嫌いな人が嫌いな人を褒め称えているのを目にすると、とても幸せな気分になってしまうのは、なぜなんだろう。



嫌いな人が嫌いな物を手放しで大絶賛しているのを見ると、とても幸せな気分になる。愉快で、嬉しくて、小躍りしそうになる。嫌いな人が嫌いな人をあらゆる手を尽くして褒め称えているのを目にした時などは、もう、堪えられないものがある。至極の喜びである。

どうしてなんだろう。








おそらく、僕が思い描いている、この広い世界のイメージは、ディズニーの映画や、TBSのワイドショーや、ジョブスのスピーチや、冗長なタイトルのライトノベルや、ドリル汁の漫画や、jkondoのブログと同じくらいに、退屈で、くだらなくて、安っぽくて、俗悪で、無価値な、とても幼稚なものなのだろう。

つまり、そういう事だ。








悪い人は、とっても悪い。何から何まで、皆悪い。悪い輩というものは、車椅子のマークの上に止めたワゴンカーの荷台に幼児を置いて博打を打ち、アラブの大富豪と結託してジャンボジェットをビルディングに突っ込ませ、ハシシを吸いながらコンドームを付けずにセックスをして、紅茶で海を茶色に染めて、勝間和代を買い漁る。

悪い人は、馬鹿で、阿呆で、愚かで、まぬけで、汚くて、ずるくて、意地悪で、賢くて、残虐で、世界を裏から牛耳って、自らの手を汚さずに、道行く人の頭めがけて無差別に、金属バッドを振り下ろす。僕の描いている、世界のイメージというのは、たぶん、そんな感じなのだ。




そんな世界のイメージに、なるだけ沿った出来事を目にすると、とても幸せな気分になったり、無邪気にきゃっきゃと喜んでしまい、そういう情報を、そういう出来事を、もっともっとと求めてしまうのだろう。

だから僕は、嫌いな人が嫌いな物を大絶賛している現場を、どうにかして押さえようと、懸命に血眼になって、嫌いな人の言動を追いかける。嫌いな人が嫌いな人を褒め称えている現場を目にしたいという欲望を抑えきれず、嫌いな人を探して、嫌いな人をコレクションして、まだ足りない、まだ足りないと、自分の手帳の一番のページに、嫌いな人と嫌いな物のリストを、丁寧に、丁寧に、書き入れ続けているのだろう。

たぶん、それは、不毛で。
でも、幸せが欲しいんだ。
そんなものでも、僕には喜びなんだ。
くだらないってわかっていても、他に楽しい事が無いんだもの。








でも、それは、僕に限った話じゃない。

朝日新聞が中国を褒めると、大勢の人が幸せになる。大勢の人が嬉しそうに、喜んでいるじゃないか。産経新聞が靖国を讃えると、大勢の人が幸せになる。みんな、とびっきりの笑顔になる。井筒が亀田を褒めても良いし、電通がセカンドライフを褒めたっていい。

多分だけれど、世の中は、そういう風にして、幾つものグループに、細切れにされていくんじゃないかな。幸せと、喜びとを求めて欲するささやかな希望によって、世界は寸断されていくんだろう。安らぎと癒しを求めるほんのささやかな希望によって、僕らは取り返しの付かないくらいに離ればなれになって行くんだ。
















好きな物を好きだって言うだけで、どこかで誰かが幸せになるんだ。好きな物を好きだって言うだけで、誰かが悪に染められてくんだ。みんな悪者になっちまうんだ。