2008年3月21日金曜日

信者はGoogleに乗って。



幾人ものブロガーが、愚にもつかないコメントを付け続ける信者への対応に追われて消えてゆくのを目にした。「迷惑なコメンテーター」というものは多種多様にして様々だけれども、信者ほど迷惑なものはない。

厳密に言えば、「信者」ではなく「信者コメンテーター」だし、「信者コメンテーター」ではなく「上から目線の信者コメンテーター」かもしれなのだけれど、その辺りはうまく書き表すにはケース毎の差異が大きすぎて困難なので、適当に省略しようと思う。




たとえば、AKB48は信者を必要としている。いっぽうで、ブロガーは信者を必要としていない。ブロガーが必要としているのは、「自らという軸で統一された発言場所」つまり、自分のブログなのである。同じように信者もまた「自らが発言する場所」つまり、他人のブログを必要としている。

彼ら信者コメンテーターが必要とするのは、「ブロガーの発言」そのものではなく、自らの(多種多様な)崇拝対象であるブロガーに対して「物を言える場所」なのである。

信者コメンテーターは神の声を必要とせず、神の耳を必要とするのである。あまり神々書くと僕がブロガーを神聖視しているように受け取られないけれど、ブロガーを神聖視しているのは僕ではなくて、信者コメンテーターである。(信者コメテーターがブロガーを神聖視して神の耳に向かって大声で叫んでいる実例が必要?alright、望夫でgoogleすればいい!したところで得られる物は何もないだろうけれど。)




もちろん、信者を必要としているブロガーが存在する事も確かだ。自ら神を名乗って悪行を働くってのはダブルミレニアムのワールドワイドウェブ的にはちょっとナンセンスなので、まず信者を作成して祭り上げさせる事により自らを神格化し、その威信を利用してセックスをする、仕事を得る、といった手法をとるブロガーも存在するし、アムウェイのように商品を売る為に一人でも多くの信者を必要とするブロガーや、AKBのようにより直接的に金を巻き上げる為の信者を必要としているブロガーも大勢いる。

彼ら現金ブロガーから見れば、信者というものは、鼠を捕まえてくれるならば黒でも赤でも一向に構わない。信者コメンテーターも一匹の商業動物にすぎないである。しかし、そのようなブログを書いている人間はそう多くはない。世にあるブログの総数からすれば、ほんの僅かな人達である。




信者コメンテーターはどこからブログへとやって来るのか。遂に待望の本題である。前述の通り、彼らは「ブロガーの発言」を必要としているのではない。「物を言える場所」より突き詰めて言えば、常に開かれている「神の耳」を必要としているのである。

僕は信者コメンテーターではないので、彼らの思考や行動パターンまではわからない。けれども、自分自身の行動パターンで言うと、「声」としてのブログを探して求めてインターネットを彷徨う時には、まずgoogleを使わない。皮肉な事に、googleは検索結果にブログが多すぎるが故に、ブログを探すのには向かないのである。

googleを使うことで得られるブログresultには、耳としてのブログ、つまり信者が欲しくて欲しくてたまらない、といったタイプの微妙なブログがあまりにも、多すぎるのである。

では、声としてのブログを探すときに何を使っているかというと、芋づる式ウェブサーフィンやソーシャルブックマーク、"http"をキーワードにしてのTwitter検索といった類のものである。機械式のグーグルとは対照的な、古典的な人力の人伝のリンクである。それらは、声としてのブログを探すにはもってこいなのだ。




そこから考えれば、信者コメンテーターの大部分はgoogleに乗って現れる、と考えるのがもっとも適当ではないかと思う。「物を言える場所」より突き詰めて言えば、常に開かれている「神の耳」を必要とした、自らの発言に耳を傾けてくれる人のいないような耳難民達が、googleを駆けずり回り、行き着いた先で信者コメンテーターとなり居座る。




googleは声たるブログを求める人間には役に立たない。「毎日訪れるを欲するだけのブログを探す」なんて課題はgoogleには重すぎるのである。人のブログを読むという行為は、googleサーフィンをするような短期間の「暇さ」と釣り合う行為ではなく、長期間、長時間に渡る、ライフのようなものであり、googleで「読み潰すブログを探す」暇があるくらいなら、人はテレビを見たり、読書をしたり、youtubeで動画を漁ったり、アサシンクリードをプレイしたりするものなのである。

いっぽうで、「耳たるブログ」を探すには、googleはもってこいだ。googleでふと思いついた適当な単語(あるいは真鍋なり望夫なり)を打ち込んで、行き着いた先に居座ってコメントを書き込んでは一時の満足を得て、さらに機会をうかがい、その機会が来るや否や大声で神の耳に向かって、コメントとな名ばかりの自己満足の為だけの愚にもつかないtextを何も考えずに書き込み続けるだけでよいのだ。




即ち、「神の耳」を求め、見つけては、そこに向かって大声で、愚にもつかないtextを自己満足の為だけの書き込む、所謂信者コメンテーターに、万が一にもなりたくはないと望むならば、あるいは迷惑なコメントを誰かのブログに残してしまいたくはないと望むならば、「googleをブログへの交通手段として用いない」という事が、何よりも優れた予防策になるだろう。もちろん、googleサーフィンをしてしまうような、手持ちぶさたなエネルギータイムを作ってしまわないように、チクタクチクタク追われて生きる、という事も含めて。そして、愚にもつかないテキストをアップロードする場所としての自らのブログを、頑なに、懸命に、必死に、全力で守り続ける事である。ill b b、その為に。