>>>用ゲーム機のメッカであったJAPANの思想なのである。「死はいけないことだから適切に管理しましょう。」それは傲慢であり、うぬぼれであり、思い上がりだ。いや、それらは思い上がりなどではなく、<油断>とか<臆病>、あるいは<事なかれ主義>と書き表すのが正しいのかもしれない。




ここで言う"我が国"とは、僕の狭く偏狭な認識による"我が国"でしかないので、「僕がプレイした主立ったゲームは死を描けていない」あるいは「我が国で主流のゲームは死を裏庭で飼い慣らしながらそれから逃げ惑っている」と書くのが本当は正しいのだと思う。

たとえば河野一二三や、三並達也といった一連の名前が幻想以上のものを僕らにもたらすのは確かだ。深作欣二を起用するに至ったゲームが死から逃げるはずがない。飯野の言う上田君にしても同じである。




もちろん、死から逃げ惑い続けた我が国が、駄目なゲームのカントリーであると言うつもりは毛頭ない。かつて「ゲーマーの死」を写実的に描くのは非常に困難なものだった。モータルコンバットとストリートファイター2のどちらが真っ当なゲームであったかを考えればそれはよく分かる。モータルコンバットは死を描こうとはしていたが、そこにあったのは邦ゲーと同じ「制作者によって適切に管理された死」であり、死の盆栽ゲームでしかなかった。刀で切られてもレーザーで撃たれてもびくともしない死を禁じられたキャラクター達が、finish himの表示と共に死ぬ。今更僕が言うまでもなく、それはギャグでしかなかった。

マリオ、ゼルダ、ソニックあるいはドラクエ、FF、ファイエム、マザーといったゲームがどれも死から逃げながら、傲慢に死を管理しようとしたご都合主義ゲーであったのは確かだけれど、どれもゲームとしては優れたものだった。メタルギアソリッドも「管理された死」を用いる事により死から逃げるという邦ゲーの黄金パターンを踏襲したものであったけれど、間違いなく優れたゲームだった。




けれどもid Software以降に関して言えば、死はアメリカの独壇場だ。「死なないゲームvs死ぬゲーム」という対立軸において、「世界を席巻する我が国のゲーム産業」という幻想的な甘い神話は完全な敗北を喫して崩れ去ったのである。




ナイフで刺されたら死ぬ。ライフルで撃たれたら死ぬ。高いところから落ちたら死ぬ。それらは「管理されない死」であり、死の無法地帯である。エアリスやオルテガ、かみやギルガメッシュなどは確かに死んだけれど、それらは全て「管理された許可制の死」だった。死の盆栽は死の原生林の前に敗れ去ったのである。

「死と向き合うか/死を避けるか」というのは、ゲームとしての優劣には全く影響しない。死から逃げ惑い続けてきた我が国のゲームにも特筆すべき優れたゲームがある。しかし、死を管理しようとした傲慢さは、死と素直に向き合ったアメリカンブレイブに敗れたのである。

ハードウェアの性能の向上によって、リアルな死の原生林を描くことが出来るようになった現代において、我が国の主流であった「死を管理しようとしたゲーム」は敗北を続け、その価値と存在感を薄め続けた。

死の原生林の前に破れ去り飲み込まれてゆく死の盆栽を横目に「しってなに?それたべれるのか?」な知性の欠片もない京都の玉無しヤクザ任天堂だけが唯一、死の原生林の浸食を全く受けず、そればかりか「しってなに?それたべれるのか?」という価値観を持ったゲームで死の原生林を浸食していくという、皮肉な結果を生んでいるのである。脳犬脂肪は論外(語るに値しないという意味で)だとしても、スマッシュブラザーズに死は無いし、ポケモンやマリオ、あるいはゼルダにしてもそこに死は存在しない。「管理された死」すらも。











「ゲーマーにとって自分の死は快感」に戻る。


「死の盆栽ゲーム」のハードコアプレイヤーであった僕が件の文章を読むに取らないものとして読み飛ばすのは当然であり、「死の原生林ゲーム」のハードコアプレイヤーである人間がタイトな反応を見せるのは当然の事なのだ。




なぜならば、僕らが「ゲーマーにとっての自分の死」という文字列を目にしたときに思い出すのは、「しんでしまうとはなさけない」や「植松伸夫のプレリュード」、あるいは「スネーク、スネェェェエエエク」といった類の、「死を描く事から逃れる為に造られた死」つまり「適切に管理された死」である。それらは「死」とはかけ離れた、ゲーマーが不死身の超人である世界における、死とはなばかりのちょっとしたペナルティでしかない。

言うまでもなく「死」というものは適切に管理出来るものなどではない。ちょっとしたペナルティなどではない。ナイフで刺されたら死ぬ、ライフルで撃たれたら死ぬ、高いところから落ちたら死ぬ、という世界における死こそが、「自分の死」なのだ。

最もメジャーな一人称シューティングおける「ゲーマーにとっての自分の死」はちょっとしたペナルティではなく、ゲームからの完全な退場を意味する。(元記事の調査対象タイトルである 007: NightFire が同じジャンルの一人称シューティングなのかどうかは分からない)






では、死が適切に管理されたゲームにおいて、「ゲーマーにとっての自分の死」はどこにあるのだろう。邦ゲーに死は存在しないのだろうか?死は死んでしまったのだろうか?いや、違う。死の原生林と全く同じような死が、死の盆栽にも存在する。

それこそが、「ゲームからの離脱」であり、「ゲームからの逃亡」であり、「アンインストール」でなのだ。それらは前述の一人称シューティングにおける「死」と同じ、「ゲームからの完全な退場」を意味する。












新作ゲームが全ての店で売り切れていると安心して楽な気分になったものだし、中毒化していたゲームをアンインストールするときの安心感は筆舌に尽くしがたい。忌々しいコンパクトディスクが弧を描いて海に吸い込まれるのを見たときなどは、至上の快楽を得られたものだ。