2008年3月25日火曜日

のぞんでもよいもの。



トマトが実るのを「のぞむ」ことは出来るのだろうか。
僕は、出来ないと思う。




トマトの種を畑に蒔けば、トマトが実るのが道理である。適当な土と、適当な水と、適当な環境さえあれば、トマトは必ず実るのである。

つまり、「トマトの種を畑に蒔いた」時に僕らが出来ることは、努力だけである。適当な水分を供給する努力。適当な養分を供給する努力。外敵からトマトの苗木を守る努力。害虫からトマトの果実を守る努力。そこに「のぞみ」が存在する余地は無い。微塵もない。

もしも、トマトが実らなかったならば、それは「のぞみ」の問題ではない。「努力」の問題である。「悪いところ」があったのである。トマトの種を蒔いた人間に、至らない所が存在したが故に、トマトが実らなかったのである。




世界平和を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。子宝を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。明日の晴天を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。明るい未来を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。誰かの幸福を「のぞむ」ことは出来るのだろうか。愛されることを「のぞむ」ことは出来るのだろうか。生を、あるいは死を、「のぞむ」ことは出来るのだろうか。




全て、出来ないと思う。
道理に従って努力をする事は出来る。
けれども、「のぞむ」ことは出来ないと思う。

「のぞむ」というか、「いのる」というか、「ねがう」というか……。なんと言うのかは知らないけれど、出来ないと思う。




もちろん、間違いを犯す事は出来る。
「ねがう」べきことではないのに「ねがう」事は出来る。
「いのる」べきことではないのに「いのる」事は出来る。
「のぞむ」べきことではないのに「のぞむ」事は出来る。
けれども、それらは全て間違いだ。間違った「ねがい」であり、間違った「いのり」であり、間違った「のぞみ」だ。トマトが実るのを「ねがう」のはまったく無駄な事で、そのような暇があったらトマトの結実に向けて努力するべきだし、トマトが実るのを「いのる」のはお門違いというものだ。




この世の中に、正しく「のぞむ」事が出来る物事は、存在するのだろうか。先の問いの中で、唯一、僅かな可能性があるように思えるのは、「生へののぞみ」だ。死というものは、時として道理を外れた顔を見せる。甚だしい理不尽さを見せる。「生きたい」というのぞみは、正しいもののように思える。

けれども、科学の力によって全ての病に対する対処法が確立されてしまえば、「生へののぞみ」の、不治の病という部位は取り除かれてしまう。そうなれば、「生へののぞみ」は「トマトの実りへののぞみ」と同じものになってしまうのだ。




では、「死者が生き返ることへの望み」はどうだろう。人の死は本人の人生にではなく、他人の人生により濃い影響を残す。それを回避したいと、逃れたいというのは、正しい「のぞみ」たり得るのではなかろうか。「ねがい」たり得るのではなかろうか。「いのり」、たり得る……。いや、たり得ないのだと僕は思う。

それらも、また、正しい「のぞみ」たり得はしないのだ。いつだって、正しさは「努力」や「前進」の側にある。行動の側にある。世にある「のぞみ」は全て「のぞみ」ではなくて、他の何かのための前提条件とか、プロローグとか、その類に過ぎないのだ。為す術を持たない不屈の闘志になりたい。純然たる情念になりたい。僕の肉体はあまりにも強靱すぎて、僕のこころに釣り合わないのだ。のぞみはいつも振り回されて、霧散してしまうのだ。強すぎるが故に脆く儚く弱いのだ。